いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

5月30日 日々の聖言

2016年05月30日 | 日々の聖言

「主よ、あなたはわたしを知り、わたしを見、わたしの心があなたに対していかにあるかを試みられます。」エレミヤ12:3

 

人と人との付き合いでも、自分に対する相手の心がどうであるか、なかなか知りがたい

ものです。家族であっても同じです。ただ、苦労や困難を共にするとき知り合えるものが

もっと見る


5月29日 日々の聖言

2016年05月30日 | 日々の聖言

「わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、

あなたの右のみ手はわたしをささえられます。」詩篇139:9-10

 

 人は安心を得たいと願い、そのために力を尽くします。財を蓄え、人を頼み、保険や保障を付けて

もっと見る


聖書からのメッセージ(561)「滅びないもの」

2016年05月28日 | 聖書からのメッセージ

 「コリント人への第二の手紙」4章16節から18節までを朗読。

 

 16節「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」。

 

 ここに「外なる人」と「内なる人」と語られていますが、これは一体何のことでしょうか。「私にも裏表があるのかしら」、「私にはそんなものは全くない。ごらんのとおり一つです」と、そう思っています。確かにそのとおりです。しかし、ここでいう「外なる人」、「内なる人」というのは、私たちの外側、目に見える物質、あるいは、「肉」という言葉で聖書によく語られている事柄であります。この世のこと、自分の生活のこと、目に見える仕事であったり、家族であったり、自分の健康であったり、自分の身体を含めてこの地上における生活の環境です。「外なる人」というのはそういう意味であります。このことは分かりやすいですね。健康がどうだとか、お金がどうだとか、家族がどうだとか、そういう周囲のことばかり、外なる人ばかりに関心があります。

 

 それに対してもう一つは、「内なる人」と語られています。「内なる人」って、何だろう? 「私の中にも何か別の人がいるのかしら? 」。「内なる人」というのは、霊的な力と言い換えてもいいと思います。人は物質だけで生きているのではない。恐らくどんな人でも認めている事柄であります。具体的に「霊的な」という意味がどういうことなのか?それについては、意見や思うところがそれぞれありましょうが、少なくとも、物質的なものだけで、人は満足できません。多くの人はそれを認めています。

 

 神様は全ての被造物、森羅万象をお造りになられましたが、その中で人を造られたとき、「命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)とあるように、神様の霊によって人が生きる者となったのです。全ての人の内に神様の霊、神様の力を宿してくださった。実は私たちにそういう神様の霊が宿っているのです。ところが、その霊に気付かない。そのことを認めようとしないで、外なるものばかりに思いが集中してしまう。これが罪といわれる状態です。私たちの内に霊なるものがあって、それは神様とつながる一つのチャンネルといいますか、道筋です。ところが、神様から離れて罪を犯し……、刑法上の罪ではありませんが、造り主でいらっしゃる神様を畏(おそ)れようとしない、認めようとしないで、外なる人によって生きようとする。そのとき霊的な内なる人は仮死状態、死んだ状態になるのです。消えてしまうわけではないが、力を発揮できない、非常にひ弱なものになってしまう。なぜならば、その霊的な力は、神様とつながるときに初めて力を発揮し、元気づいて、いのちがあふれるからです。その“内なる人”を強めるには、食べ物を工夫したり、運動などで強くなるわけではありません。

 

 「エペソ人への手紙」3章16節から19節までを朗読。

 

 これは一つの祈りです。16節に「内なる人を強くして下さるように」と祈っています。しかも「父が」とあります。父なる神様が御霊により、力をもって、私たちの内なる人を強くしてくださること。それでなければ内なる人はいのちを得ることができないのです。内なるものがいのちにあふれ、力にあふれるには、神様によって、その霊に満たされ、神様の力が私たちの内に注がれて、内なる人が強くなるのであります。そこのことが言い換えられて、19節の終わりに「神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」とあります。「御霊により、力をもって、私たちの内なる人を強くする」、それは「神に満ちているもののすべてをもって、私たちが満たされること」にほかなりません。私たちが神様のご愛、力、恵み、望み、愛、善意、忠実、柔和、自制、御霊の実(ガラテヤ5:22~)といわれる一切のものに満たされて、思いと心とが豊かになることです。

 

 自分に内なる人が働いていると、感じていらっしゃるでしょうか? 自分の中に神様の力が働いてくださっていることを受け止めるもの、それが内なる人です。それは具体的にどんなことなのか?私たちが聖書のお言葉を聞いて、それを信じたとき、心と思いが変わります。自分の生活をしている条件、外なる人、いうならば、境遇や自分が受けている状態や事柄が、今あるままで変わりはないのだけれども、心に神様の力が注がれるとき、感謝があふれてきて、望みをもつことができ、不安から、平安へと変わる体験します。それは自分の考え方を変えたからとか、そういうたぐいの話ではありません。

 

 私が献身して大学を辞めるとき、かつての同僚であった人が、「榎本君、君はそう言うけれども、神様が働いてくださるって、物は考えよう。人はどうにでも言い換えれば、そんなふうにも言える」といわれました。その人は分かっていないのです。自分の内にある霊的な存在が神様の力によるのだと。「仕事を辞めてまで、神様、神様、と言って、どうなるんだい? 」と。「いや、どうしてもそうせざるを得ない、神様から押し迫られて、本当に神様のご愛に感じる心に変わった」のだと言っても、「それはちょっと気の迷いやないの。もうちょっと、頭を冷やしてみては」と言われたのです。多くの人はそういうたぐいの現象としか思っていない。そうではないのです。確かに神様の力が働いて私たちの内なるものを造り替えてくださるとき、理屈では説明のつかない、自分の納得がいき、ちゃんと了解できたからというのでもない。理性にもよらない、感情にもよらない、もう一つ悟性 といわれる [物事を全く、論理的に判断し考える能力]、よく哲学ではそう言いますが、神様の知識によって動かされていくものであることは、体験しているのです。

 

イエス様の救いにあずかって、聖書を読み、また聖書の解き明かしを聞きますと、知的な喜びとは違う喜びを体験します。映画を見たり音楽を聞いたり、耳で聞く楽しみや目で見る喜びとも違う。あるいは、ご馳走を並べられて「心豊かになりました」という、それとも違う。ありふれた日常生活にありながら、感謝と喜びにあふれるときがあるではないですか。そのとき、「どうしてそんなに喜んでおられるの? あなたの今の状態を見たら心配ばかりでたまらないのではない?」と言われる状況にあっても、「内なる人」、霊によって神様の力に満たされ、神様とつながっている状態にあるとき、私たちは決してへこまない、落胆しない、落ち込まないのです。いや、むしろ望みが、喜びがあふれてくるのです。これは私たちの内なる力によるのです。それは理屈や何かで説明が付かないのです。だから、人には分からないのです。自分だけにしか分かりません。自分の中にあるのです。だから、聖書を読み、神様のお話を聞くとき、内なるものが力付いて、失望していた心に望みが湧いてくる。そういう体験をします。それは、説明を聞いて納得したからではなく、それを越えた、理屈を超えた力が私たちの内に働いて、それを受け止めるものが心の中にあるのです。ここが魂といわれるものであり、また、内なる人と呼ばれているものです。

 

「コリント人への第二の手紙」4章16節に「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」。そういう外なる人は、「滅びて行く」とあります。確かに地上の生活は年とともに変わって行きます。失われて行きます。若い人の次から次へと新しいことを体験し、喜び、エネルギーにあふれた姿を見ると、時にうらやましくなります。私もかつて人から「若くていいね」と言われて、何だか馬鹿にされたように思っていましたが、いま思うと、「あの時代は力があった」と思います。年を取って振り返ってみると、「力に満ちて何をしても楽しかった時期は、本当に短い期間だったな」と思います。時に若い人たちに「今のときはそう長くはないのだから、今を力一杯楽しんで思い切りやりなさい」と言いたくなります。「もうすぐ終わるのだから」と。若いお母さんたちが「うちの子は中学生、高校生、大学生になり、どうも私たちは理解できない。あちらに飛び、こちらに飛びしてハラハラドキドキさせられて困ります」と嘆かれる。「いいじゃないの。そんな時期もあと僅かよ」と言ってしまう。「夜遊びして困ります」と「遊べるだけ元気があるからいいじゃないの」。親はそうは思えないのです。「この先どうなるだろうか」と。必ず年を取り、徹夜をしたくてもできなくなる。これは実感です。ところが、気持ちとしては「まだ、できる」と思っていますが、実際はできません。

 

確かに外なる人は滅びて行く。どんどんと力を失い、またいろいろなものを失って行きます。まず肉体的な条件が変わって行きます。記憶は薄らぐ、目はしょぼくれる、耳は遠くなる。手足は利かなくなる、足腰はしびれてくる。実感します。「どうして、こんなになったかな」とつい思ってしまいます。これは仕方がない、年でありますから。16節にあるように「外なる人は滅びる」と。具体的にそうであります。そういう身体的な条件ばかりでなく、生活も変わって行きます。現役であったときのいろいろなものが失われて行きます。仕事でつながっていた人とのつながり、社会とのつながりも消えて、だんだんと周囲との関わり方も減ってしまいます。いうならば、どんどんと縮んで行くのです。これはもうやむを得ない。私たちが外なる人の力で生きようとするとき、必ず失望します。「こんなになってしまった。どうしようか、こうしようか」と、体が思うようにいかなくなると、あそこの病院に、ここの病院に行って、いろいろと調べ……。ある方は会うたびに「お元気ですか」と言ったら、「先生、元気なもんですか。私はこんなにあそこが悪い……」、それからしばらくは腰の話、目の話、耳の話、悪いところの話が続く。「忙しくて教会に来る暇はありません」、「どこに行ってるの? 」、「病院めぐりです」。若い頃、たまに病院に行くと、薬局の窓口で袋いっぱいに薬をもらっている人を見かけました。「あの方はあれを全部飲むのかな」と思っていたら、何のことはない、今度は私のほうが下げて帰る番になってしまう。自分の健康がみんな気になります。

 

84,5になった方が「先生、どうも最近体力がなくなりました。どこか悪い所があるに違いありません」と言う。「そのお年だったらそれが普通じゃないでしょうか」と言うと、「いや、そんなことはない。どこか病気があるに違いない」と。それから病院に行かれたのです。すると「お年ですから」と言われてしまった。「先生、行って来たけれども、やはり年だと言われて、どうもあそこはやぶ医者です」と。

 

いつも元気であることが全てです。外なる人が滅びていくことは、到底想像がつかない、許されない。なぜならば、その外なる人と共に自分が消えてしまうと思っている。これが大きな間違いです。外なる人は滅びる、これは消えてしまいます。16節に「外なる人は滅びても」と、滅びるのです。ですから、5章1節に「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれる」とあります。こわれるのです。「滅びる」とか「こわれる」と言われると、「今日は暗い話ばかり」と思われるかもしれませんが、私たちは、昨日の今日、今日の明日、同じではないのです。外なる人はどんどん失われて行き、欠けて行き、そして減って行くのです。ついには無くなってしまう。「無くなったら、私はそれでおしまいか」と言うと、そうではない。肝心なのは内なる人です。私たちの内にある神様との霊的なつながり、霊によって生きる私たちであること、その魂、内なる人は常に力にあふれていることができる。だから、外なる人と内なる人は反比例していくのです。外なる人がどんどんと小さくなって行けば、内なる人はいよいよ強くなって行く。これが必要なことといいますか、求めるべき事です。ところが内なる人が消えている人にとって、外なる人が失われて行くと、「これは空っぽ」、何も残らないという話になってしまいます。そうすると、ますます心細く、また力を得ることができません。「内なる人」にいつも心を向けなければならない。私たちが求めなければそれを得ることができません。私たちの内なる人、霊、魂、これがいつもいのちにあふれている者となりたい。

 

イエス様が、洗礼をお受けになった後、荒野に導かれて40日苦しみにお遭いになりました。そのとき、サタンが来て空腹のイエス様に「石をパンに変えたらどうだ」と言う。そのときイエス様は「人の生くるはパンのみに由るにあらず、の口より出(い)づる凡ての言(ことば)に由る」(マタイ4:4文語訳)と、神様のお言葉によって人は生きるものだ、とおっしゃいました。これは「申命記」の言葉の引用ですが(8:3)、確かに、「パンで生きる」ことは外なるものであります。そればかりで人が生きているわけではありません。そうではなくて、神様からの言葉、神様の霊に絶えず満たされていること。これが内なる人を強くする、先ほどの「エペソ人への手紙」にいわれているように、神の力、御霊による力です。それによって私たちがいつも内なる人が強められて行く。内なる人が分かりやすいのは、神様を思う心、と言い換えたらいいと思う。いつもイエス・キリストを慕う心、思う心です。だから、日々の生活の中でパウロが言っているように「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)という意味は、いつもイエス様を求めるもの、これが内なる人であります。だから、神様のお言葉を聞くこと、イエス様が「申命記」の言葉を引用なさったように、神の口から出る一つ一つのお言葉、聖書のお言葉によって内なる人が強められます。そのためには、私たちが神様に思いを向けること、心を絶えずそこに置くこと、これが必要です。外なる人はだんだんと滅びて行く。これはあらがいようがない、抵抗の仕様がありません。無駄な抵抗はやめましょう。あの薬、あちらへ走り、こちらへ走りと、忙しくてたまらない。「今日は集会をお休みします。病院には行きます」と、そうなってしまったら、いよいよ内なる人は消えてしまいます。私たちの外なる人が消えていくのは、神様の恵みです。今までは、あれもし、これもしと、していたのが、身体的にも不可能になって、一日何もできなくなるときが来るでしょう。しかし、それは大きな幸いなときです。なぜならば、何もできない、外なる人が滅びて、なおこの世に命を与えられている私たちは、そこでこそ神様に近づく。主の御許にいよいよ励む。励むといいますか、御言葉をしっかりと味わい、その御言葉が注いでくださるいのち、輝き、望み、平安、そういうものに絶えず心を潤(うるお)されるように努めて行く。そのための時間が与えられるのです。確かに聖書を読むにしても目がしょぼくれてしまって、あまり沢山は読めないかもしれない。しかし、ひと言、二言、毎日、御言葉を味わう。御言葉を味わうとは、一つの御言葉を心の中で絶えず思い起こしては、その言葉の思いを探り知る。毎日、聖書通読をしていますが、確かにその1章、1章を読むことは幸いなことですが、その中から「この言葉は、神様が私に語ってくださった御言葉です」と受け止めて、常に思い起こしては「これは何を語っているのだろうか。いま私の生活の中で、この言葉を通して神様は何を教えなさるのだろうか」と、神様の御心を求めて、一つ一つのお言葉の内にあるいのちをくみ取る。これは落ち着いて時間がないとできません。「あれが忙しい、こちらにも行かなければ、あちらにも行かなければ……」と、走り回っている間は、そんなゆとりがない。しかし、もう行くにも行けなくなる。そのときこそ、朝から晩まで聖書に向かい合って、神様のことを思う。主のことを思う時を過ごす。これが私たちにとって至福の時です。

 

 そのことがここに言われている。16節に「内なる人は日ごとに新しくされていく」。だから、外なる人が滅びて、「もうこれもできなくなった。あれもできなくなった」と、町内会の仕事も無理になった、あの人の世話もできなくなった。家族のこれもできなくなった。そうなったとき、嘆かないで、「これから私はますます神様に近づく」と、今日よりももっと真剣に主と向かい合う時、時間が備えられたのだ、と感謝したい。「私はなにもすることがない。テレビを見たくても目はしょぼくれて長続きはしないし、ドラマを見ていても前の話はすぐ忘れるし」と、そんなものは見なくていいのです。聖書のお言葉をいつも心に繰り返し、繰り返し味わう。これが、私たちがいちばんしなければならない大切なことです。これさえしていれば、内なる人が強くなって、鬼に金棒ですよ。もういつ死んでもいい。神様の時がありますから、勝手に死ぬわけではないけれども、年を取れば取るほど、いよいよ主に近づく。これが「日ごとに新しくされて行く」秘けつです。

 

 16節に「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」。「日ごとに」です。毎日、毎日、内なる人が強められて、永遠の御国を思う心に変わって行く。私たちは、神様の御許に帰って行く者であること。パウロは「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ 3:20 )と、はっきりと告白していますが、私たちが帰るべき故郷は、御国にあること、よみがえり給うた主が、私たちのために場所を備えて待っていてくださる。「ヨハネによる福音書」14章に語られているように、「あなたがたのために、場所を用意しに行く」と。それは私たちを迎えて、「わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と約束してくださいました。イエス様と共に住む永遠の御国の生涯へ私たちを移してくださる。そのために今この地上にあってなし得ることは何か? 今このときに見えない主と共に歩む生活をしっかりと築き、きずなを太くしておく。イエス様との交わりといよいよ深く、深くしっかりとしておきたいと思う。そうしますと、たとえ肉体が完全に滅び去る、消え去る時が来ても、永遠の御国に帰らしていただくのですから、こんな安心なことはない。だから、今日という日が、この世の終わりの時の準備です。備えの日です。そのことを自覚しておきたい。いつまでもこの地上におるわけではない。いや、それどころか、既に私たちは半分棺桶に足を突っ込んでいますから、あと一歩というところですから、残った時間は長くはない。だったら、何をさて置いてもまず神様との交わり、イエス様に密接して行く。絶えず主を覚えること、感謝して、そして祈ることです。まず御言葉を心に置いて、それを味わい、しっかりと御言葉のいのちにあずかると同時に「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)と約束してくださった。イエス様が今日もここに共にいてくださる、その臨在といいますか、内なる人がそれを実感して生きる。「今日もここに主がおられた」、「このことも主が私のために導いてくださる、こういう知恵を神様が与えてくださった」と、一つ一つのことの中でイエス様を知る。神様の力を味わう、そのことを努める。そうしますと、毎日が楽しくなります。「今日は神様がどのように私の心を楽しませてくださるのか」、「神様は私の霊をどのように取り扱って、新しいものに変えてくださるだろうか」。そうしますと、ついいろいろなことを思い出します。過去から今に至るまで「自分はあんなことを言ったけれども、あのときあんなふうにしなければよかった」と、悔い改めるときも与えられます。「神様、私はあのときこれがいちばんいいと思って来た。ところが、あの人があんなことを言ったためにこうなったと、恨んでいた。そうだ。このことはもう一度悔い改めて……」と、悔い改めを神様は導かれるでしょう。また、私たちを慰めてくださる御方でもいらっしゃいます。だから、外なる人が滅びて行きますと、逆にこれまでの、生まれてから今に至るまで、どんなに大きな恵みをもって持ち運んでくださったか、そのことを振り返ることでもあります。その一つ一つの恵みを忘れてはならない。私たちは一つ一つの出来事の中に神様の御業を認めていく。あのとき、あんなことがあったが、あの人、この人、あるいは自分の力や自分の何かによってこうなったと、思い上がっていた自分を教えられるでしょう。体が動かなくなる、いろいろな点で外なる人が滅びて、時間ばかりが沢山あり、お金はどんどん減って行く。そういうときにいちばん幸いなのは、キリストとの交わり、霊の交わりの中に置かれることです。

 

 一人の姉妹は晩年ですが、病気をなさった。元気、元気だと思っていたら病気をしてしまった。それと同時にガクッと落ち込んでしまった。身体的にもいろいろな障害をもつ事態になったときに、姉妹はもう一度悔い改めたのです。「そうだ、本当に今までは肉なるものに心を奪われ、時間を取られ、神様を求めながらも、通り一遍の形だけであった」と、そこで悔い改めました。「私の人生の残り少なくなったこの時は、真剣に神様を求めて主に触れる生涯で最後を送りたい」と願いました。それから彼女は何をさて置いても、どんなことがあっても神様第一、できる限り集会に近づく。それまでは後ろの方に座って、遠くから眺めておられた方がいちばん前に来て、一生懸命にメッセージを聴く、聖書を読む。あるとき、若い方が子供連れで礼拝に来ておられ、子供が騒いだことがありました。すると、その方が大変憤慨して、「あなたたちはまだ先があると思ってのんびりしているけれど、私はもう先がない。礼拝中はちゃんと静かにさせなさい! 邪魔!」と言ったのです。「邪魔」というのも過ぎたことですが、その方の切迫した気持ちはよく分かりますね。いま自分がどんな状況に置かれているのか、今なすべきことでいちばん大切なことは何なのか? その方は何としても、少しでも主の霊に満たされ、力に満たされて、主と共にある喜びを確かなものにしたい。そのような切なる願いをもっていた。

 

若い方は「私はまだすることは沢山あります」と言う。そういう時代は確かにあります。私どももかつてはそうだったのです。しかし、今は幸いに「結構です」、「結構です」と断られて、暇を持て余すかもしれませんが、それならそれでいくらでも主と交わる時が与えられる。聖書を読むことも、賛美することも、祈ることも、思いっきりできる時間があります。そればかりでなく過去から今に至るまでの一つ一つの事柄を思い起こして感謝し、主を喜ぶ。そうやって内なる人を楽しくする。自分がどのように人に対して接してきただろうか、自分のこれからの生き方はどうあるべきなのか? 私のどこに神様に清められるべきものがあるのか? 一つ一つ数えなさいと。教えられるところに従って神様の前に歩みを整える。そうやってこの地上に残されている最後の時を過ごすなら、内なる人は強くされて、平安と望み、力を与えられます。これが私たちの最高の恵みです。

 

 17節に「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」。「このしばらくの軽い患難」とありますが、これは外なる人が滅びることです。私たちにとって、それは患難、苦しみです。「こんなふうになってしまった。あれもできなくなってしまった。これも……」と、でも外なる人はどんどん小さくなって身動きならないようになりますが、しかし、それだからこそ、いよいよ内なる人、魂は研ぎ澄まされて力にあふれ、輝いて生きる者へと変えられます。「永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させる」と。私たちの地上の最後をどのように締めくくるか? これは私たちに与えられた大きな課題です。私たちはまだまだしょぼくれているわけにはいきません。外なる人はいくらでも滅びて行きますが、それに関わらないで、一心に主を求めて御国を目指して行こうではありませんか。神様はそうやって私たちを造り替えて、私たちの内に神様のすがたかたちを再創造しようとしてくださるのです。

 

 ですから、「内なる人は日ごとに新しくされていく」と、常に内なる人のことに思いを向け、心を向け、力を尽くして行きたいと思う。外なる人はもういいのです。「地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ 3:2)とありますから、「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(同3節)と。キリストと共に生きること、主と共にあることの喜び、それを今この時にしっかりと味わって、感謝をもって永遠を望み見て、栄光のすがたに変えられたいと思う。そのための残された地上の旅路であり、今の時であります。

 

 今もう一度どのような人生の時に立たせられているのか? 今という時が何の時であるのか? しっかりと自覚して、どんなことが起こっても、それは外なる人が滅びて行くのでありますから、内なるものがしっかりと神様に結び付いて揺るがない者となり、神様の力に満たされて日々を歩ませていただきたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


5月27日 日々の聖言

2016年05月28日 | 日々の聖言

「悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。

善を行う者はいない、ひとりもいない。」ローマ3:11-12

 

最近の世情をみるとき、この御言葉の通りだと痛感します。どうして人はここまで堕落したのでしょうか。

もっと見る