いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(123)「信仰によって生きる」

2014年01月31日 | 聖書からのメッセージ
 ヘブル人への手紙10章32節から39節までを朗読。

 38節に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
 36節には「必要なのは、忍耐である」とありますが、信仰は、忍耐でもあります。神様の約束の言葉を、聖書の言葉を信じて、神様の業、結果が現れてくるのを待つわけです。ところが、忍耐といいますか、待つということができにくい。普段の生活でも、何かちょっとしたことを待つとき、人を待つときなどもそうですけれども、少しでも遅れるならば、随分長く待たされたと思います。

 私は家内と待ち合わせをしてショッピングのお付き合いをしますが、大抵家内は五分、十分早めに来る。私は時間通りにピタッとその時間に行けばいいと思っている。そうしますと、家内から「遅い」と言われます。遅いといっても、時計を見ると約束の時間ぴったりです。なぜ遅いかと言うと、自分が来たときよりも遅いわけです。それでどのくらい待ったかと思うと、そんなに長く待つわけではない。三分、五分ですね。五分となると随分長く待つように思います。

いつもそのように慌てるというか、常に焦(あせ)る思いがある。だから、待てない。金生家の子供たちもそうですが、おやつを食べようと置いていると、もうちゃんといすに座って待っています。お皿に入るとパッと食べようとしますから「待ちなさい!」と叱られる。ところが、なかなか待てない。三人もいますと、「待ちなさい!」と一人に言うと、こちらの子が待てない。そっちに「待ちなさい!」と言うと、こちらから手が出る。私どもも神様の前にいろいろな事が待てないのです。

信仰は忍耐です。この35節に「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」。ここに「確信」とありますが、これは信仰と読み替えても間違いはないと思います。私たちが持っている確信、「きっとこうしてくださるに違いない。神様はそのことについてちゃんと約束をしてくださった。大丈夫です!」と信じきるといいのですが、どうも焦る。よく皆さんから言われますが、殊に家族の救いを願います。これは当然のことでしょう。自分自身が救われて、本当に幸いですから、何とかこれを家族の者に、子供たちに、あるいは孫たちにも持ってもらいたい、と思います。そうしますと、一生懸命に熱心に「何とか家族を信じさせてやろう」とします。ところが、これはなかなか難しい。神様を信じるというのは、人の力で信じさせることはできない。どんなに説得して、何時間もかかって、疑問の余地のないくらいに理路整然と説明し尽くしても、信じるかと言いますと、そうはならない。信じることは、知ることとも理解することとも違います。だから、なかなか信じることにはいかない。そうなると、焦るのです。早くしてもらわないと、私のほうがぼけるかもしれないと。そう言って「何とか……」と願う。ところが、聖書には「救いは主のものである」とあります。救いは神様のなさる業だと、人間の業ではない。ここは私たちがいつも心しなければならない事です。ところが、ついそれを忘れ、また焦る。早く何とか、この子供に、この孫に、この家族のものに何とか信じてほしい。そう思って一生懸命になります。やればやる程、相手はどんどんそっぽを向いて離れていく。しかし、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)とのみことばがあります。私達はこの言葉でどれほど望みを与えられ、慰められているか分かりません。それは分かっているのですが、「私はイエス様を信じて救われているのだけれども、どうも家族が……」と、自分の責任だと思っている。時に、「先生、先に救われた者の責任として、家族を救いに導かなければならないのではないでしょうか」と言われる。そのとき「あなたが救うことができるのだったら、救ってみたらどうですか」と言う。私どもにはできないのです。よく考えてみますと、自分が救われたことを振り返ってみるとき、誰かから説得された、あるいは誰かから導かれたからではない。もっとも教会に導かれたことも、導いてくれた人がいたり、事件や事柄があったことは確かですが、ではその人によって救われたのか、というと、そうではないでしょう。確かに「前田教会に行ってみない?」と誘われた。そのときは好奇心旺盛で、「キリスト教ってどんなものか、教会ってなんだろうか、ちょっと見てやろう」というくらいで、来られたかもしれない。ところが、教会にきていると、ハッと心に教えられることがあり、そして、ここに何かあると思って、自分から求め始める。人からどうこうされたわけではない。

だからスカルという村の井戸の所で、弟子たちがお昼の食事を買いに行き、イエス様一人がおられたときに、女の人が水をくみに来た。その人はイエス様と問答をしながら、だんだんとイエス様のことを信じるようになっていきました。ついにその人は、村へ戻って「みんな、来てご覧なさい。私のことを何もかも知っている方がいらっしゃった」と言って、みんなを呼んできたのです。そしてイエス様のお話を聞いた。そうしたら、みんな信じる者になった。そのときに集まった人たちは、「あなたが言ってくれたから信じたのではなくて、私は直接イエス様に触れて信じることができた」と語っています。

誰かから誘われた、きっかけがあった。しかし、その人が救いに導いてくれたとは言えない。確かにきっかけではあるけれども、ちゃんとそこに神様が働いてくださった。直接イエス様に触れて、神様の御愛と恵みを、確かにその通りと信じたとき、私たちは救いにあずかったのです。私たちはそれを忘れる。忘れていて、家族に向かって「よし、ひとつ私が頑張ってやろう」と。これは全くおかしな話です。だから、自分のような者が救われたのだから、ましてや家族が救われないはずがない。神様がなさるならば、どのようなことでもしてくださる。神様は全てを知っている。そこを信じるかどうかです。信仰とはそこです。だから、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と言葉が与えられて、まず自分が救われることです。私は救われていると思っていますが、確かに神様の救いにあずかっているけれども、しょっちゅう信仰と不信仰の間を行ったり来たりしている。だから、自分が本当に救われているのか、まず自分自身の信仰を常に堅くしておく。「自分の救の達成に努めなさい」(ピリピ2:12)と聖書は語っています。他人様の信仰ではなくて、自分の信仰です。人にばかりにおせっかいをして、自分は信仰がないというのは困ります。だから「主イエスを信じる」のは、誰でもない、自分が信じるのです。私が本当に信じて、ただ一生懸命に神様に向かって感謝し、喜び、そして望みを持って生きる。そうしているうちに家族の者が救われる。これは神様の約束です。ところが、その約束が、見えるところで、なかなか具体化しそうにない。こんなに熱心に教会に通っているのに、家族はちっとも関心を示してくれない。一言くらい「今日はどんな話だった? 」と聞いてくれたら、少しは望みがありそうに思うが、うんともすんとも言わない。そうすると「駄目かな。いくら私が信じていても、神様は救ってくれないのか。やはり私の努力が足りない」と言って、また家族に向かって一言二言嫌味を言い始める。そうしますと問題が、ますますややこしくなってくる。私たちは何がいけないか?

ここ35節に「あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない」。私どもは確信を放棄する。確信といいますのは、御言葉を信じる心を失っていく。「あなたもあなたの家族も救われます」と約束されている。「はい、信じます」と徹底して、それを信じ続けていく。「その確信には大きな報いが伴っている」。必ずそこには結果が伴うのだ、と約束されています。

一人の姉妹がおられて、一生懸命に自分の家族の救いのことを願っています。姉妹には、長男と二人の娘さんがいらっしゃるのです。その子供さんたちが、まだ中学生、高校生、大学生くらいのとき、お母さんに付いて熱心に教会に来ていた。ところが、社会人になってだんだんと教会を離れて、お母さん独りで一生懸命に励んでいるけれども、子供たちは一向に見向きもしない。やがて結婚して家庭を持ち、ばらばらになった。そのような状態だったのです。お母さんは、そのことを気になさって、何とか家族が救われたら、かつては、あのように家族みんなで教会に来ていたのに、「何とか、先生、お祈りをしてください」と言われる。その姉妹も熱心に祈っている。「大丈夫、神様は約束してくださいますから、信じていきましょう」、「その結果はいつ出るのでしょうか」と。「いや、それは分からない。神様の中にあることです。しかし神様はちゃんと時を備えて、導いてくださるから、大丈夫。信じていきましょう」と言いました。そうしたら、姉妹が「何とか、私の目の黒いうちに結果を見せてもらいたい」。「目の黒いうち」と言ったって、あと何年? 一年、二年、五年、どうなるかそれは分からない。でも聖書には「信仰をいだいて死んだ」とあります。

ヘブル人への手紙11章13節を朗読。

13節に「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ」。そして「約束のものは受けていなかったが」、まだその結果を見なかった。見ないけれども「信仰をいだいて」この地上の生涯を終わった。その姉妹にも「聖書にこのように書いてあるでしょう。だから安心して天国に帰られたらいいですよ」と言った。そうしますと「あら、私が見ないままで終わるのですか。ちょっとそれは残念です」と言われた。なるほど、そうかな。自分本位で、自分の立場から言うと、そのような思いになる。しかし、救いにあずかる、と言うのは、神様の問題なのです。家族がイエス様を信じて、この救いにあずかってほしいと願う。その願いをズーッと探ってみると、私も幸せだからこの子たちも幸せになってほしいということもありますが、そればかりでなくて、私がこの子達を導かなければいけない。この子達の責任は私が握っている、と思っている。

救いにあずかるとは、神様とその人との関係です。親と子供との関係ではなくて、神様とその子供たち一人一人との関係。これが作り出されることが救いです。ところが、親と子、あるいは夫婦という関係の中で、信仰を何とかしようとするから、話が全然違う。そこをしっかりと知っておいていただきたい。一生懸命に主人のために、奥さんのために、あるいは子供たちのために、この子達が救いにあずかるように、努力して頑張ってと思うとき、私と主人、私と家内、私と子供たち、という関係の中で、救いを得ようとする。救いはあくまでも、神様と私、また神様と子供、神様と家内の関係でのことです。だから聖書の中に「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」(マタイ24:40)とあるように、神様の前に立つのは一人一人です。どんなに仲のよい夫婦であっても、神様に問われるのは一人一人なのです。これは厳しいことです。といって、あいまいにできることではありません。だから、家族の救いだとか、あるいは多くの人々の救いのために、何かしてやろうということ自体が、おこがましい。それは神様の領域に、私たちが踏み込んでいく。私たちにできるのは、祈りをもって執り成す、神様の憐れみを求める以外にない。「神様、どうぞ早くあの方を救ってあげてください」、そう祈る以外にありません。私が祈っているのに一向に変化がない。何か私が責任を問われているような、私が怠慢でこのようになってしまったと思っている人がいるならば、それはあまりにも高慢です。私たちは、人を救うことも助けることもできないのです。

もう一度、初めの10章35節に「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである」。私たちが今与えられている信仰、イエス様が私たちの命となって、十字架に死んで、私たちの罪を赦して、そしてよみがえってくださった主が、私と共にいて地上の生涯を導き、やがて神の御国に置いてくださる。この約束を信じて生きている。私だけが天国に行くなんて……。時にそのように言われます。

ある方が「家族が救われないと、私が先に天国に行くわけには行きません」「どうして?」「いや、私だけ天国に入って家族が地獄だと思うと、それだけでもたまらないから、他の家族が地獄に行くのだったら、私も一緒に地獄に行きます」と言われて、私はびっくりしました。「どうして地獄へ行くと決まっているの? 」「いや、まだ救われていません」「これから神様が救いなさるから」「いや、それでも私だけが行くのは申し訳ない」「そんなに行きたくないのだったら、地獄へどうぞ」と、言ったことがあります。私どもは、すぐに「私だけが救われては申し訳ない」と言う。そうではない。私たちは本来滅びて当然、救われるべき者ではないのです。失われた者を、あえて神様は憐れんで、救って下さった。だから、私の救いも誇るべきものは何もない。ただ主の一方的な憐れみと召しがあってのことです。そして、こんな私を救ってくださった神様が、皆さんよりもはるかに優れた家族を救わないはずがない。それを信じるかどうか、これが私たちの信仰です。そして、約束の言葉が具体化する時がある。そのことを信じて待ち望んでいく。

36節に「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」と。私たちがその結果を受けるために信じて待ち望んでいく。待ち望むことです。これは絶対に欠かすことのできない信仰生活の基本です。「いつまでも待てばいい、死ぬまで?」 いや死んだ先も待つのです。待ち続けるのです。神様がその時を定めている。忍耐といっても、ただじっと我慢するのではなくて、神様を信頼して、そこに安んじて待つのです。決して苦しみながら、かつてのテレビドラマの「おしん」のように、ただ忍耐、忍耐というのではなく、神様の約束を信じて、喜んで待つのです。ところが、待っているのが苦しい。聖書にそのように約束されて、信じているのだけれども、事は一向に進まない。どうしてだろうか、どうしてだろうか、いらいらカッカします。そのような時は、私たちの信仰が違った形になっている。信仰に立っての忍耐は、決して焦ることはない。またあれこれ思い煩う必要はない。必ずその時が来るからです。だから37節にハバクク書の言葉が記されていますが、「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」。「遅くあらば待つべし」と「濡滞(とどこほ)りはせじ」(ハバクク2:3b)と記されています。大丈夫、滞ることはない。言い換えますと、ストップすることはありません、と約束されている。必ず来ると。

 ルカによる福音書1章19,20節を朗読。

 これはイエス様の御降誕に先立つ出来事ですが、ザカリヤという祭司、その奥さんエリサベツとの間には子供がいませんでした。そしてザカリヤはもう老人になっていました。あるときザカリヤが神殿で、神様の前に香をたく務めをしていました。そのときに御使いが現れて、ザカリヤに「あなたの妻、エリサベツが男の子を産むでしょう」と約束をしました。そのときザカリヤは、18節に「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と。そんな馬鹿な、二人とも年を取っていて、子供が与えられるなんて、そんなことはあり得ないと思っていた。御使いが20節に「時が来れば成就するわたしの言葉」と語っています。神様の約束の言葉は、必ず実行されるのだよ。ただ、その時は神様の中にある。私たちが決めるわけにはいかない。何月何日、それは神様がなさる。しかし待ちなさい、必ずそのように成就する、実現するのだからとおっしゃいます。これは大切なことです。聖書の言葉をたくさんいただきます。約束の言葉です。み言葉によって慰められ、望みを与えられ、そして聞いたみ言葉を「きっとそのようになるに違いない」と信じますが、すぐ焦る。「まだだろうか」「もう少し? 」「いつまで待てばいいのか」「いつになったらなるのだろうか」。そうではなくて、「主が約束してくださったのですから大丈夫です」と、そこに徹底して信頼することです。それがいつであるかと問わない。神様がなさる。しかし必ず実現するのだ、実行される。だから20節に「時が来れば」と。その時は、神様が握っている。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(伝道3:1)とおっしゃいます。いつも神様が備えてくださる時を待つことが忍耐です。その時がいつであるのか、私たちは分かりません。しかし主が必ずそれをしてくださる。よみがえってくださったイエス様を信頼して、目の前の一歩一歩を、日々に御言葉に信頼して歩んでいくとき、やがて時がくると、成就する。

農家の人が作物を育てるとき、収穫をする時が決まっています。決して急いでということはできません。だから、農業をする方は、本当に忍耐強いと思う。一年に一度の収穫。稲を育てて、やがて秋口に収穫をしますが、それまで肥料をやったり、雑草を抜いたり、さまざまな手入れをし、雨風の中をあるいは暑い日盛りの中を耐え忍んで、育てていきます。なぜそんな忍耐や苦労を引き受けることができるのでしょうか。それは、必ずくる収穫の喜びを知っているからです。きっと秋になったら、収穫の時がくることを知っているから耐えられるのです。もしそれを知らなかったら、どうなるのか。分からなかったら、炎天下に草取りをしたり、肥料を入れたり、さまざまな手入れをするという、そんな努力はしません。しかしやがてくる収穫のとき、結果が現れることを知っていますから、忍耐強くそれを続けていく。だから、そのような農業に携わる方は、大変忍耐強いと思います。収穫目前にして台風にあってなぎ倒されたら、一年の労苦は水の泡です。次の収穫は一年先です。神様の手の中に自分を委ねていかなければ耐え忍ぶことができません。

だから20節に「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから」。ザカリヤは「そんな馬鹿な、いくら神様でもそんなことはできるわけはない」と思った。その途端に「あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。話すことができなくなってしまった。やがて妻エリサベツが身ごもって男の子を産むときがきました。そのとき初めてザカリヤの口が開いて、「神様は本当に素晴らしい方だ」と、神様を賛美し、褒めたたえる者になったのです。

ルカによる福音書1章43節から45節までを朗読。

45節に「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる」とあります。これが信仰です。神様が約束してくださった、神様がそのようにおっしゃった。そのことを信じて、必ずそのようになると信じた。マリヤはそうだったのです。「神には、なんでもできないことはありません」と言われて、初めて「わたしは主のはしためです」と、神様に自分をささげた。それは取りも直さず、神様のお言葉は必ずなると信じて、神様の御業に自分を委ねた。そうしたとき、マリヤは逆に大きな安心と喜びと望みに輝いたのです。そしてザカリヤの所へ訪ねて行きまして、そしてこの素晴らしい交わりを与えられた。

エリサベツが45節に「主のお語りになったことが必ず成就する」と言っています。これはクリスマスの出来事でもあります。神様は、やがて人の救いのためにひとり子をこの世に送ってくださる。エペソ人への手紙1章にありますように、神様は私たちがまだ世に生まれない先から、「天地の造られる前から」「わたしたちを選び」「愛のうちにあらかじめ定めて下さって」、そして時を定めて、ひとりの女から神の子を、救い主を送って、全ての人の救いを成就すると約束された。神様の大きな救いのプログラム、そのスケジュールの中で、2006年前、ベツレヘムの馬小屋に生まれてくださった。これは神様が人類を救ってくださる業が行われていくスケジュールの一つです。イエス様が地上に来てくださった後、私たちにまでこの福音が伝えられて、日本の名も知れない私たち、あるかないか分からないような私たちすらも、イエス様の救いにあずかって喜ぶ者と変えられている。そして皆さん一人一人が救いにあずかるときを神様が備えていてくださったのです。ですから、まだこれからも神様の大きなご計画、人類の救いのための歴史、そのようなプログラムの中に置かれている。そのような神様の一方的なご計画と御愛と恵みの中に、選ばれ、召されてきたのです。そしてそのことは、必ず成就する事です。45節に「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。私たちも一つ一つ見える状態や事柄を信じるのではなく、人の言葉を信じるのではなく、聖書にこのように約束しているから、神様はこのように備えてくださったことですからと、感謝して、信じて、そこに心を安んじ、落ち着いていく。

イザヤ書30章15節から18節までを朗読。

15節に「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。これは信仰です。落ち着いて穏やかに神様に信頼する、神様のお言葉を信じて、その時を待つ。「時が来れば成就する主のお言葉を信頼していく」「しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」と。私どもは、最初は信じます。「そうか。よし、これを信じていきましょう」と、一日、二日はいい、三日目ぐらいになると、ちょっと疑い始める。「まだだろうか」。一週間もしたら消えてしまう。そして、16節に「かえって、あなたがたは言った、『否、われわれは馬に乗って、とんで行こう』」。もっとほかの方法があるに違いない。神様だけに頼っていても仕方がない。神様もいいけれども、そればかりでは足らないかもしれない。こちらもしよう、あちらもしよう。あの人にも頼もう、この人にも頼もう、こちらの人のほうが早いかもしれない。そのような自分の力と知恵で事を計ろうとする。それがこの16節、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」ということです。ところがそれでもまだらちが明かない、事が進まない。もっと速い馬に、もっと有力な人に頼もうと、いろいろな人間的な方策をとって、やってみたところが、おじゃんになる。何もかもなくなってしまう。17節に「ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに…」。言い換えると、孤立無援になる。そのように人を頼んで、人を何とかしてやっていると、やがて大変なことになる。

最近よく「談合」についてニュースが流れます。自分の商売をうまくやろうと思って、あちらこちらと上手に早い馬に乗ってやっているから、やがて全てが駄目になるのです。ついには孤独になる。みんな逃げていきます。今まで友達であった人もみな去っていきます。今まで市長だ、県知事だといっておだてられて祭られていた人たちは、周囲の人たちがみんな散って行って、ただ一人になってしまう。結局のところ孤立無援になって、孤独になっておしまいになる。そのときに18節、「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」。しかし神様はあわれみ深い方、そのように行き詰って、もうお手上げになって、私にはどうにもできませんとなったとき、初めて神様は恵んでくださる。主に立ち返るのを待っていてくださる。私たちが忍耐する以上に、神様は私たちのことを待っていてくださる。忍耐してくださる。そして、 「あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる」。恵んでくださり、あわれみを注いでくださる。その時がくる。それを信じて待っていくこと、これが信仰です。
神様の言葉に信頼して、見えるところがどうであれ、事柄がどのようになろうとも、主がいますから大丈夫。神様が導かれることがあると、堅く信じていこうではありませんか。「主は公平の神でいらせられる」。その後に「すべて主を待ち望む者はさいわいである」。「主を待ち望む」とは、まさに「時が来れば成就する」神様の言葉に信頼して、忍耐することです。やがて必ず勝利を得させてくださいます。神様が私たちを喜ばせてくださる。私たちを楽しませて、神様を賛美し、喜び、褒めたたえる者と変えてくださる。

マリヤもそうだったのです。神様の言葉を信じて、「神には、なんでもできないことはありません」。「わたしは主のはしためです」と、主の前に自分を置いたとき、初めて彼女は、あの「どうして? 」と不安と恐れの中にあった心が一変して、安心と喜びに変わる。といって、まだ結果は見ていません。いや、それどころか、考えてみますと、マリヤは大変悲惨な生涯に陥っていく。愛するわが子が十字架に処刑される場面に立ち会わざるを得ない。そんな喜んでいる場合か、楽しんでいる場合かと思われるような悲惨な生涯。肉にあっては、マリヤほど不幸な人は居なかったかもしれない。人間的なこととしてみる限り、それは不幸です。しかし、神様の業として、彼女は神の子の母となった。素晴らしい恵みの中に置かれたのです。肉にあってはどうであれ、私たちも神様の栄光のために用いてくださる。

もう一度初めのヘブル人への手紙10章38節に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。信仰とは忍耐です。忍耐は神様の約束の言葉を信じて、その時を待つことです。必ず「濡滞(とどこほ)りはせじ」とおっしゃる。「遅くあらば待つべし」。どうぞ、私たちは焦らないで、慌てないで、早い馬に乗ろうとしないで、神様の時を待とうではありませんか。必ず実現してくださいます。そのために、祈りつつ主に信頼して、神様が備えてくださる時があり、事があり、業があると信じる。それは、苦しいことであるかもしれない。あるいはつらいことであるかもしれません。しかし霊においては大きな神様の祝福と恵みです。また神様の栄光です。そのために私たちがまず先に召され、選ばれ、この救いにあずかっている。だからこそ「わが義人は、信仰によって生きる」。神様がよしとおっしゃる、神様が喜んでくださるのは、信仰によって生きる人です。このことをはっきりと心に置いて、日々、御言葉に立って、主を信じ、待ち望んでいきましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

聖書からのメッセージ(122)「闇の中に光を」

2014年01月30日 | 聖書からのメッセージ
 イザヤ書9章1節から7節までを朗読。

 2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。
 今日からアドベント(待降節)に入ります。この季節になると、夕暮れも早くなり、だんだんと夜の時間が長くなってきます。同時に、街の中にはクリスマスのイルミネーションが輝き始める。教会でもクリスマスツリーを飾ったり、外に電飾を飾ったり、夜になるとにぎやかな彩を添えて、心うきうき楽しい時になってきます。

 この2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」とあります。確かに暗い中にいますと、不安になります。そこは決して居心地のよい所ではありません。昔は停電があって、訳もなく突然電気が消えてしまって、真っ暗闇ということがありました。ことに台風のときはそうでしたが、一瞬にして闇の中に閉ざされると不安を感じます。しばらくして停電が復旧し、明かりがつくと、「やったー」と子供のころは拍手などしました。そのように明るいことは安心です。

 先日もいろいろな話から、最近は全てのものが便利になり、また豊かになって、昔のように夢を描けなくなった、という話から、若い人に尋ねました。「あなたにとって、夢というのは何なの? 」そうしますと「さぁ、夢と……。あまりない」との返事です。日本の社会は戦前、戦中、戦後、この百年近い一世紀、あるいはそこまでいかなくても、戦後六十年を過ぎる年月を考えてみても、これほど世の中が変化した時代は、恐らく人類の歴史の中でほかになかったと思います。

思いだしますが、私は子供のころお正月に新年の新聞がくる。そのころはそれが唯一の娯楽、楽しみです。テレビはありませんし、せいぜいラジオです。ラジオで紅白歌合戦を聞きながら、その状況を巧みに想像する。ラジオで聞く紅白歌合戦は野球の実況放送のようでした。「今誰々さんが右手から出てきました」「手を振っています」とか、解説付で聞いていました。そのうちテレビが登場しました。そのような時代の流れを先取りする形で、新年の新聞には「夢を語る」という、それぞれ五部くらいに分かれて、いろいろな特別企画がある。スポーツであるとか芸能であるとか、その中に『将来の夢を語る』と題して、「鹿児島本線、電化計画立てられる」との記事がありました。よく読むといつか分からないが、将来電化されるらしい。それを聞いただけでうれしくなる。蒸気機関車で博多に行くまで、目にばい煙が入って痛かったことを思い出します。電気機関車が、戦後初めて東海道線に通った時、うらやましくて仕方がない。それが九州にもくるらしい。博多と北九州の間が初めて電化されるという時、夢が広がった。そのうちテレビが出ましたね。テレビだって、初めのころは四角で、白黒で、小さなテレビ、みなして街頭に出かけて電気屋さんの店先に飾っているものを見て、びっくりしました。こんなことってあるだろうか。今遠くでしていることが、目の前に、目で見ることができる。ラジオで耳で聞くことはできていましたが、目で見ることができる。これはすごいな!

 そのころの新聞に出ている、何十年後か分からないけれども、将来の家はどのようになっているのか? 電化された家庭という、そのころはまだ薪でご飯を炊き、七輪でおなべを温めて、井戸水をくんでという生活でしたから、電化なんて夢のまた夢です。電化されるとテレビが各家庭に一台ならず二台、三台になる。そして大きな箱型のテレビが、薄っぺらな平面になり、壁に映されて見るようになる。そのような夢を語る記事を読んで、私は「あるかいな、こんなことが」と、いくら考えても無理だろうと思いました。そうしますと、今はどうですか。平面テレビもいいところ、大きな画面で壁に掛けて見ています。私どもは幸いだったと思います。あるはずがない、出来るはずがない、と思ったことが、実現して驚きを体験することができました。

また、月に人が行くということを、子供のとき考えたことがありますか。月にはウサギがいるだけだと、そんな人が行けるはずがない。いくら考えてもそれは無理だろうと。少年雑誌に『宇宙何とか』という空想漫画があり、宇宙服などを着て、イカか何かの変形のような火星人に会いに行く。そんなものを見て笑っていた。ところがどうでしょう。月にも人が行くようになり、宇宙ステーションという、宇宙に大きな大きな建造物を造っている。国際的に協力してやっていますから、日本も参加しています。何年か後にはそこに何十人かの人が生活できるようになる。このように考えますと、あらゆるものが良くなってくるでしょう。

そのように物事が明るくなり、希望に満ちてくる時代だったのです。ところが、最近若い人に「火星に人が行くと思う? 」と尋ねたら、「それは何とかしたら行くんじゃない」と言う。夢がないのです。思いきり不可能なことを考えて尋ねてみても、若い人は「そんなのは、何とかしたらできると思うよ。十年か十五年頑張ったらできるのではないか」と、可能性の方が大きい。そうなると夢がない。夢は不可能なことを考えて、夢みるわけです。頑張ればできる。今だってしようと思えばできるけれども、ただ経費がかかるとか何とか……。そのような話になると、若い人の方がさめている。夢がないのです。新しいものに向かって夢を描いていた時代は、まだ望みがありました。世の中が明るい話題に沸いたのです。

ところが、今は、そういう意味でも希望がない、望みがない。いうならば暗い、暗い世の中です。生活の中で聞くニュースは、どれをとっても、夢を与えてくれるものがなくなった。だから、最近の新聞は新年の初夢を語らなくなりました。一方、このようなことが心配だ。あのようになるかもしれない。もう世紀末だとか、環境が破壊されていく。資源も枯渇(こかつ)してくるなどと、夢のない話ばかり。闇に覆われた時代です。しかし、周囲の状況がどうであれ、消えることのない光、まことの光がないのが問題です。

この1節に、「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」とあります。紀元前七百年代ですが、アッスリヤの王様がナフタリの地、あるいはゼブルンの地、いわゆるイスラエルを攻めてきたときがありました。それによってイスラエルを滅亡させるためではなくて、そこからもう一度希望を与えようと、神様がなさった事です。列王紀下の15章にそのことが記されています。その不幸といいますか、災難に対して、神様はイザヤを通して預言をしてくださった。それがこの2節「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」と。不可能と思える、絶望と思える中に、闇の中にある人々に、神様が新しい業をして光を与えてくださる。救いを与えてくださるというのです。また次に「暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」と。神様がその闇を追い払う力を持っていらっしゃる。

私たちは夢がない、暗い闇のような日々を送っています。だんだんと税金も高くなる。保険料も高くなる。それに引き換え、年金は先行きどうなるか分からない。いつまで続くか分からない財政状態で、日本の国家財政は何百兆円という借金を抱えている。もう破綻(はたん)しそうになっている。北海道の夕張市は市自体が破綻してしまった。そんな事、今まで想像もつかなかったことが起こっています。長生きしたら返って悲惨な目に遭いそうだから、早く死にたいけれども、死ぬに死ねない。医学が進んで死んでも生かしてくれるような時代ですから、どこにも夢がない。望みがない、安心がない。

神様は、イザヤを通してイスラエルの民に本当の救いを約束してくださった。それはアッスリヤに攻められて滅んだ町を、もう一度新しく興(おこ)してくださるばかりでなく、イスラエルの民が本当の望み、平安、喜び、光を受けることができるようになると約束をしてくださいました。その証しとして、6節に「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」。ここに「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた」と。これが後に実現したイエス様の誕生の預言です。神様は全てのものを救う、光となる、まことの光をこの世に送ってくださる。暗闇に住んでいる者、闇の中に生きている者に本当に光となるものを与えてくださる。今申し上げたように、今私たちの住んでいる社会は、夢がありません。また希望がありません。現実に次から次へと心を暗くする、思いを沈めてしまう出来事が次々と起こります。
一年を振り返ってみても、殺人の記事がなかった日があっただろうかと。あちらで遺体発見、こちらで、ついこの間も日明港で遺体が浮いていた。あるいは部屋の中に何人かの遺体が放置されていた。いつわが身になるか分かりませんが、そのような闇の中に、希望のない中に生きています。しかし、ではそこで光を得るにはどうするか。今叫ばれている社会改革、政府が計画している教育基本法を改
正したり、愛国心を育て、美しい国、日本を作ろうなど、どんな施策、政策、生活を変えることをやってみても、そこからは本当の望みとなり、喜びとなる命はない。確かに生活が良くなる、楽になることは幸いかもしれません。しかし、今申し上げましたように、豊かになって、全てのものが便利になりました。一方で、若い人たちは夢を失い、その表情は暗くなった。ただ刹那的な今の楽しみだけを求めるようになった。物が乏しくて、夢を描きながら生きた時代のほうがはるかに幸いであった。だからといって、物のない世界になったら、耐えられなくなり、みんなして滅んでしまっておしまいです。だから、生活を豊かにし、見える状態や境遇を整えてさえいけば人は幸せになる、明るくなるかと言いますと、それはならない。私たちの闇はどこにあるか。実は私たちの心なのです。私たちの心自身が暗い。「根暗」という言葉があります。根が暗いのは、性格の問題でもありましょう。しかし、どんなに根明かな人でも、決して心が晴れ晴れとして喜びに輝いているわけではない。私たちの心にある闇、それは何かを良く考えて……。自分の中にある闇は何なのか。私にとってはあの悩みが消えれば、この悩みが解消したら、あの問題が取り除かれたら、明るくなるに違いない。私の闇はそれで消える、と思います。しかし、今申し上げましたように、事情や境遇、事柄を改善することで光を得ようとしますが、そこには光がない。

自分でこれが問題だ、これが悩みだ、これさえなければと思っている事柄を、もうひとつ深く踏み込んで考えていただきたい。自分の思いをよく探っていただく。その一番奥底に罪があるのです。私たちの心は罪の闇です。その罪は、神様を離れて、神様を認めようとせず、自分が神様になっていることです。「おのれを義とする」と聖書には記されています。自分を正しいとする、そこから全ての闇が生まれてくる。自分が正しいということは、願っている通り、計画している通りでありたい。だから、自分が悩んでいる事は、よくよく考えてみると、人のために悩んでいるようであって、実は自分の悩み、自分が考えてこれが一番良いのにどうして人が分かってくれない、私はこの道が正しいと思うのに、どうしてそれがうまくいかないのだろうか、私がこうなりたいと思っているのに、どうして実現しないのだ。だから、「困った。困った」と悩む。自分のすることが何でも正しくて、自分の考えていることが何でも一番良くてという、それが罪なのです。

神様がいて、全てのことを導いてくださっていると信じられない。神様が今備えてくださっている。たとえ自分の願わないことであろうと、自分の嫌なことであろうと、自分にとって苦しいことであろうと、つらいことであろうと、自分の思いと違うことが起こっても、それは神様が備えていることと信じる。しかし、それを信じられないゆえ、不安になる。腹が立つ、つぶやく、そして人を攻撃したり、人を悪く言ったり、私たちの罪の結果がそこにあるのです。一番の闇はそこなのです。「私が正しい」と、決してそのように自覚しているのではない。しかし、私は間違っているかもしれないけれども、どう考えてもこの道のほうがいい。こうなってほしいのだ、この子供たちはこうあってほしい、家族はこうあってほしい、それなのにこうだから、ああだからとつぶやく。現実を受け入れられない。あるいは自分が受けている事を、どうしても嫌だと拒み続けているから、私たちの心に闇が絶えずあり、喜びがない。その原因は、神様がいらっしゃることを信じようとしない。それは自分が王様になろうとするからです。自分の人生であり、自分の時間であり、自分のお金であり、自分の仕事であり、自分の家族である。私が、私がと、いつもそこに心が捕われる。では自分を捨ててと、いいますが、どんなに頑張ってみても、自分で自分を変えることができません。その結果、生活のいろいろなことを喜べない、感謝できない。いつも不安と恐れと心配がある。私たちの心の闇は、まさにそこです。

その闇を、その罪を、消し去っていただくただ一つの道が、イエス様の救いです。神様は御子をこの世に遣わしてくださいました。それは暗闇の中に住んでいる者、暗黒の地に住んで闇の中を歩いている私たちのその闇を取り除くために、罪の闇を取り去るために、イエス様は人の世に来てくださった。だから、クリスマスを、イエス様の御降誕を、私たちが喜び迎えるのは、その闇を取り除くために、イエス様は十字架にかかられたからです。そして、御自分の命を捨てて、「父よ、彼らを赦し給へ」と、私たちの罪のあがないとなったのです。私たちが死ぬべきところを、イエス様が身代わりとなって死んでくださった。自分の闇とはどんなものか、自分にとって罪とは何か、そのことをよく振り返ってみたいと思います。人に何か悪いことをしたとか、あの人にこんなひどいことをしたとか、言ったとか、もちろんそれも罪の結果ではありますが、一番の根本は、神様が私たちの中心にいない。自分がいつも事柄の中心に立っている。いろいろな問題が起こりますと、私がどうするか、私が何なのか。常に「自分が、自分が」と言って、「神様が」と言えない。そのためにイエス様は十字架にかかって、罪を赦して、私たちがキリストとともに死んで、キリストと共に新しい命に生きる者と変えてくださる。イエス様が十字架に死んで、よみがえって、私の罪を赦してくださった。この赦されることを体験する。ここに光があります。

私も若いとき、非常にそのことで苦しみました。自分のことばかりがいつも心にありました。自分が正しいと、人を許せない。人を裁く。心ひそかに自分の内で、あんなことをして、あの人は駄目だ、こんなことをして、この人も駄目だ。あんなことがあるから、あいつも駄目。では誰がいいのか? 俺は立派だ。俺はいい人間だ。いつもそのような思いで見ているから、一時(ひととき)も心が休まらない。皆さんも経験があると思いますが、見るもの、聞くもの、全てがしゃくの種。あいつはいかん、こいつもいかん。誰が正しいと言って、自分以外にあるものかと、いつも思っているから、何か自分がしようとしたことが妨げられると、何でこんなことになった、どうしてこんなことに、どうして私がこんな目に遭わなければいけないと苛立ち、憤る。だから、何か事に当たったとき、「どうしてこうなったの? 何でこうなったの? どうして私だけが? 」と、問いかけているときは、気がつかないうちに、自分が神様に成り代わっている。「許せん!」と。「このようなことがどうして起こるの? 許せん!」という思いがある間、心は闇です。イエス様はそのような私のために、あの十字架に釘づけられたのです。イエス様の十字架の苦しみ、むごたらしさは、取りも直さず、私たちの罪の大きさ、罪の残酷さを証ししています。だから、十字架を見るとき、本当に私は死ぬべき者だった。神様を抜きにして、自己中心で、わがままで、自分の思いばかりで、「どうして!」「どうして!」「何でこんなこと!」と、まるでハリネズミのごとく怒りの塊になっていた。そのような私たちを、今日も主が許してくださっている。
私は、イエス様の「父よ、彼らを赦し給へ」との言葉、ルカによる福音書の十字架の御言葉をよく知っています。「父よ、彼らを赦し給へ、その爲(な)す所を知らざればなり」と。私が読んだとき、自分が許す立場になって読む。「父よ、彼らを……」「そうだ、私にあのようなひどいことを言う、神様、あの方を許してやってください。父よ、彼らを赦し給へ、彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、あの人もあんなひどいことをしている。「父よ、彼らを赦し給へ」と。自分が許す側に立っている。そのとき、自分の心に平安がない。また喜びもありません。許してやっているのだと、自分が神様になっている。ところが、あるとき、詳しいことはお話しませんが、自分が大変苦しかったのです。一時も心休まる暇がなく、あいつがいけない、こいつがいけないと、かみしもを着て突っ張って、ハリネズミのようにあちらこちらをつついていた時代。学生のころでしたが、下宿に戻って、独りになるとホッとする。人が見ていないし、人がいないから。常に人を意識し、人を見ていました。自分はまじめだと、神様を信じていると思っているから、聖書はきちっと読む。ただ読み方が違う。今申し上げたように「父よ、彼らを赦し給へ」。そうだ「父よ、彼らを赦し給へ」だ。あいつらを許さないかん、許さないかんと。で、お前はどうかと、「私は赦されなければならんような罪はない」、許すほうだと思っていた。くたびれきって、ルカによる福音書を読んでいたとき、たまたまそこが開かれた。「父よ、彼らを赦し給へ。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。今までは、自分が許す側だと思っていた。それは一瞬のことでしたが、そうではないのだ。ここでイエス様が「彼らを」と言っている、「彼ら」とは誰のことでもない「私なのだ!」。そのとき、今まで「自分が」と、突っ張っていた全ての突っ張りが消えた。そのとき肩の荷が軽くなりました。そうだった。私こそが今赦されなければならない。イエス様が十字架におかかりになったのは、誰のためでもない、私のために!それを悟ったとき、人のことをあれこれ言えなくなった。パウロがそう言っているように「わたしは、その罪人のかしらなのである」(Ⅰテモテ1:15)。自分こそが一番の罪の塊であって、神様からのろわれて、永遠に滅びるべき自分が、イエス様がこの祈りをもって、御自分の血を携えて、赦してくださっている。赦されているから、今日も災いに遭うこともなく、このように偉そうな顔をして生きている。そのことを思ったとき、うれしくて、うれしくてたまらなかった。その事を今でも新鮮に思い起こすことができます。

これが2節にあります「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」ことです。イエス様が、今日も私たちの光となって闇を取り払ってくださる。イエス様の光は、私たちの罪の闇を消し去ってくださる。これは確かです。私たちは、何を光として生きるのか。イエス様が私たちの所に光となって来てくださった。その光は、私のどのような闇を消し去ろうとして来てくださったのか。だから、そのイエス様が、私を赦して神様の御愛の中に取り込んでくださっていらっしゃる。神様が主であって、私が生きているのではない。私は赦されて、ただ主が憐れんで生かしてくださっているだけです。そうなりますと、今までしゃくの種だった、嫌な事柄だったどれもこれも、神様が「よし」とおっしゃるならば、神様が備えてくださるのでしたら、私が文句を言う筋合いのものではない。いや、それどころか、文句を言えた柄でもない。ここを私たちが徹底して、本当に赦されて生かされている私であって、そこにイエス様が、私たちを造り変えて光となってくださいました。だから、どうぞ、皆さん、今皆さんが持っているいろいろな悩み、このような病気がなければとか、このような何とかがなければと思っている、その一つ一つの中に自分がどういう思いでそれを受けているか、その事柄の中に自分がどのように立っているのか、本当にそこで神様が、主となり、イエス様が私の救い主となってくださっているのか。イエス様が救ってくださる。それは私たちの罪を消し去って、闇を消し去って、光を与えてくださる。イエス様の光に私たちが照らされて生きる者となる。これが私たちの救いです。

2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。神様は私たちをこの光の中に取り込んでくださる。輝いて生きることができる。喜んで生きることができ、感謝と命にあふれる生涯へと導きいれてくださるのです。私たちの一番の闇は、罪です。そしてその罪とは、実に身近にあります。それはいろいろな事柄を、自分本位に考える。「自分が、自分が」と。会社でもどこでも問題がある所、何が問題かと言うなら、「自分が」がいつもあるからです。こんな私がイエス様の命によってあがなわれ、赦され、そして今日も神様が私を顧(かえり)みてくださっている。その一つ一つを喜び感謝することができたら、どんなに幸いか分からない。つい、世間の人のように、あの人のように、あの子がこうだから、もう少しああなってくれたら、こうなってくれたらと不足を嘆く。そこには神様を畏(おそ)れる思いがありません。2節にあるように、今もイエス様は変わることのない光をもって、私たちを照らしてくださいます。罪の闇を取り除いて、喜びと感謝と望みにあふれた者に変えてくださる。これは確かです。どうぞ、与えられている命がどこにあるかを、はっきりとつかんで、知って、信じて、いつも光のうちを歩んでいこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

聖書からのメッセージ(121)「主に従う道」

2014年01月29日 | 聖書からのメッセージ
 マタイによる福音書16章21節から28節までを朗読。

 24節に「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。
 イエス様がピリポ・カイザリヤ地方へ弟子たちと共に出かけられた時、弟子たちに「人々は人の子をだれと言っているか」と問われました。「人の子」とは、イエス様ご自身です。ですから、イエス様は「自分のことを人々、世間の人々はどのように言っているか。私をどのようなものと見ているか? 」と訊かれたのです。弟子たちは聞いたこと、見たことなど、うわさをイエス様に伝えました。バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、かつての有名な素晴らしい預言者の再来だと、世間ではすでにイエス様が有名になっていましたから、いろいろなうわさが立っていた。それをイエス様に伝えた。その時にイエス様は、「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われたのです。弟子たちに向かって「あなたがたはわたしをだれと言うか」。弟子たちは、どのように答えたらいいか躊躇したでしょうが、シモン・ペテロは答えました。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。これは百点満点、正解です。イエス様は大変喜んで、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである」と言われ、褒めてくださった。ペテロがそのように信じたことは、「神様があなたに教えてくださったのですよ」と喜ばれました。それからペテロに「あなたはペテロ(岩という意味だそうですけれども)、その上に教会を建てよう。そして天国のかぎを授けよう」とまで言われた。

 そのすぐ後のことですが、イエス様ははじめてご自分がどのような使命でこの地上に生かされているかを語ったのです。これからエルサレムに行く、そしてそこで、長老、祭司長、律法学者たち、宗教家たちから、苦しめられ、殺され、そして三日目によみがえると話された。弟子たちにとっては、夢物語のようです。イエス様と寝食を共にして、絶えず一緒に生活をしてきた彼らでした。これから苦しみを受ける、殺されると、とんでもない話をし始めたから、びっくりして、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」。「イエスをわきへ引き寄せて」とあります。ちょっとこちらへ来てくださいと、ほかの弟子たちの前では言いにくいと思ったのでしょう。「イエス様、駄目ではないですか。そんなことを言って!」と叱ったのです。「いさめる」とはそのような意味です。その時、イエス様は振り向いて「サタンよ、引きさがれ」と。ほんのわずかな時間の経過だったと思いますが、つい先ほど「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とペテロが告白して、イエス様は喜ばれて「あなたに天国のかぎを授けよう」とまで言われたペテロです。今度は「サタン」とはっきりと名指しして言われた。「わたしの邪魔をする者だ」。イエス様の使命をくじこうとしてくる。23節に「わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。「神のことを思わないで、人のことを思っている」、これが「イエス様の邪魔をする」ことなのです。

 私たちに対してもイエス様はそのことを求めておられます。日々の生活を営んでいるときに、神様のことを思うか、人のことを思うか、この二つの間に立たせられる。右にするか、左にするか、いろいろなことで選択と決断を迫られます。その時、何を根拠にして選ぶか。何をよりどころにして、右にする、左にすると決めるか。神様のことを思うのか、あるいは人のことを思うのか。人とは自分を含めてです。自分の都合であるとか、自分の利益であるとか、自分の感情、自分と人との付き合い、あるいはそのようなしがらみを大切にして右にする、左にする、と決めるか。あるいは神様は何と言われるか、イエス様が喜んでくださる道はどれか、ただそれだけに心を向けて、たとえ自分に不利であっても、自分にとって犠牲を強いられることであろうと、これはイエス様が私に求めていることです、と選ぶのか。これが絶えず問われる事柄、また信仰の闘いは、そこにあるのです。

信仰の闘いとは、決して外側からのものではありません。もちろん、そのようなこともあります。家族の大反対を押し切って、イエス様の救いにあずかる。そのような時、文字通り外側からの闘い、家族の者が「そんな信仰はやめろ」とか、あるいは「教会に行かせん」と、そのような目に見える、物理的な障害があったこともあります。幸いに今は「信教の自由」ということで、いつでも自由に信仰を持ち続けることができます。それでも今もそのような闘いの中にいる方がたくさんいます。殊に主婦の方にとっては、家族の中で独りイエス様の救いにあずかっていると、日曜日やウィークデーの集会に出て来ようとすると、あからさまではないけれども、さまざまな妨害があり、家族から嫌みを言われるでしょう。そのようなことを言われると、私は聞きます。「先生、うちの主人はしょっちゅう私が出かけようとすると『お前だけが天国に入りたいんだな』と、そのようにすぐに言われます。それを押し切って私は出てきます」と。逆にそのような抵抗があればこそ、その方は大変恵まれる。「さあ、行ってらっしゃい、行ってらっしゃい」と、もろ手を上げて、家族から大歓迎されて出て来ると、何か拍子抜けして、教会に着くなり気が抜けてしまうかも分かりません。しかし、反対を押し切って出てくると、眠っているわけにはいかない、少しでも主人を見返してやろうと思いますから、一生懸命に熱心になって聞くことができるでしょう。神様は私たちをいろいろな中を通らせなさいますが、そのような外側からの妨げも、もちろん大きな闘いではありますが、しかし、もっと大きな闘いは、私たちの内にあるものとの闘いです。

今申し上げたように、右にするか、左にするか、進むか、とどまるか、あるいは退(しりぞ)くか、いろいろな場面で、絶えず選択と決断を迫られます。その時、人のことを思っているのか、神のことを思っているのか。これは極めてはっきりしている。中間はない。人のことも顔を立てて、神様の顔も立てて、八方美人でいくことはできない。「と人とに兼ね事(つか)ふること能(あた)はず」とあるでしょう。どちらかに決めなければならない。これは私たちの信仰の闘いです。この時、ペテロは(23節)「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、イエス様からしかられました。確かにペテロが、「めっそうもない、そんなことを言わないで」と言いました。ペテロは、ガリラヤ湖で先祖伝来やっていた漁師としての仕事を捨てて、船具も船も捨てて、この方だけにとイエス様に従って来ました。イエス様は三年半近くの公の生涯でしたから、その間しか弟子たちは一緒ではなかった。けれども彼らにしてみれば、これで生涯イエス様にくっついて行けば食いっぱぐれがない。仕事は辞めたし、ひとつイエス様、よろしくお願いしますという肉の思いです。自分の立場を考慮する思い、そのようなものが、おそらく強かったと思います。私たちの闘いもそうです。一番肝心なところになると、自分の立場、自分のメンツ、自分というものがどうしても離れられない。そこで神様よりも人のことを思う。あの人この人という周囲の人のことも思いますが、それは自分のことでもある。この時、「イエス様、めっそうもない、そんなことを言わないで」と言ったペテロは、イエス様のことを思っていたことも確かです。しかし、その思い、動機をよくよく探っていけば、結局のところ自分の立場であり、自分の生活であり、自分の何かであったのです。ですから「サタンよ、引きさがれ」としかられた。

24節に「それからイエスは弟子たちに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』」。イエス様について行くとは、イエス様の行く所について行く。私たちが行く所にイエス様をつれて回るのではありません。イエス様を信じる、信頼するとは、イエス様が先立たれる後に、私たちが僕(しもべ)となってついて行くこと。これがイエス様を信じる信仰生活です。イエス様を私の救い主と信じて、洗礼を受けて、神の子供とされた。イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださった。この「イエス様が共にいてくださる」とは、取りも直さず、私の主となってくださったイエス様に私は従っていきますという告白です。ところが、共にいてくださるから、何でもイエス様にお願いするが、別に私がイエス様について行くと言ったつもりはない、イエス様が私の行く所に来てくださればいいと言うのは大間違い。「私の行く所に、イエス様、来てください」というのではなくて、イエス様が行く所について行く。これが大切なこと、また、ともすると間違いやすい事です。イエス様が共にいてくださるとは、私たちがイエス様について行く者になりますとの告白です。イエス様が私といつも一緒にいて、時々茶飲み友達になり、話し相手になり、時には便利な道具のごとく、あれをしてくれ、これをしてくれ、私の行く所、私のすることへ何でもイエス様がついてきて、やってくれるのだと。そのような方としてではない。そうではなくて、私たちがいつも、主よ、あなたに従いますと、徹底していくことが信仰です。ここをよくよく私たちは知っておきたいし、またそのように生きることが大切です。ですからここで「だれでもわたしについてきたいと思うなら」、言い換えますと、わたしを救い主と信じるならば、わたしを主として信頼しようとするのだったら「自分を捨て」と、その通りです。従うには、自分があっては従えません。私が好きだとか嫌いだとか、私がこうしたい、したくないという、そのような自分の思いをしっかりと握っていては、なかなか人の言うことに従えない。それは日常生活でもよくあることです。ご主人が奥さんに、奥さんがご主人に、また子供にしてもそうです。その言うことを「ああ、そうね」と本当に従うためには、自分を捨てないことには、自分の考えや、自分の思いを捨ててしまわなければできません。自分をしっかり握っているのは、頑固です。かたくなになります。イエス様に従うためには、そのかたくなな思いを捨てなければ従えない。

家内の両親を見ていて、そのように思います。だんだん年を取ってくると、長年の自分の経験や、自分の生きてきた生き方、そのようなものが頑としてあるから、なかなか人には従えない。“老いては子に従え”と世間で言いますが、これは至言というか、素晴らしい言葉だと思う。逆に言うと、老いては子に従えない、ということです。だからこのような言葉が生まれてくる。従えばどんなに幸いかな、と思いますが、本人はそのようには思わない。厄介(やっかい)なのは、そこです。「お父さん、こうしたらどうですか。ここはこうしたらどうですか。このような方法がありますよ。こうしたら楽になりますよ」「いい!そんなことはせんでもいい。おれはこれまでこうした。ああした」と言い続けて、それで満足していればいいのですが、「いい!そんなことはせんでもいい。おれはこれだ」と言いながら、「こんなだから困った、もう生きている望みはない、ああ苦しい、いつまで俺は生きているのだろう」と嘆く。こちらは気の毒だから、何とか助けてやろうと思って「あれをしたら? こうもしたら? 」といろいろ言う。言うばかりでなく、犠牲も払って何とかしようとするが、それは受け付けない。その代わり、小言だけ、つぶやきだけは聞いてくれと。「おれは、もうお前たちの世話にはならん」と言うなら、泣き言も言わない。その覚悟があるといいのですが、息子や娘がいると、つい甘えたくなる。

そのことを思うとき、「老いては子に従え」、この通りだと思う。しかし、従うには自分を捨てなければならない。経験を捨て、自分の考えを捨てなければなりません。だからといって、若い人は従順だとも言えません。若い人に、「これはこうしたら」と言うと、必ず「いいえ!」とくる。誰でもそうなのです。年が若いとか、年を取っているとか、あまり関係なさそうにも思えます。

いずれにしても、私たちはイエス様に従っていく。イエス様を信じて、イエス様を救い主としてその恵みにあずかるには、ただ一つです。そこにありますように「自分を捨て」と、「自分の十字架を負うて」と繰り返しています。自分を捨てるということは、「自分の十字架を負う」こと。イエス様は私たちの罪のために十字架に死んでくださいました。イエス様の十字架を自分のものとして負っていく。「十字架を負う」と言うと、何か苦労を背負わされる、自分だけが犠牲を強いられる、それを甘んじて受けることが「十字架を負う」ことと思いやすい。しかし、ここで言っているのは、イエス様がこれから十字架にかかり、三日目によみがえる、その十字架を負いなさい、ということです。イエス様と共に十字架に死んだ者となりきる。パウロがそのように言っています。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」。私たちが死ぬところはそこしかない。ですから、ここに「自分を捨て」と、「自分の十字架を負うて」と、二つの事柄に書かれていますけれども、これは二つの言い方ではあるが、一つのことです。自分を捨てることは、イエス様の十字架に自分を釘づけてしまう以外にない。そうしないと、私どもは自分を捨てることはできません。どんなに頑張ってみましても、自分を捨てようと努力してみても、自分ではできません。だから、そこでいつもイエス様の十字架に自分を合わせていく。今日も、主が私のために命を捨てて、十字架に苦しみを受け死んでくださった。パウロがそう言うように「最早(もはや)われ生くるにあらず」と。毎日毎日、時々刻々、絶えず十字架を仰いでいく。そうしますと、人から何を言われても、どうされようと、「はい、そうですね」と本当に素直になれる。自分を十字架の死の中に絶えず置いていくことです。イエス様がどんな苦しみを受けてくださったか、それに対して私どもは、そのようなイエス様の御愛を受ける値打ちも価値もないことをよくよく振り返ってみることです。そして主との交わりに絶えず自分を置いていくとき、初めて人は自分を捨てることができる。それ以外にない。私たちが努力して、「よし、いい話を聞いた。これから年を取ったら、子供の言いなりになろう」と思ってもなれない。いくら頑張っても、努力してもそれは無理です。そうではない。何といっても自分がイエス様と共に死んだ者となることです。イエス様が今日も私のために命を捨ててくださった。絶えず主の十字架に立ち返って、自分を明け渡していく。「そうでした。イエス様、あなたが死んでくださった。そして私の罪を清めて、よみがえってくださった主が私を生かしてくださる」。これを抜きにしては命がない。十字架を外しては、命を得ることができません。だから、どんな中にあっても、「自分の十字架を負うて」とイエス様は言われる。だから、パウロは「わたしは日々死んでいるのである」(Ⅰコリント 15:31)と告白しています。毎日、私は死んだ者です。なぜなら、イエス様の十字架は、私が本来死ぬべきところだった。無きに等しい私が、今日こうして主がよみがえってくださった命をもって、死んだ者であった私が生かされている。これが、パウロの信仰の土台です。

 ガラテヤ人への手紙2章19節から21節までを朗読。

 19節以下に「わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」。このことを、毎日はっきりと自分に言い聞かせてください、「私が生きているのではない」と。これを心に握ってご覧なさい。実に自由になります。すべてのものから解放されます。私が生きているのではない、20節「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。イエス様が、私を生かしてくださっている。だから、私はイエス様に従う以外にない。イエス様に仕えて、ついて行く以外にない。その後に「しかし」とありますが、「いま肉にあって」、現実の生活の中では、確かに肉体をもって感情もある、また苦しい、つらい、暑い、寒い、いろいろなことを感じる世界に生きています。しかし、「肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰」。ここに「御子を信じる信仰」と告白していますが、これは言い換えますと、さきほどの「わたしについてきたいと思うなら」と、その言葉です。「御子を信じる信仰」、イエス様について行こうと、それによって現実の中に生きている。これが信仰によって生きる生き方です。

 マタイによる福音書16章24節に「だれでもわたしについてきたいと思うなら」、「御子を信じる信仰」によって生きようとするなら、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。イエス様に従っていく。イエス様が十字架に命を捨て、私のために死んでくださった。そのイエス様に私は従っていきます。そのとき、ある意味で、覚悟をしなければならない。人から喜ばれようとか、人に気に入られようとか、人の評判を取ろうとか、人を思う思いになると、イエス様が消えてしまう。イエス様のことを思って、十字架の死を見上げて、そこに一つとなるとき、神様のためならどのようなことでもいとわない覚悟がいります。

 ある一人の姉妹と話していたら「先生、信仰は、ある意味では腹をくくることですね」と言われた。私は一瞬ハッと教えられました。確かにそうだと思う。腹をくくる、言い換えますと、「何でもこい」、「引き受けてやろうではないか。もう私は死んだもの」と、そこまで覚悟する。そうしますと、何も怖いものはない。信仰とは、まさに自分を捨てて、イエス様の十字架に一つとなってしまうのですから、文字通り、十字架にかけられることを思うならば、人からけなされようと、どうされようと、神様のためならこれでよろしいと、ビシッと思いを定めることです。これは大切なことです。あの人がなんと言うだろうか、この人がどのように言うだろうか。このようなことをしたら、自分のメンツが立たない。自分のこれまでの評判が消えてしまうに違いない。ああだろうか、こうだろうかと、グジャグジャ悩む。悩んでいるときは、まだ余裕がある。ところが、いよいよ事が押し迫って、のっぴきならなくなったら、「よっしゃ!もう大丈夫、私が引き受ける」と、腹を決めれば、何ていうことはないけれども、それを何とか逃げられないだろうか、楽にやれないだろうか、あるいは人に喜ばれようとしたり、いろいろなことを考えている間、人は悩むのです。

エステルが王妃となりましたが、自分の民族存亡の危機にあたって、王様の前に出なければならない。おじさんのモルデカイが「あなたはそのためにこの王宮に王妃としているのではないか。ユダヤ人が今、危急存亡の真っ只中に置かれている絶体絶命、この時あなたが王様に言わなくて、誰が言うのか。もしこれであなたが黙っているのだったら、神様はほかの者を起こして、あなたは滅びだ」と言った。そのときエステルは、王様の前に出るには、王様からの招きがないと出られない。もし勝手に行ったならば殺されることが定められている。ただ、王様がその時、笏(しゃく)を伸べて許してくださればいいけれども、そうでなければ必ず殺される。王妃たりともむやみに王様の前に出るわけにはいかない。彼女は「断食して祈ってください。私はそのために祈ります」。そうして祈って、ついに彼女は「わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」と言った。イエス様に従っていく生涯、神様に信頼していく生涯は、この徹底した決断が絶えず求められる。「私が引き受ける」、そのように言い切れたら、問題はない。ところが「私はそんなのは引き受けられない。あの人に少しやってもらおう、この人にやってもらおう。こちらにも頼んでおこう。私だけがなんでこんなことをしなければならないの。不当だ ! 」と。自分のことばかりいつも考えているから弱くなる。そしていつまでも神様を信頼できない。「主がこのことを与えてくださった。それでは私が負います。たとえ自分の全財産を放り出すようなことがあっても、いいではないか。死ぬべくば死ぬべし」と、神様に下駄をあずける。それが腹をくくることです。そこまで神様にきちっと思いを定めると、必ず神様が捨てておかない。エステルもそうでした。「死ぬべくば死ぬべし」と心を決めまして、王様の前に出ました。王様はエステルを許して、「お前の求めは何か。たとえ国の半分であろうと、あなたにあげよう」とまで言われた。

神様もそうです。腹をくくって、「死ぬべくば死ぬべし。私は主よ、あなたに従います。今与えられているこの問題、この事柄、そこで私がするべきことがあるならば、どのようなことでもさせていただきます」と、自分を捨ててかかる。「主が私のために死んでくださった。もう私が生きているのではない。私は死んだもの。何を今更、きついだ何だと言っておれますか」と、そこまでピシャッと心を定めると、怖いものなしです。神様が後ろ盾となって、支えてくださいます。

列王紀下7章3節から5節までを朗読。

サマリヤの町がスリヤの大軍によって包囲されました。兵糧攻めに遭った。ねずみ一匹通れないくらいに囲まれて、とうとうサマリヤの住む人たちは、食べるものがなくなって、自分の子供を殺して食べるくらいの大変なひどい目に遭った。そのとき、四人の重い皮膚病の患者たちが、サマリヤの町の入り口にいた。彼らは普通の人たちよりも不利な立場にありました。普段は、自分で稼げないから、人様のお情けにすがって生きていた。ところが、食べるものがないから、彼らを思いやることができません。この四人は生きる術(すべ)がなかった。そのとき、四人は話し合った。3節に「われわれはどうしてここに座して死を待たねばならないのか」。サマリヤの門で物ごいしていても、誰も物をくれる者がいない。そのようなところに居ても、何ももらえず死んでしまう。4節に「われわれがもし町にはいろうといえば、町には食物が尽きているから、われわれはそこで死ぬであろう」。町に入って物ごいをしたところで、くれる人はいないから、どっちみち死んでしまう。そのあと、彼らは「いっその事、われわれはスリヤびとの陣営へ逃げて行こう」と。敵の方へ行こうではないか。もしそこで殺されても同じことだ。ここにいても死ぬのだったら、向こうにいって死んだって同じこと。向こうの方が食料があるし、その先に「もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるならば、助かるが、たといわれわれを殺しても死ぬばかりだ」。殺されてもともとなのだから、いいではないか、行ってみよう。これは信仰です。神様を信頼する、神様がどのような取り扱いをなさるか、どのように扱われようと、「私には、神様、あなた以外に頼るべき方はいない。人ではない、あなたです!」と。もし主が生かしてくださるなら、生きるであろうし、主が駄目とおっしゃったら、死ねばいい。そこまで私たちがこの四人のように心を定めるのです。ここがいつまでも定まらないから、右に行ったり左に行ったり……。楽しんでいるのかもしれませんが、苦しいですよ。いずれにしても死んでいる、私たちは。人から何と言われようと、かんと言われようと、主が「せよ」と言われるなら「はい」、主が「出せ」と言うなら、持っている物を何でも出せばいい。そこを惜しむ、あるいは自分のメンツや何かに囚われて、いつまでも踏ん切りが悪い。

このとき四人は出かけていってみると、スリヤ人の陣営は誰もいなかった。実は神様がスリヤ人の陣営に、神の御霊を送って混乱させて、彼らはとうとう逃げ出してしまった。行ってみると天幕に食料がたくさん残っている。彼らはそこでお腹一杯食べた。そのうち「待てよ。おれたちだけでこんなことをしていたら悪い。ちょっとサマリヤの人たちにも教えてやろう」と戻って、「あそこへ行ったら食料がある」と伝えた。それでみんな出てきて、スリヤの陣営の、手つかずで残っていた食料を全部持ち帰った。そうしたら、「麦粉一セアは一シケルで売られ、大麦二セアは一シケルで売られ」と、大売出しになってしまった。神様の恵みは、そのように、私どもが自分を捨ててかかっていくときに、神様が備えてくださる。そこを通った人しか分からない祝福と恵みを味わうことができるのです。

ですから、イエス様が「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。私たちは絶えずイエス様と共に、いや、イエス様に従っていく者となりたい。イエス様は私たちに先立って進んでくださいます。そこに絶えず従う。主が言われること、主が導かれること、主が「よし」と言われることですと、信仰に立って大胆に主に信頼して行こうではありませんか。主が「駄目」と言われたら、人がなんと言おうと駄目です。はっきりと出処進退を定めて、ただ神様だけを、主に喜ばれるところだけを求めて行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

聖書からのメッセージ(120)「時を知る」

2014年01月19日 | 聖書からのメッセージ

 ローマ人への手紙13章11節から14節までを朗読。

 14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。
 11節に「なお、あなたがたは時を知っているのだから」とあります。時という言葉は、聖書にしばしば出てくる言葉ですが、私たちが用いる「時」は、大抵今は何時かな、今日は何日だろうかという、暦であるとか、時計の上での時間のことを考えます。しかし、聖書の中には「時」という同じ言葉は使われますが、二つの意味が込められています。その一つは、日ごとに繰り返される「時」です。日曜日の朝の10時、礼拝が始まる「とき」は、これは繰り返してくる。朝の10時は毎日あります。これはいつ果てるともなく繰り返されます。朝になり夜になり、また朝になり夜になる。そのような「時」を考えながら生きている。今日できなかったから明日しようと、明日の何時にお会いしましょうと、また来月のこれこれの時間に、それが駄目だったから次のこの時間にと、同じ時がくると考えて生きています。時計の針を見ていますと、12時までの文字盤の上を回って、同じ所にくるから、そのような意味では、繰り返されて続いていく時です。

もう一つ大切な時があります。それは二度と返ってこない「時」です。生まれた時は返ってこない。私は昭和17年10月10日生まれですから、この「時」は戻ってきません。昭和17年という時はもう二度と返ってきません。また結婚した「とき」もそうです。結婚したその時は、それで一回限りになります。繰り返しはできない。そのように人生の中には、絶えず繰り返される時と、二度と返ってこない時という、二つの時の中に生きているのです。

 11節の「なお、あなたがたは時を知っているのだから」という、この時は繰り返される時ではなくて、二度と返ってこない時です。しかも、その時はどんどん進んですべてのものが終わりに向かっている。今私たちはどのような時に立っているのか。すべてのものに始まりがあり、終わりがあるとするならば、人生も含めて、人類の歴史、あるいは宇宙の創世から終末に至るまでのどの時期に、今きているのか? このようなことを自覚しないままに、ただ今日があり、明日があり、またあさってがある。同じことを繰り返していると思って、ただそれだけに生きているならば、気がつかないうちに大変な目に遭います。だからこの11節に「なお、あなたがたは時を知っているのだから」と言われます。それは、もっと身近に自分自身の人生に置き換えて考えてみると分かります。生まれたときから今に至るまで、60年70年80年90年の年月を生きてきました。生きてきた日々は繰り返され、繰り返されてきたのです。これからも繰り返されていくように思われるが、私たちはどんどんと、今も二度と返ることのない時間の中に生きていることの自覚が、どれほどあるか。あまりない。

 「まだ若い」、と思います。時々そのようなことを如実(にょじつ)に感じる。若くないことを教えられることがある。それは若い人と話しているとき、自分は同じレベルで、同じ年齢、同じとは言わないけれども、少し上ぐらいの気持ちで話をする。しかし、相手はえらく緊張している。そんなに緊張しなくてもいいのに……。ところが、私が二十歳前後のころ、六十歳くらいの人と話をするときに、どのように感じたかなと振り返ると、この人はだいぶ年だなと思いながら話していた。だから、相手が私を見る目は、よく生きたなぁ、という驚きの眼(まなこ)をしている。こちらは気安く話しかけるが、考えてみたら、四十年も上だなと、ふっとそのようなことを思わされます。だから、できるだけ自分の時を自覚しなければいけません。返ってくることがない時間の中に生きている。そう思ってみますと、私どもは終わりの時に向かって着実に進んでいる。

ときに古い写真を見ると、私にもこんなに若いときがあったかと思うことがあります。そういうとき、「年を取ったな、もう老い先短いな」と分かるけれども、すぐに、「まぁ、明日がある」、またこの日は繰り返されると思って、そこに逃げ込んでしまう。直面すべき現実は厳しいけれども、すぐそのように「だって、まだしばらく生きる。あの人よりも私は元気だし、この人よりも」と、同じ年代の人を見て思う。だから、年を取って同窓会が盛んになるのは、お互いにあの人より自分がどのくらい元気かを確かめ合う場ではないかと思います。だから、ちょっとでも病気をした人は出たがらない。元気な人ばかりが集まって、自分がいかに元気であるかを誇り合う会ですから、私は行かないようにしている。がっかりしますから。そのように私どもは、常に自分がまだ長く生きると思いやすい。

私たちの人生もそうですが、もっと広く言うなら、日本の社会も含めて世界が、今やイエス様の語っている終わりの時、終末の時に差し掛っていると思います。日々見聞きするニュースは、将来に展望、望みを与え、夢を与えてくれる事態や事柄があるでしょうか。つい先だっても、北朝鮮が核実験を行ったと。やがてイランも核兵器を持つでしょう。やがて世界中が核兵器を持って、考え方のおかしな指導者がそれを握ったら、一気に核戦争になるでしょう。事実、北朝鮮がその核をどう使おうと自由ですよ。いつ何時それが起こらないとも限らない。もし、今そのようなことが起こったら、世界の終わりです。一気に破滅になります。しかし、聖書にははっきりと終わりの時がくることを語っています。もちろん、それがいつ何時であると、そのようなことは言えません。「戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。また地震があるであろう」「そして人の心が冷えて愛が失われていくときがくる。それは終わりのときの前兆、しるしだ」とマタイによる福音書24章に語られています。私たちの人生も終わりに近づいていると言えますが、同時に若い人はまだ先がある。あと40年はある。先生の年になるには、30年40年は優にあると思っている。しかし、40年後があるとの保証はない。あと5年、あと10年、どれだけか分かりませんが、いつ何時どのような事態が起こって、一気に世が終わりに至ることは確かです。だからどんなものでも、初めがあるものは、必ず終わるときがきます。その終わりに対して、私たちはどうあるべきなのか、それを絶えず自覚して生きていく。

ですから、11節に「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている」。「眠りからさめるべき時」、言うならば、私たちが終わりの時を忘れて、自分の好き放題な身勝手な生き方に没頭している。それに熱中して過ごしているとき、これは眠っている状態です。「早く目を覚ましなさい」と、神様は警告しています。この世の終わりのときが近づいて、何とかして破滅を防ごうと、多くの人々が努力をしています。何とか平和を作り出そうではないかと。その努力は確かに貴重なもの、掛け替えのないものです。しかし、決してそれで平和がくるわけではありません。聖書にははっきりと終わりの時が必ずくると言われています。私たちの人生が終わるのが早いのか遅いのか、これは分かりませんが、いずれにしてもすべてのものが終わるときがくる。それをいくら防ごうと、人の力で努力しても、これは防げない。神様が裁くべき時がくる。では、その中にあって、終わりがくるからどうにもしようがない。やけになって、自暴自棄になって、後は野となれ山となれ、私は好き放題にしますと、それでいいのか。その終わりの時、終わりのラッパの響きと共にイエス様が、神の右に座し給う主が、再びこの世に来てくださる。それは何のために? 裁き主として、すべてものを裁くために再び来ると言います。イエス様がすべての業を裁くために来られる。私たちはその終わりの時に備えておくのです。そのことを自覚して、絶えず、いつどのようなときに主が来られても、終わりの時が来ようとも、大丈夫、と言えるように、今与えられている信仰を確かなものとしておくこと。これが「眠りからさめるべき時」です。自分の日々の生き方、あり方を、そのような終わりの時を知って、そこから振り返って、今私の生き方はこれでいいと言えるかどうか。ここを絶えず考えていかなければ、今というときをどう生きていいのか分かりません。いつも終わりの時をはっきりと知ることです。

40年ぐらい前ですが、学生時代に「実存主義」という哲学がもてはやされました。サルトルというフランスの哲学者がいましたが、彼が実存主義のさきがけでもあります。何を言ったかといいますと、すべてのものが必ず終わる。終わってその先があると考えては駄目です。これが実存主義、今あるということが大切。終わった先がないというのが、彼らの言い方なのですが、逆にそこから教えられることがある。彼らは終わるときが来て、その後が無くなるのだから、その終わりをしっかりと見据えて、それを自覚して、今生きていることを大切にしなさいという。終わってからあとのことは心配するな、無いのだから、終わることを自覚して今を生きる、そこに存在していることをしっかりと考えて生きなさい、という哲学です。私はある時期、それにかぶれまして、しばらくそのように思ったことがあったのですが、この哲学から私が教えられたことは、終わりをしっかりと知った上で、今を考えていく。この考え方は正しいと思います。私たちは終わることを考えたくない。終わるときを考えるのはやめとこう、目隠ししておいて、今だけを楽しもうとしやすい。それでは本当に今という時を生きることができない。それは正しい考え方です。

だから、イエス様がそう言われる様に「すべてのものは終わるときがきて、その日その時はだれも知らない」、「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」(マタイ25:13)と。イエス様は十人のおとめの例えを語っています。花婿を迎えに行った五人は思慮深い者たち、ほかの五人は思慮の浅い者でした。花婿が来るのが遅れたために、みな居眠りをしてしまった。突然、花婿が来ましたと言われて、大慌てで、ともし火を明るくした。油が切れた人たちは買いに行きましたが、戻って来たときには、もう扉が閉められていた。

イエス様が私たちに求めているのは、しっかりと自らの終わりのときを自覚して、それに対してどう今日を生きるべきか。いつだか分からないけれども、その終わりの時を知った上で、「今」を振り返ってくるとき、はじめて人は真剣な生き方ができる。それなくして人は真剣に生きることはできない。終わることがあることを知らなければ、今、命が与えられて地上に生きる者とされている喜び、その使命、その大切さがはっきりしてこない。そのうちに終わるかも知らないけれども、それはもう考えまい、今を楽しもうという考え方は、決して内容がある、充実した生き方にはつながらない。

12節以下に「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。13 そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて」と。「やみのわざ」、それを更に言い換えて「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて」とあります。今申し上げたように、終わりの時をはっきりと自覚して、今という時がどういう時であるかを知って、生きることをしなければ、まさに「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみ」に満ちた、世の中の姿です。そのような中にあって、私たちに救いを全うしてくださるイエス様の救いがきていることを知らなければならない。だから、この終末は、クリスチャンにとっては本来勝利の時なのです。世が終わるときに、私たちの信仰が具体化する。今、私たちは主の約束を信じて生きています。イエス様が十字架に命を捨てて、私たちの罪のあがないとなってくださいました。私たちを神の子供としてくださいました。しかしこの地上にある限り、肉体を持って生きているから、どこにも神の子らしい姿も形も見えません。しかし、神の子としてくださったと、聖書に神様は約束していますから、その約束を信じて生きている。その約束は、いつまでも約束のままで具体化することがないわけではない。

人との約束でも、約束は必ず具体化します。来週の何日には、秋になったから紅葉でも見に行きましょう。そのためには何時の列車に乗ってどうしましょうと約束をする。そうするとそれに向かって、自分のスケジュールを調整する。旅行に行くから、あの人との約束は断っておこう。このことは先に延ばそうと、そのように準備をしている間は、約束は約束であって、まだ実現はしていない。実現はしていないが、それに向かって備えをしていきます。これが目を覚まして生きることでしょう。約束しているが、実現するかどうか分からない。その日になってみなければ分からないからと、何にも準備もしないで、当日の朝になって「今日は、あなたといくのだけれども大丈夫? 」「え!あれは本当の話だったの?」と、そのようになったら大変です。旅行ぐらいはキャンセルしてもいいけれども、人生、あるいはこの世の終わりの時に、そんなこと知らなかった、いや、聴いてはいたが、まさか、そうなるとは、あれ本当だったの? と。私たちも信仰によって今は神の子とされています。そうだったら、神の子として具体化される時はいつか? それは世が終わる時です。すべてのものが、その眠りから呼び覚まされて神様の前に立つ時がくる。そして、神の子として、主が約束してくださったように、「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」(ヨハネによる福音書14:2、3)。イエス様は迎えに来ると言われました。そして「わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と。私たちを共におらせるためと約束されています。イエス様と永遠に続く住まいへ、永遠の家に、引き入れてくださる時はいつであるか? それは世が終わる時です。ですから、「主イエスよ、きたりませ」(黙示録22:20)、これは私たちの祈りと願いです。早くすべての世が終わって、約束された信仰が具体化される時を、私たちは待ち望みます。

ヨハネの黙示録22章18節から20節までを朗読。

この20節に「しかり、わたしはすぐに来る」。主が再び来てくださるとき、それはいつであるか分からないけれども、しかし、そう長くはない。それどころか主は「わたしはすぐに来る」と言われる。それに対して、私たちは「おお主よ、もうしばらく待ってください。遅くしてください」と言うのでしょうか。そうではない、私たちにとって、この地上が終わって、すべての世が消え去って新天新地、新しいエルサレムが創り出され、そこへ入れていただけるならば、これにこした大きな幸いはない。そこまでイエス様の救いを確信しているでしょうか。イエス様が「わたしはすぐに来る」と言われて、「え!もうそんなに早くいらっしゃるのですか。もうちょっとお待ちください。私はまだ用意ができておりません」。あれもしたい、これもしたい。これも楽しみたい、ああしたい、こうしたいとそんなことばかりやっていて、眠りこけていて、アッと気がついてみたら、イエス様がそばに来ている。そうなってはならないと警告されている。終わりの時を知っているのだから、「わたしは速やかに来る」、「そうです。主よ。速やかに来たりたまえ」。これがクリスチャンの祈りです。そのような思いで生きているでしょうか。明日この地上の一切のものが消え去るとき、終わりのラッパと共に天から主が再びこの地上に来てくださるときに「待っていました!イエス様、来てくださったのですね」と飛び出して行けるのか、あるいは「これは困った、急がなければ・・・」と、どちらに私たちは今立っているのか。

この年も、いよいよ終わろうとしています。カレンダーで12月31日があることを常に見ていながらも、「あら、もう12月なの? これはえらいことや。私は何もしないうちに過ぎてしまった。夢のようだったね」と、そのような状態で、ましてや世の終わりの時をどれだけ自覚しているか、と問われます。誠に心もとない状態です。どうぞ、「今は恵みのとき」、幸い、今日、このみ言葉に出会うことができたのは、大きな恵みです。

ですから、ローマ人への手紙13章12節に「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。13 そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」。これは、今という時をどのように生きるべきか。自分の欲望や、自分の感情や、自分の好き嫌いに任せて、今という時をわがままな自己本位に生きるのではなくて、イエス様の救いの約束、信仰に立ち返って、日々にイエス様の姿、形に似る者とされるように、生活の一コマ一コマ、一つ一つの業の中に、絶えずキリストと共に生きることを努めていく。これが私たちに求められていることです。

マタイによる福音書24章32節から39節までを朗読。

ここにいちじくの木の例えをイエス様が語っています。冬枯れになって、今は木々が葉を落とします。全く冬の景色にですが、やがて春先になりますと、木々が芽吹いてきます。吹く風はまだ冷たくても、春が近いな、と一つの予兆と言いますか、印(しるし)を見て、これから起こってくる事を期待し、喜びます。そのように、この時代の印を見ること、今の時代がどういう時代であるか、イエス様はそのことを語っている。そして、終わりのとき、36節に「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」。父なる神様が、その終わりのときを定めているから、私たちはうろたえ騒ぎまわることはいらない。時にそのようなことを言う人がいます。もう後何日で世の終わりのときがくる。そう言って人の不安をあおる人たちもいますが、そういうのは信じてはならない。確かに終わるときがきますが、それは、決して不幸な出来事としてではなくて、私たちの信仰が具体化して、神の子としての内実が具体化するときです。

そのことをイエス様は、ノアを例に挙げて語っています。ノアという人はまことに神様を畏(おそ)れる義人でした。しかし彼の時代は大変暴虐(ぼうぎゃく)に満ち、悪に満ちた時代であったと記されています。神様は人を造られたことを悔やまれたと、言われています。そして、それまで人間は長い年月生きる者であったのを、神様は人の生きる年齢は百二十年と定められました。だから今でもいくら人間が長生きしても百二十年で終わりなのです。もっとも、私たちは罪の結果、それまでに死ぬようになっています。しかし、寿命が短くなったとしても、イエス様の救いにあずかるとき、今度は喜びに変わります。地上の苦しみを長く味あわなくて済むのですから、こんな幸いなことはありません。

私どもの周囲のいろいろな方々の中には、長生きして苦しんでいる。家内の父もそうです。もう九十一歳を迎えようとしている。毎日、青息吐息です。それで死にたい、死にたいという。それを聴くだけでも胸が痛くなります。自分は死にたいと言いながら、生きなければならない。これほど苦しいことはないでしょう。それだったら、もうちょっと早めに何かほかの病気で死んだ方がいいかなと、ついそのようなことを考えます。長生きして、イエス様の救いにあずかって、罪を赦され生かされている喜びと、感謝を持って生きるのだったら、どんなに幸いか分からない。たとえ寝たきりであろうと、あるいは記憶を失うような事態になっても、神様の救いに入れられている生涯は幸いです。しかし、そうでない人生だったら、これはもう早く消えたほうが余程楽になります。私たちはそのような悪の時代の中に生きている。

ノアの時代の人々は、神様を畏れず自分勝手なわがままな生活、38節に「すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた」。自分たちの生活を楽しんで、遊んで暮らして、神様を畏れないで生きていました。ところが、神様はノアに箱舟を造ることをお命じになった。そのとき「ノアはすべて神の命じられたようにした」とあります。時代に流されず、多くの人々が自分の楽しみを求めている中で、黙々とノアは神様に従う道を歩み続けた。「箱舟を造る」というのは、自分自身の救いを獲得していく。じっとしていたのではない。そのために努力したのです。今、私たちは入るべき箱舟がある。それはイエス・キリストの十字架です。イエス様の十字架が私たちの罪のあがないとなっている。そして主は死んでよみがえって、私たちと共にいてくださる。やがて終わりの時、その十字架のいさおしによって、滅びを免れて永遠の御国へと移していただける。そうなるために、今というとき、箱舟をしっかりと造る。言い換えますと、イエス様の十字架のあがないを、ただ題目として、頭に知っていることとしてではなくて、事実、自分のものとして、私たちの心の内によみがえり給うたキリストを着るものとなっていくこと。言うならば、ノアが箱舟を造るのに何年掛かったか分かりませんが、山から木を切り出して、製材して、そして自分の仕事も放ったらかして、家族も養わないで、ひたすらにあの箱舟を造った。周囲の人たちには気違いだとか何とか、あいつはおかしいとかいろいろなことを言われたでしょう。しかし彼はものともしないで、ひたすらに神様の約束を信じて、箱舟を造り続ける。今、私たちがしなければならないのは、その箱舟を造ることです。確かにイエス様が二千年前にあのゴルゴダの丘で十字架におかかりになられて、私たちの罪のあがないとなってくださった。次に、私はどのようにその十字架についていくだろうか。よみがえってくださった主と共に生きているだろうか。言うならば、箱舟を完成させる使命が与えられている。今、生きる目的は何かと言うと、イエス様の救いを自分のものとして、どこをたたいてもキリストのものです、と言える者になること。

ローマ人への手紙13章13節に「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」。世のことに心を奪われ、思いを支配され、世に流されて生きるのではなくて、はっきりといつもイエス・キリストを、よみがえってくださった主を、前に置き、右に置いて、主に結びついていくために絶えず努力する。これが私たちに今与えられている恵みの時です。14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」。イエス様を着かけて、片手は入っているけれども、まだ片方が入ってないと、足まではいたけれど、まだ上着まで着てなかったら、外に出られません。早くしっかりとイエス様を着る者となって、イエス様に私たちを全部明け渡して、主の御思いに一つとなることを努めていく。それは毎日の生活の選択と決断、日々歩む中で主はどう願っていらっしゃるか、御霊は何とおっしゃっているか、キリストの霊に明け渡していくこと。私たちは、ある部分はイエス様に、これはイエス様にしかできない、けれどもこれだけはと、イエス様と言いながら、どこかでまだここは私がと、握っているところがある。この部屋はイエス様に見せよう。この部屋は私だけに、ここは主人と私、ここは私と子供たち、とそのようなまだらな状態では駄目です。右手はイエス様に従っているけれども、左手は私がやっている。そのような状態が、眠っている状態です。眠りから覚めて、どんなところでも、主を主としてイエス様のお言葉に従い、つつましく主を求めて生きる者でありたい。熱心になって、主を求めて、主の御思いに、私たちの心も手も口も聞くことも何もかも一切が主のものとなりきっていく。 

それが14節の「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」という事です。イエス様を自分のものとして、主を主として、全身全霊一切をイエス様のものになりきって欲しい。その思いが「イエス・キリストを着なさい」という言葉です。調子よくイエス様に倣(なら)いなさいとか、イエス様の求めるところに従いなさいという、そんな生ちょろいことではない。「キリストを着なさい!」。どうでしょうか。私どもは本当にそれだけ真剣になって、イエス様を求めて、自分の生活を、ここにも主がいらっしゃった、このことにも主がいらっしゃった、このことにも私は主に従った、と言えることばかりなりたいと思います。ここは従ったけれども、ここはちょっと私がした。ここは家内が言うから仕方がない、こちらにしとこうと、そのような生き方では、やがての時に主の前に立つことができない。

14節に「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。「肉の欲」、人の世のさまざまな事柄があります。人がどうした、こうした。あるいは自分がどうしたい、こうしたいとか、いろいろなことがあります。そのようなことを離れて、ただキリストのみ、主を追い求めていく日々でありたい。そうでなければ終わりの時立ち得ない。やがて終わりの時がくる、その時をしっかりと自覚して、今、与えられているこの恵みのときを、全力を尽くして主を追い求め、主のものとなりきっていく。あのノアが箱舟に入ったように、私たちも箱舟に入ることができるように。入りきってしまうとき、箱舟の扉が閉ざされる。外から神様が閉ざしてくださる。やがて一瞬にして大水があふれ、天が開け、地の水源が開けて、大洪水の中に多くの人々がアッという間に死んでいく。その中で箱舟に入った者だけが、救いにあずかり、40日40夜雨が降った後、しばらくして新しい天と地が、神様の約束のごとく現れてくる。

今日「なお、あなたがたは時を知っているのだから」、このことを励まなければならない。何を第一にすべきか。残された地上の命を何に尽くすべきか、絶えず自覚して生きる者でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

















聖書からのメッセージ(119)「だれの神?」

2014年01月18日 | 聖書からのメッセージ
 詩篇50篇1節から23節までを朗読。

 7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。
 ここには神様の裁きについて語られています。と同時に、神様が私たちに何を求めているかをも語っている。1節から5節までのところで、神様はすべての人をご自分の前に召し出して、すべての民を裁くとおっしゃっています。「神様の裁きにあうよ」ということです。そのときの神様の基準はどこにあるか、7節以下に述べている。

まず、神様が裁かれる第一の事柄は何かと言いますと、またこれがすべてでもあるわけですが、神様を神様として尊び、敬うことです。7節に「イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす」と言われます。イスラエルとは、神の民です。神様は父祖アブラハムを選んで、そのすべての子孫をご自分の民と定めてくださいました。いうならば、イスラエルの民は、神様を尊び敬う民、であるはずです。イスラエルと呼ばれるのは、その人々が神様を尊んでいる、大切にしていることの証詞です。ところがここには何とあるか? 「イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす」。その民に向かって、神様が証詞をする。つまりご自分を証明すると言いますか、自己紹介をする。ご自分がどのようなものであるかを現すと言われる。これは誠に奇異と言いますか、おかしな言葉です。なぜなら、イスラエルだったら、神様を知っている民なのです。神様に一番近い民であるはずです。そのイスラエルに向かって、「わたしはあなたにむかってあかしをなす」と神様は言われる。これは、誠に神様にとってつらいことだろうと思います。言うならば、人の親が自分の子供に向かって「私はあなたのお母さんよ」「私はあなたの父親ではないか」と言わなければおれない状況を考えてみてください。イスラエルの民をご自分が選び召して、荒野の旅路を持ち運んで、カナンの地にまで置いてくださったのは神様です。ところが、イスラエルの民が、神様を忘れてしまった、離れてしまった。だからこそ、今、神様はあえて「わたしは神、あなたの神である」と告白せざるを得ない。

ですから、この言葉を読むとき、このときの神様の思い、イスラエルの民に対してどのように深い嘆き、情けなさ、そのような思いをもって、語っていることかをしみじみと感じます。自分の民に向かって、「我が民よ、あなたは誰のものなのだ」。言うならば、息子に向かって「お前の親父は誰なんだ」と言っているようなものです。親のことを忘れて、親の恩も忘れて、自分勝手なわがまま放題、放とう三昧をしている息子に向かって言っているような状況なのです。そして7節に「わたしは神、あなたの神である」。私は神ではないか、と言われます。神様が、あえてご自分を神だと言わなければおれない。イザヤ書やエレミヤ書を通しても繰り返して「わたしは神である、今より後もわたしは主である」と言われます。何度となく、神様は「私がいるではないか。お前はどこを見ているのだ。何を頼りとしているのだ。お前は何を神としているのだ」と、繰り返し、繰り返し問いかけています。これは本当に申し訳ない姿です。だから「神はみずから、さばきぬし」、私はそのことを裁くとおっしゃるのです。神様の裁きとは、まず私たちが神様をどのような方と、信じているのか、神を神としている証詞がどこにあるかを神様は問うているのです。ですから「わたしは神、あなたの神である」。私は神であり、また誰のものでもない、実はあなたの神ではないかと。

それに加えて更に8節以下に「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない。あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」と。イスラエルの民は神様を忘れて、全く神様のことなんかそっちのけになっていたわけではない。イスラエルの民は神様から命じられたように祭り事、お勤めは欠かしたことがない。ここにありますように、いけにえをささげ、燔祭をささげて神様の前に香をたき、さまざまな祭り事、神様を礼拝する行為として、業として、それを全うしていました。ところが、その心に、彼らの思いの中に神様を畏(おそ)れるものがなくなっていた。

これはイスラエルの民ばかりでなく、実は、救いにあずかっている私たちのことでもあります。私たちは神様の救いにあずかって、イエス様の尊い命の代価をもって買い取られ、神のものとされた。クリスチャンとは神の民です。信仰によって、私たちはイスラエルとされている。私たちの神となってくださった方がいる。その神様に対して、神を神として尊び、敬っているか、ということです。神様はこれを私たちに探られる。また私たちの裁きの一つの基準になります。私たちが礼拝を守り、また祈りを欠かさず、聖書を読み、一生懸命に、お勤めとして、日々に欠かすことなくしているかもしれない。では普段の生活の隅から隅まで、神を神として、すべてのものの創造者、造り主であり、またすべてのものをご支配くださる神様の前に、主を畏れて、神様第一にしているか? 案外とそうではない。聖書は読むけれども、読み終わったら「はい、今日の日課はおしまい」。お祈りも、「今日はこれだけお祈りしたから、もうよかろう。次に……」と。先日もある姉妹とお話をしました。その方はきちんと毎朝聖書をしっかり読む。ところが、読んではいるけれども、その御言葉が心にとどまらない。読むには読んだ。知識として理解はする。しかし、それが今、自分に与えられている問題、事柄の中に神様がどのような働きを、どのような目的を持ち、どのようなことを自分に求めているのかを知ろうとしない。お言葉はお言葉としてと、……。

だから、クリスチャンの集まりだから賛美の一つもし、お祈りも一人ぐらいしなければいけないだろう。聖書も読まなければいけないだろうと、取りあえずそれはする。そしたら、「はい、終わり。後は私たちの時間」となります。何か行事をしようとするときでもそうですけれども、クリスチャンが集まって、皆で話し合いをする。じゃ、話し合う前に、お祈りして、讃美して、み言葉を読む。終わって、さぁ、それではこの議題について話をしましょうとなると、そこに神様はいない。人がどうするか、あの人がどうする、私はそんなことはいやだとか、言うならば人の知恵と知識と力で何とかしていかなければ……。予算はどうするのだろうか?お金はどうする? あそこに寄付を頼もうか、こちらにこうしようと、そのような話ばかりが盛り上がって、神様はどこにいらっしゃるの? というクリスチャンが多い。

どうして私のところに来て求め、私を信じ、信頼して、神としてあがめようとしないのか。8節に「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない」。神様にささげものが足らないとか、あるいはその仕方が未熟であるとか、不足しているとか、そのようなことで神様が責めているのではない。「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」。絶えずいけにえをささげて、神様の前に燔祭をささげてはいる。しかし神様のためにこうしている、こんなささげ物をした、犠牲、献身をして、こうした、ああしたと、そのようなことを誇りとして生きている間は、神様を大切にしているのではありません。

9節以下に「わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎを取らない。10 林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。11 わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである。12 たといわたしは飢えても、あなたに告げない、世界とその中に満ちるものとはわたしのものだからである」。私たちは何をもって神様を喜ばせようか、神様のために何をしようか。犠牲、献身、いろいろなものをささげて、神様、あなたはこれが足らないでしょうから、私がしてあげましょうと。神様はそのように人から助けを求めなければできないような方ではない。私どもは、気がつかないうちに神様を自分と同じものと思ってしまう。ですから21節に「あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った」。神様が責めているのは、ここです。神様を自分と等しい者、自分が養ってやらなければならない方であるかのように思う。これは私たちがいつも問われなければならない事です。私たちの生活の一つ一つの業、事柄の中に、神を神とした姿勢があるのか。人を見、あるいは自分の業を誇り、また自分の何かをもって神様を助けてあげたぐらいに思っているならば、とんでもない大間違い。私たちは気がつかないうちにそのようになっていく。

だから、神様のために私はこんなことをした、あんなことをしたと、そんなことは、神様は何も必要としていない。神様は不足しているわけではない。「石ころからでも、アブラハムの子を起すことができる」(マタイ3:9)とおっしゃる神様。12節に「世界とその中に満ちるものとはわたしのものだから」。だから、私たちに神様が求められるものは、献金が足らないとか、あるいは奉仕が足らないとか、あるいは何をしていないからだとか、これをしていないからとか、そのようなことを神様は私たちに求めているのではない。神様は「わたしは神、あなたの神である」。神様を神とし、尊び、敬う、この思いがすべてのことの中に徹底していること、これを神様が求めているのです。

ですから、13節に「わたしは雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか」と。神様は「雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲む」、そんな子羊をささげたり、あるいはいけにえとして燔祭のためにささげたりして、私はこれだけした、あれだけもしたと。そのようなことを神様は求めているのではない。神様は「わたしは神、あなたの神」、誰の神でもない、私の神様となってくださった。そして14節に「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」と。「いけにえ」とは、私たちの体を感謝のささげ物として神様にささげる。それは取りも直さず、私たちの日々の生活の一つ一つの業を神様からのものとして、神様に感謝することです。

年末になると「感謝セール」とか「感謝何とか…」という垂れ幕が商店街に掛かったり、デパートの売出しがあったりします。誰に感謝するのかなと思ったら、お客さんに感謝するという。だから普段より2割、3割、あるいは半額ぐらいにしてあげますという。そうしますと皆が買いに来る。結局狙っているのはお店がもうかるためにしている。感謝とは名ばかりで、感謝しているのは自分に対してです。そのような感謝がまかり通っていますが、私どもも、事情、境遇、事柄、人やそのようなものに感謝はするが、心から神様に感謝しているでしょうか。これが問われる。ここで「感謝のいけにえを神にささげよ」と言われると、何か自分のものを取られそうに思う。そうではない。「感謝のいけにえ」とは、ローマ人への手紙12章1節に「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」。これは取りも直さず、神様が私を造り生かし、そしてこの生活の中に置いてくださる。食べること、着ること、飲むもの一切のすべての必要を満たしてくださる。日を照らし、雨を降らし、生きるための糧を与えてくださっている。それらすべてのことについて感謝して、自分が神様のものであると証詞することです。これが「感謝のいけにえを神にささげる」ということ。だから、テサロニケ人への第一の手紙5章18節に「すべての事について、感謝しなさい」と、どんなことにも感謝するということです。これが私たちの大切なことです。神様に感謝する、しかも相手は誰かと言いますと、「わたしは神、あなたの神である」と言われる神様に感謝する。人に対して、何か良いことをしてもらった。「ああ、本当にありがとうね。あなたからこんなにしてもらって本当に申し訳ない」と繰り返し、繰り返し、その人に「ありがとう」と言うのではなくて、もちろん、してくれた人に対しては感謝します。「ありがとう」と言いますが、もっとそれ以上に、神様に対して「感謝のいけにえ」をささげているか? 確かにイスラエルの民は、そのように犠牲、献身、動物をささげること、燔祭をささげること、それには事欠かなかった。神様はそれを責めているわけではない。大切なのは、その心が本当に神様からのものとして、神様に感謝のいけにえとして、自分自身をささげていく。これは私たちが毎日、朝起きて、神様の前に感謝をして、そして自分を主のものとしていくことです。これは神様が私たちを裁かれる基準であると同時に、私たちに切に神様が願っていることです。

韓国語では「ありがとう」を「カムサ ハムニダ」と言うそうですが、私は詳しくは知らなかったのですが、ある方が説明してくれ、「カムサ」とは、「感謝」という言葉の韓国読みで「感謝します」という意味なのだそうです。それで私は覚えたのです。あ、そうだ、感謝するということなのか。「カムサ」と聞けば、感謝に聞こえますね。「ありがとう」は、存在しがたいこと、びっくり仰天、という意味です。「感謝」とはちょっと意味合いが違う。感謝とは、心に喜びを感じていること。それは神様に対して感謝することです。14節に「感謝のいけにえを神にささげよ」と。そしてその神は誰か? 「あなたの神だ」とおっしゃる。万物の創造者で、すべてのものを今も力ある御手をもって、私たちを支えてくださる神様に、感謝のささげ物をしなさい。「すべてのことについて感謝しなさい」。良くても悪くても、自分に都合が良くても悪くても、一切合財すべてのことです。自分の性情、性格をひっくるめて、家庭のこと、子供たち、孫たちのこと、すべてのことについて文句を言わない、感謝をする。まず私たちは神様の前にきちっと姿勢を整える。7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。誰の神でもない。私どもはどこかで他人ごとのように考えますね。

私も、子供のころ、まだ高校生ぐらいは、父の神様にちょっと間借りしている感じ、下宿人的な発想です。私の神様ではなくて、父や母が信じている神様にちょっと便乗して、付録として私もお祈りを聞いてもらいたい、そのような気持ちです。どうもしっくりこないのです。自分の神様ではない。と言うのは、横であまりにも、神様、神様と言い過ぎる人がいると、お株を取られた、本家をとられたような感じがしますから、私はもうここにはおられないと思いまして、出て行ったのです。それはそれでよかったと私は思います。そうやって親元を離れて、はじめて神様と一対一になる。私は一体何を神としようとしているかを問われる。そのとき、初めて、あなたは私の神、イエス様、あなたは私の救い主です、と言い得たのです。そのようにして信仰に導かれてきました。そうしますと、神様が実に身近なもの、誰の神でもない、私の神様。だから、人が何と言おうと動かない。動揺することがない。どうぞ、八幡前田教会の神様を信じていると思っては駄目です。私の神様です。皆さん一人一人のオーダーメードですから、デパートにぶら下がっている既製服を着ているのではない。皆さん一人一人に、神様は「わたしは、あなたの神である」。だから、私のことを隅から隅まで知っている。他人(ひと)の神様だったら、私のことをどこまで知っているのか分からない。ところが、私の神様ですから、私のことを知らないはずがない。だから、安心です。ほかの人の神様ではない、「あなたは私の神」、このことをはっきりと確信したいと思います。そのためには、まず日々の生活の中で私の神様に対して「感謝のいけにえをささげる」。今日も、神様、あなたがこのように恵んでくださいました。神様、あなたは私の神です、私はあなたに仕えていきますと心から主の前に自分をささげる。ささげると言うのは、「神様、すべてあなたの御心に従います」ということです。自分を捨てることですよ。どうぞ、そこまで徹底して「あなたは私の神」と言い得るまで、はっきりと神様に自分をささげて、感謝して生きるのです。毎日の生活で、神様に常に感謝していますと、いよいよ神様が身近なものになり、自分の神様となってくる。感謝が少ないと、感謝することがないと、私はあんなにしたのに、こんなにしたのにと、そのようなことばかりに心がいってしまう。だから、14節に「感謝のいけにえを神にささげよ」と言われる。

その後に「あなたの誓いをいと高き者に果せ」とあります。この言葉は、何のことを言っているのかな、と理解できなかった。ところが、祈っていると、神様が教えてくださいました。「あなたの誓いをいと高き者に果せ」、私たちの誓いとは何か? それはイエス様が私の罪のために十字架に命を捨てて、死んで、私どもをご自分の命を代価として払って、買い取ってくださったことを信じました。言うならば、私たちは神様の前に、私はあなたによってあがなわれた者です、と誓いを立てた者です。神様が、私たちを「お前を愛しているから、ひとり子をこの世に送って、お前のために罪を赦し、十字架に命を捨てたよ」と。それに対して私たちが「そうです。神様、あなたは私を救ってくださいました。私はあなたの民です」と告白した。これが主の前に果たさなければならない誓いです。イスラエルの民に神様が求められるのもそのことです。アブラハムを立てて、「わたしはあなたを祝福の基(もとい)とする」と約束して「わたしの言いつけに従いなさい」と約束したのです。それに対してアブラハムも答えて、「はい、私はあなたの民になります」と言ったのです。その誓いの言葉は、ただアブラハムと神様との間だけではなく、すべてのイスラエルの民の誓いでもある。神様に「私はあなたの民です」との誓いを果たす。言い換えると、神の民なら民らしい生き方をしなさい、ということです。だから、「私はクリスチャンです」と言うならば、そのクリスチャンとしての誓いを神様の前にちゃんと果たしているか、ということです。私はそんな約束したはずはない。神様が一方的に救ってくださっただけで、それで満足しているのに、どうして「誓い?」になるのだろうか、と思う。しかし、救いは神様との間の約束であって、誓約したのです。イエス様の十字架の血判をもって、私はこの世からあがなわれ、買い取られ、神様の所有となったという印を押され、そのことを誓って、洗礼を受けたのです。水のバプテスマを通じて、額に十字架の印を受けた者、神の子羊の印を受けた者です。言うならば、神の民です。ところが、神様は「あなたは神の民、クリスチャン、イエス様の救いにあずかったと言いながら、その誓いの具体的な姿はどこにあるのか」。「いや、私はちゃんと教会に行っております」。「確かに教会に行っている。燔祭はわたしの目の前にある。しかし、私が責めているのはそれじゃない」「何が? 」「感謝のいけにえを神にささげよ」と。そうです。神様の民として、神様を褒めたたえ、感謝賛美し、主をあがめることを求めているのです。

だから、15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。14節と15節とのつながりは深い意味があります。14節の「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」とそこまでは分かります。その次の「悩みの日にわたしを呼べ」と、突然、「悩みの日にわたしを呼べ」と言われる。どうしてでしょうか? これは明らかに、苦しいとき、悩みの中、悲しみの中にあるとき、行き詰った絶望の中にあるときに、一番親しいもの、一番よりどころとなるものは誰なのか、と問うている。神の民であると言うならば、悩みのときにこそ、苦しみの中にあって、頼るべきものがないときにこそ、頼るべき方、神様がついているではないかと。

自分の一番信頼する人に打ち明ける。そうでしょう。苦しいことや、つらいことや、悲しいことを知ってもらいたい人は、やはり自分が信頼する、この人だけにはと頼る人がいます。神様がそのような方となっているかを問われる。15節に「悩みの日にわたしを呼べ」、なぜなら「わたしは神、あなたの神である」から。悩みに遇い、どうにもならないときにこそ、神様に先ず一番に頼る。これが神を神として生きることです。ところが、私たちは、悩みに遭ったら、教会なんか行っている暇はない。お祈りしている暇はない。あちらに走りこちらに走り、あの人にも、この人にも、頼るべきものが神様以外になっている。何をあなたは信頼しているか、それが明らかになるのは、そのような危機に出遭うとき、苦しいこと、災いに遭うときでしょう。だから、よく言われるように、突然夜中に火事が起こる。火事だ!そのときに一番大切なものを人は持ち出す。だから、生活の中で一番困ったことが起こったとき、真っ先に誰に飛んでいくか、それによってその人が何を信頼しているかが明らかになる。だから「悩みの日にわたしを呼べ」と。神様が私のよりどころとなっているか、その方が私の神となり得ているかが明らかになるのは、悩みに遭ったとき、苦しみに遭ったとき、絶望的な中に置かれたときです。「悩みの日にわたしを呼べ」、そうすれば「わたしはあなたを助け」とあります。神様は私の神ですから、私たちを放っておくわけではない。そして神様が私たちを助けてくださるのは、「あなたはわたしをあがめるであろう」とあるように、神様をあがめる、神様を尊び、神様を褒め称える者とならせるためです。

自分自身の歩みをもう一度振り返って、私は神様を神としているだろうか。「私はあなたの神」と言われる神様に対して、私は心から「あなたはわたしの神」と言い得ているだろうか。生活の中のすべてのことに神を神としている証詞があるだろうか。絶えずこのことを点検していきたいと思います。そして神様が、命をもって私を愛し、あがなってくださったその民にふさわしく、私は神のものですと約束し、誓ったごとくに、神のものになりきっていくことを神様は求めています。

詩篇16篇1、2節を朗読。

この2節に「わたしは主に言う、『あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない』と」。これは表題にダビデの歌とあります。イスラエルの王となりましたダビデは、神様を「わたしの主」と告白したのです。そして「あなたのほかにわたしの幸はない」と、この神様を抜きにしては、私の幸いはあり得ない。これはダビデの生涯を通して変わらない信仰です。どうぞ、このダビデと同じように、神様、あなたは私の主、私の神である。そして、私の幸いはあなたを抜きにしてはあり得ない。そのように言い得る者でありたい。神様はいなくても、私は幸いですと言うなら、それは本当の意味の幸いではない。ダビデは絶えず、あなたは私の主です、私の神ですと告白しました。それは口先ばかりではありません。すべてのことの中で神様を主として生きました。だから、自分の息子アブサロムに背(そむ)かれて、謀反(むほん)が起こって、エルサレムの町を離れて行くときもそうですね。サウル王様の遠縁であるシメイが、彼を呪(のろ)いました。「ざまをみろ」と。そのときに部下が「あいつを懲(こ)らしめてやろう」と言ったときに、ダビデは「神様が、彼をして呪わせているならば、それでいいではないか。あなたが何もすることはいらない」と言って止めました。どのようなことにも、そういう災いの中にも、ダビデは「あなたは主、神様がなさること。もし、神様がダビデを呪えとおっしゃってあの者を送ったのだったら、それはそれでいいではないか。それを甘んじて受けるべきだ」。私たちはそこまで私の主ですと信頼しているか? 私たちはつい己が出ます。なにくそ!いくら神様が許したといっても、私が許さん!と。気がつかないうちに、心に神様を離れていく。日々出会う一つ一つの事柄に、「すべての道で主を認めよ」と、神を神として生きるところに私たちの幸いがあるのです。

ですから、詩篇50篇7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。神様が今日、私の神となってくださった。この神様に対して感謝のいけにえとして一切をささげて、「主よ、あなたに感謝します」と、「命を与え、生活を与え、今日まで顧(かえり)みてくださった」と、感謝、賛美して、主を褒めたたえて、神様をあがめること。そして、悩みの時に、苦しみに遭うときに、問題の中にあるときに、まず、私たちがまず身近により頼む方は誰なのか? 夫でも妻でもない、子供でも孫でもない。神様、あなたですと言い切る。また、信頼しきっていくとき、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と、ダビデの大きな喜びと信仰につながっていく。また、神様は私たちに答えてくださる。15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。神様は私たちを助けてくださる。それは私たちをして神様を賛美し、褒めたたえ、神様の栄光を証詞する者と変えるためです。ここにあるように、「わたしは神、あなたの神である」と言われる神様に「はい、そうです。あなたは私の神です。本当にあなたは私の主です」と、常にどのようなことにも、神様を前に置いて、歩んでいきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。