ヨハネによる福音書 3章16節~21節
16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
これは、繰り返し、聞き、読み、また覚えている御言葉ではないかと思います。ある人に言わせるならば、もし聖書にこの言葉がなかったら、聖書の意味がないとまで言い切る方もおられるほどです。この言葉は、本当に福音、良きおとずれです。ここで、神様は私たちを愛して下さっておられることを語っています。世の中に、多くの神々がいると言われていますが、人間を愛した神様はまずありません。勿論、愛をうたう神様は、ヒンズー教であるとか、あるいはインドあたりの神様、人間の愛を称える、ギリシャの神々にも見ることができます。アフロデティという愛の女神とか、そういう話しがあります。しかし、聖書で言う神様の愛は、人間的な意味で優しいとか、親切であるとか、男女関係の愛であるとか、親子の愛であるとか、そういう次元の愛とはたいへん違っています。神様が私たちを愛して下さるその愛は、目に見える形、あるいは快楽や欲望を満たしてくれるものとしての愛ではありません。神様の愛の特徴は、「捨てること」です。
一方、人間的な愛は捨てないのです。「受ける」愛なのです。かつて、有島武郎という小説家がいました。彼が書いた小説に『愛は惜しみなく奪う』というのがあります。愛は要求する。相手に求めるというのが、人間的な愛です。あの人からあれをして貰った、この人からこれをして貰った、この人からこんな風に…と。だから、わたしは愛されていると思う。言うならば、受けるばかりです。して貰うこと、何か相手から貰うこと、これが愛だと考える。これは世間で言うところの愛です。だから、男女が愛し合う、ラブストリーみたいなテレビドラマがありますが、相手に対して要求する。それが満たされた時が愛の頂点。ところが段々と満たされなくなってくると破局になる。これはもう、決まったパターンですね。
ところが神様が私たちに現して下さった愛は、一方的に与える愛なのです。これは全く方向が違います。このことを取り違えないでいただきたい。そうしませんと、マラキ書にありますように、神様は私たちを愛して下さったというけれども、その愛はどこにあるのだと言うことになります。神様が愛であるなら、なぜこんな悲惨な事件や事柄が起こるのだと、多くの人が考えます。それは、満たされることが愛であると思っているからです。この16節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。その愛は「ひとり子を賜わったほどに」と。以前、わたしはこの「ひとり子を賜わったほどに」と言う言葉は、愛の深さを表わすレベル、一つの尺度として、「これほどに」という意味で理解していました。そういう意味合いがあることも確かですが、もう一つは、「ひとり子を賜わるほどの愛」。それは深さとか大きさとかいうスケール、規模を表わすと同時に、愛の内実、性質を表わした言葉であろうと思います。「ひとり子を賜わったほどに」、言い換えると、神様が大変大きな犠牲を払うということです。自分の愛している子供を惜しまないで捨て去る、このこと自体が愛なのだと、語っている。私たちは愛を考える時、やはり受けることを考える。あるいは与えるにしても見返りを期待する。ある意味では双方向的、やり取りをする形での愛というものを考える。ところが、神様の私たちに対する愛は一方的です。私たちから何かを求めるわけではない。私たちに対して神様が与えて下さった愛です。その与えて下さったものは、「ひとり子」です。そのひとり子は、神様にとってかけがえのない、命のようなものです。言い換えると、命を捨てて下さった、そこに愛があるのです。
イエス様が私たちのために命を捨てて下さったと言いますが、それは取りも直さず、天地万物の創造者でいらっしゃる神様が命を捨てて下さったことなのです。イエス様が十字架におかかりになって命を捨てて下さった時、神様も死んで下さったのです。それほどに私たちのことを愛しておられる。それがこの16節「ひとり子を賜わったほどに」という言葉の深さ、意味するところです。神様は私たちにひとり子を賜わる愛を与えて下さった。命を、かけがえのないものを、私たちに注いで下さった。そのこと自体が愛なのです。愛という物体があって、その大きさを表わすために、比喩としてひとり子を持ち出してきたのではありません。神様がひとり子を与えること自体が愛なのです。
ですからもう一つ読んでおきたいと思いますが、ヨハネの第一の手紙4章7節~12節
この御言葉もまた私たちがよく教えられる御言葉の一つですが、この10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」とあります。今申し上げたように「ひとり子を賜わったほどに」、ここに神様の愛の姿があるのです。ひとり子を賜わるというのは、どこに賜わったかというと、ここにありますように「罪のためにあがないの供え物として」、罪人であって神様の恵みを受ける資格のなかった私たちのために、あがないの供え物としてひとり子を敢えて送り出して下さる、そこに神様の愛があるのです。そしてその愛によって、私たちを生きる者として下さった。
9節に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」。イエス様によって、私たちが新しい命に生きるようになる。イエス様が命を捨てて下さったのは、その命を私たちの内に注いで下さるためなのです。神様が私たちの内に命を与えて下さる、これが罪の贖いの供え物となって下さったイエス様の御目的です。かつて、私たちは神様を離れて罪を犯し、敵対して、恵みを受けることができない、神様の祝福がない悲惨な生活の中に置かれていました。ところが、まだ神様を知らなかった私たちに対して、ローマ人への手紙の5章にあるように、「敵対していた時」、「不信心な者」であった時、何にも知らなかった時に、既に神様は私たちのためにひとり子を世に遣わして下さった。それは罪と咎に死んでいた私たちを、今度は新しい命に生きるようにするためなのです。
今、私たちはイエス様を信じて、新しい生涯に変えられて、生きる者となりました。神様の愛は私たちに命を与えて下さる愛なのです。しかもその命は、他所から持って来る命ではなくて、神様ご自身を私たちの内に注いで下さった。これが神様からの愛です。神様の愛が何であるかを知って、確信を持ってください。私たちは神様の愛を受け、命を戴かなければ、死んだ者であったのです。エペソ人への手紙にありますように、私たちは生まれながらに怒りの子、神様からの怒りを受け、亡ぼされるべき者であった。罪と咎に死んでいた私たち、そういう私たちをもう一度生きることができるように、ひとり子をこの世に遣わして下さった。神様が私たちを愛して下さったが故に、私たちは生かされているのです。
私は近頃そのことを深く深く味わされます。と言いますのは、今私たちの住んでいる世の中が、どんどんと悲惨な破局に向かっている様子を呈しています。日本の社会が、様々な犯罪、凶悪な事件や、事柄に覆われてきました。この一年、新聞紙上をにぎわした事件や事柄を考えてみて下さい。福岡県での殺人や強盗やいろんな犯罪と言われるものの数は、恐らく史上最高ではないかと思われます。また、全国的に見てもそうですね。次から次へといろんな問題や事件が起こってきます。聖書には、世の終わりの時は愛が冷えて、全てのものが相対立して争うことになると書いてある。最近の奈良の女児誘拐殺人事件もそうですし、あるいは水戸の方で起こった親を鉄アレイで殴り殺した事件もそうですし、佐世保で起こった小学生が小学生を殺す事件もそうです。私はそれを見ていると、戦後の混乱の中、物が不足して一日一日を必死に生きていた時代、その時代の方がはるかに良かった。こんな問題が起こってくるとは想像することもできませんでした。また、次から次へと天災と言われる災害も、地震もあります、台風の被害もあります。
また、世界的に見ると戦争は絶えません。ことに最近のイスラムと西洋世界との対立の様子を見ていますと、これはいよいよ悪くなるなという予感がひしひしとします。イラク問題は泥沼化するでしょう。表面的には落ち着くか知れませんが、テロリストたちは広がっていくでしょうし、テロが頻発し、日常茶飯事になってくると思います。
こういう時代の中にあって、生きることは、生活状態とか、社会状況とか、政治であるとか、あるいは経済であるとか、そういうものが整ったから、人が生きるものでないことをしみじみと思います。そこは神なき世界といいますか、これが人間のすることかと思うような…、逆に言うと、人間だからそうするんだとしか言いようがありません。神様を恐れなくなった、神様を離れてしまった多くの人の心が死んだ状態だから、罪と咎とに死んでいるが故に、生きることができなくなってしまった。これは正に目の前に見ている神なき罪の世界の姿です。私たちも例外ではなかったのです。同じ罪と咎とに死んで、悲惨な、そういう状況の中に生きなければならなかったのですが、今こうして平穏に一日を過ごすことができるのは、奇跡です。自分を守るために何かをしているわけではないけれども、今日も天変地変にも遭わない、人災と言いますか、犯罪にも巻き込まれない、あるいはいろんな事故から守られて、一日を過ごすことができるのは、ただイエス様の十字架の恵みにより、神様の一方的な憐れみの中に置かれているからです。
今お読みいたしましたように、9節以下に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」。イエス様を信じて初めて、人は生きるものと変えられる。生きるというのは、ただどこにも病気がなく肉体が健康であるとか、生活が保たれているから生きているのではありません。そう考える限り、世の中の悲惨な結果が常についてきます。そのことだけが生きる事だと思っているから、争いがあり、憎しみがあり、対立があるのです。しかし、生きることは、肉体が生きるのではなくて、キリストによって、神様の御愛に励まされ、導かれ、支えられて、神様のものとなりきって生きること、これが私たちの新しい命なのです。イエス様が私たちの命となって、私たちの内に宿り、神様が私たちと共にいて下さるということを信じて、感謝して生きる者と変えられる。これがイエス様によって、生きることです。
もう一度初めのヨハネの手紙3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。
「この世」とは、私たち一人一人のことです。先だって、高校生にお話をさせていただいた時に、このお言葉で「この世を愛して下さったというのは、あなたのことであり、私たち一人一人のことですよ」と話したのです。後で感想文を書いてくれた中に、「今までこのお話は聞いてはいたけれど、この世が私のことだとは、初めて教えられて嬉しい」という感想を書いてくれて、「なるほど、この世というのは世間一般であって、私とは関係がない」と思っていたのかなと、思いました。
私たち一人一人に、ひとり子を賜わった愛を注いで下さる。ひとり子を与えて下さった神様の愛によって、生かされて生きる。自分の力で生きるのではなく、イエス様が私たちを生かして下さっている。イエス様が私たちを絶えず生きる者として下さる。ですからイザヤ書43章1節「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」。ここに「わたしはあなたをあがなった」、「あなた」と一人の人のことを言っています。これを読んでいる皆さん一人一人、「私のこと」です。「わたしはあなたをあがなった」。買い取って下さった。そして「わたしはあなたの名を呼んだ」。名を呼ぶということは、私たち一人一人のすべてを知った上で、贖って下さった。これは大切です。というのは、わけも分からず、私を買って下さって、後になって「しまった、こんな買い物をするんじゃなかった」と悔やまれたら困りますから。私たちは、文句を言われても責任を取れません。スーパーに行って、買い物をする時に、りんご一つを買うにしても、しっかりと眺めて、傷がないかと確かめて、買って帰るでしょう。家へ戻って、テーブルに出して見たら、「しまった、ここが虫に喰われていた。気づかなかった」という時に、自分の責任ですから、誰を責めることもできません。別にりんごが悪いわけではない。りんごが「ここが虫に喰われていますが、あなた、良いですか」とは言いません。買う人がよく見て自己責任で買うのです。
神様は、私たち、一人一人を自己責任で買って下さったのです。ここにありますように「名を呼んだ」というのは、言い換えると全部を知り尽くした上で買ったのです。だから、芯が腐っていようと、どこが腐っていようと、神様は文句の言いようがない。「こんな者のためにひとり子を惜しいことした」とは言わない。どんな欠陥があっても、名を呼んで間違いなく、私を買ったのですから。だから、ここの「わたしはあなたの名を呼んだ」というのは実に、いい御言葉ですよ、深い意味です。そればかりではなく、「あなたはわたしのものだ」。他人のものでも、誰のものでもない。神様のものだというのです。私たちを神様のものとするために、ひとり子を与えて下さった。神様が、私たちにかけがえのない命を与えて下さったのは、私たちが神とともに生きるものとなるためです。私たちのこの地上の生活が楽になるようにとか、恵まれるようにとか、思いや願いが叶うような生き方をするために贖われたのではありません。私たちに神様の命を吹き入れて、生きるようにしてくださったのです。
ですから2節に「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない」。「わたしはあなたと共におる」というのです。マタイによる福音書に、ヨセフさんの記事があります。クリスマスの主役はマリアさんが中心のようですが、ヨセフさんもいました。で、ヨセフさんも同じ様に悩んだのです。離縁しようと思いました。その時、やはり御使いが来て、ヨセフにそんなに恐れなくてよろしい、彼女を妻として迎えなさいと勧めます。そして最後に、その子は「インマヌエル」と唱えられるであろう。その意味は「神われらと共にいます」という意味だというのです。
神様が私たちと共にいらっしゃるというのが、イエス・キリストの称号、名前。名前は体を表わすと言われるように、インマヌエルと言うのは、神われらと共にいます。イエス様が私たちの内に宿って、神の命が注がれることにより、私たちが神と共に生きる者とされる。これが、ヨセフさんを通して語られた福音です。2節に「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる」。これが、イエス様が私たちの命となって下さった御目的であり、また私たちに対する恵みです。神様がいつも私たちと共にいる。しかもその先のところを読みますと、3節以下に「わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、エチオピヤとセバとをあなたの代りとする。4 あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。5 恐れるな、わたしはあなたと共におる」。
この5節にも、もう一度繰り返して、「恐れるな、わたしはあなたと共におる」。
共におると言うのです。まるでご主人と一緒にいるとか、奥さんと一緒にいるとか、家族や子供さんたちと一緒に生活をしているかのように、私の外側にあって身近にいて下さるのだと思いがちです。だから、お祈りする時、外側にいらっしゃる方に向かって祈っているように思います。ところが、共におるというのは、イエス様によって、神様が私たちの内に宿って下さる。イエス様が私たちの内に住んで下さる。共にいるというのは、私たちの内に宿って住んで下さるのです。ですから、寝ても覚めても、お風呂に入っていても、トイレにいようと、台所にいようと、居間にいようと、寝そべっていようと、立っていようと、どこに行っても、いるのです。日本の神様は神無月でどこかに集まって、1ヶ月間は休業になるそうですが、まことの神様はそうではありません。「共に」というのは命となって、私たちの内に住んで下さり、私たちを生かして下さっている。これが、神様が私たちを愛して下さったあかしです。神様の愛はイコール命なのだと知っておきたい。神様が私を愛して下さった、それは私に命を与えておられることだと。
神様の命によって生きるとは、どうすることかなと思いますが、それはいつも神様が私たちを支え導いて下さるということを信じることです。朝起きて何かをするにしても、神様が私にさせて下さっていらっしゃるのだと信じて、感謝する。神様が導いて下さっていらっしゃるのだと絶えず自覚すること。ある方が「先生、今度は失敗しました。これが良いと思って私はしたんですが、どうもいけなかったみたいです」、「でも、神様がそのことをあなたに教えて下さったんだから、感謝じゃないですか」、「いや、これにはですね、原因があるんです」、「何ですか」、「私がお祈りしないでしたからですよ」、「そうですか、お祈りしない時は神様がいないんですか」と私は聞いてみました。あなたがお祈りをしようとしまいと、「私はあなたと共におる」。これは失敗だったと言う、その失敗を作ったのは神様で、あなたがそこで、「ここにも神様が、私の命となって生かして、このことをさせて下さったが、うまく行かなかったのも、神様が恵んで下さったことなのだ」と信じる時、「神われらと共にいます」と言えるのです。
お祈りしたとか、しないとか、そんなことだったら、お祈りしている間だけ命があって、お祈りを止めると…。四六時中、お祈りしていなければならない。いっときでも切れたら、薬がきれたみたいに弱ってしまう。そうじゃないです。イエス様が私たちと共にいるっていうのは、私たちの生活のすべてが、生きていること自体が、神様の手の中にあるのです。だから、良いとか悪いとか、自分が勝手に決めるけれども、そうではない。「私は、これが良いと思ったのだけれども、神様の願っていることではなかったのです」と素直になればいいのです。「しまった、あの時あの人に頼んでおけば良かった。私が悪かった」と悔やみますが、神様が、しないでよろしいということなのだから、「はい」とそこで神様を認めることが、神われらと共にいます」生活です。
自分で生きているのではなくて、イエス様が私たちの内に宿って下さって、私たちを生かして下さっていることを認めていくこと、これが神様の愛になるのです。いつも、どんな時でも神様の手の中にあって、生かされているのだから、失敗したと思うこと、成功したことについても、神様が全てご存知だという所に絶えず立ち返るのです。
神様は、一瞬でも私たちから目を離していません。うまくことがいった時は、神様がそれを許して下さる、できなかった時は、神様がとどめていらっしゃる。徹頭徹尾、この一点に徹底する。これが神様の愛に生かされていくことです。だから、人が何と言おうと、あるいは自分が心にあれがいい、これが悪いと、いろんなことで心が縛られて、身動きならなくなり易いのですが、その度毎に「そうだ、私が生きているではなく、イエス様が私と共にいて下さる。私の命はイエス様なんだから、あれも良かった、これも良かった。全てが良い」と。ところが、自分のお思い通りにいかない、自分の願い通りにいかないと言ってつぶやく。あるいは考えもしなかったことに出会った時に、「どうして!何で!」と。
あのマリアさんは、「恵まれた女よ」と言われた時に、「何で!どうして!」と言ったのです。恵まれるとはこういうことだと思っていたら、自分の考えと違うものがポーンと来たから、これは違う、そんなはずじゃないと思う。そこで、これもまた、神様の愛の中にあって、主が「よし」とおっしゃっていることですと受け止めるまでに、マリアさんは苦しみましたね。しかし、ついにマリアさんも「私は主のはしためです」と、本当に主に仕えている者、神様によって生かされている自分であること、神様の手の中にあることを認めた時、主のなさることを素直に受け入れることができたのです。
ですから初めに戻り、ヨハネによる福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。「愛して下さった」というのを、「私に命を与えて下さった」と言い換えてもいいですね。その続きに、「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と。やがて命を得るじゃなく、既に命を戴いて生かされている。それを信じて生きる時に永遠の命が具体化します。地上の生涯が終わって、神様の所に帰る時、文字通り永遠の命が具体化するのです。今、私たちはこの地上にあって、まだその結果を目にすることは出来ないけれども、神様が私の命となって下さったと信じて歩んでいく時に、その通りに永遠の御国の命に加えられます。これが神様の私たちに対する愛ですね。
その愛を体験する道があります。ヨハネの第一の手紙4章11節に「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」。神様が私たちを愛して私たちに命まで与えて下さった。そして私たちが生かされている。主の命を、神様の命を実感する秘訣がある。それは、「わたしたちも互に愛し合う」ということです。私たちもお互いに愛を注いでいく。言い換えると、命をかけて他の人に、身近な人に、周囲の人に、その命を与えるのです。私たちが命を捨ててかかる時、キリストの愛を、命を体験することができます。
世間でも“子を持って知る親の恩”という言葉があります。子供の頃は、親の愛がなかなか分からない。親がどんなに自分を愛してくれているか分からない。中高生、大学生くらいになると、まるで自分ひとりで生きてきたような大きな顔をして、「くそばばあ」とか何とか悪態をつき、親を非難し、文句を言います。しかし、やがてそういう子供たちも結婚して、家庭を持ち、子供を育て、生活し始めると、どんなに自分が愛されていたかが初めて分かる。親と同じ立場に立って、自分がやってみる。その時初めて親の愛を自分のものにするのです。これは大切なことですが、イエス様の愛を知りたいと思うならば、神様が愛して、その命を与えて下さったように、今度は私たちが命を捨ててみる。そうした時に初めて神様の愛は完成するのです。ただ一方的に神様が私を愛して下さり、ひとり子を賜わって命を与えられ、イエス様によって生かされていると思います。そこまでは行くのですが、次に行かないから、神様の愛が完結しない。「私たちもまた互に愛し合うべきである」というのは、人のために何かしなさいというのではなく、そうすることによってしか、神様の命を体験できないからです。イエス様から愛されて、イエス様が私の命となって、水の中、火の中、どんなところへ行くにも、神様は共にいて下さり、私を愛して下さっているということを信じて…と。そこまではまだ半分です。今度は、だからこそ、私もイエス様の愛にならって、神様が命を与えて下さったように、今この人にと、神様が求められるところで主に従って、「はい」と自分の命を捨てる。
マリアさんが受胎告知を受けて、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように」と言ったでしょう。その続きを読みますと、あの有名なマリアの賛歌に入ります。「どうしてこんなことがあり得ましょう。わたしは嫌です」と言ったマリアさんが、今度は、「わたしは何と世界一幸せな女でしょう」と言って、喜びに輝いている。主が受けよとおっしゃったその苦しみ、困難と思われる十字架の道を、彼女が選び取った瞬間に、神様の大きな愛が彼女の中に具体化したのです。
だから、イエス様によって生かされて、日々感謝しているならば、さらにそこから、主がわたしに求め給うことは何でしょうか、主の御心に従います。それが嫌なことかも知れない、あるいは辛いことかも知れない、あるいは犠牲や損失を蒙るかも知れない。しかし、イエス様、あなたは私の命ですから、その命を注いで「はい」と従って、互いに愛し合う道を選び取っていく時、神様の愛は私たちの内に、喜びとなり、感謝となって溢れてくるのです。その時、初めて神様の愛を、命を、自分のものとするのです。そうなるまでは、まだ中途半端といいますか、まだ半ばです。この地上にある時に、イエス様の愛、命、それを体験するために、「互に愛し合うべきである」。
ヨハネの福音書3章16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。私たちに生きる喜びを与えて下さった。生きる命を与えて下さった。その命を自分の手で握ることができるように、今度はその命を注いで、主が求めて下さるところに従うのです。「それじゃ、これからあの人のため、この人のため、何かやってやろう」と、世のため、人のために、役に立つことが目的ではない。結果的にそうなるかも知れないけれど、神様が私に求めていることだから…と。神様が皆さんに託していらっしゃる、負うべき重荷があるならば、主の愛に生かされた私だから大丈夫ですと、負っていく時に、事実、主が命であるという事を体験するのです。その時私たちの内に、あのマリアさんのように、喜びが感謝賛美が湧いてくるのです。これが私たちの神様の愛を知るただ一つの道、命にいたる道です。ですから、「ひとり子を賜わったほどに、わたしを愛して下さった」ことを感謝するならば、それを自分の手で、触って体験することができる一歩を、踏み出したいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。