いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(49)「誰の信仰か」

2013年11月09日 | 聖書からのメッセージ
マルコによる福音書5章25節から34節までを朗読。

34節に「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』」とあります。

これは12年の長い間一つの病気に苦しめられていた女の人の記事であります。彼女は、何とかして、その病気を治療したいと願って「多くの医者にかかって」と記されています。

確かに、原因不明の病気に罹ると、何とか癒してもらおうと治療を受けて、あちらの病院、こちらの病院、良いというところがあれば、せっせっと通って治療を受けます。しかし、結果はあまりはかばかしくなくて、むしろ、ここにもありますように、散々苦しめられて、病院を回れば回るだけ、症状がいよいよ悪くなるケースもあります。この女の人もそうだったのです。「持ち物をみな費してしまった」という。治療のために費用が掛かる。だから最近はよく、医療保険とか病気のためにこれだけ必要だという、テレビのコマーシャルを見ると、ドキッとします。私も、まさか癌になるとは思わなかったので、テレビを見ると、「癌には、費用がこれだけ、保障はいくら……」と聞くと、「これに入っておけば良かった」と……。しかし、神様は、そういうことをしないで良いように、備えてくださる方ですから、何の心配もなかったのです。この女の人は、そういう意味であっちこっち回って「さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまった」という、全財産をはたいてしまったのです。しかも、悪くなる一方でとうとう行き詰った。これ以上何にもしようがない状態で、諦(あきら)めかけていたと思います。ところがそのときに、イエス様のことを聞いたのです。イエス様という方が病いを癒してくださるのだと。この人は、イエス様に何とか癒していただきたいと願っていたのでしょう。しかし、イエス様は、いつ来られるのか分かりません。今ですと、インターネットでスケジュールを知ることができ、何日ごろにはどこに行くと、いつごろにはどうしているということが分かります。イエス様の時代は、どんなに有名人であっても、その動静はニュースで流れるわけじゃない。二千年も昔ですから、テレビもラジオも新聞もありません。ただ口コミです、うわさです。彼女は、恐らく以前にもイエス様が、そういう不思議を行われることを耳にしていたと思います。うわさ話です。「その人が来たら私も癒していただけるのだが……」と、願っていたのでしょう。そうしたときに、たまたまイエス様が、彼女の住んでいる村にやって来た。これは千載一遇の絶好のチャンスです。このときを逃してはならないとばかりに、この人は群集の中に紛れ込んだ。イエス様の周りには、沢山の人が取り巻いて近づけない。有名人の場合、日本でも大抵そうです。外国から有名な俳優や政治家がやって来ますと、警護の人たちが守っている。そう易々と近づけない。このときも、イエス様の周りには、沢山の人が押し寄せていた。近づこうとしても近づけません。また声を掛けてお願いすることもできないので、群衆の中に紛れ込んだ。何とかイエス様に近づいて、その着ている衣・洋服の裾(すそ)にでも触ろうと、それだけでも癒されるに違いないと、彼女は信じた。そして、衣に触れると、その瞬間、29節「すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた」。イエス様の衣に触りさえすれば、癒していただけると信じて触った瞬間、「癒された」と確信が与えられた。そして、自分の病気が癒されたことを彼女はじかに感じて喜んだ、うれしかった。

喜んで、そっとイエス様のそばから離れて行ったのです。ところが30節に「イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて」とありますように、イエス様は誰かが自分に触った、そのときに自分の内から力が出ていったということを感じられた。それで立ち止まって、「わたしの着物にさわったのはだれか?」、そう言い出して一向に動こうとしない。周囲の人たちは「先生、もういいじゃないですか。これだけ人がいるのですから、誰かが触りますよ」と。肩をぶつけ合いながら押し迫っているのですから、誰かがイエス様に触るのは有り得るという。しかし、イエス様は「さわったのはだれか?」と動かない。周囲を見回している。気の毒なのは彼女です。せっかく癒されたと思って感謝していたのだが、イエス様が立ち止まって動こうとしない。これは咎(とが)められると思ったのです。許可もなく、そっと触って盗んできたみたいな気がする。病気を癒されたはいいけれども、今度は逆にのろわれやしないかと思ったでしょう。32節に「しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた」。その様子を見たときに、この人は居たたまれない。だから33節に「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら」と記されています。どういうお叱(しか)りを受けるか、あるいはどんなに莫(ばく)大な治療費を要求されるか、分からない。だから彼女は、恐れおののきながらイエス様の前にひれ伏して、33節に「すべてありのままを申し上げた」。すべてのことをイエス様に申し上げた。そしたらイエス様が、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」と励まして下さった。

彼女は、自分が身に受けたことを、それなりに感謝していました。だから、そのまま事が過ぎてしまっても良かったでしょうが、イエス様はあえて事を明るみに出されました。考えてみると、彼女にとっては恥ずかしいことですね。病気そのものは恥ずかしいことではないけれども、医者に行って、こんなにお金を使い果たして、財産を失うという、失敗談をしゃべらなければならない。「すべてありのままを」というのですから、包み隠さず、洗いざらいイエス様に申し上げました。「何としても癒されたい。そしてイエス様の衣の裾にでも触れさえしたら、癒していただけるだろうと、信じて触れた」と言ったのです。

イエス様は、この女の人にはっきりと自分の信仰を言い表すことを求められました。自分が信じてそっと隠しているのは、本人にとっては幸いかしれませんが、気が付かない内にサタンが働いて、信仰を打ち壊してしまう。崩してしまいます。というのは、「これはイエス様が癒してくださった。私の祈りに、主が答えてくださった」と感謝しますが、時間が経(た)ち、日が経つと「あれはそろそろ治るころだった」とか、「お祈りはしたけれど、あの薬が効いたのだ」とか、段々あやふやになってくる。そして、一週間、10日、3ヶ月、半年経つとケロッと忘れてしまって、「え!神様が癒してくださったのだろうか?」くらいに思ってしまう。それでは、信仰がなくなってしまいます。だからイエス様は、彼女に、恥ずかしいけれども、ここで全部打ち明けさせたのです。それによって、神様の前にはっきりと証詞を立てる。サムエル記にも、イスラエルの民がアマレクと戦った時、神様は、エベネゼル、「主は今に至るまで私たちを助けられた」という意味の石塚を立てるようにと求めました。それは証詞(あかし)の石です。「主がここまでこうしてくださいました」と、神様の前に自分の信仰を証詞することは、何よりも大切なことです。それは私たちがそれ以上後ろに下がることがない、それをもってサタンの攻撃を防ぐことができるのです。だから、よく申し上げるように、証詞をすることは、自分を誇るわけではないし、自分をひけらかすためでもありません。むしろ恥ずかしい自分の失敗を、あるいは自分の罪をさらけ出すことがあっても、「私の祈りに答えて、主がこうして変えてくださいました」と、はっきりと告白することです。「信じて告白するものは救われる」とあるように、それによって救いが完成するのです。そうしないと、どこで終ったかが分からない。うやむやの中に消えていってしまう。だから絶えず、証詞をして、神様の前に自分自身の歩みを確かなもの、揺るがないものにすることが大切です。

このとき、イエス様は彼女に求めたものがもう一つありました。どういう境遇、どういう状況の中から今に至ったか、その恵みは一体誰のものであったか。それは主から出たことであるとはっきり告白すること、これが一つであります。それからもう一つ大切なことがあります。それは、今読みました34節にありますように「あなたの信仰があなたを救ったのです」との御言葉です。この御言葉は、イエス様がいろいろな奇跡を行ったときに、必ず付け加えられる御言葉の一つです。「あなたの信仰があなたを救ったのです」。私は「一体何のことを言ってるのだろうかな」と思ったのです。「あなたの信仰があなたを救った」とあるが、「救ったのは、イエス様であって……」と思いました。「なぜ、あなたの信仰」というのだろうか。ある時、教えられたのですが、「そうだ!私たちの信仰は、他人ではなく、私が何を信じるか、私が信じる事に掛かっている」ということでした。

信仰とは、殊にキリスト教の信仰は、一人一人の問題です。私と神様との関係。イエス様と私とがどういう関係に今あるか、イエス様をどういう御方と信じるか。他人(ひと)がどのようにイエス様を信じているかが問題ではなく、あなた自身がどういう方と信じるかがすべてです。ピリポ、カイザリヤ地方に弟子たちと出かけたとき、イエス様が「あなたがたは、わたしのことをだれと言うか」と問われました。それに対して、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子、キリストです」と答えました。

イエス様は、その当時のペテロやヨハネたちと、どこか違った異形の人と言いますか、何か顔形や、あるいは様子がほかの人とは違う特殊な方ではありません。私たちと同じ、平々凡々の当たり前の、その辺にいるユダヤ人たちと同じ風貌(ぼう)をし、同じ生活をしているのです。ペテロ自身が何の変哲もない、平凡な一人の人、イエス様を「神の子」と信じるというのは、外見からそう言うことは出来ません。ウルトラマンや仮面ライダーのように、変身してその姿を見た瞬間「おお、これは神の子」だというのだったら、そこに居た人みんなが「主よ、あなたは神の子です」と言ったでしょうが、イエス様は変身したわけでも何でもない。今までと全く、昨日のイエス様と今日のイエス様は変わらないのだけれども、そのイエス様を大工ヨセフの子としてではなく、「神から遣わされた救い主、主イエス・キリスト、生ける神の子です」と信じることは、ひとえにペテロ自身の信仰に掛かっている。ペテロが真実そう信じたからその通りになる。イエス様を見ていた人は沢山います。ただ、イエス様を普通の人と見た。だから、弟子たちに「人々は人の子をだれと言っているか」と問われました。そしたらエリヤであるとか、エレミヤであるとか、あるいは預言者の一人であるとか、あるいはバプテスマのヨハネが甦(よみがえ)ったのではないかとか、いろんな世間の人の評判を伝えました。いろんな人がイエス様を、そういう人と信じたのです。ある人は、イエス様は偉大な預言者の一人だろう、と信じた人がいたでしょう。また、ある人は、イエス様はバプテスマのヨハネがのりうつっているに違いないと思ったのかもしれない。そういう風にイエス様をどういう方と信じるかは千差万別です。

しかし、その中で私たちが命にあずかる信仰はただ一つだけ。それは、主イエス・キリストを「生ける神の子、キリストです」と信じること以外にない。そして信じるというのは、今申し上げましたように、見える姿形を見て、「これは、人とは違う、神様の子供だ」というのではありません。私がイエス様をどういう方と信じるかに掛かっている。それをどうやって証明するかというと、証明のしようがない。「イエス様は神の子であると私は信じています」。「ああ、そうかね。あなたは信じているのだったら、それをちゃんと証明して御覧なさい」と言われるかもしれませんが、それは証明のしようがない。客観的に証拠立てることはできません。大切なのは、人が何と言おうと、「私はそう信じています」と言う以外にない。しかも、誰がなんと言おうと、「私がそう信じている」と。ここが信仰なのです。キリスト教の信仰はこれに掛かっている。だから34節に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。イエス様に触れる人は沢山いました。ところが、イエス様からの力を受けることができたのは、ただ一人だけ、この女の人だけです。イエス様が何か特殊な光を発していて、そこに集まった人はみんな等しく、病の癒しを体験することができたとはならないのです。

日本人の宗教観には何かそういうものがある。仏教などでは、お釈迦さま像であるとか、菩薩像であるとか、あるいはいろんな仏像というものを飾ります。そして特殊な金ぴかの姿形を眺めて、「なるほど仏さんがいるに違いない」と、それを見た人たちが、その姿形から信じて、すべての人々に恵みが行き渡ると、理解をするのです。

ところが聖書が求めている信仰は、そういう偶像によって、あるいは姿形によって、出来事によって信じるのではなくて、聖書の御言葉を通して、何もないけれども、「私は、イエス様が私のために命を捨てて十字架に死んで、私を新しい者としてくださった。今も主が私と共にいてくださる」ことを、私が信じるのであって、信じた人だけがその恵みにあずかるのです。だから、親や兄弟が、どんなに信仰がしっかりしているからといって、その家族だから一蓮托生(いちれんたくしょう)、イエス様の救いにあずかることは有り得ないのです。あるいは、組織としての、集団としての教会のメンバーになったから、信仰があるとも言えない。だからよくありますように、家の信仰はキリスト教です。親代々、3代目です、4代目ですという家族がいます。そして教会には来てはいるけれども、ご本人は信仰があるわけじゃない。だだ、その家の習慣として、習俗として、「日曜日だから教会に行かなければいけまい。親も行っていたし。おじいちゃんも、おばあちゃんも行っていた」。だから体は教会には来ていても、イエス様を信じなければ、それは意味がない。これは決定的な事柄です。

イエス様は、「私の衣は特殊な衣だから、衣を触ったら、エネルギーが出てきて、人を造り変えるから……」と言っているのではありません。イエス様は、その当時、みんなが着るものを着ていたのです。世の中にはそういう新興宗教がありますね。この「お札」を水に浸してなめたら金持ちになるとか、あるいは何か特殊なものを身に付けておいたら、それで病気が治るとか、そういう品物を持っていれば、その人が、信じる信じないにかかわらず、守られるという、お札のようなものを買わされる。時にはキリスト教でもそういうことをいう人がいます。カリスマ的な伝道者がいて、その人が手を置いてお祈りしたら病気が治った。その内、それが高じてきて、その人の持っているハンカチに触ればいい、病気が治るらしい、とうとうその人が、ハンカチを売り出したことがあったのを、私も知っています。イエス様を信じる信仰は、そんな物や何かで伝わってくるものじゃない。また、とにかく分からないけれども、そこに帰属するといいますか、その会員になってしまえば、大丈夫というものでもない。結局、ここに行き着くのです。「あなたの信仰が……」と。だから家族が何を信じていようと、私は「イエス様、あなたがわたしの主です」と信じさえすればすべてです。

マタイによる福音書22章31節から33節までを朗読。

32節に「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。この御言葉も、私は以前聖書を読んだときに、これは何のことかな、と思ったのです。ところが先ほどの「あなたの信仰が……」という御言葉と同様に、このとき神様は、「わたしはアブラハムの神であったし、その子供イサクの神でもあった。またヤコブの神でもあった」とおっしゃっている。しかし、当時のユダヤ人は、「私たちが信じているのは、アブラハムの神を信じている」と思っていた。神様が、アブラハムに約束してくれた祝福にあずかっている。いうならば、その傘の中に入っているのだと思っていた。それに対してイエス様が、「それじゃ駄目なんだよ。私たちの先祖にはアブラハムがいる。立派な人たちがいて、立派な信仰があって、その子孫である私もその信仰の中に入っているというのはうそだよ」と言った。アブラハムは、アブラハム自身が「あなたは神、わたしの主です」と告白したところに、神様の力が現された。その息子であるイサクも、お父さんがそうだったから、自然とその資格があるというのではなく、イサクはイサクで「この万物の創造者、エホバの神」を、「あなたは、わたしの神」と告白したのです。またその子供であるヤコブもそうでした。ヤコブも「わたしには、お父さんのイサク、おじいさんのアブラハムが信仰を持っていたから、わたしはその子孫だから、これでいいのです」とは言わなかった。ヤコブにとっても、この神様を、神として選ぶといいますか、信じるのです。親が信じていたからとか、そんなのは関係がない。「あなたが何を信じるか」と問われているのです。

ですからこのとき、33節に「群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた」とあります。それはびっくり仰天です。それまでユダヤ教は、ユダヤ人として生まれて、割礼を受けて、その習慣、習俗を、ユダヤ教の伝統を守っていれば、おのずから救われた民だと思い込んでいた。しかし、習慣やしきたりを守ったって意味がない。イエス様がここで言われたのは、「神は死んだ者の神ではなく」、死んでしまったイサクやヤコブの神としてではなくて、今生きているあなたの神になろうとしているのに、あなたがたは知らないでいるじゃないか、と。神様はここにありますように「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。生きている私たち一人一人の神になってくださる。先祖の誰が信じていようと、誰が信じた神様であろうと、それはそのときの、その人にとっての神様であったけれど、今生きているあなたにとっては誰が神なのか? と、イエス様は問われたのです。

これはあの長血を患った女の人と同じで、「あなたの信仰が」というのです。ですから、私たちは、人に「あなたは信仰があるとか、ないとか」言えないのです。人のことは何も言えない。人のことはどうでもいいという言い方はおかしいけれども、先ずは私が、本当に「イエスは主です」と信じているかどうか、これに掛かっているのです。洗礼を受けて八幡前田教会の会員だから、これでいいです、と言っても、それでは信仰にならない。今、今日、私が誰を信じているか、絶えず時々刻々、信仰の内実を問われている。

ですから、もう一つ読んでおきたいと思います。ヨハネによる福音書4章39節から42節までを朗読。

これはイエス様が、サマリヤのスカルという村で女の人に出会いました。お昼どきでありました。水を汲(く)みに来た女の人とイエス様が、お話をなさって、その人は自分の罪を指摘されて、悔い改めて、喜びにあふれて、「私のことをみんな言い当てた不思議な方がいらっしゃる」と言って、村中の人を呼んで来ました。そして村の人が集まって、イエス様のお話を聞いたのです。その結果、「多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」と記されています。ここ39節に「女の言葉によって、イエスを信じた」とあります。その後、イエス様に二日滞在してください、とみんなでお願いして、そこに滞在していただいた。滞在中イエス様は、集まった人々にお話をなさった。その結果、41節に「イエスの言葉を聞いて信じた」とあります。彼らは、初めは女の人の話を聞いてイエス様を信じた。今度は直接イエス様のお話を聞いて、イエス様を信じた。同じ信じるにも段階があるといいますか、違うのです。ここが大切です。人から言われて、聞いて「そういうことですか」と信じている間は、自分の神にはなりません。アブラハムの神であり、イサクの神、ヤコブの神、死んだ者の神を信じるようなものです。人が信じている神様を、私たちが信じようとする。だから皆さんが、家族のために一生懸命に口角泡を飛ばして、議論をして、この人を信じさせてやろう、イエス様を教えてやろうと、言葉で巧みに語りかけても、なるほど皆さんの言葉を聞いて、イエス様を信じるかもしれないけれども、それは真(まこと)の信仰ではありません。その人にとっては、皆さんを信じたのに過ぎない。イエス様を信じるところまではいかない。この女の人の言葉によって、イエス様を信じるように導かれた人たちが、今度は更に、直接イエス様に触れるのです。

二日間イエス様は、そこに留まってくださって、人々にお話をなさった。その結果、42節に「彼らは女に言った、『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない』」。ここです。さっきまでは、39節の終わりには「あかしした女の言葉によって、イエスを信じた」とあったでしょう。その人たちが、今度はイエス様のお話を聞いた結果、女の人に向かって、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」と言ったのです。これは私たちの信仰の大切なあり方です。どんな名説教を聞いても、あるいはどんなに優れた指導者である牧師のもとで信仰を持っても、女の人が言ったと同じことなのです。今度は、一人一人が、信仰を持って、直接イエス様に触れることが大切です。このときのサマリヤの人々は、42節にありますように「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」。今、信じるようになったのは、あなたが話してくれたからではない。だから牧師先生が言ったから、私は信じましたというのは駄目です。それはきっかけではあるかもしれないが、今度は「もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、分かったからである」と。一人一人がイエス様に直接触れて、「この方こそ生ける神の子キリスト!」と、イエス様を受け入れ信じたのです。これが私たちの信仰の在り方です。

始めに戻り、マルコによる福音書の5章34節に「イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです』」。ですから、あの人ほど信仰がないとか、この人を見ると、私はどうも落ち込んでしまうと、自分に信仰がないと嘆かず、どんなに小さくても、今神様は、私に信仰を与えてくださっていることを信じようではありませんか。信仰は、人と比べるべきことではありません。私は誰が何と言おうと「イエス様、あなたはわたしの主です」、「わたしのために命を捨ててくださった方です」と信じること、そしてこの方には何でもできないことはありませんと、はっきり信じて、主に信頼する。それは皆さん、一人一人の問題なのです。横にいる人が、あなたの代わりに私が信じてあげるからと、これは駄目です。

食事をするときでもそうですが、どんなにおいしいごちそうでも、あなたの代わりに味わって、後でちゃんと教えてあげるから……。そんなのは意味がありません。聞くより食べた方が早い。だから、いつもこのことを心に置いていただきたい。私が信じて、私の信仰によって、私は救いにあずかっているのだと。イエス様が十字架にかかって、私たちを救ってくださったと聞きます。しかし、それを信じるかどうかは、皆さんお一人お一人なのです。私が、「そうでした」と信じていく。そんな馬鹿なことがあるかとか、お前はそんな詰まらんこと、ばかげたことを信じているのか、と非難されるか、あるいは、さまざまな中傷を受けるかもしれません。しかし、「いや、私は信じている。これは私の信仰です」とはっきり告白できる者となる。これが私たちの信仰です。またそこに神様は救いを現してくださいます。この長年病気であった女の人が癒された秘訣(けつ)は、イエス様を彼女が救い主と信じたことです。イエス様を見た人はそこに沢山いました。イエス様に触れる人もいました。しかし、誰一人として「あなたは救い主、私を癒すことができる方です」と信じた人がいなかった。ただこの女の人だけが信じたのです。その信じた人だけが、驚くような祝福と恵みを体験することができる。新約聖書を読んでいるとそういう記事が幾らでもある。

だから、それにあやかって、私もそれらしいことをしようとまねをしたって、それは何の役にも立ちません。私たち自身が、スカルの人々のように「あなたが話したから信じたのではない。私は直接イエス様のお話を聞いて信じました」とあるように、「あなたの信仰が!」です。

病気を癒してくださるのも主なのです。それを私たちが信じるか、どうかです。医者もいるでしょう、薬もあるでしょう。しかし、それはあくまでも神様の手の中のこと、究極のところ癒してくださるのは、「我はエホバにして汝を醫(いや)す者なればなり」とあるように、神様が癒してくださるのだと信じて、主にはっきりと祈って、信仰を告白するとき、病は癒されるのです。私たちにとって必要なのは、自分自身の信仰です。集団として、集まっている人たちの信仰がいいから救われるわけでもない。あるいは自分の家が代々キリスト教だから救われるのでもない。大切なのは、「あなたの信仰があなたを救ったのです」。この一点に掛かっている。今日、この素晴しい信仰を主は与えてくださっているのですから、イエス様から与えられて、信じる者であることを、しっかり確信して、信仰に生きる者となりましょう。どんなに小さい信仰であっても、「からし種一粒ほどの信仰があるなら」と、イエス様はおっしゃいます。今、イエス様から与えられている信仰をはっきりと「自分の信仰」であることを確信して、信仰に生きる者となりましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましよう。