いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(56)「私は誰のもの」

2013年11月16日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書43章1節から7節までを朗読。

1節「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」。

イザヤ書の43章は、神様の素晴しいお約束の御言葉です。約束ばかりでなく、事実このことを実現するために、神様は、尊いひとり子をこの世に遣わしてくださいました。イエス様の救いについては、いろいろな表現の仕方がありますが、その一つは、私たちをあがなう、買いとることです。そのことが1節の「恐れるな、わたしはあなたをあがなった」という御言葉です。この御言葉を心から自分のこととして信じ、感謝することができたら、これで救いは完成です。これ以外にありません。神様が私たちをあがなってくださった、買いとってくださった。買うというのは、代価を払って、品物なり何かを自分のものとする、所有権を移すことです。だから、土地や家、不動産を買いますと、所有権登記ということをします。法務局へ行き、この建物、この土地は誰のものであるかを、きちっと届出をします。これは誰々のものです、と登録が済むと、誰も奪うことができません。手を出すことができない。そうしていないと、誰かがきて勝手に家を建てたり、あるいは自分の庭だと言って、敷地に勝手にフェンスを立てて囲ってしまったら、手も足も出ません。「ちゃんとあなたは登記していましたか。届けていましたか?」「いや、それはしていません。」「していません、じゃ、これは駄目ですね。」買った以上きちんと法務局に届けて、所有者をはっきりさせなければなりません。言うならば、所有権がAさんからBさんに移ること、これが売買です。あがなうということです。これは日常の買い物から、大きなマンションを買ったり、あるいは不動産を売買したりするときと、全部同じことなのです。秋刀魚の一匹をスーパーで買うことも同じです。所有権が替わるのです。レジでお金を払ったら、金額にかかわらず、払った人のものになるのです。自分のものとして所有するところに、「あがなう」という意味があるのです。

ここで「恐れるな、わたしはあなたをあがなった」。誰がそう言っているか。それが1節の前半に「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主」と語っています。ヤコブ、イスラエルというのは、実は私たちのことでもあります。信仰によって、私たちを神の民としてくださった。だから、ヤコブ、イスラエルというのは、実はイエス様の救いにあずかった私たちであります。私たちを造り、生かしてくださる神様が、あなたをあがなっているのだよ、買いとったんだよ、あなたは、わたしのものだよ、と。では、神様は、誰から私どもを買いとってくださったのか。今まで私は誰の所有物でもない。私のものであった。私が主であって、私のもの、私の命、私の健康、私の家庭、私の仕事、私の家族、何もかも全部私のものだと、必ず名前を書いたりして、これは私のものだと思っている。そこには、神様のことを考える余地がない。私がした、私がこうなった、私が……、という世界にいますから、神様がおられるなど、そういうことは考えない。

ところが、本来は、聖書にありますように、人は先ず神様によって造られた、神様のものだったのです。神様の所有だったものが、神様の手から勝手に出て行って、そして自分のものだ、と言っている。だから、あなた方は神のものを盗んでいる、と言われます。私たちは、自分の健康だとか、自分の命であるとか、私の仕事、私の人生だ、と言っているのは、違うと言われます。神様は、それはわたしが造ったものであって、本来わたしのものであったのを、あなた方が勝手に自分のものだと言って、取っているじゃないか。神様のものを盗んで、自分のものとしている。その結果、私たちは、神様の御心、御思いから遠く離れてしまったのです。これが聖書が言うところの罪です。その意味において、誰一人罪を犯していないといえる人はいません。そういう意味で一度も罪を犯したことがない、神様のものを盗んだことがない。生まれたときから体も何もかも全部神様のものだと信じて、神様からいただいたもの、預かったものだと感謝しているという方は誰もいません。物心ついたときから、「私が、私が」と主張する。小さな2歳、3歳くらいから、私のものだと言います。

主喜君や頼行君の遊んでいる姿を見ると、主喜君は、これは僕の!僕の!と、おもちゃを二つ持って遊んでいる。頼君が側に来て一つをパッと取る。貸せばいいのに取りあげる。けんかになります。二つ持って一つはいつも横に置いている。それで遊んでるわけではない。「空いてるのだから貸しなさい」、「いやこれは僕のだ」。私達も神様に対して同じ姿勢なのです。神様が、私たちに命を与え、今日も生きる力を与え、すべての必要を備えてくださっているのに、私がしたんだ、私がしたんだ。これは誰にもやれない、誰にも貸せない、そう言って、自己中心といいますか、自分中心になっている。自分の思いのままに、使ってもない、遊んでもない、おもちゃを3つも4つも抱え込んで、「これは俺のだ」。ちょっとでも弟が触ろうものなら、パチッとたたかれてかわいそうな話です。しかし、それは誰でも同じことなのです。弟は弟でまたお兄ちゃんに貸さないこともあります。

自分の思いどおりにしたい、自分の願いどおりにしたい。神様なんか邪魔臭い。そんなものから干渉されなくてもいいと思って、生きてきたのが私たちでした。しかし、そういう私たちは、どれだけのことができたかと言うと、何もできない者です。自分でできる、できる、と思っていたのですが、年齢を重ねてきますと、いろんな事柄に限界を感じて、自分を知るようになります。「私というのはこんなに駄目なのだ」「私は、こんなに力がなかったのだ」「私はこんな穢(けが)れた者、ねじくれた者、性質の悪い人間だなぁ」と、歳を取れば取るほど感じます。その結果、どうしょうもない、というあきらめになっていきます。私はこんなだから、もう仕方がない。今度は居直って生きることになります。家族から「お母さん。歳を取ったんだから、もう少し素直になったらどうなの」と言われる。「私は生まれつきこうやからね」と居直る。「今更、この年になって変われん!」と突っ張る。それは神様を認めていないからです。自分で生きてきた、そして自分の至らなさ、あるいは欠けた者であることを、どうにもしようのない者、自分はかたくなな者であるなぁ、ということを知りながらも、どうにもそれ以外になりようがないから、袋小路に入り込んでしまって、仕方がないじゃないか、となるのが世の多くの人の晩年の過ごし方かもしれません。

ところが、神様は、そういう私たちであることをよくご承知なのです。そんなことをしていたら行き詰ると知っているから、神様は憐(あわ)れんでくださった。そして、神様が最初に人を造られたときの、神様の御目的にかなう者に造り変える、これが救いの目的です。私たちを幸せにしてやりたい。人が幸せになることは神様の目的です。人を造ってくださった神様は、私たちに素晴しい恵みを感謝し、喜び、平安に過ごして、神様をほめたたえる者となるように、神様の栄光をあらわす者として造ってくださった。神様の栄光をあらわすというのは、神様の御心にかなう者となって、生きること、存在することです。神様の栄光をあらわすというと、何か大変なことだと思いますが、そんなことではありません。今ここに(講壇の袖に置かれている花を指して)美しい花が飾られていますが、この花は神様の求められるところに従って、形といい、色合いといい、神様の思いのままにここにあるのです。花であること自体が既に、神様の業をあらわし、神様をほめたたえている。何をするとか、しないとか、あるいはそういう外にあらわれた行動、業績、この世に在って何かをやり遂げた成果を、神様は求めているのではありません。皆さん一人一人が、有りのままの姿で、神様の輝かしい栄光をあらわす姿になることを願っています。だから、「私を見てよ、神様がいらっしゃることが分かるでしよう」と言える存在になること。どこにおかれても、その人を見ていたら、「成る程、神様がいらっしゃるとは、こういう結果になるのか」と、分かるような存在。何かしないと分からないとか、あるいは、何かしたものによって分かるというのではなく、その人自身によって神様の栄光がわかる。皆さんの日々の生活そのものが、神様のわざであるという生き方、あるいは、神様の御心にかなう者となっていくこと、これが私たちに求められていることです。

今読みました1節に「恐れるな、わたしはあなたをあがなった」とあります。先に申し上げたように、私たちを神様が、御自分のものとして取り返してくださった。神様から盗んでいたものを、神様から失われていた者を、もう一度、神様が握ってくださった。そこにありますように「わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。一人一人の名前を呼んで、「あなたはわたしのものだ」、神様のものとしてくださった。皆さん一人一人に神様の名前が、所有者の名前が書いている。今まで「榎本和義」と書いてあった所に、それを消して、「神のもの・神のしもべ」と書いてくださった。神様は、私たちを神様の所有として「わたしのものだ」とおっしゃいます。神様のものですから、神様のなさるままに、自由自在に持ち運ばれるだけのことです。そこで「嫌だ」とか何とか言って、突っ張ると痛い思いをする。神様は御自由にすることができます。そう言うと「神様に勝手なことをされたら恐いな。私はどうなるかしら」と、不安や恐れがある間は、私たちが神様のものと成りきっていない。どこかでまだ自分を握っている。私たちの生活の朝から夜まで、日常生活のどれ一つとっても、神様のものでないものはない。私のものじゃない。神様が私をあがなってくださった、買いとってくださった。今、私という名前は付いているけれども、これは私じゃなくて、実は、神様のものなのだということを絶えず自覚して生きるのです。神様は御自分のものとしてあがなってくださった。言うならば、神様の家族、神様のものとしてくださったから、私たちを神様の家族にふさわしくしようとしてくださる。

放蕩(ほうとう)息子の記事が、「ルカによる福音書」15章にあります。お父さんの財産をわけてもらい、家を飛び出して、勝手な生活をして、行き詰まってしまいます。悲惨な境遇から、本心にかえって、「さぁ、お父さんの所へ帰ろう」と帰ってきました。そのときにお父さんは、彼を迎い入れて、よれよれで、ぼろぼろで汚くなって見る影もなかった弟を、我が子として抱き上げて、古いものを脱ぎ捨てさせて、新しい着物を着せました。足に靴を履かせ、そして指輪までさせて、この子は、自分の家の子供だから、息子としてふさわしい装いをさせてやったのです。召使だったら、お仕着せと言いますか、制服でもやっておけばいいのです。弟は、雇い人同様にしてください、という謙遜な思いになって帰ってきたのです。ところがお父さんは、息子を今度は自分の息子として受け入れた。その証詞が洋服を脱がして、お父さんの家にふさわしいものに造り変える、着せ替えることでした。

神様のものとなって、神様の家にふさわしい家族になるようにと、私たちを造り変えてくださる。恐らく子供を養子に受け入れる場合はそうだろうと思うのです。他所で育った子供を、自分の家の子供にしようとするときは、自分の家の仕来りや習慣、あるいはいろんな事柄を教え込んで、その家の名に恥じないように、その家の子供にふさわしいように、養父は、財も労力も費やします。あがなわれた者にふさわしく、神の家の家族となるにふさわしいように、私たちを造り変えて、町を歩いていても、「あれは神様の家の人だな」ということが分かるようにしてくださる。それが神の栄光をあらわすということです。だから、私たちが頑張って、神様の栄光をあらわすものになろうとしても、それは不可能です。何をするかというと、ただ神様のなさるままに自分を委ねることです。放蕩息子が帰ってきたら、息子はただ「お父さん、ごめんなさい」と立っているだけです。お父さんがこれを着なさいと着せてくれる。何もかも上から下まで奇麗にしてくださって、息子にふさわしい装いをさせてくださる。「お前はよく帰ってきた。それじゃ、お前はうちの息子になりたかったら、それなりの準備をちゃんとしてきなさい。それは自分で稼ぎなさい」なんて言わない。親のほうが、全部用意して、それを着せてくれる。足らなければ幾らでも出して、子供をその家にふさわしい者に変えてくれる。だから、1節に「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」と。

ですから、読んでおきたいと思いますが、コリント人への第一の手紙6章19,20節を朗読。

ここに「私たちは、もはや自分自身のものではない」、「あなたはわたしのものだ」と、神様はおっしゃいます。今までは、私のものだ、と思っていた。しかし全部神様のもの。ですから皆さん、これから誰かが「あなたの性格はこんなんだから嫌やね」と言われたら、「はい、そうです。神様がそうしてくださっている」と言えばいいのです。非難されたと思って、カッカッとなるなら、「俺のものだ。私のものだ」と思っているのです。褒められたら「私のものだ」と思ってもいい? 褒められたらそれは神様が褒められたのです。だから、褒められようと、クサされようと、カッカして頭から湯気を出す必要はない。「そんなことをして駄目ね」と言われたら、「はい、神様がそうさせていますから」と言うのです。人から非難される、あるいは忠告をされると、カーッとなって、自分が非難されたように思う。自分がけなされたように感じる。そのときは、まだ「自分のものだ」と思っている。

だから、私はいつもそう思うから、あまり腹が立たない、腹が立たないどころか、「気の毒なことだな」と思います。私を非難する人は神様を非難しているのです。神様は、必ずその人にちゃんとそれなりのことをなさるのだから、こっちがあれこれ、思い煩うことはない。嫁さんが、私のことをああ言った、こう言ったとカッカしなくていい。神様が、ちゃんと知っている。私は神様のもの。自分が持っているものを非難されたら、持ち主が怒りますよ。自転車に乗っていて、「あなたの自転車、カッコウが悪く、古いね」と言われたら、「これは私のものよ、あなた、なんてこと言うのよ」と憤慨します。しかし、自転車自体は何も言いません。なんと言われようとも、自転車は自転車ですから、ウンともスンとも言わない。でも持っている人の方が怒ります。「何で、私のものにそんなことを言うの」と。所有者が怒ってもいないのに、あなたが怒ることはいらない。あなたを所有している神様が、知っているのですから。私たちが、主のものと成りきっていくことは、なんと幸いなことでしょう。余分なエネルギーを使わなくていい。あいつがこう言った、こいつがこう言った。何か言い返してやらなければ、腹の虫が収まらないなんてことはなくなります。何を言われようと「感謝だ。神様が聴いていらっしゃる。私は主のものなのだから、欠点も、わたしの駄目な所も知り尽くした上で『わたしはあなたをあがなった』とおっしゃっている」。今更、神様が、「お前をあがなったが、ちょっと見損なったよ」と言うはずがない。

わたしたちが買い物をするときは、失敗することがあります。「しまった、選びそこなった。こんなに腐っていた」ということがあります。それだったら、私たちもあきらめなければなりません。神様は、私たちを全部知り尽くした上で、あえて選んでくださった。「コリント人への第一の手紙」にあるように、愚かな者、無きに等しい、身分の低いものをあえて選ばれた。私たちは「こんな私だから、神様に申し訳ない。神様にあがなわれたのにこんなことをしてしまって」と言う。そう言っている間は、神様のものに成りきっていない。「私にはこんな所がある。それでも神様はあがなってくださったのだから、感謝です」と言えばいい。ところが、あがなってもらったら、神様に恥をかかせないようにしなければならない。「私の性格はこんなところが悪いから今から改めて」と。改めることができるのだったら、もうとっくに改まっています。変われないから、神様のほうがあがなってくださったのです。

先だってもある方と話していたら、「先生、段々と聖書を読んで、神様に近づいてくると、自分の穢れた所、自分ができない所、自分のかたくなな所、本当にいろんなことが分かって、とうとう愛想を尽かしました。こんなんじゃもう神様の前に出るわけにはいかないなぁ、と思いました」と言う。「思いましたって、どうするの? 」「いや、だからちょっと神様に近づくまいと思います」と言う。「どうしてなの? それはあなた、聖書の読み方間違っているよ。だからこそ、買いとってくださったのですよ」。駄目だから、できないから、しょうもない者、捨てられて当然だからこそ、神様が買ってくださったのです。自分に失望することがあったら、感謝すればいい。「本当にこんな者を誰が買ってくれるだろうか。大型ゴミで捨てられて当然のような者を、神様が、ひとり子の命を代価として買ってくださったのです。私はなんて幸いな者だろう」と感謝こそすれ、いじけてすねまわる必要はない。ここが私たちの信仰の働かせどころです。

6章19節に「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって」。神様は、私たちをあがなって、聖霊、神の霊を送って、私たちのうちに住まわせている。鏡で見る自分の顔は、聖霊の宮らしくないけれども、失望しては駄目です。「こんな者に神様は、御霊を宿してくださった。私は神様の宮なんだ」。だから、どんなことがあっても、神様が、責任を持ってくださる。そして、「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」。どうぞこの言葉を心において、絶えず繰り返して自分に語ってください。私はそれで随分慰められた経験があります。人から非難されたり、いろいろと文句を言われたりしても「もはや自分自身のものではない」と。そうすると、誰のものか。私は主のものですとつながってくる。何を言われても「あの人は神様を非難している人なのだな」と思うのです。20節に「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」。神様が買いとってくださった。それだから、「自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。そう言われると、ここでちょっと力が入る。そうだったのか、よし頑張ってと。頑張らなくていいのです。これは取りも直さず、神様が、私たちを通して栄光をあらわそうとするのだから、神様の手にすっかり委ねきっていきなさい、ということです。神様がいろんなことを起こして、私達を清めて、造り変えて、御名にふさわしい装いをさせてくださるから、御心のままに任せるのです。

主喜君がこの4月に幼稚園に入園しました。幼稚園に行くには、制服が要ります。帽子も洋服もかばんも靴も全部要ります。主喜君は、自分のことだから、どこかに買いに行ったかというと、行きません。毎日遊んでばかりいる。親が一生懸命にあっちを探し、こっちを探し集めてきて、準備してやる。ある朝、目が覚めたら、自分が幼稚園に通う洋服は全部揃って、それにふさわしい者となって、幼稚園に行きます。神様が私たちに必要なものは備えていらっしゃる。幼稚園に入るにふさわしいどころが、神の御国ですよ。御国に入るにふさわしい装いをさせんとして、私たちを買いとって、汚れた所を洗って、必要な洋服を着せ、装いを整え、準備ができたら、「さぁ、入園式ですよ」と、「時」がきますから、喜んで神様の所へ入っていけるのです。神様は、そのために私たちを買いとって、神の宮として、聖霊を注いで、私たちの歩みから言葉から、生活の隅々、細々にいたるまで、神の民にふさわしい、神の性質に造り変えてくださる。今その作業中です。

その間、私たちはただ主を見上げて、主の御言葉に信頼して、従っていく以外にない。それだけしておけばいいのです。自分で、ああしよう、こうしようなどと、思わなくていい。神様が、ああせよ、こうせよといろんなことを起こされます。生活の中でいろんな問題や事柄の中におかれますから、そこで、一生懸命に主を求めて、御心に従っていくと、思いもかけない自分をさらけ出し、また自分を見出して「こんな私だった。今まで知らなかった」と、自分を知り、悔い改めては、神様の新しい命を加えられる。神様は、私たちを造り変えてくださる。そのために選ばれ召されたのです。

だからもう一度始めのイザヤ書43章1節に「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。どうぞ神様が、私たちの名を呼んで、御自分のものとしてくださっています。2節に「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない」。水の中、川の中、火の中、いろんな事柄の中を通ります。またそういう所に導かれていきます。汚れているからシャワールームに連れていって、シャワーをかけてくださいます。また、体に合うように洋服屋さんに連れていってサイズを測ってくださいます。それにふさわしく造り変えてくださる。それが川の中であり、水の中であり、火の中です。そういういろんな事柄の中で、私たち一人きりではありません。そこにあるように「わたしはあなたと共におる」と。絶えず主が、イエス様が、私たちと共に居てくださって、問題事柄の中、そこでしか味わうことができない、そこでしか知ることのできない神様の恵みを与えて下さいます。私たちを助けて、慰めるために、ただそれだけではなく、造り変えようとしてくださる。だから、悩みに遭ったとき、苦しいこと、悲しい出来事に出遭ったときに、「ここで神様は、私を新しくしようとしてくださる。神様の恵みに満たし、新しくしてくださるに違いない」と、謙遜になって、主を呼び求めて、神様の御心はいかにと祈ります。「この問題の中で、この苦しみの中で、何をしたらいいでしょうか、自分の思いではなくて、主よ、あなたの御心を」と求め続けていきさえすれば、神様は、気が付かないうちに恵みの高みへ、引き上げて下さいます。昨日と同じ今日ではなく、昨日と大違いの今日に変えてくださる。

4節以下に「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。5 恐れるな、わたしはあなたと共におる」。神様は目に入れても痛くない程に愛して、重んじて、大切な者としてくださる。そればかりではなく、どんなものをも犠牲にして惜しまないとおっしゃいます。しかも「わたしはあなたと共におる」。常に神様は、私たちと共にいてくださる。私たちの思いを、心を新しくし、また考えるところ、なすところ、語る言葉など全てを神様の子供にふさわしいものにしてくださる。7節に「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」。神様が、私たちをあがなった御目的が最後に記されています。「わが栄光のために」、神様の栄をあらわし、神様のわざ、知恵と力と恵みの豊かさ、大きさを、私たちを通して明らかにしようと願っています。そのために、私たちを仕立て直してくださいます。今その道中です。だから、これからもっともっといろんなことがあります。問題もあります、悩みもきます。

しかし、感謝しようじゃありませんか。そこを通ってこそ、穢れたものを取り除き、清められた者となり、いよいよ精錬されて純金のようになるのです。その秘けつは、問題や事柄を恐れないで、いよいよ自らを低くして、自分を主にささげて、主のものとなりきって、神様の御心を求めていく。主が導かれる所に「はい」と一つ返事で従っていくとき、私たちを栄光の姿にかえてくださいます。「時」を備えて、御国にふさわしくなって、神様の所に帰らせていただける。そのために、自分のものじゃない、これは神様のもの、あがなわれたものであることを、どんなときにも忘れてはならない。そうしていくならば、いよいよこの地上の生涯を終るときも「私を買いとってくださった方の所に帰れる」という喜びと望みが与えられます。いつまでも、自分にしがみついていては、この世に後ろ髪を引かれておしまいです。そうならないために、毎日毎日、日々「今日も主よ、私のものではありません」。「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」「もはや自分自身のものではない」。だから「神様どうぞ、あなたの力をあらわしてください」と主の力を求め、また主の導かれるところに従って行きましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。