いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(60)「国籍は天にある」

2013年11月20日 | 聖書からのメッセージ
ピリピ人への手紙3章17節から21節までを朗読。

この御言葉は、よく聞き覚えて、いつでも目にする御言葉でもあります。教会の納骨堂の正面にこの御言葉が掲げられています。「わたしたちの国籍は天にある」。あれ、そんなのあったかな、と思われる方もいるかも知れませんが、今日帰りに是非確かめてください。この御言葉は大きな望みを与えてくれます。 福岡の教会の墓地は、福岡の中心部、平尾霊園という所にあります。そこに一区画キリスト教関係という配置になっています。私どもの教会の墓地があり、その横にはほかの教会の墓地が幾つもあります。またクリスチャン個人の墓地も大体その周辺にありますから、私は行く度にそこを散策してみます。いろいろな名前と同時に、必ず聖書の言葉が記されています。一番多いのは、やはり「わたしたちの国籍は天にある」と、これです。どこの教会の墓地にも大抵そう記されています。福岡の教会が、4年前に納骨堂を作り直すときに、新しい墓碑銘を掲げることにしました。以前の納骨堂には、戦前からの石碑で、浜の町伝道館の時代のもの、そこには「終のラッパの鳴らん時はみな忽(たちま)ち瞬間(またたくま)に化せん」という文語訳のコリント人への第一の手紙15章の言葉が記されていました。ところが、これはなかなか分かりにくい。何のことを言っているのかなぁ、と思います。それで、もっとはっきりと分かる言葉をと思って、祈って求めておりました。そうすると、どうしてもこの御言葉、「わたしたちの国籍は天にある」にくる。これは墓碑銘には打ってつけです。ところが周囲を見ると、みなそれを書いている。私はチョッとへそ曲がりですから、どうも同じのは嫌だなと思ったのです。その御言葉の後、21節に「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」とあります。殊にこの「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」と書いたのです。これは最終的な私たちの行くべき場所、場所と言うよりは、私たちが変えられていくのです。それにちなんで「栄光陵」という名前を付けました。私達の卑しいからだが、最初に書いていた御言葉の「終のラッパの鳴らん時はみな忽(たちま)ち瞬間(またたくま)に化せん」ということでもあるわけです。古い墓石を引き継いで、また新しくしたのです。

では、その前半の「わたしたちの国籍は天にある」は、どうしてはずしたか、考え直したかと言うと、「わたしたちの国籍は天にある」とは、何も死んでからのことを言っているのではないのです。お墓に刻んで、私たちの国籍はここにはない、天国にあるのだから、死んで天国に帰ればいいと、死を乗り越えて先にある望みとして語られていることは、確かにそのとおりだとは思いますが、同時に、「わたしたちの国籍は天にある」と言うのだったら、じゃ、今はどうしているのか? 今この地上にあって、私たちは何なのか。そのことをしっかりと踏まえておかないと、この御言葉のとおりですとは言えない。「わたしたちの国籍は天にある」と言うことは、取りも直さず、今この地上に生きている私は、どういう者として、何のために生きているのか、それを同時に告白しなければ完全でない。「わたしたちの国籍は天にある」、言い換えると、この地上には、私たちの国、国籍はないということです。では、この地上で今生きている私たちは、どういう生き方をすべきなのか。

18節に「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る」。聖徒パウロが、ここで涙を流してまで語らなければおれなかった現実とは、イエス様の十字架を信じようとしない、イエス様の十字架がどういうものかを知ろうとしない、あるいは、知るからこそ拒むということです。では、私たちにとってイエス様の十字架とは何か? 2千年前、ピラト総督の時代にイエス様が何も罪のないのに捕らえられて、十字架の処刑を受けられた。この歴史的な一つの出来事、事件があります。それをただ単に過去の歴史的な出来事の一つで、罪なき人が見るも無残に多くの人々のねたみを受けて処刑されたという、ただそれだけの出来事で終わってしまうならば、大きな損失です。歴史的に、表面的に見るならば、ただ義人が、罪人とされえ死んでしまったというだけのことです。しかし、聖書には、イエス様が死んだのは、私たちが死んだこと、イエス様の十字架は、私たちが受けなければならない、神様からののろいであり、滅びだ、と語っているのです。イエス様を信じますと言い切っていくときに、私もイエス様と一緒に死んだ者なのだと告白することです。

先月、お二人の方の洗礼式をさせていただきました。この洗礼式はご存知のように、死とよみがえりです。それまでのイエス様を知らないで歩んできた、それまでの生涯を全部そこで御破算にすることです。その証詞として水の中に葬られます。まったく完全に頭の先から足の先まで空気に触れるところの無いほどに水の中に浸され、そこで古い自分に死んで、この世に生きるものじゃなくなったのです。そして、水から上がったときに今度は、以前の私としてではなくて、イエス・キリストを信じて生きる生涯にはいるのです。国籍が天に移るのです。それまではこの世に生きていた。19節に「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」。これが、かつてイエス様を知らなかったときの生き方です。

「彼らの神はその腹」とあります。これは比喩(ひゆ)的な表現です。あるとき、集会が終わって一人の方が来られて、「先生、今日はいいお話を聞かせていただきましたけれども、もう一つ分からない。先生が繰り返し『彼らの神はその腹』といわれますが、それは何のことでしょうか」と問われました。皆さんでも、こんなことは聞くのがちょっと恥ずかしいと思っているでしょうが、分からないことがあったらなんでも聞いてください。「腹」と言うのはおなかのことです。お腹で象徴されるのは、食欲です。あれが食べたい、これが食べたい。あれが飲みたいと、そういう欲というもの、これが「腹」という言葉で代表されているのです。食欲以外にも、物の欲、目の欲など、いろいろな欲があると聖書には書いています。自己中心でわがままな思い、自分のしたいと思うこと、これが「腹」という言葉で表されている。それが神様になっている。自分の生活の隅から隅まで、自分の好きなこと、自分の嫌なことは避けて、わがまま放題に自分の欲に支配されていること、これが「彼らの神はその腹」ということです。そう言われてみると、案外今でもそうかも知れない。神様をそっちのけにして、お祈りを忘れて、これをしたい、あれをしたい、あいつが嫌だ、こいつはしゃくに障る、と言っているのは、自分の感情が絶対者になっている、神になっている。そういう生活のあり方が「彼らの神はその腹」ということです。

そして「彼らの栄光はその恥」とあります。世にも恥ずかしいこと、人が聞いたら耳をふさぎたくなるようなことすらも、その人の名誉であるかのように語られる。最近のテレビを見ていると、どうしてこんな貴重な時間をばかばかしいことに費やすのか、と思うような番組がたくさんあります。人の失敗や、人の隠れたことを暴きだして、面白おかしくやっています。そういうことを言われることが、そういうことをしていることが、名誉であるかのようです。最近お笑いブームだと言われますが、笑いのネタを聞いて御覧なさい。人前ではしゃべられないようなことを得々として言うではありませんか。恥となるようなものが勲章(栄光)になっている。私たちもかつては、そういう中に生きていました。そして「彼らの思いは地上のこと」。この世のことだけにしか思いが向かない。この世の地位や名誉や、生活ばかりに思いがいくのです。それで「死んでも命があるように」ただそれだけですね。だから、死なないように、死なないようにと、ただそれだけを求めていく。これはイエス様を知らない人の生き方です。

ところが、今はそうではない。イエス様の救いにあずかって、古いものに死んで、新しいものとなった。キリストのものとせられ、神のものとされた。私たちは、神の子とまで言われる身分とされている。そのことを自覚しているでしょうか。目が覚めるとき、私は今日も神の子なんだと思っているでしょうか。いや、そんなことはほとんど考えたことがないと言うならば、これからは先ず意識すること、自覚することが大切です。神の子供とは、この世のものではないということです。私たちはこの世に生きているけれども、この世のものではない。イエス様を信じることによって、この世からあの世へ移っている。だから、イエス様を信じて、洗礼を受けて、死とよみがえりにあずかったその瞬間に、私たちの地上での葬式は終っているのです。ただ、今ここで生かされているのは、もう一つ別の使命があるからです。そのことをイエス様は、「私たちをこの世に遣わした」という言い方をしています。

ヨハネによる福音書17章13節から19節までを朗読。

これは、イエス様が、ゲツセマネの園に向かわれる前に、恐らく最後の晩餐の席で祈られた祈りだと思います。ここにイエス様は、懇(ねんご)ろに残される弟子たちのことについて、神様に祈り求めて、委ねておられます。14節に「わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」。彼らというのは、私たちのことでもあります。イエス様を信じ、弟子となった私たち、イエス様の僕となった私たちは、もはやこの世のものではない。だから、この世の人々から見たら、異星人と言いますか、どこかほかの国の人と思われて当然だと思うのです。ところが、皆と一緒よ、あなたたちと同じよ、と言いたくなるのですが、それは違います。私たちは、この世のものではない。じゃ、どこのものか。「国籍は天にある」、神様のものとなっている。主のものなのです。実は、イエス様もこの世に来てくださって、人となってくださった。この世に本来いた方ではなくて、神の御許(みもと)から世に遣わされてきた。だから、弟子たちと同じような姿で肉体をもって、人間としての違いはありませんが、イエス様の心は常に違っている。それは、「わたしが世のものでない」と自覚しておられる。弟子たち一人一人を救いにあずからせてくださって、「彼らも世のものではない」とはっきり語っています。私たちももはやこの世のものではない。そのことを絶えず心においてください。

18節に「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」。イエス様は神の御許にいました。神の位にいた方が、救い主となるために、この世に遣わされてくださった。派遣されたのです。父なる神様から世に遣わされました。それと同じように、かつて自分の欲に仕えていた、この世のものを誇りとしていた私たちが、今はイエス様によってこの世に遣わされて、新しい使命が与えられている。これが今おかれている身分です。毎日の生活の中でこのことを徹底して実践していく、心を整えていかなければなりません。実践するとなると、これから表札に「私は神の国のもの」と書いておこうとか、そういうことではない。そうじゃなくて、この世のものでない選び分かたれた、取り分けられた自分であることを絶えず自覚していくこと、毎日神様のものになっていくこと、これが信仰生活です。それを今、しておかなければ、死ぬ間際に「わたしたちの国籍は天にある」と言っても、信じられない。「わたしたちの国籍は天にある」と言うのは、墓石に刻むだけでは駄目です。今、この現実に生きているときにこそ、イエス様によってこの世から選び分かたれ、この世のものでない者として、神の国に国籍をいただいた自分であることを絶えず認める。これが何よりも大切であると同時に、それがまた最高に幸いな生涯でもある。だから、私たちは死んでから先の話をしているのではなく、現実の地上にあっての生活を、信仰によって新しいものとされることが目的です。

ですから、ヨハネの福音書20章19節から23節までを朗読。

これはイエス様がよみがえった日の夕暮れのことです。弟子たちが人々を恐れてひっそりと隠れ住んでいた家に、イエス様が入って来てくださいました。弟子たちは、十字架に死んで墓に葬られたイエス様には、この世でお会いすることができないと思っていたのです。そこへ、突然イエス様が現れて、「安かれ」、びっくりしなくていい、「そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった」と。わたしは幽霊ではありませんよと。ちゃんと釘跡を、また槍の跡を見せてくださって、こうやってよみがえったのだよ、と言われた。そのとき20節に「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。弟子たちは、イエス様を見て、大変に励まされ、喜びました。21節に「イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』」。先ほどの17章にも、イエス様は、「父がわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」と祈っています。

私たちは、今神様によって派遣されて、住んでいるそれぞれの地域社会、家庭に、職場に派遣されている。私は結婚する前からここに住んでいた。この家は、先祖代々自分のうちで、いつ私は派遣されたのだろうかと思う。しかし、イエス様を信じたとき、生活する場所は同じであっても、体は同じであっても、仕事は同じであっても、心が変わる。思いが変わるのです。ここが大切です。今日から私はイエス様のものであって、この世のものではないと、絶えず自覚して、今日するべきことはイエス様が私を遣わしてさせてくださる。このことをしっかりと信じて下さい。自分の努力や、誰かが世話をしてくれて、あるいは、いろんなことの腐れ縁で、仕方なしに今ここに住んでいるとか、ここで生活をしているとかではない。それぞれの家庭や、職場や地域に、今神様によって遣わされている。だからと言って、良いことを聞いた、私はもうこの世のものじゃない、神のもの、あなたたちは汚らわしいから近づかないでとか、そんなことを言うためではありません。私たちの心と思いを、何に重きを置いているかが変わってくる。生活している土台、立っている心の置き場所が変わってくる。これは私の生活、私のものじゃなくて、遣わされて、神様のものをお預かりしているのだ、託されているのだと絶えず自覚していますと、失敗しようと何しようと、ここまでさせていただいたから感謝ですと言える。うまくいったら、神様に感謝することができる。ところが、自分がやっていると思うと、うまくいったら天狗(てんぐ)になりますが、失敗したら、私が悪かったと言って、自分を責めて落ち込むのです。もし皆さんが、私がこんなことをしてしまって、悪かった、悪かった、と思うことがあったなら、それは間違っている。神様が、そこまでさせてくださって、それ以上しなくてよろしい、とストップを掛けているのだから、そこで感謝したらいい。中途半端に終ってしまって、本来ここまですべきだったのに、私が怠けてしまった、私が何とかしたと、いろいろ自分を責めますが、それは間違いです。なぜなら、神様が遣わしてくださって、神様が「せよ」と言われることをしているのです。遣わされた者の使命は、派遣した人の言うことを聞くことです。家族の人に買い物を頼みますか。あなたこれこれを買ってきてちょうだいとお金を渡します。私もよく買い物を頼みます。そして何が必要か、時間とかも考えた上で、その人にお使いを頼みます。それで帰ってきます。「頼んだのを買ってきてくれた?」「はい、買ってきました。でも、先生の言ったのが無かったから、これにしときました」「いや、それはちょっと困るんだけれど」「でも似たようなもんですから、いいじゃないですか」と。もし、無かったらそこで、電話でもしてくれればいい。今は携帯電話もあるのですから、「先生が言われたのは無いですけれども、これにしておきましょうか」と、相談してくれればよかった。良かれかしとは思ったのでしょうが、それはこちらの用事でお願いしている。神様は、いつもそういう思いで、私たちを見ていると思います。家庭や職場に遣わしているのに、神様が願っていることと違うことばかりを、あっちでも、こっちでもしている。神様は、きっと、あらら、と思っている。神様が遣わされた目的をよく聞かなければ出来ません。「主よ、これはすべきでしょうか。これはどうしたらいいのでしょうか。これからどこへ行くのでしょうか」。ことごとく神様に祈って、遣わしてくださった方の御心を行うことが、私たちの使命です。そのために、この世から選ばれ、救い出されているのです。私たちの生活の朝から晩まで、寝ても覚めても、主のものであり、またこの世のものではなくて、遣わされてここに立っている、生きている。それは、皆さんがどこにおかれても変わりません。歳を取って、寝た切りになって老人病院に入ろうと、介護施設に入ろうと、あるいは息子や娘の世話になろうとも、神様がそこにおいてくださったのだから、遣わしてくださったのだから、正々堂々としていたらいいのです。この世のものとしてではなくて、神様のものとなって、神の国に生きる者、神様によって遣わされている者であることを自覚していきますならば、私をここにおいてくださった神様に対する感謝が心にあふれてくるし、神様の御用をさせていただいている、今日も主に仕えさせていただいているという喜びこそあれ、世話されているから、卑屈になることもない、あるいは、縮こまって、家の片隅でひっそりと生きなければならないわけでもない。堂々と部屋の真ん中で生活したらいいのです。年取ると部屋の隅っこに座って、隠れるようにして生活するなんて、そんなことはいらないのです。主によって遣わされ、生かされているのです。これが「わたしたちの国籍は天にある」と言うことです。

それは、死んでからではなくて、今このときに、既に私たちは神の国のものなのです。この世のものではなく、神様によってあがなわれた、買い取られた者。そして、私たちが今生きているのは、何のために生きているのか。私たちが、神様の御心に従うこと、神様の求められる所に従っていくこと。一日一日、自分がしたいからするのではない。神様が私に求めているから、これをさせていただきます。神様が、ここに行けと言われるから、行かせていただきます。絶えず、派遣してくださった方の御心、御思いを求めていこうではありませんか。そうしますとき、いつも、この世のものじゃないな、帰るべき場所に神様が待っていてくださる。イエス様がわたしを迎えてくださるのだと、生きながらにして、天国を体験するのです。だから、天国は、死んでからのことじゃないのです。今この地上にある時から既に、神と共に生きる天国の味を前もって味見しているのです。

よくデパートに行くと、いろいろな味見がありますね。あっちで食べ、こっちで食べ、最後はお茶をもらって夕食代わりになったりしますが、味見をすると大体分かる。天国もそうです。今のうちに神様と共にあって、天来の恵みを味わっていると、気がついたときに天国に入っている。だから、今が大切です。死んだとき、天国に国籍はあるのだから、今は私の好きなことをしておこう、それは間違いです。今こそ、国籍は天にある者、この世のものじゃなくて、神様によって遣わされて、この家庭、この主人の許に、この奥さんの許に、この子供たち、孫たちが今わたしを必要としているのは、私のためではなくて、神様が託してくださっている。これは主の御用なのです。大切な主のわざなのです。だからと言って、自分の好き放題をするのではない。自分の感情に任せて事をするのではなくて、派遣してくださっている神様の御心はいかに、何を求めているのかと、絶えず祈らなければおれません。一つ一つ事をするにしろ、しないにしろ、絶えず祈って、祈って、そうだ、主がこのことを「せよ」と言われると、自ら確信することが大切です。

時々尋ねられます。「祈ったらこういうことを教えられましたが、先生どうでしょうか。先生が『いい』とおっしゃったら、私はそうだと思うんですけれども」「いいえ、私は巫女(みこ)ではありませんから、あなたが決めなさい」と。「私が決めるんですか、困ったわ、そうなると私は責任が取れないもの」「だから責任は神様が持ってくださるから、あなたが決断すれば、神様はそのとおりに応えてくださるのです」。ここが大切です。そのとき、人は初めて自立した人となることができる。誰にも左右されない、支配されない、ただ神にのみ仕えていく生涯を歩んでいけるのです。これが私たちの目指している天国です。そのために、今私たちが遣わされた、与えられた問題や事柄の中で、主を求め、主との交わりの中に、天国にある生活を今日から始めて行こうではありませんか。そして、「そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。イエス様が、再び来て、私たちを御国に迎えてくださる。それが先であるか、私たちが先に召されるか、これは分かりませんが、いずれにしても、結局のところイエス様の所に帰っていくだけです。ヨハネによる福音書14章にありますように、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから、そしてあなたがたをわたしのところに迎えよう」と。どうぞこの御国を目指して、「私の国籍は天のある」ことを自覚して、私はこの世のものではありません、神様から遣わされた者であることを、しっかりと心に据えていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。