いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(53)「目を高くあげて」

2013年11月13日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書40章21節から26節まで朗読。

今朝はこの26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」。
今年に入りまして身近なところで、自然の災、天災といわれるものに遭っております。ご存知のように、福岡にも地震がありました。誰も思いもしない想像もしないことが起こりました。また、日本各地で今年ほど地震の多い年はなかっただろうと思います。新潟の地震を初めとして、またこの間も東京近辺でも地震があり、仙台でもありましたですね。次々と各地で地震がありました。その上に、今週は台風が登場して、私たちはいい休みを得たのですが、ある場所によっては大変な被害を受けました。海外でも、ご存知のように、アメリカではハリケーンの影響でルイジアナや、ミシシッピ州の多くの家々が、今もって水の中に浸かっています。

言われているように、ニューオーリンズという地域は海抜よりも少し低く、海面のほうが高い地域です。昔は、湿地帯であった所へ人が住むようになって、堤防を築いて、「これで大丈夫」と言われる状態であったと思います。でも、老朽化していたので、以前からそういう危険があると、専門家によって指摘されていました。しかし、ほかの国と違って、世界でも第一級の国ですから、まさかそういうことはあるまいと思いました。ところがとんでもないことです。たった一晩吹き荒れたハリケ-ンのために、何百万という人が家を失い、今もって百万近くの人が、住む所がなくて避難民となっている。言うならば、戦争で難民ができる以上に、一瞬にしてアメリカは、自分の国に難民を抱え込んだようなものです。仕事を失い、住む所を失い、生活の糧を失ったのです。こればかりは、どうにも仕方がないといいますか、なすすべがない。この度の日本の台風を見ていてもそうですね。「用心してください」とか「警戒してください」と、「台風が近づいていますから、備えておいてください」と言われるけれども、「どう備えたらいいのか、何を備えたらいいのか」。私は、ある方に「どうしますか」と言ったら「いや、せいぜい窓に板でも打ち付けておきましょうかね」と言うのです。そのくらいで防げるのなら幸いですけれども、場所によっては大変な被害を受けます。そういうとき、もう一度、人は一体どういうものなのか、考えざるを得ません。人間がいかに無能、無力、小さな存在かということです。ところが、普段日常では、そういうことを余り感じません。順調にものごとが進んでいるときは、まるで、自分の知恵と力、努力で、熱心にやることで安全が保たれ、生活が営まれていると思っています。ところが、人の力の及ばない、台風であるとか、地震であるとか、そういうものが襲ってくると、私たちはお手上げです。実は、そういう問題だからお手上げというのではないはずです。

今お読みいたしました21節から「あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか」。ここに「知らなかったか」「聞かなかったか」「伝えられなかったか」「悟らなかったか」と、繰り返し念を押されています。「いや、こんなに大自然の力があるなんて知らなかった」、ましてや「神様がいらっしゃるなんて、私は知らなかった」とは言えないというのです。なぜならそういう天然自然といいますか、私たちの生活している場そのものが、実は人の力ではなくて、大きな神様の力の中に握られているのです。

ですから、22節に「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる」。神様の目からご覧になったら、私たち人間なんて、本当にイナゴか蟻のような小さな目にもとまらない、有るか無いか分からない存在でしかありません。ですから神様が事を起こされるならば、もろく、一瞬にして消え去っていくのが私たちの実態です。神様が、少し台風の進路を変えて、北九州にあのハリケーンのようなものを送ったら、「私のうちはコンクリートだから大丈夫」なんて、風には強くても、川が決壊して水がはん濫し、家が沈んでしまったら、これは同じことです。どこでどういう風になるか分かりません。私たちは神様の手の中に絶えず握られているのです。神様は、「地球のはるか上に座して」と言って、これはいつも申し上げますように、距離の問題ではありません。「はるか上」って、どのくらい先なのだろうか、銀河系のその先なんだろうかと。そんな場所を言っていることではなくて、神様と私たちとは、到底接点がない程に、雲泥の差といいますか、天と地が離れている以上に離れた存在です。神様のほうがはるかに大きな力をもって、支配している方です。「上に座して」というのは、私たちを上から支配していらっしゃる。そして私たち一人一人、すべての者を、神様は、その大きな力で握っています。

その先の23節には「また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる」。「もろもろの君」「地のつかさたち」とは、歴史を動かしてきたような大人物、ナポレオンであるとか、エリザベス一世であるとか、古代ローマの皇帝たちもそうでありましょう。聖書に出てくるバビロンの王様、ネブカデネザルもそうでしょう。そういう一世を風びして、その時代を支配した権力者と言われる人たちも、跡形もなく神様の手によって亡き者とされるのです。確かにそうだと思います。あのソ連を築いたスターリンもそうであります。あるいは、ナチス・ドイツを造り上げた、ヒットラーでもそうであります。どんなに権力をほしいままにして、世界を動かしているような大人物、この人に並ぶべき者は居ないと言われる人物であっても、神様の目からご覧になったら、誠に小さな存在です。一瞬にして消し去られていきます。

24節に「彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる」。大帝国を誇ったローマでもそうですね。ローマ帝国はある時代を支配した帝国でありました。地中海の周辺から、遠くヨーロッパ全土から中東辺りまでをほぼ支配した大帝国だったのです。しかし、今やそのローマ帝国はどこにあったか分からない。ただ、イタリアの小さな都市の名前として残っているに過ぎません。それは一体誰がそうしたか? 24節にありますように「神がその上を吹かれると」とあります。神様が、一息「フッー」っと、息を吹きかけることで、すべてが「わらのように、つむじ風にまき去られる」。突風でほこりを風が巻いて去るがごとくに消し去られていくのです。ところが、普段はそういう風には思えない。あんな強い人が、あの強国が、決して滅びることがないだろう、もう終わることがないだろうと思われる。しかし、必ず終わるときがくるのです。かつて大英帝国といって、エリザベス一世の時代は、自分の領土に日が上り、日が沈むという、いわゆる日が出るのも私の領土、日が沈む所も私のもの。つまり全世界が自分のものだと言わんばかりの帝国だったのです。ところが今では、小さな島国になってしまった。どんな人でも、神様のなさるわざの前には、誠に無能です。力のないひ弱な存在です。神様の目から見るならば、私たちはイナゴのような、本当に小さな、小さなものですから、私たちが生きようと死のうと、神様の前には何一つ事が変わらない程の存在でしかありません。すべてのものが、神様の手に握られて、今もあるのです。ですから26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」。もう一度目を高く上げてとおっしゃいます。ともすると、小さな所にばかり目をとめる。自分たちのわざ、人間の力、人間の知恵にだけ目をとめようとする。

私達はできるだけ台風がこないで欲しいと思います。ところが、ある意味で台風は非常に素晴しい。実は地球の環境を守っている一つのメカニズムです。南の方が太陽に熱せられて、そこが極めて暑くなると、台風が発生する。それによってエネルギーを各地に分散します。地球全体が一つの安定したレベルに保たれるように、神様が仕組んでいる事なのです。台風が押し寄せてくるときに、海水をかき回します。それによって海の中を掃除していくのです。台風がなければ、海はよどんでしまうでしょう。台風があって、そしてそれがかき混ぜてくれる。また、日本は丁度台風の通り道になりますから、季節季節に雨をもたらして、作物を育て、そして飲む水を与えてくれる。台風が少ない年はすぐ渇水になります。川がありますけれども、急流ですから水が貯まる所がありません。ですから、定期的に台風がくるのは、決して悪いことではない。むしろ私たちにとっては非常に大切な事です。台風がきて、山の木々がガーッと揺さぶられます。大濠公園でも、ときに木が倒れます。今回はそれほど強い風が吹かなかったから、2,3本倒れていました。しかし、木が揺さぶられることによって、木々は、自分で落とせない葉っぱを落とすのです。枯れ枝が千切られ、木々に巣くっている毛虫や害虫を、奇麗に掃除してくれます。見ているとかわいそうに思いますが、木が大風に揺さぶられて、そして弱い木はバッと倒れます。でも、その古びた弱い木が倒れることによって、今度はそれが腐敗して、地面を豊かにし、そこから新しい木の命が芽生えてくるのです。考えてみると、私たちの生活の中で、台風や地震なども、実は無駄なものはないのです。

ですから、一つ読んでおきたいと思いますが、イザヤ書55章8節から11節までを朗読。

この8節に「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる」。私たちが思う事は、どうしても自己中心、人間中心になりますから、私の家が水浸しにならないように、私の家が風に壊れないように、私の家の水道がいつまでも渇水にならないようにして欲しい。しかし、台風は嫌です。あるいは大雨は嫌ですと。しかし、神様のご計画はそうではありません。神様の思いは、私たちの思いをはるかに越えている。実は、もっと、もっと大きなわざの中に、私たちはあるのです。確かに、災害にあった人にとっては気の毒だと思います。そこから逃れられればよかったと思います。しかし、これも神様の大きな御手の中にあることを認めなければ、ただ台風が原因でこんな不幸な目に遭った、あるいは、こういう洪水が起こったから、家はこういう被害を受けて、大損をしたという、損得利害の世界だけにとどまってしまう。本来神様は、私たちの生活を満たすために、豊かにするために、すべてのものを備えておられるのです。川がはん濫することで、確かに多くの人が被害を受けます。しかし、昔は、川がはん濫することによって、その河口の土地が豊かになり、耕作に適する土地になったのです。エジブトのナイル川などは、繰り返し繰り返し起こるはん濫の結果、その土地が豊かになって、作物が多く収穫できるように変わってきました。私たちの生活の背後に、私たちの思いを越えた、神様のわざがあるのです。ところが、今度は人が、自分の力で事を始めたために、いろんなものが障害になるのです。

よく言われますが、昔から住んでいる場所には、水がつかない、風が吹かないのです。ところが、少しでも便利なようにと、土地を切り開いて造成地を造りますか、必ずそういう所は壊れるのです。先日の台風で山陽道のがけが崩れて、道路の下の方に住んでいた数名の方がお亡くなりになりましたが、あんな所に道を造ったのは誰か。人間が自分たちの便利なように、本来そこは斜面であって、車を通すために道を造るなど、神様が御計画している所ではないのに、人間が勝手に造りますから、山崩れや、がけ崩れは幾らでも起こる。

数年前に、同じく台風のときに博多駅前が、水浸しになりました。周囲を流れる御笠川がはん濫したと言われますが、そうではないのです。都市が全部アスファルトで舗装されてしまっているために、本来地面に吸い込まれていくべき雨水が下水管に流れていく。そこへもってきて、丁度満潮時に引っ掛かって水位が逆転したために、川があふれたのです。なぜ都市がそうなったのか? みんなが歩くのに便利なように、車が走り易いように、ありとあらゆる所をアスファルトで固めてしまった。その結果、降った雨は、以前と変わらないのだけれど、地面に吸収されないから、人が作った下水管に全部流れてくるのです。ところが、大きな下水管を造ると費用が掛かるから、できるだけ小さくしています。直ぐにあふれるのです。市も予算を考えて……、先日もある人と話をしていたら、「先生、家の前で下水道の工事をしていて、私はびっくりしました。こんな小さな管、『これは仮設の管ですか』と聞いたら、『いや、これは本管です』と言われました。あんなちっぽけな管で足りるでしょうか」と。周囲に次々とマンションが出来ています。今までは同じ敷地、百坪に住んでいる人は、5人か7人であった。ところが、そこにマンションが出来ますか。5階建て6階建てのマンションで、20世帯くらいがその百坪の所に住むようになります。一世帯4人として80人くらいの人たちがそこで生活するように変わります。そこから排出される排水量は、相当なものになります。本来、その地域では、わずかだったものが、それが何十倍にもなってきます。しかし、行政はそういうことは考えませんから、ただ予算の中で、古いデータに基づいて、この地区はこのくらいの住民しか居ないから、この位の排水量に過ぎない、せいぜい増えてもこのくらいだろうと予測して下水道を敷設する。一方、建築課の方は、どんどん建築許可を出すから、マンションが次々と建ちます。

私の住んでいる向かい側の地区は、一区画に戸建ての家がなくなって、六棟ほどのマンションで一つの町内を占めています。昔はその町内は、大きなお屋敷が四戸くらいありまして、住んでいる人は全部あわせても十数人でした。ところが、そこに今は百人近くの人が住んでいます。確かにそれは私たちにとって、便利であるかもしれない。快適であるかもしれないけれど、雨が降れば一気にあふれてくるのは目に見えています。それでいて台風がいけないとか、自然災害は人の生活をおびやかす敵であるかのように言います。どっちが罪を犯してきたのか。人間の側なのですね。神様の前に本当に謙遜にならなければなりません。

江戸時代、さらにその昔からある場所は、決して水が浸からない、また風にも倒れない。そういう場所がちゃんとあるのです。ところが、新しい住民が移ってきたり、あるいは家が分家していきますね。昔のように大家族ではありませんから、息子たちのために、こっちに家を、あっちに家をと、今まで建てたことのない、本来だったら人が住むはずがない場所に家を建てますから、山崩れが起きる、水に浸かる、風に倒れると、ありとあらゆることが起こる。神様の手の中に自分をおこうとしないで、それに逆らおうとするから起こってくる事です。私は、台風の間、することがありませんから、じっくりとそういうことを考えさせられました。私どもは、神様の手の中で、いかに小さな存在であるか。だから、よく言われるように、少々の地震があっても倒れませんといいながら、コロッと倒れる。で、後のコメントは「想像を超えた地震だった」。これは、絶えず言われていることです。「百年に一度の嵐がきても倒れません」と。倒れると「あれは二百年に一度の台風だった」と、人は勝手なことを言うのですが、それは全然問題が違いますね。私たちが神様を恐れないのです。

ですから、8節以下に「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。9 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。10天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える」。誠にそのとおりであります。この10節にありますように、天から雨が降ってくる。人は必要なときに、必要な所にだけ降って欲しいと願います。あの四国の早明浦ダムが空っぽになってしまった。その所だけ大雨が降ってくれて、他所は降らないでくれと、そんなことは言えないですね。神様はいたる所に雨をふんだんに降らせてくださるからこそ、緑豊かな日本の大地があるのです。

先だっても、ある方がおっしゃっていました。その方は、満州にいましたから、戦後満州から朝鮮を経て引き揚げてきました。そのとき、釜山から博多港へ帰ってきました。船が博多港に近づいて日本を見たときに、緑豊かな所だ。それまで朝鮮半島を南下してくるときに、はげ山ばかりで、赤茶けた光景ばかりを見てきた目には、日本の島が見えたときに、本当に緑豊かな恵まれた島だなぁと思って、涙が出ましたという話をなさっていました。私達は、そういう緑豊かな島に住んでいながら、そのことが分からないのです。雨が多すぎるとか、文句を言う。神様は、台風を時折送って、豊かに、豊かに雨を満たし、風をもってすべてのものを吹き払って、綺麗にしてくださるから、この緑豊かな中に住むことができるのです。ところが、私たちは、自分勝手な思いで、あそこを開発し、ここを便利にし、ここにトンネルを造り、ここに高速道路を造ってと、神様の御心から離れて、人が主人公になって、神様のわざを自分で支配しようとし始める。そこに、今、大きな問題に直面していることがあるのです。人間にとっては災害、災難と言われる事でも、神様のなさるわざですから、決して無駄はない。むしろ、それがなければ人の住む場所になりません。ただ、そこで大切なのは、私どもが、その大きな神様の支配の中で自分が今日も生きているのだということ。神様の許しの中にあって、今日もここにあると、謙遜に認めることが大事なのです。

だから、もう一度始めのイザヤ書40章26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」。「目を高くあげて」とあります。そういう日々の小さな家庭の事、自分の生活の場、それだけに目をとめて、これが不便だからこうしよう、あれを便利にああしようと、そう言って神様を離れて、人が自分の力でわざを始めるとき、私たちは行き詰まるのです。だから、私たち自身の生活もそうでありますが、今こうして生きているのは、わたしの力でも誰の力でもない。ただ、神様が今日もあわれみを添え、慈しみをもって顧みてくださっているのだと認めなければ、私たちは生きることができません。イエス様がそうおっしゃるように、災害で思いがけなく命を失った人たちが誰よりも罪深いものと思うか? そうじゃないと言われますね。あなた方も悔い改めなければ、同じように滅びるであろうと。悔い改めて、人の力ではなくて、万物を今も支配している神様の手に握られていること、しかもその神様は、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」。決して私たちを、懲らしめ、あるいは、ひどい目に遭わせようと願っているのではなくて、恵みがあり、慈しみ豊かな、あわれみ豊かな方でいます。

「目を高くあげて」と勧められています。目をつけるべき所はどこか。すぐに目の前の事件や事柄にばかり囚われて、こんなだから嫌だとか、あんなんだから嫌だとか、自己中心の、自分の利益と自分の思いを絶対的なものとしてしまって、神様の手を見失うことのないように、絶えず目を高く上げるのです。周囲のことが気になって、ああだから、こうだからと、目の前のことばかりが心を支配するようになったとき、それは危険信号です。そうではなくて、目を高く、「そうだ、神様がすべてのものをご存知で、今も力ある御手をもって一つ一つ支え導いていらっしゃる」。台風がこようと、地震が起ころうと、どうなろうと、神様の手の中にある事、決して無駄じゃない。そこで私たちは、目を高く上げる、神様に目をとめるのです。いろんな災害に遭って、多くの人々は、よし今度は災害には負けないようにしようと。そんなことを競い合っても仕方がないのです。どんな堅固な街づくりをしてみたって、神様が、一瞬ガラッと揺すったならば、つぶれてしまう。

先日も、島原へ用事で出かけましたが、あの普賢岳の噴火以来、初めて島原に行ったのです。山の形が完全に変わっている。上のほうに平成新山でしたか、新しく出来上がっています。あの水無川に火砕流が流れてきたときのニュースの映像が、今でも目に残っていますが、その山を見ながら、神様のなさることはすごいと思いました。あの山から火砕流が熱風と共にザーッと流れてきたというのですから、これはひとたまりもありません。今ではすっかり整地され、奇麗に跡形のない姿になっています。見ると家が全部新しくなっています。新しい家はその災害の後に出来たものです。それから少し離れた島原市の中心街に行きますと、昔ながらの古い家が残っていました。その災害にあったところと、そうでないところの違いがくっきりとあります。そうやって新しい町造りをして、噴火に耐えられるかというと、そうではありません。どのような形で雲仙岳が噴火をするか分からないのです。そのときは、ひとたまりもありません。確かに、自分たちの生活の場を整えていくことも大切ですが、もっと大切なことがある。どんなことがあっても、そこに神様の御手があることを認めること、目を天に向けることです。これが私たちに求められている。神様がいらっしゃって、万物を御手のうちに握っている、そして、神様によって私たちが造られ、今日も生きる者として、神様の許しの中にあるのです。

だから、今日何かできることがあったら、それは私がしているのではなくて、神様があわれみをもって許してくださって、今このことができるのだと感謝していくべきです。ところが、できて当たり前、できないと不平不満、つぶやきになる。段々と歳を取って、あれができない、これができない、これが見えない。そうなると、どうしてこうなったのだろうか。人は私のことをすぐに「年だ、年だ」と言うけれど、「私は、そんな年じゃない。できて当たり前」とつぶやきます。実は、できないのが、そもそも人間の姿なのです。できない者が、これまでできたのは、感謝あるのみであって、誇るべきものは、何もありません。自分が今おかれている所で、神様に目をとめていくときに、ただ、感謝する以外にありません。

最後にもう一箇所、詩篇19篇1節から6節までを朗読。

この1節に「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」。どんな事の中にも、神様がいらっしゃること、神様のわざが現れています。陶工が造った陶器でもそうです。その造った人の特徴がその中にあるのです。どんなに古いものでもそれを見たら、これはどこの窯で造られたか、これはどういう人が造ったかという特徴が現れています。掛け軸でもそうです。「お宝鑑定」というテレビ番組がありますが、大抵出てくる掛け軸は、偽ものが多いですね。見ていると面白い。持っている本人は本物だと思って、これは何とかいう書家の書いたものだ、と言います。しかし、専門家が見ますと、「これは写しですね」とか、「これは違いますね」と分かる。ところが、素人が見ていると、本人の説明で「これは親の代から、こうこう、こうで……」とか、あるいは「借金のかたにもらった」とか由来の説明を聞きます。すると、そうかなと思いますが、専門家が見ると違う。本物だったら、その人でなければ表せないものがあるのです。

それと同じように、神様が造られた御手のわざと、全ての事柄の中に、神様でなければできない大きな力と、威厳といいますか、栄光がある。この1節に「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」。確かに、アメリカのハリケーンもそうですし、日本に度々やってくる台風でもそうです。一つ一つの台風を見て御覧なさい。そこに神様の御手を、栄光を見ることができます。私達は災害をもたらす悪しき奴、憎き奴だと思って見ているから、何一つ面白味がない。しかし、台風自体の作り方といいますか、その発生からの変化を見ていると、実に見事に出来ています。これは人間では造りようがない、人がどうにもできない神様の力があるのです。

だから、2節以下に「この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ」。誰の言葉か。神様の御言葉、神様の声がすべてのものの中から聞えてくるではないか。「だれが、これらのものを創造したかを見よ」と。どうぞ、謙遜になって、神様の前に自分を低く、小さな者となって、神様の一方的な御愛とあわれみの中に、今日も生かされていることを深く感謝する者となりたい。神様は、ありとあらゆる所に御自分の栄光を現し、また神様の声を聞かせようとしています。それを私たちは見ようとしない、聞こうとしない。目の前の事、家庭のこと、自分の生活の、下ばかり向いて、上を見ようとしない。

もう一度始めのイザヤ書40章26節に「目を高くあげて」と。いつでも、目を高く上げて、問題に遭うとき、悩みに遭うとき、困難に遭うときも、「だれが、これらのものを創造したか」。すべて神様の手によらないものはありません。その後にありますように「主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる」。どんな小さなものまで、すべて神様はそれを知り尽くしています。そして「その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」。神様は、完全な方です。パーフェクト、神様が失敗することはない。神様に欠けるところがない。どんな無駄もなさらない。私たちの目には、無駄なことに見える、あるいは、なんのためなのかよく分からない、理解できない、何でこんなことになるのだろうと思う事でも、その背後に深い神様の御計画があり、決して無駄なことではない。そのことをしっかりと信じて、自分の身に降りかかること、どんなことでも、神様を信頼していきたいと思います。神様の手に日々自らを低くして、主のなさるわざに生きる者となりたい。どうぞ絶えず目を上に、天に向けて、「目を高く上げて」と、自分に言い聞かせてください。すべてのものを御支配くださる神様が、今日も、何一つ無駄のないわざをしてくださると信頼して、感謝して生きようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。