いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(573)「神の民の自覚」

2017年08月07日 | 聖書からのメッセージ

 ペテロの第一の手紙」1章13節から31節までを朗読。

 

 15節「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。

 

 「聖なる者となりなさい」といわれると、現実の自分を振り返って、「これは、到底無理だ」と思います。「聖」という言葉は、清い、あるいは崇高なという意味合いの言葉ですから、普段の私たちとは全く縁がない。しかも「あらゆる行いにおいて」といわれるように、私たちの生活の隅から隅まで、ことごとくにおいて「聖なる者となりなさい」という事です。「これは大変なことになった。神様からこんな要求を突き付けられて、そうでなければ救われないのだったら、私は到底無理」と、多くの人がそう思うでしょう。また、私もそれを求められたら、到底できようがない。「聖」という言葉は、そういう清い、何一つ汚れのない、透き通ったといいますか、光のような性質、性情、性格、「これが聖(きよ)いもの」と人は思います。ところが、人間はどんなことをしてもそういう者に変わることは、自分ではできません。世の中には非常にまじめな人がおられて、一生懸命、何としても自分の性情性格を造り変えて、清い、すがすがしい性格になりたいと願う人もおられます。そのために懸命に修業を積むといいますか、いろいろな難行苦行を耐えて、自分を鍛え、清める。人間は、そもそも様々な欲望が渦巻いていますから、いろいろな思いが絶えず湧いてきます。人の行動を見たり、あるいは、日々の生活で心が騒ぎますし、揺れます。怒る事もあるし、失望落胆することもあります。そういう自分を見ていると、何とも俗っぽい人間、欲もあれば、人をねたむ思いもあるし、「自分はどうしてこんな嫌な人間なのだろうか」と思います。そこへもってきて、神様は「聖なる者となりなさい」と。これはもう到底不可能、「私はそんな人間になれません」と言わざるを得ません。

 

 イエス様の所へ一人の人が訪ねて来て、「永遠の生命を得るにはどうしたらよいか」(マルコ10:17~)と尋ねました。そのときイエス様は「律法を守れ」と、まず十戒ですね、「これを守りなさい」といわれました。その方は「それはみんな小さい時から守ってきました」と言う。だからイエス様はその人に感心して、「いつくしんで」見ておられたと。幼い時から十戒の全てを落ち度なく守ったと自分で言える人は、まずいないと思います。皆さんでもそうでしょう。十戒の全部を落ち度なく守る。「わたしのほかなにものをも神としてはならない」(出エジプト20:3)、第一の戒め。これ一つ、徹底して守ることのできる方はいない。神様どころか、あれが大切、これが大切、私の命が……、と思います。形ある偶像は造らないけれども、心の中に神ならぬものを神とする。それどころか、己を神とする。「自分が神だ」と思っているときがあります。そのことを思っただけでも、戒めを完全に守り行うなんて、到底不可能です。

 

 ところが、イエス様の所へ来たその人は、「守った」と言うのです。だから、イエス様は感心したのです。「立派な人物だ」と思った。けれども、私がその記事を通して教えられるのは、到底人ではなし得ないような律法を完全に守ったその人ですらも、「自分はこれで良い」と言えなかったのです。やはり、「ここまでやったけれども、これで大丈夫だろうか、永遠の命という神様の救いにあずかるには、これでは足らないのではないか」という思いがあるから、イエス様の所へ来たのです。もし、自分が完全に落ち度なく律法を守りつくして、「自分はこれで神様の前に義なる者、清い者とされた」という確信があれば、イエス様の所へ来る必要はないのであります。ところが、彼にはその確信がなかったのです。自分の努力や、自分の力でそれを得ようとしても、確信が得られないのは当然であります。私たちが何かのために一生懸命に尽くします。「こうありたい、こうしよう」と努力します。しかし、「十分やったからこれで何の心配もない。パーフェクト」と言えることはありません。

 

 大学の受験生は入試まで一生懸命に勉強をします。勉強をし尽くして試験に臨みますが、誰ひとり「自分は大丈夫、これで通る」と思っている人はまずいないと思う。「8割ぐらいは大丈夫と思うけれども、後2割、あるいは1割はひょっとしたら?」という不安が常にある。完全に「よし」と言える人は、まずいません。確かに周囲の人は模擬試験の成績を見たり、偏差値を見たりして自信を持ちますが、たとえ全国模擬のトップであったとしても、いよいよ自分の希望の大学を受験するとき、「こんなのは朝飯前や」と言えるかと、やはり不安を感じます。「大丈夫だろうか、これでよかったのだろうか」と。「もう少し、あれもしておかなければ、これもしておかなければ」と。

 

私たちが神様の前に立って、「罪なし。あなたは何のとがめるところもありませんよ」と言われるために、自分で努力しなければならないとするならば、これはもう無理であります。そして、いくら努力してもそれに達し得ません。大丈夫との確信が得られません。

 

イエス様の所へ来たその人も自分はそんなに一生懸命に努力して守ってきた。「でも、まだ足りない」と思ったのです。イエス様は彼に「あなたの持っているものをみな売り払って貧しい人に施して、天に宝を積む者となりなさい。そして、わたしに従ってきなさい」とおっしゃったのです。「それが永遠の生命だよ」と言われたのです。ところが、その人は「それはできない。それはもう無理や」と思って去って行った。それはそうです。自分の力でやろうとすると、それはできないのであります。

 

となると、15節「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」と、とてつもない要求を出されたら、私たちはお手上げであります。「聖なる者となるためにどうすりゃいいのか? 」この世に生きていたら、自分は欲望の塊、あれもこれも欲しい。あいつは嫌いや、と心の中を見られたら、それはドロドロのヘドロだらけの心でしかありません。罪の塊であることは自分がいちばんよく知っている。到底聖なる者となりようがない。「では、神様は私たちに何を求めていらっしゃるのか」。ここに「あなたがたを召して下さった」とあります。神様は私たちを神様の所へ招いてくださった。私たちは今まことの神様を信じる者へと導かれていますが、誰一人自分の力でそうなろうと思ったわけではありません。確かに表向きは具体的な切っ掛けがあって、たまたま友達に誘われたとか、どうしても解決がつかない悩みがあったから、何とかその救いをと思って、教会の扉をたたいた。あるいは行き掛かりで、そこに教会があったから取りあえず入ってみようと入ったとか、それぞれの具体的な切っ掛けはあるでしょうが、実はその背後に、神様が私たちを招いてくださったのです。だから、今ここにこうして座っているのは、今朝「することがないから、教会へ行こうか」と、決めたわけではない。神様が思いを与え、願いを与え、押し出してくださったのです。背中を押してくださったのです。だから、今こうしてここにおらせていただくのです。だから「召して下さった」とあるように、神様が私たちをここに招いてくださったのです。その御方は「聖なる御方でいらっしゃる」と。神様は清い、聖なる御方、その聖なる御方にならうようにと招かれた私たちです。神様の御許(みもと)に引き出された私たちもその神様に等しい者となりなさい、というわけです。「さて、これからどうしようか」と。「そんな宿題を出されるために私は来たわけではない」と思うかもしれません。

 

ここで大切なことは、「聖なる」というのは、何なのか?「聖」というのは、神様のご性質であります。何か姿形のあるものが聖なるものではなくて、神様ご自身が聖なる御方でいらっしゃいます。私たちは、神様のご性質、聖なるものになることはできません。「だったら、なぜこんなことが言われているのか」と思いますが、確かに私たちは神様のご性質である聖なる者ではありませんが、この「聖」という言葉は、もうひとつ「取り分ける」という意味があります。神様のものとしてそれを取り分けるとき、これが聖なるものであります。言い換えますと、神様が私たちを招いてくださったのは、私たちをこの世から神様のものとして取り分けてくださったのです。

 

「ヨハネによる福音書」17章14節から19節をまでを朗読。

 

イエス様が最後の晩さんの席で祈られた最後の祈りであります。これはまた私たちに対する祈りでもあります。この14節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」と語っています。「彼ら」というのは、私たちのことでもあります。イエス様が私たちの救い主となって、私たちが神なき世界に生きていた、自分勝手なわがままな自己中心の罪の中に苦しみうめいていた私たちを、イエス様はご自分の十字架の血潮によってあがなってくださった。命をもって罪の支配から買い取ってくださった。そのことが「世のものではない」といわれているのです。私たちはこの世には生きているけれども、もはや、この世のものとしてではなくて、イエス様の尊い十字架の命によって、この世から取り分けてくださった。キリストのものとしてくださった。ここに「わたしが世のものでないように」とあります。イエス様はこの世に属するものではありません。神の御子でいらっしゃる御方です。その御方があえて人となって、確かに人の世には住んでくださいましたが、それはこの世のものとして生きたのではなくて、神様によって派遣されたものとしてこの世に来ておられたのです。だから、イエス様はこの世に住んで、ペテロやヨハネたちと同じように、その時代の人と寸分違いのない、どこを取っても違った所のない“人”となってくださった。だからといって、この世のものではありません。

 

外国の政府機関から日本に遣わされて来る大使とか、領事などがいらっしゃいます。福岡にもアメリカや中国や韓国の領事館がありますが、その人たちは普段は町中に出て来て、私たちと同じスーパーでショッピングもしますし、韓国や中国の人たちは見たところ我々と同じ服装をしていますから、全然分かりません。じゃ、彼らは日本人かというと、そうではなくて、ちゃんとそれぞれの出身の代表であるという自覚があります。この日本の国民ではありません。

 

私たちもイエス様の救いにあずかって、イエス様を信じ、この世から神様のものとしてとり分けられた存在です。この世から神様に属するもの、神様の所有、言い換えると、イエス様の命を代価としてあがなわれた存在、買い取られた存在となった。ですから、イエス様が「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ20:21)とよみがえられた最初におっしゃいました。私たちは、イエス様によってそれぞれの家庭や職場に派遣されているのです。だから、この世に生きていますが、「私たちはこの世のものではない」。これをまず自覚しておきましょう。そういうことをいつも自覚していらっしゃいますか? 案外忘れている。この世のものと一緒になっている。ところが、14節に「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」とはっきり言われています。私たちはこの世のものではない。これがイエス様の救いにあずかる者の姿です。私たちは今日もこうして八幡の町に生きています。スーパーで買い物もし、生活する場所も、この世の人と全く同じであります。どこを取っても変わりはありません。違いがあるのは、魂、心です。これが違うのです。私たちはこの世にあるけれども、この世のものとして生きるのではなくて、神様によって遣わされて生きているのです。

 

 イエス様が15節に「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく」とここで祈っておられるように、神様は、私たちをイエス様の命によってあがない、救い出して、私たちをこの世からどこか花のうてな(高殿)、カプセルのような温室に移してください、というわけではないのです。あるいは、深山幽谷、どこか人里離れた所に庵(いおり)を組んで、世から離れた別世界といいますか、超越した生活に私たちを置くというわけではありません。「いつも神様がこの取り分けられた、神の民とされた私たちを守ってやってください」。これがイエス様の祈りであります。そして16節にもう一度繰り返して、「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」と。

 

その後の17節に「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言(みことば)は真理であります」とあります。「彼らを聖別して下さい」、清い者として、きちんと取り分けてください。そして「真理によって」とあります。「真理」というのは「御言(みことば)」と言い換えられています。御言葉によって私たちを聖なる者として取り分けてください。神様につける者としてくださいと。私たちはこの世に生きていますが、しかし、常に私たちが神様の所有、神様の子供とされて、御言葉によって絶えず神様との交わり、神様のいのちにつながっていく。これが聖なる者です。18節に「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」と。イエス様が父なる神様にこの世に遣わされてくださったように、今度は私たちをそれぞれの地域や社会や家庭や職場、いろいろな所に遣わしてくださる。だからといって、私たちはこの世のものではありません。誰のもの? 私たちは主のもの、神様の所有、神の子供、神の民であります。神様の所有とされる、神様のものとして自分を自覚していくこと、これが「聖なる者になる」ことです。聖なる御方、神様の所有になる。その結果、私たちは聖なる者と唱えられるのであります。

 

その人の持ち物となるということは、その人の所属であります。たとえば、やん事無き(非常に高貴な)身分のお方が、自分のものとしてハンドバッグとか、何かを持っている。そうすると、高貴な方のものですから、従者たちはそれを大切に持ち運びます。高貴なる人が持っているからといって、その品物が他の品物と性質が変わったわけではありません。デパートで買うしゃれたハンドバッグがあります。代価をはらって買いますと、その人の所有となります。天皇がそれを買ったら、品物は同じであっても天皇が握った途端に、他のものとは違うそれは大切な物として取り扱われる。

 

だから、聖なる御方が「これはわたしのものだ」と言ってくださったら、それは「聖なる者」です。これが聖別される、聖なる者となることです。私たちはいまイエス様の命によって神様に買い取られた。「わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」とイザヤ書(43:1)に語られている。神様の所有とされた私たちは、たとえ出来そこないで、腐ったようなものであっても、神様のものとされたゆえに、これが「聖なる者」なのです。そこで大切なのは、私たちがそれを日々自覚していくことです。

 

 ですから、「ペテロの第一の手紙」1章15節に「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」。「聖なる者となる」、それは今申し上げたように、この世のものではなく、神様のものとして取り分けられたことを、私は私ではなく神様のものなのだ、ということをどんなことの中でも自覚して、決してそれを忘れない。これが大切です。私たちは今はっきりとそのことを自覚して「私は神様のもの、この世のものではない」「私は私であって、私のものではない」と自覚する。だからパウロは「生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」(ローマ 14:8)といっています。神様のものは、みな清い聖なる者なのです。

 

 だから、神様に従う人々を聖徒といいます。「聖なる人々」なんて言われると、「くすぐったいような、とんでもないことを言われてしまった」と思いますが、自分が清いからではありません。私たちには聖なるものは何一つありません。しかし、聖なるお方が、神様が「あなたはわたしのものだ」と。神様の一部分として、神様の所有としてこの世から取り分けてくださった。このことを日々の生活のどんなことの中でも自覚していただきたい。だから、「あらゆる行いにおいて」と語られています。この世の生活の全てのことの中で、神様の所有とされた私、神様のものである“私”を常に自覚していく。そうしますと、気がつかないうちに私たちに神様のご性質が移ってきます。だから、パウロは「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(Ⅱテモテ 2:8)と語っています。イエス・キリストをいつも思う。取りも直さず、それは神様が私をあがなって、神様のものとされたのだ、と自覚していく、覚えていくことです。そうやって神様のことをいつも思い、イエス様のことをいつも心に覚えていますと、性情性格が変わります。神様は私たちをご自分のものとして、「これはわたしのものだ」と決めて、ご自分の所有にふさわしく手入れなさいます。

 

 無けなしのお金をはたいて大切な一つのものを買うと、それをなでたりさすったり、大切にするではありませんか。そして自分のいちばん使い勝手の良いものにしようとします。ましてや神様は、尊いひとり子の命をも惜しまないで、私たちをご自分のものとしてあがなってくださった、買い取ってくださった。「あなたはわたしのものだよ」、「あなたがどこへ行くにもわたしは一緒にいるじゃないか」とおっしゃる。私たちはそれを忘れるのです。そして勝手に神様から離れてしまうから、神様は「駄目だよ、わたしの所へ帰ってきなさい」と招いてくださいます。聖なる者として、神様はご自分の所有として、私たちを買い取ってくださった。だから、朝起きてから夜寝るまで、毎日の生活の中で、買い物をするにしても、洗濯をするにしても、何をするにしても、「いま私は神様のものとされているのだ。だから、神様の御心に従う」と心を決める。先程、「御言(みことば)によって聖別する」ということをイエス様は語っています。それはいつもイエス様のことを思うとき、御言葉が絶えず心に思い起こされます。不安なとき、恐れが湧いてくるとき、心配するとき、心を騒がすような事態や事柄の中、いろいろなことの中で、「いま神様がこのことを起こしてくださっておられる。神様が導かれることがあるに違いない」と、常に思いが神様に結び付いていく。そういう思いで常に生活してごらんなさい。私たちの性情、性格、顔つきから、立ち居振る舞いまで全部変わります。なぜ変わらないかというと、私たちが「主のものである」ことを忘れるからです。

 

 「コリント人への第二の手紙」3章15節から18節までを朗読。

 

 16節に「主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」とありますが、「おおい」とは、私たちの罪のかしゃくといいますか、罪の幕であります。神様と私たちの関係を遮断していたものは何かというと、罪です。その罪を取り除くのは、誰の力といって、イエス様、十字架によるほかはないのであります。イエス様は十字架によって神様と私たちを隔てていた中垣を全部取り除いてくださいました。そして神様の栄光を見る者と変えてくださった。ですからここに「主に向く時には」とあります。私たちがイエス様に心を向けるとき、罪の一切の妨げを取り除いてくださる。そして直接顔と顔を合わせるごとくに神様のお顔を見ることができる。聖なる御方と一つにせられていく。17節に「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある」。神様は、よみがえってくださった主は、いま聖霊、御霊となって、私たちの内に働いてくださる。だから18節に「わたしたちはみな、顔おおいなしに」、言い換えると、罪の隔てなくして、隔てをすべて取り除かれて、「主の栄光を鏡に映すように見つつ」、神様のご性質、聖なる御方のご性質に、その姿を目の当たりに見るのです。だから、常に私どもが、今日も主によって取り分けられて、「私は神様のものです」と自覚していく。そうしてまいりますと、私たちの内に神様の光が、ご性質が注がれてくる。しかもその後に「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」とあります。私たちの性情、性格、心と思いを全部清めて、神様のご性質に近い者へと造り変えてくださる。この素晴らしい恵みに私たちを引き入れて「聖なる者となりなさい」、「神様の所有となりなさい」、「神様のご性質に変えられて行きなさい」と勧められているのです。神様は私たちをそのように造り替えようと願っておられるのです。ねたむ思いや、憤る思い、あるいは自己本位の思い、譲られないかたくなな心がなかなか変わらずに苦しみます。それを何とかしようとしますが、既にイエス様が十字架によって私たちの罪を清めてくださったのですから、ただひたすらに神様に目を留めて行くこと、主のものであることを自覚していく。たとえ自分の状態がどんな状態であるかを見ながらでも、「いや、大丈夫、神様が私をあがなってくださった。神様のものとしくださった」と、片時も忘れてはならない。そして感謝する。「こんな者を今日も、主よ、あなたの民とし、あなたの子供としてくださって感謝です」と、絶えずそこにとどまっていきますと、神様のほうが親に似る子供に変えてくださる。神様はご自分の性質に私たちをあずからせてくださる。ここに「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」と約束されています。これはすごいことです。神の聖なるご性質に私たちを造り替えて、この肉体にありながら、この世にありながら、私たちを永遠の御国に住む者へと変えてくださる。「これは霊なる主の働きによるのである」と、あなた方の努力によるではないのです。私たちの頑張りによってそうなるというのではないのであります。ただ、自分を神様の御手に委ねて行くとき、神様のほうが私たちを造り替えて、栄光の姿へと変えてくださる。

 

 「ペテロの第一の手紙」1章15節に、「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて」と、具体的な日々の歩みの中で、「私は主のものです」、「私はいま神様の子供だ」と自覚していく。そうすると、おのずから「神の子供だったら、その必要はない、これもいらなくなる、こうしておこう、ああしてあげよう」と、今まで自分になかった性質が芽生えてくる。今まで罪のゆえに隠されていた神様のご性質が私たちの内に新しく造りだされていく。だから、常に私たちはそのことを自覚して、「あらゆる行いにおいて」、友達と話すときでも、旅行をするときでも、どんなときでも「私は主のものです」と、神の子供とされている自分であることを、常に自らが自覚して生きる者となりたいと思う。そのとき、私たちの心と思いが全く造り変えられて、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に」、キリストの栄光の姿へと変えてくださるのであります。神様は「そうする」とおっしゃっているのですから、「はい、どうぞよろしく」と、無条件で神様の御手に委ねて行きたいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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