いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(520)「福音の原液を飲む」

2015年05月31日 | 聖書からのメッセージ

マタイによる福音書」28章16節から20節までを朗読。

 

 20節「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

 

 イエス様は十字架にお掛りになられた後、墓に葬られ、三日目の朝よみがえられました。それから40日間にわたって、ご自身の甦りを多くの人々に証ししてくださって、その後、イエス様は天にお帰りになりました。

 

 16節に「イエスが彼らに行くように命じられた山に登った」とあるように、弟子たちはそこに集まりました。そのときイエス様は彼らの見ている前で天に携え上げられて行ったわけです。そのことが「使徒行伝」の初めにも語られています。そのとき、最後に言われたお言葉が18節以下です。「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ』」と。イエス様は弟子たちにこれからの歩みを語っておられます。この言葉を『大宣教命令』というようにくくって取り上げる方もいますが、そのように力み返ることはないのでありまして、イエス様の救いを多くの人々に伝えなさい、ということに他なりません。最後の20節に「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と語っておられます。イエス様が私たちと共にいてくださる。これが私たちに与えられた福音、喜びのおとずれであります。クリスマスを通して神様が証ししてくださった神様の祝福と恵みは幾つかありますが、その中の大切な一つは、「インマヌエルと呼ばれるであろう」(マタイ 1:23)と、ヨセフに語られた御使いの言葉にあります。またイザヤの預言の書にあるように、「おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(7:14)という、「インマヌエル」という言葉です。これは「神われらと共にいます』という意味である」とマタイは語っています。神様が私たちと共にいてくださる。これがクリスマスを通して私たちにあらわされた神様の恵みであります。いうならば、よみがえられたイエス様と言ってもいいですし、また神様と言ってももちろん構いませんが、どんなときにも私たちと共にいてくださる。これがどんな大きな祝福であるか、私たちは案外と気が付かないでおります。「イエス様が共にいるよりも、お小遣いぐらい欲しい」とか、「私をもう少し元気にしてくれたらいい」、「イエス様が共にいて、それでどういうことがあるのだ」と、そのように思いますが、私は、これこそが本当に大きな祝福と恵みであると思います。

 

というのは、かつてはそんなことを想像することすらできなかったのです。神様は天地万物の創造者であり、いと高き所に居給う御方、清い御方、聖なる御方でいらっしゃいます。それに対して私たちは、被造物、造られたものにすぎません。私たちが神様に近づくことすら許されないのです。日本にもいろいろな神々と称するものがあります。主に神道(しんとう)の神社がありますが、そこですら人は神様に直接触れることができない、いわゆる「神域」、神様の住まわれる所、そういう形で必ず人々の日常生活が営まれる場所とは全く違う場所が必ず取り分けられているのです。そもそも神様に対しての一般的な理解の仕方にそういうところがあります。

 

近くに『護国神社』というのがあります。周囲にマンションであるとか、あるいは商業地域があって、車が頻繁(ひんぱん)に走っているような、どちらかというと、町のど真ん中です。ただ、その神社のある一角だけは鬱蒼(うっそう)とした大きな木々に覆われています。なかなか近寄り難い。ちょっとのぞいてみようか、という雰囲気ではない。大きな鳥居があり、玉砂利が敷いてあって、なんだか人を寄せ付けない感じです。私はほとんど入ったことはありませんが、あるとき、意を決しまして、「どうなっているのだろう」と思って、入ってみたのです。囲われた境内は見事にきれいに整備されていて、外周の道路は頻繁に車が通るのですが、敷地内は静寂そのものです。そして大きな樹があり、鬱蒼としていますから、空気が違います。“何事のおはしますかは しらねどもかたじけなさに涙こぼるる”という伊勢神宮で詠った西行の歌がありますが、他の場所とは違うものがあります。そこに入って行くには、入り口で手を洗う。そして口もすすぐ。そのように体を清めなければ入られないという考え方があります。「畏れ多くも神様に近づくのに、こんな自分でいいかしら」と、それが実に自然な人の感覚です。神様という御方に近づくのに私はふさわしくない、と多くの人々は思うのです。だから、神様はできるだけ祀(まつ)り上げて、「あんたは神様」というわけで、自分たちの生活に密着してもらいたくない。でも無いと困るから、ある程度の距離を神様との間にとっておくのが、古来日本人の中にしみ込んだ人と神との関わり方です。だから、家の中にも神棚を置きますが、できるだけ目に付かない所、鴨居の上ぐらいです。というのは、そこは日常生活でほとんど目に付かない。何か用事があるとき、ふと見上げたら「神棚がある」と、必要な時だけ見ればいい。だから祀り上げているのです。そのような神様とのあり方が人の思いにある。神様に対する恐れ、そういうものがありますから、神様の前に気安く、「ねぇ、神様」というように、呼び掛けることははばかられる。威儀を正して、かみしもでも着て、神様の前に直立不動で立たなければいけないというぐらいの雰囲気です。私はその神社を見て、「神様に対する人の思いにはこういう思いがあるのかな」と。聖なるものと俗なるものを区別する。神社の境内を出ますと、そこは別世界です。そういう二つの世界の中で人は常に生きているのです。神様に対する思いは、あまり普段の生活の中で密着することができない。普段の生活の有りのままでは神様の前にはばかられて出て行けない。それどころか、神様からとんでもない罰を被(こうむ)るに違いない。だから威儀を正して、できるだけ神様のご機嫌を損なわないように大切にしなければいけないというのが日本人の神様に対する一般的な考えです。

 

それは日本人ばかりでなくて、聖書の中でもそうであります。そもそも神様が人と共に生きることはできない。そもそも、という言い方は語弊がありますが、本来、人は神と共に生きたものです。聖書はそれを語っています。創世の初め、人が神様によって創(つく)られたとき、私たちは神に似たものとして創られて、神と共にある者としてエデンの園に置かれたのです。神様のいのちによって、人は生きる関係に置かれていたのです。だから、神様と同じではないけれども、神様よりちょっと低いものとして創ってくださった。他の被造物、動物であろうと何であろうと、そんなものとは比べ物にならない、神に近いものとして人をお創りになったと語られています。ところが、人が罪を犯して神様から呪われた存在となり、エデンの園を追放され、永遠の滅びに定められてしまったのです。ところが、神様はそういう私たちを憐れんでくださって、何としてもその罪を赦したいと切に願い、そればかりか、神様は私たちを愛してくださったのです。「愛」の一つのあらわれ方は、共にいることです。神様が「人を愛してやまないから、そのものと共におりたい」と。人であっても同じです。愛する人と別れておりたいとは思わないでしょう。愛する人とはできるだけ長い時間一緒におりたい。愛が冷えたら離れていたい。夫婦でもそうです。だから、愛する人とはいつも共におりたいという感情といいますか、思いは愛の一つの姿であります。だから、神様は私たちを愛しているゆえに、私たちを切に求めて、どんなときにも共にいてほしいと神様は願っていらっしゃる。ところが、人が罪を犯したゆえに共におることができなくなった。その結果、神様は私たちに呪いを掛け、懲らしめ、罰を与える怖い御方、裁きをなさる御方だと恐れを抱くようになったのです。だから“触らぬ神に祟(たた)りなし”と、「神様とはできるだけ関係をもたないほうがいい」、「変なことをしたら、どんなことをされるか分からん」という、不信感、神様に対する敵対心、敵意といいますか、ある意味での神様との間に「隔ての中垣」(エペソ 2:14)が出来てしまった。神様と私たちとを妨げる厚い壁ができて、越えられない関係になったのです。だからといって、人は神様を忘れたわけではないけれども、裁き主としての神様でしかなかったのです。それに対して、神様はご自分のかたちにまで尊い者として造った私たちを大切に思って、惜しんでくださった。そして、何とかして敵意という、神様に対しての怒り、憤り、あるいは神様が置かれた呪いを取り除く道を神様は備えてくださった。これがクリスマスです。ですから、「ヨハネによる福音書」の初めに語られているように「(ことば)は神と共にあった。言は神であった」(1:1)と、まさに神のひとり子でいらっしゃるイエス・キリスト、神なる御方が人となってこの世に下ってくださる。これはまことに破天荒といいますか、想像を超えた出来事であります。神様がご自分の側から、罪に汚れた、到底神様と共におることのできない私たちの所に来てくださった。神様に近づくことは、私たちに到底許されなかったのです。

 

 「出エジプト記」を読みますと、モーセがシナイ山で神様から律法を頂くために40日間山に登りました。そのとき、シナイ山に神様がとどまって、「その山に近づいてはいけない」と命じられました。人間や動物すらも、誰一人ある一定の区間から中に入ってはいけない(出エジプト 19:12)。入るとどうなるかと? 即座に殺されるという厳しい神様の定めがありました。それ程、神と人というのは、到底交わることができない関係だった。ところが、神様はその交わることのできない関係を乗り越えようとしてくださったのです。そのために神様は一つの実例としてイスラエルという民を選び創ってくださいました。アブラハムを選んで、その子孫を神の民、イスラエルとしてくださいました。イスラエルの民は神様に選らばれた民だから、神様は彼らを愛して、共に生きてくださったのであります。しかし、それとても、限定的といいますか、ある条件の下です。神様はイスラエルの民だからといって、誰でも神様に近づけるかというと、それは許されません。だから、その一つの道として幕屋を設(もう)けて、祭司という者を定めて、祭司を通して神様に近づくことができるようにして下さった。

 

神様に近づくにあたって、人は必ず自分の罪のあがないとして犠牲を持って近づかなければならない。子羊であるとか、牛であるとか、あるいは山バトであるとか、そのことが定められたのが律法であります。律法の一つの目的は罪なる人間がどうやったら神様に近づくことができるかを定めたものです。その中には、こういうときはこうすべきだ、ああいうときはこうすべきだと細かく定められたのです。そうでないと人は神様の前に清く立つことができない、祭司の所へまいりまして、「神様の御心を知りたい」、あるいは「神様の助けを頂きたい」と願うときでも、必ず自分の罪のために供え物をして、願い事をする。その次もまた罪のために……、だから絶えず自分の罪をあがなわなければ、祭司を通して執り成してもらうことができなかったのです。それでもまだイスラエルの民は祝福と恵みの中にあったのです。そういう僅かな小さいチャンネルといいますか、つながりでありますが、神様に直接近づくことが、少なくともイスラエルの民には許されていました。そればかりでなく、神様は「あなた方と共におるよ」と、一つの証しの幕屋、神様に出会う聖所を設けてくださった。後の神殿となる幕屋を設けて、その旅路にあって、共にいてくださった。彼らがエジプトを出まして、40年間荒野を旅しますが、宿営するたびごとに“証し”の幕屋を建てるのです。そして、そこで民の願い事や、悔い改めや、様々なことを、祭司を通して神様に取り次いでいただく、執り成してもらう。そういう関係でしか神と人とは交わることができない。それも、ただにイスラエルにだけ許された特権でした。だからイスラエルの民は、自分たちは神の選びの民だと自慢しましたが、どこが他の民と違っていたかというと、まさに、祭司制、祭司という制度があって、神様に近づくことが許された民であることが大いなる特権であったのです。しかし、それとても、限りがあるといいますか、人の業ですから、どうしても完全というわけにはいかないのです。

 

 「ヘブル人への手紙」5章1節から3節までを朗読。

 

 神様が祭司という一つの制度を設けて、レビ族を神に仕える民として選んでくださいました。そして、モーセの兄弟アロンの子供たちを祭司、大祭司として神様は任命してくださったのであります。ところがここにありますように、この祭司は確かに「罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役」、人々に代わって神に仕える役を与えられてはいました。だから2節に「彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができる」と。確かに人の中から選ばれた者であり、それは人であり、私たちと同じように弱さを持っていますから、思いやることができ、私たちの願いを心から思いやって、取り次いでくださる。その意味では幸いです。ところが、逆に3節に「その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならない」と。大祭司も人間でありますから、その弱さのために自分自身の罪のあがないをまずしなければならない。そして、その次に初めて人のためにもとりなしてあげる。だから二重の手間が掛るのです。これが祭司の一つの限界だったのです。だから繰り返し、繰り返しいけにえをささげ、民のためのいけにえと同時に、自分のためにいけにえをささげなければならない。だから大変な労力であります。二倍の労力が掛る。ではその一回で済んだかというとそうではなく、死ぬまで続くのです。人と神とが共に生きることが許されない中にあって、ただ一つイスラエルの民を選び、「神が共にいます」ということを具体的に証しなさったわけであります。ところが、それはいま申し上げましたように、不完全なもの、それだけでは済まない、しかも、イスラエルの民という限られた一つの民族だけのことに終わってしまう。神様は全ての人々のあがないと救いをご計画しておられた。

 

 「ヘブル人への手紙」9章11節から14節までを朗読。

 

 11節に「キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられた」とあります。イエス様はベツレヘムの馬小屋に生まれてくださった、そのイエス様は大祭司として、神様の私たちに対するあがないを成し遂げる御方となった。神なる御方が人となって、人の世に来てくださった。そして、それは私たちが完全なあがないにあずかるため、12節に「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」と。イエス様はやがて十字架に命を奪われます。しかし、その十字架こそが祭壇にささげられた罪のあがない、いけにえであったのです。そして、神様の前に出るたびごとにささげられた動物の血によって清められた代わりに、十字架上に流されたイエス様の血潮によって、「全きあがない」、「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって」、「一度だけ聖所にはいられ」、神様の前に執り成しの祈りをしてくださる。イエス様の十字架こそが、幕屋に設けられた至聖所であり、ご自身こそが祭壇にささげられたいけにえだったのです。イエス様が十字架にご自身の肉体を裂き、血を流してくださったのは、それまで繰り返し、繰り返し日常の出来事として見てきた、牛や羊が殺されて血を流す姿が、まさにイエス様の十字架だったのです。そのことを通して人が繰り返し動物の血によって罪をあがなう必要がない。それはもう終わった。「それによって永遠のあがないを全うされたのである」とここで語られている。イエス様が十字架にお掛りになって、私たちの罪のあがないを完成してくださった。もう再び私たちは自分で罪のあがないのいけにえをささげる必要が全くない。イエス様の十字架のあがないは完全なもので、どこにも欠けた所、不足した物は何にもないのです。しかもそれはいつまでも永遠に変わらない約束です。賞味期限があるわけではありません。「二千年前にイエス様がそうやってしてくださった。今頃はだいぶ効力が無くなって来たのでは? 」、「また私たちが動物のいけにえを持って来て、神様の前にささげなければならないか」と思われますが、その必要は全くないのです。そして「永遠のあがないを全うし」、13節以下に「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」。誠にそのとおりであります。動物の死や灰をもって人の罪が清められたとするならば、ましてやイエス様の、罪無き御方の流された血と傷によって救われないものは何もない。清められないものは何一つないのであります。ただ、私たちがそのことを信じるかどうかです。イエス・キリストは私たちの罪のあがないとして、私のために既に十字架のあがないを成し遂げてくださった。もはや私たちは誰からも罪に定められることはないのです。「神は私たちを義とした」と宣言してくださったのです。それは私たちを清めて、世の終わりまで、いつまでも神と共に生きる者とするためです。神様は私たちと共に住んでくださる御方です。

 

 「イザヤ書」57章14節から16節までを朗読。

 

 15節に「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる」とあります。これは誰のことか? 勿論神様のことです。神様という御方は、「いと高く、いと上なる御方」であり、また「とこしえに住む御方」、永遠から永遠に変わらない御方、不滅なる御方でいらっしゃる。そして「聖ととなえられる」、聖なる御方です。そのような方と共に住むなど、到底ありえないように見えますが、ただ一つだけ、その後に「心砕けて、へりくだる者と共に住む」と言われます。「心砕けて、へりくだる者」、これは誰のことか? イエス・キリストを信じる者です。イエス様の十字架を信じる者です。「イエス様がこんな汚れたる私のために、滅ぼされて当然である者、何一つ善き所のない、頭から足の先まで腐敗に満ちたこんな私のために、身代わりとなって十字架に死んでくださった」と感謝する者、まさに「心砕けて、へりくだる」とは、そういう人のことです。自分は罪人であった。今もそういう者でありながらも、イエス様は私のために十字架に命を捨ててくださった。これを信じる者、まさに「心砕けて、へりくだる者」です。「私は何もできませんから……、私は何とかです」と、自己卑下(ひげ)をするという意味では決してありません。イエス様の十字架を信じる者です。だからイエス様の十字架を信じるには、自分が心砕けていないと信じられません。そうでしょう? 自分が罪人であることを認めなければ、イエス様の十字架の死がどんなに自分にとって幸いな恵みであるか、祝福であるかを味わうことができません。イエス様は罪人のために来てくださった。イエス様を信じる者はまさに、自分が罪人であることを認める人、「心砕け、へりくだる者」であります。その後に「へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす」と。私たちにいのちを与えてくださる。

 

 16節の後半に「霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ」。肉体をとって人の世に宿ってくださった救い主なる御子、イエス・キリストとして、人としてのイエス様をもはや私たちは見ることはできませんが、イエス様の代わりに聖霊、神の霊が、今私たちの内に宿ってくださる。それは「霊はわたしから出、いのちの息はわたしがつくったからだ」と。生きるいのち、神の息を私たちに絶えず注いでくださる。私たちを生きる者としてくださっている。「主が私たちと共にいます」とは、私たちがこの御方と共に生きること、キリストによって生かされることです。

 

 「マタイによる福音書」28章20節に、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。イエス様がいつも私たちと共にいてくださること、これがなければ何のための十字架であったか、意味がありません。なぜならば、イエス様が私たちと共にいてこそ、生きることができるからであります。主が「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」というのは、私たちに宿って、生きるものにしてくださる。いのちを与える源となってくださる。だから、イエス様なしでは一日たりとも生きられないのです。だから、いつもイエス様を心に覚えて、パウロがそう言ったように「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)というのは、まさにイエス様が私を今日も生きる者としていのちを与えてくださっておられるからです。主が私と共にいなかったら、死んだものと同じですから、どんなときにもイエス様から離れるわけにはいかない。またどんなときにもイエス様が共にいてくださって、私たちを顧みてくださる、支えてくださる。いのちとなり、知恵となって、また力となってくださる。「インマヌエル、神われらと共にいます」とは、神様が私を生かしてくださっているということです。

 

 先日もある方が「どうも、先生方の信仰はちょっと濃すぎる。何が何でもイエス様だ、神様だと、しょっちゅう言われる。何か私は息が苦しくなったから、しばらく失礼します」と。確かに世の中には多くのクリスチャンがいますが、これ程、福音の原液を飲んでいる人はいないと思うのです。もうちょっと薄めたほうが、3倍か10倍くらいに薄めたほうが飲み心地が良いという話を聞きますが、それではいのちが欠けます。だから、どんなときにも、イエス様以外にはないのです。だから、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と。私たちの信仰は命懸けです。イエス様を捨てたら私たちは死ぬのでありますから、イエス様を薄めたらいのちが薄くなるのです。いのちにもっと輝いて、濃厚なるいのちにあずかりたければ、イエス様一本にいよいよのめり込んで、イエス様オタクにならなければ駄目です。私たちにまだ余裕があって、イエス様をお飾りにして眺めている程度では、いのちは来ませんから、真剣になって「主が私と共におられます」と、主と共に生きるのだと心を定める。そうしますと、いろいろな問題、事情や境遇、事柄の中に置かれても、そこでキリストのいのちが私たちを支え、励まし、望みを与え、平安を与え、喜びを与えてくださる。このイエス様を体験しなければクリスマスは来ません。

 

 イエス様は「インマヌエル、神われらと共にいます」を具体化した方です。何と驚くことではありませんか。神様が私たちと一緒にいてくださる。私たちは神様に取りつかれた人間ですから。そうすると、「もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや」(ローマ8:31文語訳)です。神様は私たちの味方どころか、私たちの中に宿ってくださる。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。「共におる」ことが、どういうことなのか? これをしっかりと味わってください。キリストが私の全てであり、キリストが命であり、今日もその主によって生かされている。だから、朝から晩まで「キリスト」、「キリスト」ですよ。そうでなければ、私たちにはいのちが消えていきます、力を失います。

 

 「見よ、わたしは世の終りまで、いつも」、どんなときにもです。事情や境遇、問題、事柄、様々な中に日々置かれますが、どんな所にでもイエス様は私と共にいてくださる。その主を絶えず見上げて主に結び付いて生きるこの幸いを私たちのものとしておきたいと思います。これを体験したら、やめられませんよ。パウロはそう言っています、「わたしはキリストのためなら気も狂わんばかりである」と。イエス様一筋に、イエス様に結びついて、主の力、いのちによって生きて行こうではありませんか。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


5月31日 日々の聖言

2015年05月31日 | 日々の聖言

「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」使徒3:19 

 

「後悔」と「悔い改め」は違います。後悔は同じ過ちや罪を繰り返しますが、悔い改めるとは

二度と同じ事をしないように、自分の生き方の方向を変えてしまうことです。それはまた人の

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2015年05月29日 | 日々の聖言

「また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、

おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。」申命記8:13-14


「苦しいときの神頼み」と言われるように、困難や苦難に会うと、神仏を求め、なんとか

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5月28日 日々の聖言

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心にある苦しみ、痛みなど、勿論喜びですら、決して人に理解してもらえません。どんなに

言葉を尽くしても、心を伝えることは至難の業です。分かってくれないと不満を持ちますが、

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