いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(70)「だれの信仰か」

2013年11月30日 | 聖書からのメッセージ
マルコによる福音書5章25節から34節を朗読。

34節「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』。」
これは、12年間も病気で苦しんでいた女の人の記事です。人生にはいろいろな問題があります。生活上の問題、仕事の問題、人間関係の問題、あるいは、自分自身の性情性格について悩む。しかし、一番普遍的でしかも最も人を悩ますものは、やはり病気です。健康であるときにはあまり自覚しませんが、一旦病気をしますと、健康がどんなに有難いかと思います。また事実、健康であればこそ、生活が楽になり、いろいろな楽しみがあります。古来、病気は人を苦しめる問題でした。

よく世間でも、生・老・病・死という言葉を使います。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気、そして死の恐れがあります。現代日本では、生きるのに何を食べようかと、食べるのに困った問題は比較的少ないと思います。むしろ最近では、どうやって食べないでおくか、という悩みのほうが大きい。だから、ダイエット、ダイエットといって食べるのを控えようとします。物があふれて、冷蔵庫がいっぱいになっている。ところが、昔はそんなことは考えられなかった。物がなくて、乏しい中をその日暮らし、一日一日、何を食べようかと、食べるものがあるだろうかという生活をしました。その点では、今はたいへん恵まれて、生きる生活上の労苦は少なくなりました。

もう一つは、老いるという問題があります。健康である間、元気でいるときは、まだ自分は老人ではないと思います。だから、自分が年取っている、老人であること、そして年を取ったことから生じるさまざまな問題を前もって理解できないのです。そのときにならないとわからない。その歳にならないとわからないのが現実です。だから、老いる悩みを感じながらも、自分がその真っただ中にいるという自覚はない。いよいよ人の世話を受けなければならないようになり、物忘れもひどくなり、自分の家も忘れ、家族も忘れて、という状態になれば、悩みも深くなるでしょう。しかし、それでも当事者よりも家族や周囲の人のほうが、老人問題の悩みは大きいのです。

家内の両親が年を取ってきまして、最近そのことを感じます。本人たちは、いたってケロッとしている。こうなればああなる、ああなれば……。悩んでいるのは、周囲の子どもたちです。これからどうなるだろうか、ああなったらどうしようか。こうなったら……。ところが、本人たちは、幸いに祈りに応えられて、神様が二人に力を与えて、今はとりあえず小康状態、平穏に夫婦げんかもなく、お互いに助け合って、老々介護をやってくれます。見ていると、こちらがはらはらドキドキしますが、本人たちは、いたって自信がありますから、「何も心配することはない」と。だから家内が心配して電話をしたら、「何の用事だ」と言う。「いや、心配だから電話した」と言ったら、「俺たちのことは心配せんでいい。お前たちのことをちゃんとやっているか」と、逆に励まされました。この場合、何が問題かというと、本人たちは問題と思っていないのです。ところが、周囲の者のほうが、老人問題で困ったなぁ、と頭を抱えてしまいますが、これだって、それほど深刻にはなりません。

しかし、死の問題も実際に直面しなければわかりません。いつ死んでもおかしくないと思っていながらも、まだ死ぬことはないと思っています。ここが難しいのです。聖書にあるように、明日の命がわからない。そのとおりだと、頭ではわかるけれども、心で死を感じることはあまりない。何か具体的な不治の病で青息吐息。死ぬかもしれない。お医者さんが、脈を取りながらウーンと首をかしげると初めて、「すぐに死ぬのかな」と思うに違いない。それでもなお且つ、人は、いつまでも、いや、ひょっとしたら生きるのではなかろうか、死ぬことはないのではないかと思う。だから、本当に死の問題を深刻に受け止めるのには、自分の生活ができなくなり、体力を失い、健康を失って、いよいよにならないとわからない。だから、人生四大問題と言われますけれども、もっとも柘植先生は、そのほかに罪の問題を取り上げられましたが、私たちにとって、何が一番身近な問題かというと、病気です。ひょっとしたら私はこんな病気で……と。事実、年を取ると持病と称するものが増えてきます。あそこが痛いとか、ここがどうであるとか、血圧が高いとか、糖尿の気があるとか、いろんな事で自分の健康に不安を持つ。だから、古くから病気治癒が重要な問題として生活上の大部分を占めている、と言ってもいい。おそらく皆さんの中にも、大体一年間の3分の2くらいは、病気のことを心配しながら過ごしているに違いないですね。確かに、病気が癒されることを願います。

今読みました25節に「さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた」とあります。12年間の長い持病、これはかなり深刻です。大体、病気は長くても3年か5年くらい。まぁ、10年同じ病気で苦しむ人はかなり少ない。大体、人間の体は、3年か5年位すればいろんなものが変わっていきます。ところが、この女の人は、12年間も一つの病気で苦しんでいる。そのために26節に「多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが…」。病気をするとお金がいると言われます。だから、テレビで医療保険に入りなさいと宣伝していますね。「入院したらこれだけもらえますよ」と宣伝しているのを見ると、病気になったほうがいいなと思いますね。病気になりたくなるような宣伝をしてくれます。しかし、それは病気にお金が掛かると言っているのです。イエス様の時代ですらもそうでした。26節にあるように「多くの医者にかかって」と。病気になると医者が治してくれるに違いないと思って、あちらの医者、こちらの医者、良いといわれるところに一軒も二軒も三軒も、まるで診察券がトランプのカードのごとく、今日はあそこに、明日はこちらにと病院を回っている。だから、26節「多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ」。「あれをしたらいいですよ」「いや、これがいいですよ」といろいろなことを、医者に言われるとおりにやって、それがいい結果を生めばいいですが、必ずしもそうはいかない。「さんざん苦しめられ」と、これは今も変わらない問題ですね。過剰医療であるとか、医療の質の問題であるとか、最近言われますが、そこにありますように、「なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる」という。もう泣き面に蜂です。どんどん悪くなる。しかも「持ち物をみな費してしまった」。財産もなくなってしまう。こうなったらお手上げです。この女の人の絶望、落胆はどんなに深かっただろうかと思います。これをご自分に引き比べて考えていただきたい。あちらに走り、こちらに走り、ああなったらどうしようか、こうなったらどうしようかと、多くの医者に行き、お金は費やし、とうとう悪くなって、見込みがなくなって、見放され、失望落胆していた。

そのとき、27節に「この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった」。「この女がイエスのことを聞いて」、イエス様が彼女の住んでいる町に来られた。イエス様は有名人でしたから、あちらこちらにうわさが流れる。イエス様に祈っていただいたら、イエス様に触っていただいたら、病気が治った、目が開かれた、足がなえていた人が立つようになった。耳の聞こえない人が、聞こえるようになった。いろいろな奇跡が起こった。そういったうわさ話はすぐに広まりますね。この女性もイエス様のことを聞いていたのです。その人が私の所に来てくれれば助かるのだと、心ひそかに願っていた。そこへ、千載一遇、チャンスがきた。彼女はなんとしてもイエス様のみ衣にでも触ろうと、なり振りかまわず近づいた。イエス様の周囲にはたくさんの人が群がっていました。だから「群衆の中にまぎれ込み」、押し合いへし合いしている人の間に紛れ込んで、イエス様の所に近づいて、なんとかイエス様の衣に触った。28節に「それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである」。彼女は、イエス様ならば、必ず私を癒してくださると信じていた。たとえイエス様から、直接手を触れていただかなくても、イエス様の体の一部分、着ているもの、その衣でもいいから触ったらという、その強い思いが彼女の中にあった。そして信じて触った。そうしたら、なんと、29節に「すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた」。この女の人は触った瞬間に、今までの自分と違う体の変化を感じた。力がわいて、今まで出血していたのでしょうか、その現象が具体的に現れたのです。彼女はうれしかった。12年間、しかも、財産も使い果たして何もかもなくして、失望していた彼女が、イエス様に触れたことによって、全く新しく造り変えられたのです。

30節に「イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『わたしの着物にさわったのはだれか』と言われた」と。イエス様は、その時自分のうちから力が出ていったことを感じたのです。そこにはたくさんの人が肩を押し合うようにして、イエス様に触れていました。でも、触っているからといって、その人の何かが治るとか、あるいは、その人の気が付かないうちに、イエス様のそばにいたら、なにか知らないけれども、願いもしないけれど、いい具合になったという話ではない。イエス様を求めて、信じて、近づいて触れたのです。そのときイエス様の体からも、思いがけない力が出ていったことを感じられた。すぐにイエス様は、30節に「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。イエス様は、そこで立ち止まって、「誰かが私に触った。誰だ」と言った。弟子たちはあきれて「こんなにたくさん人がいて、誰もが触っていますよ、先生!」と。その時32節に「しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた」。彼女は、戦々恐々、びくびくしたと思います。こっそり触ったのですから。「これでよし、治った。良かった」と、「やれやれ、しめた」と思った途端に、イエス様が立ち止まって「誰か」触った者がいると見まわしている。これはえらいことになった。もし見つかったら、どんなにしかられるかわからない。また法外なお金を要求されるかしれない。彼女は本当に恐れました。33節に「その女は自分の身に起ったことを知って」、「恐れおののきながら」、怖かったのです。この前後を見ますと、一人の人が死にかかっていると知らせを受けて、イエス様はそこへ向かっていく途中です。早く行かないと間に合わないかもしれないのに、イエス様はじっと止まってしまって、動こうとしない。彼女はそういう事情は知りませんが、とにかく出て行かざるをえない。33節に「恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた」。彼女は覚悟をしたのです。何を言われようと、何をされようと、治ったのだから、感謝して、イエス様の前に出ました。これまでのことを全部話しました。多くの人が聞いている中ですから、恥ずかしかったかもしれない。自分の有様を全部打ち明けたのです。

もし、彼女が、触って癒され、良かった、良かったで、隠れて去ってしまったら、それだけだったでしょう。ところが、イエス様はそれをすべて、有りのままに語るよう求められました。これは証詞(あかし)です。それによって彼女自身の信仰が、誰によってこの病気が治ったか、はっきりするのです。そうでなかったら、家に帰った拍子に、もうそろそろ治る時期がきていたに違いない。あるいは、イエス様に触れる前に、出がけに飲んだ薬が効いたかもしれないと、何かほかのものに取って代られてしまいます。しかし、この時、イエス様の前ですべてのことを打ち明けた。それを通して、イエス様は「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』」。素晴らしい。イエス様が、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。

これはわかりにくいことですが、これがイエス様を信じる信仰のあり方です。この時、この女の人の病気が治ったのは、イエス様がなにか不思議な力を働かせて、彼女にしてくださったというよりは、まず、彼女がイエス様ならば、私の病気を必ず癒してくださる、イエス様はそれができると信じたことが、一番大切なことです。というのは、イエス様に近づいてきた人はたくさんいました。イエス様の体に触って、意識しないで、押し合っていますから、体が触れ合ったり、衣のどこかに触ったりした人は、いくらでもいたと思います。しかし、その人たちには何の変化もありません。ただこの女の人だけが触ったときに、確かにイエス様のうちから力が出ていって、癒されたのです。まず、彼女がイエス様をどのような方と信じたか。そしてイエス様は何が出来ると信じたのか、ここが大切です。神様の私たちに対するお取り扱い、恵みはそこなのです。私たちが、どのように神様を受け止め、信じようとしているのか。神様をどういう方と信頼しようとしているのか。イエス様を、私にとってどういう方であると信じて祈り、求め、すべてを打ち明けているのか。これが大切なのです。

確かにイエス様は神ご自身、全能者ですから、どんなことでもできないことはありません。しかし、求めない人にまで、与えることはしません。イエス様のほうから近づいて、あなた、今日は顔色が悪い、どこか悪いのではない? 癒してあげようと、そのようにはおっしゃらない。福音書を読むと、いろんな奇跡が書かれていますが、必ず、その当事者自身がイエス様を求めるのです。イエス様、どうぞこれをこうしてください。あるとき、目の不自由な人が、イエス様に、「ダビデの子イエスよ、あわれんでください」と呼びかけました。そのときに、イエス様は「何をしてほしいのだ」と言われました。その人が目が不自由だから、それを癒していただきたいと思っているのは、明らかにわかっています。「イエス様、あわれんでください」と呼びかけて、イエス様もちゃんと見ている。けれども、「何をしてほしいのだ」と、丁寧に聞くのです。「見えるようになることです」と言った、そのとき「あなたの信じたとおりになるように」。信仰というのは、神様を信じて、神様の力を受けることです。そのためには、私たちがイエス様をどのような方と信じて、信頼しているかにかかっている。たくさんの人がいながら、たった一人だけ、この女の人だけが、イエス様を求めて、癒すことがお出来になる癒し主でいらっしゃると信じて、触れたのです。そうするとき、イエス様は、その願いと、求めるところに応えてくださる。私たちが、神様の前に出て行くときに、大切なのはこれだけです。神様は私たちがどのような方と信じ、信頼するかに従って、そのように取り扱ってくださる。

マタイによる福音書10章40節から42節までを朗読。

41節に「預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受ける」とあります。イエス様をどのような方と信じるか、それによって神様は、そのように応えてくださる。だから、イエス様に期待し、望みを持つときに、イエス様だったら、この程度はできるけれども、これは難しいだろうと思ったら、その程度です。イエス様を義人だとか、あるいは、預言者であるというのだったら、それだけのことなのです。だから、「マタイによる福音書」16章にありますように、イエス様が、弟子たちを集めて、「人々は人の子をだれと言っているか」と問われました。彼らは、自分たちが聞いた世間のうわさを伝えました。預言者であるとか、あるいはバプテスマのヨハネだとか、新しい預言者だとか、いろんなことを言ったのです。そのときにイエス様は、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われました。これが信仰の中心です。私は、誰と信じていくか。そのときにペテロが、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。「イエス様、あなたは、今も生き、働き給う神の御子、救い主でいらっしゃいます」と告白した。神様が私たちに求めているのは、あなたの信仰はどのような信仰なのかと。イエス様をどのような方と信じて呼び求めているのか。それはひとえに私たちにかかっている。ああだからこうだからと、いくら神様の説明をしても、神様が全能者であることを知っていても、そういう方と信じなければ、あくまでもその方とは無関係です。

もう一度、マルコによる福音書5章に戻りますが、この女の人のように、「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていた」と、彼女は、イエス様ならば必ず癒してくださると信じていた。私たちも、日々にこの神様をどのような方として信じているのか、信仰が問われます。この一年間、また地上にある限り、いろいろな問題に遭います。その度ごとに、私は、今イエス様をどのような方と信じて、祈っているのだろうか、求めているのだろうか。私の信仰はどこにあるのか。何を信じているのか。それをはっきりと確信し、自覚を持っていきたいと思います。聖書の言葉を聞いても、これは、神様が私に語ってくださっていると信じて、「はい」と従う。神様からのものと信じていくならば、私たちの信じたとおりになる。私たちが、イエス様を神の御子、救い主であると信じたならば、そのように救いを現してくださる。くすしき御業、新しい業を起こしてくださいます。

マルコによる福音書11章20節から24節までを朗読。

これは、イエス様が、弟子たちと道を歩いていたとき、イチジクの木をのろわれたのです。「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。次の日、行ってみると、なる程そのとおりに枯れてしまっていた。それを見てペテロが「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」と伝えました。イエス様は「神を信じなさい」と答えています。それは神を信じる者に力を現してくださる。イエス様は神だから、神の力が現れたというのではないのです。イエス様は、神の位を捨てて、この地上に住み、人となってくださった。しかし、だからといってイエス様が、スーパーマンだったわけではない。どんなにしても死ぬことのない超人になったのではありません。私達と同じ弱い肉体を持ち、同じ悩みと悲しみと痛みを知り、病を知り給う方となってくださいました。それなのに、イエス様は、イチジクを枯らすなんて、やはり人と違っていたのだろう、何か特殊なエネルギーが、どこか遠くからレーザー光線かなにか、ウルトラマンのように、遠くの星からやって来てというような……、イエス様はそのような方と思いやすい。しかし、私達と全く同じ肉体を持った弱い方だったのです。ただ、違っていたのは、神様を信じる信仰があったのです。イエス様は、いつも、父なる神様を信じて、できないことのない方ですと、絶えず信仰に立っていました。だから、いろんな人の病をお癒しになったときも、イエス様の信仰の故に多くの人々がその救いにあずかったのです。先ほどの12年長血を患った人が、イエス様のうちから力が抜けていったという。それは、イエス様は、父なる神様に絶えず結び付いていたので、神の霊が宿っていました。霊が宿ったというのは、特殊なことではなくて、私たちも同じです。イエス様が受けたと同じ神の御霊を私たちも今、受けている。イエス様は、なおいっそう父なる神様を信頼していたから、衣に触ったら、イエス様の信仰によって、彼女が癒されるのです。そこにありますように、22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら』」。イエス様は、神様を心に疑わないで信じる方なのです。一方、私たちは、信じながらどこかで疑っている。信じながら、どこかでひょっとしたらと、そうもいくまいと思っているところがある。ここがイエス様と私たちとの違うところです。

イエス様と私たちは、同じ御霊をいただいています。ただ違うのは、信仰があるかないかです。イエス様は疑わないで、神様に徹底して信頼した。どんな状態、事柄の中にあっても、神様に信頼し続けている。私どもは、それは人によりけりでしょうが、六割くらい、四割くらい、ある人は八割くらいは信じるけれども。イエス様ほどに父なる神様にピタッとくっつこうとしない。だから、イエス様のなさる業ができない。イエス様を信じる者は、ヨハネによる福音書14章にあるように、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」と約束されている。ところが、私たちはイエス様を越えられない。なぜか? 疑ってばかりいるからです。12年長血を患って、その人の信仰によって癒された女の人のように、イエス様を信じようではありませんか。イエス様を信じると言いますのは、神様を信じることです。神様にはできないことはありません。できないことはありませんと信じておいて、すぐに、もうそろそろ焼けたかな、とすぐにひっくり返してみようとする。

子どもが、お母さんとお菓子を焼くとき、いつもオーブンを開けたり閉めたりします。私も子どものころよく言われました。すぐにどのくらい焼けたかと見る。そうではなく、徹底して、死ぬまで信じ続けるのです。これが、神様に対する信頼です。私たちはどこかで疑ってしまう。この12年長血を患った女の人は、イエス様はお出来になると信じて、信仰を持って、イエス様に触れました。その信仰があってその人は救われる。だから、私たちもそうです、徹底してイエス様を信じようではありませんか。

ですから24節に「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」。私たちはいつも、ああしてください、こうしてください、あれをしてください、これをしてください、どうか……、どうか……、と言うでしょう。そうである限り、得たりと信じるわけにはいかない。ここで24節に「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」。「かなえられたと信じ」ていく。かなえられるかどうか、自分の目の前を探って、そろそろ痛い所がなくなるはずだけどと、結果を捜す。信じていない証拠ですよ。信じるとは、とことん最後まで信じ続けていくことです。主が癒してくださったと信じて、絶えずその信仰に立って歩む以外にない。現実、まだ痛い所があったり、あそこがどうであるとか、こうであるとか、いろいろなことがあったりしても、祈ったのだから癒されましたと信じる。癒されたのだと、信じていくときに、そこにありますように「そうすれば、そのとおりになるであろう」。

この女の人のように、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と、イエス様から太鼓判を押してもらえるように信じ続けていこうではありませんか。途中でぐらぐらしない。博多弁で「ぐらぐらした」という言葉があります。もう意欲をなくした状態をいうのです。「そんなもん、仕方ない。ぐらぐらした」と使います。そういう気持ちになったら、不信仰です。

はじめのマルコによる福音書の5章34節に「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです』」。イエス様は、私の祈りに応えてくださっている。もう、祈ったことは必ず、かなえられたと信じなさいとおっしゃいます。イエスは癒してくださると信じたから、女の人は近づいていって、触れたのです。そして、その結果を得たのです。どうぞ、私どもも、日々の生活の中で、いろいろな場面があります。病気ばかりではないでしょう。事情、境遇、事柄など。しかし、そのたびごとにイエス様を信じて、確信を持って、信仰に立とうではありませんか。信じていくのです。もう大丈夫、出来ましたと、自分自身が神様の前に、心をきちっと定めていくとき、神様はそれに応えてくださいます。必ず応えてくださいます。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。