いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(61)「今は恵みのとき」

2013年11月21日 | 聖書からのメッセージ
コリント人への第二の手紙6章1、2節を朗読。

2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」とあります。

聖書は、「今」という時がすべてであると、繰り返して語っています。私どもは、過去現在そして未来という長い時間の流れをいつも思っています。そして後ろを振り返ることが多くあります。去年はどうしていただろうか、今年もこれまであれがあった、これもあったと、振り返ってみます。また、歳を取ると、昔のことが鮮明に思い出されて、懐かしいこともあります。しかし、現実に生きて、生活している時間は過去に生きているわけではありません。しかし、時にはそういう方がいらっしゃいます。愛するお子さんを亡くしたため、そのまま時間が止まってしまった。お子さんが、病気であるとか、事故で亡くなって、時間がそこで止まったまま、ご両親の気持ち、特にお母さんの気持ちが、ちっとも先へ進まない。そして子供さんのことばかりを思い、過去のことばかりを思って過ごしている。

そういう方が訪ねて来られたことがありました。最近の様子を聞いても、亡くなってかれこれ十年近くになるのですが、やはりお母さんはいつも過去に生きている。わたしたちも、どちらかというと、過去に生きている、昔のことを懐かしんで、あのころは良かったなぁと、ただそれだけが今を生きる杖のような、支えになっている方がいますが、それは間違いです。確かに過去を振り返って感謝するのは、幸いなことです。どんなに神様が恵んでくださったか、神様の大きなご愛を感じる意味で、過去を振り返ることは幸いです。しかし、いくら過去を振り返ってみても、生きている私たちには今日という日以外はない。どんなに過去が良くても「今」ではありません。また、今がどんな状態であっても、今を生きなければ、明日はないのです。明日に期待する人もいます。今はこれは仕方がない、あきらめよう。しかし、明日は、あるいは来年は、という思いがある。こうやって一年の終わりが近づいてくると、そういう反省の時期になります。この一年を振り返って、残念だった、あれもできなかった、これもできなかった。じゃ、今度は来年に期待しようとしますが、明日があるかどうか分からないのです。

では、今はどういう時なのか? エペソ人への手紙5章には「今は悪い時代なのである」と記されています。確かに、私たちが住んでいる世の中は、生活の環境などの条件は、過去に比べて恵まれています。しかし、それ以外のことで、生活は悲惨な状態に陥ってきたなぁ、と言えます。だから今は、聖書が言うように、悪い時に違いありません。神様を慕う人、求める人もいなくなって、人の愛が冷え、世の終わりの時が近づいて、すべてのものが崩れていく時であることも確かです。しかし、いくら悪い時だと言われても、私たちには「今」の時以外はないのです。

どんなに悪い時代であったとしても、今読みました聖書の言葉に「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」とはっきり記されています。なぜ今が、恵みの時、救いの日なのでしょうか。それは、直ぐ前の旧約聖書の引用の所に「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」と言われています。神様が、私たちの願いを聞いてくださった。また私たちを助けてくださるとき、それが恵みの時であり、救いの日なのだ。確かにそう思います。私たちが、いつでも呼ぶことができ、求めることができ、近づいて親しく心を打ち明ける方がいる。今は、神様にはばかることなく近づくことができる。いつでもそうかと言うと、必ずしもそうではないと記されています。

ペテロの第二の手紙3章8節から10節までを朗読。

9節に「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。今の時は、神様が、忍耐してくださる時だ、と言うのです。この3章は、イエス様が、世の終わりの日が間近に迫っていると語ってくださいました。そのときはいつだろうか、もう直ぐ来るに違いないと思って、身構えていたのです。しかし、世の中は一向に変化がない。そのことに退屈したといいますか、我慢できなくなった人たちが、神様が言われた終わりの時はまだ来ないではないか、あれはうそだった、という非難が起こってきました。それに対して、ペテロが反論したのが、この手紙です。イエス様が、世の裁き主として世の終わりの時に来られるという、それを待ち望んでいるのだが、一向に悪い人が処罰されるわけでもなく、悪い人が富み栄えて元気よくしている。世の中は矛盾だらけではないか、いつイエス様が来て、あいつらを全部焼き滅ぼしてくれるのだと。我慢できなくなって、これはちょっとおかしい、神様が間違っているのではないだろうか、と言い出した時、9節にあるように「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない」。神様は、約束を忘れてしまったんだ、と非難したのです。しかし、ペテロは、そうじゃないと言うのです。神様の思いは、終わりの時にすべてのものを滅ぼして、永遠の裁きをなさるが、それをしてしまったら、取り返すことができない。だからこそ神様は、「ひとりも滅びることがなく」、誰一人滅びないですべての人が悔い改めて神様の救いにあずかるようにと、「ながく忍耐しておられる」。今は、神様が忍耐をしてくださっている時です。ですからローマ人への手紙2章には「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」と言われています。神様が、忍耐してくれているのなら、もう少し我慢してもらいましょうかと、とても言えたことではありません。今は恵みの時、今は救いの日としてくださっているのは、悔い改めて神様に立ち返る、救いにあずかる時が、今だというのです。ですから、「あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。ズーッと今もって神様は、私たちのために耐え忍んでくださっている。どうぞ主の忍耐を深く思っていただきたい。この私のために、今日も滅ぼすことをなさらないで、終わりの時を先延ばしにしてくださっているのです。ところが10節に「しかし、主の日は盗人のように襲って来る」とはっきり約束されています。盗人が襲ってくるように、突如としてと。予告無しに、いつその時が来るのかは分かりません。しかし、その時が必ず来る。今は恵みの時、救いの日を神様が残してくださって、神様に近づいて呼び求めることができ、神様の救いにあずかって、喜ぶものと変えられる。

ですから、コリント人への第二の手紙6章2節に「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」これは素晴しいですね。しかもここには「願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」と、もう助けたんだよ、とおっしゃる。私たちの願いを聞いてくださる、救いにあずからせてくださった。だから、今は恵みの時、今は救いの日、地上にあってなお悩みや困難や問題の中におかれるその時にこそ、遠慮なく直ぐに主を呼び求めることができる、また、何か失敗して神様の前に罪を犯すことがあるならば、今は恵みの時なのだから、躊躇(ちゅうちょ)しないで直ぐに神様の御許(みもと)に立ち返って、救いに与ってください、と勧められている。また、そうやって日々に、神様の御前に近づいて、心を注いで祈り、願い、求め、神様の許しにあずかって、喜び感謝していくのは今なのだ、ということです。だから、今という時は恵みの時、救いの日、言うならば、私たちにとって人生最高の日が今なのです。いつでもどんな思い煩いがあっても、それを直ぐ主に持っていくことができる時なのです。また、失敗したこと、自分の悔やむべき事柄があるならば、それを神様の前に悔い改めて、主の許しを直ぐに受けて、イエス様の十字架の血潮に清められ、喜んで主をほめたたえ、感謝することができるのは、今なのです。ところが、私たちは案外そのことに気がつかない、知っていながら忘れている。そして生活のあそこが足らない、ここが欠けている。ここがもう少しこう成ったら、こんな悩みがある、こんな苦しいことがあるから、私の人生最悪の日だとつぶやいている。そして、せっかく与えられた「今」を、暗く惨めで悲しみながら過ごしている。これは生きる命を無駄に終わらせるようなものです。どぶの中に捨てているようなものです。だから、1節の終わりに「神の恵みをいたずらに受けてはならない」と勧められています。「いたずらに受ける」と言うのは、「軽んずる」という意味です。せっかく神様が、恵みの時、救いの日を設けて、私たちを楽しませ、喜ばせ、神様の手の中に一切をすっぽりと委ねて、今という時を楽しんで過ごす、喜んで過ごす、歌って過ごすことができるのに、それを忘れて、あれがなかったらよかった、これがなかったらよかった、と過去を振り返って悔やんで、明るいはずの「今」の時を闇に変えてしまっている、これは恵みをいたずらに受けているのです。神様の願いは、今を喜んで感謝して、本当に輝いて生きて欲しいのです。それなのに私たちは、どうして喜べないのでしょうか。なぜ私たちは、今日は人生最良の日です、と言えないで、悶々(もんもん)と、鬱々(うつうつ)とした心を抱いているのでしょうか。それは、神様の前に心を注ぎ出して、真剣に主を呼び求めようとしないからです。また、神様の救いがあるのに、もっとこうでなければ嫌だ、ああでなければ困る、こんなだから困った、と嘆いている。

先日もある方とお話をして、その姉妹にご家庭の問題があって悩んでおられたのです。でも祈って、祈って、その厳しい問題の中で、神様は、一つ一つ薄紙をはぐように応えてくださって、やっとその大嵐が通り過ぎて、今は穏やかになっています。先日お会いして「いかがですか」「ええ、お陰様で今は穏やかになってはいるのですが、でも、これからですね」と言われる。「今良かったらいいじゃないですか」と言ったのです。「ええ、今はいいのですが…」と。わたしはそれを聞きながら、問題はみなそこにあると思いました。今はとりあえず何も不足はない、言うなれば、感謝すれば人生で一番いい日かな、と思う。しかし、このまま続くかな、きっとまた何か起こってくるぞ、あれがどうも悪くなりそう、こっちがどうかなりそう、あの問題がまた起こってきそうだと、まだ成りもしない、起こってもこないことのために、今の時を暗くしてしまっている。そうではなく、今感謝することがあるならば感謝し、また先のことに対して思い煩うことが起こってきたら、直ぐに神様の所に持ち出して、心を晴れやかにしてしまうこと、これが恵みの時であり、救いの日なのです。それをしないから、いつまでも大切に飴(あめ)をしゃぶるがごとく、悩みを自分でなでてさすっている。そして退屈すると、この悩みを神様に持っていこうと。早く持っていけばいいのに、いつまでも抱えて、今を楽しんで過ごさない。

私もよくそれをやるのです。先々週になりますけれども、イタリヤに思いがけず出掛けました。イタリヤに行こうということが決まって、すべて整ったときは、久し振りに海外に行けるし、新しいものを見られると思って、楽しみにしていたのですが、段々日が近づいてくると憂うつになるのです。これも歳を取った証拠かなと思うのです。そしていろいろ考えるのです。留守中にあのことはどうしておこうか、このことはどうしておこうかと、いろんなことがたくさんありますから、前もってそれらの手だてを始めると、うっとうしいな、こんなんだったら行かんほうがいいなと思う。そして、いよいよ目前になって、ばたばたして寝る間もないくらいにやって、飛行機に乗った。乗ってからもまだ心配している。あれはどうしようか、これは……と。成田空港に着いてもあっちに電話をし、こっちに電話をしと、私はそのとき一体自分は、何のために行こうとしているのだろうか、せっかく、神様がこの恵みの時を備えてくださっているのに、自分の思いは他の方ばかりにいって、これを思い煩い、あれをこうしてと、旅自体を楽しまないのです。そのとき、この御言葉をもう一度教えられたのです。ここにありますように「恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」とおっしゃる。私がどうこうしなくても、神様が全部ご承知のことでしょう。それなのに偉そうに、私があれをしておかないと、これはあの人に頼んでおかないと、ここの所はこうしてもらわなければと、心がここにない。そして体だけが、飛行機には乗っていますが、全然面白くもない。それを考えた時、せっかく神様が、楽しませようとしてこのプランを与えてくださった。旅を備えてくださったのに、それを台無しにぶち壊している。誰が? 自分ですよ。そのとき「神の恵みをいたずらに受けてはならない」。本当に申し訳なかった、と飛行機の中で悔い改めました。あの心配、この心配、それを一つ一つ主に委ねていく。ここにあるように「あなたの願いを聞きいれ」とおっしゃる。私たちの思い煩いを全部神様が知ってくださる。だから、その方に申し上げて、空っぽになって、今与えられている恵みを感謝して受ければいいのです。

神様が、一つ一つすべてのものをご存知で、一番良いように進めてくださるのだから、その方の手に一切を委ねてしまって、今恵みが与えられ、救いにあずかっていることを喜ばなければいけない。いやそうは言われても、あのことがある限り、私は喜べない。これが取り除かれたら、この問題が解決したらと思っている間は駄目です。問題があろうと事柄があろうと、神様は願いを聞いたとおっしゃる。また助けたとおっしゃってくださるのだから、現実はどうであれ、まだそのことが残っていたとしても、まず感謝して、今という時、今日という日に、主をほめたたえ、感謝し、賛美して、喜んで生きるべきです。私たちは、しょうもないことで思い煩い、今の時を暗くしてしまう。感謝できなくなった心で一日を過ごしているならば、神様に対して罪を犯していると同じことです。神様が、私たちに求めているのは、毎日主をほめたたえ、喜んで、感謝して生きることです。

小さなお子さんを見ているとそう思うのです。K先生のところの主喜君を見ていると、毎日毎日ニコニコ楽しく一日中遊んで暮らす。何の心配もしません。明日は幼稚園で、これがあるからあれを用意しとこう、これをなんとかしなければ……、などとそんな心配は一つもない。親はそれを喜びます。子供がグタッとして悩んでいる様子を見て、うちの子は大分成長した、悩みを持ち始めた、大分ネクラになったぞ、よしよし、なんて、そんなことは喜ぶはずがない。快活で飛び回っていた子が、シュンとして部屋の隅に閉じこもって、悩んでいる姿を見たら気が気ではない。神様もそうなのです。私どもが喜んで、感謝して、楽しんでおりさえすれば、神様はうれしいのです。そうなって欲しいと願っている。それをぶち壊しているのは、ほかならない私たちなのです。ああ成ったらどうしようか、こう成ったらどうしようか、あれがこう成ったらどうしようかと、まだありもしない明日のこと、来年のこと、また自分が死んでから先のことまで、勝手に背負い込んで、楽しかるべき今、晴れ晴れとすべき時なのに、まるで秋晴れの空の下、雨戸を勝手に締め切って、暗い、暗いと言っているのと同じです。

2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。これは確かに素晴しい約束です。どうぞ皆さん、この御言葉を自分に言い聞かせてください。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。そうだ、今日は、私が楽しんで、喜んで、感謝して、主をほめたたえる恵みにあり、救いにあずかっているではないかと、心配を吹き飛ばして手放しで喜んだらいいのです。私はそうやって教えられたから、神様、生きるも死ぬも一切主のものですから、日本のことは全部あなたに委ねます。わたしは楽しませていただきますと、心を入れ替えまして、イタリヤに着いたときには、すっかり日本を忘れて、楽しませてもらいました。楽しい一週間を過ごさせていただきました。毎日毎日神様は、私たちを喜ばせ、楽しませようとしてくださいます。

思い煩うこと、心配なこと、どんなことでも神様に申し上げることができるのは、今です。これは大きな恵みであり、特権であります。だから、「ピリピ人への手紙」4章に「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」とあるでしょう。今その恵みの中におかれている。ともすると恵みと言うと、何か具体的ないいことがある、自分の願いがかなうのが恵みだと思いやすいのですが、私たちにはもっと素晴しいものがある。今はどんなことでも神様に申し上げることができる、幸いな時です。だから、目の前の事柄が、願うように思うようにいくかいかないか、そういう現象、現れた事柄ばかりが恵みだと思っていたら、恵みは小さくなってしまいます。しかし、もっと根本的な恵みがある。それはいつでも、どんなときでも、今は遠慮なく神様の御許に近づくことができる。だから、恵みなのです。今悩みがあったとしても、それを神様の所に持ち込んでいくことができる。だから、悩みが無くなるのです。ところが、神様の所に持ち出しながら、また自分で引きずってくるから、いつまでも手放さない限り、悩みが尽きない。不安になったときに、思い煩いが起こったとき、瞬時に、主よ、天のお父様と祈って、神様の前に注ぎだすのです。そうすると、心は直ぐに晴れやかになります。ピリピ人への手紙4章の続きに「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。確かにそのとおりです。だから、先ず神様の所に近づくことが大切です。

ヘブル人への手紙4章14節から16節までを朗読。

イエス様が大祭司となって執り成してくださっている。これは恵みの時です。今私たちと共にいてくださるイエス様は、神様と私たちとをつないでくださる、仲介してくださる大祭司となっている。しかも、イエス様は、15節に「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない」。私たちの弱さ、足らない所、思い煩うところのすべてをご存知でいらっしゃる。だから、言葉足らずで、「イエス様、苦しいです」と言っただけで、その苦しみばかりか、私たちの思いをすべてくみ取ってくださる。この大祭司なるイエス様が、私たちと共にいてくださいます。これは恵みの時としか言いようがない。だから、悩みがあっても、私たちの恵みを損なうことは決してないのです。それどころか、それ故にこそ、絶えず主に近づくことができる。今、この大きな幸い、言葉で言い尽くせない神様の恵みの中におかれている。それは健康であるとか、何かがあるとか、そういう状況や事柄ではなくて、大祭司なるイエス様が、私たちの思いを絶えず知ってくださる。しかも、その後に「わたしたちと同じように試錬に会われたのである」。私どもも、同病あい哀れむで、同じ経験をした人に話を打ち明けると、分かり合えます。「ああ、そうね、あんたもそうだったの」と直ぐに親しいものに変わります。分かり合えるという共通点があるからです。イエス様は、もっと身近に私たちのすべてのことを知り給う方です。

だから、16節に「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。「恵みの御座」とは、イエス様の御許に近づく。神様の所へイエス様を通して近づいていくこと、それは、取りも直さず、祈ることです。主に求めていくと、願いを聞いてくださる。しかも、「時機を得た助けを受けるために」とあるように、時機を得たというのは、タイミング良くです。一番良いタイミングでという。それはいつかと言うと、今悩みの中にあるその瞬間に助けを与えられるのです。神様に打ち明けたのだけれども、効力は24時間後とか48時間後だったら、ちょっとまどろっこしい、待っておれない。ところが、神様の助けは、時機を得た助けです。今という時なのです。今恵みの時なんだから、私たちの心に思い煩うことがある時、悩みが起こった時、直ぐに近づいていく。そこに時機を得たドンぴしゃりの助けを神様が与えてくださる。これを体験するのが、今です。それは明日でもなければ明後日でもない、あるいは過去の今日だったでもない。昔こんなことを経験したとか、こんなに神様の恵みにあずかった、あの苦しかった時、神様が聞いてくださって良かった。あの時は良かったけれども、今は駄目という、そうじゃないですよ。心配があるけれども、忙しいからお祈りは明日にしようと。明日になったらもっとひどくなりますから、早いほうが良い。16節に「はばかることなく」、遠慮しないでと。私どもは躊躇(ちゅうちょ)する。お祈りも必要だろうけれども、先ずあっちにして、こっちにしてと、そうやって神様に近づこうとするのを阻む力が入ってきます。そうならないために、直ぐに遠慮しないで、直ぐに主の前に立ち返りたいと思います。

ヘブル人への手紙3章12節、13節を朗読。

ここにも「きょう」と記されています。今というときですね。13節に「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように」、心が硬くなるというのです。人との間で行き違いがあったり、意見に違いがあったりして「何さ!あの人は……」と心が硬くなる。今まで優しい心がヒュッと硬くなり、冷ややかな心に変わってしまう。家族でも親子であろうと、夫婦であろうと、その時に、「きょう」といううちにです。今は恵みの時、神様の前に出て悔い改めるべき時が、残されているのです。主よ、ごめんなさい、こんなかたくなな私、しょうもないことで腹を立てたりして申し訳ありません。神様、ごめんなさい、と悔い改める。これは今なのです。こればかりはちょっとタイミングを外すと、なかなか難しい。神様にごめんなさい、と言いますと、人に対しても奥さんに対しても、ご主人に対しても子供に対しても、言い過ぎてごめんね、とスッと出るのです。そうすると心が柔らかくなる。それをしないと、いつまでも自分を義とする言い訳を続ける。こうなったのは、あっちが先じゃないか、私はいい思いをもっているのだけれども、あの人が誤解したから、向こうが謝らなければ、私は謝らないと、気持ちがねじくれて、ますますカチカチになってしまう。そして、悔い改めの時を失ってしまう。それもまた私たちの今を、楽しかるべき時を、暗くしてしまう大きな原因になります。人といさかいをして、しょうもないことで我を張り合って、お互いつんけんし始めたら一日は真っ暗です。その日一日、ドーンと沈んで、お互い顔を見ても見ない振りをして苦しい。私もときにそういうことがある。ところがわが家は二人しかいないので、非常に状況が厳しい。できるだけ早くしなければいけないのが、私のおかれた立場で、幸いなことです。早く悔い改めなければいけません。

明日にしては駄目です。一晩寝て、次の日と言ったら、いよいよ駄目になります。だから、今は恵みの時、救いの日なのです。その瞬間に、パッと時をおかず、主の御前にはばからず出ていって、「主よ、ひどいことを言ってしまいました」。「神様、あなたの御心を汚してしまいました」。「神様、あなたの御思いに従えなくて失敗したから、どうぞ悔い改めさせてください」と祈って、心を神様に明け渡すと、人に対しても何の思い煩いもなく、ごめんね、と素直に言える。そうしてしまうと、その後の一日は晴れやかに喜んで過ごせる。心を暗くするものは、私たちの罪です。それは大きな罪というよりも、小さな御声に従わないで、かたくなになる時の罪です。そして思い煩いやつぶやき、心配などもあります。この二つが、私たちをいつも暗くしてしまうのです。今日も晴れやかな一日でありたい、と誰だって思うでしょう。この病気が、あそこが痛い、ここが痛いから喜べない、というのではなく、痛い所も神様のものですから、主の手にささげて、この痛みの中にあるけれども、なお私を哀れんで、これだけのことをさせてくださる、これだけ恵んでくださる、こうやって導いてくださる。豊かなもっと多くの主の恵みに目を止めて、感謝賛美する。これが私たちに求められている事です。

コリント人への第二の手紙6章2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』」と。願いを聞き入れ、私たちを滅びから救い出して、罪を赦してくださるのは今日です。今、その恵みが開かれている時、心晴れやかに、恵みと救いを喜び、感謝し、主をほめたたえ、輝いた者となりたい。私たちは先のことなんて分からないのですから、将来のことなんて心配する必要はないのです。ついつい、今日はいいけれど明日が心配だからと言って、今日を暗くしてしまうことのないように、また昔は良かったのに今はこうだからと言って、消え去ったはずの過去を振り返って、過去の亡霊によって今を暗くしてしまうことをしないように。明日のことは明日が思い煩う、とイエス様は言われます。その日一日の苦労は、その日一日で十分と言われますね。一日一日です。明日のことはないのですから、今日という日、今は恵みの時、今は救いの日です。どうぞこのことを体験して感謝賛美して、一日過ごしましょう。

ご一緒にお祈りをしましょう。