いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(42)「真の悔改め」

2013年11月02日 | 聖書からのメッセージ
詩篇51編1節から19節までを朗読。

17節「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。
詩篇51編は、表題に嘗てイスラエルの王であったダビデが、バテセバとの女性問題をとおして、神様から罪を赦された喜びと感謝を歌ったものです。1節には「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください」と歌っています。彼は一つの大きな罪を犯しました。それは、一人の忠臣なる部下を戦場で殺してしまい、その愛する妻を奪うという事でした。

旧約聖書のその記事を読んでおきましょう。サムエル記下12章7節から15節までを朗読。

イスラエルの王であったサウルがペリシテ人との戦いで死んでしまって、愈々ダビデが正式に王の位に即位しました。しかし、なかなか国は安定しません。サウル王の残党、世が世ならば国の支配者たちが追われたために様々なトラブルを起こしていました。また、外部から攻めてくる敵もありました。そういう中にありながらも、ダビデは神様に信頼して力を与えられ、一つ一つの問題を解決したのです。やがて国が安定し、平穏な時代を迎えました。そればかりでなくて、非常に大きな権力を持つ様になりました。ダビデは、神様の憐れみによって、王の位に就いたのです。彼は王の家族でも、貴族でもありません。王様になるのは夢のまた夢でした。彼は名もない羊飼いの子供でした。しかし、神様から王として選ばれ、サウル王様の跡を継いでイスラエルの王になりました。彼は絶えず神様の前に自らを低くして、謙遜に神様の御心に適う国を作ろうと、努力していました。その結果、神様は、彼の信仰に報いて、平安を与えてくださいました。

ところが、その時、彼の心に一つの罪が宿ったのです。ある日、王宮で屋上から眺めていたところ、ウリヤという自分の部下の奥さん、バテシバが、水浴びをしている姿を見ました。あまりにも美しいので、その女性を自分の所に呼び入れて、罪を犯してしまう。そのことを隠そうとして、女性の夫であるウリヤを戦場から呼び戻します。その時、アンモン人との戦いに出ていたのです。それまではダビデが先頭に立って戦いに出ていたのですが、この戦いの時だけは、部下たちに任せて自分は王宮に残っていました。彼は国の元首ですから、部下たちが戦いに出るのは当然だったと思います。彼には忠実で、有能な部下たちがいました。そのひとりであるウリヤを戦場から呼び戻して、休暇を与えました。「奥さんの所へ行きなさい」と。ウリヤは忠実な人で、仲間が戦場で戦っているのに、自分一人が休みを取ることはできないと言って、宮殿の入り口で野宿して休暇を過ごして帰る。ダビデは自分のもくろみが外れたために、手紙を添えて現場の司令官に持たせる。その手紙には「このウリヤを激戦の地に送って殺せ」と。とんでもない罪を犯したのです。司令官はそれを見て、王様の命令ですから、激しい戦いの真っ只中に彼を送りました。ところが、その戦いでイスラエル軍が敗退する。現場にいた連中は王様から叱られるに違いないと思った時に、司令官が「大丈夫、この戦いについて王様は何もいう事はない」と。伝令が王様の所に走って行きました。伝令が着いて「王様、この度の戦に負けました」、王様は「何ていう事をしたんだ」と言っている時に、次の伝令がやってきた。「王様、ウリヤが死にました」、「そうか、それじゃ、不問に付す」と。勝手な王様になっちゃった。そうやって奥さんを、自分の妻として王宮に迎え入れたのです。誰も知らないと思って、口を拭っていた時に、ナタンという神の人、預言者が、ダビデの所へ来ました。ナタンは神様から知恵を与えられて、一つの譬えを語ります。

王様の所へ来まして、「実はこういう話しがありますが、あなたはどう判断されますか。それは千頭もの羊を飼っている大金持ちがいる。ところが、その隣にたった一匹の羊を家族同然大切にしている家がある。ある時、金持ちの家にお客が来た。ご馳走をしようと思って自分の羊の群れを見たけれども、ちょっと勿体ないと思って、隣の羊を盗んで、それを殺して食事に出した。この金持ちに対してあなたはどうすべきだと思いますか」と聞きました。ダビデは「そんな酷いことをする奴は、死刑だ」と言った。その時に、今読みました7節に「ナタンはダビデに言った、『あなたがその人です』」と。厳しいですね。王様は人ごとと思って、まさか自分のことを言われているとは思わないから、「そんな奴はもう死罪に当たる」と言ったのです。ところ、ナタンが「あなたがその人です」と。これはなかなか勇気のいることです。相手は王様です。今の総理大臣程度じゃありません。生殺与奪の権を持っている。生かすも殺すも自由自在です。絶対君主ですから、「あなたがその人ですよ」となかなか言えない。でもナタンは神様の使命を帯びて、本当に強い人だったと思います。7節以下に「イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、8 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう』」。ここで神様は、ダビデの罪を指摘しています。8節にあるように、神様がここまで導いてきて、王として立てた。「サウル王様の家族も何もかもお前が自由にできるようにしてやったではないか。これまで誰が主であったか。それは私ではなかったか」と、神様は言われます。8節の後半に「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」と。もしお前が必要なら、どんなものでも私が与えることができないだろうか。何故、私に求めなかったのだと、神様はダビデが自分勝手に、神様抜きでしたことを責めています。9節に「どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか」。これまでダビデは忠実に神様の言葉を守ってきました。またそれに従ってきました。心を一つにして神様に信頼してきたのです。ところがこの時に限って、ウリヤの妻に関して、彼は神様に聞こうとしなかった。自分の思いに支配されたのです。人間の罪というのはここです。神様は「お前が必要なら、わたしに求めればよかったではないか」と言われます。神様に求めることをしないで、自分の力で、自分の権力で奪い取ろうとしたことが、神様に対する罪でした。ですから、この後の10節に「あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう」。神様はここで、「あなたがわたしを軽んじて」と言われたのです。ダビデがしたこと、ウリヤという無実な男を殺して、その愛する妻を奪い取ったという行為は、事実としてあります。神様が問題にしているのはそのことではない。もっと大切なのは、そのことが起こった原因、その事件の一番奥底に、神様を侮っていたことなのです。

これは私たちの罪でもあります。私たちはイエス様の十字架の功しによって罪を赦されて、神の子とされたと信じて、イエス様の救いを感謝して生きています。しかし、地上の生活は、必ずしも平坦ではありません。いろんな問題や事柄があります。また、自分の思いが絶えず変わっていく。神様を感謝し、喜んでいる時もあれば、いろんな問題、苦しみや悩みの中で、「どうして神様、こんな事をするの」という思いに駆られることもある。或いは物事が順調に行って、何もかもが上手くいくようになると、「神様に頼らんでも…」という思いが出てくる。これは肉に生きて、この地上にある限り避けることができません。だから、救われて教会に来ているから、罪も何も無い綺麗な人間ですとは言えないことは、皆さん、ご自分が一番良く知っています。私たちは罪を犯す存在であることを先ず知っておきたいと思います。ダビデもそうなのです。彼は、神様を知らなかったわけでも、忘れたわけでもない。ただ心の中に少し神様を軽んじてと言いますか、神様をちょっと横の方に置いてしまった。だから、申命記8章に記されているように、あなた方が、神様から恵まれて、ものが豊かになり、家族が増え、恵まれた境遇になると、心に高ぶって、私を忘れるであろうと警告されています。

私たちも同じです。イエス様の救いに与って、罪を赦していただいたことを喜んだのは、かれこれ何十年前だったかもしれない。それから、確かに神様を離れたことはないけれど、心に神様を第一として、神様の前に絶えず自分を置いてきたかと言われると、そうでないことが度々あった。そして、神様を軽んじる時、自分の欲望や自分の権力や力や、自分の地位や名誉を働かせようとする。神様に取って代わろうとする、これがダビデの犯した罪です。そしてダビデの神様に対する心が揺らいでしまった。外れてしまった結果として、一人の人が死に追いやられる。幸いであるはずの女性が、愛する人を失って悲しみにくれる具体的な結果となって現れてきます。私たちの社会、人間の社会は現れてきた行為について、「こんな事をしてはいけないじゃないか。こんな事をしたからあなたは駄目じゃないか」と言います。刑法という法律もそうです。人を殺したとか、或いは物を盗んだとか、そういう具体的な行為について処罰はしますが、その行為が何処から起きて来たか、どういう動機であったか、つまり、本当の罪が何処にあるかと問うことはしません。私どもも日常生活の中で、気がつかないうちにそういう考え方に陥る。「あんなことをしたから悪かった。こんなことをしたから悪かった」と。したことが悪いのではなく、悪い事をする心はどんな心であったかを謙虚に探らなければなりません。根本のところで神様から離れて、神様を恐れる心が薄らいで、軽んじてしまうのです。9節に「どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか」と。10節に「あなたがわたしを軽んじて」と。神様を軽んじたのです。実は、神様はいつもこのことを問うているのです。何か失敗したり、或いは罪を犯したり、或いは自分の我侭な思い、自分の欲望に駆られて、人を悲しませたり、人を傷つけたり、或いは人の様々な問題の中に自分が原因となってしまう。その根本は神様を心に忘れてしまうことにあります。

13節に「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。ナタンはダビデに言った、『主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう』」とあります。「わたしは主に罪をおかしました」と、ダビデは神様の前に悔い改めたのです。この悔い改めをしっかりと心に置いておきたいと思います。この時、ダビデは「わたしは主に罪をおかしました」と言うのです。何か悪いことをしたら、「ごめんなさい」と相手に言わなければならない。あの人この人に、「あの人に悪いことをしてしまった、この人に悪いことをしてしまった」と言います。これは後悔することです。ところが、もっと大切な悔い改めるべき事があります。確かに相手に悪いことを言ったり、悪い事をして傷つけたりしてしまった。だから、その人に「ごめんなさい」ということは大切ですが、もう一つ深く自分自身が、神様を恐れない者であったこと。神様の御愛と恵みの中に生かされていながら、その事を忘れていた自分であることを認めようとしない。実はこれが一番欠けている所であり、またどうしてもそれを認めなければ、悔い改めることができないのです。ここにある様に、ダビデは「わたしは主に罪をおかしました」と。決してダビデは「ウリヤに悪いことをした」と言ったのではない。或いはバテシバに、「奥さんに対して、酷いことをした。ごめんなさい」と言っていっているのではない。「神様、私はあなたに向かって罪を犯しました」。私たちは、絶えず自分自身の歩みの中で、神様に対してどういう歩みをしているか、そこをしっかり認めて、悔い改めなければ、新しくなることができません。

最近よく新聞やニュースに取り上げられますが、日本の戦争責任という事を言われます。格別、周辺の国々から日本に対して厳しい批判が起こっています。いつまでも批判がおさまらないのは、ここにあると思います。確かに「日本は悪いことをしました。戦争で酷い事をしました」と口では言います。しかし、具体的な行動、その悔い改めに相応しい実を結ぼうとしない。何故口先だけで終るかと言うと、酷いことをした相手にだけに「ごめんなさい」と言って、それで事足りるとするからです。もっとその奥に、神様の前に罪を犯したのであるという自覚がない。これが日本の決定的な弱点と言いますか、多くの国から嫌われる原因になる。ドイツの戦争責任に対する償いの仕方で日本が比べられますが、その根本はここです。ドイツの政治家や国民がこぞって悔い改めて、自分たちが神様に罪を犯した事を認めたからです。だから、あのポーランドに対して、或いはユダヤ人虐殺についても、徹底して自分を捨てて謝罪することができる。ところが、日本人はそれが無い。日本人という大きな括りではなくて、私たち一人一人が、生活の中で神様に対する責任を認めようとしないことです。それを蔑(ないがし)ろにして、現れた事象、事柄だけを「ごめんなさい」と口先だけで言う。そして、その人にだけ謝ろうとするから、直ぐ目先の打算や計算をする。相手に謝罪したら、もっと要求が増えるかもしれない。そんな馬鹿な事を考える政治家がいるから、日本はなかなか悔い改めるということができません。戦後暫くの間「一億総懺悔(ざんげ)」という言葉が流行りました。「懺悔」という言葉が日本には古来からありますが、「懺悔」と「悔い改め」とは違います。懺悔というのは悪い事をしてしまった、今度はうまくやりたいというだけのことです。悔い改めというのは、二度と同じ事をしない、180度方向転換をすることです。自分自身の日常生活のレベルで、絶えず神様を前に置く生き方でなければ、私たち自身変わることができません。

13節に「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。ナタンはダビデに言った、『主もまたあなたの罪を除かれました』」。神様は恵みあり、憐れみある方です。ダビデが悔い改めて「神様、私はあなたに罪を犯しました」と、砕けた心になった時に、神様もダビデに「わたしも赦した」と仰ってくださった。これは大きな恵みです。赦してもらったから、神様の赦しを受けたから、もう何もかも順調に行ったかというと、そうではありません。バテシバに生まれたダビデの子供は、この後に記されているように、生まれて直ぐに死んでしまいます。それは神様がダビデに対しての悔い改めの結果を要求されたのです。彼がただ神様に対して「ごめんなさい」と口先だけではなくて、具体的に自分の生まれた子供の命を神様は取られるのです。「え!神様って酷いことをするなぁ」と思われるかもしれません。しかし、そうじゃありません。神様の前に悔い改めるべき事について、神様は罪を赦してくださいますが、だからと言って、なにもかもチャラにしてあげようという無責任な方ではありません。ちゃんと一つ一つのことについて、「その播くところは刈るところとなるべし」と、きちっと清算なさいます。私たちが悔い改めるとき、神様は償うべき償いをきちっと取られます。神様は決していい加減にしません。だからと言って、ダビデを永遠に滅ぼしたのではありません。ダビデの悔い改めを受け入れてくださいました。「それじゃ、そんな罰を受けるくらいなら、神様にごめんなさいなんて言わなきゃ良かった」というのは間違いです。そうであったら、ダビデは永遠の滅びの中に陥ってしまうでしょう。

その実例が前の王様であるサウル王様です。彼はアマレク人との戦いで神様の言いつけを守らなかった。ほんのちょっと守らなかった。彼は、「これは民が望んだことであって、私ではありません」と言い逃れをした時に、神様は「あなたはわたしを捨てたから、わたしもお前を捨てる」と仰った。サウル王様は、ダビデのような悔い改めができなかった。そのためにとうとう彼は、神様から見捨てられました。ダビデは確かにバテシバに生まれた幼子の命を奪われましたが、サウル王様は滅んでしまいました。神様の霊がサウル王様から取り去られた後、悪夢にうなされ、不安と恐れの中に身を置いて、やがて占い師にまで頼らなければならない惨めな者となりました。そして、終わりは、ペリシテ人との戦いの中、戦場で討ち死にします。サウル王様の生涯とダビデの生涯は何処が違うか。罪を犯さなかったのではない。ダビデも神様の前に失敗だらけでした。しかし、彼は、自分が失敗した時に、直ぐに神様の前に悔い改める。それは口先で「ごめんなさい」と言うだけではなくて、具体的に自分自身が神様の前に償いをきちっと果たします。だから、日本の国が、諸外国に対して様々な悪を行ったこと認めるならば、そのためにどんなに自分たちが窮乏の中に陥ろうと、それを甘んじて受けるだけの覚悟を決めなければ、神様の前に償うことはできません。しかし、神様は決して過分なことを私たちに求めることをなさいません。この時バテシバに生まれた子供は取られましたが、その後神様はダビデを祝福して多くの子供たちを与えて下さいました。次にバテシバに生まれたのがソロモンです。やがて彼が次なる王様になります。彼の生涯を祝福して下さったのは神様です。その一番の恵みの場所は、13節にある「わたしは主に罪をおかしました」と認めたときです。きちっと神様の前に整えられる時、確かに償うべきものは償いますが、それに倍して、それを超えて大きく大きく、恵んで下さいます。

詩篇51篇に戻りますが、5節から「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください」。この5節に「わたしは不義のなかに生れました」と、或いは、またその先に「わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」と告白しています。ダビデは罪のうちに身ごもられた、お母さんが、道ならぬ恋でもして生まれた子供という意味ではありません。これはダビデが罪人であることを認めた言葉です。決して聖人君子ではありません。神様、あなたから選ばれて恵みを受けてはいますが、そもそも私という人間は、生まれながらに罪を犯す者です。氏素性、自分の出てきた所を問われるならば、「罪の塊です」と彼は言った。パウロは「私は罪人のかしらです」と告白しています。正にそれです。この時ダビデは、私は罪を犯すしかない、そういう者です。ですから、6節に「見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えて下さい」。その罪から潔められる道を、主よ、どうぞ私に与えて下さいと求めたのです。私たちもその事を神様に求めていく以外にありません。何故なら、私たちは自分で罪を潔める道も、或いは自分で罪を避ける力もありません。ただ、こういう罪を犯しやすい者ですから、神様にすがって、憐れんで下さいと求めるだけです。神様にすがっていかなければ、気がつかないうちに、神様を離れてしまいます。

10節に「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください」。これはダビデの悔い改めの、砕けた心です。「清い心」、「新しい、正しい霊」を与えてくださいと。神様の霊に満たしていただきたいと。私たちも同じです。神の御霊によらなければ決して良きことができない、神様の御心に適う歩みをすることができない。だからこそ、絶えず御霊を求めるのです。自分は生まれながらに罪の塊である、罪を犯し易い者、イエス様の十字架の贖いを信じていながらも、罪の故に、弱さの故に、神様の御心に背いて離れてしまい、人の力や、人の業や、自分の面子や、自分の立場や、人の目にみえるところによって、神様を離れてしまう。だから、悔い改めて神様の前に立たせていただく。これが、神様の恵みに与るただ一つの道です。

11節に「わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください」と。ダビデにとって、神様の霊が自分から取り去られることが、どんなに大きな悲劇であるか。彼は自分の先輩であるサウル王様の末期を見てきたのです。神様の霊が取られたら、滅びる他はないと、彼はよく分かっていました。12節に「あなたの、自由の霊をもって、わたしをささえてください」これはダビデの切なる願いでもあり、祈りです。「救の喜びをわたしに返してください」。どうでしょうか、私たちは、イエス様の救いに与って、パブテスマを受けて水から上がった時に、感謝感激喜びに…。それが年をとる毎に、薄皮を剥ぐごとく、薄く薄くなって、救いの喜びが今ではあるかないか分からない。「救の喜びをわたしに返して」いただきたい。これが私たちの救いの原点です。そして「自由の霊をもって、わたしをささえ」、神の霊、自由の霊を与えられ、神様の中に自分を置くことができる。イエス様は、私たちを自由にするために罪から解放してくださいました。また、「神の霊のある所は自由がある」(Ⅱコリント3:17)と語っています。自由の霊というのは、神様の御心に全く従う霊です。従うというのはなんだか不自由な様に思います。自分が他の人に振り回されて、他の人の言いなりにならなくてはいけない、これは自由じゃないだろうと思います。

ところが、人は自分自身の欲望に振り回されますから自由ではありません。しかし、神様の御心に委ねて、従って行く所に、本当の自由な生涯がある。私たちが神様に従わない間は、本当の自由はない。自由と言うと自分の好きなことが自由自在にできそうに思いますが、それは自由ではありません。本来、私たちは思い通りなどできません。自由にしたいことができるのだったら、思い煩うことはいらない。できない、不自由な中に絶えずいます。しかし、神様の御心に、自分を沿わせていく時に、真に自由な生き方ができるのです。私たちを神の御霊が導いてくださる時に、そこに自由があるからです。ダビデは11節から12節に悔い改めた苦い砕けた魂をもって神様を求めています。このダビデの祈りを絶えず自分の祈りとして、神様の前に正しい道へ導いていただきたいと思います。

16節以下に「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしがささげてもあなたは喜ばれないでしょう。17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。16節に「いけにえ」、「燔祭」を神様は喜ばれない、好まれないとあります。この「いけにえ、燔祭」は祭壇を築いて、罪の贖いとして、牡牛や子羊や或いはそういう動物を捧げて神様を礼拝する行為を表しています。神様はそんなことを喜ばれる方ではない。神様の受けられるいけにえは「砕けた魂」です。ダビデが歌った様に、「私は不義の中に生まれ、母は罪のうちに私を身ごもり、私は罪人のかしらです。どうぞこの私の罪を清めて、あなたの霊を私に与えてください」という、この砕けた思いを神様は喜んでくださいます。神様は、そういう私たちの砕けた悔いた心を決しておろそかになさいません。ダビデが「あなたに向かって罪を犯しました」と悔い改めた時に、神様は「わたしもあなたの罪を赦しました」と。今もイエス様は、父なる神様の右に座して、ご自身の血を携えて、私たちが捧げる悔い改めの祈りを喜んで執り成してくださいます。どうぞ「今日も主の赦しを受けて、新しい自由の霊を私に満たしてくださっているから、神様に従います」と、主の御心に従う生活を全うしていきたい。一回だけじゃない、これからも罪を犯すことがあるかもしれない。しかし、どんな時でも、何度でも悔い改めては、主の赦しを感謝し、救いの喜びを味わっていこうではありませんか。

こんなに度々だったら、神様は愛想をつかすだろうから、こっちから遠慮しときましょうとなったら、大変な事になります。サウル王様のような滅びに遭うかもしれない。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」この時に、神様の許しを受けることができるのですから、私たちも絶えず砕けた悔いた心を主の前に奉げて、主の許しを確信して、喜びと感謝をもって生きようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。