いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

3月31日 日々の聖言

2015年03月31日 | 日々の聖言

「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。

たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。」ルカ12:15 


物質的な豊かさで人を生かすことはできません。生活が楽になり、様々な物に溢れる

時代になりましたが、それにつれて生きる命が消えかかっています。イエス様は神に

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聖書からのメッセージ(511)「御前に謙り…」

2015年03月31日 | 聖書からのメッセージ
 
「ヤコブの手紙」4章1節から10節までを朗読。

8節以下「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。 9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」。

神様の祝福と恵みを受けるには、ひとつのルールがあります。どんなことでもそうですが、事をしようとすると、手順といいますか、やり方があります。その手続きをしなければ目的を達することができない。役所に行って届け事をするときでも、「ここでこうして、その次はこうして」という順序があります。神様に願い事をする、あるいは、神様の祝福や恵みを頂くにも、それなりの手順といいますか、やり方があるのです。それはそんなに複雑な事ではありません。極々単純なことです。6節にも語られています。「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』」。「へりくだる者」、これが大切なキーワードです。神様からの助けを得る、あるいは恵みにあずかる秘けつはただ一つ、それは何か? 私たちが神様の前にへりくだる、謙遜になることです。これはなかなかできにくいことです。といいますのは、私たちには自我といいますか、自尊心というものがしっかりありますから、へりくだる、謙遜になることは大変困難です。というのは、自分を捨てなければならない。自分の思いや、自分の計画、自分がこうしたいと願っているような事、そういう物を取りあえず捨てて、へりくだる、謙遜になる。これが神様の大いなる祝福にあずかるただ一つの道です。ところが“言うにやすく行うに難(かた)い”、殊に「謙遜になれ」なんて言われて、「はい、分かりました」と、口先で言うことはできます。日常生活では「私はそんなことできません。こんな弱い者です。知恵のない者です、愚かな者です」と、人前ではそうやって謙遜ぶるといいますか、謙遜な様子を装(よそお)うことはできますが、神様の前にはそれは通じません。お祈りをするとき、神様に「私はこんなに小さな者で、本当に愚かな者ですから……」と言っても、『神様は心を見る』と言われるように、神様は私たちの心を見ておられるから、口先だけでは通じません。私たちが本当に心から謙遜になってへりくだること。これがなければ神様の祝福や恵みを受けることができません。

6節「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』」。まさにこのことです。そのことを繰り返して10節に「主のみまえにへりくだれ」といわれています。誰か人の前ではありません。神様の前に謙遜になること、本当に己(おのれ)を捨てて掛る。自分の思いを捨てて、神様の御前に徹底して自分を低くしていく。これが「主の前にへりくだれ」ということです。「そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。「高くする」とは、祝福し、恵み、私たちに助けを与えてくださるという約束であります。これは信仰生活の絶対的な黄金律といいますか、欠くことのできない大切な姿勢であります。

「へりくだる」とはどういうことか。それは8節「神に近づきなさい」ということです。私たちが神様に近づく、神様を呼び求める。これは謙遜にならなければできません。人は誰かに物事を頼むにしても、なかなか言いにくいですね。「あの人に言ってもいいけれども、また後で何を言われるか分からん」とか「私は頼みたいが、ちゃんとやってくれるかしら、私の思ったようにしてくれるかしら」と、いろいろな思いがあります。あるいは「あの人には以前あんなことがあって頼むのも嫌だ」、「死んでもあいつには頭を下げん」とか、すぐ人に対して突っ張るといいますか、謙遜になれないのです。そうであるかぎり相手から助けてもらうことはできないし、また、こちらの願いを聞いてもらえることは到底あり得ません。やはり謙遜になって近づく。8節に「神に近づきなさい」、私たちが神様に謙遜になって求めて行く。

「そんな神頼みなんかするほど、俺は落ちぶれていない」などと、よく言いますが、それは高慢です。「神様に頼むぐらいなら死んだほうがまし」と言う人もいますが、神様に頼むのは、まさに私たちが心をへりくだって謙遜になることに尽きます。ここにありますように「神に近づきなさい」と「そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さる」。私たちが神様を求めてへりくだって行けば、今度は神様のほうが応えて、私たちに近づいてくださる。この順序はひっくり返せません。「神様がちゃんと助けてくれたら、私は神様を信頼します」、「神様がそれらしいことをやってくれたら、それはそれなりに私も考える所がある。応えてやりたい」と、そのように思っている間は、神様は決して私たちに近づいてくださらない。というのは、順序としてまず私たちが神様に近づくということが不可欠だからです。だから、どんなことでも、まず私たちが、こちらのほうが神様の前に謙遜にならなければ、神様からの祝福や恵みは受けられません。そのことが8節に「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さる」と言われることです。私たちが神様を求めて「主よ、どうぞ、憐れんでください」と神様に近付くならば神様は私たちに答えてくださる。応答してくださる。それは聖書に繰り返し、言葉を変えて述べられています。「 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイ 7:7)とイエス様はおっしゃいました。「求める」あるいは「捜す」「門をたたく」、これは私たちの側がそうしなければならない。私たちが求めるとそれに応えてくださる。人だってそうでしょう。「そんなこと、あんたに頼まんでもできる」と言っている間は、相手は手を出せません。「助けてやりたい」、「あそこはこうしたほうが良いに違いない」と思うことが沢山あっても、本人からそれを求めて来なければ、こちらが勝手に手を出すと嫌がられますし、煙たがられます。

 先だっても、一人の高校生ですが、間もなく定期試験だというのです。その子は頑張って自分のいちばん願っていた高校に入ったのですが、それを達成したら有頂天になって勉強をおろそかにしたために、1学期2学期と低空飛行もいいところ、クラスでどんびりになってしまいました。両親は心配しまして「どうなるだろうか」と思う。私も見ていてハラハラ気にはなる。でも本人は「僕はやればできる」と思っていますから、なかなかこちらの言う事を聞きません。私どもが「もう少しこういうことをしたらいいんじゃないの。クラブばかりしないで」と色々言う。携帯電話を持ったためにうれしくなり、四六時中やっているので、とうとうお母さんに「もう取り上げなさい」と、それで夜の10時から朝までお母さんが預かるということになりました。それだって本人は不服でならない。「自分でできる」と。ところが、先日も定期試験直前になっても全然勉強が進まない。私は何度も「少し勉強したら良いじゃないか。もし分からない所があったら聞きに来なさい。教会に来て勉強したほうが良いよ」と勧めるけれども、「いや、いいです。できます」と、そう言われるとどうにも手が付けられない。ところが、先週の日曜日、いよいよ切羽詰まったのです。「先生、教会に行って勉強しても良いですか」、「ああ、良いよ」と、少し変化してきたのです。そして私はいろいろと勉強の進み具合を聞いてみました。英語の成績がいちばん悪く、クラス41人中41番目。それで英語のことは少し分かりますから「ちょっと持って来なさい」と言うと、それまでは言う事を聞かなかったのですが、とうとう行き詰ってしまった。「先生、こんなです」と持って来ました。試験の範囲はこれとこれ、「それじゃ、短い時間だけれども私が見てあげるから」と言って、先週は礼拝が終わってから数時間特訓しました。それでも本人がやる気になっていますから、こちらが要求すればするだけ、どんどんそれに応えて……、実力はあるのです。ところがそれを発揮できない。自分はできると思っているから聞こうとしない。気の毒な話です。私は短い時間ですが精一杯やれることをしてやりました。それは本人が「そうしてほしい」と願ったからです。やはりへりくだって求めるならば、限りある力しかない人だって、なんとか応えようとします。

ましてや神様は私たちに対して何としても恵みたいという御思いを持っていらっしゃる。ただ、私たちがそれを頂くために謙遜になって神様の前に近づく、神様を求めること、まずこれが全てのことの前提です。神様は私たちを恵みたいためにいろいろな問題を起こされるのです。というのは、悩みに遭うと目が覚めます。私たちは自己本位ですから、調子がいいと自分の知恵と業で全てのことを思いどおり願いどおりに事を進めているように錯覚します。しかし思い掛けないことや願わないこと、予定しなかったような事柄や事態に出会うとうろたえます。

だから、8節に「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ」と。9節に「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」と。9節の言葉は意外な言葉で、本来ですと聖書にはもっと人を励ましてくれる「笑いなさい、喜びなさい、感謝しなさい」というほうが、神様が私たちに勧めなさることに違いないと思います。しかし、ここは全く逆でありまして、「苦しめ、悲しめ、泣け」と。「どうしてだ」と思います。「自分はもう十分苦しんでいる」「私は十分悲しんでいる。これ以上何を悲しめばいいのか」と言いたくなります。しかし「まだ、苦しみが足りん」と言われるのです。私どもは悲しむことがまだ少なすぎる。なぜか? 私たちはまだ「自分で何とかできる」「ここは何とか頑張ればできる。あの人もいるし、この人もいるし、これもある、あれもある」と、いろいろな物を持っている。「神様に頼るのもいいかもしれんが、そこまで落ちぶれてない」、「悲しいことはある、苦しいことはある、つらいこともあるが、しかし、まだ神様ばかりというわけにはいかない。まだ打つ手はあそこにもここにもある」と。だから、神様は9節に「苦しめ、悲しめ、泣け」と言われるのです。というのは、私たちが本当に苦しみの中に置かれ、どうにもならなくなると、「神様、あなただけです」という所に立たせられます。それはある意味で大変幸いな恵みです。ですからその後に「あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」とあります。勿論、「笑い」や「喜び」は別に悪いことではありません。むしろ多くの人が求め願っていることであります。しかし、それとても本当の喜び、本当の心からの笑いはあるのか? 自分の思いどおりになったから笑っている。物事が順調だから私は喜んでいる、楽しいというのでしたら、もしその喜びとしている事態、その元となる事柄が上手く行かなくなったとき、私たちはお手上げになります。本当の心からの喜びは、事情や境遇、物事がどんな状態の中に落ち込んでいても、いつも喜んでおられる。パウロがそう言っているように「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ 4:4)と。「いつも喜ぶ」、それはどんな事情、境遇の問題の中に置かれても、です。そうなるために、私たちは偽りの喜び、ただ肉にある喜び、自分の思いや願いが順調に行くから喜んでいる、安心している。それを、むしろぶち壊して本当の平安、誠の喜びにつながってほしいというのです。これは神様が私たちに願っていることであります。ですから、私たちはいろいろな苦しいことやつらいことに遭います。これは生きている間は必ずあります。しかし、それは私たちにとって恵みの日々なのです。9節に「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」と。そうすることによって、私たちが本当に神様の前にへりくだる。

確かに私はそう思います。思い掛けない病気になる。先日も高齢になられたご夫妻が訪ねて来られました。お二人とも身体的に不自由な中におられる。老夫婦お二人での生活です。「これからどうするべきでしょうか」と悩んでいます。「信仰生活を第一にして来られた方がどうしてこんな目に遭うんだろうか」と。昨日もご夫妻とお話をしていました。「先生、本当にこのようになってしまうなんて、自分はどうしてなのでしょうか」と。見える所は本当に気の毒ではありますが、そこでもう一つ神様がこの中を通して求めておられること、教えてくださることがある。何があってもいつも「神を信じる」ことに尽きるのです。というのは、滅びて当然であり、失われていたはずの者が今日も憐れみを受け、そしてなお生かされているのは神様の御業です。だから、いろいろなお話をしながらそのことをお伝えしたのです。確かに見えるところは、ご主人の状態、自分の状態、家庭の状態、経済的な状況、いろいろなことを考えると「もう駄目か」と思えるような、失望落胆するような状況にあることは確かです。しかし、それもまた神様のわざにある。今ここにこうして少なくても体を動かすことができ、また毎日の生活、一日、一日困難ではあるけれども、それなりに日を過ごすことができている。まずそのことを感謝しようではありませんか。神様がいまあなたをそこへ置いてくださったのであって、どうしてこんなことになったか、私たちにはその理由は分からない。しかし、たとえ分からなくても、困難であっても、徹底して神を信じること、これが私たちのなすべきことの全てです。状態が良いとか悪いとかに関わらず、どんな状況に置かれても、そこで神様だけを望みとしていく。8節の後半に「罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ」と。それは私たちの心が神様だけに一途(いちず)に目を留めて行くことです。私たちはいろいろな中に置かれるに違いない。しかし、その中で常に心を清く、神様だけに目を留めることです。思いを神様だけに向ける。見れば目の前の状態や事柄、自分の置かれた境遇が不本意な、願わない、思わないものではありますが、しかし、それもこれも全てを越えて、そこに神様が働いておられる。神様が今も支えてくださっている。自分の思わないような、願わないような状況、現実が目の前にあるけれども、その状況すらも実は神様の手に握られている。だからそこで心ヘリくだって、主を信頼して、与えられたことの中で、まず神様に近づく。だからといって、明日から生活が困るわけでもない。少なくとも日々を送るだけのものを神様は備えてくださるから、与えられていること、受けている恵みを一つ一つ感謝していこうではありませんか。そういうお話をしたのです。

お話をしながら、信仰に立って生きることがどういうことなのか。事情や境遇、物事が思うように願うように行ってほしいと願いますが、しかし、神様が私たちに求めておられるのは、心も思いも清い者となる。「清い」というのは、真実一路、ただ一筋に神様に思いを委(ゆだ)ねることです。私たちは「まだあれもある、これもあるから大丈夫」と思いますが、しかし、神様だけに思いを向けること。これは幸いな恵みにあずかる道です。

「詩篇」119篇65節から68節までを朗読。

67節に「わたしは苦しまない前には迷いました」とあります。「迷う」というのは、幾つもの事柄に心が分散することです。千々に乱れることです。心が神様だけにとならない。「清い心」というのは、迷いを捨てて一筋に神様だけに信頼すること、思いを向けることです。ですから67節に「苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります」とあります。神様の御思い、お言葉をしっかり私は握っていくのだと、歌っています。私たちもそうであります。いろいろな事の中にあって、つい思いが千々に乱れて、「あれもいいよ、これもいいよ」、「あの人がこう言うからこうしておこうか」などと、いろいろなことで神様プラス アルファー。神様とその他にもと、心が幾つも乱れてしまう。そうなると私たちは謙遜になることができません。へりくだれないのです。この詩篇を歌った記者は何か大きな苦しみに遭いました。その事を通して神様を知るのです。神様だけにと、思いが定まってくる。これが私たちに求められていることです。

68節に「あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください」と。神様は善い御方であって必ず私に善いことをしてくださると信じる。私たちはつい浅はかな知恵、ちっぽけな思いで「これが私にとっていちばん善いこと」、「こういう生活……」、「ああいう生活……」と、そういうことを考えますが、神様はもっと、もっと大きな最も大切な幸いと恵みを与えようとしてくださる御方です。だから、神を信じて、ここに思いを定めるのです。いろいろな悩みや苦しいことを通して、迷っていた心が一つになってくる。一つになるとは、神を信じるというこの一点に集中することです。神の何を信じるか?神様は決して悪いことをなさらないと信じるのです。確かにいま自分の目の前にあることは自分の願わないことである。思い掛けないことであり、悲惨な状況、客観的に見たらそのように見える事態や事柄の中にあっても、なおそこで「あなたは善にして善を行われます」。神様、あなたが今この事の主です。あなたはいちばん善いことを私のために備えておられる御方ですと、神を信じることに心を定めてしまう。これが神に近づくことです。謙遜になることに他なりません。

そうしますと、その後にありますように71節以下に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。72 あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです」。苦しみの中にあって、神様を信頼する心一つになってしまう。思いが定まってきますと、神様を喜ぶことができる。神様の御言葉を感謝して受けることができるようになります。そうでないかぎり、私たちはいつまでたってもへりくだれない。神に近づくことができません。神様に頼れない、心を一つにできないために、私たちは苦しいのです。中途半端に心が二つも三つも心が千々に乱れている。二心、三心になっていると、私たちの思いがぐるぐる迷ってしまって、その悩み、苦しみがますます深くなります。だから、心を一つに決めてしまう。「神様、本当に何があってもあなたから離れません」と。そこに思いが定めるまで、いろいろな問題の中を私たちは通りますが、神様が求めておられるのはまさにそこです。私たちが悩みや困難、いろいろな事情、境遇を通してただ一途に主を信頼する者となる。

「詩篇」73篇25、26節を朗読。

この詩篇は一人の人が一つの体験を歌ったものです。この記者は神様を信頼して信仰に生きようとしていました。ところが、その前半の所にありますが、2節、3節に「しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。3 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである」。この詩篇の記者は身を慎んで神様の前に信仰を持って真実に歩みたいと願っていた。ところが、周囲を見ると、神様を知らないで大きな顔をしている。肥え太ってつややかで羽振りがいい。そういう様子を見ていると「どうして私だけがこんなに一生懸命に神様を信頼していなければならない。神様を恐れて縮(ちぢ)こまっている」と。「この際、信仰なんか捨ててしまおうか」と、そのくらいに迷う。2節に「わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかり」と、私どももそうなります。殊に、物事が順調に行ってご覧なさい。私どもも神様から気持ちが外れて行きます。そして「あれもいい、これもいい。こんなこともいいのではないか」と、ずるずると神様以外のものへ心が乱れてしまう。二心、三つ、四つ、いろいろな心になってしまう。そうすると歩みが“すべる”のです。そこにありますように「つまずく」のです。その間、苦しくて、決して楽なことではありません。心が二つ、三つになっている間、苛立(いらだ)つし、不安になり、また有頂天になってみたり、浮いたり沈んだり、激しく心が揺れて落ち着かない。

この人もそういう中を通って歌った詩篇でありますが、13節以下に「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた」。自分は一生懸命に手を洗って、神様の前に清く生きようとして身を慎んでいるのだが、次から次へと神様に打たれるといいますか、問題が多い、悩みに遭う、病気になる、苦しいことに遭う。「どうしてだろう」と、皆さんでも時にそう思われるでしょう。「毎週、礼拝に行っているのに、どうして私はこんな目に遭うのかしら」と「あの人を見てご覧、教会にも行かないのに元気で羽振りも良く、私の病気の一つぐらい向こうに行ってほしいわ」と思ってしまいますね。

ところが詩篇の記者は17節に「わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった」と。彼はあるとき神様の前に出て礼拝していたとき、ひとつの悟りが与えられた。神様の霊が語ってくださった。彼らの最後は永遠の滅びであることを知ったのです。神様は決して「でくの坊」でもなければ、目が見えないのでもなく、手が短いのでもない。彼らはいま神様を恐れず、神様をないがしろにして、勝手な生き方をし、自分の力を誇っているけれども、やがて彼らは神様の永遠の滅びに遭うのだという、神様の御思いを知ったときに彼は厳粛な思いに捉(とら)われたのです。

その後、18節以下に「まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。19 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう」と。この記者は、そこで彼らの将来が神様のどういうご計画の中にあるかを知ったとき、恐れおののいたわけであります。そして彼は悟った。それが最初に読みました25節に「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない」と。天にも地にも掛け替えのない大切なものはただあなただけです。ここで心が一つに定まるのです。

私たちも神様の前に心を定めて、今どんな状態や事柄であろうと、それもこれも全てひっくるめて神様はご計画をもって、今日もこの地上に生かしてくださるのです。苦しくてもつらくても、悲しくても、そこに神様がいらっしゃって、善にして善をなし給う御方ですと、私たちが神様を信じて、信頼して心を定めたい。天においても地においても私の慕うべき御方はただあなただけです。そして26節に「わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である」と。心の力となってくださる。神様が私たちの心を支えてくださる。強くしてくださる。そのとき私たちはどんな問題や悩みや困難の中に置かれても、それでへこたれない、行き詰らない、倒されない。パウロは「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。9 迫害に会っても見捨てられない」(Ⅱコリント 4:8~)と語っています。神様が時を定めてこの地上の生涯の使命が終わるときが来ます。その時、私たちを速やかに天に引き上げてくださる。そこには私たちのために住むべき場所が用意され、イエス様が待っていてくださる。この永遠のいのちの生涯を目指して、私たちも今この地上にあって心を一つにして、神様だけに思いを真実に傾けましょう。

初めに戻りまして、「ヤコブの手紙」4章8節に「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」と。私たちは事情や境遇、問題、事柄、何であれ、まず神様に近づく。神様の前にへりくだって、その苦しみ、悲しみ、嘆きの中で、そこから一切の世につく思い、肉に付ける考え・感情を捨て去って、神様だけに堅く思いを向けて、真実に信頼していく。そのとき10節に「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。神様は必ず応えてくださる。「神はあなたがたに近づいて下さる」。だから「手を清め、心を清くせよ」。

いつも手を清めて、あれもこれもではなくて、「ただあなただけです」と神様の前に心を定めて、主の恵みと祝福、神様の力に支えられて、主の恵みを味わっていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

3月30日 日々の聖言

2015年03月30日 | 日々の聖言

「わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、

心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」詩篇19:14 


新しい一週の日々、新しい一日の営みが始まりました。手のわざ、歩む道、語る言葉に

よって、思いがけない争い、軋轢、憎しみを生みます。そうならないようにと気遣い、願い

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3月29日教会学校聖言葉

2015年03月30日 | 教会学校聖言葉
「父よ、彼らをおゆるしください。」
ルカによる福音書23.34

 これは、十字架という苦痛の極限において、イエス様が発せられたとりなしの言葉です。字面だけをみるなら、十字架の現場でイエス様に敵したユダヤ人に向けられたもののように読めますが、実はそれだけではありません。


 このとりなしの言葉は、私にまたあなたに向けられたものです。なぜなら、イエス様を十字架につけるきっかけとなったのは、他ならぬ私であり、あなただからです。

 そのことを否定することは簡単にできます。自分はそんな罪など犯していないと言い切ってしまえばそれまでです。

 でももしあなたが自分自身の罪に絶望しているなら、どうぞイエス様の救いを信じ、感謝して受けて頂きたい。イエス様はあなたの罪はとうに御存じの上で、あなたのために十字架にかかり、罪のあがないを遂げて下さったからです。

 罪とは必ずしも刑法上の犯罪や倫理道徳に反するものばかりではありません。ときにあなたの心を陰らせる過去や誰のせいにもできない過ちであっても、イエス様の十字架にあがないきれないものはないのです。(正野)

聖書からのメッセージ(510)「神様は知っている」

2015年03月30日 | 聖書からのメッセージ
 「エレミヤ書」29章10節から14節までを朗読。

11節「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。

かつてイスラエルの人々は神様を離れて身勝手な歩みをするようになりました。そのため何度となく神様は警告を与え、「神に帰れ」、「わたしに帰れ」と呼びかけてくださったのですが、この民は聞こうとしなかったのです。神様は最後の手段といいますか、バビロンという大国を興(おこ)して、この国を用いてイスラエルの国、ユダの国も含めて全てを無きものにしてしまう、国を滅ぼしてしまわれたのです。そのときの神様の御心は、懲罰的といいますか、「悪いことをするから懲らしめてやれ」という、悪意に満ちた思いではありません。むしろ、もう一度へりくだって謙遜になり、神様の恵みが何たるかを味わい知ってほしいと願っておられたのです。と言うのも、イスラエルの民は父祖アブラハムから始まって、特別な民、格別神様が愛する民として選んでくださった。それは神様の一方的なご愛といいますか、ご計画によってその恵みにあずかったのです。決してイスラエルの民が他のどの民よりも優れていたからではない。

「申命記」7章6節から8節までを朗読。

ここに神様がイスラエルの民に対して抱いている思いを語っています。6節にありますように、「あなたはあなたの神、主の聖なる民である」と。「聖なる民」とは、品行方正、立派な聖人君子の民だというのではありません。神様の所有とされた者、神様のものであるという意味で、「聖」ということであります。神様のために取り分けられた、特別に置かれた民であると。その後に「あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで」と、地のおもてには数多くの民族がいました。もちろんイスラエルの民だけではありません。ところが、その中からただイスラエルだけをご自分の聖なる民として他の者から区別し、神様のものとしてくださった。ここに「あなたを選んで、自分の宝の民とされた」とあります。宝として神様が愛してくださった。7節に「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない」。数が多いから、強そうな民だから、あるいは品行方正、なかなか出来がいい民だから選んでやろうということではなかった。選びの理由は分かりません。なぜイスラエルが選ばれたのか、なぜアブラハムが他の人と違って神様から選ばれたのか、これは分かりません。ただ一つ言えることは、神様が彼を愛してくださったということです。愛するには格別理由があるわけではないでしょう。「こういうことだからお前を愛してやる」「こういう関係だから愛する」ではない。神様はご自分の思いとしてこの民を選んでくださった。選ばれたイスラエルの民は、数は少なくて弱い民であった。7節の後半に「あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった」とあります。もっとも数の少ない、役に立たないといいますか、数にも入らない、8節に「ただ主があなたがたを愛し」と。ただ神様が愛してくださったから。そして「先祖に誓われた誓いを守ろう」と、先祖というのは、アブラハムでありますが、彼に「あなたは多くの国民の父となるであろう」(創世 17:4)と、約束してくださった。その約束を守る。ご愛のゆえに神様は真実にご自分の約束を全うしてくださる。そして8節の後半に「主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである」。エジプトで奴隷として使役されていた、苦しみの生涯に置かれていた彼らをも、そこから救い出してくださった。その理由はイスラエルの民を愛したからだとあります。神様がこのイスラエルの民を愛して、ご自分の大切な宝の民とされた。その恵み、受けるべき値打も価値もなかったイスラエルの民が神様の選びの民、宝とされた。「イザヤ書」には「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(43:4)とまで語られています。そのように大切なものとしてイスラエルの民を選び、ご自分のものとしたのに、彼らは神様のご愛にどのように応えたか? ご愛をもって顧(かえり)みてくださる神様に報いることをしない。それどころか心を他のものに移してしまう。そして真(まこと)の神様を離れてしまった。こんな恩知らずの民は捨てられて当然であったと思いますが、しかし、神様はそれでもなお捨てることをなさらず、一人の預言者を通してご自分の思いを語ったのが先ほどの「エレミヤ書」の記事です。

 「エレミヤ書」29章11節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」と。バビロンが攻めてきてイスラエルの国を滅ぼしてしまうに違いない。しかし、これは神様のご計画によるもの、神様の御思いであると。というのは、神様から選ばれ、召され、そして神の民とされた恵みと祝福を彼らが捨ててしまった。だから、彼らをもう一度低い者、謙遜な心、へりくだった者にしようとなさった。国は滅ぼされましたが、イスラエルの民を「こいつらは生かしてはおけん。全滅させろ、徹底的に滅ぼしてしまえ」と言われたのではありません。国は滅びるけれどもバビロンに捕囚となって連れて行かれなさい、と勧めておられる。そこで結婚し、家を建て、子供を育て、田畑を耕して、70年の月日を過ごしなさいと、神様はご命令になりました。ところが、それとてもイスラエルの民は納得できないのです。それまで自分たちこそ、神の民、選びの民だと誇りを持っていましたから。といって、それほど誇り高いイスラエルの民は神様に対して忠実な民であったわけではなく、いま申し上げたように全くそれとは違っていました。ですから、神様はそのことを悔い改めて、神様に立ち帰る道を備えてくださった。ですから、バビロンに捕囚として、移り住まなければならない事態は、神様の大いなる憐れみだったのです。だから「ここでは戦ってはいけない。バビロンに早く降参しなさい」と神様は繰り返し語っている。しかし、中にはそんなことを聞こうともしないで戦って死ぬ人もいますし、また「それだったらエジプトに逃げてやれ」と他の国へ出て行った者もおりました。しかし、神様のご計画はそこにはありません。ですから11節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」と。神様が私たち一人一人に計画をもって導いてくださっているのだと。これはイスラエルの民に対して語られたお言葉ですが、実は神様が私たち人間を造られたご目的でもあります。

 神様は「創世記」に語られているように人を創ってくださいました。全ての被造物の最後に全てのものの頂点に立つものとして、神様は人を創造なさいました。それは神様と人とが共にある幸いなエデンの園での生活、神様と人とが隔てなく交わりを持つ関係。そこには恐れも悲しみも不安も何もない幸いな恵み豊かな生活が備えられていたのです。何のために人が造られたか? それは人が神様を喜び、褒めたたえ、感謝賛美すること。私たち全ての造られたものが神様の栄光のわざとして、神様の恵みを語り伝えるものとして造られたのです。それが人間の生きる目的であります。ところが、人が罪を犯した結果、そこから離れて自分勝手な道を歩むようになった。神様のご支配から、神様の手の中から人が飛び出してしまった。罪を犯して神様の御思いから離れて滅び行く者、永遠に呪われた者となりましたが、しかし、だからといって、神様から遠く隔たって、神なき世界に移り住んでしまったわけではありません。どんな所に私たちが置かれても、そこは神様の大いなる御手の中です。

アダムとエバがエデンの園を追放されて、エデンの東ノドの地に住む者となりました。神なき人となって勝手な振る舞いをするようになり、人がバベルの塔を建てるようになるし、またアダムとエバの子供であるカインは弟アベルを殺してしまう。そういう記事を読みますと、ノアの時代もそうですけれども、「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」(創世 6:11)という時代。そこには神様の手が届いていない、神様の光が届かなくなった、と思えるような状況が語られています。ところが、実はそれもこれも神様の手の中のことなのです。神なき世界、神様がいらっしゃらない世界はあり得ません。全ての中に神様は満ちあふれている。パウロがアテネの町で語ったように、「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」(使徒 17:28 )。では、なぜ「神なき世界」なんて言うのか。神様の中にいながら、神様の御手の中、ご支配の中に握られていながら、それを認めようとしないのが神なき世界であります。実は私たち全ては神様の御手の中に握られている。ところが、それを認めようとしない人にとって、そこだけは神のない世界、何と言いますか、天幕を張って、自分だけの世界をつくり、神様の光を遮(さえぎ)っている世界です。さんさんと陽が差しているのですが、自分だけ小さなテントを作って、そこへもぐりこんで「暗い、暗い」と言っている。これが神のない世界に生きることです。いま私たちの住んでいるこの世の中は、神なき世界、誠に真(まこと)の神様を恐れることのない、地には暴虐が満ちて悪がはびこっている世界です。ここは神様がいらっしゃらない世界かというと、そうではない。実は神様はもっと大きな御方です。神様の中にあって神様を拒んで、自分たちだけ、わがままな思い、自己中心な世界、これがいま私たちの生きている世界です。だから、神様がいらっしゃらないのではない。私たちが神様を拒んでいるのであります。

神様は私たち全ての者に「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」と宣言しておられます。イスラエルがバビロンに捕囚として引かれて行ったときもそうであります。イスラエルの民は神の民として、神様の祝福と恵みの中に生きる民でありました。ところが、その神様を拒むことによって神様の光を遮ってしまう。その結果、バビロンという地に捕囚として連れて行かれるような結果になりました。だからといって、神様がイスラエルの民を見放したわけではない、お捨てになったわけではありません。約束なさったように悔い改めの時を経て、神様が新しく造り替えて、新天新地、新しいエルサレムに移してくださる時が来るという約束であります。しかし、見える現実、彼らにとって目の前の出来事は、不幸の極(きわ)み、どうしても受け入れ難いものでありました。今まで事もなく平和で楽しく自分勝手な生活をしてきた。「何で今になってバビロンが攻めてきて自分たちの生活が壊される」と、不平不満、恐れの中に置かれますが、しかし、神様はここでいわれるように「そうではない。そのこともこのことも全てわたしが知っている」と。

 私は最近そのことをしみじみと教えられます。自分の人生、生まれてから今に至るまでの地上の生活は、自分が考えて、自分が計画し、自分が一生懸命に頑張って、「何とかこの時代、この世にあってこういう生き方をし、こういう人生を生きて行きたい。老後はこんな風にありたい」といろいろな計画をもっています。そういうことを考えると、自分が自分の人生を握っているように思う。自分が頑張らなければ……、私が計画して、これが私の幸せである、自分が「よし」と思うところを求めて行こうとします。ところが、神様は私たち一人一人にご計画を持っていらっしゃるのです。

 「詩篇」139篇16節から18節までを朗読。

 16節に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」とあります。「詩篇」139篇は人が神様によって造られて、神様の手の中に生かされていると語っています。今お読みいたしましたすぐ前の所から続いていますが、人がお母さんのおなかで造られ、やがて時を経て、この世に生まれます。私たちの地上での人生がことごとく神様の書に記されているのだと。いうならば、私たち一人一人がこの世に生を受けたことは、あなたのために神様がご計画してくださった生涯があるのです。ただ、私たちにはそれが分かりません。しかし、ここに「わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」と。まだこの地上に生まれて、一日も過ごさない前から、私たちの何十年先の死ぬ時まで、また死んでから先のことまでも、神様は私たち一人一人にご計画を持っておられる。これは確かにそうだと思います。神様は造り主ですから、全てのことについて最後まで責任を持ち給う御方です。だから、「イザヤ書」にあるように「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(46:4)とおっしゃいます。私たちをお造りになられた御方が最後の最後まで……。

 電化製品などを買いますと、買った時から捨てる時の処理費用まで前もって払わされる。いつ捨てるか分からない。冷蔵庫を買って来年捨てるつもりはないでしょう。10年、15年、あるいは20年ぐらい使うかもしれない。それなのに買ったその時に、それを廃棄する「処分料を先に頂いておきます」と言われる時代です。ましてや神様は私たちが死んでから先のことまで約束してくださっておられる。どこに処分すべきか決めてくださっておられる。それがここに語られていることです。「その日はことごとくあなたの書にしるされた」と。私たちはこの地上で何年生きるか分かりません。私たちには分からないけれども神様はご存じでいらっしゃる。この地上の生活でどういうことが起こってくるか、どういう問題があるのか、これも私たちは知りませんが、神様はことごとく知っていらっしゃる。私たちの日々の生活は神様の大きなご計画、御思いの中にあるのですが、私たちはそれを知らないから、つい目の前のことだけに捕らわれるのです。「どうしよう」とか「ああしよう」とか「こうしたらこうなるに違いない」と、浅はかな知恵をもって明日のことを、来年のことをと、一生懸命に先、先と、先読みをしようとします。ところが、なかなか思うようにはいかない。そうすると、びっくりしゃっくりといいますか、いろいろな思いがけないことが起こって、「どうしてやろうか」「私はこんなつもりではなかった」「こんなことになるはずじゃなかった」とうろたえます。しかし、神様はすでに知っていらっしゃったのです。「それをすればこうなるよ」と、神様はちゃんとご存じです。時には私たちに「それはやめときなさい。そこは無理だよ」「そこは避けてこうしなさい」と促(うなが)し、教えてくださるのだけれども、私たちは、自分のわがままな思いのほうが先行して、「えい!こっちのほうがいい」「人がこう言うから、こっちのほうへ」と、パッパッと決めてしまう。そして、そこで行き詰る、あるいはいろいろなつらい事態に陥って、嘆き悲しむのが現実であります。ところが、それでもなお神様はご目的にかなうものにしようと、常に私たちを握っていてくださる。私たちのために描いてくださったご計画に従って、ことごとくのものを御心にかなうものとしておられる。この世の中は「神様がいらっしゃるのかしら」と思うような悲惨な事件や、様々な争いや戦いがあります。それは神様を拒んで、人が自分勝手な歩みをしている結果ではありますが、神様は知らん振りを決めているのかというと、そうではありません。そういうことを通して、人がもう一度神に立ち返るのを持っていらっしゃるのです。悔い改めて神に立ち返る時を待っていらっしゃる。そればかりか身勝手な生き方をしている私たちに対しても、大きなご計画を備えて、被造物たる私たちを造り主のご目的にかなうものにしようとしてくださるのであります。

 「使徒行伝」27章9節から12節までを朗読。

 これはパウロがエルサレムで捕えられまして、ユダヤ人たちから様々な罪状を突き付けられ、告訴されます。そのために裁判を受けることになったのです。彼はローマ市民権を持った者でした。いわゆるローマ市民であります。ということから、ローマ皇帝、カイザルの直接の裁判を受ける権利があったのです。彼はそのことを主張しました。そのためにカイザリヤに数年幽閉される事態になりました。ところが、やがてその時が来まして、彼はローマで裁判を受けるために囚人として連れて行かれます。地中海沿岸の各地を寄港しながら進む商船、荷物を運ぶ船に乗せられて彼らは出掛けます。彼はユリアスという百卒長に引率されて、数人の囚人と一緒に船に乗り込んで行くのです。ところが、ラサヤという港まで来た時に、そろそろ地中海では航海に適しないといいますか、台風の季節になって来る。今は船が立派で動力で走りますから、また気象観測も進んでいますから、あまり影響はないのでしょうが、その当時は風任せですから台風の季節はしばらく動けない。だから、その季節が過ぎるまで数ヶ月、一つの所にとどまらなければならない。ラサヤの町に着いた時、パウロがいま読みましたように人々に警告をいたしました。10節に「皆さん、わたしの見るところでは、この航海では、積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶ」と、パウロは「この航海ではそういう危険な目に遭うから、ここにしばらくとどまろう」という提案をする。それに対して指揮官である百卒長は「船長や船主の」意見を聞くわけであります。またせっかく長期滞在するのだったら、この町よりももう一つ先のピニクス港に行った方が良かろうと。「あそこだと過ごしやすい」し、いろいろな理由があったと思います。生活がしやすいかどうかもあったでしょう。それで結局、この百卒長はパウロの意見よりも船長や船主の意見を聞く。これはまぁ、考えたら当然と言えば当然です。パウロは航海の専門家ではありません。パウロはそもそも「天幕作りが仕事」と言われるのですから、あまり船のことは分からない。船長や船主はその辺は経験者ですから判断に任せる。

 「良かろう」ということで、13節に「時に、南風が静かに吹いてきたので、彼らは、この時とばかりにいかりを上げて、クレテの岸に沿って航行した」と。そうしましたら、たまたま良い具合に風が吹いて来た。「これは良し」というわけで、そこから出帆する。ところがとんでもないことになる。14節以下にあるように、「ユーラクロンと呼ばれる暴風が、島から吹きおろしてきた」と。大嵐になる。そのためにとうとう船は大変な目に遭うわけです。船具も捨て、積荷も捨て、何もかも捨てて、20節に「幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった」と。死を覚悟する悲惨なことです。ところが、この記事を読んでいて、実はパウロが言ったとおりになっているのです。10節に「この航海では、積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう」と。パウロは神様からの知恵、御霊がそのことを教えてくださったのです。「神様のご計画はここにあるのだから、そうならないようにここにとどまっていようではないか」と、これはパウロの個人的な意見というより、パウロが仕える神様からの知恵が与えられる。御霊がそのことを教えてくださった。そこに従っておればそういうひどい目に遭わなかったのでしょう。ところが、それを拒んで自分勝手な道を行きましたから、言われたとおりのことになります。「ほら、見たことか。神様の言う事を聞かんからこんな目に遭って」と、神様の言う事を聞かなかったからこうなったというのは、一面正しい回答でありますが、しかし、神様は「こうなる」と前もって語っていらっしゃる。それを知った上でなおそれを拒んで行きますから、そのとおりになる。だから、神様を離れたからこうなったのではなくて、神様は「この道を外れたらこういうことになるよ」と前もってご計画を持っていらっしゃる。ところが、人は自分の身勝手な感情に任せて、自分の損得利害、欲得に引っ張られて、自分勝手な道を行くから困難に出会う。それでいて「神様はどうして私をこんなひどい目に遭わせるのですか」と、勝手なことを言いますが、それは神様から「そこへ行ったら危ないよ」と言われながら飛びだした結果です。

 私はこの記事を通して、神様の大きなご計画と、人の身勝手な思いが重なっていることを悟らされます。この時神様のご計画は何であったか? パウロをローマに連れて行くというご計画でありました。パウロが地中海沿岸を伝道しておりました時、神様は「ローマにもこの福音を宣べ伝えなさい」と幻のうちに語っておられます。そして彼は「自分はローマにも行くのだ」と、そう言いながら、のっぴきならない出来事が起こって、エルサレムに戻らなければならない事態になりました。しかし、エルサレムで彼の命を狙(ねら)う陰謀が計画されていた。「恐らく十中八九彼は捕えられて死刑にされるだろう」というのが大方の見方であった。これは大っぴらになっていたのです。しかし、パウロは「私にとってエルサレムに戻ることは主の御心だから、御霊がそのように導かれるから」と、彼はエルサレムへ戻って行くのです(使徒行伝20:17以下)。そして戻って行きましたら、彼はそこで捕えられる。そして何年間か幽閉される事態に落ち込んで行く。ローマに行く望みが断たれたように思いました。そこでそのまま裁判でも受けて死刑にでもなっていたら、ローマには行けなかった。ところが、神様は彼をローマに連れて行くという大きなご計画がありましたから、彼を囚人という身分にしてローマに連れていかれたのです。

 そして、いま読みましたように途中で大嵐に遭いました。そのときも、22節以下にあるように、パウロは「皆さん、元気を出しなさい。私たちは船を失うかもしれないけれども、決して命を失うことはない」と。「私の仕える神様は私をちゃんと『ローマにまで連れて行く』とおっしゃった。私が元気であると同じく、船に乗っているあなた方の命も神様は保証し、助けてくださるのだから大丈夫」と励ましています。やがてマルタ島という所に流れ着きます。そこで何ヶ月か過ごした後、航海の季節になって別の船に乗ってマルタ島を出て、シラクサに寄港し、そこからレギオンに行った。そして、ついにローマに到着しました。私たちは神様の大きなご計画の中に生きているのです。その中にあって、船具を捨てたり大嵐に遭う、これは自分の好き嫌いで選んだ道です。神様のご計画はそれによって損なわれるわけではありません。それは小さなつまずきかもしれませんが、だからといって、私たちに抱いてくださっておられる神様の大きなご計画は、曲がるわけではなく、頓挫(とんざ)するわけでもない。「箴言」に「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」(9:21)と。神様は私たちに思い描いてくださるご計画に従って、私たちのこの地上の人生を導いていらっしゃる。

 だから、私たちはこの船の百卒長のように、時には自分の勝手なことをするかもしれない。それでもって痛い思いをして、船具も捨てて「これで死ぬかもしれん」と悲鳴を上げるような事態になる。しかし、ご心配なく、それで終わらないのです。必ず神様は最後まで私たち一人一人にご計画を全うしてくださるのです。

私たちはよく言います、「先生、こんなことになったから、もう私はおしまいです。神様は私を見捨てると思います」と。「そうですか。そのくらいのことで神様は音を上げるような御方ではありませんよ」、「そうでしょうか」と。「あなたは神様の許しがないかぎり死ぬことはない」。私は最近そう思います。「この人は死にそうだ」と思ってもなかなか死なない。なぜかというと、神様のご計画があるのです。だから、「こんなことをしたから、私はこれで行き詰る。生活費は今月でおしまい。後は首をつって死ぬか」と思い詰めますが、そんなことには絶対ならない。なぜなら、神様は必ずご自分のご計画を握っていらっしゃるのです。

だから、大嵐に遭うなど、彼らはいろいろなことがありましたが、だからといって、パウロをローマに連れて行くという神様のご計画は損なわれたり、妨げられたりはしません。失敗を別の意味で用いられる御方です。だから、「こんなことをしてしまった。これは駄目だ、これでおしまいや」と嘆きますが、それでもなお私たちの下には永遠の腕があって、神様は私たちを握ってくださっている。神様のご計画の中に生かされている。

「エレミヤ」書29章11節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」。神様が私のために描いてくださっておられるご計画、一人一人に備えておられるご計画がある。それはどんなご計画であるか、それがどこまで続くのか、私たちには分かりません。それがこれからどのようになって行くのかも分かりません。しかし、分からないから、時には自分のわがままな思いに駆られて神様の御心を痛めるような失敗をして、グチャグチャになるかもしれないが、しかし、神様のご計画は揺るがず、全てのことを貫いて、どんなことも物ともしないで、私たちを導いてくださいます。

だから、神様の大能の力を信じて、ご計画の中にあることを信じて、地上の生涯を最後まで主の力あるわざを期待して行きたいと思います。ここにありますように「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」と。しかも「それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」と。それは私たちを失望落胆させ、絶望の中に置くためのものではない。いやそれどころか私たちを永遠の御国の生涯へ、この地上の旅路を終わるならば神様の備えてくださった御国に帰らせていただく喜びと望みと平安を与えてくださいます。

神様のご計画と御業の中に今日も生かされた者であること。自分で生きているのではない。どうぞ、この神様の御思いを、私たちの知恵では測り知ることのできない神様の御業を信じて、日々謙遜になって主の導きに従って行きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。