いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

8月31日 日々の聖言

2014年08月31日 | 日々の聖言

「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。

わたしは歌い、かつほめたたえます。」詩篇57:7 



思いがけない事件や事態、願わない病気などに会う時、落ち着きを失い、うろたえ、

思い煩いの大波に飲まれてしまいます。それは、心が千々に乱れ、定まるところが

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聖書からのメッセージ(307)「神様に帰ろう」

2014年08月31日 | 聖書からのメッセージ
 「イザヤ書」55章6節から13節までを朗読。

 6節「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。

 「主にお会いすることのできるうち」とありますが、それは今です。「コリント人への第二の手紙」にありますように「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」と。「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」(6:2)と語られています。神様は常に「わたしの許(もと)へ来なさい」と招いてくださっている。ところが、私どもはいつも「神様の前から離れたことはない」、神様と共に自分は生活していると思いますが、気がつかないうちに神様から離れてしまうのです。これはどうにも仕様がないと言ったらおかしな話ですが、肉体を持って生きているかぎり弱さがありますから、一心に、いつも神様の前に自分を置いておきたい、と思いながらも、日常生活のいろいろなことに心が千々に乱れて、思い煩うことがあります。神様を前に置いて歩んでいるつもりですが、いろいろな忙しいこともあって、しだいにずれて、離れて行く。これは肉にあって生きている私たちにとって、どうしても避けられない事態であります。「いや、私はそんなことはない。私はいつまでもあなたの前にきちっと神様、あなたの忠実な僕です」とどんなに頑張ってみても、現実そうでない自分があるのです。ところが、案外それに気がつかない。しかし、神様は私たちのその弱さを知り給う御方ですから、常に「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日」というように、恵みの時、救いの日を設けて、主に帰ること、主を呼び求める者となるように、神様は願っていらっしゃる。

 ですから、6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに」と言われています。神様に近づく、神様に出会うこと、神様を礼拝すること、それができるうちはいつかと言いますと、それは今です。いま「恵みの時、救いの日」が残されているこの時こそ、主にお会いすること、主を尋ねること、「近くおられるうちに呼び求めよ」と勧められています。どんな時でもいいから、いま主が近くにおられるのだから、主を求めること。これが私たちに必要な事柄ではないでしょうか。絶えず神様を前に置いて、神様に従って、御心にかなう歩みをしたいと願いつつも、それからずれてしまう。これはやむを得ない、それでいいとはもちろん言えませんが、大切なのは、そのようなときにどうするか?どんなときにも、いつでも主の前に立ち返ることです。主を呼び求めること、これが私たちのいのちにつながっていくただ一つの道であります。そこで私どもがふて腐れてと言いますか、「こんなことをしても役に立たない。いくら信仰したって私は駄目です」となるのが最悪です。時にそのようなことを言われます。「先生、私は何十年信仰生活をしているけれども、一向に前進しません。同じ所を行ったり来たり、行ったり来たり、悔い改めてはまた罪を犯し、それでもまた罪を犯し、こんなんだったら信仰しない方がいいのではないでしょうか」と。私どもはそういうものなのです。だから、まず自分の弱さを認めることです。これは恵みにあずかる第一歩です。自分は罪を犯す者である、弱い者である、できない者であることを認めること、これが神様に近づく道です。自分が努力してこのくらいできるとか、私が頑張って神様第一の生活を自分の力で自分の業で成し遂げようとするところに、そもそも人の罪があります。

繰り返し申し上げますように、私たちの信仰は自分の力で持っているのではなくて、神様が憐(あわ)れんで、私たちに信じる力を与えてくださっている。信仰を支えてくださるのは神様でしょう。だから、イエス様が十字架におかかりになられる前にペテロに言いました。「あなたの信仰がなくならないように、わたしはあなたのために祈っているから」と。そのとおりです。イエス様が私たちの信仰がなくならないように絶えず執り成し、励まし、支えてくださる。御霊が私たちの内にあって、絶えず促(うなが)し、励ましてくださるからこそ、信仰がこうやって曲がりなりにも守られている。あるかないか分からないような信仰かもしれないが、しかし、イエス様は「からし種一粒ほどでも……」(マタイ 17:20、ルカ 17:6)と言われるように、私たちのわずかな信仰を「よし」として受け入れてくださる、それを認めてくださるのです。だから、この信仰を自分の力で持ち続けていると思うのは大きな間違いです。もし、そういう思いを持っていると失敗します。というのは、自分が一生懸命頑張って、努力してやっているのにできなかったとき、もし、それで失敗したら、もう救いがない。「こんなに頑張ったのに、できないのだったら仕方ない」と、自暴自棄になる以外にない。だから、私たちは初めからできない者で、無い者に神様が与えてくださった憐れみ、恵みによって今があるのです。もし、私どもが信仰を持って神様に信頼することができるならば、それは神様からの賜物であり、恵みです。感謝するほかありません。信仰が弱くなって、神様の前から離れたことを知ったとき、もう一度へりくだって、謙そんになって、主を呼び求める。これが私たちに許されているただ一つの道です。だから、自分が信仰を失う、失うというほどではないにしても、弱くなって、神様から少しずれてしまった。それに気がついたときに「もうこうなったら仕方ない。もう後は自分でやるさ。神様なんか、もうやめた」と言ってしまうのか、それとも「そうだ。私ではない、神様がここまで導いてくださった。もう一度、主に立ち返ろう」と言うのか、この二つに一つです。 

それに対して神様は、6節にありますように「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と言われます。神様は私たちが帰ることを待っていてくださいます。これを喜んでくださるのです。人間は限りがありますから、「何度、謝ったら済むんだ」とよく言います。「お前は何遍同じことを繰り返して……」と。そのような経験がありますから、神様もそうではないか、と思うのです。「もうこれで10回目だ、11回目はもうアウトかもしれない」と。ところが、神様は7度(たび)を70倍するほどにと、トコトン許したいと願っていらっしゃる。だからといって、神様のご愛をないがしろにすると言いますか、軽んじて、「いや、どっち道許してくれるんだからいいや」というのでは、これは神様のご愛を踏みにじることです。そうではなくて、妬(や)けるようなご愛をもって、私たちを許そうと待っていてくださる主のご愛に答えていく、応答していく。真実に私たちも「何とかして」という思いを持つことが、主に報いるただ一つの道です。

だから、6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と。だから、遠く離れないうちに、神様から段々離れて、「ちょっと離れているな」と思いながらも、「えいや!」と「もうちょっと、まぁ、大丈夫」とやっているうちに遠くなって、身近に感じていた神様が、遠くに距離を感じるように変わってしまう。そうすると、「帰ろう」と思っても遠すぎて帰りようがなくなる。そうならないために、離れている距離が短い間に、すぐに主に立ち返ること。7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ」。悪しき者は自分が間違っていることをしていると思ったら、それをまず捨てることです。「そうだ。これは間違っているな」と認めるのです。「正しからぬ人はその思いを捨てて」と。「思い」とは心です。自分の心にある悪しき思い、神様に背く思いを捨てていくこと、それを捨ててどうするか? 「主に帰る」。神様に立ち返る。「そうすれば、主は彼にあわれみを施される」。神様はあわれみを施してくださる御方、恵み豊かな御方、7節の終わりに「主は豊かにゆるしを与えられる」とあります。豊かにゆるしを与えてくださる、許さんとして待っていてくださる神様です。ただ私たちがすべきことは、神様に立ち返って、「ごめんなさい」と言うこと以外にない。これが私たちの恵みに生きる道筋です。「悪しき者」、「正しからぬ人は」とあります。心で罪を犯すばかりでなく、具体的な何か事があるならば、そこから離れて、それを修復して、思いの中、心の中にそのような悪しき思いがあるならば、その思いを捨てて神様の前に「ごめんなさい」と言うことです。「私はいつ神様に罪を犯しただろうか」と思うかもしれませんが、何が罪であるかは、ちゃんと神様が教えてくださいます。

 私は以前そのことで随分悩んだことがあります。若いころ、私は自分を義としていました。「私は正しい。あいつの言うことは間違っている」とか、「こいつは……」と、ハリネズミのごとくツンツンしていました。見るもの聞くもの、しゃくの種という時代がありました。ところが、何かで人に良からぬことを思ったり、あるいは何か自分のしたことが心に引っ掛かることがある。「しまった。あんなことを言わなきゃ、よかった」「あんなことをしなきゃ、よかった」と思う。そうすると、それがズーッと心に引っかかって、忘れたつもりですが、いつまでも尾をひく。「もうしてしまった。仕方ない」と、自分で自分に言い聞かせても、それで収(おさ)まらない。何かフッとした瞬間に、そのことが心にポッと思い浮かぶ。それをまた打ち消す。またしばらくすると、また出てくる。忘れたつもりでも、何年もズーッとそのことが、心の中心にはないのですが、隅っこのほうに引っ掛かっている。それがいつも何かする度ごとに、ポコッと頭をもたげることがありまして、大変苦しんでいました。そして、その度ごとに、自分が言い訳をしている。「だって、あの時はああだったし、こうだったし、あれが悪いのだ」、「あんなことを言われたからこうしたんだし、自分は悪くない」、「自分は悪くない」と、常に自己弁護をし続けている。その事柄自体はたわいもないことであって、それが実質的な犯罪につながるとか、相手に大損害を与えたというような問題ではない。実に小さなことの行き違いのようなことであっても、それがいつも心に残っている。あるとき、聖書の御言葉に「あなたの内にある指差しを除け」。私はその御言葉に触れたとき、ハッと、神様が指差していらっしゃる。「お前のそこは大丈夫か、お前のこのことはいいのか?」。そのとき「これは神様が私の間違っていることを指摘しているのだ」。それまでは自分が正しくて、相手が悪い、相手が謝るべきだ、自分はどこも悪くない。もちろん、毎日じゃない。それが思い浮かぶ瞬間がある。何かの事のときにポコッと心にわいてくる。そのときどうするか?ここが問題です。そのとき、「正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰る」。実は神様の前に許されなければならない事柄なのだと、私たちは知るべきです。人に対して「あの人に悪いことをした」「この人に悪いことをした」ではなくて、その事柄の背後に、おのれを義とする、神様を認めないで自分が正しいと主張している自分、それが神様に対して罪を犯していることです。そのとき、神様の前にへりくだって、その事柄をはっきりと「神様の前にこういうことをしてしまいました。いつもこのことが心に引っ掛かって、絶えず言い訳をし続ける自分がおりますから、神様、あなたの赦しを与えてください」と祈る。主に帰っていく。「私が罪を犯しました」と、認めることがどんなことに対しても大切です。もちろん、その相手に対して「ごめんなさい」と言うことも必要ですが、何よりもまずすべき事は、私と神様との関係の中で「指差し」を除くこと。そのことを経験しましてから、私はもう二度とこんな苦しい思いをしたくないと思った。何か事をして行き違うことがあって、心に引っ掛かることがあったら、早く神様の前に処理をしなければいけない。神様の前にみずからを清くしなければいけない。同時に、それが自分の心を軽くするのです。主の赦しを確信したとき、「これも神様が十字架にあがなって、この罪のゆえに主は赦してくださっておられる。『子よ、心安かれ、汝の罪ゆるされたり』(マタイ9:2)と、今日も主は憐(あわ)れみをもって赦してくださった」と、赦しの確信を必ず持つこと。これは私たちの最高の恵みであります。それがないかぎり、いつまでも、きれいな真っ白な布地に一点黒いしみが付いたような心を持ち続けるのです。これは、普段何か忙しく、何か楽しいときには忘れている。ところが、何かのきっかけ、ひょっと時間が空いて、ホッとして、心がポカッと空白になった瞬間にそういうものが浮かんでくる。皆さんも、そういうものがあるならば、早く神様の前にそのことを告白して、主の赦しを受けることが幸いです。

7節「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」。素晴らしい神様の約束です。「赦してくださる」「あわれみを施す」とおっしゃる。だから、私たちはいつでもどんなときでも、神様の前にみずからを清く、心を正しくしていくこと。言うならば、神様から後ろ指を差されない。指差しを受けない。常に「あのことだな」「このことだな」と引っ掛かる。時に集会で話を聞いて、「あのことを言っているな。でも、あの時たまたまそういうことになった。行き違いだ」と、自分に向かって上手に言い訳をします。そして「私は悪い所はない」「私も悪い所はあるかもしれないけれども、あっちのほうがもうちょっと悪い」と、常に気がつかないうちにつぶやいているならば、早く解決したほうがいいです。それが、神様の私たちに与えてくださる恵みだからです。

「ルカによる福音書」15章11節から20節までを朗読。

 これは、イエス様のたとえ話ですが、二人の兄弟がいて、その弟はお父さんの遺産分けを早めにもらって、サッサと遠い町へ出掛けしまう。持ち慣れない大金を持ったからでしょうか、大いに遊んだ。とうとう全部使い果たしてしまったところ、運悪くその地方が飢きんになった。「食べることにも窮(きゅう)しはじめた」とあります。それで、豚を飼う者になりました。しかし、おなかがすいて、豚のえさですらも食べたいほどになったというのですから、誠に惨(みじ)めです。そのときに彼は初めて自分のことに気がついた。自分がどういう生まれのものであり、どういう生活をしていたのか。今ここで、こんな惨めな生活をしている自分を比較して考えたとき、何が間違っていて、どこに罪があったか? 責めるべきは自分以外にない。本当に自分が悪かった。その結果、17節に「そこで彼は本心に立ちかえって」とあるように、有りのままの自分を認める。掛け値なし、どうにもならないのですから、いま置かれた境遇、またかつて親の許(もと)にいたときの自分、そして今に至るまでのことを振り返って、しっかりと本心に立ちかえる。目が覚めるのです。考えてみると、お父さんの所には雇い人がたくさんいて、雇い人は今の自分よりももっと豊かな生活をしている。そのことを思うとき、自分は大変なことをしてしまった。だから、18節に「立って、父のところへ帰って、こう言おう、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました』」。まず罪を認めることです。これは私たちと父なる神様との関係でもあります。そのことのたとえでもありますが、神様の前に罪を認めること、これが何よりも先決であります。具体的に、このことについて、あのことについて「私はあの人にあんなことを言ってしまった」とか「こんな事をしてしまった」とか、あるいは自分が至らないためにこんな失敗を自分はしてしまったと、心に示されている事柄。神様が指摘しておられる事、その事についてはきちっと清算しておくこと、これは何よりも大切なこと。何をさて置いてもまずその事をきちっとして、心を神様の前に軽くしていかなければ平安に過ごすことができません。常に何か言い訳をする事を持ち続けているのは苦しいですから……。彼は「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」と認めました。まず、神様に、またお父さん、あなたにも罪を犯しました。「もうあなたの息子と呼ばれる資格はありませんから、雇い人の一人にしてください」と言おうと。20節に「そこで立って」と、18節にも「立って」とありますが、決断を表す言葉です。きちっと、それに向かって踏み出すのです。「……とは思うけれども」と、私どもはいつもそこでストップする。よく言われる。「先生、こういうことがあって、だから私が悪いのだと思うのですが、でも、相手も……」と、そこでストップする。ところが「立って」というのは、それをもう一歩、踏み越えるのです。「そうです。実は私が間違っていました」。そして、父のところへ出かけていくのです。そのときにお父さんは「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って」、しかも、彼を受けいれてくださる。このときのお父さんは恐らく弟がひょっとしたら帰ってくるのではないかと思って待っていた。遠くから来る人影を見て、「あいつだ。息子だ」と、見分けることができるのですから、それほどお父さんは彼を愛していたのです。

父なる神様、天地万物の創造者でいらっしゃる神様は私たちを神の子供としてくださった。私たちの救い主なるイエス様はいつでも私たちを救ってくださる御方です。だから、どんなときでも、どんなことの中からでも、主を呼び求めて、まず罪の赦しを味わっていくこと。「私はイエス様の十字架を信じて洗礼を受けて、あのときに罪を赦された者ですから、なんでまた悔い改めなければならないのですか」と言われます。確かにそれによって罪を赦された者でありますからこそ、父なる神様のところへいつでも帰られるのであります。まだ地上にある今、私どもは失敗しやすい者であり、また罪を犯しやすい者ですから、そういう「指差し」を感じるならば、神様が教えておられるのです。「あなたのこれは罪だよ」「これは悔い改めるべきだよ」と教えてくださいますから、その事をしっかりと受け止めなければならない。このとき、息子に対して神様は本心に立ちかえらせてくださいました。それは彼の力でなくて、神様の憐れみです。恐らくお父さんの祈りでもあったと思います。それで彼はいよいよどん詰まりに来たときに、初めて「そうだった。自分の居るべき場所はここではない」と知ったのです。だから、私たちも「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに」、「今」というときに主に帰る。

 「イザヤ書」55章6節に、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。どうぞ、どんなときにでも、人がどうこうじゃない。私と神様、皆さんお一人お一人と神様との間に隔てるもの、あるいは何か薄い雲のようなもの、幕が広がってくるとき、私たちは早くそれを取り除く。家の掃除をするときでもそうでしょう。1年も放ったらかしておいたら、なかなか取りにくい。でも毎日少しずつしておけばきれいでしょう。神様との関係もそうでしょう。1年ためたら神様の前に悔い改めるべきことが多くなりすぎます。一日じゃ済まなくなってしまう。翌年まで持ち越すことになりますから、「これはまずいことをしてしまった。神様の前に申し訳なかった」と思うことがあるならば、それを早く解消しておくこと。これは私たちの恵みです。

 「詩篇」51篇1節から4節(前半)までを朗読。

 表題に「これはダビデがバテセバに通った後、預言者ナタンが来たときによんだもの」とあります。ダビデが自分の忠実な部下ウリヤの奥さん、バテセバを自分のものにしようとして、とうとうウリヤを殺してしまう。そして、平気な顔をしていたとき、神の人ナタンがやって来て、一つのたとえ話を通してダビデの罪を指摘しました。「あなたがその人です」(サムエル下12:7)と言ったのです。そのときにダビデはハッと気がついて、すぐに「私は神様、あなたに罪を犯しました」と告白しています。

今も私たちに対して神様が「お前はここが罪だよ。こういうことだよ」とおっしゃっている。私たちの心に引っ掛かるものを置いている。そのときに「これは神様の前に私が悔い改めるべきことです」と認めて、主の赦しを受けること。「このことも神様、あなたの赦しにあずかったことを信じます」と、はっきり告白して、一つ一つ線を引いていくこと。きちっと整理していかなければなりません。ダビデは1節に「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください」と、自分の様々な罪をどうぞ、ぬぐい去ってください。「わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。3 わたしは自分のとがを知っています」、これは祈りです。神様の前に悔い改めの祈りであります。「わたしの罪はいつもわたしの前にあります」。4節に「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」。「あなたに」「あなたの前に」と、あなたにと、繰り返しダビデは告白しています。私たちがまず神様の前にどういう自分であるかを認めていくこと。そして、私を許してくださる神様の憐れみといつくしみ、また許しを確信する。その後、ダビデはこう語っています。同じ章の16節17節に「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。彼はこのとき、神様からの赦しを確信しました。何かささげようとしても、私のささげるささげ物はどれ一つ神様に喜ばれることはできない。ただ神様が喜んでくださるささげ物はなにか? それは「砕けた悔いた心です」と、彼は告白しています。確かに神様は、私たちが砕けた悔いた心をもって神様を心から礼拝することを喜ばれる。神様に自分をささげること、これが神様の喜ばれる最大のささげ物です。どんなときにも、主の許しを感謝して、許された自分であることを認めて、いよいよへりくだって歩む者でありたいと思います。

 「イザヤ書」55章6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。私たちはいま主にお会いすることができる、主の前に立つことができるこのとき、いつも自分の心を探って、清い心を与えていただく。詩篇51篇7節に「ヒソプをもってわたしを清めてください。わたしは清くなるでしょう」と語っています。神様の前に清い心を絶えず持ち続けていきたいと思う。持ち続けるというのは「私が清くなろう」と頑張るのではなくて、砕けた悔いた心を持つことです。神様の前にへりくだって、主の赦しを絶えず受けていきたい。今日も主の赦しにあずかって、晴れ晴れとした、曇りのない心を持って、一日を過ごす者でありたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


8月30日 日々の聖言

2014年08月30日 | 日々の聖言

「神の造られたものは、みな良いものであって、

感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」第一テモテ4:4 



世にあるもので、神様によらないものはひとつもありません。あなたの人生も、家族も、

仕事も、健康もどんなものでも、神様によって造られたものです。目に見るところは、人

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聖書からのメッセージ(306)「救い主は誰か」

2014年08月30日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネの第一の手紙」5章1節から12節までを朗読。

 5節「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」。

 イエス様を信じることは、私たちにとって最高の恵みであり、また人生の勝利であると言えます。それは、イエス様を信じるとき、私たちは新しい者へと造り変えられるからです。キリスト教の信仰は、世の中のいろいろな宗教が標榜(ひょうぼう)するものとは全く違うものであります。この世の中では、家内安全、無病息災、病気治癒と、様々なご利益、これが売りと言いますか、「これを信仰したらこうなりますよ」というものがあります。多くの人々はそれを求めて来ます。商売をする人はここの神様とか、あるいは病気の人はあそこだとか、合格祈願はあの神社だというように、それぞれにご利益を求めて、生活上の様々な問題を解決してくれるものを願って、そういう所へ出かけて行きます。案外、キリスト教の教会にもそういう思いで信仰を求めて来られる方がおられますが、往々(おうおう)にして失望します。「教会に来ても何の変わりもない。何かいいことあるかしら」と。無いのであります。無いというか、この世の多くの人々が求めているそういう意味での目に見える利益はあまり無い。無いことはないのですが、これは曰(いわ)く言い難い所があります。むしろ、ご利益は大いにあるのです。しかし、それを頂く大前提がもう一つあります。世間の信仰は取りあえず拝みに行けば、なにがしかのお賽銭や供え物をして、「このことを……」「あのことを……」と祈りますと、きっと答えてくれるに違いないと思う。ところが、聖書が語っている救い、神様が与えてくださる恵みは、まず私たちが神様との関係を正しくするところから始まる。世間ではあまりそれを問わない。

歌を詠(よ)むのが上手だったのと、書道が得意だったので、死んでからその人を神様に祭った神社があります。受験期になるとたくさんの受験生が拝みに来ます。しかし、誰もご神体になった人物と関係はありません。縁もゆかりもない、どこの馬の骨とも知らない者がやって来て、僅かなお賽銭をポンと放り込んで、「この大学へ入学させてくれ」と言っても、何の関係もないでしょう。別にそれで満足している方のことをとやかく言うことはありませんが、私はやはりちょっとおかしいのではないかなと思う。だから、宗教心の篤(あつ)い方がいて、「うちは浄土真宗です」とか、「私は神道です」と言う方がいます。そういうときに、時に尋ねるのです。「あなたが信じている方はどんな方ですか?」と。大抵「私は何々宗だ」と言いながら、「いや、何でしょうかね、うちのは。ただ、一応浄土真宗で、私も真宗で信じています」と。分からないのです。

ところが、聖書が私たちに問いかけているのは、神様とあなたとはどういう関係にあるのか、あなたは神様をどのような御方と信じているのかということです。まずこのことをきちんと整えること、これが求められている。こうやって聖書のお言葉を通して神様を知るようになりました。長い方は何十年と続いていますから、「そんなことを言われなくても分かっている」と思うでしょうが、しかし、もう一度、まだ神様を知らなかったときの自分、生まれながらの自分はいったいどんな風に神様を信じていたのか、神様とどういうお付き合いをしていたかを振り返ってみると、神様を知る、出会うことはありませんでした。神様がいらっしゃることも知らない。神様がすべてのものを統べ治め、全知全能でいらっしゃることも知らない。ただ知っていたのは、日本という国の社会的伝統として、神道であるとか、何々宗であるという、ご利益にかかわる宗教は知っていたが、まさか自分が神様によって造られ、あるいは自分を造った神様がいると考えたことすら無かった。自分の人生が思いどおりにいかないとか、自分の夢をなんとか実現するために一生懸命に汗水たらして努力をしたがはかばかしくないため、人生に失望したり不平不満を抱いたり、嘆いたり悲しんだり、そして「あの人がいけない」「この人がいけない」「こんな境遇だから」とか、そのような世界にいたのです。神様は幸いに私たちをそこから救いの道へと引き出してくださった。そして、神様は、「わたしは神、あなたの神である」(詩篇 50:7)と語ってくださった。実は、神様は全人類の過去、現在、未来にわたってすべてのものを統べ治める全能の神であることを証詞しています。そればかりでなく、私たちの造り主です。私たちが今ここに生きているのは、自分の努力や自分の業や自分の知恵で生きているのではなく、実は神様がここに置いてくださった。神様は私たちの生みの親です。ところが、私どもは自分の肉にあって、目に見える形での親は大切にしますが、もっと根本である造り主なる神様を忘れて、勝手放題な生き方をしていた。神様は私たちを憐(あわ)れんで、そこからこの救いへと引き出してくださった。神様が救おうとなさったのは私たちだけではない。すべての人です。幸い、私たちは「いらっしゃい」と招いてくださった神様の呼びかけに答えて、応答して、「そうだ」と信じて今ここにある。だからといって、神様は私たちだけを特別にそうしたというのではない。神様はすべての人が救われることを願っている。そして、すべての人が救いにあずかる道を備えてくださった。これが、神様が私たちに与えてくださった根本的な救い。それは、すべての人、森羅万象、この宇宙も天も地もひっくるめて、すべて神様によって造られたものであることを認めて、神様との正しい関係に私たちが立ち返ることです。

今までお付き合いも無かった、不義理ばかり重ねていた神様に、ある日突然「やっぱり、神様、ちょっと助けてください」と勝手なことを言って、聞いていただける保証は無いですよ。人との付き合いでもそうではないですか。何か困ったことがあるから、「もう20年ぐらい付き合ってないけれど、あの人にちょっと頼もう」と出かけて、「久しぶり、懐かしいね、実はこういう頼みがあるんだけれども、お願いしたい」と言っても、「それはちょっと……」と言って断られますよ。神様と私たちも、付き合いが無いどころか、むしろ「神様なんかいるものか。おれが神だ」と、神様をけ飛ばしていた私たちが、 “苦しいときの神頼み”で、このときとばかり「神様、聞いてください」と言うのは、あまりにも虫が良さすぎる。そうでしょう。では、「何か神様にささげ物でもしようか。神様のご機嫌を取り戻してもらうために何をしようか」と言ても、私たちは不義理(罪)を償(つぐな)えるようなものは何にも持っていない。

だから、神様は私たちが帰られるように道を整えるため、ひとり子イエス様をこの世に遣わしてくださった。これは誠に理にかなった話です。「神の子が人となってこの世に来る。イエス・キリストがおとめマリヤから生まれるなんて、そんな馬鹿げた話があるか」と言われますが、それを信じないことの方が極めて不合理です。なぜならば、私たちが神様に帰るには罪のない完全な供え物、神様に受け入れられるものをささげなければならない。私たちにあるものは何にも無い。手あかで汚れた、捨てて当然のような、ボロ雑巾です。そんな私たちをささげたところで、神様から喜んでいただけるはずがない。皆さん、ご自分の何をもって神様の前に立てると思いますか。「私のこの人生の功績をもって、神様に認めてもらおう」なんて、そんなもの振り返ってみたら腐った人生じゃないですか。そんなものをもって、「神様、どうぞ、私を許してやってください」と言っても、役に立たない。神様はそれをご存じだから、ベツレヘムの馬小屋にイエス・キリストを送ってくださったのです。しかも、王家に生まれるとか、貴族の家に生まれるとか、人に有難いと思われるような、人が考えて「さも有りなん」と思われるような方法ではなくて、まだ結婚もしない女の人を通して神の御子が人となって世に来てくださる。これは神様がなさる以外にありえない方法です。だから、神様が私たちを愛してくださった証拠と言われているとおりです。神様はひとり子をこの世に遣わして、しかも33年半の地上でのご生涯を終わる最後に、ゴルゴダの十字架に釘付けたのです。罪無き御方が、ヘロデ王も、ピラトも、カヤパも、誰一人としてイエス様を「罪有り」と認める人はいなかった。ピラトはそう言っています。「わたしはこの人になんの罪もみとめない」(ルカ 23:4)と。ところが多くの人々は「十字架につけよ」と叫び狂ったのです。それは自分たちの罪の姿です。私どもが神様を認めることができない。神様を押しのけようとする罪の結果として、ひとり子イエス・キリストを十字架に追いやる。罪無き御方が罪人となって、 私たちの罪をご自分が負って、犠牲となり、十字架に命を捨ててくださった。先ほど申し上げたように、私たちは神様の前にささげるものが何もありませんが、神様のほうがひとり子イエス・キリストをささげものとして備えてくださった。そして、イエス・キリストを信じることによって、私たちを神様との正しい関係に立ち返らせてくださった。そればかりか、私たちを神の家族、神の子供としてくださったのです。これがキリスト教の信仰の中心点です。これ以外にない。そのほかのいろいろなことはなくてもいいようなもの。このことさえはっきり私たちが信じていくとき、私たちは罪を赦されて神の子供として新しい者へ造り変えられるのです。

だから、1節に「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である」と。イエスとキリストという二つの言葉がありますが、イエス様とは大工ヨセフの子として生まれて人となり給うたイエス様のことです。イエス様はキリストです。イエス・キリストと一緒に言います。あるいはキリスト・イエスという言い方をしたりします。ある方は「先生、どちらが苗字でどちらが名前ですか」と問われますが、名前といえばイエスが名前、キリストはある意味では称号です。だから、イエス様の苗字でも名前でもありません。救い主・イエスという意味です。キリストとは、イエス様の権限、身分、使命を証詞した称号です。ベツレヘムに生まれて33年半の地上の生涯を歩んで十字架に死んでくださった大工ヨセフの子、人となり給うた方が、実は私の救い主キリストですと信じる。イエス・キリストが十字架に死んでくださって、血を流し、そして父なる神様に「父よ、彼らを赦し給へ」と、執り成してくださる。「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ 23:34)と。まさにそれは私のために、皆さん一人一人に罪の赦しを与えてくださる御方となった。だからキリストなのです、救い主です。「救い主」はキリスト以外にありません。また、どんな中にあっても、イエス様を信じていくとき、イエス様が救ってくださる。病気の中で、「この病から癒(いや)していただきたい」と祈る。すると、これを癒してくださる。「イエス様はこの病を癒すことができます」と信じるのです。また経済的な困難のなかにあってもイエス様が救い主ですから、イエス様を呼び求めていくときに私たちの必要も神様が満たしてくださる。この世の様々な人間関係、いろいろなトラブルがある。いろいろな悩み、思い煩いの中にあるときも救い主はどなたでしょうか? イエス様です。「イエス様が私をそこから救ってくださる」と信じる。どうですか、イエス様を救い主と信じていらっしゃいますか? 「いや、私の罪を救ってくださって、十字架に私のために死んでくださった。だから救い主です」。確かにそれはそのとおりであります。しかし、イエス様が救い主でいらっしゃるというのは、そのことだけじゃない。私たちの生活のすべての中で救い主なのです。イエス様が私たちの罪をも赦してくださった。その救い主なる御方は、日々の生活の小さなことから大きなこと、悩んでいること、心配していること、不安なこと、失望落胆していること、その中から救ってくださる。だから、最初に申し上げましたように、キリスト教はご利益とは関係がないわけではない、大いにあります。その利益、そのような生活の事柄も救いにあずからせてくださるイエス・キリスト、イエス様が私の救い主となってくださる。

イエス様がピリポ・カイザリヤ地方に弟子たちと出かけたときに尋ねられました。「人々は、わたしをだれと言っているか」と。弟子たちはいろいろ聞いてきたうわさを伝えました。イエス様のことを預言者の再来であるとか、エリヤだとか、そういう預言者のひとりだ、あるいはバプテスマのヨハネがよみがえったのだとか。そのとき、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われました。弟子たちはびっくりしたと思います。まさか自分が尋ねられるとは思わない。皆さんでも「あなたは、私のことを誰と言うか」と唐突に聞かれたら、「え!」と思うでしょう。夫婦であっていつも知っているはずですが、そばにいる人って分からない。奥さんがご主人に「ねぇ、あなたは私を誰というの?」「お前は、お前だ」と、言ってしまいますが、イエス様は「あなたがたはわたしをだれと言うか」。皆は返事に困ったと思います。何と言ったらいいのだろうか。イエス様が期待している答えは何だろうかと。問われると100点満点の答えを、正解はどこにあるだろうかと思う。それで悩みます。そのため答えができなくなります。恐らく彼らもそうだったと思います。そのときにペテロは即座に「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ 16:16)と答えました。今も生きていらっしゃる神の御子であり、その後に「キリスト」と告白しました。「救い主です」と。それは罪をあがなって、私たちの罪のご犠牲となったというばかりでなく、私たちの地上にある生涯をズーッと貫いてキリスト、救い主なのです。だから、うれしいじゃないですか。どんな問題のなか、悩みのなか、事柄のなかに置かれようとも、私たちは孤独ではない、独りではないのです。救い主がいらっしゃる。イエス様が救い主となってくださる。これが私たちの恵みの源、根本です。イエス様は私たちに必要な物があれば、どんなことからも救ってくださる。この御方に寄り頼む、求める、祈ることができます。私たちが受けている救いがどういうものであるか、しっかりと握っていただきたい。大工ヨセフの子供として生まれ育ってくださったイエス様は、ただ人として生きてくださったばかりでなく、死んでよみがえって、今度はキリストとなって、救い主となって、私の救い主です。私を救ってくださいました。そうでしょう。

1節に「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である」。イエス様を救い主と信じていくとき、信じる人はすべて神様から生まれた者、神の子供だというのです。神様によって生まれるのです。新しく造り変えられるのです。このことをご自分が信じなければなりません。度々申し上げるように、何か証明書があって、それをもらわないと、どうも納得いかないというのでは、いつまでももらえません。聖書にある言葉を「そうなのだ。イエス様を救い主と信じているから、私は神の子なのだ」と、厚かましく信じていただきたい。遠慮がちに「そうは言うけれども、あまり大声では言えない。へたにそんなことを言ったら何を突っ込まれるか分からんから」と。神の子であるような、ないような中途半端。惜しいと思います。ここにはっきりと「すべて神から生れた者である」と約束されている。神様が私たちを生んでくださって、私たちは神の子供なのですから、だから信じて「私は神の子だ」と信じてご覧なさい。そうすると、生活が変わります。

だからといって、雲やかすみを食べて生きる者ではない。生活する場所も、食べる物も、着る物も、今までとちっとも変わりはない。しかし、心が、魂が変わる、思いが変わってきます。自分は神の子だ、神様がひとり子を十字架にかけてまで罪を赦して神の子供としてくださった。そのことを常に自覚していく。肉体を持って生きているだけに、ある意味では戦いです。絶えず繰り返し自分に語りかけていかなければ忘れます。肉にある関係、親子関係は黙っていたってつながります。しかし、神様を私のお父さんとしていくには、努めてそのことをみずからに言い聞かせていかなければ、自覚していかなければ駄目です。

「ヨハネの第一の手紙」3章1、2節前半までを朗読。

ここに繰り返して「すでに神の子」「今や神の子」とあります。私たちはイエス様の救いにあずかって、イエスをキリスト・救い主と信じて、神によって生まれた者であることを知っておきたいと思う。日々の生活のどんな中にあっても、私たちは神の子なのですから、お父さんは神様です。父なる神様。「神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊」(ガラテヤ 4:6)、天のお父様、と主に呼びかける霊を与えてくださった。だから、どんなときにでもお父さんに相談すればいい。呼び求めればいい。救い主でいらっしゃるイエス様に、飛び込めばいい。求めていけばいい。何と素晴らしい大きな恵みではないでしょうか。どんなことがあっても、すぐそこに主がいらっしゃる。祈れば答えてくださる。求めればそれに応答してくださる救い主がいらっしゃる。そういう結果を見たら信じようと思っても駄目です。まず聖書の御言葉にあるように、「すでに神の子、今や神の子だ」と。そのために神様はひとり子というかけがえのない大切なものを犠牲にしてまで、私たちを愛して、新しく生きる者と造り変えてくださる。

 このことを知るのと知らないのとでは、180度違います。「私はこうして神の子としていただいた。今日も神の子として生きるのだ」と自覚していくのと、そんなことを思わないで、ただ世に流され、日々の生活の惰性によって生きているのと、これは大きく違います。毎日の生活で同じことをやっているようですが、いつも「私は神の子なんだ。私の救い主であるイエス様は、いつも私と共にいてくださる」と、自覚して、絶えず意識して、そのことに心を向けていきますならば、大した違いでないように思いますが、1年経ち、2年、3年、5年、10年経ちますと、大きく違ってきます。すべてのことに安心と喜びと望みといのちがわいてきます。内なるものが強くなっていきます。内にある魂が生き生きとしてくる。年を取っていくにつれて、外なる人は滅びていきます。いわゆる肉体は衰えますし、生活環境も次々と変わっていきます。それにつれて世の中の人はしぼんでいきます。ところが、あなたこそ生ける神の子キリスト、イエスを神の子と、キリストと信じていくときに、神の子とせられた私たちは、確かに世の人と同じように外側の生活や肉体は変わっていく、あるいは縮(ちぢ)こまっていくと言いますか、失われていくものがたくさんありますが、しかし、内なるものは絶えず新しいいのちと力をいただく。キリスト、救い主でいらっしゃる御方が、私たちを絶えず支えて、生きる命を与えてくださる。どうぞ、もう一度どのような救い、恵みのなかに置かれているかを知っておきたい。

 「ヨハネの第一の手紙」5章4節以下に「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」。素晴らしいですね。イエス様が私たちの救い主であると信じること。「あなたこそ、神の子キリスト」と信じる。「イエス様が私のために命を捨てて十字架に罪をあがなってくださった。赦してくださったのみならず、よみがえったイエス様は私と共にいて、私を救ってくださった。今日も救い主であるイエス様によって、私は生きているのだ」。その自覚を持つと、私たちはこの世に勝つ者となる。勝利者となります。この世のすべての人々は、誰もがみな勝利者になりたいと思う。この世の勝利者とは、実力者であるとか、人から認められるような業をしたり、何か事業をするのが勝利者のように思われます。そう言われると、私たちは何もない。私たちは世の人から言うならば敗残者、負け組であります。何一つ勝利するものがありません。ところが、イエス様を救い主と信じていくとき、私たちは勝利するのです。

イエス様はこの地上にあって何一つそのような大事業をしたわけではありません。33年、その内の3年間ほど、30歳になってガリラヤ湖畔から神の子・救い主としての公の生涯を始められました。3年半近くの大変苦労の多い日々を過ごして、その最後は十字架の死です。その当時の権力者、いわゆるローマ帝国の大きな力はイエス様を抹殺(まっさつ)した、十字架に無き者として滅ぼした。その当時のユダヤ人の指導者たちもイエス様を捕らえて十字架に釘付けて、これで何もかも封印してしまった。ご丁寧(ていねい)にイエス様を墓に葬って、入り口には大きな石を置いて、福音書によるとそこに番兵まで置き、番をさせて、イエス様をこの世から無き者としてしまった。ところが、その死のなか、黄泉(よみ)の中から神様はイエス・キリストを救い出して、よみがえらせてくださった。40日間ご自身のよみがえったことを証詞なさった後、天にお帰りになりました。それで終わりかというと、そうではない。それからのち、イエス様はすべての人々の内に新しいいのちを注いでくださっています。2000年経った後、イエス様の名前は世界中に広がっています。イエス様を無き者にした人たちの姿はもはやどこにもありません。勝利者とはまさにここです。イエス様はあの十字架に世の権力者によって抹殺されて終わったかに見えました。しかし、負け組であるイエス様は、むしろ勝利者になっている。イエス様をそこに導いたのはいったい何であったかというと、それはただ一つです。イエス様が徹底して父なる神様に従った。父なる神様の御心を求めて、「父よ」「父よ」と、すべてのことに父なる神様の御心を行う。このことに徹底していきました。ゲッセマネの園で十字架におかかりになる前も、悩み苦しみの中から祈りました。やがて「主の御心ならば」と、「立て、さあ、行こう」と、神様の求め給うところ、十字架の道をもいとわないで、そこを歩んだ。私たちに世に勝つ者となる道をイエス様ご自身が模範となってくださった。私たちも救い主でいらっしゃるイエス様に結びついて、イエス様のお言葉をしっかりと心に抱いて、守って、地上の生涯を全うしていく。そのとき、この地上の生涯、この世の人から見ると負け組であり、失われたものであり、何一つ取り柄のないものであっても、神様の前にはすべての名に勝る名をキリストに与えたと言われているように、神様は私たちを引き上げて、すべての名に勝る栄光、神の栄光に入れてくださる。これが私たちの目指す勝利です。

ペテロという一人の人物。彼はガリラヤ湖畔の漁師だったのです。どんな教育を受けたか分かりません。恐らく何一つ教育もなかったと思います。生まれながらに先祖代々の漁師の生活をしていました。恐らくイエス様に出会わなければ、彼はそこで一生涯平凡な漁師としての生涯を終わったに違いない。ところが、幸か不幸か、イエス様に出会ってしまった。そして、イエス様が「あなたはわたしについてきなさい」と言われたとき、彼は先祖伝来の船具も船も網も全部捨てて、この世の生活の一切を捨てて、イエス様に従った。しかし、恐らく3年近くイエス様と寝食を共にした生活をしましたが、それでもまだペテロはよくは分からなかったのです。でも、やがてイエス様が天にお帰りになった後、あのペンテコステの日に神様からの霊に満たされて、初めて神の子であることの自覚を得た。御霊によらなければ、私たちはイエスを救い主・キリストと告白することはできませんし、神の霊によらなければ、私たちはみずからの神の子であることを知ることもできません。ペテロは初めて神様の霊に満たされて、自らの救い、神様が自分をどういう者として救ってくださったかを知ることができた。それからの彼の人生は変わりました。ついにはネロ皇帝の迫害の下でキリストのために殉教しますが、そのペテロの墓の上にサンピエトロ寺院、バチカンの大寺院が建てられています。そればかりでなく、こうして今もペテロは語り続けて、私たちを励まし、望みを与え、力を与えてくれます。ペテロの生涯はガリラヤ湖畔で平々凡々で終わるはずのものが、イエス様に出会うことによって世の勝利者となったのです。時代を越え、人を越え、すべてのものに打ち勝つ神様の新しいいのちによって、彼を造り変えたのです。

私たちもそうです。5節に「イエスを神の子と信じる」、救い主と信じていく。そして、イエス様に私たちが従っていくとき、ペテロをして殉教にまで導いた神様は私たちをも神様の御心にかなうものと造り変えて、新しいいのち、勝利に満ちた生涯を全うさせてくださるのです。だから、絶えず「私の救い主はどなたであるか」と問うてください。事情や境遇や事柄、家族ではない。「イエス様、あなたは私の救い主キリスト。あなたこそ生ける神の子キリスト」と信じる信仰に堅く立って、どんな中にも救いを与えてくださる御方はこの御方以外にないことを体験したいと思う。いろいろな問題、悩みに遭うとき、救い主を呼び求めていきたい。私たちを救ってくださる御方は、この御方以外にありません。どうぞ、「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」。イエスを神の子キリストと信じて、私たちも勝利者と神様に喜ばれる生涯を全うしていきたい。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


8月29日 日々の聖言

2014年08月29日 | 日々の聖言

「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、

空を打つような拳闘はしない。」第一コリント9:26 



運動競技では、それぞれの選手が自分のなすべきことを明確に知っています。また、

参加する競技で何を目標とするかを知っています。そのように、一生の旅路を競技に

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