いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(101)「聞き従う恵み」

2013年12月31日 | 聖書からのメッセージ
サムエル記上15章17節より23節までを朗読。

22節に「サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」。

これはイスラエルの初代の王となったサウル王様の失敗について語られた箇所です。イスラエルには、それまで王様もなく、神様に仕える士師と呼ばれる人たちが指導者となって、12部族の民を導いていました。しかし、周囲の国々を見ますと、しっかりした強い王様がいて統率されている。それに倣って、自分たちもあのような王様が欲しいと思ったのです。その当時、神様は祭司サムエルを立てて、イスラエルの民を導こうとなさった。ところが民は、それよりも王様が欲しいと願いました。

サムエルは神様に、民は王様を立てて欲しいと願っているからどうしましょうか?と祈りました。神様は、彼らがそのように望むなら、そうすればいいと言われ、王様をいただくこと、王様の下で生活する民の生活ぶり、それがどのようなものであるのかよく教えなさいと命じました。サムエルは民を集めまして、あなたがたは王様を欲しいと言っているが、王様は絶対君主であって、あなたたちのことを何でも聞いてくれるわけではなく、あなたたちが王様に従わなければいけない、それでもいいのか、と言いました。人々は「いいです」と言ったのです。それで神様は一人の人を選びなさいと命じ、選ばれたのがキシの子サウルという人です。彼はベニヤミン族の出身です。12部族の中でも、ベニヤミン族というのは小さな弱小のグループです。その中からイスラエルの王様になるのは、言うならば小派閥で自民党の総裁になるようなものです。なかなかうまく事がいかない。大きな有力派閥から総裁が出れば、皆がヨイショして担いでくれますが、名もないわずかなグループから選ばれて総裁になったら大変です。非難中傷されるから、なんとか機嫌をとりながら、人気を保とうとする。サウル王様も初めは自分のような者が王様になるなんて、とんでもないことだ。もっとほかにいい人がいるに違いないと言って、固辞(こじ)したのですが、神様はあなたがせよとおっしゃる。初めのうちは、サウル王様はそんなにまで神様から期待されているのかと思って、謙そんになってその職を受けたのです。だから、初めのころは神様を大切にしていた。

ところが、王様になって月日がたつにつれて、「こんなものか、おれでも少しはできるではないか」と思う。だから、気持ちが神様から離れていく。神様から離れるというのは、心が高ぶるのです。高慢になる。私たちでもそうです。神様を離れているとき、高慢になっている。私が何とかすればいい、私でできることがある。私だって少しは役に立つ、と思う。神様もいいけれども、今は必要ない。あからさまにそこまでは思わないが、気がつかないうちに、寝ても覚めても神様に頼らなければおれない状態から少しずつ変わっていく。これは皆さんも長い信仰生活の中で、繰り返し体験したことでしょう。その度にクシャッとなり、神様からしかられて、立ち返ってきたのですが、人は強情です。悟りが鈍い。何度も繰り返します。一番気をつけなければならないところです。あのダビデ王様ですら、事情境遇がよくなって、神様の恵みの中に置かれたはずですが、神様を忘れました。そしてとんでもない失敗をしてしまいました。神様を無視してしまう、ないがしろにする。

サウル王様も全く同じでした。彼も初めのうちは、自分がこの務めを全うできるだろうか、王様としてやれる自信がないから、ひたすら神様により頼んでいました。そうすると、段々と事態がよくなってくるにつれて、心が高ぶってくる。と同時に、神様を離れて、人を見るようになる。人がどのように反応するだろうか、どう喜ぶだろうか、こうしたら人は何と言うだろうかと。「神様が」というよりは、周囲の人たち、殊に彼は弱い小さな部族の出身ですから、周囲のご機嫌を取らなければならない。民から見放されたらおしまいだと思っていました。ところが、自分が王様に立てられた理由は、神様が一方的に彼を選んでくださったことにほかならない。だから、神様が後ろ盾となっている。決して民が彼を選んだのではない。それなのに神様より民を気にする。民から持ち上げられ、民から人気を博して、世論調査の支持率によって、王様になっていると思った。思い違いしたのです。

ペリシテ人との戦いのときに、民を集めて戦いに出ようとしました。しかし、まだ神様の祝福を受けていないので、祭司サムエルに連絡したところが、一週間後に行くから待てとのことでした。待っていたが、なかなか来ない。とうとうサウル王様は、祭司が果たすべき事を自分が取って代わって、勝手にやってしまった。そのときにも神様から叱られました。王様のために戦おうと集まった人たちが、待っていてもサムエルは来ないから、戦いに行くのをやめようと、皆帰ってしまいそうになったものですから、大慌てでサムエルがすべきところを代わってやってしまった。神様を押しのけたようなものです。それが終わったとき、サムエルはやってきて、「あなたは何をしたのですか」と問われました。あなたの来るのが遅かったから、これじゃたまらないと思って早くしておきましたと。そのときも失敗したのです。それでも神様は彼の悔い改めを受け入れてくださいました。

ところがその後です。15章1節から3節までを朗読。

このとき、サムエルがサウル王様のところにきて、神様の命令を伝えました。「主は、わたしをつかわし、あなたに油をそそいで、その民イスラエルの王とされました」と。あなたがイスラエルの王であるのは、誰に仕えるためか、誰によって任命されたのか、サムエルはサウル王様に申し渡しています。あなたは神様から選ばれて、神様によって王として位に就いたのだ。だからあなたが聞くべき相手はただお一人、神様以外にない。あなたをここに遣わして、使命を与えた神様に応えなければならないと、サムエルは言いました。

これは私たちも絶えず神様から求められている事です。神様は私たちを尊いイエス様のいのちを代価としてあがなって、神の民としてくださった。それは、私たちの人柄がいいから、どこか取り柄があるから、値打ちがあるからではなくて、捨てられて当然であった者、無きに等しい者、無能なる者をあえて選んでくださいました。一方的に神様が私たちを選んで神の民としてくださいました。だから、かつて神様を離れていた古い時代、古い自分を捨てて、死んだ者が新しく生かされて、今、神の民としていただいています。だから、今、誰のために生きるのかをはっきりしておきましょう。 パウロが「ローマ人への手紙」14章で言っているように、「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。神様が、今、私たちをここに置いてくださっている。家族でもなければ、自分がしたいからでもない。私たちが聞くべき相手は神様以外にありません。人の意見を聞いたり、世に倣ったり、神様以外のいろいろなものに従うために生かされているのではない。一方的な御愛によって選び召され神の民として、神様のお言葉を聞く、従う以外に使命はない。このことをしっかりと心に置いておきたい。

私もいつもそのことを教えられるのです。神様のあわれみにあずかって、伝道者として、献身者として召し出され、福岡の地に遣わされて来ました。これまで、こんなはずではなかったと、自分の思うことと違うことがたくさんありました。こんなのやってられるか!と神様に文句も言いたくなることもあります。でも、いつも問われることは、ここに遣わされたのは何のためであったのか。今、福岡に私がいるのは自分で選んで来たわけではない。それまでは自分で選んで生きてきました。こういう学校に進み、ここに行きたいと思って、そこに行きました。このような仕事をしたい、それでここに職場があるから、この町に行こうと自分で選んで来ました。ところが、福岡に来たのは私が行きたいから、福岡は生活がしやすそうだから、老後はあそこで送りたいと思ってきたのではない。誰が遣わしたのか? 神様です。神様が私をここへ遣わしてくださいました。このことをはずしたら、つぶれてしまうだろうと思います。いつもそこに立ち返らなければならない。いろいろな問題があると、逃げ出したくなる。ところが、そうはできません。自分の思いではない。自分の好き嫌いで事をするわけにはいかない。使命を与えて、遣わしてくださった神様が、「居れ」と言われるかぎり、私はいつまでもここに居る。神様が私をここに連れて来たのです。神様が「行け」と言われたら動きますが、そうでないかぎり、動きません。なぜなら、神様がここに置いているのですから。そこに立つとき、私は初めて力を得ることができるのです。
皆さんも、どこかに逃げ道がある、と思っている間は駄目です。神様がこの主人と結婚させたのだし、この家族を与えてくださって、このような境遇に置いてくださった。神様が動かされないかぎり、私は動かないと、神様に喰(く)らいつかなければ立っていけません。ちょっと気に食わないことがあったら、もうやめた、こちらにしよう。何か思うようにいかないことがあったら、もうやめた、ぐらぐらしたとか、すぐに自分の気持ちで行動する。神様は何を求めているのか?私たちの生きる責任は、神様に対して果たすべきものがある。だから、家族や周囲の者が、あんたなんか用もない、しようもないとか言われても、何をされようとも、神様がおれと言われるのですから、そこに居なければならない。これを徹底しないと、神様の前に歩むことができない。

15章1節「主は、わたしをつかわし、あなたに油をそそいで、その民イスラエルの王とされました。それゆえ、今、主の言葉を聞きなさい」。ここでサムエルは、私の言うことを聞きなさい、と言ったのではない。ここに「主の言葉を聞きなさい」と。あなたは神様に選ばれ、召され、導かれて、今ここにある。言い換えると、あなたは神様に仕えている者でしょう。だから神様の言葉を聞きなさいと言ったのです。私たちに対しても神様はそのことを求めています。あなたは自分の思いで、自分の考えで生きているのではない。自分の願いを、自分の夢を実現するために生きているのでもない。私たちは、今、神様のものなのです。「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のもの」。私たちが果たすべき責任は、神様に対してあるのです。

このときに「主の言葉を聞きなさい」とサムエルは言いました。神様は、アマレクびとを滅ぼしつくせと求めました。持ち物も女も子供も、幼子も乳飲み子も、また牛も羊もらくだも、いっさい生きとし生けるもののすべてを滅ぼしつくせ、ということです。しかもその理由がふるっています。エジプトからイスラエルの民が導き出されてカナンの地を目指して進んでいたときに、アマレクびとの領地を横切らなければならなかった。それが近道だったのです。なんとか通らせてくださいと頼んだところが、アマレクびとはイスラエルの民がそういう口実で自分たちの土地を奪うに違いないと思って、イスラエルの民に、出て行け、通ってはいかんと断った。それでとうとう民は、アマレクの地を遠回りして行くことになったのです。恐らく、出エジプト記の記事から、サウル王様の時代まで何百年かの年月がたっている。神様はしつこい。逆に言いますと、それだけ真実な方です。何百年前の江戸の敵(かたき)を長崎でというくらいの神様ですから、味方につけたら絶大です。敵に回したら怖い。だから私たちは幸いです。神様が私たちの味方となってくださる。わたしはあなたの後ろ盾だと。だからイスラエルの民がアマレクびとから、軽くあしらわれたことに対して、神様のほうが報いている。だから、私たちクリスチャンは神様が後ろ盾ですから、皆さんを悪く言う人がいたら、また皆さんを非難する人、あるいは悪く扱う人があったら、神様は必ずそれに報いなさる。だから、自分で報復しなくていい。イスラエルの民は、アマレクびとがあんなひどいことを先祖にしたから、おれたちがやっつけようといった話ではなく、神様のほうがそれを忘れない。だから「復讐はわたしのすることである」と言われます。自分で復讐することはいらない。報いてくださる神様を信じていく。人がなんと言おうと黙っておけばいい。神様が報いなさるときのほうが怖いからです。だから、2節に「万軍の主は、こう仰せられる、『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう』」と。何百年か前の話を今持ち出して、サウル王様にアマレクびとを撃(う)てと言われます。4節以下にサウル王様は、民を集めまして、このアマレクびとを撃つことにしたのです。

8、9節を朗読。

戦いに行って勝利しました。しかし、彼はアガグという王様は生け捕りにして、羊や牛のいいものは残しておいて、「値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した」。そうやって、彼らは凱旋(がいせん)しました。それでカルメルに戦勝記念碑を立て、凱旋門を造って、大勝利を祝っていました。ところが、神様は、サムエルにあなたの民、イスラエルはなんということをしたのか、わたしの言葉に聞き従わないと言われます。
15章10、11節を朗読。

神様は、サムエルに、なんて情けないのだろう、と嘆いているのです。「わたしはサウルを王としたことを悔いる」と。何がいけなかったのか。サウル王様が神様から受けた恵みに対して真実に応えなかったのです。ここが神様の心を痛める大きな原因です。神様がイエス様を殺してまで、私たちを救わなければよかった、もったいないことをしたと悔やまれないように、わたしたちもイエス様の命を無駄にしてはならない。私たちはあがなわれた民であることをどれほど感謝し、謙遜に主に仕えているだろうかと問いたい。榎本をあんなにしなければよかったと言って悔やまれたら困ります。「サウルを王としたことを悔いる」。なぜなら、「彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」。それを聞いて、神様の思いを知り、サムエルは「夜通し、主に呼ばわった」とあります。早速、サムエルは、サウル王様が有頂天になっているところにやって来ました。

13節に「サムエルがサウルのもとへ来ると、サウルは彼に言った、『どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました』」。サムエルが神様の思いを知って、急いでやって来ました。サウル王様はサムエルに「どうぞ、主があなたを祝福されますように」と言いますが、本来は祭司が王様に言うべきことです。ところが、このとき既にサウル王様は、神様よりも偉くなっている。だから「どうぞ、主があなたを祝福されますように」、祭司風情(ふぜい)の者は、おれの前にひざまずけと言わんばかりです。かつて、サムエルによって油注がれ、神様の選びにあずかったはずであった彼が、立場を逆転させたのです。そして「わたしは主の言葉を実行しました」。実にふてぶてしいといいますか、厚かましいのです。

そのときに14節に「サムエルは言った、『それならば、わたしの耳にはいる、この羊の声と、わたしの聞く牛の声は、いったい、なんですか』」。戦利品として奪ってきた羊や牛、それが「メーメー」「モーモー」鳴いている。あの声は何だ? 15節にサウルは「人々がアマレクびとの所から引いてきたのです。民は、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです。そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました」。ここでサウル王様は「人々が取ってきた」と、自分は逃げたのです。人々がそうしたのであって私は知りません。サウル王様は主の言われるとおりにしました、と大見得を切ったのですが、羊や牛の声を、あれは何だ? と言われたときに、しまった、と思ったのです。これは大変なことになったと思った瞬間に、「人々が……」と言ってしまった。サウル王様はごめんなさいと言えなかった。心がちょっと神様からずれたのです。私たちも神様の前にそのような生き方をする限り、いのちがありません。ここでサウル王様は、「人々がアマレクびとの所から引いてきたのです」と。しかも「民は、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです」。民は「神様にささげるのですから」と言って取ったのだから、いいではないかと。実に考え方としては合理的です。もったいない、そんな滅ぼしてしまって、立派な傷のない動物、これは神様にささげるためだからいいではないか。自分の懐は痛みませんから。そのような合理主義が神様の前でもつい働く。そのとき彼らは神様をないがしろにしたのです。

17、18節を朗読。

このときサウル王様は、「人々が」と言った。王様として自分の責任、立てられた使命、神様に期待されている事を放棄したのです。いくら自分が小さくて、民の言葉のほうが強かったとは言うが、あなたは神様から使命を与えられた王ではないか。王ならば民を治めるべきではないかというのです。これはサウル王様の大変な思い違いでした。神様に立てられた王として、神様に果たすべき責任があるのです。

18節以下「そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。19 それであるのに、どうしてあなたは」と。サムエルはサウル王様に対して「あなたは主の声に聞き従わないで」と言っている。サウル王様はまだ問題の重大さに気がついていない。「いや、民が聞かなかったので、私は王様ではあるけれども、弱くて小さいのだし、皆がそういうのを止めるわけにもいかないでしょう」と言う。「多数決ですよ」と、「皆がそうですよ」と言われたら、途端にシュンとなる。親でもそうですね。子供を教育するときに「そんなことをしたら駄目じゃないの」。「いや、クラス皆がしている」と言われたら、シュンとなって、「ああ、そうなのか」と引いてしまう。サウル王様はまさにそうなのです。皆がそう言ったから……。ところが神様は「あなたは主の声に聞き従わないで、主の目の前に悪をおこなった」と責められました。

サウル王様は20節以下に「サウルはサムエルに言った、『わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。21 しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました』」と。とことんサウル王様は自分を弁護する。ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。私どももどこかで神様にいつも言い訳をするときは、危険です。「神様、だってそうではありませんか、あの人がこう言ったのですから、だから私がこうしたのは、仕方がないと思います。私ももちろん悪いとは思いますが、向こうがもっと悪いのですよ」と、心の中で言い訳をしているときがある。そのような時、神様が「お前だよ、お前がいけないのだよ」と言われているのに、なかなか認めない。サウル王様もここで「おまえが罪を犯した。おまえが聞かなかったじゃないか」と言われたのに、「いえ、そうじゃありません。私は取りあえず行って、言われたとおりのことをしたのです。しかし、民がその中からあれを取ろう、これを取ろう。そしてそれを神様にささげたいと言うから、それもいいかな、と思って」と、言い訳です。どうぞ、神様の前に潔(いさぎよ)くへりくだる、砕けた悔いた心になりましょう。ここがダビデ王様とサウル王様との決定的な相違点です。

預言者ナタンがダビデの所へ来たときに、「あなたがその人です」と言われた。ダビデは「わたしは主に罪をおかしました」、ピシャッと一瞬にして、彼は神様の手に自分を委ねました。サウル王様はこれほど言われても、まだいやそうでもない、他人(ひと)がした、あの人がした。こうだった、ああだったと逃げ回る。ここがその後の二人の人生を大きく分けた決定的な出来事でした。今でもそうです。私たちが神様の前に素直にへりくだって、きちっと従う姿勢をとるかどうか。「間違っていた。これは主の御心ではない」と思ったとき、スパッと一線を引けるかどうか。これが神様の祝福にあずかる決定的な違いになります。

ですから、22節に「サムエルは言った、『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか』」。言い換えますと、燔祭や犠牲以上に、神様はあなたが従うことを喜ばれるのですよ。私たちに対しても神様は従うことを喜んでくださいます。私たちは神様のためにあれもしようか、これもしようか、このようなことをして神様をお喜ばせしようかと、そんな業や事柄、あるいは自己犠牲をして、何とか神様のためにと尽そうとしますが、そんなことをしなくても、ただ日々の生活の小さなことから大きなこと、どんなことの中にも心へりくだって、主を求めていくこと。主が「駄目だよ」とおっしゃったら「はい」と従うこと。主が「行け」とおっしゃったら、たとえ嫌でも何があっても行くべきところには行きます。出処(しゅっしょ)進退、そこを潔く神様に従っていくことが大切です。これを神様が喜んでくださる。22節に「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」。従うこと、聞くこと、聞かなければ従えません。従うと言いますのは、聞いているからです。いつも神様の前に自分を低くして、素直に神様に従順でありたいと思います。

神様が求めること、語ってくださること、御霊が私たちの心に思わせてくださる、願わせてくださる事柄があります。わかるでしょう、皆さんも。これは神様が私にこうしなさいと言われる。でも大抵それは嫌なこと、自分が願わないことが多い。つい人の顔色を見たり、人の言葉に従ったりして、後で嫌な思いをすることになる。私たちはどのようなときにでも、神様の前にへりくだって、心を低くして……。サウル王様が失敗した原因はここです。サムエルが、「あなたは、神様に選ばれて油注がれて、神様がイスラエルの王とされたのに」と言っています。今、自分の力でここにこうしているのではなく、神様のあわれみがあり、許しがあって、今日もこの家族を託していただき、この業を与えられ、この境遇の中においているのは主ですと、そこで謙遜になることです。これが欠けたとき、私たちは神様から離れていきます。

このとき、サウル王様は神様から捨てられました。23節「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである」。「強情」、かたくなと言います。なかなか自分ではわからない。自分は極めて柔軟な、柔らかい人間だと思う。ところが、そばから見ていると、こんな強情な人はいないと思われるのです。自分の外側から自分を見る目を持っておくことが大切です。私は強情なところがあるなと認めること。これは謙遜でなければできません。集会の座席一つでも強情でしょう。いつも座っている席に、誰かほかの人が座っていたら、「済みません、ちょっとどいてください」と、ほかに空いている席があっても、譲らない。私たちは気がつかないうちに強情になります。神様の前に「砕けた悔いた心」、素直な従いやすい心を絶えず持ち続けていきたいと思います。

23節に「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。ここではっきりと「あなたが主のことばを捨てたので」と、神様からサウル王様は退けられるのです。だからといって、次の日から王の位を追われて、世をさまよう者になったわけではありません。王の位には留まっていました。しかし、そこには神様の祝福と恵みはなかった。そのいちばん明らかな姿は、サウル王様が悪夢にうなされるようになる。心に平安を失いました。とうとうあのペリシテびととの戦いの中でたまらなくなって、口寄せ、いわゆる霊媒者の許に行って、亡くなったサムエルを呼び戻すようなことをする。そして、ついに戦いの真っ只中で死んでしまいます。ダビデ王様の生涯とサウル王様の生涯の決定的な違いはここにあります。私たちも神様から捨てられることのないように、絶えず主の御声に聞き、主の祝福と恵みの中に生きる者となりたいと思います。そのために謙遜になること。そこにありますように「従うこと」「聞くこと」、これは素直にならなければ聞けません。私たちはいつもへりくだった謙遜な砕けた悔いた心をもって、主の前に歩む者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましよう。

























聖書からのメッセージ(100)「幸いとは」

2013年12月30日 | 聖書からのメッセージ
ヨブ記22章21節から30節までを朗読。

21節に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」とあります。
ここに「あなたは神と和らいで」と記されています。「和らぐ」とは和解することです。お互いに心を開いて、ごめんなさい、と言うことです。和らぐ前はけんかしている。対立している、そっぽを向き合っている状態。これが和らぐことによって一つとなる、お互いが心を通わせることになる。「あなたは神と和らいで」と言われると、では、私たちは神様とけんかしていた、仲たがいしていたのかと思われます。しかし、そのような自覚はありません。誰だって「今、私はちょっと神様とけんかしているから、ものも言えない」と言う話を聞いたことはない。生まてから今まで、どこで神様とけんかしたのだろうか。神様とけんかしてやろうと思ったことももちろんありません。ところが、私たちは神様によって造られて、神様と共にあるべきものが、神様を離れて自分勝手な道を歩んでしまった。言うならば、神様とけんかした状態です。

親しい人と一緒にいると、四六時中、おしゃべりしてうれしい。しかし、一旦何か事があるとそっぽを向いてしまいます。話もしない、そして勝手な道を行く。私たちも、自分は自覚していないが、気がつかないうちに、神様に背を向けてしまっていた。これは人間がそもそも受け継いでいる罪の性質と言われるものです。そのことが創世記のアダムとエバの記事を通して語られています。決して私たちが直接神様に罪を犯したという自覚はありません。しかし、私たちすべての者がすでに神様に敵対した存在となっている。神様を求めないで、自分が神となっているのです。私がすべてのことの中心にあって、私の力、私の考え、私の計画、すべて私によって事が進んでいると思い上がっている。神様がいらっしゃることを認めようとしない。これが、私たちの大きな罪であり、神様に敵対した状況、状態なのです。

先ごろ北朝鮮の問題があって、日本は経済制裁とか、いっさい交渉しないとか、貿易をしないとか、人の行き来はしないとか、言うならば、敵対関係にあります。ものも言わない、付き合いもしない。実は、神様とそのような関係にかつてはあった。神様の「か」の字も知らない。自分勝手に、自分の人生はこうあるべきだ。私の人生だから、私の生涯だから、私の生活だから、これはああして、こうしてと、神様抜きに自分で考えて生きていた。そして、自分の幸せを求めてきたのです。誰でも、一生懸命になっているのは、幸せを得たい、幸いになりたいと願います。不幸になりたいと願っている人はいません。幸せになりたい、幸いになりたいと思って、日夜努力しています。では「皆さんは、幸せですか? 」と聞かれたら、どうでしょうか。「100パーセント幸せです」と言える人もまたほとんどいない。

私は幸せで、何一つ文句はない。これで明日死んでも思い残すことがないほど幸せだという方がおられたら、ぜひ教えてほしい。70パーセントは幸せだけれども、後30パーセントくらいはまだ足らない、まだ求めるところがある。幸せとは言い切れないと思っているのではないでしょうか。それはどこに原因があるのか。21節に「神と和らいで」いないからです。自分の幸せを自分の力で獲得していこうとするかぎり、どれだけ頑張っても、それを達成することはできません。常に足らない。これで大丈夫、これで満足ということがない。いつも欠けている。それは、自分が中心になって、自分の力で幸せを獲得しようとするからです。21節に「そうすれば幸福があなたに来る」と書いてある。幸せは私たちが追いかけていくものではない。なんとかしてこうなったら幸せになるだろう、ああなったら幸せになるだろうと、思い描いている幸せの理想像、目標があるに違いない。もう少しこの生活のここがこうなって、子供たちがこうなってくれたら、私は大安心、幸せ。そうなったらいつ死んでもいい。でも今は死ねないと思っている。あそこがまだ足らない、ここが足らない。そのために老体にむち打って、今日も私が頑張らなくてはと思って、それが生きがいだという方もいますが、それは苦しいですね。決して楽しくはない。

よく虹を追いかける話を聞きます。虹が見えているから、もっと近づこうと思うと、それはどんどん先へ動く体験をします。私たちの幸せもそうなのです。自分で手に入れようと思って一生懸命に頑張る。自分の知恵を尽くし、力を尽くし、わずかなものを振り絞ってなんとか幸せになろうとしますが、そのように頑張れば頑張るほど、幸せは遠のいていきます。「幸せ」は、神様と和らいだときに、向こうから喜んでやってくるのです。

昨日も友人から電話が掛かってきまして、いろいろと話をしていました。その奥様が大変心配をしている。一人息子がいますが、40歳近くになるのですが、まだ独身でいるというのです。両親は74,5歳ですから「この息子のことを思うと、私は死に切れません」と言われる。「息子さんはどう言っているのですか。結婚したいと思っているのですか? 」「いや、本人はよくわからん。こっちがあの人、この人と世話をしようとするが、そっぽを向いて聞こうともしない。このまま息子が老いていって、年をとったときに、男が独りで老後を過ごすなんて考えただけでも寂(さび)しすぎる。だからなんとかしてこの子に結婚相手はないだろうか」と。「榎本さん、よろしくお願いしますよ」と言われる。私は「どうしてそんなに結婚させたいのですか」「だって、それが幸せでしょう!」と言われたのです。それで私は「結婚ばかりが幸せではありませんよ」と。「どだい、あなたの結婚を考えてご覧なさい、あなたは幸せですか? 」と意地悪く尋ねました。そしたら「幸せではないけれども、取りあえずは、年をとっても寂しくはない」と言う。けんか相手がいるからと言うのです。しかし、幸せか、幸せでないかは、人それぞれです。親は子供に対して自分の幸せ感、幸福感を押し付けるようなところがある。こうなってほしい、こうなったらきっと幸せに違いないと言うけれども、果たして本人はそうなのかどうか。だから私は「あなたの息子さんは生涯独りでもいいと思っているのではないですか」、「どうしてそんなことがわかりますか? 」、「だって、したければ結婚したいと言うでしょう」と。「でも、あの子は内気だから、したくても言えないに違いない」、「そんなのは親の勝手な思い込みでしょう」と。

私はそこで考えたのです。本当に幸せとは何なのだろうか? 私どもは子供の幸せを願います。あるいは孫の幸せを願います。しかし、願っている幸せの内容は何か? と。自分でよく考えたことがあるでしょうか。この子がこのような道に進んでくれたら幸せになるに違いない。親はそのような願いを持ちながら子育てをするでしょう。それを願わなかったら、熱心になって子どもを育てる力がわいてこない。だから、親は親で、私が幸せになるために、この子がこのような道に進んでくれたら、こういう小学校に入って、それから中学、高校、こういう大学に入って、就職をしてくれて、そしてこういう家庭を築いてくれて、そうなったら、私は幸せだと夢を描いている。でも果たして、それがその子にとって本当の幸せなのか。ただ親が自分の思いを満たすために、それだけのために子供にそうなってほしいと願っているのではないだろうか。本当の幸せとは何か?私たちはもう一度よく考えてみなければいけない。今の時代、結婚しようとしまいと、それが幸せか、不幸せかの基準にはなりません。やがて、結婚して、では、偕老同穴(かいろうどうけつ)一緒に死んで同じ穴に入るかというと、必ずしもそうでもないでしょう。夫に先立たれ、妻に先立たれ、老後は独りになる。結婚していたら寂しくないかというと、そんなことはない。

子供がいたら幸せかというと、そうともいえない。子供で苦労される方のお話をよく聞いていますから、私は子供がいなくてよかったなぁ、と思っている。お子さんがいる方からみると、「先生のところ、子供がいない、寂しそうだ。かわいそうに不幸な方だな」と思われるかもしれませんが、いいえ、私は子供の心配がないだけに白髪が増えなくてよかった、と思っています。だから、幸せというのは何か、幸いというのは何か。案外と何かにしがみついて、こうなったら幸せ、このような悩みがなければ、苦しみがなければと思いやすい。ところが、生きている間は、必ず苦しみがあります、悲しいこともあります。年をとればとるほど、いよいよ困難な中に入ります。子供がいようと、夫がいようと、妻がいようと、その苦しみを引き受けていかなければならないのは、本人その人です。

先だって一人の方が召されました。考えてみると、昨年の今ごろはお元気でした。礼拝にも来ていました。昨年の秋10月ごろですか、ちょっと体調が悪くて……と言われました。昨年11月の召天者合同記念会の時に来られて、そのときはだいぶ調子が悪かったようですが、「自分も間近ですから入る場所をちゃんと確認しておかなければ」と言って、納骨堂を見て、「なるほど」と言って帰られました。そして12月年末の感謝会で教会に来る最後となりました。そのとき随分やせておられ、びっくりしました。それから1月、2月、自宅で静養されていましたが、段々と体調が悪くなって苦しくなり、とうとう入院なさいました。「先生、来てください」と電話をいただきましたから、お伺いしました。それから毎週お召されになられるまで伺いましたが、広い個室にただ独りベッドに休んでいます。家族ももちろんいますが、それぞれに皆忙しい。私は闘病生活の姿をみながら、もう一度自分自身、心が引き締まるような思いがしました。家族がいようと、お孫さんがしょっちゅう来てくれようと、そばで看病してくださる方や、付き添ってくださる方や親切な方がいて、それは幸せだと思いますが、だからといって、自分の心の不安と恐れ、肉体的な痛みと苦しみ、それは誰がそばにいようと、助けてあげたくても手が出ない。代わってやりたくてもやれない。結局、その人本人が、それをしっかりと担わなければならない。いうならば、人はどんなに恵まれていようとも、最後はその人独りがその困難と向き合わなければならないし、それを引き受けていかなければならないのです。逃げ出すわけにはいかないし、代わってもらうわけにはいかない。そのような意味で、元気で家族そろって仲良く、にぎわっている間が幸せかというと、それももちろん幸いではありますが、だからといって、生涯幸せでいることはできません。人生を貫いて死に至るまでも幸せな生涯とは何なのかを知らなければならない。彼には信仰がありましたから、祈ることと、主の御言葉によって慰めを受けて、平安をいただいていました。しかし、決して一本調子で平安だとは言えない。やはり心が大きく揺れます。あるときは、電話してくださって、夜でしたけれども、「イエス様のゲツセマネの祈りのように『この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』と、私はどうしても言えません」と言って、涙ぐんでいました。翌日、わたしは伺って、一緒に心を合わせて祈って、御言葉を読んではじめて心が少しずつ変わっていきました。

人生を終わるとき、厳しい状況の中に立たせられるのです。いや、必ずしもガンになるというわけではないでしょうが、別の違った形、いろいろな形でのそのような苦しみは必ず来ます。そういう中で本当に幸せとは何なのでしょうか。人生のある時期、家族もみんな思い通りに事がすすみ、楽しく親子水入らずで、幸いな日々を過ごしているから、これで幸せだと思います。しかし、それはいつまでも続きません。確かに人生のある時期、短い時間、そのような恵みはあるかもしれない。私たちは人生をそのわずかな幸せだけのために生きているのではなくて、人生そのものが幸せでしたと言える生き方をしておかなければ、人生に勝利することはできません。

21節に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」。まず、神様と和らぐことです。今置かれている問題や事柄の中で、自分は幸せではない、なんと不幸な人間だろう。どうしてこんなになったのだろうかと心の中につぶやく。あるいは今の置かれた状況や事柄を含めて受け入れられない。「なんで!どうして!」と思う心があるのは、まさに神様と敵対している状態です。私はこんなだから嫌だとか、こういう状況だから納得できない、許せない、どうして私がこんな目に遭わなければいけないのだ!と、心の片隅にいつも沸々(ふつふつ)と怒りがある。仁王様のように顔をひん曲げて怒っていることはないけれども。表向きは皆さんもにこやかにしていますが、腹の中はわかりません。どこかで、どうしてこんな状態で、私は許せん!と思うとき、実は、神様を押しのけてしまっている。神様に向かって「神様!あなたは一体なんということするのですか。私はこんなことを願っていませんよ、ちゃんとやりなさい!」と神様を叱り飛ばしているとき、私たちの心の中に不安があり、憤(いきどお)る思いがあり、つぶやく思いがある。ですから、御自分を振り返ってみてください。神様に対して不満はないけれども、主人に対して不満がある。もう少しああしてくれたら、もうちょっとこうだったらいいのにと、主人に対する不満は、神様があなたにベスト、最善の伴侶として与えてくださったことを認められないからです。言うならば、神様を否定するのです。いや、私は神様を否定してはいません、主人を否定しておりますと。主人を拒むということは、主を拒むことです。だから、まず私どもが神様と和らがなければなりません。

詩篇32篇1節から5節までを朗読。

この1,2節に「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。 2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである」。ここに幸いな人とはどのような人か語られています。お金がある人が幸いとは書いてない。あるいは、家族がいて妻がいて、結婚して家庭がある人は幸いだ、とも書いてない。どのような人が幸いか。「とががゆるされ、罪がおおい消され、不義を負わされず、霊に偽りのない人」。神様の前に何一つとがめられるもののない者となること。先ほどの「神と和らいで」いくこと、これが幸せな人なのだと詠(うた)われている。これを詠ったダビデは、それを実際に体験したのです。彼は王様となって、どんなことでも自由にできる権力者でした。とうとう彼は自分の欲に負けて、忠実な部下であるウリヤの奥さんを自分の妻としてしまうという、とんでもない罪を犯してしまった。でも、その罪は、別にその当時の倫理といいますか、道徳に違反しているわけではない。専制君主、王様ですから部下の命の一つや二つ、なんていうことはない。だから神様は、お前は部下をあんなひどい目に遭わせて悪いやつだ!と咎めたのではありません。神様がダビデを責められた理由は、神様に頼らないで自分の力でそれをしたことなのです。

サムエル記下を読みますと、あなたがもっと妻が欲しいのだったら、私に求めたらよかったではないか。私はこれまでにもあなたに与えてきたではないか。それなのにこの度はどうして私を求めないで、自分の力でそれをしたのか。あなたは私をないがしろにしたではないか。これがダビデを責めた理由です。そのときダビデは、はじめて神様の前に「私は罪をおかしました」と告白したのです。ダビデはそれまで神様を第一にして、神様を前に置いて、ただ神様だけに信頼してきました。ところが、ウリヤのことでは、一言もお祈りもしない。自分のしたいように、わがままに振舞った。神様をないがしろにした。そこに罪があったのです。私たちも、そのような罪を犯しやすい。私がこうでなければ嫌だとか、こうありたいとか、あるいはこれが私の幸せだと思うものを、是が非でもなんとか自分の手で手に入れようとする。神様の前に自分を低くしようとしない。それは、私たちが神様に罪を犯している状態です。どんなことでも、へりくだって神様を求めていく。これが私たちの幸せになる秘訣です。

ダビデは罪を犯した結果、どういう状態にあったでしょうか。3,4節にあるように「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた」と。彼は神様に求めなくて勝手に自分の思いを遂(と)げた。してやったり、おれは王様だ!と。誰か文句あるか!とそのくらいの勢いだった。そのとき、彼は強い人のように見えたのですか、実は、この3,4節に告白しているように、心の中では実にわびしい思いをしていた。そこにありますように「苦しみ、うめいた、骨はふるび衰えた」。しかも4節に「昼も夜も主の御手が、上から重くのしかかってくる思いが心にしていた」。何か不満がある。自分の思いは遂げたのですが、彼の心はもう一つ晴れやかにならない。それは神様に敵対していたからです。

お祈りして、神様に導かれて感謝し、「はい」と言ってさせていただいたときは、失敗しようと成功しようと、「よかった。こんなに神様は恵んでくださった」と言えるのですが、よし、ひとつ、私はこれがしたいからと、お祈りもしないで勝手に、自分の思いを遂げてやってしまう。それでうまくいって「してやったり。よしよし、やっぱり私がしたらこんなにちゃんとできる」と自分を誇る。その瞬間、神様との間に罪の幕が下りてくる。主の手が上に重くどんよりと梅雨空のように、私たちの心を覆ってきます。そうすると、周囲のものを見ると腹が立つ。何を見ても、今まで気がつかなかったことが、ちくちく目に刺さる。あいつが!こいつが!といらいらする。落ち着かなくなる。だいたい皆そのような中を通るのです。

そのとき、5節「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と」。ところが、ダビデは預言者ナタンから「あなたがその人だ」と言われたときに、彼はうれしかったでしょう。それまで隠して、おれは誰にも非難されたくない!と思っていた。けれども、心の中にはいつもいらだつものがあり、喜べない思いがあり、不安があった。それがどこからきているか知っていたと思います。ナタンから「あなたがその人だよ」と言われた時、「そうです。わたしは主の前に罪をおかしました」と。この時はじめて彼は安心を得たのです。5節「わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた」。このとき、ダビデが「わたしが罪を犯しました」と言ったときに、「主もまたあなたの罪を除かれました」と、神様はダビデの罪を許してくださいました。その喜びはどんなに大きなものだったかわかりません。神様との関係が和らいだものと変わっていく。これがわたしたちの幸せな姿です。

ヨブ記22章21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」。イエス様がわたしたちの罪のあがないの供え物となって、十字架に命を捨ててくださった。いつでも、どんなときにでも、「すべての罪からわたしたちをきよめる」。「御子イエスの血が、すべての罪より」と言われます。イエス様の十字架の許しがあるのですから、神様にとがめる思いがあり、神様を押しのける思いがあるならば、そのときへりくだって、十字架の御許に立ち返り、こんな私です、主よ、お許しくださいと、心から悔い改めて、主の許しの確信を得させていただきたい。これが「神と和らぐ」秘訣です。だから「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」と言われるでしょう。「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれた」と約束してくださいました。だから、遠慮しないで、いつでもどんなときにでも、神様の前に出て行こうではありませんか。別に人に打ち明ける必要はありません。神様に向かって、「神様、本当にあなたを軽んじて、あなたをないがしろにして、あなたを押しのけて、自分勝手な思いでやってしまいました。ごめんなさい」と、一言悔い改めて祈ってください。瞬時に神様は「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」。主は許してくださったと、喜びがわいてきます。それと同時に、私たちのしたことをも、神様はきよめて祝福に変えてくださいます。それが私たちにとって最高に幸せな生涯です。だから、21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」。そうやって、まず神様と私たちとの間の関係をきちんと整えて、神様の前に罪許された者となるとき、「幸せ」が向こうから、皆さんを追いかけてきます。こんなうれしい話はない。

22節以下「どうか、彼の口から教を受け、その言葉をあなたの心におさめるように。23 あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし、あなたの天幕から不義を除き去り」と。23節に「あなたがもし全能者に立ち返って」と、神様に私たちが立ち返って、己(おのれ)を低くする。主の十字架の御許に低くして、主の許しにあずかり、「あなたの天幕から不義を除き去り」、生活の中から不義なるものを取り除く。不義といいますのは、神様に従わないでした事柄、する事柄。それは不義です。私たちが一つ一つどんなことでも、ことごとく主に祈りつつ、主の導きにすがって生きていく。そのような生活に変わっていく。具体的に生活を改めていくのです。

そうすると、25節に「全能者があなたのこがねとなり」、神様を私のより頼むべきただお一人の御方、私の宝です、と言えるようになる。そして「あなたの貴重なしろがねとなるならば」と、26節に「その時、あなたは全能者を喜び、神に向かって顔をあげることができる」。これは幸せな生涯です。私どもがいつでもどんなときにでも、主に顔を向けることができる生涯、いつも神様との間に何一つ隔てるものがない、じかに神様を目の当たりに仰ぐことができる日々。これこそが、私たちの幸せな生涯です。

何が幸せかといって、神様と共にいることができ、神様の前に何一つ妨げるものがなく主を呼び求めることができる心であること、そのような日々を地上で送らせていただける。これが幸いな生涯です。それは実に単純で簡単なことです。それでいて極めて難しいと思う。何が難しいかと言うなら、自分が神様の前にへりくだることができないからです。だから、神様は私たちにいろいろな事を起こされます。問題を与えられます。自分ができない、知恵がない、知識がない、能力がない、力がないことを痛切に教えてくださる。そのようなとき、私たちははじめて謙そんになります。神様、私ではできませんと、へりくだることができる。

だから、29節以下「彼は高ぶる者を低くされるが、へりくだる者を救われる。30 彼は罪のない者を救われる。あなたはその手の潔いことによって、救われるであろう」。神様の前に自らを低くして、主の前に和らいでいく。神と和らぐ道を選び取っていきたいと思います。もし、神様と私たちの間に、何か影がさすならば、何か不満があるならば、神様のなさることについて納得できないと思うことがあるならば、そのときこそ早くへりくだって、神様に立ち返って、自分を低くして、神と和らいで心に平安を得て、神様を喜ぶ者と変わる。すると幸せが私たちの生活のすべてに満ちあふれてくるのです。どうぞ、この神様の恵みを受けていく日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。






聖書からのメッセージ(99)「主に仕えて」

2013年12月29日 | 聖書からのメッセージ
ローマ人への手紙14章1節から12節までを朗読。

8節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」とあります。
1節から6節までには、食べる、食べない、あるいは日を重んじる、重んじないということが記されています。パウロの時代、旧約聖書の世界、律法の中で生きている人々がたくさんいました。しかし、イエス様が救い主となって、律法の完成者、また終わりとなったのです。神様は律法を通して私たちに義なる者となるべき道をお示しくださったのですが、それを全うする力はありません。人の業でそれを完成することはできませんでした。それゆえに神様は、イエス・キリストを信じる者を、律法を全部行ったのと同じ、律法を落ち度なく守った者として受け入れてくださる。これが「義なる者として」という言葉に言い換えられるのです。本来だったら、神様が求められた律法の一つ一つを欠けなくすべて行わなければ、神様の前に立つことができない。永遠の滅びに定められるべき私たちです。ところが、律法を守ることが不可能です。私たちはちょっとしたことでも、心に定めてこうしようと決心しても、守り通せない。

よく言われるように“一年の計は元旦にあり”と、「今年は日記を書きましょう」と決心しても、“三日坊主”という言葉があるように、三日続けば良いほうで、二日ぐらいから後は白紙。半年が過ぎて、あのとき決心したことを忘れていることがよくあります。自分のことですらもそうですから、まして、神様の求めること、そのたった一つでも死ぬまで守り続けることができるかと言われると、これはできない。そうなると、自分の力で、自力で神様の前に義なる者となろうとすることは完全に不可能。それが無理だと神様はご存じだったのです。

神様はそのような無理難題を私たちに押し付けたのかと言うと、実は、律法は義なる者となる基準をあらわしているのです。と同時に、私たちがそれからどれほど遠いものであるか、神様の求め給うところから大きく離れてしまって、天と地、雲泥の差どころではない、どうにもならないほどに、罪にまみれてしまっている。全く度し難いといいますか、救い難い者であることを徹底して教えるためです。だからパウロが、律法は私たちを福音へ導くための守役であると語っています。私たちをキリストの福音へ導くための大きな力だという。なぜなら、律法を読むとき、その求められることに自分を照らしてみると、到底不合格、欠陥品であることが、重々よくわかる。イエス様の福音がなければどうにもならないのだと自覚するのは、律法があればこそなのです。これがなければ、自分がどれほどの罪人であるのかわからない。

「十戒」という、わずか十か条の戒めですが、その一つとして生まれながらに守り通すことはできません。イエス様は、物を見て「あれが欲しい」と思ったら、それは盗んだのと同じだと言われる。そこまで神様が求められるならば、私たちは到底救われません。しかし、そのような絶望的な滅びの状況にあるところへ、イエス様が降ってくださった。だからこそ、どんなに大きな恵みでありましょうか。自分を見るとどうにもならない。しかし、そこへイエス様が来てくださった。主イエス・キリストを救い主とただ信じて、イエス様の十字架こそが私の罪のゆえであることを認め、イエス様と共に生きる者へと変えられる。キリストと共に死んで、イエス様が私と共にいて、私を生かしてくださっている。ここに立つとき、私たちはキリストの義を着るものとなるのです。私たち自身にはどこにも義なるものはない。義と認められるべきものはないのですが、ただ一方的にイエス様の犠牲によって、神様は私たちを義なる者として受け入れてくださっている。「今は恵みのとき」と言うのはここです。イエス様によって、神様は私たち一人一人を罪なき者として、完全な者と認めてくださっている。私たちが完全になったというのではない。まだまだ不完全なところ、足らないところ、欠けだらけであっても、神様はイエス様のゆえに、私たちを義としてくださっているのです。だから、私たちは何一つ誇るべきものはありません。

今、私たちはイエス様のものになっている。神様のものとして「代価を払って買い取られて」、自分のものではないのです。1節から6節までの所に、「軽んじ」たり「さばい」たりしてはならないと言われています。ここで教えられることですが、私たちの信仰は「私と神様」との関係です。皆さん一人一人と神様との関係。イエス様がよみがえられて、ガリラヤの湖畔で弟子たちとお会いになりました。イエス様はペテロに「わたしに従ってきなさい」と言われた。そのときペテロが横にいたヨハネを見て「この人はどうなのですか」と問うと、イエス様は「あなたにはなんの係わりがあるか」と答えられた。私たちは常に「神様と私」という関係に置かれている。

7節以下に「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」。「私と神様」との関係は、私が神様のもの、主のものとなりきってしまうことにほかならない。そのとき、横にいる人との関係は切れてしまいます。たとえ夫婦であっても、神様の前には「私と神様」なのです。だから、どんなに親しい人であっても、家族であっても、一人一人が神様とつながっていくことがすべてです。たとえ同じ屋根の下の住んでいる相手であろうと、その人に対して何の責任も、また関係もない、と言ったら極端な言い方ですが、実は関係がない。というのは、私たちが主のものとなりきってしまうことは、この世から主のものとして取り分けられてしまうことです。神様の所有となって、もはやこの地上での生活は自分の好きとか嫌いとか、儲かる儲からないとか、愛しているとかの問題ではない。これはえらいことになった、そうなると家族と別々なのか、夫婦別れをするのかしら、と思いますが、べつだん夫婦別れをするわけではありません。心のありようが変わる。私と神様です。では、私の横にいる人は誰か。それは神様が私に託してくださった者ではあるが、それもまた神様のものです。だから、私の主人がとか、私の家内がとか、私の子供がとか、私の孫ということを言いますが、もうそれはないのです。私の孫でもなければ、私の家内でもない、また私の主人でもないのです。私たちは一人一人が神様のものです。だから今一緒に生活している家内は神様がこの場で共に生活するように、私に委ねられたといいますか、ここに置いてくださった相手ではありますが、私のものではない。

時に、世の中の人はそのようなことを言います。「おれの家内だから、おれが煮て食おうと焼いて食おうと勝手やないか」と言うご主人がいます。奥さんにしろ、ご主人にしろ、これは主のものなのです。だから、粗末に扱ったら神様からしかられます。神様のものですから。その原則が崩れてしまっているから、世の中が完全におかしくなっている。子供でも孫でもどんな者でも、それは主のものです。ただ、私自身が主のものとなっていなければ、それが言えません。私が主のもので、神様は命を懸けて私を買い取ってくださったと徹底していくとき、今度はその横にいる奥さんにしろ、ご主人にしろ、子供にしろ、これも主のものです、と言えるのです。主のものですから、神様が責任者です。横から変なことを言えません。あんなのは駄目やとか、こんなのは駄目やとか、こうしなきゃおかしいとか、私どもが相手を批判することは神様を軽んじることです。

ここで言われているのはそういうことです。2節以下を少し読みますと、「ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから」。あいつはどうしようもない人間や、もうあんなやつとは付き合いたくないとか、あんなのは人間のくずだとか言って、人をけなしますか。でも、その人のためにも、イエス様は命を捨ててくださっている。ただ、その人がそれに気づいていないというだけであって、神様からするならば、その人も主のものです。

先だってもある方が、ご主人のことで悩んで、うちの主人はこういうところがある、と言って批判される。「これからは、主人と少し距離を置いて、いてもいないふりをします」と言います。主のものであったら、大切にしなければいけない。私たちが主のものであるように、そばにいるこの人も主のものなのだから、私たちがその人を大切にすることは、主のために大切にするのです。こんな主人のために、どうして私がこんなことまでしなければならない、もうやっておれん!と思うでしょうが、そこでもう一度、私は一体誰のものなのか。主のものである。こんな者をも神様はご自分のものとしてくださった。この隣にいる人も、この嫌な人でも主のもの。そうであるなら、その人のために、主が何を『せよ』とおっしゃっているのか。主に仕えていくとはこのことです。主のために今度はそれをさせていただく。これが私たちの生きる生き方、心の持ちようなのです。そうすると、どこにも文句を言うことはなくなります。皆さんが見ていて、あんなことをして嫌だわと、家族の振舞いなんかが、年を取ると余計に目につく。若いころはなんともなかったのに、主人の食べ方まで、ピチャピチャ音を立てて、皿をカチャカチャいわせて、何から何まで気になり始める。50年もこんな人と一緒だったのか、もっと若かったら別れたのにと思う。そのようなときに、主のものであること、この人のためにも、イエス様が命を捨ててくださった。それを信じられなかったら、自分が救われていることも信じられません。この人も神様が命を懸けて愛している。私を愛してくださっているように、この人も愛してくださっているのだ。そして、私のそばに主が置いてくださっているのは、私が神様のためにすべきことがあり、仕えていくべき場所がそこにあるということです。

だからこの3節以下に「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。4 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」。だから、私たちが横にいる人を裁いたり、あるいは軽んじたり、さげすんだりしたりすることは、取りも直さず、神様のものに私たちがケチをつけているようなものです。皆さんは、自分が大切にしているものを人からけなされたらうれしいですか? これは私の命より大切だ、高いお金を出して買ってきたものをうれしそうにさげているとき、「あなたのバッグはダサイね。どこのバーゲンで買ったの? 」と言われてご覧なさい。無けなしのへそくりをはたいて、清水(きよみず)の舞台から飛びおりるようにして買ったものを、そんなことを言われたら「絶交よ!」となるでしょう。「うちの家内は駄目やな」とか、「うちの主人は、これは駄目や」と、そんなことを言ったら、神様は「わたしは、命を懸けてこの人を買い取った。私のものについて何を文句を言うか!」と。それどころか、「お前こそ、買った値打ちに値しない!」と。確かにそのとおりです。私たちの原点はいつもそこにあります。私どもは、かけがえのない者として、イエス様の、尊いひとり子の命を代価として払って買い取られました。それほどの値打ちも価値もない者を、今日も主は、「あなたはわたしのものだ」と言われます。それと同じように、隣の人も神様が責任者であり、神様が買い取ってくださったのです。

だから4節に「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」。神様がその人を立たせもするし、倒しもするし、滅ぼすことも救うこともおできになる。だから、家族の救いもそうなのです。私たちが家族を何とかして救おうなんて、できやしない。私は救われているけれどもあの家族は救われていない、イエス様を知らない、神様を……、私がこんなに熱心に教会に行っているのに関心ひとつ示さない、「教会ではどうだった」という一言だって聞こうともしない、「もうあの人は地獄よ!」と思う。それは実におかしい。地獄に落ちるかどうかはあなたが決めるのではない。神様がその人を裁かれるに違いない。私たちがなし得ることは、私のような者が救われたのだから、この主人だって、この子供たちだって、救われないはずがない、それどころか、神様は、既に子供たちを、家族を救ってくださっていると信じる。ただ、本人たちがそれに気づかないだけです。早くそれに気づいてくださいと、執り成すことであって、非難するとか、「先生、うちの主人は頑固で救われませんよ」と、そんな偉そうなことを言えた柄ではない。私たちは絶えず、自分が主のものであることがどういうことか、しっかりと知っておいてください。

5節「また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」。神様の前に、一人一人、私がどうあるべきかだけです。あの人がどうとか、この人がどうとか、そのようなことはお前には関係がないと、神様は言われます。あの人のこと、この人のことは私が責任を持っている。奥さんのことだろうと、孫のことだろうと、神様が責任を持ってくださる。私たちは、今神様の前にどういう者として立っているのか。私は今神様から何を求められているのか。神様と私だけの世界がすべてです。なんだか利己主義、自分勝手のように思いますが、決してそうではありません。私たちは主を通してはじめて人を思いやることができる。人と交わることができます。ところが、神様を抜きにして人と交わろうとするから、好きや嫌い、あるいは、あいつが良かったとか悪かったとか、人を褒めたり、批判したり、軽んじたり、関係が複雑怪奇、悩みの種になっていくのです。絶えず神様だけを見上げて、主と私の関係の中で、横にいる人も主のものだ。そして主がその人の責任者でいらっしゃる。今、私と一緒にこの場に置いてくださったのは、私が選んだのでも、私が決めたのでもなく、私の主でいらっしゃる方が、そこに置いている。だったら、今この人のために何をしてあげるべきか、私がすべきことは何なのか、絶えず主が求められるところに従うことがすべてです。

7節に「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」。私たち誰一人、どんな人も自分のために生きているのではない。では何のために? 主のために生きるのです。私たちは、言うならば献身者、すべてを神様にささげた者、主のために生かされているのです。病気をするならば、それは主のために病気をさせていただく。何か困難な中に置かれても、そこは主のためにすべきことがあるからです。どうぞ、いつもそのことを自覚していただきたい。私が今しているのは、人のためでも家族のためでも誰のためでもない。これは主のためにしているのだ。これがはっきりしていないと、不平不満、あるいは自分ができたといっては有頂天(うちょうてん)になり、高慢になります。いつも、主のために、主に仕える者として、心を切り替え、切り替え、思いを新しくして、主のために生かされ、これをさせていただきます。これが天に宝を積むことです。私たちの地上の歩みの中で、自分のためにしたり、あるいは人のためにしたり、あるいは世のためにしたことは、神様にとって何の役にもたちません。これは消えてしまう。ただ、主の名によって、キリストのためにすることだけが残ります。

コロサイ人への手紙3章15節から17節までを朗読。

17節に「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず」、有形無形、いっさい合財、私たちのすること、生きていること自体が、「いっさい主イエスの名によってなし」、イエス様の名によってさせていただく。キリストの名代(みょうだい)となって、いろいろなことをさせていただく。これが主のものとなりきった生涯です。主のために生きる者です。だから「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし」、そして「彼によって父なる神に感謝しなさい」。

度々申し上げますように、これは非常に深い意味があります。私たちが感謝するときは、どのようなときでしょうか? 何かしてもらうときです。いろいろなことに恵まれるとき、何かいいことに出会うとか、人から親切にしてもらうと感謝します。ところが、ここでは、イエス様の名によってすることによって、それを神様に感謝しなさい。言い換えると、してもらうことで感謝するのではなくて、することができて感謝しなさい。人のために何かするとお礼の一言でも欲しい。「ありがとう」とか、「善かった」とか、「おいしかった」とかですね。先だっても、信徒会のときに、「夫婦が相手に望むこと」、妻が夫に望むこと、夫が妻に望むことを、ある新聞がアンケートをとった結果を紹介してくださった。二人の間に共通してあるのは、相手にしてやったことについて感謝されたい、という一項目がある。夫が妻に何かしたら、妻から「ありがとう」とか言って欲しい。また妻も夫のためにしたことについて、「ありがとう」とか「おいしかったよ」という言葉が欲しい。そういう結果が出ていたそうです。私どもには常にそのような思いがある。だから、しなくていいというのではありませんよ。それはいいことですから、家内に「ありがとう」と言うのは、損したようだと思わないで、「ありがとう」と言ったらいい。けれども、なぜそれを求めるのかと言うと、相手のためにしてやったという思いがあるからです。一生懸命に料理を作って食べさせても、「おいしい」の一言も言わないで、黙々と黙って食べて、黙って立って行って、私はどうしてこんな苦労をしなければいけないかと思う。その人のためにしていると思うからです。そうではなく、イエス様が私に「せよ」と言われるから、主に代わってさせていただいたのです。そこにありますように、したことによって今度は「神に感謝しなさい」。相手から感謝されることではなくて、ご主人のために、奥さんのために、一生懸命に何かして、「こうしてすることができました。神様!感謝します」と。

私たちが相手から感謝されることを求めている間、まだ自分が救われていないのです。主のものとなりきっていない。私たちがしてやったことを、喜んで神様に感謝することができる。そのためには、まず私たちが「生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」。徹底して主のものとなりきっていかなければなりません。神様が知っていてくださる。神様が私の業を見ていてくださる。やがて私たちに報いてくださる時がくる。神様から「善なるかつ忠なる僕」と、喜んでいただけること、これこそが私たちのすべてです。その途中で、相手の誰かから「ありがとう」と言われたのなら、それは付録のようなもので、あってもよし、無くてもよしです。そこまで神様のものとなりきっていきたいと思います。そうしますと、感謝に変わる。喜べます。

「ローマ人への手紙」13章8節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。私が主のものであるならば、その横にいる人も主のもの、私のものではない。私たちは主を中心にしてそこでつながることができるのであって、主を抜きにしては、お互いにつながることができません。つながっているようであって、それは神様から離れた不毛で無益な形でしかありません。

私たちは、神様の報いを望みみて、絶えず、キリストと共に死んで、主のものとなりきっていきたい。主が私を買い取ってくださいました。だから、何をするにしても「主イエスの名によってなし」と、ここが大切です。イエス様の名でそのことをさせていただく。それを基準に私たちの心を探っていきますと、随分しなくてもいいことをしたり、言わなくてもいいことを言ったりして、けんかばかりしていたことがよくわかります。「主イエスの名によって」と言われてご覧なさい。言おうとしたことが言えなくなります。これは主のためではないな、このことはどうだろうと、いつもそのことを照らし、主のために、キリストのためにという、この一点を外してはならない。そうしますならば、やがて、神様のほうが私たちに報いてくださる。

イエス様の救いにあずかって生きる生き方、その恵みが何であるかをしっかりと心に置いていただきたい。8節にありますように「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。どんなことの中でも、主のものとなりきって、絶えずそこに自分を置いていこうではありませんか。つい忘れますから、そのときは繰り返し、心を新たにして、主のものと、自分をささげて、主に導かれる者となっていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


























聖書からのメッセージ(98)「臨在とともに」

2013年12月28日 | 聖書からのメッセージ
詩篇84篇1節から12節までを朗読。

4節に「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」とあります。
イエス様の救いにあずかって、神様の子として生活しています。神様が私たちを選んでくださった目的、救いに導いてくださった目的は、私たちがこの世の人と違った者になることです。この世の人と全く同じであったら、イエス様の救いはいりません。この世の人々が悲しむときに、一緒になって悲しみ、神様を知らない人たちが、喜ぶものを一緒に喜ぶ、苦しいときには同じように苦しんでいるなら、神様の救い、イエス様の十字架のあがないは必要ない。また一方、イエス様の救いにあずかったら、物事が順調になり、事柄がうまくいって、世間の人と違う者となる。世の人々が嘆き悲しんでいるときに、私は悲しくありませんというのも大きな間違いです。

では、救われた私たちは何が違うのか。それは神様が私たちと共にいてくださることです。私たちが神様と共に住む者となることです。なんだ、そんなことか。そのくらいの事だったら、救いにあずかってもあまり意味がない。あの悩みが解決し、この問題が解決するほうがまだしもましだ。いくら神様が一緒にいたからと言って、何の得になろうか、と考えます。ところが、神様は私たちと共にいてくださることを通して、この世の人と私たちが違うものであることを証詞してくださるのです。神様は今も生きていらっしゃること、私たちを造り生かし、顧(かえり)みてくださる方であることを証明しようとして、救いに引き入れてくださったのです。私たちの地上での生活が、この世の人たちと違ったものになるのではありません。悩みもあります、苦しみもあります、悲しみもあります。しかし、その中で、神様が私と共にいてくださる。私たちの思いを知り、私たちが神様を求めて心と思いを打ち明け、神様の力をいただいて、この世の人と違う喜びと望みと平安を受けることができる。これが救いの恵みです。そして何よりも、神様がいつも私たちと共にいてくださる。

イエス様はよみがえられた後、弟子たちに現れてくださって、40日目に弟子たちが集まった山の上で天に帰って行かれました。そのとき、イエス様は弟子たちに「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と約束してくださいました。イエス様が私たちと共にいてくださる。私たちと共にいてくださるために、天に帰った。なんだか矛盾するようですが、イエス様が共にいてくださるなら、そのまま地球に残っていたらよかったと思います。けれども、イエス様は、わたしがこの地上にいるならば、それは肉にあって生きているわたし一人でしかないが、わたしが神様の許(もと)に帰るならば、父なる神様の御許から私たちに聖霊を送ると約束しました。真理の御霊、神の霊を私たちに与えてくださる。それは取りも直さず、イエス様が私たちと共にいてくださることにほかなりません。しかし、ともすると、イエス様の姿かたちが見えませんから、声も聞こえないし、目にも見えないし、手で触れることもできません。まるでいないかのように思ってしまう。ここが私たちの一番の試みであり、戦いです。たとえ、目には見えなくても、手で触れなくても、イエス様は今も約束のごとくに私たちと共にいてくださいます。

これは聖書全体を通して証詞されている事です。旧約聖書を読みますと、イスラエルという神様に選ばれた民がいます。これはアブラハムという人を神様が選んで、アブラハムの子孫をすべて神様の祝福にあずからせて、選びの民、神様の特別な神の民としました。なぜそうなったかと言うと、イスラエルの民を選んで、神様の力と恵み、神様が生きていること、今もはたらいていること、力ある方であることを証詞するためです。だから、イスラエルと言うのは、実は私たちのことでもあります。旧約聖書のイスラエルの歴史を読みますと、何千年か昔の一つの民族の歴史というばかりでなくて、もっと深く、神様の大きな御計画と御思いがあります。そのことを通して、やがて主イエス・キリストによって救いにあずかるすべての人が、イスラエル、神の民となるのです。私たちは日本人ではありますが、信仰によって、一人一人がイスラエルであり、ヤコブなのです。アブラハムの子孫です。

私の知人が以前イスラエルに旅行をしたとき、入国審査がありました。パスポートを出して、本人を確認します。その方は、なかなかユーモアのある方で、「あなたは何という名前か」と問われ、「サン、オブ、エィブラハム」、「アブラハムの子」と言ったのです。そしたら、係官が大変喜んでフリーパスで通ったというのです。自分はアブラハムの子、言うならば、イスラエルだ、と告白したのです。

それは私たちも同じことです。では、イスラエルは何によってほかの民と異なっているのか。よく言われますが、クリスチャンになったのだから、なんとかしてそれらしい生き方をしなければと。クリスチャンらしい、できるだけいつもニコニコ笑って、人には優しく、そしてあの人はいい人だと言われるようになりたいと言う。それはそれで悪くはないのです。しかし、表面的にそういう振る舞いであれば、偽善者になります。そのようなことでほかの人と違うことを証明するのではありません。

出エジプト記33章15~17節までを朗読。

モーセがシナイ山に登って、神様からの契約、十の戒め、律法、神様のおきてをいただきました。そのとき、40日近く民から離れて山の中にいたので、消息がわからなくなってしまった。全然連絡がつかない。ふもとで待っていたイスラエルの民は、どうなったのだろうか、もう死んだのではないだろうか、そう言って彼らは心配になり、とうとうアロンをモーセの代理として立て、金の子牛を神として造って、拝むことになりました。事実そうやって神様を造り、おみこしを担ぐように、金の子牛を担いで祭りをやったのです。神様はそれを知ってびっくりしまして、モーセに「早くこの山を下りなさい」と命じました。下りてみると、とんでもないことをしていた。十戒の一番最初に「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と、神様がモーセに伝えたばかりのことを、イスラエルの民が、こともあろうに真の神様を捨てて、偶像を拝んでいたのです。その時、モーセはあまりのイスラエルの民のやり方に怒りを発し、持っていた石の板を投げ捨てて、罪を犯した人々はその場で殺されてしまったのです。神様はこの民はどうにもしようのないものと失望されました。わたしは彼らと一緒に行くことをしない、もう捨てた、と言われました。それまで、会見の幕屋、神様が彼らと共にいますという証詞の幕屋がイスラエルの民の宿営の中に置かれていたのですが、神様はこんな民とは一緒に行けないから、会見の幕屋を宿営から外に出すようにと命じました。とうとう宿営の外に今度は建て直したのです。神様は、イスラエルの民から顔を隠してしまわれました。そのときに、モーセは神様の前に立って執り成しをしました。「どうぞ、神様、もう一度私たちにあなたの恵みを得させてください」、そう言って祈りました。

今読みました15節に「モーセが主に言った『もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください』」。神様、あなたが私どもと一緒に行かないとおっしゃるのだったら、私たちも行きません。あなたが約束してくださって、カナンの地へ行けと言われ、エジプトから引き出してくださった。しかし、あなたはここで放り出してしまったのですと。このときモーセは16節「わたしとあなたの民とが、あなたの前に恵みを得ることは、何によって知られましょうか。それはあなたがわたしたちと一緒に行かれて、わたしとあなたの民とが、地の面にある諸民と異なるものになるからではありませんか」と言ったのです。ここでモーセは神様の泣き所を突いたのです。それは、「あなたが私どもと共に行かれなかったら、イスラエルの民とほかの民と、どこに違いがありますか? 無いではありませんか」。そう言われたら、神様は形無しです。神様は、「大丈夫、わたしがあなたと共に行く」とおっしゃったのです。ここですね。イスラエルの民としての命はどこにあるか。それは神様が彼らと共にいることです。これが、イスラエルがほかの民と異なるただ一つの点であり、これが無ければ、ほかのことがどんなによくてもそれは何の意味もない、世の者と変わりがありません。

実は、私たちもそうです。○○教会の教会員ですとか、洗礼を受けて何十年教会に来ていますという、そのような実績、目に見える事柄でほかの人と違っているのではありません。神様が私たちと共にいてくださる。24時間365日、絶えず、主が私と共にいらっしゃることが、私たち自身のものとなっていなければならない。また、事実、神様が私と共にいらっしゃるのだと信じて、共にいてくださる神様と交わりを持ち、神様に仕える生涯を歩もうとしなければ、イスラエルとなることはできません。

民数記14章17節から21節までを朗読。

これはイスラエルの民が神様に罪を犯したときです。カデシ・バルネアというヨルダン川のほとりまで来ました。あと一歩でカナンの地に入るとき、試みられました。カナンを探った斥候(せっこう)が戻って来て報告をしましたが、いいニュースと悪いニュースがありました。いいニュースを聞いて喜び、悪いニュースを聞いたときにイスラエルの民は失望して、モーセを殺して自分たちはエジプトに帰ろうと、神様に背いてしまった。そのときヨシュアとカレブだけが民に向かって、「主に背いてはなりません」と勧めました。しかし、イスラエルの民は従わなかったのです。とうとう神様はこのときも怒ったのです。こんな強情な民は知らんと。ところが、そのときにもモーセは、今読みましたように、17節「どうぞ、あなたが約束されたように、いま主の大いなる力を現してください」。神様、あなたがこの民に力を現してください。そうでなければ、ほかの民は、あなたがたの神様は一体何をしていたかと、あなたの名が廃(すたり)ますよと、迫ったのです。

13節から16節までを朗読。

ここでもモーセは神様の泣き所をつきます。あなたは不思議な力をあらわして、エジプトから私たちを救い出したではありませんか。それを聞いて周辺諸国の王様は恐れおじ気づいたのです。あなたがイスラエルの民をカナンに導き入れることができなくて、荒野の途中で投げ出した。そしてイスラエルの民が死んでしまったと聞いたならば、あなたの力を恐れた民はあなたのことを何と言うでしょうか。無責任な力のない神様だと言うではありませんか。だから、この民を許してください、と迫ったのです。14節の後半に「彼らは、主なるあなたが、この民のうちにおられ、主なるあなたが、まのあたり現れ、あなたの雲が、彼らの上にとどまり、昼は雲の柱のうちに、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前に行かれるのを聞いたのです」。このイスラエルの民がエジプトから導き出されたとき、多くの人々は、神様が彼らと共についている。これはすごいなぁ、ということで、「皆、神様、あなたを恐れていたのです」と、これがイスラエルのイスラエルたるゆえん、神の民の特質といいますか、これがなければほかの民と同じです。それは今、私たちもそうです。

詩篇84篇1節以下に「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います」とあります。「神様の臨在」という言葉を使います。「臨」というのは「のぞむ」ということです。今まさにその場所にいらっしゃるという意味を表す言葉です。神様が今ここにいらっしゃる。それが私にとってなんと恵みであり、幸いなことであろうかと、この詩篇の記者はうたっている。私たちは、日々の生活の真っただ中に、万物の創造者である全能の神様が共にいてくださる、神様の臨在に対してどれほどの喜びと感謝を持っているでしょうか。目先の目に見える事情や境遇が、ああなったら、こうなったらと、そればかりを喜ぼうとします。しかし、この詩篇の記者は、1節に「万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう」。主のお住みになられている場所、このとき、イスラエルの民にとって主のすまいとは、神の神殿でした。エルサレムにある神の神殿を表していました。しかし、今、私たちにとって日々の生活、私たち自身の魂を宮として、私たちのうちに宿ってくださっている。以前にも教えられたように、「代価を払って買い取られた」、「もはや、私たちのものではなくて、神が私たちのうちに住まわせられた聖霊の宮である」と言われます。

私たちの事情、境遇、問題事柄がどうこうではなくて、それにもまして、私たちをこの世から選び、イスラエル、神の民としてくださった主は、その証詞として、一人一人のうちに、わたしが住むとおっしゃってくださいます。「イザヤ書」43章にありますように、あなたが火の中、水の中を過ぎるときにも、「恐れるな、わたしはあなたと共におる」と約束してくださいました。何度、繰り返し、神様はイスラエルの民にそうおっしゃったかわからない。事実、イスラエルの民はエジプトから導き出され、荒野の旅路を歩むときに、神様は火の柱、雲の柱、昼も夜も絶えず、イスラエルと共にいて、まどろむことなく眠ることなく、導いてくださった。それほどまでに、身近に神様の存在を感じていながらも、イスラエルの民は神様を疑います。それはイスラエルだけの愚かさではなくて、実は私たちの姿でもあります。私たちは何ゆえにこの世の人と違った者となっているかを自覚してください。主が私と一緒にいてくださる。神様がわたしと共にいらっしゃる。その恵みを喜び、感謝するのです。

2節に「わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います」。神様のそばにいること、神様と共にあることが、私にはどんなに幸いなことか。それを喜び、感謝し、神様を賛美し、褒めたたえていく。3節に「すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらにわがすまいを得させてください」。ダビデの時代、旧約聖書の時代はいつでもどこにでも神様がいらっしゃるという、このような主の恵みにあずかることができませんでした。イスラエルの民にとって、エルサレムの神殿に来て、はじめて神様と触れることができ、そこで祭司を通して神様に祈りをささげることができる。またそこで燔祭や罪祭などを神様にささげることによって、罪の許しを受けて、新しくされて、それぞれの村々、町々へ帰って行く。年に一度、そうやって神様の所に来られたら良いほうで、二年、三年ごとであったかもしれない。「サムエル記上」の初めにエルカナとハンナの記事が記されています。サムエルが生まれる前、彼らはシロにある宮に来たことが記されています。それは年に一度か、何年に一度かの恵みの時でした。彼らはそうやって渇き求めて、神様の臨在に近づく。神様の宮に来ることを喜びとしました。といって、宮に来れなくて、離れている間、神様はそっぽを向いていたかと言うと、そうではなくて、その間も神様は恵んでくださる。しかし、神の宮、具体的に神様の臨在に近づくことの喜びを感謝し歌ったのです。

今、新約の時代になり、イエス様は私たちのために命を捨てて、私たちを潔め、常時365日、24時間、絶え間なく神様の臨在と共に生きることができる者にしてくださいました。週に一度、主の日として礼拝を守って、神様の臨在に近づきます。「ふたりまたは三人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)との神様の約束に従って、主の名によってここに集います。主はここに臨在してくださる。自分の家に帰ったら、それは消えるのかというと、そうではなくて、家庭にいても神様は私たちと共にいてくださる。だから、一週間の旅路、毎日、毎日の生活の中で、絶えず主と共にいることを喜び感謝する。主がここにいますことをしっかりと味わい、確信して生きる毎日でありたいと思います。ですから、私たちは朝に夕に祈り、また御言葉を通して主に近づくのです。朝起きる、まず静まって祈ること、そして御言葉をいただいて、主が共にいらっしゃるのだと信じて一日の業に励む。神様によって私たちは日々の業に遣わしていただいているのです。そういう日々の生活が積み重ねられて、はじめて礼拝に喜びをもってくることができる。日曜日に礼拝へ行くから、普段の日は聖書をしまっておき、礼拝のときにまとめてすればいいというものではない。礼拝とは、日々神様と共に生きていることの集大成、その恵みと感謝をもって共に集って、神様の前にすべてをささげる。これが礼拝です。ここで心を新たにして、私は私のものではなく、主よ、あなたのものですと、心と思いを新しくするのが礼拝です。そして、神様からの力と命をいただいて、それぞれの家庭に、その置かれた所へ遣わされて行くのです。

この教会では礼拝式の中でそのようなことはしませんが、別の団体では礼拝の最後のところに「派遣」という一つの項目があります。それは祝祷の前に、さぁ、これからあなたがたは、それぞれのところに遣わされて行くのですよと、勧められます。私どもはプログラムにないから、関係がないわけではない。実は「祝祷」というのは派遣式です。さぁ、ここからもう一度私たちはそれぞれの遣わされた使命に立って行きます。さぁ、お前は行ってやってきなさいと、放り出されるのではなくて、「わたしがあなたと共にいる」。主の臨在と共に行くのです。

だから、4節に「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです」と詠ったのです。いつも、どんなことの中にも、そこで神様を褒めたたえ、主と共に住む。ここにありますように「あなたの家に住み」と、神様のそばに絶えず自分を置いていくこと、主の手に自分をささげて、神様が私と共にいてくださることを喜び感謝する。これがわたしたちのすべてです。私たちがこの地上でなすべきことは、ただ、これだけです。神様の臨在と共に絶えず生きていくこと、そこに神様が私たちを通して思いもかけない、考えもしない業を現してくださる。

10節に「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います」。荒野の旅をしていたときは幕屋でしたが、その後ダビデの時代に入ってエルサレムに神殿が置かれました。そこが神の都となりました。そのとき、一般の人々が集まって入ってくることができる神様の前の庭がある。そこは主の臨在の前に絶えず置かれている場所でもあります。だから「あなたの大庭にいる一日」、神様のおそば近くにおる一日は、それから遠く離れている千日にも勝るのだと。たった一日でもいいから主の許に共におらせていただきたい。これはかつて旧約時代のイスラエルの願いでありました。今私たちは、いつでもどこででも、主を呼び求めることができ、主と共に生きることができる大きな恵みを与えられている。だからこそ、熱心になって主を求めていきたい。主の臨在を絶えず感じていく。主が私と共にいてくださることを感じて、それを信じて、与えられた一つ一つの業の中に自分ではなくて、神様が私を遣わし、今このことをさせてくださっていることを喜び、共にいてくださる方と親しい交わりを持つことです。

一緒に生活していて、黙ってにらみ合って生きることはまずありません。同じ部屋にいれば、何がしかの話をします。そして一緒に生活をすると、何もかもお互いに見えます。「あなたの家に住み」と4節にあります。私は子供のころから、自分の家族以外のいろいろな方と一緒に生活をしました。今でもそうです。時にいろいろな事情があって、私どもと一緒に一年とか、半年とか、10日とか短いときも長いときもありますが、生活します。初めのころは、家内が慣れなくていつも緊張している。他人(ひと)と一緒に生活をしていると、普段人には見せないものまで見られてしまう。生活を一緒にしていたら、普段と違う様子が見える。それで、「嫌だね」と家内は大変気にしました。ところが、考えてみますと、こちらが見られると同じように、実は相手の様子もわかるわけです。だから、お互い様です。自分だけが見られているわけではなくて、相手のことも知ることができる。段々そのことがわかってきて、あけっ放し、つくろう必要がなくなって気が楽になりました。

神様に対してもそうです。神様が共に住んでくださる。一緒に住んでいて、あれを見られると、今思ってご覧なさい。神様は何もかも知っています。その代わり、私たちが主と共に住むと、神様の思いもよくわかります。

「あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる」。神様を喜び、感謝し、そして主が共にいてくださることを喜びとしていきたいと思います。これが救いにあずかった目的です。ですから、生活のいろいろな問題も事柄もありますが、それが私たちの大切なことではありません。私たちにとって大切なことは、絶えず主と共に生きること、これを求めていきたい。「あなたの家に住む」こと、神様と共に住むこと。そう言うと、「じゃ、これから家族を離れて、先生、教会に住まわせてください」と言われるけれども、そのようなことではありませんね。「あなたの家に住む」とは、神様の中に自分をささげることです。心を神様に握っていただくこと。そうすることによって、神と共に生きる幸いな生涯を送ることができます。私たちの中に主が働いて業を起こしてくださいます。どうぞ、私たちに与えられている大きな恵みを心から感謝して受け、主を慕い求めていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。