いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

8月20日教会学校聖言葉

2017年08月23日 | 教会学校聖言葉
「耳を傾け、わたしにきて聞け」
イザヤ書55.3

 初めての旅先でガイド役がいれば非常に心強いものです。
言われるとおりに動いていると快適かつ安全に旅を楽しむことができます。
逆にガイドが止めるにも関わらず、自分勝手に行動して失敗すればそれはその人の責任です。

 同じように神様の声に耳を貸さず勝手なことをすれば、目的を見失い人生という旅がつらく厳しいものになります。
しかし神様の聖言葉に聞き従うなら旅路にあって必要、平安と喜びに満たされ進むことができます。
自分の人生は常に新しい場所に向かう旅であることを忘れないようにしましょう。(正野)

8月13日教会学校聖言

2017年08月23日 | 教会学校聖言葉
「わたしはあなたと共にいる。」
イザヤ書41.10

 神様は私と共にいて下さるとおっしゃっています。
しかし、現実の生活では悲しみや苦しみばかりで、神様が共におられるように思えない現実があります。

 しかし、神様はその現実の中で神様を求めて手を伸ばすなら、必ずその手を取って存在を現して下さいます。
ヤコブは荒野で主の臨在を体験し、そこを天の門と呼びました。
人生の荒野にあって主に出会い、そこを神の国と呼べるなら、なんと幸いなことではないでしょうか。(正野)

聖書からのメッセージ(574)「御言の力」

2017年08月23日 | 聖書からのメッセージ

 マタイによる福音書」8章5節から13節までを朗読。

 

 8節「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。

 

 イエス様がカペナウムという町に来られたときであります。そこに百卒長といわれる人がいました。「百卒長」とは、百人の部下を持つ隊長であろうと思いますが、ある程度の地位のある人であったと思います。聖書の記事を読みますと、「百卒長」はローマから派遣された占領軍、ユダヤの地方はその当時ローマ帝国の支配下にありましたから、そこに駐屯しているイタリアから来ているローマの兵隊たちであったと思われます。ですから、そもそも異邦人です。ユダヤ人から見れば、イタリアから来た人たちは自分たちとは接触してはならない異邦人でした。ですから、ユダヤ人と異邦人とが話をするとか、その人の家に行くなど、「汚れる」といわれましたから、まずはそういうことはあり得ない事態です。

 

 ここで百卒長が「みもとにきて」というのですから、よほどのことがあったと思われます。これは断られて当然であります。親しく話をすることすらもはばかられるような、そういう律法の世界に生きていたのです。百卒長はよほど部下のためにと思って、イエス様の所へ来たと思います。同じ記事が「ルカによる福音書」にも語られています。そこには「ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした」(7:3)と語られています。だから、直接百卒長が来たわけではなかったのかもしれません。しかし、いずれにしても、イエス様が本来ユダヤ人として交わりを持たない異邦人、神様の選びの民でない人たちにもイエス様の福音が語られている証拠でもありますが、百卒長自身もまたそういう環境の中であえてイエス様の所へやって来た。それはよほど部下のことを心配したのだと思います。

 

 6節に「主よ、わたしの僕が中風(ちゅうぶ)でひどく苦しんで、家に寝ています」と実情を語っています。「中風」と語られていますが、いまはほとんど使われません。脳溢血(いっけつ)とか脳梗塞(こうそく)というように、もっと細かく分けられます。「中風」とは身体的に不自由になる、マヒを起こすような病気、それらを総称して「中風」と昔は呼んだのです。その原因が定かでなかった時代であります。百卒長の僕がそういうことで苦しんでいる。イエス様の所へ訴えて来たのは、イエス様のうわさといいますか、その当時のことですから、「イエス様はこんなことをするらしい」と聞いていたのです。あちらこちらで病気の人を癒したり、あるいは、足の萎(な)えた人が歩けるようになったり、目が見えなかった人が見えるようになったり、そういう不思議なわざをなさる方だと百卒長は知っていたのでしょう。ですから、自分の部下の病気も、イエス様なら治していただけると信じた。彼は断られて当然ですが、そのことをいとわずやって来たのです。

 

 7節に「イエスは彼に、『わたしが行ってなおしてあげよう』と言われた」と。この時のイエス様はとても親切といいますか、優しいのです。スロ・フェニキヤの女の人(カナンの女ともある)が「娘が苦しんでいます」と言ったときは、「わたしはイスラエル人以外には遣わされておりませんから知りません」(マルコ7:3)と、つれなく断っています。イエス様のなさることは「いったいどうなっている?!」と思います。こちらでは良いし、こちらでは悪いしと。スロ・フェニキヤのお母さんも「ギリシャ人で」と語られています。この百卒長もユダヤ人ではなかったと思われます。けれども、イエス様は百卒長には優しく、お母さんには冷たくするなんて、「どうなっているのか? 」と思いますが、まさに神様のなさるわざは、私たちにはわかりません。神様はもっと深い御思いをもって一つ一つを決めなさるのです。だから、人間的にいうならば、平等に、公平にと思います。家族でもそうでしょう。子供が何人かいると、お兄ちゃんにもこうしたのだから、妹にもこうして、だったら、この末っ子にもこうしようと、そうしないと「不平等だ」と文句が出ますから、できるだけ同じようにしようとしますが、しかし、公平とか、平等とは、それぞれの人の能力に応じたことをする、あるいは、それを与えることが大切です。

 

 イエス様はタラントの譬えで語っていますが、5タラント、2タラント、1タラントをそれぞれの僕に渡しました。「5タラントの人は2タラントの人より多く与えられた」のは、神様がその人の能力を知っていたからでしょう。だから、必ずしも全ての人が同じように取り扱われることが平等というわけではありません。神様は「この人に対してこれが必要」と思うことをしてくださる。こちらの人にはこれ。だから、スロ・フェニキヤの女の人、娘さんが病気で苦しんでいた人の場合は、やはりその人の心の状態、思いを知っていたのだと思います。だから、イエス様はつれなく断ったわけですが、断られたからこそ、この女の人は「小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」と、イエス様にくらいついて行くといいますか、求めて行く。そこで初めてその人の思いが明らかになる。もしその人が求めたから、「はい、それじゃ私が行って治してあげましょう」となったら、そのお母さんの信仰がはっきりしないまま、ファーッと綿菓子のような状態で終わってしまうでしょう。そうすると、それはいつ消えて、「あれ、癒されたけれども、そういう時が来ていたのかもしれない」となってしまう。神様ははっきりと「これは主のわざである」ことを明らかになさるのです。だから、そのお母さんに対しては、ある意味では厳しく当たります。それは、お母さんの性格といいますか、心の思いまでも知り抜いておられたからそういう対応をなさるのです。神様のお取り扱いは、それぞれ一人一人に違います。神様はこの人にはこのように取り扱う、あの人にはあのようになさるのは当然です。

 

 だから、周囲の人を見て、「何年も信仰していたらあの人のようになるだろうか、この人のようになるだろうか」と考えますが、なるかならないか分かりません。それぞれに神様が求めておられること、また与えようとしている事が違うのです。だから、人を見ないで、「神様がいま私に最善をしておられる」と信じる以外にないのです。

 

 よく言われます。「あの方は大変恵まれて、あれもこれもと、神様はあの方になさる。不平等だと思います。私は一生懸命にお祈りをして、あの人以上に熱心に頑張っているのだけれども、ちっとも良くならない」と、不平を言われる方がおられますが、それは当然です。神様はあなたに期待していることがある。「次から次へと私に災いが起こって、家族の病気もあるし、こんな悩みも起こって、どうして私の所ばかりそうなのでしょうか」と。「いや、それはあなたのことを神様は愛しておられるからでしょう」と、「神様が愛しておられるのなら、あの人のように何もかもが三拍子そろって順調に……、ああなるのだったら」と嘆かれる。それぞれに神様の取り扱っておられることが違う。必ずしも、人が考えて、これが平等とか、こうあるべきだ、と思うことが神様の御思いと違うのです。だから、「イザヤ書」55章に「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(9節)と、神様のご計画は知ることができません。自分がいま受けている事態や事柄、「どうして私だけがこんな目に遭わなければいけない」、「神様は私を憎んでいるのかしら、私をいじめる」と、ひがみっぽく取っては駄目です。「神様は私を愛してくださる。私のことをご存じで、今こういうことを味あわせてくださる。その中で私にだけ与えようとしてくださる神様の祝福と恵みがある」ことをしっかりと覚えておきたいと思います。だから、人を見て、比べたら駄目です。

 

 このときの百卒長に対して、イエス様は実に優しいのであります。7節に「イエスは彼に、『わたしが行ってなおしてあげよう』と言われた」。これはうれしい話です。大喜びで、百卒長は「来てください」と言ったでしょうか。そうではありません。8節に「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません』」、来ていただくわけにはいかないと言うのです。これは先ほど申し上げたように、異邦人であるがゆえにユダヤ人を家に迎えることができないということも含めた、社会的な制約、ユダヤ人の目をも考慮したのだろうと思われます。あるいは、この方がイエス様のことを本当に、神から遣わされた御方であると信じたとも考えることができます。神なる御方が私のような汚れた者の所へ来ていただくことはできないと、そういう信仰に立っていたことも考えられます。いずれにしても、「イエス様、恐れ多くも、もったいなく、異邦人の私のような者の所へ来て病気を癒してくださるなんて、滅相もない」という思いであった。

 

そこで、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と言う。この人は「イエス様の言葉をいただいたら僕の病気も治る」と信じた。これは信仰です。お言葉を信じる。更に続けて9節に「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。「わたしも権威の下にある」と語っていますが、隊長さんは、同時にもう一つ上の千卒長という、千人の人を抱える部隊長がいる。もっとその上にも上官がいる。指令官の下で全てが統率される、これは軍隊の必須条件です。上官の命令は決して破るわけにはいかない。絶対服従、これが権威の下にあることです。軍隊生活そのものがまさに言葉による生活です。命令一下(いっか)、命令によって、ひと言上官が「進め」と言えば進みます。「止まれ」と言えば止まります。一糸乱れず全ての者がその命令どおりにすることが、軍隊の大原則です。もし、一人でもそれを破る人がいたら、その人だけの問題ではなくて、それは部隊全体の問題になるのです。平時といいますか、普段の生活だったら、少々命令を守らなくても問題は起こらないかもしれませんが、戦闘状態のとき、敵味方が入り乱れて銃撃戦などになったとき、隊長が「止まれ」と言ったときに止まり、「伏せ」と命じられたら即座に「伏せ」なければならない。一人でも勝手なことをされると、敵にやられてしまいます。勝手な人が死ぬだけで終わらない。その部隊の所在がはっきりして一斉攻撃を受けるでしょう。だから、たった一人の不従順が、部隊全体の命運に掛かっている。これが軍隊です。だから、徹底して命令、言葉に従う。

 

9節に「わたしも権威の下にある者」とはそのようなことを含めている。しかも自分の下にも兵卒がいる。そしてその兵卒に対して「行け」と言えば行く、「来い」と言えば来る。どんな時にも、たとえそれが困難と思えても、上官が「こうせよ」と言えばそのとおりにするのが兵卒、部下の役割。だから「ただ、お言葉を下さい」、言い換えると、イエス様が全てのものの権威ある御方、力ある御方であることを彼は告白したのです。この百卒長は「イエス様、あなたは全てのものを統べ治め給う力ある御方です」と、彼はこの9節で語ったのです。そのことを聞いたイエス様は10節に「イエスはこれを聞いて非常に感心され」、付いて来た人々に褒めていらっしゃる。「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」、イスラエル人ではないけれども、この百卒長はイエス様がどういう御方であるかを知っていました。そして、それを信じました。イエス様の恵みにあずかる、イエス様の力、ご愛、イエス様が私たちに与えてくださる全てのものを受け止める道筋がどこにあるか? それは、権威ある御方、イエス様の言葉に従うことです。これが全てです。というのは、上官である彼は、部下に命じるとき、部下の命を危険にさらすような命令は決してしない、とよく知っている。部下のためにはどんなこともいとわない。その代わり命じることはちゃんと守ってくれよ、そうすればあなたたちも幸せになれるし、命を全うすることができることを、上官としての体験、また自分自身も兵卒として仕えてきた経験から身にしみて彼は知っているのです。だから、ここでイエス様を権威ある御方、力ある御方、私はその御方に従うべき者、それどころか、全ての者がこのイエス様の命じるところに従うのだ、と彼は認めて、信じていた。だから、イエス様は10節に「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」とおっしゃったのです。ここで「こんな立派なことを言う人をお前たちも見習えよ」と言われたのではなく、百卒長の言葉を通して、「彼の中に、ここに信仰がある」と語っておられるのです。「これこそが信仰だよ」と。ここでイエス様が「これほどの信仰を見たことがない」と言われたのは、何であったか?というのが、今申し上げましたように、イエス様の言葉を権威ある、力あるものとして信じることです。お言葉を信じること、お言葉をしっかりと自分のものとして受け止めること、そして、その信じたところに従って行く。これが信仰だ、とイエス様は語っている。

 

11節以下にイエス様は、あなたがたは神に選ばれた民でありながら、終わりの日には捨てられてしまうであろう、と語っておられます。ここでイエス様が求めていることをずばり言い表したのが、この百卒長だったのです。イエス様は、ご自分が神から遣わされたものであって、神様の力と権威を握った御方、イエス様の語る一つ一つの言葉こそが、神の命令。それは私たちに命を与え、幸いを与え、喜び、力を与えてくださる神様の約束です。それが信仰です。だから、私たちが聖書のお言葉を信じること、神様のお言葉である御言葉を信じていくこと、これが全てです。

 

イエス様は13節に「それからイエスは百卒長に『行け、あなたの信じたとおりになるように』と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた」。「あなたの信じたとおりになるように」、私たちが御言葉を信じること、これが全てであります。御言葉を信じて従う。これが私たちの信仰であり、いのちです。ですから、私たちは聖書のお言葉を繰り返し、繰り返し味わい知るわけであります。百卒長が言うように「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。イエス様はできないことのない御方、といって、イエス様が直接出掛けて、その病気の人に手を置いて、何かまじないのようなものでもしたら癒されたと、そうではないのです。イエス様を信じるのは、イエス様のお言葉を信じて、その言葉に従うこと、これが信仰であります。そうするときに必ず神様は、そこにご自身の結果を体験させて、味あわせてくださるのです。

 

「詩篇」119篇105節から108節までを朗読。

 

105節に「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」とあります。神様の御言葉、これは「わが足のともしび」、「足」というのは、歩みです。「わが道」、私たちの人生、生きる道筋、それをはっきりと示してくださる光。いうならば、御言葉が私たちにとっていのちの光であり、力である。その御言葉を絶えず守って実行する。106節に「わたしはあなたの正しいおきてを守ることを誓い、かつこれを実行しました」。ここに「正しいおきて」といわれていますが、これは御言葉のことでもあります。107節に「わたしはいたく苦しみました。主よ、み言葉に従って、わたしを生かしてください」と。119篇の詩篇は、初めから終わりまで御言葉がどんなに私たちにとって大きな力であり、恵み、慰め、喜び、望みであるかを語り続けている。

 

「詩篇」119篇97節から104節までを朗読。

 

97節に「あなたのおきて」と書かれていますが、これは神様の御言葉のことでもあります。そのおきてを愛し、「ひねもすこれを深く思う」とありますように、いつもそのお言葉を自分の心に置いて、「ひねもす」、朝から晩までそれを反すうする、絶えず心に思い巡らす。また98節に「あなたの戒めは常にわたしと共にあるので」と、この「戒め」も神様のお言葉です。だから、戒めによって「わたしをわが敵にまさって賢くします」とありますように、愚かな者を賢くしてくださる。御言葉を味わい、神様の知恵を頂くとき、私たちに神様は悟りを与えてくださる。物事の全ての理(ことわり)といいますか、隠された秘密のことを明らかにしてくださる。これは聖書を読み、神様のお言葉を常に味わいますと、この世の中の……、それはもちろん学校も行っていない、学問もしていない人であっても、生きる知恵に満ちた賢い人になることができる。これは聖書にあるとおりです。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」と、130節にあります。世の中にはいろいろな知恵、言葉があり、人生を生きるには「ああせよ」、「こうせよ」と、賢くなるように、人を出し抜いて、少しでも勝利者になる、勝ち組になろうと、情報を集めたり、賢くなろうとしますが、しかし、いちばん幸いなのは、この聖書の御言葉を心に抱いて、そのお言葉を思い巡らしていくことです。

 

ですから、98節以下に「あなたの戒めは常にわたしと共にあるので、わたしをわが敵にまさって賢くします。 99 わたしはあなたのあかしを深く思うので、わがすべての師にまさって知恵があります」と。「あかしを深く思う」、これも御言葉を深く味わうことです。そうすると「知恵」を与えられる。そして100節には「わたしはあなたのさとしを守るので」、これも御言葉です。「老いた者にまさって事をわきまえます」、どんなに若くても人生の真実、様々なことを悟ることができる。それは御言葉を守るときです。聖書の御言葉が私たちにとってどんなに大きな慰めであり、また知恵であり、力であるか、そのことをしっかりと味わって行きたいと思うのです。103節に「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです」と。御言葉が私たちの心を豊かに慰め、力付け、また痛み、悲しみを慰めてくれる力ある甘いものとなって私たちの内に宿ってくださる。確かにそうです。

 

だから、私たちはいつもあの百卒長のように「お言葉を下さい」と、神様のお言葉を絶えず慕い求める。その言葉に潤(うるお)される、慰められる、力付けられる、これが信仰であります。

 

ですから、「マタイによる福音書」8章8節に、「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。「お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。聖書を読みますと、初めから終わりまで徹底して語られているのはこのことです。御言葉を信じる。

 

アブラハムもそうです。まずアブラハムに神様はあらわれてくださって、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)とおっしゃった。彼は神様の約束、お言葉を信じたのです。そして行き先を知らずに出て行きました。そのとき彼は「主が言われたようにいで立った」とあります。「行け」と聞きながら、聞きっ放し、「そのうち行きましょう」というのではなくて、「行け」と言われて、彼はそこから踏み出していきました。

 

ノアもそうです。ノアの時代は暴虐が地に満ち、悪がはびこっていた。ただノアは一人、神様を恐れる忠実な人でありました。ある日、神様はノアに船を造ることをお命じになりました。とんでもない話であります。彼にとってその船が必要なわけではない。ただ言われるままに彼は船を造る。その労力たるや、大変な苦労があったと思います。とてつもなく大きな船を造りました。そのときも神様は「このように造れ」と細かく指示を出していらっしゃる。その最後の所に「ノアはすべて神の命じられたようにした」(創世記6:22)と、ひと言語られている。ノアは神様のお言葉のとおりに従った。その結果、あの大洪水の中にも滅びることなく命を全うすることができた。これはやがて来るイエス様の予表、ひとつの予言でもありますが、イエス様の救いにあずかる私たちも、ゴルゴダの十字架で主に直接お会いしたわけではない、イエス様を肉体の目でもって見たわけではない、手で触ったこともない、何によってか?御言葉でしょう。聖書のお言葉を信じて、「それ神はその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり」(ヨハネ3:16文語訳)と、こんな私を、ひとり子を賜わるほどに愛するゆえに、あの十字架にイエス様をくぎ付けてくださったと信じて、それによって救いにあずかるのです。その他、聖書に語られている全ての人が神様のお言葉を信じたのです。

 

 モーセもしかりであります。ところがイスラエルの民は、神様のお言葉を信じなかったために大変な苦労に遭いました。エジプトを出立して、間もなくヨルダン川を越えると、カナンという所、カデシ・バルネアに来たとき、神様は一つの試みを与えられた(民数記13章以下)。「その地を探ってこい」と、各部族から代表を出して、12人の人が出かけて行って、40日間、その地を探ってきました。その結果、素晴らしい喜びのニュースもあります。「その地は肥えた地であって、大変素晴らしい食物が実る所」と、収穫を持って来ます。彼らは大変喜んだ。ところが、そこには先住民がいて、自分たちが行ったらまるで虫けらのように踏みつぶされて滅ぼされてしまうと、それを聞いたとき、皆は意気消沈がっかりして、エジプトに帰ろう、モーセとアロンを殺してでも帰ろうとしたのです。そもそも「カナンの地、約束の地をあなたがたに与える」とおっしゃったのは神様です。ところが、現実の状態を見たとき、彼らはお言葉を信じなかった。そのときカレブとヨシュアは「主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません」(民数14:9)と彼らをなだめましたが、とうとう神様の怒りを受けて、更に40年間、荒野の旅路を歩むことになりました。なぜそうなったのか? ただ一つ、その聞いた言葉を信じなかったからです。そのことが「ヘブル人への手紙」にあります。

 

 「ヘブル人への手紙」4章1,2節を朗読。

 

 ここに「神の安息にはいるべき約束」とあるように、神様の約束をいま私たちもいただいております。この地上の旅路はやがて終わります。終わったならば、「あなたがたは心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)とおっしゃる。「わたしの父に家には、すまいがたくさんある」、「わたしはあなたがたのために場所を用意しに行くのだから」と。だから、私たちはそれを信じて、永遠のいのちの生涯に入れられる希望を持っています。しかし、現実に肉にあって生きている生活で、いろいろなことに捕らわれて、御言葉から離れてしまう。2節、「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった」と。イスラエルの民はせっかくカナンの地に入るという約束を受けながら、疑ったために神様の約束を信じ通せなかった。そのために40年の荒野の生涯を続けることになりました。しかし、その間も神様はマナをもって養い、岩から水を出して飲ませ、40年間、彼らを絶えず持ち運んでくださったのです。決して懲罰として、刑罰として40年間を与えられたのではなかった。むしろ、その40年間を通して、神様は、彼らをはぐくんで、成長させてくださった。

 

 だから、神様の御言葉をまず私たちが素直に受け入れ、信じ、お言葉に従うとき、神様は不思議なことをしてくださる。そこにありますように、「その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかった」と。御言葉と自分とを切り離してしまう。「御言葉はなるほど立派なお言葉で、飾っておきましょう」と、飾ってはいるけれども、自分はそれとは関係がない。そこをつながなければ駄目です。御言葉に密着するのです。これが何よりも大切です。「主がこうおっしゃるから……」、「聖書にこう書かれていることなのだから……」、「神様がそうおっしゃることですから」と信じるということです。

 

 先だってもある一人の方がお証詞をしておられたのですが、その方は持っていた鍵をなくしてしまった。出先でなくしてしまって、開けようとしたら、「あっ、鍵がない」。しかもその方は家の鍵ばかりでなく、いろいろな仕事関係の鍵もたくさん束にしていた。落としていたらどこかで見つかるはずだと、それからあちらこちらいろいろな所に電話をして尋ねたけれども無い。そのときに御言葉が「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである」(詩篇 46:1)と、「悩める時のいと近き」、「いと近き」そばにいらっしゃる。「そうだ、神様にお祈りをしよう」と、それまであちらに電話をし、こちらに電話をし、忙しかった。どこにもない、それで「お祈りをしよう」と。「いと近き助け」と、約束です。私たちは御言葉を知りながら、信仰によって結び付けないとだめです。その方はそこでお祈りをした。そうしたときに、「そういえば、もう一軒帰りがけ、買い物に寄った店がある。でも落とせば音で分かるし、そんな所でいちいち鍵を出すこともないし」と思ったが、取りあえず、そこへ電話をした。「鍵を落としたけれども届け物はありませんか」と。「あの青いタグの付いた鍵ですか? 」、「はい、そうです」、「ありますよ。預かっています」と、瞬時にして事は解決。そのときもう一度、「いと近き助け」、「こんな所に助けがいらっしゃるのに私は一体どこをさ迷っていた」と、そのようにお証詞をしておられました。私は御言葉を信じることが大切だと思いました。聖書のどこにもあるでしょう。いくらでも皆さんがいま心配していること、悩んでいること、いくらでもそばに助けてくださる御方がいらっしゃる。「お言葉を下さい」。

 

 「マタイによる福音書」8章8節に、「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。百卒長にとってイエス様が「いと近き助け」であったのです。私たちにとって、あなたにとって「いと近き助け」は何でしょうか? あの人がいるから、この息子がいるから、これがあるから、あれがあるから、助けてもらえる。そうではありません。御言葉こそ「わが足のともしび」、しっかりと御言葉に絶えず潤され、力付けられ、そのお言葉と交わりをもつ。これが神様を愛することであり、イエス様に従うことです。「お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」、絶えず主のお言葉を信じて「そうです。あなたの約束のとおりです」と信じ、感謝して先へ進んでいきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


8月6日教会学校聖言

2017年08月07日 | 教会学校聖言葉
「人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」
サムエル記上16.7
 
 ダビデが王様として選ばれる際に神様が語られた聖言葉です。
戦争が絶えない時代ですから、当時の王様は勇猛さを求められたに違いありません。
しかし、神様が選ばれたのはおよそ戦向きとは思えない、姿の美しい少年のダビデでした。

 神様は力のないものに力を与え、無から有を生み出す方です。
事を成すのに相手の能力など関係ありません。
ただひとえに神様に信頼し、従うかどうかを見られます。
自分を磨くこともいいですが、主に頼む信仰に勝る力はありません。(正野)

聖書からのメッセージ(573)「神の民の自覚」

2017年08月07日 | 聖書からのメッセージ

 ペテロの第一の手紙」1章13節から31節までを朗読。

 

 15節「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。

 

 「聖なる者となりなさい」といわれると、現実の自分を振り返って、「これは、到底無理だ」と思います。「聖」という言葉は、清い、あるいは崇高なという意味合いの言葉ですから、普段の私たちとは全く縁がない。しかも「あらゆる行いにおいて」といわれるように、私たちの生活の隅から隅まで、ことごとくにおいて「聖なる者となりなさい」という事です。「これは大変なことになった。神様からこんな要求を突き付けられて、そうでなければ救われないのだったら、私は到底無理」と、多くの人がそう思うでしょう。また、私もそれを求められたら、到底できようがない。「聖」という言葉は、そういう清い、何一つ汚れのない、透き通ったといいますか、光のような性質、性情、性格、「これが聖(きよ)いもの」と人は思います。ところが、人間はどんなことをしてもそういう者に変わることは、自分ではできません。世の中には非常にまじめな人がおられて、一生懸命、何としても自分の性情性格を造り変えて、清い、すがすがしい性格になりたいと願う人もおられます。そのために懸命に修業を積むといいますか、いろいろな難行苦行を耐えて、自分を鍛え、清める。人間は、そもそも様々な欲望が渦巻いていますから、いろいろな思いが絶えず湧いてきます。人の行動を見たり、あるいは、日々の生活で心が騒ぎますし、揺れます。怒る事もあるし、失望落胆することもあります。そういう自分を見ていると、何とも俗っぽい人間、欲もあれば、人をねたむ思いもあるし、「自分はどうしてこんな嫌な人間なのだろうか」と思います。そこへもってきて、神様は「聖なる者となりなさい」と。これはもう到底不可能、「私はそんな人間になれません」と言わざるを得ません。

 

 イエス様の所へ一人の人が訪ねて来て、「永遠の生命を得るにはどうしたらよいか」(マルコ10:17~)と尋ねました。そのときイエス様は「律法を守れ」と、まず十戒ですね、「これを守りなさい」といわれました。その方は「それはみんな小さい時から守ってきました」と言う。だからイエス様はその人に感心して、「いつくしんで」見ておられたと。幼い時から十戒の全てを落ち度なく守ったと自分で言える人は、まずいないと思います。皆さんでもそうでしょう。十戒の全部を落ち度なく守る。「わたしのほかなにものをも神としてはならない」(出エジプト20:3)、第一の戒め。これ一つ、徹底して守ることのできる方はいない。神様どころか、あれが大切、これが大切、私の命が……、と思います。形ある偶像は造らないけれども、心の中に神ならぬものを神とする。それどころか、己を神とする。「自分が神だ」と思っているときがあります。そのことを思っただけでも、戒めを完全に守り行うなんて、到底不可能です。

 

 ところが、イエス様の所へ来たその人は、「守った」と言うのです。だから、イエス様は感心したのです。「立派な人物だ」と思った。けれども、私がその記事を通して教えられるのは、到底人ではなし得ないような律法を完全に守ったその人ですらも、「自分はこれで良い」と言えなかったのです。やはり、「ここまでやったけれども、これで大丈夫だろうか、永遠の命という神様の救いにあずかるには、これでは足らないのではないか」という思いがあるから、イエス様の所へ来たのです。もし、自分が完全に落ち度なく律法を守りつくして、「自分はこれで神様の前に義なる者、清い者とされた」という確信があれば、イエス様の所へ来る必要はないのであります。ところが、彼にはその確信がなかったのです。自分の努力や、自分の力でそれを得ようとしても、確信が得られないのは当然であります。私たちが何かのために一生懸命に尽くします。「こうありたい、こうしよう」と努力します。しかし、「十分やったからこれで何の心配もない。パーフェクト」と言えることはありません。

 

 大学の受験生は入試まで一生懸命に勉強をします。勉強をし尽くして試験に臨みますが、誰ひとり「自分は大丈夫、これで通る」と思っている人はまずいないと思う。「8割ぐらいは大丈夫と思うけれども、後2割、あるいは1割はひょっとしたら?」という不安が常にある。完全に「よし」と言える人は、まずいません。確かに周囲の人は模擬試験の成績を見たり、偏差値を見たりして自信を持ちますが、たとえ全国模擬のトップであったとしても、いよいよ自分の希望の大学を受験するとき、「こんなのは朝飯前や」と言えるかと、やはり不安を感じます。「大丈夫だろうか、これでよかったのだろうか」と。「もう少し、あれもしておかなければ、これもしておかなければ」と。

 

私たちが神様の前に立って、「罪なし。あなたは何のとがめるところもありませんよ」と言われるために、自分で努力しなければならないとするならば、これはもう無理であります。そして、いくら努力してもそれに達し得ません。大丈夫との確信が得られません。

 

イエス様の所へ来たその人も自分はそんなに一生懸命に努力して守ってきた。「でも、まだ足りない」と思ったのです。イエス様は彼に「あなたの持っているものをみな売り払って貧しい人に施して、天に宝を積む者となりなさい。そして、わたしに従ってきなさい」とおっしゃったのです。「それが永遠の生命だよ」と言われたのです。ところが、その人は「それはできない。それはもう無理や」と思って去って行った。それはそうです。自分の力でやろうとすると、それはできないのであります。

 

となると、15節「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」と、とてつもない要求を出されたら、私たちはお手上げであります。「聖なる者となるためにどうすりゃいいのか? 」この世に生きていたら、自分は欲望の塊、あれもこれも欲しい。あいつは嫌いや、と心の中を見られたら、それはドロドロのヘドロだらけの心でしかありません。罪の塊であることは自分がいちばんよく知っている。到底聖なる者となりようがない。「では、神様は私たちに何を求めていらっしゃるのか」。ここに「あなたがたを召して下さった」とあります。神様は私たちを神様の所へ招いてくださった。私たちは今まことの神様を信じる者へと導かれていますが、誰一人自分の力でそうなろうと思ったわけではありません。確かに表向きは具体的な切っ掛けがあって、たまたま友達に誘われたとか、どうしても解決がつかない悩みがあったから、何とかその救いをと思って、教会の扉をたたいた。あるいは行き掛かりで、そこに教会があったから取りあえず入ってみようと入ったとか、それぞれの具体的な切っ掛けはあるでしょうが、実はその背後に、神様が私たちを招いてくださったのです。だから、今ここにこうして座っているのは、今朝「することがないから、教会へ行こうか」と、決めたわけではない。神様が思いを与え、願いを与え、押し出してくださったのです。背中を押してくださったのです。だから、今こうしてここにおらせていただくのです。だから「召して下さった」とあるように、神様が私たちをここに招いてくださったのです。その御方は「聖なる御方でいらっしゃる」と。神様は清い、聖なる御方、その聖なる御方にならうようにと招かれた私たちです。神様の御許(みもと)に引き出された私たちもその神様に等しい者となりなさい、というわけです。「さて、これからどうしようか」と。「そんな宿題を出されるために私は来たわけではない」と思うかもしれません。

 

ここで大切なことは、「聖なる」というのは、何なのか?「聖」というのは、神様のご性質であります。何か姿形のあるものが聖なるものではなくて、神様ご自身が聖なる御方でいらっしゃいます。私たちは、神様のご性質、聖なるものになることはできません。「だったら、なぜこんなことが言われているのか」と思いますが、確かに私たちは神様のご性質である聖なる者ではありませんが、この「聖」という言葉は、もうひとつ「取り分ける」という意味があります。神様のものとしてそれを取り分けるとき、これが聖なるものであります。言い換えますと、神様が私たちを招いてくださったのは、私たちをこの世から神様のものとして取り分けてくださったのです。

 

「ヨハネによる福音書」17章14節から19節をまでを朗読。

 

イエス様が最後の晩さんの席で祈られた最後の祈りであります。これはまた私たちに対する祈りでもあります。この14節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」と語っています。「彼ら」というのは、私たちのことでもあります。イエス様が私たちの救い主となって、私たちが神なき世界に生きていた、自分勝手なわがままな自己中心の罪の中に苦しみうめいていた私たちを、イエス様はご自分の十字架の血潮によってあがなってくださった。命をもって罪の支配から買い取ってくださった。そのことが「世のものではない」といわれているのです。私たちはこの世には生きているけれども、もはや、この世のものとしてではなくて、イエス様の尊い十字架の命によって、この世から取り分けてくださった。キリストのものとしてくださった。ここに「わたしが世のものでないように」とあります。イエス様はこの世に属するものではありません。神の御子でいらっしゃる御方です。その御方があえて人となって、確かに人の世には住んでくださいましたが、それはこの世のものとして生きたのではなくて、神様によって派遣されたものとしてこの世に来ておられたのです。だから、イエス様はこの世に住んで、ペテロやヨハネたちと同じように、その時代の人と寸分違いのない、どこを取っても違った所のない“人”となってくださった。だからといって、この世のものではありません。

 

外国の政府機関から日本に遣わされて来る大使とか、領事などがいらっしゃいます。福岡にもアメリカや中国や韓国の領事館がありますが、その人たちは普段は町中に出て来て、私たちと同じスーパーでショッピングもしますし、韓国や中国の人たちは見たところ我々と同じ服装をしていますから、全然分かりません。じゃ、彼らは日本人かというと、そうではなくて、ちゃんとそれぞれの出身の代表であるという自覚があります。この日本の国民ではありません。

 

私たちもイエス様の救いにあずかって、イエス様を信じ、この世から神様のものとしてとり分けられた存在です。この世から神様に属するもの、神様の所有、言い換えると、イエス様の命を代価としてあがなわれた存在、買い取られた存在となった。ですから、イエス様が「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ20:21)とよみがえられた最初におっしゃいました。私たちは、イエス様によってそれぞれの家庭や職場に派遣されているのです。だから、この世に生きていますが、「私たちはこの世のものではない」。これをまず自覚しておきましょう。そういうことをいつも自覚していらっしゃいますか? 案外忘れている。この世のものと一緒になっている。ところが、14節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」とはっきり言われています。私たちはこの世のものではない。これがイエス様の救いにあずかる者の姿です。私たちは今日もこうして八幡の町に生きています。スーパーで買い物もし、生活する場所も、この世の人と全く同じであります。どこを取っても変わりはありません。違いがあるのは、魂、心です。これが違うのです。私たちはこの世にあるけれども、この世のものとして生きるのではなくて、神様によって遣わされて生きているのです。

 

 イエス様が15節に「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく」とここで祈っておられるように、神様は、私たちをイエス様の命によってあがない、救い出して、私たちをこの世からどこか花のうてな(高殿)、カプセルのような温室に移してください、というわけではないのです。あるいは、深山幽谷、どこか人里離れた所に庵(いおり)を組んで、世から離れた別世界といいますか、超越した生活に私たちを置くというわけではありません。「いつも神様がこの取り分けられた、神の民とされた私たちを守ってやってください」。これがイエス様の祈りであります。そして16節にもう一度繰り返して、「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」と。

 

その後の17節に「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言(みことば)は真理であります」とあります。「彼らを聖別して下さい」、清い者として、きちんと取り分けてください。そして「真理によって」とあります。「真理」というのは「御言(みことば)」と言い換えられています。御言葉によって私たちを聖なる者として取り分けてください。神様につける者としてくださいと。私たちはこの世に生きていますが、しかし、常に私たちが神様の所有、神様の子供とされて、御言葉によって絶えず神様との交わり、神様のいのちにつながっていく。これが聖なる者です。18節に「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」と。イエス様が父なる神様にこの世に遣わされてくださったように、今度は私たちをそれぞれの地域や社会や家庭や職場、いろいろな所に遣わしてくださる。だからといって、私たちはこの世のものではありません。誰のもの? 私たちは主のもの、神様の所有、神の子供、神の民であります。神様の所有とされる、神様のものとして自分を自覚していくこと、これが「聖なる者になる」ことです。聖なる御方、神様の所有になる。その結果、私たちは聖なる者と唱えられるのであります。

 

その人の持ち物となるということは、その人の所属であります。たとえば、やん事無き(非常に高貴な)身分のお方が、自分のものとしてハンドバッグとか、何かを持っている。そうすると、高貴な方のものですから、従者たちはそれを大切に持ち運びます。高貴なる人が持っているからといって、その品物が他の品物と性質が変わったわけではありません。デパートで買うしゃれたハンドバッグがあります。代価をはらって買いますと、その人の所有となります。天皇がそれを買ったら、品物は同じであっても天皇が握った途端に、他のものとは違うそれは大切な物として取り扱われる。

 

だから、聖なる御方が「これはわたしのものだ」と言ってくださったら、それは「聖なる者」です。これが聖別される、聖なる者となることです。私たちはいまイエス様の命によって神様に買い取られた。「わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」とイザヤ書(43:1)に語られている。神様の所有とされた私たちは、たとえ出来そこないで、腐ったようなものであっても、神様のものとされたゆえに、これが「聖なる者」なのです。そこで大切なのは、私たちがそれを日々自覚していくことです。

 

 ですから、「ペテロの第一の手紙」1章15節に「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。「聖なる者となる」、それは今申し上げたように、この世のものではなく、神様のものとして取り分けられたことを、私は私ではなく神様のものなのだ、ということをどんなことの中でも自覚して、決してそれを忘れない。これが大切です。私たちは今はっきりとそのことを自覚して「私は神様のもの、この世のものではない」「私は私であって、私のものではない」と自覚する。だからパウロは「生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」(ローマ 14:8)といっています。神様のものは、みな清い聖なる者なのです。

 

 だから、神様に従う人々を聖徒といいます。「聖なる人々」なんて言われると、「くすぐったいような、とんでもないことを言われてしまった」と思いますが、自分が清いからではありません。私たちには聖なるものは何一つありません。しかし、聖なるお方が、神様が「あなたはわたしのものだ」と。神様の一部分として、神様の所有としてこの世から取り分けてくださった。このことを日々の生活のどんなことの中でも自覚していただきたい。だから、「あらゆる行いにおいて」と語られています。この世の生活の全てのことの中で、神様の所有とされた私、神様のものである“私”を常に自覚していく。そうしますと、気がつかないうちに私たちに神様のご性質が移ってきます。だから、パウロは「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(Ⅱテモテ 2:8)と語っています。イエス・キリストをいつも思う。取りも直さず、それは神様が私をあがなって、神様のものとされたのだ、と自覚していく、覚えていくことです。そうやって神様のことをいつも思い、イエス様のことをいつも心に覚えていますと、性情性格が変わります。神様は私たちをご自分のものとして、「これはわたしのものだ」と決めて、ご自分の所有にふさわしく手入れなさいます。

 

 無けなしのお金をはたいて大切な一つのものを買うと、それをなでたりさすったり、大切にするではありませんか。そして自分のいちばん使い勝手の良いものにしようとします。ましてや神様は、尊いひとり子の命をも惜しまないで、私たちをご自分のものとしてあがなってくださった、買い取ってくださった。「あなたはわたしのものだよ」、「あなたがどこへ行くにもわたしは一緒にいるじゃないか」とおっしゃる。私たちはそれを忘れるのです。そして勝手に神様から離れてしまうから、神様は「駄目だよ、わたしの所へ帰ってきなさい」と招いてくださいます。聖なる者として、神様はご自分の所有として、私たちを買い取ってくださった。だから、朝起きてから夜寝るまで、毎日の生活の中で、買い物をするにしても、洗濯をするにしても、何をするにしても、「いま私は神様のものとされているのだ。だから、神様の御心に従う」と心を決める。先程、「御言(みことば)によって聖別する」ということをイエス様は語っています。それはいつもイエス様のことを思うとき、御言葉が絶えず心に思い起こされます。不安なとき、恐れが湧いてくるとき、心配するとき、心を騒がすような事態や事柄の中、いろいろなことの中で、「いま神様がこのことを起こしてくださっておられる。神様が導かれることがあるに違いない」と、常に思いが神様に結び付いていく。そういう思いで常に生活してごらんなさい。私たちの性情、性格、顔つきから、立ち居振る舞いまで全部変わります。なぜ変わらないかというと、私たちが「主のものである」ことを忘れるからです。

 

 「コリント人への第二の手紙」3章15節から18節までを朗読。

 

 16節に「主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」とありますが、「おおい」とは、私たちの罪のかしゃくといいますか、罪の幕であります。神様と私たちの関係を遮断していたものは何かというと、罪です。その罪を取り除くのは、誰の力といって、イエス様、十字架によるほかはないのであります。イエス様は十字架によって神様と私たちを隔てていた中垣を全部取り除いてくださいました。そして神様の栄光を見る者と変えてくださった。ですからここに「主に向く時には」とあります。私たちがイエス様に心を向けるとき、罪の一切の妨げを取り除いてくださる。そして直接顔と顔を合わせるごとくに神様のお顔を見ることができる。聖なる御方と一つにせられていく。17節に「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」。神様は、よみがえってくださった主は、いま聖霊、御霊となって、私たちの内に働いてくださる。だから18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに」、言い換えると、罪の隔てなくして、隔てをすべて取り除かれて、「主の栄光を鏡に映すように見つつ」、神様のご性質、聖なる御方のご性質に、その姿を目の当たりに見るのです。だから、常に私どもが、今日も主によって取り分けられて、「私は神様のものです」と自覚していく。そうしてまいりますと、私たちの内に神様の光が、ご性質が注がれてくる。しかもその後に「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」とあります。私たちの性情、性格、心と思いを全部清めて、神様のご性質に近い者へと造り変えてくださる。この素晴らしい恵みに私たちを引き入れて「聖なる者となりなさい」、「神様の所有となりなさい」、「神様のご性質に変えられて行きなさい」と勧められているのです。神様は私たちをそのように造り替えようと願っておられるのです。ねたむ思いや、憤る思い、あるいは自己本位の思い、譲られないかたくなな心がなかなか変わらずに苦しみます。それを何とかしようとしますが、既にイエス様が十字架によって私たちの罪を清めてくださったのですから、ただひたすらに神様に目を留めて行くこと、主のものであることを自覚していく。たとえ自分の状態がどんな状態であるかを見ながらでも、「いや、大丈夫、神様が私をあがなってくださった。神様のものとしくださった」と、片時も忘れてはならない。そして感謝する。「こんな者を今日も、主よ、あなたの民とし、あなたの子供としてくださって感謝です」と、絶えずそこにとどまっていきますと、神様のほうが親に似る子供に変えてくださる。神様はご自分の性質に私たちをあずからせてくださる。ここに「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と約束されています。これはすごいことです。神の聖なるご性質に私たちを造り替えて、この肉体にありながら、この世にありながら、私たちを永遠の御国に住む者へと変えてくださる。「これは霊なる主の働きによるのである」と、あなた方の努力によるではないのです。私たちの頑張りによってそうなるというのではないのであります。ただ、自分を神様の御手に委ねて行くとき、神様のほうが私たちを造り替えて、栄光の姿へと変えてくださる。

 

 「ペテロの第一の手紙」1章15節に、「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて」と、具体的な日々の歩みの中で、「私は主のものです」、「私はいま神様の子供だ」と自覚していく。そうすると、おのずから「神の子供だったら、その必要はない、これもいらなくなる、こうしておこう、ああしてあげよう」と、今まで自分になかった性質が芽生えてくる。今まで罪のゆえに隠されていた神様のご性質が私たちの内に新しく造りだされていく。だから、常に私たちはそのことを自覚して、「あらゆる行いにおいて」、友達と話すときでも、旅行をするときでも、どんなときでも「私は主のものです」と、神の子供とされている自分であることを、常に自らが自覚して生きる者となりたいと思う。そのとき、私たちの心と思いが全く造り変えられて、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に」、キリストの栄光の姿へと変えてくださるのであります。神様は「そうする」とおっしゃっているのですから、「はい、どうぞよろしく」と、無条件で神様の御手に委ねて行きたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。