いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(67)「重荷を負う者」

2013年11月27日 | 聖書からのメッセージ


マタイによる福音書11章28節から30節までを朗読。

28節「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。
この言葉は希望を与え、励まし、力づけてくれます。「すべて重荷を負うて苦労している者」と言われると、まず自分だな、と思います。皆さん、それぞれ重荷を負うて、苦労しているからです。重荷を負うても、喜んでいる人は来なくてもいいのです。苦労している人は来なさいと言うのですから、こんな嬉しい話はない。私のもとに来なさいと、イエス様は招いてくださる。これは伝道集会のメッセージとして語られて、多くの人がこの言葉を通して主の救いに出合ったことは確かです。

柘植不知人先生も、はじめてイエス様の救いにあずかったきっかけはこの言葉だったそうです。そのとき柘植先生は、大変大きな悩みを持っていました。それは行方不明の妹さんを捜して、なんとか助けてやりたいと思っていたとき、神戸の湊川伝道館で、特別の伝道集会が開かれていた。入り口にこの言葉が書かれていました。それを見た柘植先生は、なんとえらいことを言うのだ、重荷を負うて苦労しているのは私ではないか、そして「あなたがたを休ませてあげよう」と。ひとつ休ませてもらおうじゃないか、とちょっと居直った感じで、もしそうでなかったらこの看板をもらって帰ろう、と思ったと言うのです。その集会で一番前の席でふんぞり返って、俺を休ませてくれ!という態度であったと『ペンテコステ前後』に述懐していますが、そのときのメッセージを通して、罪が示され、それを許してくださる主の御愛に触れて、帰るときには泣き崩れてしまったという。

しかし、これは柘植先生ばかりでなく、私達もイエス様のところへ来て休ませていただけるのです。これはまことに幸いな言葉です。その後29節に「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」。「休ませてあげよう」と甘い話をしたあげく、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と、何ということだろうか。一体どっちが本当なのか。「休ませてあげよう」というからには、重い荷物を下ろしなさい、私が抱えてあげるから、あなたはそこで寝ていなさい、温泉にでもつかってゆっくりしなさい、というイメージで理解します。ところが、イエス様が、私たちを休ませてくださるとはどういうことなのか? もう一度この記事を、28節から30節までをひとつの部分だけでなく、これを全体として読んでおきましょう。イエス様は、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」と。ここで「休ませてあげよう」と言われるイエス様の言葉の本意、中心は、魂に休みが与えられることです。

人生には、思わない出来事、家族の問題、自分自身の問題、病気の問題、経済的な問題、老後の問題など、沢山あります。あるいは子供や孫たちのそれぞれの進路であるとか、仕事であるとか、いろいろ境遇や事情について悩むこと、思い煩うことばかりです。なんとかそれが解決できたら、そういう事情や境遇という目に見える具体的な問題が解決してしまえば、楽になる、安心が得られると思います。

もう一度、重荷というものの内容をよく考えてみますと、お金が足りないとか、今病気をしているとか、体が動かないとか、寝たきりであるとか、そういう具体的な問題が重荷だと思いがちです。ところが実は、イエス様が見ていらっしゃるのは、そういうことが重荷ではない。魂が重荷と感じている。ここが問題です。私たちはいろんな問題に遭います。具体的な事があります。目の前の事は、どうにでも解決がつくものです。それでは、どんな病気も治るかといったら、もちろん治ることもあるでしょう、治らないこともあるでしょう。しかし、病気にともなう、死ぬかもしれないという不安があり、恐れがあるから、それが重荷と感じます。いろんな事柄が、自分の心の問題、魂の不安と恐れと絶望、希望を失うから重荷となるのです。重荷の原因を考えると、目に見える状況や事柄が重荷なのではなく、それを受け入れられない自分が苦しむのです。問題が起こったとき、大変なことになった。どうしよう、なんでこんなになったの、私は嫌だ!と思うでしょう。こんなのは予定になかった、こんなはずじゃなかった、というので重荷に感じる。自分の考えがあるのに、それを実現できなかった。自分の思いが妨げられてしまった。自分の人生がこれで台無しになるに違いないと。結局は自己中心なのです。行き着く所は、自分の何かを失うのではないか、私が面倒に引き込まれるのではないだろうか、そういうことが私たちの問題点ではないでしょうか。だから、私自身もそういう経験をしましたが、病気だと言われると、それなりの処置をするほかありません。手術をするなり、服薬するなど、治療をしなければなりません。現在の医学でなし得る限りのことをやります。結果はわかりませんが、取り敢えずその治療にあたります。問題は、その事を自分が喜んでそれを受け止められるかどうかということです。これが重荷というものの実体です。

だから、家族がとんでもないことをしでかして、その火の粉が私に掛かってきた。なんであの子があんなことをしてと、人を非難したり、その問題を嘆いたりします。しかし、なぜ苦しいかというと、自分の心がそれを真っ当に受け止めきれない、嫌だと思うからです。その代表がマリヤさんですね。皆さんもよくご存じのようにマリヤさんに「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」と天使が告げます。それに引き続いて、とんでもないことを聞きました。「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」と、彼女は不安と恐れで重荷になったのです。大きく自分の心にのしかかってきました。

私たちもマリヤさんと同じ体験を日々しています。思いもかけないことが起こってきて、ああどうしよう!そういうときに考えるのは、これから私の時間が取られるかもしれない。健康を失うかもしれない。お金がかかるかもしれない。せっかく貯えた虎の子が消えるかもしれない、ひょっとして私の人生はここで台無しになるかもしれない。こんなことにかかわることになったら、えらいこっちゃと、一瞬にして、自己中心の思いが一杯になります。マリヤさんもそうだったのです。「恵まれた女よ、おめでとう」と「え!何? どうしたの」「こうですよ。こう成りますよ」「えらいこっちゃ、そんなのは嫌です! 」と。私たちも同じことを体験します。それが重荷なのです。

ここでイエス様が「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と言われる。まずイエス様のところへいく。これがすべてです。なぜならば、イエス様は「魂に休みが与えられるであろう」と。重荷の原因である私たちの思いを取り除いてくださる方です。ですから、思いもかけないことが起こる、重荷だと思っていることがあったら、よく静まって自分の心を探っていただきたい。一体自分は何を嫌だと思っているのだろうか? 探っていくと、行き着くところは、どこかで自分を守りたい、自分の命を惜しんでいる。自分の何かを失いたくないとしがみついている、嫌だと拒んでいるのです。ここが諸悪の根源です。そのことをはっきりと知っておきましょう。
月曜日でしたが、朝、まだ7時前だったですが、電話がかかってきまして、何事かな、と思ったら、家内の母からでした。今朝、義父が血尿だったので、どうしたらいいか、という相談でした。とりあえず、救急車を呼んで病院に連れて行くようにと伝えました。家内は日曜日の疲れがあって、まだ休んでいました。一瞬家内は「どうしてこんなことになるの! 」と。一週間前に母が、やっと骨折が治って退院したばかりです。今度は、父がそんなで「もう、嫌だ! 」と言ったのです。その気持ちはよく分かります。親だから仕方がないけれどどうしようか。血尿と聞くと、何か重大なことを考え、家内もパニックになっていました。その時、とにかくお祈りしまして、これは主が与えてくださる事、主が負えとおっしゃるのだったら、拒むことができません。まさにマリヤさんと同じです。「恵まれた女よ、おめでとう。あなたのお父さんが病気になりましたよ」と言われた。「なんで今どき」と、「しかも、クリスマスの忙しいときに、私は身動きならないじゃないの! 」と、それはそのとおり。しかし、いろんなことを主が負わされるのです。それで、とりあえず直ぐに出かけて、S病院に行きました。診察の結果膀胱(ぼうこう)ガンということでした。
話を聴いてみると、義父は前から前立腺肥大だと自己診断をしていたようで、ここ数年、時折わずかな出血があったようです。本人は、年を取って前立腺が肥大しているからと勝手に思い込んでいた。それで直ぐに前立腺がんの血液検査をしてもらった。その結果、前立腺ガンが転移して膀胱がんになっていたのです。でも、90歳ですから切ったり縫ったりはできないので、とりあえず内視鏡で膀胱の出血を止めることにして、そのあとどういう治療ができるか考えることにしました。

そこでまた、問題になるのは、今度は
母の処遇をどうするかということです。義父が入院すると一人になります。両足骨折のあとで杖を使っていますし、元来、若いときからひざが悪かったのです。今回の骨折入院のために一気に筋力が落ちたために、両手で支えなければ立つことができないので、とうてい一人で生活できません。義母は、一人で暮らせると言うのです。介護保険を使ってショートステイをケアーマネジャーにお願いしました。そしたら義母は、頑として自分は、ここで、一人で生活すると言う。歳を取っての頑固さというのは始末におえない。できるだけやらせてみよう、そして音を上げたら、そこで考えようと決めました。父を入院させて、すべての手続きを終って帰ってきましたら、夕方義母がデイケアーから戻ってきました。生活をどういうふうにするか? みんな知恵を出して、何もかも椅子(いす)に座っていて使える範囲に持ってきましょうと、やってもらっているうちに、義母は不安になったのです。どうしようか、やれるんだろうか? 現実できません。暗くなって、みんながもう帰ろうというときに、母が「私、どこかへ入れてもらえんやろうか」と、それで早速そばにいたケアーマネジャーの方に手配してもらいました。どこの施設も一杯で断られましたが、一カ所だけ、10日間くらい入れてくださるというので、翌日からそこにお願いするようにしました。

ところが、その月曜日の夜だけ、義母は一人になった。家内も泊まってやらないと言うのです。義母は、娘だから一晩くらい泊まってくれるかなと思ったでしょう。家内は、自分でできないことを知ってほしい。私が泊まって、いつまでもかかわって、介護ができるならいいけれども、どうしても途中で放り出すことになるに違いない。そのときに義母は失望するから、今のうちから、娘は当てにならんと思ってもらいたいと言う。その上で自分はどう対処すべきか、謙そんに考えるようになってほしい。娘だから、して当たり前ということは通らない。肉親の介護ほど悲惨なことはありません。他人ほど幸いなことはない。もちろん、しないわけじゃない。私どももできる限りのことをしようと思うし、しなければいけない。だけれども、どこまで手を出すか、考えなければならない。その晩は泊まらなかった。翌日、ショートステイする入所手続きのために朝から家内も出かけまして、手続きなど全部やりました。そのときに「夕べは眠れんかった。朝まで起きとった」と言う。すると娘として、家内もグッと胸にくる。かわいそうなことをしたと思うのですが、やはり涙を振り払って、これはある意味では苦しい選択です。そして、義母をその施設にお願いしました。そこではとても親切にしてくださっておそらく大丈夫なんだろうと思うのですが、すぐにもう帰りたい、と言い出すのではないかと、家内とも話をしています。しかし、そのときには引き受けると、心を定めておく。どうしても引き受けなければならない、私どもでなければならない事もあります。そういういろんな思い煩いが、たくさんあります。これまで、いろんな方々のことを見てきていますから、余計に想像することが多い。そうすると、困ったなぁ、と思う。まさに重荷です。その困ったなぁ、という思いのどこかに、また迷惑を掛けられると言うか、自分の時間がなくなる、ああいう事も、こういう事も、これから何もかも引っかぶって、私ひとりが大変だな、と思い込むところに問題がある。そこで、何が私たちの支えとなるのか。

ローマ人への手紙5章3節から5節までを朗読。

3節に「それだけではなく、患難をも喜んでいる」。患難を喜ぶことができる者となる。5節に「わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。ここがポイントです。私たちの心に神様の愛が、あふれているかどうか、ここです。そして神様の御愛というのは、6節以下「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。なんと素晴しい神様の御愛ではないでしょうか。「わたしたちがまだ弱かったころ、不信心な者であったとき、罪人であった時」、頑なで、わがままで、自己中心で、神様に従うことをしないで、自分の思いと己の欲と得とに引っ張られて生きていた私たち、そのとき8節に「キリストが死んで下さったことによって」と、イエス様が、あの十字架に父なる神様から呪いを受けてくださいました。そして私たちに神様の御愛を示してくださいました。神様が、赦されざる私たちを赦して神様の御愛を注いで、こんなにあなたを愛しているではないかと言われます。御霊によってキリストの御愛を私たちのうちにいただくことです。ここで大切なのは、キリストの御愛に満たされたら、何でも相手の言う通りにしてやろうとか、相手に優しくなろう、というふうに思いますが、愛とはそういう優しいばかりではありません。ここでいう愛は、神様が私たちを愛してくださった、その愛に応えていくことです。神様が私たちを愛してくださった御愛によって、今度は主の御愛に応え、恵みに感じて、イエス様が与えてくださった事と信じて、重荷を負うものに変えられること。そのときに患難を喜ぶ者となるのです。患難を喜んで、イエス様の負わせてくださる重荷として、私たちが受けていく。神様から愛されている者にとって、神様がこれを与えるよと言われるとき、喜んで負う者となるのです。

小さな子どもを見ていると、お母さんから愛されている子どもは、お母さんが「これをしてね」と言うと「はい!」「ハイ!」とその用事を受けて喜びます。小学校でもそうですが、先生から用事を言いつけられると、得意気にやりますね。授業が終って、「誰か、黒板を消してくれる人はいませんか」と言ったら、「はい」「ハイ」「はい!」と皆手をあげます。先生の手伝いができるという喜びがあるのです。先生が喜んでくれることを、楽しみとする子どもにとっては、どんなことを言い付けられても、喜んで引き受けます。先生が、教室から教員室に帰るとき、「先生の荷物を持ていきます」と言って、誰かが直ぐ先生のノートやかばんを持っていきます。先生は迷惑そうだけれども、喜んでさせますね。愛による交わりがあるとき、何をしても喜びに変わるのです。

皆さんもかつて若いころ、愛し、愛されているとき、奥さんのいうことは何でもしてやりたいと思う。ご主人がすることには、なんでも一緒になって喜ぶ。それは愛があるからです。段々愛が冷えてくると、そう感じなくなって重荷になります。私たちが受けるどんなことも神様が与えているのです。私たちが、嫌だなぁ、こんな大変なことになったと、思うことも、神様から出ている。この度の家内の両親のことを考えると、本人たちが好きでなったわけじゃない。娘に、ひとつ俺の世話をさせるために、病気になってやりましょうと、あるいは、自分はもう足腰が立たなくなって、娘の世話になりたいから、早く病気になろうと考えたのではありません。親は、一生懸命に娘に迷惑を掛けないでおこうと思って、努力してきたのです。本人たちにも思いもかけない患難であったに違いない。それはまた、家内にとっても、ひいては私自身もそうですが、そのことを引き受けなければならないところへ、神様から無理やり引き出されてきた。それを神様から、今託せられた事柄として、愛のうちに受けとけることができるかどうか。それがここで言われている「患難をも喜んでいる」ことです。

ここにいらっしゃる先輩の皆さんは、既に介護するほうの役割を終えられて、もうまもなく介護される側へと変わりつつある方もいると思います。今、話を聞きながら、これはいつか来た道だな、これはかつて私が歩んだ道だと思われるでしょう。大切なのは神様の御愛に絶えず満たされていることです。5節に「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。イエス様は、私たちが罪人であったとき、弱かったとき、不信心な者のために、十字架に命を捨てて死んでくださって、愛を現してくださいました。命を懸けてあなたを愛しているではないかと。そして、そのイエス様が、わたしが負うのだから、私が負う荷物をどうして君も負えないのか? 私たちが、「どうして?」 と思うとき、そのことに目を止めていただきたい。マリヤさんが、「恵まれた女よ、おめでとう」と言われて、とんでもない大きな事柄を神様から託されました。そのとき、どうしても嫌で仕方がなかった。しかし「神には、なんでもできないことはありません」。そうでした。これは神様!あなたが、私に託してくださった。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」、喜んで、神様の業に自分をささげたのです。空っぽになったのです。私たちも同じです。イエス様の愛に溶かされ、消し去られて自分を捨てていくのです。

私は、この度のことを通して、このことを、心に迫られ、決断をさせられました。どんなことがあっても、必要ならば命でもなんでも惜しみなくささげていこうではないか。財を尽くし、健康を尽くし、どんなことでも、主が必要としてくださるならば、イエス様が喜んでくださるのだったら、そこに従っていく。これが私たちの決断です。そこにいくまで私たちは悩みますね。なんとか逃れたい、マリヤさんもそうです。最後の最後、どん詰まりにきたとき、神様から「神には、なんでもできないことはありません」。これは神様の業なのだから、神様がするとおっしゃる。お前はただ私にすべてをささげなさい、と迫られたときに、マリヤさんは「わたしは主のはしためです」と謙そんになって、自分を委ねました。神様の御愛が、マリヤさんを包んだのですね。

ルカによる福音書1章46節から50節までを朗読。
これは後に、マリヤさんがエリサベツを訪ねて、喜び、感謝したマリヤの賛歌、喜びの歌、主をほめたたえた歌です。この46節以下に「わたしの魂は主をあがめ、47 わたしの霊は救主なる神をたたえます」。手放しで神様をほめたたえている。つい何日か前まで、彼女はそんな気持ちになれなかったのです。どうしてそんなことがあるでしょうかと、不満でいっぱいでした。ところが、神様の大能の手のもとに自らを低くして「主のはしためです」、私はあなたから造られた、小さなはしために過ぎない、汚穢(けがれ)果てた者ですと、主の手に自分をささげました。主の御愛を信じたのです。
私たちもそういう問題に出合うとき、思いもかけないことが起こったとき、マリヤさんのように、このことは主から出たことですと、まず、確認したいと思います。あの人がいけない、この人がもっとああしとけばよかったなど、そういう後ろ向きの事柄じゃありません。そうだ、これは神様が、今、事を起こしていらっしゃる。そこで、神様の愛に満たされていくのです。こんな者を愛してやまないイエス様が、この問題を与えてくださった。そして、あなたは私に従え、主が負わせてくださるものを、喜んで負い、感謝して受けるとき、それまで重苦しく覆っていた雲が消えていきます。今までの押しつぶされそうな重荷が、パッと消えてなくなります。皆さんでも、自分がしたいと思うことがあれば、徹夜だろうとなんだろうと喜んでするでしょう。ところが、母親の看病を徹夜ですることになると、「なんで私が!弟がいるじゃないの、兄貴がいるじゃないか」と、押し付け合いになる。嫌だと思うからです。登山をする人を見てください。何十キロという重い荷物を背負って坂道をどんどん登る。大変でしょう、苦しいでしょう、と言ったら、いやこれは楽しみですから、と答えます。自分がしたいと思うから、重荷だろうとなんだろうと、重いリックサックを担いで山に登るのです。頂上に行けば金塊の一つくらいもらえるんだったら、私達も行きますが、何にもないですよ。行ったって、何にも無い頂上に立つだけです。それでも彼らは、自分が登りたいという願いがあり、登ることに喜びを見出しているから、負っている荷物すら軽いのです。
私たちの人生も同様です。強いられた人生だと思っている。何で私がこんな目に遭わなければならない。どうしてこんなに、と思い続けている間、重くて重くてたまらない。イエス様が、私たちのために何をしてくださったか。主の愛が満ちてくると、これも主が喜んでくださるならば、喜んで負いましょうと、私たちの向きが変わってくる。マリヤさんのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」、主よ、あなたの思うとおりにしてくださいと、まな板の上の鯉になりきってしまったとき、喜んでそれを負うことができるのです。しかも、それはもう重荷ではない。山に登る人の重いリックサックは楽しみのためなのです。そして喜んでそれを負って行くのです。
48節に「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」。神様の大きな御計画と大事業の中に、こんな私のような者を選んでくださった。そこにマリヤさんの喜びがある。だから、重荷どころじゃない。「今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう」。誠にそうですね。私たちも、主が負わせ給うときに、その重荷を喜んで、キリストの御愛に応えて負う者となりましょう。49節「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです」。力ある方が、私に大きな事をしてくださった。まだマリヤさんには具体的に事が起こっていません。これからどういうふうになるのか。そして生まれ出てきたイエス様が、どういう人生をたどっていくのか、その最後にどういう困難と苦しみが待ち受けているか、分かりませんでした。しかし、分からないけれども、この事は力ある御方が定めてくださった事柄なのだから、しかも、神様の業に私を選んでくださって、引き入れてくださった名誉を、喜びを感じるのです。
家内が、いみじくも「このクリスマスの忙しいときに、なんでこうなったの!」と言ったのですが、だからこそだと思うのです。このときにこそ、神様がすべての主であって、すべての問題や事柄、御計画の中に、私たちを引き入れて、神様の業を現そうとしている。それに対して、私どもはどう応えるべきなのか。愛してくださる主が、「せよ」と言われるなら、喜んで従っていこうではありませんか。そう心を定めて祈りましたときに、もはや重荷は重荷ではない。あとは神様が、どういうふうに手立てをしてくださるか、これからのことは分かりません。義父が手術を受けることになっていますが、お医者さんの方では、大体2週間から20日以内には退院できると言われています。退院したあと、90歳で非常に体力も弱っていますから、ほかの問題が出てこないとも限りません。家に帰って、動けない母を介護できるだけの体力は残っていないと思います。そうなるとこれからどういうふうに処置をしていくべきか。今直面している問題です。しかし、これも主が、先立ってくださる。私がするのではない。だから、家内にも、私たちが何かをするのでなく、神様がなさるのだから、そこに従っていこうではないかと言うのです。これ以外にない。娘だからしなければいけないと思ったら重荷です。
イエス様が、ゴルゴタの丘へと、ドロロウサという旧エルサレム市街の嘆きの道を十字架を負うて歩いていく。疲れて何度も倒れる。とうとうローマの兵隊は、そこにいたアレキサンデルとルポスの父シモンという人を捕まえて、無理やり十字架を負わせます。気の毒なシモンでしたが、彼は、その十字架を負うことによって、イエス様の救いにあずかるのです。そののち「ローマ人への手紙」16章を見ますとルポスの名があります。シモンの息子であるアレキサンデルもルポスも、イエス様を信じる者となっているのです。一人の人が無理やり負わせられた十字架を負うていくときに、そこに命の道が開かれていく。マリヤさんもそうだったのです。自分をささげて主に従ったとき、「今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう」と、大きな恵みにあずかりました。
マタイによる福音書11章28節に「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。イエス様が負わせてくださる、イエス様が与えてくださるものだったら、喜んで主の御愛に応えて、負い、担っていく。それは重荷とは感じません。喜んで感謝して負わしていただけるなら、こんな名誉なことはない。私たちはイエス様の御愛に満たされて、与えられた一つ一つの事柄を負う者となっていきたい。それはなにも介護する側の問題ばかりでなく、介護される者になったときもそうです。神様が、私をこういう状況の中に、こういうところに置いてくださった。そこで頑なになって、こんなに人から世話されなければならなくなって、情けない、もう嫌だ!死んでやる、などと自暴自棄になるのは間違いです。神様の愛の手の中に、置かれていることを感謝して、介護・援助されるならば、それを感謝して受けることができる者になりたい。素直な、従順な心を絶えず主の前に持ち続けていく者でありたいと思います。そのために「あなたがたを休ませてあげよう」と言われる主のもとに立ち返って、イエス様の御愛に日々満たされていこうではありませんか。
ご一緒にお祈りを致しましょう。