エレミヤ書29章10節から14節までを朗読。
今朝は1節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。
私どもは、日々の生活で必ず計画を立て、予定を立てます。朝起きると直ぐに、今日は一日何をしようか、あれこれと考えます。そして、ああして、こうしてという、一つ一つのプランを自分なりに組み立て、一日を過ごします。今日は何もすることがない、暇で仕方がないという人でも、何かの計画を持っています。何もする事はないけれども、取りあえずはあれをしとこう、次はこれをしよう。今日はすることがないから、好きなビデオでも見て、その後はおいしいものを食べて、お風呂に入って、野球を見てなどと、「一日何もしない」と言いながらも、それなりに自分の計画を持っています。これは幸いといえば、幸いですが、また厄介です。というのは、自分で決めるものだから、そうならないと不安を覚えます。自分が思ったとおりにいかないと、うろたえたり、慌てたり、驚いたりする。しかし、自分が計画し、考えてやっていると思うこと自体が大きな問題です。
「神様を信じる」という言葉の意味、その内容をよく考えてみると、神様を信じることは、取りも直さず、私たちが神様によって創られてここに在ること、存在していることを認めることです。 聖書では、「神を信じなさい」と繰り返し勧められます。「神様を信じる」と言葉で言うと、それで分かったような気になるのですが、神を信じるとは具体的にどうすることなのか、いろいろと思い巡らすとき、「自分が神様によって創られた者である」と認めることにつきるのです。ほかにもいろいろな表現方法、捉え方、理解の仕方がありますが、先ず一つはそれです。というのは、聖書のいちばん最初の創世記1章1節に「元初(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」と記されています。神様がいらっしゃって、その後、混沌とした中から、すべてのものが創り出されてきたとある。「神様を信じる」というときは、いちばん最初にこの事を信じなければ、神様を信じたとは言えない。
同志社大学の創始者である新島襄という方は、旧約聖書のいちばん最初のこの言葉で、クリスチャンになったと言われています。日本の伝統的な宗教、神道であるとか仏教とかの感化を受けていたと思いますが、聖書に初めて出会い、創世記の1章1節、「元初(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」を読んだときに、新島先生は、一瞬にして天から霊が注がれたというのでしょうか、「ハッ」と発見したのです。「そうなのか。神様がいらっしゃるから、全てものがここに存在しているのだ。神様がいなかったら、何も有り得なかったのだ」と。そこで初めて「唯一絶対の神」がいらっしゃると信じたのです。まさに、そこがいちばん大切な根本の問題だろうと思います。神様を信じるとき、私の外側に、まるで花が置いてあるように、神様がいて、私はこっちにいるという信じ方ではなく、どういう訳か分からないけれども、この地上に、この日この時、命が与えられて存在していること自体が、誰の計画によるのでもなく、実は神様の御計画によるもの、神様がいらっしゃって初めて成り立っていることを認める、これが信仰の基本であり、また出発点です。
朝起きて元気で「今日一日何をしようか」と思うとき、私が頑張って努力して存在しているのではなくて、神様が、今日も私をここに置いてくださった。私が生きているのではなく、神様に生かされた者だと素直に認めることが、すべての始まりです。そこでいつもぶつかるのが、自分の計画や思いです。今日一日あれをしてこれをして、あるいは自分の人生はこういう人生で、こういう将来をと考える。しかし、そもそも私たちの存在自体が、私の力によったのではない。自分の計画と自分のスケジュールによって、この親に、この日に、この時に生まれてこようと決めた人は誰もいません。今日こうしてこの国に、この時に生きているのが、まことに不思議としか言いようがない。しかし、これをあまり不思議とは考えません。当たり前じゃないかと思います。よくよく考えてみれば、これほどの奇跡、不思議はありません。生まれても死亡率が高くて、生き残る人が少なかった時代には、生きることが、貴重だと実感できたのですが、今は科学や医学も進歩して、生まれたら、その人生を曲がりなりにもたどって寿命がつきるのを当然のことと考えやすい。しかし、実は、そうではありません。神様がいらっしゃって、神様の許しがあり、神様の御計画の中にあって、今日私たちはこの地上にある。そして今に至るまで、生かされてきたことを……、殊に年配の皆さんは、身にしみて感じていると思います。「よくもこんな年になるまで生きたものだなぁ」と。
家族の方から頼まれて、一人の兄弟に、聖書のお話をしたことがあります。初めはなかなか信じようとしなかったのです。なぜ信じなかったかというと、「自分が今、今日ここに生きているのは、先祖のおかげであって、神様のおかげとは思えない」という意見でした。「自分は先祖のおかげによって、今日ここにいる」と感謝していました。だから先祖を大切にする。それによって生きていると信じていました。その方に、神様を信じるように導くのは、難しいと思いました。人が説得して、その心を変えさせることはできません。私は祈りながら、神様に導かれるところでお話をしました。そのうちに、自分の人生を振り返って話し出しました。80歳を越えていましたが、その波乱に満ちた生涯を振り返っているうちに「ハッ!」と気が付いたのです。それまでは、先祖が自分を守ってくれている、先祖の霊が、守護霊というか、自分を守って、戦中、戦後の混乱の中を支えてくれたと思った。しかし、先祖じゃなくて、もっと大きな宇宙を支配している神様が守ってくださったのだ。「聖書に書いてあるとおり、神様がいらっしゃって、わたしは今ここにある」と悟ったのです。その方は、記憶を辿ってみると、小学生のころ、夕暮れになると近くの小高い丘の上に登って空を眺めるのが好きだった。日が段々と沈んで、西の空が夕焼けから薄暗くなるにつれて、ポツポツポツと星が光り始める。自分はその光景を見るのが好きだった。ロマンチックな方です。それを見ていると、何か知らないけれど、自分が言いようのない、大きな力が全てのものを支配している、覆っているな、と感じて、心が震えたことがあった。それを神様と言えなかったが、何か不思議な力に満たされていた、と思い出した。
そして、「実は、そのとき、既に神様が、私を捉(とら)えていてくださって、私に近づいておられたのですね」と。それから一気に、その兄弟は「神様がいらっしゃること、そして神様の手によって、今日ここまで命を長らえることができた。それは神様の御計画があったからだ」と、はっきり信じることができたのです。その時にも彼が言いましたが、「自分はもう80歳を越えてきたが、この間に同年の者たちは、戦争にとられたり、事故や病気やさまざまなことで次々と亡くなりました。今振り返ってみると、生き残っているものが本当に僅かになってきた。それなのに私だけが、こうして生きていることは、どういう訳だろうか」と、常々頭にありましたが、それがただ先祖のおかげだ、という具合にしか考えなかった。実は、そうではなくて、「元初(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」、一切のものの根源である神様がいて、この小さな取るに足らない者に命を与えて導いてくださったと、信仰を持つようになられたのです。私はこのことを思うときに、信仰の根源は、自分の存在、私という者がどうしてここにあるか? その不思議さを通して、初めて神様に出会うのだと思います。人生を生きていく間に何度か、もうこれで自分は終わりかな、もうこれで自分の人生はお終りになるな、と思う時期を通ります。しかし、それを乗り越えて、どうして今日ここに生きているのだろうか。その理由は、私たちの中にはありません。私が努力したから、一生懸命に、あの時頑張ったから、生き長らえることができたというのではなく、神様が不思議な力によって、絶えず導いてくださっているからです。
私自身もそうなのです。60年くらい前ですが、戦後、母の郷里である長崎の五島列島に疎開をしました。1年半くらい滞在したと思いますが、昭和20年の後半から21年に掛けてだと思いますが、私はまだ3才か4才足らずです。母と子供たちだけだったのです。父は礼拝や集会の御用がありますから、八幡に残っていました。そのときに、私は原因不明の高熱を出したそうです。夏だったので、庭で作ったトマトを切って、「さぁ、食べなさい」と言ったときに、私が「どこにトマトがあるの? 」と言ったそうです。「目の前にあるじゃないの」、「見えない」と言った。それで母がびっくりして、額に手を当ててみたら大変な熱でした。とりあえず、熱を測ったら40度を越えていた。ところが、戦後ですから医者がいない。居ても薬がない。とにかく、お医者さんを呼んで調べてもらったら、原因不明だというのです。しかも3日も4日もズーッと熱が続く。とうとう、うわごとを言い出した。私はもちろん覚えていませんが、後で聞いた話です。母はもうこれは死ぬ、と思ったそうです。母が考えたのは、郷里は仏教の盛んな所で、母方の祖母はお寺の出身ですから、もしここで和義が死んだら、仏教で葬式をされるから、これは困った。「死ぬのだったら、何とか八幡で、キリスト教で、葬儀ができる所で死んで欲しい」と思ったという。治ることよりも死んだ後のことを考えたと言うのです。でも、とにかく母が独りで祈った。そのころ、電話はありませんから、今のように速く連絡のしようがない。とにかく急いで葉書を出し、電報を打って、父に祈るように頼んだ。4日くらい経ったときに、急速に熱が引いてきたのです。両親がよく思い出話に語ったのは、あの時に死んでいたらという、余程、死を覚悟したのでしょう。私は、「よくその時に死ななかったなぁ」と思います。それもやはり神様が、何か大きな御計画があって、そのことを起こし、そこから祈りに応えて、もう一度わたしに命を与えてくださったのです。今でも、自分がこの年になるまで生きていることが、不思議だと言う以外にありません。
また、その後もそうです。それからも、死にかけたことが何度かあります。小学校の3年か4年くらいだったと思います。やはり夏休みで母の郷里に行ったのです。そこは漁村ですから、港に漁師の船が沢山つないである。今でも思い出しますが、午後の2時半か3時ころ、村中がシーンと静まり、暑い日でしたから人も出ていない。ところが私と兄は、都会から来たので嬉しくて遊んでいた。目の前に小型の漁船がつないでいたので、その船の上を乗って跳び回っていたのです。そしたら、私はドボンと海に落ちてしまった。そこから母の実家がある所までは、100メートルばかり離れている。私は泳げませんから落ちるなり、ブクブクッと沈んでいったのです。で、また上がってきたり沈んだり、ブクブクとやっているわけです。兄がいて、「ああ、大変!和ちゃんが溺れた」と、近くの人に言えばいいのですが、家に飛んで帰る。その間、浮いたり沈んだりしている。丁度、イカ釣り船があって、イカ釣りから帰った人が網を繕っていました。そしたら、子供が走って行く音がした後、バチャバチャ、スー、バチャバチャ、スーと音がする。その人がフッと見たら子供が浮いたり沈んだりしている。大慌てで引き上げたのが、私だったというのです。そのとき死んでいたら、私は、今日、ここにはいません。なぜ、その人がそこに備えられていたのか。「偶然だ」と世の中の人は言います。ラッキーと言いますね。しかしそれだけでしょうか。そこに見えない神様の大きな力、御計画があって、そのことが起こっている。そのほかにも、何度かあるのですよ。皆さんもご自分を振り返ってみたら、恐らくいろんな事に出会って、なぜ自分がここに生きているのだろうと思わせられます。
私たちは、自分の計画と思いで、人生を生きているように思いますが、そうではありません。神様が、私たちに一つ一つ事を起こし、業を進めていてくださるのです。今読みましたエレミヤ書29章11節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」。ここに、「わたしがあなたがたに対していだいている計画」とあります。神様が、私たち一人一人に御計画を持っているのだよ、と宣言しています。では、その計画って何? 私の計画書を見せてもらいたいと思いますが、それは分からない。神様の中にあるのです。見たらびっくりするかもしれない。「あなたは、明日交通事故に遭う。その次には……」というプランが、ひょっとしたらあるかもしれない。しかし、ここにあるように「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」と。「わたしが知っている」のであって、私たちには分からない。神様の御手に握られて、生かされ、持ち運ばれているのです。突然のごとく思いも掛けない事件や、事故や、病気や、そういうものに出遭ったとき、その原因をあの人が悪いとか、この人がどうであるとか言います。確かに、自分が注意しておけばよかったと、反省すべきことは沢山あります。それはもちろん反省しますが、だからといって、自分で何もかも決定できるわけではない。また、誰か人が何かをするからでもありません。
だから、交通事故や、大変な事故を起こして、いろんな人に迷惑を掛けて、「私が悪かった」と痛切な反省をします。それは必要なことですし、またそれは是非はっきりとさせなければならないことですが、いつまでもそれにしがみついている方がいる。「私が悪かった。私が悪かった」。何でもかんでも「ごめんなさい、ごめんなさい、私が悪かった」と。いや、それは分かるけれど、じゃ、次にどうするか、ここが大切なのです。私たちは、自分が何もかも責任を持って、自分が責任者だというわけにはいかない。殊に、私たちの人生、生活のすべては、確かに、それぞれ負うべき責任を与えられています。しかし、それは限られた意味の責任です。全体的な責任は、神様にあるのです。だから悔い改めること、反省することは、「私が不注意だった」と認めると同時に、「これらのすべてのことが、実は神様、あなたから出たことを認めます」ということでもあるのです。ここが非常に大切なことです。
自分の不注意によって失敗をします。そして家族に、あるいは周囲の人に迷惑をかけた。それに対しては「ごめんなさい、申し訳なかった」と心からおわびをしますが、いつまでもそれにこだわるのは、神様をそっちのけにすることです。ごう慢ですよ。そこで、悔い改めて「このことも神様、あなたの手にお返しします」と、一切の失敗を神様の支配に委ねるのです。謙遜になることが大切です。確かに失敗して、いろんな迷惑をかけた人に、「ごめんなさい」と伝えて、私たちの心を明らかにします。だからといって、何もかも全部が全部、「私です」と引っ被って、偉そうになること、ごう慢になることは間違いです。失敗し易い自分であることを認めて、こういう者を神様が握って、御計画の中に導かれることがあると、神様の主権を、神様の力を認めて、その方にゆだねること、自分を明け渡していくことです。ですから、この1節に「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」。神様が知っていてくださる。ところが、神様が、私の計画を知っていてくださるのなら、ちゃんとわたしと相談して計画してくれないのか。病気になるのはいいけれども、その「時」があるでしょう、とですね。私の都合のいいときに、これから旅行をしようというのに、今になって病気をさせられると困るから、「わたしに相談してよ」と言いたくなります。しかし、神様は相談なさらない。
ローマ人への手紙11章33節から36節までを朗読。
33節に「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」。私たちは、到底、神様の思いを知ることができない。神様の御計画のすべてを、初めから終わりまでを見極めることができない。神様は大きな知恵と豊かな知識をもって、私たちのために備えておられることがある。神様が、わたしたちの計画を知っていらっしゃる。これを信頼するかどうか。これから、私たちに何が起こってくるか、明日どうなるのか、これから将来どういうことが起こるのか、これは分かりません。分からないけれども大丈夫、神様は私のために備えられたのだと信じるのです。34節に「だれが、主の計画にあずかったか」と問われています。だれが、神様と相談して計画を決めたか、神様があなたの所に来て、「これからあなたのためにこういうことをしようとするけれども、いつがいいね」と、「これはいいかね、もう少しあとにしようか」と、そんなことを神様は、だれにも相談することはなさらない。しかし、神様は、私たち一人一人に、計画をもって臨んでくださっている。だから、36節に「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」。神様の独壇場といいますか、何でも神様がやってくださるのでは、何をされるか分からんなぁと疑います。神様に対する信頼ができないのは、神様はわたしにどういうことをするのだろうか、私の嫌なことをするんじゃないだろうか、私の願わないことをするんじゃないだろうか、私が喜ばないようなことをするんじゃないだろうか、どうも神様は、私に意地悪なことをするんじゃないかという疑いを持ち易い。これは、私たちが神様に敵対する思いを持っているからです。これは罪の結果でもあります。罪があると、神様に対して不信感を持つ。聖書にあるとおり、神様がすべてのものを御支配くださって、御計画を備えてくださる。「分かった。それは分かったけれども、その計画はわたしに対して、良いことなのだろうか。ひょっとしてわたしに敵意を持っているのじゃないだろうか」と思うでしょう。ひょっとしたら、今までわたしは、「神様にあんな不都合もした、こんなこともした。こんな悪いこともした。神様をのろったこともあった。どうも神様は、あれを根に持っていやしないか。ひょっとしたら、神様は、私に罰を与えるのではないだろうか」。これが、日本人が持っている罪の意識です。どこかに神様に信頼できないものがある。それは神様に背いたという自責の念があるのです。生まれたときから今まで、天地神明に誓って「どこにも指さされるようなことはありません」と言える人はいません。考えてみると、「あれは、ひょっとしたら、これがひょっとしたら……」と後ろめたいものを感じる。だから、神様が、「あなたのためにわたしは計画を用意しているよ」と言われても、「それはいいはずがない」と思うのです。これは、私たちの罪のなせる結果です。
夫婦でもそうですよ。結婚したての頃を考えて御覧なさい。愛し合っているとき、ご主人が言うことは、何でも良く思われた。奥さんが言うことは優しいことばっかりだった。ところが、長年の生活の中で、小さな不真実の積み重ねによって、相手を信頼できなくなる。どうもあの人は私を嫌っとるみたい、私は、あの人から疎んじられとるみたいという人間関係の根っ子に不信感があると、優しい言葉も、裏を読む。素直になれない。私たちの心にはそういうところがある。神様に対してもそうなのです。神様が、「わたしがあなたがたに対して計画を持っているよ」とおっしゃった。「ああ、うれしい」と言えない。「ん!ちょっと待てよ」と。どんな計画かしら? ちゃんと内容を調べないと、と思ってしまう。ご主人が「おれについて来い」と言うと、「あなたについて行ったら何されるか分からん」と思っている。それはご主人に対して不信感を持っている。だから神様は、ひとり子をこの世に遣わしてくださった。「わたしはこんなに愛しているではないか」と、愛の証詞をたてているのです。神様の愛を受け入れなければ、神様の御計画に身をゆだねられない。だから、神様がどんなに大きな愛をもって顧みてくださったか、愛してくださっているかを知りたい。しかし私のために御計画を持っていることに疑いを挟む必要がない。「そんなにまで愛してくださる神様が、私のために備えてくださる計画で、良からぬはずがない」。そうでしょう。
ですから、ローマ人への手紙8章31,32節を朗読。
これは私たちに対する約束であり、励ましです。31節に「もし、神がわたしたちの味方であるなら」。神様が、わたしたちの味方となっているではないかと言われるのです。ここの「もし……であるならば……し得ようか」と、これは、修辞法で強い肯定を表す「味方なのですから、誰も敵するものはいない!」と言いたいのを、こう言い方でしている。神様が、わたしたちの味方となっている。これを信じるかどうか。神様が、私に敵対しているような、私のしたことをとがめているような、過去にああしたこと、こうしたことのために、神様は、罰を与えようとしているのではないかと、疑う心があるならば、神様を味方とすることができません。その結果、神様が、私にいちばん良いことをしてくださると、信じられないのです。だから、「もし、神がわたしたちの味方であるなら」、いや、「味方であるなら」どころではない、実は味方となっていらっしゃる、私たちの側に立っていてくださる方が、私たちを守り、支え、導いてくださるのですから、何が私たちを損なうことがあるでしょうか。神様が守ってくださるのに、どうして、打ち倒されて滅びることがあるでしょうか。その後32節にありますように「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。私たち罪人のために、その罪のために、ひとり子を世に遣わして、あなたをこんなに愛していると証詞してくださった。そんなにまで、愛してくださる神様が意地悪なことをするでしょうか。私たちに、悲しみ、嘆き、そして滅びていく道を与えようとするでしょうか。
イエス様は、「人の子ですら、パンを求める子供に、石や蛇を与えることがあろうか」とおっしゃる。人の親ですらも、子供が求めてくれば、無けなしの財布をはたいてでも、何とかして応えようとするじゃないか。ましてや、父なる神様が、あなたがたの求めてくるものを、応えないことがあろうか。神様の御計画がひょっとしたら、私に悪いことをするのではないかと疑って、神様を信頼できないでいるならば、これほど悲しいことはないでしょう。神様がどんなに大きな愛をもって、私たちのために、御計画を備えているか、しっかりと心に受け止めて感謝したいと思います。
ですから、エレミヤ書29章1節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」。「だから安心しなさい」と言うのです。もうあなたは思い煩わなくていい。明日のことを思い煩う必要はない。「来年のこと、将来のこと、老後のこと、死んでから先のこと、もう何もかも、神様は御計画の中にちゃんと握っているよ」と言われる。そして、「それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり」、災いを与えるためではない。むしろ、私たちに将来を与え、希望を与えてくださる。神様に私たちが信頼して、一つ一つ与えられたところで、「これは主がわたしに与えられた道です。これは神様が備えられた事柄です」と感謝して受ける時、そこに将来が開けてきて、希望を見出すことができます。
だから、ローマ人への手紙5章にありますね。「3患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。神様の愛が注がれているとき、言い換えますと、「神がわたしたちの味方であるなら」、「ひとり子を惜しまないで死に渡された御方」の愛に、私たちの心が絶えず留まっていますならば、どんなことが起こっても、自分が思ったことと違うことが起こっても、「主は愛です」、「神は愛です」と、感謝して受けることができます。神様が備えてくださったことを感謝して受けるとき、捨てるべきものはない。「凡てのこと相働きて益となるを、我らは知る」。すべてのことを良きに取り計らう。なぜならば、神様の御目的は、「神様、あなたがこんなに素晴しいことをしてくださいました」と言わせたいのです。だから、皆さん、心配は要りません。わたしたちが「神様、こんな酷いことをする、私はもう嘆いて苦しんで、悲憤慷慨のなかで死んでしまう」。そんなことを、許す御方ではない。何としても最後の最後まで、死ぬ間際にあろうとも、「神様、すべてはあなたの恵みでした」と言わせようとして、私たちをこの地上に置いてくださっている。私たちは、主の心を、思いをしっかりと受け止めて感謝したいと思います。
エレミヤ書29章11節の後半にありますように「平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。今、問題がありますか、逃げ出したいような事柄がありますか。だったらそこで、「これこそ神様が、愛するが故に、備えてくださった道筋、与えられた、備えられた事柄です」と、感謝して、謙遜になって、主の御手に自分をゆだねようではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
今朝は1節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。
私どもは、日々の生活で必ず計画を立て、予定を立てます。朝起きると直ぐに、今日は一日何をしようか、あれこれと考えます。そして、ああして、こうしてという、一つ一つのプランを自分なりに組み立て、一日を過ごします。今日は何もすることがない、暇で仕方がないという人でも、何かの計画を持っています。何もする事はないけれども、取りあえずはあれをしとこう、次はこれをしよう。今日はすることがないから、好きなビデオでも見て、その後はおいしいものを食べて、お風呂に入って、野球を見てなどと、「一日何もしない」と言いながらも、それなりに自分の計画を持っています。これは幸いといえば、幸いですが、また厄介です。というのは、自分で決めるものだから、そうならないと不安を覚えます。自分が思ったとおりにいかないと、うろたえたり、慌てたり、驚いたりする。しかし、自分が計画し、考えてやっていると思うこと自体が大きな問題です。
「神様を信じる」という言葉の意味、その内容をよく考えてみると、神様を信じることは、取りも直さず、私たちが神様によって創られてここに在ること、存在していることを認めることです。 聖書では、「神を信じなさい」と繰り返し勧められます。「神様を信じる」と言葉で言うと、それで分かったような気になるのですが、神を信じるとは具体的にどうすることなのか、いろいろと思い巡らすとき、「自分が神様によって創られた者である」と認めることにつきるのです。ほかにもいろいろな表現方法、捉え方、理解の仕方がありますが、先ず一つはそれです。というのは、聖書のいちばん最初の創世記1章1節に「元初(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」と記されています。神様がいらっしゃって、その後、混沌とした中から、すべてのものが創り出されてきたとある。「神様を信じる」というときは、いちばん最初にこの事を信じなければ、神様を信じたとは言えない。
同志社大学の創始者である新島襄という方は、旧約聖書のいちばん最初のこの言葉で、クリスチャンになったと言われています。日本の伝統的な宗教、神道であるとか仏教とかの感化を受けていたと思いますが、聖書に初めて出会い、創世記の1章1節、「元初(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」を読んだときに、新島先生は、一瞬にして天から霊が注がれたというのでしょうか、「ハッ」と発見したのです。「そうなのか。神様がいらっしゃるから、全てものがここに存在しているのだ。神様がいなかったら、何も有り得なかったのだ」と。そこで初めて「唯一絶対の神」がいらっしゃると信じたのです。まさに、そこがいちばん大切な根本の問題だろうと思います。神様を信じるとき、私の外側に、まるで花が置いてあるように、神様がいて、私はこっちにいるという信じ方ではなく、どういう訳か分からないけれども、この地上に、この日この時、命が与えられて存在していること自体が、誰の計画によるのでもなく、実は神様の御計画によるもの、神様がいらっしゃって初めて成り立っていることを認める、これが信仰の基本であり、また出発点です。
朝起きて元気で「今日一日何をしようか」と思うとき、私が頑張って努力して存在しているのではなくて、神様が、今日も私をここに置いてくださった。私が生きているのではなく、神様に生かされた者だと素直に認めることが、すべての始まりです。そこでいつもぶつかるのが、自分の計画や思いです。今日一日あれをしてこれをして、あるいは自分の人生はこういう人生で、こういう将来をと考える。しかし、そもそも私たちの存在自体が、私の力によったのではない。自分の計画と自分のスケジュールによって、この親に、この日に、この時に生まれてこようと決めた人は誰もいません。今日こうしてこの国に、この時に生きているのが、まことに不思議としか言いようがない。しかし、これをあまり不思議とは考えません。当たり前じゃないかと思います。よくよく考えてみれば、これほどの奇跡、不思議はありません。生まれても死亡率が高くて、生き残る人が少なかった時代には、生きることが、貴重だと実感できたのですが、今は科学や医学も進歩して、生まれたら、その人生を曲がりなりにもたどって寿命がつきるのを当然のことと考えやすい。しかし、実は、そうではありません。神様がいらっしゃって、神様の許しがあり、神様の御計画の中にあって、今日私たちはこの地上にある。そして今に至るまで、生かされてきたことを……、殊に年配の皆さんは、身にしみて感じていると思います。「よくもこんな年になるまで生きたものだなぁ」と。
家族の方から頼まれて、一人の兄弟に、聖書のお話をしたことがあります。初めはなかなか信じようとしなかったのです。なぜ信じなかったかというと、「自分が今、今日ここに生きているのは、先祖のおかげであって、神様のおかげとは思えない」という意見でした。「自分は先祖のおかげによって、今日ここにいる」と感謝していました。だから先祖を大切にする。それによって生きていると信じていました。その方に、神様を信じるように導くのは、難しいと思いました。人が説得して、その心を変えさせることはできません。私は祈りながら、神様に導かれるところでお話をしました。そのうちに、自分の人生を振り返って話し出しました。80歳を越えていましたが、その波乱に満ちた生涯を振り返っているうちに「ハッ!」と気が付いたのです。それまでは、先祖が自分を守ってくれている、先祖の霊が、守護霊というか、自分を守って、戦中、戦後の混乱の中を支えてくれたと思った。しかし、先祖じゃなくて、もっと大きな宇宙を支配している神様が守ってくださったのだ。「聖書に書いてあるとおり、神様がいらっしゃって、わたしは今ここにある」と悟ったのです。その方は、記憶を辿ってみると、小学生のころ、夕暮れになると近くの小高い丘の上に登って空を眺めるのが好きだった。日が段々と沈んで、西の空が夕焼けから薄暗くなるにつれて、ポツポツポツと星が光り始める。自分はその光景を見るのが好きだった。ロマンチックな方です。それを見ていると、何か知らないけれど、自分が言いようのない、大きな力が全てのものを支配している、覆っているな、と感じて、心が震えたことがあった。それを神様と言えなかったが、何か不思議な力に満たされていた、と思い出した。
そして、「実は、そのとき、既に神様が、私を捉(とら)えていてくださって、私に近づいておられたのですね」と。それから一気に、その兄弟は「神様がいらっしゃること、そして神様の手によって、今日ここまで命を長らえることができた。それは神様の御計画があったからだ」と、はっきり信じることができたのです。その時にも彼が言いましたが、「自分はもう80歳を越えてきたが、この間に同年の者たちは、戦争にとられたり、事故や病気やさまざまなことで次々と亡くなりました。今振り返ってみると、生き残っているものが本当に僅かになってきた。それなのに私だけが、こうして生きていることは、どういう訳だろうか」と、常々頭にありましたが、それがただ先祖のおかげだ、という具合にしか考えなかった。実は、そうではなくて、「元初(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」、一切のものの根源である神様がいて、この小さな取るに足らない者に命を与えて導いてくださったと、信仰を持つようになられたのです。私はこのことを思うときに、信仰の根源は、自分の存在、私という者がどうしてここにあるか? その不思議さを通して、初めて神様に出会うのだと思います。人生を生きていく間に何度か、もうこれで自分は終わりかな、もうこれで自分の人生はお終りになるな、と思う時期を通ります。しかし、それを乗り越えて、どうして今日ここに生きているのだろうか。その理由は、私たちの中にはありません。私が努力したから、一生懸命に、あの時頑張ったから、生き長らえることができたというのではなく、神様が不思議な力によって、絶えず導いてくださっているからです。
私自身もそうなのです。60年くらい前ですが、戦後、母の郷里である長崎の五島列島に疎開をしました。1年半くらい滞在したと思いますが、昭和20年の後半から21年に掛けてだと思いますが、私はまだ3才か4才足らずです。母と子供たちだけだったのです。父は礼拝や集会の御用がありますから、八幡に残っていました。そのときに、私は原因不明の高熱を出したそうです。夏だったので、庭で作ったトマトを切って、「さぁ、食べなさい」と言ったときに、私が「どこにトマトがあるの? 」と言ったそうです。「目の前にあるじゃないの」、「見えない」と言った。それで母がびっくりして、額に手を当ててみたら大変な熱でした。とりあえず、熱を測ったら40度を越えていた。ところが、戦後ですから医者がいない。居ても薬がない。とにかく、お医者さんを呼んで調べてもらったら、原因不明だというのです。しかも3日も4日もズーッと熱が続く。とうとう、うわごとを言い出した。私はもちろん覚えていませんが、後で聞いた話です。母はもうこれは死ぬ、と思ったそうです。母が考えたのは、郷里は仏教の盛んな所で、母方の祖母はお寺の出身ですから、もしここで和義が死んだら、仏教で葬式をされるから、これは困った。「死ぬのだったら、何とか八幡で、キリスト教で、葬儀ができる所で死んで欲しい」と思ったという。治ることよりも死んだ後のことを考えたと言うのです。でも、とにかく母が独りで祈った。そのころ、電話はありませんから、今のように速く連絡のしようがない。とにかく急いで葉書を出し、電報を打って、父に祈るように頼んだ。4日くらい経ったときに、急速に熱が引いてきたのです。両親がよく思い出話に語ったのは、あの時に死んでいたらという、余程、死を覚悟したのでしょう。私は、「よくその時に死ななかったなぁ」と思います。それもやはり神様が、何か大きな御計画があって、そのことを起こし、そこから祈りに応えて、もう一度わたしに命を与えてくださったのです。今でも、自分がこの年になるまで生きていることが、不思議だと言う以外にありません。
また、その後もそうです。それからも、死にかけたことが何度かあります。小学校の3年か4年くらいだったと思います。やはり夏休みで母の郷里に行ったのです。そこは漁村ですから、港に漁師の船が沢山つないである。今でも思い出しますが、午後の2時半か3時ころ、村中がシーンと静まり、暑い日でしたから人も出ていない。ところが私と兄は、都会から来たので嬉しくて遊んでいた。目の前に小型の漁船がつないでいたので、その船の上を乗って跳び回っていたのです。そしたら、私はドボンと海に落ちてしまった。そこから母の実家がある所までは、100メートルばかり離れている。私は泳げませんから落ちるなり、ブクブクッと沈んでいったのです。で、また上がってきたり沈んだり、ブクブクとやっているわけです。兄がいて、「ああ、大変!和ちゃんが溺れた」と、近くの人に言えばいいのですが、家に飛んで帰る。その間、浮いたり沈んだりしている。丁度、イカ釣り船があって、イカ釣りから帰った人が網を繕っていました。そしたら、子供が走って行く音がした後、バチャバチャ、スー、バチャバチャ、スーと音がする。その人がフッと見たら子供が浮いたり沈んだりしている。大慌てで引き上げたのが、私だったというのです。そのとき死んでいたら、私は、今日、ここにはいません。なぜ、その人がそこに備えられていたのか。「偶然だ」と世の中の人は言います。ラッキーと言いますね。しかしそれだけでしょうか。そこに見えない神様の大きな力、御計画があって、そのことが起こっている。そのほかにも、何度かあるのですよ。皆さんもご自分を振り返ってみたら、恐らくいろんな事に出会って、なぜ自分がここに生きているのだろうと思わせられます。
私たちは、自分の計画と思いで、人生を生きているように思いますが、そうではありません。神様が、私たちに一つ一つ事を起こし、業を進めていてくださるのです。今読みましたエレミヤ書29章11節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」。ここに、「わたしがあなたがたに対していだいている計画」とあります。神様が、私たち一人一人に御計画を持っているのだよ、と宣言しています。では、その計画って何? 私の計画書を見せてもらいたいと思いますが、それは分からない。神様の中にあるのです。見たらびっくりするかもしれない。「あなたは、明日交通事故に遭う。その次には……」というプランが、ひょっとしたらあるかもしれない。しかし、ここにあるように「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」と。「わたしが知っている」のであって、私たちには分からない。神様の御手に握られて、生かされ、持ち運ばれているのです。突然のごとく思いも掛けない事件や、事故や、病気や、そういうものに出遭ったとき、その原因をあの人が悪いとか、この人がどうであるとか言います。確かに、自分が注意しておけばよかったと、反省すべきことは沢山あります。それはもちろん反省しますが、だからといって、自分で何もかも決定できるわけではない。また、誰か人が何かをするからでもありません。
だから、交通事故や、大変な事故を起こして、いろんな人に迷惑を掛けて、「私が悪かった」と痛切な反省をします。それは必要なことですし、またそれは是非はっきりとさせなければならないことですが、いつまでもそれにしがみついている方がいる。「私が悪かった。私が悪かった」。何でもかんでも「ごめんなさい、ごめんなさい、私が悪かった」と。いや、それは分かるけれど、じゃ、次にどうするか、ここが大切なのです。私たちは、自分が何もかも責任を持って、自分が責任者だというわけにはいかない。殊に、私たちの人生、生活のすべては、確かに、それぞれ負うべき責任を与えられています。しかし、それは限られた意味の責任です。全体的な責任は、神様にあるのです。だから悔い改めること、反省することは、「私が不注意だった」と認めると同時に、「これらのすべてのことが、実は神様、あなたから出たことを認めます」ということでもあるのです。ここが非常に大切なことです。
自分の不注意によって失敗をします。そして家族に、あるいは周囲の人に迷惑をかけた。それに対しては「ごめんなさい、申し訳なかった」と心からおわびをしますが、いつまでもそれにこだわるのは、神様をそっちのけにすることです。ごう慢ですよ。そこで、悔い改めて「このことも神様、あなたの手にお返しします」と、一切の失敗を神様の支配に委ねるのです。謙遜になることが大切です。確かに失敗して、いろんな迷惑をかけた人に、「ごめんなさい」と伝えて、私たちの心を明らかにします。だからといって、何もかも全部が全部、「私です」と引っ被って、偉そうになること、ごう慢になることは間違いです。失敗し易い自分であることを認めて、こういう者を神様が握って、御計画の中に導かれることがあると、神様の主権を、神様の力を認めて、その方にゆだねること、自分を明け渡していくことです。ですから、この1節に「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」。神様が知っていてくださる。ところが、神様が、私の計画を知っていてくださるのなら、ちゃんとわたしと相談して計画してくれないのか。病気になるのはいいけれども、その「時」があるでしょう、とですね。私の都合のいいときに、これから旅行をしようというのに、今になって病気をさせられると困るから、「わたしに相談してよ」と言いたくなります。しかし、神様は相談なさらない。
ローマ人への手紙11章33節から36節までを朗読。
33節に「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」。私たちは、到底、神様の思いを知ることができない。神様の御計画のすべてを、初めから終わりまでを見極めることができない。神様は大きな知恵と豊かな知識をもって、私たちのために備えておられることがある。神様が、わたしたちの計画を知っていらっしゃる。これを信頼するかどうか。これから、私たちに何が起こってくるか、明日どうなるのか、これから将来どういうことが起こるのか、これは分かりません。分からないけれども大丈夫、神様は私のために備えられたのだと信じるのです。34節に「だれが、主の計画にあずかったか」と問われています。だれが、神様と相談して計画を決めたか、神様があなたの所に来て、「これからあなたのためにこういうことをしようとするけれども、いつがいいね」と、「これはいいかね、もう少しあとにしようか」と、そんなことを神様は、だれにも相談することはなさらない。しかし、神様は、私たち一人一人に、計画をもって臨んでくださっている。だから、36節に「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」。神様の独壇場といいますか、何でも神様がやってくださるのでは、何をされるか分からんなぁと疑います。神様に対する信頼ができないのは、神様はわたしにどういうことをするのだろうか、私の嫌なことをするんじゃないだろうか、私の願わないことをするんじゃないだろうか、私が喜ばないようなことをするんじゃないだろうか、どうも神様は、私に意地悪なことをするんじゃないかという疑いを持ち易い。これは、私たちが神様に敵対する思いを持っているからです。これは罪の結果でもあります。罪があると、神様に対して不信感を持つ。聖書にあるとおり、神様がすべてのものを御支配くださって、御計画を備えてくださる。「分かった。それは分かったけれども、その計画はわたしに対して、良いことなのだろうか。ひょっとしてわたしに敵意を持っているのじゃないだろうか」と思うでしょう。ひょっとしたら、今までわたしは、「神様にあんな不都合もした、こんなこともした。こんな悪いこともした。神様をのろったこともあった。どうも神様は、あれを根に持っていやしないか。ひょっとしたら、神様は、私に罰を与えるのではないだろうか」。これが、日本人が持っている罪の意識です。どこかに神様に信頼できないものがある。それは神様に背いたという自責の念があるのです。生まれたときから今まで、天地神明に誓って「どこにも指さされるようなことはありません」と言える人はいません。考えてみると、「あれは、ひょっとしたら、これがひょっとしたら……」と後ろめたいものを感じる。だから、神様が、「あなたのためにわたしは計画を用意しているよ」と言われても、「それはいいはずがない」と思うのです。これは、私たちの罪のなせる結果です。
夫婦でもそうですよ。結婚したての頃を考えて御覧なさい。愛し合っているとき、ご主人が言うことは、何でも良く思われた。奥さんが言うことは優しいことばっかりだった。ところが、長年の生活の中で、小さな不真実の積み重ねによって、相手を信頼できなくなる。どうもあの人は私を嫌っとるみたい、私は、あの人から疎んじられとるみたいという人間関係の根っ子に不信感があると、優しい言葉も、裏を読む。素直になれない。私たちの心にはそういうところがある。神様に対してもそうなのです。神様が、「わたしがあなたがたに対して計画を持っているよ」とおっしゃった。「ああ、うれしい」と言えない。「ん!ちょっと待てよ」と。どんな計画かしら? ちゃんと内容を調べないと、と思ってしまう。ご主人が「おれについて来い」と言うと、「あなたについて行ったら何されるか分からん」と思っている。それはご主人に対して不信感を持っている。だから神様は、ひとり子をこの世に遣わしてくださった。「わたしはこんなに愛しているではないか」と、愛の証詞をたてているのです。神様の愛を受け入れなければ、神様の御計画に身をゆだねられない。だから、神様がどんなに大きな愛をもって顧みてくださったか、愛してくださっているかを知りたい。しかし私のために御計画を持っていることに疑いを挟む必要がない。「そんなにまで愛してくださる神様が、私のために備えてくださる計画で、良からぬはずがない」。そうでしょう。
ですから、ローマ人への手紙8章31,32節を朗読。
これは私たちに対する約束であり、励ましです。31節に「もし、神がわたしたちの味方であるなら」。神様が、わたしたちの味方となっているではないかと言われるのです。ここの「もし……であるならば……し得ようか」と、これは、修辞法で強い肯定を表す「味方なのですから、誰も敵するものはいない!」と言いたいのを、こう言い方でしている。神様が、わたしたちの味方となっている。これを信じるかどうか。神様が、私に敵対しているような、私のしたことをとがめているような、過去にああしたこと、こうしたことのために、神様は、罰を与えようとしているのではないかと、疑う心があるならば、神様を味方とすることができません。その結果、神様が、私にいちばん良いことをしてくださると、信じられないのです。だから、「もし、神がわたしたちの味方であるなら」、いや、「味方であるなら」どころではない、実は味方となっていらっしゃる、私たちの側に立っていてくださる方が、私たちを守り、支え、導いてくださるのですから、何が私たちを損なうことがあるでしょうか。神様が守ってくださるのに、どうして、打ち倒されて滅びることがあるでしょうか。その後32節にありますように「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。私たち罪人のために、その罪のために、ひとり子を世に遣わして、あなたをこんなに愛していると証詞してくださった。そんなにまで、愛してくださる神様が意地悪なことをするでしょうか。私たちに、悲しみ、嘆き、そして滅びていく道を与えようとするでしょうか。
イエス様は、「人の子ですら、パンを求める子供に、石や蛇を与えることがあろうか」とおっしゃる。人の親ですらも、子供が求めてくれば、無けなしの財布をはたいてでも、何とかして応えようとするじゃないか。ましてや、父なる神様が、あなたがたの求めてくるものを、応えないことがあろうか。神様の御計画がひょっとしたら、私に悪いことをするのではないかと疑って、神様を信頼できないでいるならば、これほど悲しいことはないでしょう。神様がどんなに大きな愛をもって、私たちのために、御計画を備えているか、しっかりと心に受け止めて感謝したいと思います。
ですから、エレミヤ書29章1節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」。「だから安心しなさい」と言うのです。もうあなたは思い煩わなくていい。明日のことを思い煩う必要はない。「来年のこと、将来のこと、老後のこと、死んでから先のこと、もう何もかも、神様は御計画の中にちゃんと握っているよ」と言われる。そして、「それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり」、災いを与えるためではない。むしろ、私たちに将来を与え、希望を与えてくださる。神様に私たちが信頼して、一つ一つ与えられたところで、「これは主がわたしに与えられた道です。これは神様が備えられた事柄です」と感謝して受ける時、そこに将来が開けてきて、希望を見出すことができます。
だから、ローマ人への手紙5章にありますね。「3患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。神様の愛が注がれているとき、言い換えますと、「神がわたしたちの味方であるなら」、「ひとり子を惜しまないで死に渡された御方」の愛に、私たちの心が絶えず留まっていますならば、どんなことが起こっても、自分が思ったことと違うことが起こっても、「主は愛です」、「神は愛です」と、感謝して受けることができます。神様が備えてくださったことを感謝して受けるとき、捨てるべきものはない。「凡てのこと相働きて益となるを、我らは知る」。すべてのことを良きに取り計らう。なぜならば、神様の御目的は、「神様、あなたがこんなに素晴しいことをしてくださいました」と言わせたいのです。だから、皆さん、心配は要りません。わたしたちが「神様、こんな酷いことをする、私はもう嘆いて苦しんで、悲憤慷慨のなかで死んでしまう」。そんなことを、許す御方ではない。何としても最後の最後まで、死ぬ間際にあろうとも、「神様、すべてはあなたの恵みでした」と言わせようとして、私たちをこの地上に置いてくださっている。私たちは、主の心を、思いをしっかりと受け止めて感謝したいと思います。
エレミヤ書29章11節の後半にありますように「平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」。今、問題がありますか、逃げ出したいような事柄がありますか。だったらそこで、「これこそ神様が、愛するが故に、備えてくださった道筋、与えられた、備えられた事柄です」と、感謝して、謙遜になって、主の御手に自分をゆだねようではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。