いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(55)「雄々しくあれ」

2013年11月15日 | 聖書からのメッセージ
ヨシュア記1章1節から9節までを朗読。

9節『わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない』。

最近は祝日の法律が変わり、敬老の日というのが、9月の第三月曜日になりました。これまで長い間、9月15日が敬老の日だと思っていましたので、何か違うような感じがします。最近は老人の日と言うのだそうです。とにかく、9月はお年寄りを大切にという月です。私は敬老の日を迎えると、父のことを思い出します。父が65歳を過ぎたか、70歳を過ぎたかでしたが、町内からお祝いに敬老会へ招待されたのです。そのとき父は、非常に憤慨しまして、「敬老だなんて、老人を敬うなんて言いながら、何か人をバカにしているじゃないか」と、とても嫌いました。父が、77歳くらいになったときだったと思いますが、「敬老会をしてあげよう」と言ったら、「そんなものをするな」と言ってしかられたことがありました。お年寄りを敬老するのはなかなか難しい。だから、うかつに言えない。「敬老」と言われると、「もうあなたは現役ではないんです。できるだけ隅っこのほうに居て、邪魔しないように生きてください」と敬い奉って、できるだけ目障りにならないようにしようという、ひねくれた考えかもしれませんが、そういうニュアンスを感じる方がいます。それも一理あるかなぁ、と思います。歳を取ってくると、家族の方から「年だから」と言われます。私もかつては、両親に対してそういうふうに言い続けました。「もう、年だから」と。そう言われると、人間の価値が半分に下がったような感じがする。「あなたは役に立たないんだ」と言われているような気がします。繰り返し周囲から、「お年ですから」と言われると、「やはり私はそういうものかなぁ」と思いあきらめます。

病院に行っても、ここが痛いとか、あそこがどうだとか、訴える。そうすると、いろいろ調べて、どこも悪い所はありません。それで最後の言葉が「まぁ、お年ですから、こんなものでしょう」と言われる。それを言われると、非常にショックだと、何人かの人から伺ったことがあります。確かにそう思いますね。終わりに近づいているから、歳を取ったからあれもやめとこう、これもやめとこうと、弱気に成る、縮こまってしまう。また、歳を取った者ばかりではなく、若い人だっていろんな事で自分の限界を感じます。「これでもう、駄目かな、もうこれ以上のことはできない」と、感じるときがあります。若いときは、夢が多いから、あれもしよう、これもしよう、こう成りたいと思っている。ところが、大学の入学試験の偏差値などで、自分の力がはっきりしてくると、「これくらいかなぁ」と。それでもまだ、何とか努力すればできると思う時期があります。しかし、現実の社会に出ていろいろなことに当たると、自分の選択肢、選ぶべき事柄の数が限られてくるようになる。大体30代の前半に入ってくると、自分の人生はこんなものかなぁ、とあきらめのような境地になり易いのです。そうやって、自分がおかれている現実、目に見える状態や条件などで、自分自身を評価する。

しかし、神様は、私たちにどういうことを願っていらっしゃるのか。神様は、決してお前は歳を取ったから、この辺でやめておけと言うことはありません。聖書のどこにも書いていません。聖書には、歳を取った方々の記事がたくさんあります。しかし、あなたはお年ですから、こうしなさいと言うことはありません。皆さん、聖書をお読みになって、ここは若者向け、ここは年寄り向けだという聖書の御言葉はどこにもない。赤ちゃんから100歳であろうと120歳であろうと、すべての人に語られた神様の言葉です。だから、自分がおかれている境遇、70歳だから、80歳だから、90歳だから、あるいは健康上のさまざまな問題や事柄を見て、こういう者だから仕方がない。あるいは私はこうだからこれしかない、と決めて掛かるのは、聖書的ではありません。

ご存知のように、神様はイスラエルの民をエジプトでの奴隷の生涯から、祈りに応えてモーセという指導者を起こし、救い出してくださいました。彼らは、神様が約束された乳と蜜の流れる地、カナンを目指して旅立ったのです。その途中、荒野の旅路でしたが、神様はイスラエルの民と共に居て、歩んでくださいました。すべてのものを豊かに備えて、その足はすり切れることなく、着物は古びることはなかった、と申命記に記されています。そして彼らが、ヨルダン川まで来まして、それを越えるとカナンの地だという所で、12人の斥候、スパイをこれからいくカナンの地がどういう所かを探りに行かせました。40日にわたって調べてきた人たちが、民に結果を報告しました。その内容は、一つは悪いニュースです。カナンの地には、既にたくさんの強い人々が住んでいる。丈も高く体格もよく、しかも堅固な町があって軍隊がある。自分たちがそこへ入って行ったらひとたまりもなくやられてしまうというニュース。もう一つは、そこは確かに神様が約束なさったように、実り豊かなところであるという素晴しい知らせ。彼らは、この知らせを聞いたとき、失望しました。いい話だけじゃない、死ぬかもしれない、到底太刀打ちできない相手が住んでいると知って、彼らは怖じ気づいたのです。そして、こんなんだったらエジプトに帰ろうと言って、指導者モーセやアロンを石で殺そうとまで相談がなされたのです。そのとき、若いヨシュアとカレブという二人の従者が、立ち上がって民を諫めました。「私たちは、主に背いてはならない。神様が約束してくださったのだから、出かけて行こうではないか」と。ところが、そのとき、「もう、わたしはお前たちを知らない」と、神様は民に対して怒りを発したのです。でも、モーセは神様の前に立ってなだめた結果、神様が与えた条件は、更に「40年間、荒野の旅路を歩め」と言われました。そして、神様に背いた民が死に絶えた後、40年後にカナンの地に入る約束を与えられました。

40年たちまして、いよいよカナンの地に入ろうとするときに、神様はモーセを天に召しました。このときモーセは120歳になっていました。モーセにとっては非常に悔しいことだと思いますね。自分が生涯を懸け、命を懸けて導いてきた大事業、カナンの地に入る直前になったのです。モーセもできればそこに入ってみたかったに違いない。しかし、神様は、「お前はそこに行かなくてよろしい」と、モーセを御許(みもと)に召されました。その原因として、神様からモーセが「岩に命ぜよ」と言われたときに、岩をたたいて水を出したという記事がありますが、そのために神様はモーセをカナンの地に入れなかった、と記されています。しかし、それはあくまで神様の一つの口実だと思います。モーセを愛しているが故に、神様はあえてそういう理由づけをして、カナンの地を見なくても神様の御許に帰るように召されたのだと思います。

地上に在ってしたいこと、しなければならないこと、あれもこれもと、いろいろと結果を見ておきたい、知りたいと思うことが、たくさんあります。しかし、人は、いつまでも生き続けることはできません。神様は、こと半ばといいますか、すべての結論を見終わるまで待っているわけではなく、ある意味では、モーセのように途中で引き上げられる。私は若いときに思ったのですが、80歳にもなれば、生きているのはもういい、早く死にたいと人は思うだろう、と思ったのです。ところが60歳を越えてくると、いやそんなことはなかろうな、と思います。この間、長寿の人が、110何歳かの人がいましたが、あんなに長くいきたら、もう満足していると思いますが、案外そうでもなさそうです。まだ元気で生きていこうと。だから、歳を取ったから喜んで死ねます、という人はいない。なぜそう思うかというと、やはり自分の生涯にかかわりある人々のいろんな物を見たいという気持がありますね。皆さんでもそうだと思います。息子の家族がどうなるだろうか。孫たちがどうなるだろうか。あの事業は、どういうふうにこれから変わっていくだろうか。私が手掛けたけれども後を継いだ人はどうやってくれるだろうかと、いろんな事が、まだ中途半端。だから死ねない。そういう思いが、人の心にあります。モーセもそうだったと思います。こんな中途半端で死ぬわけにはいかない。私が最後まで責任をもってやらねばと思った。ところが、神様は「お前はそれでよろしい」と天に引き上げられました。

その後に、ヨシュアが指導者として立てられました。このヨシュアは、このとき恐らく70代の半ばくらいではなかったかと思います。と言いますのは、そのカデシュ・バルネアで更に荒野の旅路を送れと命じられたときに、ヨシュアは、25,6歳だったでしょうから。その後カナンに入り、町々を平定しました。そのとき、彼はもう80代を越えていたと思います。正確な年は記されていませんが、彼の友だちであるカレブが85歳だったと言われていますから、まぁ、カナンの地の戦いが10年くらい続いたとして、大体75歳くらいでこの時期で、更に40年引きますと、彼があのカデシュ・バルネアで斥候としてカナンを行き巡った歳は、大体30代くらいかなと思います。だからこのときヨシュアは70台半ばと考えていいと思います。その年齢でヨシュアはモーセの後を継いで、イスラエルの民をカナンに率いていくという新しい大事業を引き受けたのです。彼は随分悩んだと思います。言うならば75,6歳ですから、そろそろ引退してもいい時期、もう良かろう、と思うでしょう。

でも、そのときに神様は、6節に「強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない」。これは神様の使命。「これから、あなたは、民を率いて行って、わたしが、あなたがたの先祖に約束したカナンの地を与えると言ったように、それをちゃんとイスラエルの民に分け与えなさい」。これはちょっと躊躇(ちゅうちょ)しますね。恐らく皆さんでも、74,5歳になったときに、「さぁ、あなたはこんなことをしなさい。あんなことをしなさい」と求められたら、ちょっと「え!どうしょうか」と萎(な)えますね。ところが、神様は、「強く、また雄々しくあれ」と言われます。7節にも繰り返されています。「ただ強く、また雄々しくあって」、「強く、また雄々しく」ありなさい。先ほどの9節にも「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ」と励ましています。繰り返し、繰り返し「強く、また雄々しくありなさい」と。皆さんが今どういう年代に属していようと、若かろうと、中年であろうと、あるいは老年であろうと、この世間の人が敬老の資格があります、と言われる年齢であろうと、神様はそんなことはお構いなしです。「強く、また雄々しくあれ」とおっしゃいます。

じゃ、私は、これから頑張って、ひと踏ん張りしましょうと、いくら自分で覚悟を決めてみても、寄る年波には勝てません。肉体的には以前のような若さがない。さぁ、奮い立とう、勇気を出そう、元気づこうと思っても心が萎えていきます。ところが、神様がここで「強く、また雄々しくあれ」と言われるのは、その後9節に「あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ」。「あなたの神、主が共に」いるから、私たちが弱くても、乏しくても、力がなく、健康がなく、いろんなものが、もうないない尽くしであっても、「強く、また雄々しくあれ」。あなたの神、主が共におられるから、神様が付いていてくださるからと。神様は共にいらっしゃって、私たちを持ち運んでくださる。今もそうです。今日も神様が共にいて、皆さん一人一人に命を与え、力を与え、知恵を与え、すべての必要を満たして、力ある御手をもって支えてくださる。だから、私たちは今日もこうして元気にしておれるのです。私たちがこの神様に目を止めること、神様が私たちを生かしてくださっているのだと信頼する。神様には計り知れない無尽蔵の力があります。だから、「ピリピ人への手紙」にパウロが語っています。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」と語っています。神様は、オールマイティ、どんなことでもおできになる方、できないことのない方です。だから、イエス様は、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」とおっしゃいました。どんなに若くても、力にあふれていても、人である限り、人の力には限りがあります。その意味において、若かろうと年寄りであろうと、実は同じなのです。限界があり、力に限りがある。年取った人よりも若い人の方が、元気があるからいいじゃないかと言うけれども、これも五十歩百歩ですよ。神様の目からご覧になれば、どんぐりの背比べのようなものです。

私たちにとって大切なのは、年が若いからとか、あるいは健康であるとか、あるいは若いときから鍛えられているから、ということではなくて、「わたしを強くして下さるかた」、言い換えると、今日も私を生かしてくださる主が、私と共にいてくださる。このことに目を止めること。これが「強く、また雄々しく」生きるための秘けつです。「強く、また雄々しく生きよ」とおっしゃる。「そうか、それは良いこと」、言うだけであるならば、口先の応援歌みたいなものです。「頑張れ、頑張れ!」と、周囲ではやし立てて、それに乗っかって気分的に「私も若返ったつもりで、今日から頑張りましょう」といくらやってみても、人間である限りやはり肉体の力は直ぐ衰えていきます。しかし、ここ9節に「あなたの神、主が共におられる」と。神様が私たちと共にいてくださる。

イザヤ書46章3、4節を読んでおきたいと思います。

この3節に「わたしに負われ、わたしに持ち運ばれた者よ」、これは誰のことか。「生れ出た時から」、「胎を出た時から」、神様によって持ち運ばれた者、それは私たち自身です。皆さんがそうです。だれも自分の力で生まれた者はいない。神様が、その時を定めて、この世に「おぎゃ」と生まれさせてくださいました。先日も、水曜日、一人の方のところに赤ちゃんが生まれました。お父さんは急いで産院に駆けつけました。そこの産院は実に親切なのです。お産に立ち合わせてくれる。で、いよいよ破水が始まって、陣痛が激しくなって赤ちゃんがお母さんのお腹から出て来る様子を見ていたそうです。写真を撮ってきて「先生、見てください」と見せてくれました。お母さんのお腹から赤ちゃんが出終って、まだ体に生々しい血が付いている姿から、全部写しています。そのお父さんは、感動して、その子供が、愛(いと)おしくってたまらない。

神様は、生み出してくださって、ここにありますように、「生れ出た時から」、「胎を出た時から」と言うのです。詩篇139篇に歌われていますように、母の体内に組み立てられた方が、私たちをそこから出してくださる。そしてこの地上に放ったらかしにしたのではありません。その後に「わたしに持ち運ばれた者よ」と呼ばれます。神様が私たちをここまで持ち運んでくださいました。自分の足で歩いて、自分の手で努力してきた、自分のわざでここまできたと思っていますが、それは大違い。見えない神様の御手に持ち運ばれて、ここまできたのです。そしてその後4節に「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ」。しかも、神様は、途中で投げ出さない。こんなややこしい者を持ち運んで、きつくなった、もう、嫌になった、と放り出さない。イスラエルの民もそうでした。神様に持ち運ばれて、あの荒野の旅路を進みました。ところが、繰り返し、繰り返し、神様に背きます。神様は、何度となく「この民は知らない。わたしは、あなたたちと関係がない」と言いかけては、もう一度、「イスラエルの民は自分の責任だから」と、本当に懇ろに顧みてくださいました。今も神様は、私たちを持ち運んでくださっています。しかも、これからもですよ。ここまで来たから、後はお前が勝手にやれ、と神様は言われない。この4節に「年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ」。いよいよこの地上の命が終るときまで、神様は責任を持ってくださいます。

しかも、この御言葉の次の所に、「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」。これは励まされる御言葉です。神様は、「わたしが造ったのだから、わたしが、責任者だよ」と言っているのです。私が造ったのだから、ちゃんと面倒を見ると約束しているのです。神様は私たちの主でいらっしゃる、私たちの責任者です。それどころか、私を造った神様です。ですから、神様にお祈りするとき、「神様、あなたは私を造った方です」と、ちゃんと神様に忘れずにお祈りするのですよ。「神様、あなたは私を造ったではありませんか。今こんなにつらい思いをしている、こんなに悲しい思いをしている。こんなに苦しい所に居るのですから、神様、何とかしてください」と、神様に向かって、文句を言うべきですよ。よく世の中で、親がこんなだから、私もこうなったと言いますが、それは、お門違い。親は何の責任もない。責任があるのは神様です。4節に「わたしは造ったゆえ」とあります。私たちは、神様に造られた者、だから、造った方が最後まで責任を持つ。この4節に「必ず負い、持ち運び、かつ救う」と言う。だから、自分の健康状態とか、年齢だとか、自分のおかれた境遇だとか、そういうものを眺めては、これは、もう無理だとか、これは何とかだとか言う必要はない。私たちは常に神様に目を止めておきましょう。

ですから、ヨシュア記1章9節に「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ」。私どもは、自分の状態を見、年齢を考え、家族を考え、あるいは周囲を考え、持っている物を計算して、これだから駄目だ、これだから無理だと言って、失望し、意気消沈してしまって、青菜に塩をかけたように、シューンと小さく縮こまってしまう。そうではなく、目を止めるべきものは、自分の状態ではなくて、神様のほうなのです。神様が、共にいてくださって、私を造り、母の胎から生まれ出たときから持ち運んでくださっている。この方は、昼も夜も眠ることなく、まどろむことなく、絶えず共に居て、すべてのことを握って、導いていらっしゃる。この主に目を向けていくこと、これが先ず第一です。

そして、神様が私たちに求めておられることがあることを知っておきたいと思います。神様は私たちに命を与えて、この地上においてくださっています。神様が持ち運ぶに当たって、期待していること、求めていることがあります。それは今皆さんが直面している事柄、私がしなければならない、あるいは私がしなければ、ほかの人には頼めないということがあります。正にそのことこそが、実は神様が与えてくださっている重荷です。目の前に与えられた問題や事柄は、状態を見ていると、どうにもできそうにない。自分では手に負えない。そんなことをしていたら、体がもたないと思う事態や事柄があります。しかし、問題や事柄によって、また自分のおかれた境遇、条件によって失望するのではなく、神様が今願っていることがあるのだから、そこで、神様に望みをおいていく。

だから、もう一つ読んでおきたいと思います。ヨシュア記13章1節から3節までを朗読。

この1節に「ヨシュアは年が進んで老いたが」とあります。ヨシュアもこのときカナンに入りまして、10年くらいたったでしょうか、80歳代の中ほどだったと思います。彼はほぼカナンの地をイスラエルの十二部族に分け終わりました。あとわずか、周辺に残ってはいるけれど、そこまでは私がするべきじゃない、そろそろ次の後継者がいてもいいのではないだろうか、とヨシュアは気弱になったのかもしれません。そのときに神様は、ヨシュアに「あなたは、年が進んで老いたが」と、年が進んで老いたけれども、主は、彼に「取るべき地は、なお多く残っている」と言いました。まだ、あなたがしなければならないことは、たくさんあるのだと。と言って、老いの一徹で「そうだ、私はこれからああして、こうして……」と、自分のためにするのではない。歳老いて力も知恵も、記憶力も薄れてくるけれども、なお神様が求められる所があることを知って、従うのです。それは特別なことでもなければ、何でもない。ありふれた普段の事柄です。今目の前に委ねられている事を、神様が、私に求めているのだと信じ、信仰に立って、自らが引き受けていくことにほかなりません。今日はいい話を聞いた。これからは、年寄りだからと言ってすっ込んでいるわけにはいかない。あの若い人の仕事も「俺にさせろ、俺がする」と、どんなことにも、歳を取った人がしゃしゃり出るわけではありません。若い人に任せるべきは任せてもいい。しかし、私には私のするべきことがある。それぞれの年代に応じて、神様が求めている事があります。

昨日もある姉妹が電話してきました。子供を育てるのに、一生懸命身を尽くしてきたのです。やがて、子供は就職して、自立しました。そうなると、親には電話もなく、家に戻っても来ない。それでエンプティネスト症候群と言う状態になっている。ひな鳥が巣立ってしまって、親は巣が空っぽになって、何をしたらいいのか、すべてに手に付かなくなってしまっている。しかし、ある意味で、ある時期で親としての役割が変わっていきます。決して、親子の関係が消えてしまったわけじゃない。消えないけれども、子供の成長に応じて、また神様が私たちに求めておられるその時々の役割、果すべき事柄が変わっていくのだと知らなければなりません。その姉妹は、頭では分かっていたのでしょうが、なかなか子供思いの人で、身を尽くす。それが必要な時期はもちろんあります。子供の成長のために、親が力を尽くさなければならない時があるでしょう。しかし、段々と変わっていくのです。それは、神様が、変えて下さるのです。ここまで主が、私にさせていただきましたから、これで私の使命は終ったのだ。今度は、子供とのかかわり方、あり方が違うものとなっていきます。私は、その姉妹にも「あなたが子供のために一生懸命に尽くすべき時期は終ったのです。だからといって何もなくなったではない。神様は、違う果たすべき事を求めているのだから、神様に、今から自分が何をしていくべきなのか、よく問いなさい」と言いました。この地上の生涯が終るまで、最後の最後まで、私たちは、決して気を抜くわけにはいかない。最後まで、神様が私たちを持ち運んでくださるから、神様が求めている所に従って、なすべきことを尽くさなければならない。これは大切なことです。

ですから、ヨシュア記1章9節に「強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも」、「あなたがどこへ行くにも」、言い換えると、皆さんがどんな問題やわざをしようとも、あるいはどんな事柄にあっても、神様は、「主が共におられる」、一緒にいてくださって、すべてのこと、どんなことでもなしえる方が、あなたの力となってくださいます。「恐れてはならない、おののいてはならない」。恐れて、おののいて、失望して「これはやめとこう、あれもやめとこう」と、そうならないで、主の御心とあれば、どんなことでもできますと、心を神様に向けていこうではありませんか。主のわざをしっかりと握って立つことが大切です。神様があなたと共にいるのだから、恐れるな、勇気を出しなさい、とおっしゃってくださいます。今、私たちに求められていることは何でしょうか。そのことを真剣に祈って、信仰に立って、「これは今主が、私に『せよ』とおっしゃることです」と確信を持って、年だとか何とかにかかわらないで、神様が力を与えてくださることを信じて、従っていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。