いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

5月31日 日々の聖言

2014年05月31日 | 日々の聖言

「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。

夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」詩篇30:5 



主は義なる方ですから、不義を許しておくことは出来ませんが、

りは決して苛酷なものではありません。主のみこころは愛に満

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聖書からのメッセージ(215)「一幅の絵のように」

2014年05月31日 | 聖書からのメッセージ

 

 エペソ人への手紙2章1節から10節までを朗読。

 

 10節「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。

 この1節からに、私たちの過去と現在の姿が語られています。前半の所には「自分の罪過と罪とによって死んでいた」と記されています。私どもは生まれて以来死んだことはない、と思っています。ところが、実は神様から離れて罪ととがとによって死んだ者であったとあります。それは神様から離れるならば、人は生きることができないからです。

 

聖書には私たちが神様によって造られたものであると語られています。そして、神様によって「命の息を吹きいれられ」、人は生きるものとなった。本来、神様が共にいてくださって、神の命、神様からいただく命によって私たちは生きるものであったのです。また、私たちのうちに神様は命の源である霊を注いでくださった。ですから、人間のことを「万物の霊長」と言いますが、霊的な存在であると語られているのです。ところが、今、殊に現代、20世紀に入ってから、いわゆる科学技術、科学の知識、そのような知識が発達したため、人の霊的な側面が失われてしまったのです。その事を大切に思わなくなってしまった。科学的な知識はあくまでも検証可能と言いますか、実際的に目で見たり、触ったり、実験してその経過をたどったり、再現できることだけです。物質的な問題を取り扱うのが中心ですから、医学的な事にしても、脳の構造がどうであるとか、あるいは体の構造がどうであるとか、心臓がどうであるとか、そのような事が対象です。その人がどのように生きるか、人生の意味など、見えないものには目を留めることができません。科学やそのほかの学問ももちろんそうですが、すべてが地上に生きる生活、これを対象にしたものです。だから、死ぬことは、その物質的な存在が消えていくことであって、それから先のことは科学的な研究対象、知識の対象にはならないのです。だから、生きている間がすべてであって、目に見える生活の仕組みであるとか、社会であるとか、家庭であるとか、家庭生活に必要な条件、物質的なもの、冷蔵庫があるとか、あるいはテレビがあって、次々と新しい物に変わっていく。そのような科学技術は有り余るほどになってきたと言ってもいいと思います。それに比例して、人の霊的な存在、万物の霊長といわれる霊の生き物としての側面がだんだんと消えてしまった。だからといって、人は霊的な存在でなかったかと言うと、そうではないのです。人が造られたとき、神様はご自分のかたちにかたどって造ってくださった。神に似たものとして人間を造ってくださった。その上に、神様は命の息を吹きいれてくださった。これで初めて人が完成します。土で造られた器としての人間の肉体、それを養っている健康であるとか、生活の過程、食べること、着ること、住む場所、そのようなものが人を生かしているのではありません。私たちは、霊と言いますか、魂、内なるものによって初めて生きたものとなるのです。ところが、命の根源である方を忘れて、離れて、自分たちの思いのまま、物質的な世界だけに人が生きるものとなってしまったとき、私たちは死んだ者となったのです。

 

 1節以下に「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた」と。「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである」。「霊に従って、歩いていた」とありますから、物質だけではなくて、私たちは霊に従って歩いていたのだと。ここで言う「霊」は、人を生かす神様の霊ではなく、私たちを神様から切り離して、神様以外のものに心を向けさせる力、そういう悪しき霊に捕らわれていた。その結果、この世の習わしや仕来り、この世の世界だけに目を向けるように仕向けられたのです。だから3節に「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い」とあります。この場合の「肉」とは霊と正反対の性質のもの、神様の命とは違う力を持ったものということです。私たちは神様を認めることができないで、自分の欲するところ、願うところ、欲望、情欲に従って生きるだけの者となってしまった。「ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」。私たちは神様から呪われた怒りを受けるべき滅びに定められたもの、いわゆる死んだ者であったと。

 

そのような私たちを、4節「しかるに、あわれみに富む神は」、愛をもって私たちを造られました。ご自分のかたちに似たものとしてくださった。神様は私たちを掛け替えのない大切なものとして造ってくださった。それなのに神様から離れてほかの肉に支配され、この世の悪の霊に導かれて生きるものとなってしまった。これが「死んでいた」ということです。しかし、神様は私たちを捨ててしまったのではなく、私たちを憐(あわ)れんでくださったのです。自分が大切にしているものを失ったとき、何とか探し出そうとします。他人から見たら、そんなつまらないものと思う事でも、こんなに小さな物であっても、自分にとってあれは大切だというものがあります。

 

私も結婚したころ、学生時代から大切にしていた茶碗とか、はし箱があった。結婚したら家内がそれをパッと捨てたのです。私はすぐにそれを拾ってきました。それは思い出深いと言いますか、私にとっては掛け替えのないものでした。買えばいくらでもありますし、もっと上等なものがあります。ちょっと大げさかもしれませんけれども、自分にとっては労苦を共にしてきた戦友のようなものです。たかが「はし箱」ですが、家を離れて、独り立ちして下宿住まいをして、わずかな仕送りの中で生活をしていたとき、いつもそばにあった食い扶持(ぶち)でしたから、武士の刀のようなものです。大切にしていたのです。ところが、家内にしてみたら「こんな汚いもの」と思う。

 

神様は、私たち、皆さん一人一人をご自分の大切なものとして造ってくださったのです。それが失われて、ほかのものに心を寄せているならば、神様がどんなに嘆かわしく悲しんでいることでしょうか。ですから、4節に「しかるに、あわれみに富む神」、誠に愛に満ちた神様は「わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって」、ひとり子を賜うほどの限りない大きな愛をもって「罪過によって死んでいたわたしたち」、そのように死んだ者であった「わたしたちを、キリストと共に生かしてくださった」。死んだ者とは、本来の目的から離れてしまった者と言ったらいいと思います。聖書に言うところの罪という言葉は、本来「的外れ」という意味があると言われます。的外れとは、そもそも本来の目的にかなっていないことです。本来果たすべき役割が果たされていない状態を罪という。私たちも神様が造ってこの地上に置いてくださった。そうでありながら、その目的にかなわない状態に置かれている。5節「罪過によって死んでいたわたしたち」とあります。本来あるべき場所にいなくなった、あるいは私たちがその目的にかなっていない。「いや、そんなはずはない。自分の人生はこういう夢を描いて、こういう望みを持って、計画を持って今ここにある。自分の人生、何一つ悔いがない。どうしてそんなことを言われなければいかんのだ」と思われるかもしれません。しかし、ただ自分にとって良い人生が、果たして造り主でいらっしゃる神様の御心、神様が私たちに備えられたご目的にかなったものであったかどうか、これは分からない。神様はどのような目的で私たちを造られたのか?自分の満足のため、自分の夢を実現する自己実現のために、この地上に生きているのではなくて、本来神様がこの地上に置いてくださったご目的がある。それに私たちがかなっていなければ死んだ人生です。たとえ世の人々が賞賛するような華々しい人生を生きようと、あるいは世に名を残すような物を造ろうと、大事業を世に残そうと、あるいは慈善によって名を成そうとも、神様の御旨にかなっているかどうか、これが実は大切な事であり、それが人を生かすのです。だから、何もできなくて台所の片隅で生涯を終わったとしても、その人にとって、それが神様の御心、神様が備えられた生涯であると感謝して受けることができたら、その人にとって最高の生涯、また神様のご目的を果たした、生きた人生であったと言えます。

 

だから、5節以下に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」とあります。「罪過によって死んでいたわたしたち」、そのような私たちのためにひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださった。私たちの罪を、すべての呪いを、主ご自身が負うてくださった。それによってイエス・キリストを信じる私たちの罪を赦し、そればかりでなく死んでいた私たちを生きる者としてくださった。「死んだ者よ、起き上がれ」と、神様が私たちに命を与えてくださった。その命とはよみがえってくださったイエス・キリストです。イエス様が墓の中から死を打ち破ってよみがえってくださったのは、罪ととがとに死んでいた私たちが、イエス・キリストを信じることによって、新しい生涯、新しいいのちに生きるよみがえりの生涯に生きるためです。だから復活節、イースターは、この事を年毎に心新しく記念するためです。イエス・キリストを私たちが信じることによって新しいいのちに生きる者となるところに、よみがえりの、復活の、不思議な神様の御業があります。イエス様に連なるときに、私たちは本当に生きる者となるのです。だから創世記に「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7)とありますのは、イエス・キリストが私たちのうちに宿ってくださることによって、人は生きるものとなったことであり、イエス・キリストを通して人が造られて生きるものとされたという事が私たちのものとなった。神様によって生かされたはずの者が、様々な悪の霊によって神様から切り離されて死んだ者となった。そして、今は神様によって今度は新しく生きる者と変えられた。このことをどうぞ、皆さん、しっかりと握っておきたい。私の命はキリストなのだと。罪ととがとに死んでいた私がよみがえったキリストの命によって生きる者となり、主の霊、キリストが私たちのうちに絶えず宿ってくださっていると。

 

6節に「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」とあります。イエス様は死んでよみがえった後、弟子たちの見ている前で天に携え挙げられて、父のみもとに帰られました。今は神の右に座して神様と共にいてくださる。そこへ、「私たちも共に天上で座につかせて下さったのである」。しかも、「つかせて下さっ」と過去形です。私たちはまだこの地上に残っているのに、どうして先にそうなったのだろうかと思いますが、神様のご計画はもう完成したからです。神の子として新しいいのちに生きる私たちが、たとえこの地上の生涯が終わっても、神様の所へ帰る場所が備えられたことに尽きます。だからヨハネによる福音書14章の言葉「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」。天上にイエス様と共に住むべき所が備えられている。この地上の幕屋が壊れ、人の手によらない天にある建物、永遠の住まいが私たちに備えられているとあります。あなた方はもう神様の所に予約されていると言いますか、部屋は取られているのですから、安心して帰ってきなさいと言われている。だから、いつ死ぬだろうか、どのように死ぬだろうか、死んだ後どうなるだろうか、そんなことは何の心配もいらない。神様が「帰れ」と、定めてくださったその時まで力いっぱい、神様に生かされている私たちはキリストと共に生きたらいいのです。「生きよ」と神様はおっしゃる。「生きよ」と言われると、楽しみもないのにどうして生きなければいけない、おれは早く死にたいなどと、勝手なことを言います。

 

 先だって家内の父が召されまして、遠くからわざわざ会葬に来ていただきまして大きな慰めをいただきましたが、義父(ちち)のことについてはこれまで繰り返しお証詞してきたとおりであります。晩年、義父は「死にたい、死にたい」と言っていました。「こんなに生きていて苦しいから、もう早く死にたい」と言い続けていた。「で、死んでどうするの?」と問うと、「いや、今の自分がなくなりさえすればいい」と。「なくなった先どうなるの?」と、私はしつこく訊きましたが、そこは不安であったなぁ、と思います。今振り返ってみますと、「死にたい、死にたい」と言っていたのは、死に対する恐れの裏返しなのだと思います。「死にたい」ということは、取りも直さず「死んだらどうなるか分からない」不安があったからでしょう。勝手に死が向こうから来るなら、よし、こっちから行ってやろうではないか、という心理状態ではなかったかなと思います。皆さんでもそうでしょう。何か嫌な予感がして、不幸が向こうから来そうだったら、自分からその不幸を引き寄せてやろうではないか、それのほうがまだ安心と言いますか、目で見て、自分の手でしっかりできる。闇雲にどこからどう攻めてくるか分からないのをじっと待っているなんて、そんなのは嫌だ、という心理が働きますが、恐らく義父はそうだったと思います。私は義父の様子を見ながら「そんなことを心配しなくてもいい。神様が『私たちのために所を用意したよ』と『天上で座につかせて下さった』と、帰るべき場所が用意されているのだから、心配しないでこの地上の生涯を生きていらっしゃい、生きなさい」と語り続けました。だから、最後の息を引く瞬間まで、主が許されるかぎり生きることです。これは神様の求めている事です。

 

 そのあと10節に「わたしたちは神の作品であって」とあります。「神の作品」という言葉をキーワードとして覚えておきたい。私たち一人一人は、神様の作品、神様が今造ってくださる、あるかたちに造ってくださる、キャンバスに絵を描くがごとくに、私たちの人生を書いてくださる。だから、イエス様の救いにあずかると、イエス様に出会わなかった以前の人生は「使用前」、その後の人生は「使用後」というようなものではない。イエス様の救いにあずかるならば、それまで生きてきた人生は無駄だったかと言うと、そうではなく、過ぎ去ってきた月日のすべても神様は祝福と変えてくださる。いのちに生きる生涯に変えられる。時に「先生、イエス様を信じて、私の生涯、思い出したくもない自分の人生、あれはもう無かったら良かった、消せるものなら消したい」と言われる方がいます。そうではありません。確かに、神様から離れて2章にあるように「死んだ者として生きてきた」人生であったかもしれないが、私たちがキリストによって生きる者と変わったとき、実はその過去の一切の事柄も今につながる神様の恵みに変えてくださる。10節「わたしたちは神の作品」、そうなのですね。私たちは一人一人が神様によって造られて、今も、今日も神様は創造の業をもって私たちに事を起こし、神様の御業をしておられる。病気に遭ったり、家庭の不幸に出会ったり、人間関係の悩みの中に置かれたり、人生悲喜こもごも様々なことがありますが、神様がその事を私たち一人一人に備えて、私たちの人生を作り上げようとしてくださる。

 

今年はどういう訳か、立て続けに身近な人々を天に送ったのですが、その状況、終わり方は一人一人違います。またそれぞれの人生の生き様が違う。だから、私はいろいろな人の過去からの人生の話を聞くのが好きです。亡くなった家内の父にも度々「昔どうだったか。若いときどうだったか、何をどうしたか」といろいろと聞く。面白いのです。一人一人、二度とない人生を生きている。“事実は小説よりも奇なり”と言いますが、一人一人の人生はどんな小説よりも興味深い。私はかつてそのような文学研究をしていた時代がありますが、今振り返ってみると、人間ほど不思議なものはない。だから、一人一人が神様の作品、神様が作っているといえます。

 

 10節「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」。ここに「良い行いをするように」と言われている。これを聞くとカチッときて「良い行い?私はそんなのできん」と思うでしょう。「良い行いをする」とは、私たちが品行方正、聖人君子になれというのではない。神様の御心にかなう者となること、神様に従う者となること、これが「良い行い」。その結果、現れたところが、世で言うところの道徳的な生き方と重なっている部分もあります。必ずしも全部が重なるとは限らない。しかし、何よりも大切なのは現れてきたその行為や業ではなくて、神様の良い業を行うとは、神様の御心を求めて神様に従うことを努めていくことです。その結果、人に親切な人になるかもしれない、あるいは正直な人になるかもしれない。世間で言うところの品行方正は、現れた結果、その人がどういう事をしたかということだけに目が留まりますが、「良い行いをする」とは動機です。私たちが生きること、それが作品です。「良い行い」とは、私たちの生活のすべてが「良い行い」となることです。言い換えると、神様の手に自分を委ねていくこと。巨匠であり、大画家でいらっしゃる神様がキャンバスに書こうとしておられる。私たちがすべてを神様の手に委ねて生きること、これが「良い行いをして日を過ごすように」ということです。

 

 10節の後半に「神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。「良い行いをする」とは、私たちが神様のものとなり、よみがえってくださったイエス様が私たちと一つになって、神様の御心、御旨、御思いに、何としても従っていこうという思いを絶えず持って生きること、これが「良い行いをする」ことです。だから、それは外側から見て、人があれこれ判断することはできません。「いや、あの人はクリスチャンと言うけれども、『良い行いをして日を過ごすように』と書いてあるけれども、どこにも良い行いがない」と。それは違います。ここで言う「良い行い」とは、私たちのうちに命となって宿ってくださったキリストによって生かされていく生涯。共によみがえらせてくださったキリストと共に、国籍を天に移して、今この地上に神様から遣わされた者として、神様でしか成しえない業を、私たちを通して表そうとしてくださる。神の作品として、私たちを一幅の立派な名画に仕立て上げようとしている。私はこのたび召された方々のことを振り返ってみるとき、その事を深く教えられます。一人一人は神様が備えてくださった大きな絵なのだと思います。

 

ダビンチであるとかミケランジェロであるとかレンブラントだとかルノアールとか、いわゆる世界的な名画といわれる絵画があります。それを見ますと心慰められ、励まされます。喜びを与えられます。それと同じですね。私たちの人生、これは生まれてから生涯を終わるまで、一幅の絵、作品です。それを作っているのは神様です。神様が私たち一人一人を素晴らしい絵に仕上げてくださる。だから、年配の方々の生涯、生きてきた生き方、生き様を聞くのは、誠に興味深いのです。先に召されたS兄がご自分の戦争体験を「ぶどうの木」に書いていますが、とうとう時間切れになってしまって、途中で終わりましたが、彼の書いたものをズーッと一気に通して読んでご覧なさい。実に、盛りだくさんな素晴らしいドラマです。それは彼の戦争体験という小さな一角を切り取っただけのことですが、彼の生まれてから召されるまでのその生涯、それ自体もっと色鮮やかな、また変化に富んだ絵であっただろうと思う。だから、私たちの人生に暗いところがあり、悲しみを通ります。涙の谷を通るかもしれません。あるいは、春うららかな、花が咲き誇って気持ちの良いときがあるでしょう。人生が全部ばら色でありたいと思いますが、どんな名画でもピンクや黄色や赤ばかりではない。真っ暗な部分もある。そのような明暗といいますか、暗いものがあり、また明るいものがある。華やかな所があり、沈んだ色合いが一つのキャンバスの中に巧みに混ざり合って、ハーモニーと言いますか、ひとつのメロディーとなっていく。音楽もそうですね。オーケストラの素晴らしい音楽もズンズンと通奏低音と言いますか、おなかに響いてくるような低音部があります。そして、ひばりがさえずるような高音のピッコロだとかフルートの音色があるでしょう。バイオリンがあるでしょう。いろいろなものが一緒になって怒涛(どとう)のごとく、あのベートーベンの素晴らしいシンフォニーが初めから終わりまで続く。それを思うと、自分の生きてきた人生を振り返ってみて、私はあんな人生は嫌だとか、文句は言えない。それもまた大きな神様の作品、その一コマであり、一部分である。第一楽章であり、あるいは第二楽章、もう既に第三楽章、終章に近づいているのかもしれませんが、いずれにしても神様は最後の筆のタッチをポンと、あるいはどこか一線をスーッと引いて「出来た」と言う、その瞬間息を引き取っていく。

 

私は義父の死を聞いたとき、そのように思いました。先週の月曜日、私が義父の所に行っていろいろな話をして、ちょうど夕食時でしたから夕食をおいしそうに食べて、食べ終わって私が持って行った酒まんじゅうを、「これ食べる?」と言ったら「食べる」と言うので、コーヒーを買ってきて飲ませて「おいしい」と食べました。そして「じゃ、また来るからね」と帰った。そして水曜日のお昼、電話がかかってきて「お父様はちょっと様態が悪化しました」「え!元気だったのに」とビックリして、行ってみたら、酸素吸入をさせられていました。私は自分の経験から、これまでいろいろな方々の終わりを見てきた経験上、「これはあと少なくても二、三日は続く。ひょっとしたら一週間ぐらいはこの状態でいくかな」と思いまして、家内にそう言った。「じゃ、今からほかの用事があるからしてこよう」と、義母(はは)にそばにいてもらった。午後1時半くらいから私どもはちょっと出掛けて、4時半ごろ家内を連れて戻りました。義母はケア・ハウスに連れて行って、家内だけ残して、私は夜の集会のために帰ったのです。帰り着いたときに家内から「あのちょっと」と電話があり、「何、どうした? 」「お父さんの脈がないみたいよ」と。「死んだの!」と言ったら「いや、ただ止まっているみたい」と。それで「取りあえずそちらに行くから」と出かけて、途中で先ほど送った義母をもう一度連れて病院に戻ってきました。すると、何の事はない、もう亡くなっているのです。それでお医者さんと看護婦さんがやって来て、5時半過ぎに亡くなったようですが、お母さんが来てから死亡宣告をしましょうということになりまして、義母を連れて行きましたら初めてお医者さんが聴診器を当てて「脈は止まっていますし、瞳孔も開いています。心電図も停止していますから、6時20何分死亡を確認しました」と宣言しておしまい。あっ気ないですね。私はそのとき、神様が「いい作品ができた」と、名前をササッとサインして、神の作品の完成。私たちもそうです。いつその作品が完成するか分かりません。それは書いてくださる、作っている神様以外に分からない。

 

私たちは今、神の作品として神様の手に握られています。だから「良い行いをして日を過ごすように」、神様の手にスッポリと委ねて、主のみ声を聴きながら、御旨はいかにと、主の御心に従いたい。神様は私たちが心配しないでいいように、いちばん良いときに、いちばん良い事をしてくださいます。義父はその事を願っていた。「あっという間に逝きたい」「残された者は困るよ」と言ったら「いや、そんなものはおれが知るか」と。「そんなに長引かずスーッと逝きたいから、止めるな」と「止めるなって、それは止めないけれども……」と。そのような冗談を言ったこともありました。しかし、本人の願ったように意識がなくなって4時間後に召されました。いいですね、私もそうなりたいな、と思います。まだ主が「せよ」とおっしゃるかぎり、神様は作品が中途半端に終わってはいけないから、最後まで持ち運んでくださる。その中にはまだ黒い影のような部分があるかもしれない。あるいは太陽が輝いて光っている部分が、黄色い線でスーッと神様が描いてくださる部分があるかもしれない。でも、いずれにしても私たちは神の作品であり、神様の手に握られ、神様が完成に至らせてくださる。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル 12:2)。どうぞ、私たちのうちに宿ってくださる主を見上げて、祈りつつ、主に御心はいかにと、主に従っていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


5月30日 日々の聖言

2014年05月30日 | 日々の聖言

「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、

知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」第一コリント8:2 



「知識は人を高ぶらせ…」と聖書にありますが、誇るに足るだけの知識が

あれば、納得できます。しかし、案外、知ったかぶりの半可通ほど高慢に

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5月29日 日々の聖言

2014年05月30日 | 日々の聖言

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。

わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33 

 

イエス様は、ローマ帝国の力、その時代の指導者によって、むざむざと無

抵抗で命を奪われました。彼らはイエス様を墓に葬って、勝利を確信しま

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聖書からのメッセージ(214)「いつも喜べ」

2014年05月30日 | 聖書からのメッセージ

 ピリピ人への手紙4章4節から7節までを朗読。

 

 4節「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。

 私どもはいろいろな思いがけない事にあいますが、そういう出来事にあうと人の真価と言いますか、値打ちが計られます。だから、よく言われるように、突然災難に遭うとき、どういう行動をするか、何を第一にするかによって、その人が大切にしているものがわかります。火事になって大慌てで飛び出して持って出たのが枕だったとか、そのようなバカな話もありますが、普段は「こんなのは大丈夫、平気だ」と、強がりを言っているといいますか、強そうな人も、いったん事に遭うとクシャッとなります。だから、いろいろな人を見て、「あら、あんなに弱かったのか」と思ったりします。あるいは、なかには普段から弱々しく、あの人はこんな悲しいことに遭ったら、へしゃげてしまうだろうと思える人でも、いざとなったら元気になって、人は見かけによらないことを知ります。いろいろな事の良さとか弱点とかは、事件や問題にあわないと現れてきません。 “伝家の宝刀”という言葉がありますが、実戦で抜かなければ、真価は分かりません。多くの国々が軍備をします。ミサイルであるとか戦艦であるとか、いろいろな軍備をしますが、はたしてそれがどれほどの威力があるかは、使ってみないと分からない。だから、使いたがるのです。世の政治家はひとつこれがどのくらいの力があるのか試してみたくて、北朝鮮などが花火のように何かと打ち揚げますが、何なら使ってみたいと思っている。原爆にしろどのくらいの威力があるのか、計算上ではこうなるけれども、本当かどうかやってみたいと。人間にはそのようなところがあります。何でも使ってみよう、してみよう、そして本当にそうなのだろうか、知りたいと思う。日常的な事柄が思っていたのとは違っていた、裏腹だったとしても、それはお笑い草で済みます。

 

しかし、そうはいかない事があります。それは信仰です。信仰があるのかないのか、物事が順調にいっているときは、「感謝です。神様のお恵みです」と言いますが、いったん事があったとき、自分の願わない不幸や苦しみに当たったとき、「これも主の恵みでした。感謝です」と言えるか、問題はそこです。物事が順調で事もなくいっているときに喜んでおれる、感謝ができるというのは、別に信仰があるなしに関係がないと思うのです。信仰の真価が発揮されるのは、まさに火事場にあるとき、大変な問題や事柄に遭うときでしょう。神様がいろいろな事柄を起こしてくださるのは、そのためなのだと思います。普段、信仰があると自認して、礼拝も欠かさない、集会にも出てくる。聖書も読む、お祈りも欠かさずしている。私もまぁ及第点、80点にはいかないにしても75点ぐらいはあるだろうと。ところが、順調に事がいって、神様、神様と感謝しているその人にボーンと大きな悩みが与えられますと、「何でだろう」「どうしてだろう」ということになります。

 

その代表者がヨブです。ご存じのようにヨブも事が順調だったのです。子供たちも立派になるし、各家庭を持つし、また持ち物も豊かで、何不自由のない生活をしている。そのときヨブは神様を恐れて、感謝賛美して主を褒めたたえていた。神様もヨブを自慢していました。ところが、サタンが来て、神様に「ヨブがあんなにあなたを褒めたたえるのは事情や境遇が良いからだ」と言った。神様は「いや、そんなことはない。じゃ、お前が行って持ち物を取ってよろしい」と。それでヨブが持っていた財産、子供たちまでもみな取ってしまった。そのときにヨブは「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ 1:21)と讃美したのです。本当に立派な信仰です。私たちはそこまで言えないかもしれません。私もひそかにそのようなときになって言えるだろうかと自信がありません。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。ああ、感謝、感謝」と、なかなかそのようには言えないかもしれない。ところが、そのときサタンは、また神様に言ったのです。「ヨブにはまだ残っているものがある。健康がある」と。物が無くなる、家族がいなくなっても、健康さえあればと、世の中でもそのように言います。何がなくても健康、健康第一、これがあればお金が無くたってそのうち稼げばいいのだからと、とにかく健康が第一だと。このとき神様は「それでは、ヨブの健康を取ってよろしい。ただし、命に手をつけてはいけない」と命じました。それでヨブはとうとう塗炭(とたん)の苦しみといいますか、皮膚病の中でもだえ苦しみます。そのとき、ヨブも「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」とは言えなかったのです。どこかで「どうしてなんだろう」「何でだろう」と。もちろん「神様、あなたはどうして私をこんな事に遭わせたのですか。もう、あなたなんか私は知りません」とは言わないが、「神様は与えてくださるとしても、どうしてこんなことになったのか、何でだろうか」という思いで、悶々(もんもん)としていた。「何がいけなかった」「どこが悪かった」「私の何が良くなくて」と。その原因を求めた。ところが、最後にとうとう神様はヨブに向かって「あなたは『どうして、どうして』と言っているけれども、じゃお前は何でもすべてを知っているのか」と、「全部お前は何もかも知ったうえでそういうことを言うのか」と問われた。知らないことが多い。誰がそれをしているか、神様ではないか。それを知ったときに「あなたはどんなことでもおできになる御方です。全能の神です」(ヨブ42:2)と、初めて降参した。お手上げです。

 

私たちの信仰は、まさにそこまで行かなければ本当の信仰になりえません。神様が始まりであり終わりであり、すべてのものをご計画の下に一つ一つ導いてくださっていると知りながら、実際の事になると、それがどういう意味を持っているのか深く思わないで、「なぜだろう」「どうしてだろう」と思い煩う。何でそうなったのか理由が分からない。人は、その理由を知らないと落ち着きません。だからよく言いますように、お医者さんに行って「どうしてここが痛いのでしょうか」と言うと、「じゃ、レントゲンを撮ってみましょう。CTを撮ってみましょう。血液検査をしてみましょう」となる。そしてその結果「どこも悪くないけれども……」と言われても、「でも、ここの、おなかの片方が痛い」と訴える。先生がおもむろに「それは筋肉痛です」と。そうすると聞いたほうは「ああ、そうですか」と言って納得して帰る。すると翌日から安心になるのです。理由が決まるからです。それはどんな理由でもいいのです。そうすると本人は納得します。しかし、そこが罪なのだと思います。自分に分からないことがある、知らないことばかりなのだと認める。神様がご存じで、神様の手に握られて、神様が生かして持ち運んでくださるのであって、私が計画しているのではない。神様にあるご計画によって私たちが今このようにある。しかし、その理由は分からないのが当然です。だから、人間に不可解なことばかりなのは当然です。かつて藤村操という一高の優秀な学生が、日光の華厳の滝に「人生不可解」と言って、飛び込んで自殺したそうです。分かろうと思うのがおかしいのです。分かって当然だ、他人のことは分からないにしても、少なくとも自分の人生、自分の生活、自分の事については、私の許しなく、どうしてこんな事が起こったと思う。それは大きな間違いです。聖書にありますように、私たちは造られたものであって、造り主でいらっしゃる神様が、私たちに地上の日々を一つ一つ造り備え、命を与え生かしてくださる。私たちのするべきこと、なすべき事の一つ一つを備えてくださっている。今のこの事が将来どのような事につながっているか、分かりません。何も分からない。ただ、目の前の一歩、今日の一日、与えられたところを感謝して生きる以外にない。これから将来どのくらい生きるか、これも分かりません。自分が亡くなるときどのような死に方をするかなんて誰も分からない。全部神様にある。私たちは知らない事が多い。人生不可解とは、当然なことで分かろうとすることがおこがましい。そのように考えると随分楽になります。

 

だから、今読みました4節に「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。もし、「主にあって」という言葉を外して「あなたがたは、いつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」というだけだったら、これは道徳律か、処世訓です。そんな怒ったって仕方がない。心配ばかりしていないで喜んでいなさい。こういう良いこともあるではないか、こういうこともあるではないか、今は苦しいかも知らないが、そのうちうれしいことも来るに違いないから、まぁ、そんなことを言わないで喜びなさいと言われて、喜べるわけがない。「あなた、どうしてしかめ面をしているの、喜びなさい。くすぐってやろうか」と言われても、それで喜べるわけではない。ところが、4節に「あなたがたは、主にあって」と、またその少し前ですが1節に「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい」とあります。ここでも「主にあって」と言われています。またもう少し先ですが10節に「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは」と、「主にあって」と繰り返して記されています。これは誠に大切な、これを抜きにしては考えられない事柄です。

 

それはここです。「主にあって」というこの一言に尽きるのです。私たちの信仰は「主にあって」です。神様が、イエス様が共にいてくださる。そして、主がこの事を知っている。神様がこの事を導いている。そこに立たなければどうにも救いようがない、行き止まりです。先日も病気で母親を亡くしたご家族に会いました。信仰がありませんから、愛する人を失い、ご主人は悲嘆にくれ、家族も望みを失って何も手に付かない状態でした。神様を知らないそのご家族にとっては、閉塞(へいそく)状態といいますか、もう逃げ道がない、絶望のふちに立っているわけです。何でこうなってしまったのか。死が全部を飲み込んでいくという、そのような中でどこに怒りをぶつけていいか分らない。悔しさといいますか、そのような思いにかられている。そこへ持ってきて「神様のなさる業ですから、感謝しようではありませんか」と言っても、通じない。そこが信仰のある者とない者との決定的な違いです。だから、「主にあって」ということが何よりも優先するべき事柄、大切なこと。私たちの前にいろいろな問題や悲しいこと、苦しいこと、つらいことが起こりますが、その中で絶えず今主がこの事を、神様が今この事を知っていらっしゃる。神様がこの事を持ち運んでくださっていると絶えず信じていく。自分自身の心に置いておかなければ流されていく。すぐにそのような悲しみや嘆きや憤りに私たちも押されていってしまう。

 

ローマ人への手紙5章1節から5節までを朗読。

 

1節に「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。私たちと神様との関係が主イエス・キリスト、イエス様の十字架によって、神様の御愛によって、神様の前に妨げとなる一切の障害、壁を取り除かれて、今は神様を心から信頼することができる者と変えられている。神様に私たちは取りこまれた者であり、握られている。神様の中に置かれている。それが「神に対して平和を得ている」ということです。更に「この恵み」、この恵みとは何かといいますと、神様と私たちが愛に結ばれた関係に置かれていること。「この恵みに信仰によって導き入れられ」と、神様の約束の言葉を信じることによって、そのように変えていただいて、更に「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。そして、私たちは一切を神様にささげ、愛なる神様は私たちを握ってくださっていることを喜びとする。神様が私を導いてくださる。私の願いではない、私の考えではない、私の計画によるのではない。十字架を立てて、私たちを愛してくださった神様が愛のみ手をもって私たちを日々導いてくださることに喜んでいるでしょう?喜んでいらっしゃると思いますが、案外、私の思い通りにいかないから悔しいと言っているかもしれません。私たちにとって主にある生活とは、まさに毎日いろいろな出来事の一つ一つの中で、神様の手に自分が常に握られて、神様と十字架によって結ばれた者として生きること。そして神様が私を根こそぎにご自分のものとして握ってくださって、私たちに今日の一日を備えてくださると信じる生き方です。だから「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(テモテ 2:8)とパウロは言います。「イエス様をいつも思う」とは、これから先のことは分からない。今、今日このことも分からない。これがどういう意味なのか、こういう悩みに遭うこと、こういう悲しみに遭うことがどんな意味があるのか、私はさっぱり分からないけれども、主が、神様が愛をもって私を握ってくださっていると認めることです。だから、感謝します、喜びましょうというのがここに書かれている、「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」ということです。

 

3節に「それだけではなく、患難をも喜んでいる」とあります。「患難をも喜ぶ」、どうして患難、苦しいことが喜べるだろうかと思いますが、それは今申し上げたように、「主にあって」です。「神の栄光にあずかる希望」があるから、「患難をも喜ぶ」ことができる。言い換えると、神様の手に握られて今日も生かされている自分であり、持ち運ばれている自分だからこそ、患難や苦しいこと、試練といわれる事柄、苦しいつらい悲しい出来事に出会っても、それを喜ぶことができる。なぜならば、それは神様のなさっている、神様の手の中にあることだからです。だから、「主にある」という、この一点を外してしまったら、私たちはガラッとくずれていきます。私たちの信仰生活の根本といいますか、土台は主につながっていること、「主にある」ことです。これが何よりも大切なことだと、この度そういう事を通して教えられたのです。もし主なくして、主がいらっしゃらなければ、私たちの人生は誠に闇です。希望がない、望みがない、不安と恐れと絶望の中で立ち往生してしまうに違いない。それを今私たちが神様のご愛と恵みを知り、十字架によって神様との間の一切の妨げを取り除かれて、愛のゆえに主を信頼して、神様の手に握っていただける。これは私たちの、何と感謝してもしきれない大きな恵みです。私はさきほどのご家族のことを振り返りますと、誠に気の毒だと思います。愛する人を亡くしたことが気の毒というよりは、その事の中にあって希望を持てないでいる、慰めを得られないことが、どんなに気の毒なことだろうかと思う。どんなときにも喜んでいるためには、私たちが主に帰らなければ、神様のところへ立ち返ってこなければできないことです。

 

イザヤ書45章5節から7節までを朗読。

 

この5節以下に「わたしは主である。わたしのほかに神はない」と繰り返し強調されている。「わたしが主であるよ」と。そして、その主であるわたしが暗いことも、光をも、繁栄をも、わざわいをも創造する。一切すべてのものの支配者でいらっしゃる、主でいらっしゃる御方、この御方が私たちの神であり、また、ひとり子をも惜しまないほどに私たちを愛し、十字架を立ててくださった御方であります。私たちはこの主に連なっていれば不足はありません。主にあることとは、いつも主に結びついていることです。だから、生活の中で遭遇するどんなことも、主がご存じだから、主が今このことをしてくださっている。私には分からない、人にも分からない、誰にも分からない。神様だけがご存じのことがあると、絶えず認めていく。これは世間の人には分からない不思議な恵みです。だから、世間の人に「それは神様がご存じだから、主がなしてくださることだから心配しないで喜んでいたらどうです」なんて言っても通じません。「あなた、何を言っているの。この悲しいときに同情ひとつしないじゃないの」ということになりますから、なかなか難しい。しかし、私たちは絶えずそこに来ないことには、本当の喜びも慰めも望みもわいてこないのです。だから、願わくばすべての人がこの主に立ち返ってほしい。「主に帰ろう」と。本当に神様を知れば悲しむこともいらない、嘆くこともいらない。神様は私たちに「善にして善をなし給う」御方、詩篇の119篇に歌われているように「困苦(くるしみ)にあひたりしは我に善きことなり」(71・文語訳)と。「これによりて汝の律法(おきて)を学び得たり」(文語訳)と。言い換えると、神様が愛であり、力ある御方であり、すべてのものをご支配くださる御方だと、自分の苦しみを通して知ることができる。「苦しみに遭った、よかった」と言えるのは、「主にあって」です。神様を通して物事を見、悲しみを見、苦しみを見るときに、なるほど、私にとってそれがなかったらどうなっていたか分からないと理解できます。これは皆さんもご経験のとおりであります。ところが、もし神様を知らないで、ただ苦しみに遭うのだったら、これは苦しいばかりでしょう。悔しくて憤死するなり、怒り狂って我を忘れてしまうに違いない。闇のような世界に生きるしかない。ところが、主にあれば、神様がすべての事をご存じだと、そこにいつも思いを向けていく。そうすると、今、分からないことでも、私たちに見えないことでも、全部知っていらっしゃる御方がいるのだから、大丈夫ですと、いつも喜んでいることができる。問題があったとき、それをどのように神様がしてくださるだろうと期待する。ここにありますように「光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」。どんなことでもなしえ給う神様です。私たち一人一人に今の時を与え、今の事柄を与え、今の一つ一つ私たちが受けるべき事柄を備えておってくださる。だから、皆さん、問題が起こったとき、苦しいことがあります。いろいろな思いもかけない人とのトラブルや何かの中に巻き込まれます。そうすると「あの人がいけなかった」「この人が何とかだ」「こういう事情があったから」「こういう問題があったから」「私があのときああしておけばよかった。こうしておけばよかった」と悔やんだり嘆いたり人を非難したりしますが、そんなものは一切いらないのです。ただ主が今このことをしてくださっている。この苦しみにも主が置いてくださる。神様が今この事柄を起こしている。他人との問題の中にも、神様がそれを置いてくださっている。「主にあって」、この一言ですべてが解決します。

 

ヤコブの手紙1章2節から4節までを朗読。

 

2節に「あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」とあります。たいへんですね。名古屋におりましたときに通っていた教会の松原先生、そのご主人だった先生がまだお元気なころの有名な逸話があります。ある教会員の方のおうちが夕方火事になった。焼けまして、大慌てで先生の所へ電話をした。すると先生が駆けつけて来ました。来るなり最初に言った言葉、「ハレルヤ、感謝でしたね!」と言ったのです。それでその姉妹はカーッとなって怒って、「人がこんな悲しい思いをしているのに、何がこれが感謝だ。人の気も知らないで」と。先生が「お祈りをしましょう」と言ってお祈りをしてくれたのはいいけれども「火事に遭ってこの姉妹を恵んでいただいて有難うございます」と、そのお祈りにアーメンと祈れなかったというお証詞を聞きました。ところが、その後、何と神様がそのご家庭を顧みてくださって、その火事で焼けて失った物以上の恵みによって、新しい家が与えられる、地所が前よりも広くなる。さらに子供たちの家まで次々に増やしていただいた。あのときの先生の祈りに神様が応えて憐れんでくださった。自分はとんでもない思い違いをしておったと言った方を忘れられません。それ以来、その方は「どんな苦しいことがあっても感謝すればいいのですよ。私がそうだった」といつも言われました。ここにありますように「いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。嫌なこと、つらいことがあって、火事に遭ったり交通事故に遭ったり、どうしようかと当惑し失望しますが、感謝すればいい。喜びなさいと言うのですから。

 

ヨブの場合も、神様はそれまで以上に祝福してくださったと記されています。ある方が「あとになって祝福を受けるぐらいだったら、そんなつらい目には遭わんほうがいいと思います」と言いに来られましたが、苦しみに遭わなければ、神様の恵みを知り得ません。「主の祈り」に「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈りますから、できるだけ試みには遭いたくない。これは正直なことで、それはそれで求め、お祈りをしたらいい。神様は負えない苦しみに遭わせ給わない、逃れるべき道を備えてくださる御方です。耐えられる試練を与えられるのであって、耐えられないものは与えられないのですから、それはお祈りをしたらいいですね。けれども、それでもなお「お前にはこれを恵もう」と与えてくださる試練があるならば、喜んで負おうではありませんか。「主にあって」喜ぼうではありませんか。これが、私たちがいつも神様を心に置いて、主を思う思いに日々生きる道です。

 

初めのピリピ人への手紙4章4節に、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。私たちが喜べないでいるとき、何か悶々(もんもん)と悩んだり苦しんだり、心の中でつぶやいていることがあったら、そのときもう一度自分の思いを振り返って、私は主に連なっているのだろうか、今与えられた問題を主のものとして、神様のものとして私は受けているのだろうかと、そのことをちょっと考えていただいたらいい。そうすると「そうだ。自分の思いばかりがはびこって、神様に対する思いが消えている」。そういうときがありますね。自分の心の隅から隅まで、全部自分の思いで膨れ上がっている。そこには神様を思う気持ちがひと欠けらも見えなくなってしまう。これは魂が死んだ状態です。そうならないために「主にあって」、いつもイエス様がこの事を与え、主がご存じでいらっしゃる。この問題も主が導いてくださる、主がどのように解決してくださるか、私はできないけれども、神様がしてくださるから楽しんで待ちましょうと、主を待ち望んでいくとき、心に喜びがわいてきます。力が与えられます。これは不思議な神様の恵みです。だから、「主にあっていつも喜びなさい」。時々ではなくて、「いつも」絶えず喜んでおられるのは、主に心を向けているとき、主に結びついているとき、主のものと自分がなりきって、ささげきっているときです。そのときは喜んで生きることができます。

 

私たちに主が求めているのは、このことですから、喜び、感謝し、主を褒めたたえて生きようではありませんか。そのために私たちはいつも主にある生涯、「主にあって」と、しっかり心に置いておきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。