いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(9) 「愛と命」

2013年09月30日 | 聖書からのメッセージ

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ヨハネによる福音書 3章16節~21節

16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。

これは、繰り返し、聞き、読み、また覚えている御言葉ではないかと思います。ある人に言わせるならば、もし聖書にこの言葉がなかったら、聖書の意味がないとまで言い切る方もおられるほどです。この言葉は、本当に福音、良きおとずれです。ここで、神様は私たちを愛して下さっておられることを語っています。世の中に、多くの神々がいると言われていますが、人間を愛した神様はまずありません。勿論、愛をうたう神様は、ヒンズー教であるとか、あるいはインドあたりの神様、人間の愛を称える、ギリシャの神々にも見ることができます。アフロデティという愛の女神とか、そういう話しがあります。しかし、聖書で言う神様の愛は、人間的な意味で優しいとか、親切であるとか、男女関係の愛であるとか、親子の愛であるとか、そういう次元の愛とはたいへん違っています。神様が私たちを愛して下さるその愛は、目に見える形、あるいは快楽や欲望を満たしてくれるものとしての愛ではありません。神様の愛の特徴は、「捨てること」です。

一方、人間的な愛は捨てないのです。「受ける」愛なのです。かつて、有島武郎という小説家がいました。彼が書いた小説に『愛は惜しみなく奪う』というのがあります。愛は要求する。相手に求めるというのが、人間的な愛です。あの人からあれをして貰った、この人からこれをして貰った、この人からこんな風に…と。だから、わたしは愛されていると思う。言うならば、受けるばかりです。して貰うこと、何か相手から貰うこと、これが愛だと考える。これは世間で言うところの愛です。だから、男女が愛し合う、ラブストリーみたいなテレビドラマがありますが、相手に対して要求する。それが満たされた時が愛の頂点。ところが段々と満たされなくなってくると破局になる。これはもう、決まったパターンですね。

ところが神様が私たちに現して下さった愛は、一方的に与える愛なのです。これは全く方向が違います。このことを取り違えないでいただきたい。そうしませんと、マラキ書にありますように、神様は私たちを愛して下さったというけれども、その愛はどこにあるのだと言うことになります。神様が愛であるなら、なぜこんな悲惨な事件や事柄が起こるのだと、多くの人が考えます。それは、満たされることが愛であると思っているからです。この16節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。その愛は「ひとり子を賜わったほどに」と。以前、わたしはこの「ひとり子を賜わったほどに」と言う言葉は、愛の深さを表わすレベル、一つの尺度として、「これほどに」という意味で理解していました。そういう意味合いがあることも確かですが、もう一つは、「ひとり子を賜わるほどの愛」。それは深さとか大きさとかいうスケール、規模を表わすと同時に、愛の内実、性質を表わした言葉であろうと思います。「ひとり子を賜わったほどに」、言い換えると、神様が大変大きな犠牲を払うということです。自分の愛している子供を惜しまないで捨て去る、このこと自体が愛なのだと、語っている。私たちは愛を考える時、やはり受けることを考える。あるいは与えるにしても見返りを期待する。ある意味では双方向的、やり取りをする形での愛というものを考える。ところが、神様の私たちに対する愛は一方的です。私たちから何かを求めるわけではない。私たちに対して神様が与えて下さった愛です。その与えて下さったものは、「ひとり子」です。そのひとり子は、神様にとってかけがえのない、命のようなものです。言い換えると、命を捨てて下さった、そこに愛があるのです。

イエス様が私たちのために命を捨てて下さったと言いますが、それは取りも直さず、天地万物の創造者でいらっしゃる神様が命を捨てて下さったことなのです。イエス様が十字架におかかりになって命を捨てて下さった時、神様も死んで下さったのです。それほどに私たちのことを愛しておられる。それがこの16節「ひとり子を賜わったほどに」という言葉の深さ、意味するところです。神様は私たちにひとり子を賜わる愛を与えて下さった。命を、かけがえのないものを、私たちに注いで下さった。そのこと自体が愛なのです。愛という物体があって、その大きさを表わすために、比喩としてひとり子を持ち出してきたのではありません。神様がひとり子を与えること自体が愛なのです。

ですからもう一つ読んでおきたいと思いますが、ヨハネの第一の手紙4章7節~12節

この御言葉もまた私たちがよく教えられる御言葉の一つですが、この10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」とあります。今申し上げたように「ひとり子を賜わったほどに」、ここに神様の愛の姿があるのです。ひとり子を賜わるというのは、どこに賜わったかというと、ここにありますように「罪のためにあがないの供え物として」、罪人であって神様の恵みを受ける資格のなかった私たちのために、あがないの供え物としてひとり子を敢えて送り出して下さる、そこに神様の愛があるのです。そしてその愛によって、私たちを生きる者として下さった。

9節に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」。イエス様によって、私たちが新しい命に生きるようになる。イエス様が命を捨てて下さったのは、その命を私たちの内に注いで下さるためなのです。神様が私たちの内に命を与えて下さる、これが罪の贖いの供え物となって下さったイエス様の御目的です。かつて、私たちは神様を離れて罪を犯し、敵対して、恵みを受けることができない、神様の祝福がない悲惨な生活の中に置かれていました。ところが、まだ神様を知らなかった私たちに対して、ローマ人への手紙の5章にあるように、「敵対していた時」、「不信心な者」であった時、何にも知らなかった時に、既に神様は私たちのためにひとり子を世に遣わして下さった。それは罪と咎に死んでいた私たちを、今度は新しい命に生きるようにするためなのです。

今、私たちはイエス様を信じて、新しい生涯に変えられて、生きる者となりました。神様の愛は私たちに命を与えて下さる愛なのです。しかもその命は、他所から持って来る命ではなくて、神様ご自身を私たちの内に注いで下さった。これが神様からの愛です。神様の愛が何であるかを知って、確信を持ってください。私たちは神様の愛を受け、命を戴かなければ、死んだ者であったのです。エペソ人への手紙にありますように、私たちは生まれながらに怒りの子、神様からの怒りを受け、亡ぼされるべき者であった。罪と咎に死んでいた私たち、そういう私たちをもう一度生きることができるように、ひとり子をこの世に遣わして下さった。神様が私たちを愛して下さったが故に、私たちは生かされているのです。

私は近頃そのことを深く深く味わされます。と言いますのは、今私たちの住んでいる世の中が、どんどんと悲惨な破局に向かっている様子を呈しています。日本の社会が、様々な犯罪、凶悪な事件や、事柄に覆われてきました。この一年、新聞紙上をにぎわした事件や事柄を考えてみて下さい。福岡県での殺人や強盗やいろんな犯罪と言われるものの数は、恐らく史上最高ではないかと思われます。また、全国的に見てもそうですね。次から次へといろんな問題や事件が起こってきます。聖書には、世の終わりの時は愛が冷えて、全てのものが相対立して争うことになると書いてある。最近の奈良の女児誘拐殺人事件もそうですし、あるいは水戸の方で起こった親を鉄アレイで殴り殺した事件もそうですし、佐世保で起こった小学生が小学生を殺す事件もそうです。私はそれを見ていると、戦後の混乱の中、物が不足して一日一日を必死に生きていた時代、その時代の方がはるかに良かった。こんな問題が起こってくるとは想像することもできませんでした。また、次から次へと天災と言われる災害も、地震もあります、台風の被害もあります。

また、世界的に見ると戦争は絶えません。ことに最近のイスラムと西洋世界との対立の様子を見ていますと、これはいよいよ悪くなるなという予感がひしひしとします。イラク問題は泥沼化するでしょう。表面的には落ち着くか知れませんが、テロリストたちは広がっていくでしょうし、テロが頻発し、日常茶飯事になってくると思います。

こういう時代の中にあって、生きることは、生活状態とか、社会状況とか、政治であるとか、あるいは経済であるとか、そういうものが整ったから、人が生きるものでないことをしみじみと思います。そこは神なき世界といいますか、これが人間のすることかと思うような…、逆に言うと、人間だからそうするんだとしか言いようがありません。神様を恐れなくなった、神様を離れてしまった多くの人の心が死んだ状態だから、罪と咎とに死んでいるが故に、生きることができなくなってしまった。これは正に目の前に見ている神なき罪の世界の姿です。私たちも例外ではなかったのです。同じ罪と咎とに死んで、悲惨な、そういう状況の中に生きなければならなかったのですが、今こうして平穏に一日を過ごすことができるのは、奇跡です。自分を守るために何かをしているわけではないけれども、今日も天変地変にも遭わない、人災と言いますか、犯罪にも巻き込まれない、あるいはいろんな事故から守られて、一日を過ごすことができるのは、ただイエス様の十字架の恵みにより、神様の一方的な憐れみの中に置かれているからです。

今お読みいたしましたように、9節以下に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」。イエス様を信じて初めて、人は生きるものと変えられる。生きるというのは、ただどこにも病気がなく肉体が健康であるとか、生活が保たれているから生きているのではありません。そう考える限り、世の中の悲惨な結果が常についてきます。そのことだけが生きる事だと思っているから、争いがあり、憎しみがあり、対立があるのです。しかし、生きることは、肉体が生きるのではなくて、キリストによって、神様の御愛に励まされ、導かれ、支えられて、神様のものとなりきって生きること、これが私たちの新しい命なのです。イエス様が私たちの命となって、私たちの内に宿り、神様が私たちと共にいて下さるということを信じて、感謝して生きる者と変えられる。これがイエス様によって、生きることです。

もう一度初めのヨハネの手紙3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。

「この世」とは、私たち一人一人のことです。先だって、高校生にお話をさせていただいた時に、このお言葉で「この世を愛して下さったというのは、あなたのことであり、私たち一人一人のことですよ」と話したのです。後で感想文を書いてくれた中に、「今までこのお話は聞いてはいたけれど、この世が私のことだとは、初めて教えられて嬉しい」という感想を書いてくれて、「なるほど、この世というのは世間一般であって、私とは関係がない」と思っていたのかなと、思いました。

私たち一人一人に、ひとり子を賜わった愛を注いで下さる。ひとり子を与えて下さった神様の愛によって、生かされて生きる。自分の力で生きるのではなく、イエス様が私たちを生かして下さっている。イエス様が私たちを絶えず生きる者として下さる。ですからイザヤ書43章1節「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」。ここに「わたしはあなたをあがなった」、「あなた」と一人の人のことを言っています。これを読んでいる皆さん一人一人、「私のこと」です。「わたしはあなたをあがなった」。買い取って下さった。そして「わたしはあなたの名を呼んだ」。名を呼ぶということは、私たち一人一人のすべてを知った上で、贖って下さった。これは大切です。というのは、わけも分からず、私を買って下さって、後になって「しまった、こんな買い物をするんじゃなかった」と悔やまれたら困りますから。私たちは、文句を言われても責任を取れません。スーパーに行って、買い物をする時に、りんご一つを買うにしても、しっかりと眺めて、傷がないかと確かめて、買って帰るでしょう。家へ戻って、テーブルに出して見たら、「しまった、ここが虫に喰われていた。気づかなかった」という時に、自分の責任ですから、誰を責めることもできません。別にりんごが悪いわけではない。りんごが「ここが虫に喰われていますが、あなた、良いですか」とは言いません。買う人がよく見て自己責任で買うのです。

神様は、私たち、一人一人を自己責任で買って下さったのです。ここにありますように「名を呼んだ」というのは、言い換えると全部を知り尽くした上で買ったのです。だから、芯が腐っていようと、どこが腐っていようと、神様は文句の言いようがない。「こんな者のためにひとり子を惜しいことした」とは言わない。どんな欠陥があっても、名を呼んで間違いなく、私を買ったのですから。だから、ここの「わたしはあなたの名を呼んだ」というのは実に、いい御言葉ですよ、深い意味です。そればかりではなく、「あなたはわたしのものだ」。他人のものでも、誰のものでもない。神様のものだというのです。私たちを神様のものとするために、ひとり子を与えて下さった。神様が、私たちにかけがえのない命を与えて下さったのは、私たちが神とともに生きるものとなるためです。私たちのこの地上の生活が楽になるようにとか、恵まれるようにとか、思いや願いが叶うような生き方をするために贖われたのではありません。私たちに神様の命を吹き入れて、生きるようにしてくださったのです。

ですから2節に「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない」。「わたしはあなたと共におる」というのです。マタイによる福音書に、ヨセフさんの記事があります。クリスマスの主役はマリアさんが中心のようですが、ヨセフさんもいました。で、ヨセフさんも同じ様に悩んだのです。離縁しようと思いました。その時、やはり御使いが来て、ヨセフにそんなに恐れなくてよろしい、彼女を妻として迎えなさいと勧めます。そして最後に、その子は「インマヌエル」と唱えられるであろう。その意味は「神われらと共にいます」という意味だというのです。
神様が私たちと共にいらっしゃるというのが、イエス・キリストの称号、名前。名前は体を表わすと言われるように、インマヌエルと言うのは、神われらと共にいます。イエス様が私たちの内に宿って、神の命が注がれることにより、私たちが神と共に生きる者とされる。これが、ヨセフさんを通して語られた福音です。2節に「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる」。これが、イエス様が私たちの命となって下さった御目的であり、また私たちに対する恵みです。神様がいつも私たちと共にいる。しかもその先のところを読みますと、3節以下に「わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、エチオピヤとセバとをあなたの代りとする。4 あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。5 恐れるな、わたしはあなたと共におる」。

この5節にも、もう一度繰り返して、「恐れるな、わたしはあなたと共におる」。

共におると言うのです。まるでご主人と一緒にいるとか、奥さんと一緒にいるとか、家族や子供さんたちと一緒に生活をしているかのように、私の外側にあって身近にいて下さるのだと思いがちです。だから、お祈りする時、外側にいらっしゃる方に向かって祈っているように思います。ところが、共におるというのは、イエス様によって、神様が私たちの内に宿って下さる。イエス様が私たちの内に住んで下さる。共にいるというのは、私たちの内に宿って住んで下さるのです。ですから、寝ても覚めても、お風呂に入っていても、トイレにいようと、台所にいようと、居間にいようと、寝そべっていようと、立っていようと、どこに行っても、いるのです。日本の神様は神無月でどこかに集まって、1ヶ月間は休業になるそうですが、まことの神様はそうではありません。「共に」というのは命となって、私たちの内に住んで下さり、私たちを生かして下さっている。これが、神様が私たちを愛して下さったあかしです。神様の愛はイコール命なのだと知っておきたい。神様が私を愛して下さった、それは私に命を与えておられることだと。

神様の命によって生きるとは、どうすることかなと思いますが、それはいつも神様が私たちを支え導いて下さるということを信じることです。朝起きて何かをするにしても、神様が私にさせて下さっていらっしゃるのだと信じて、感謝する。神様が導いて下さっていらっしゃるのだと絶えず自覚すること。ある方が「先生、今度は失敗しました。これが良いと思って私はしたんですが、どうもいけなかったみたいです」、「でも、神様がそのことをあなたに教えて下さったんだから、感謝じゃないですか」、「いや、これにはですね、原因があるんです」、「何ですか」、「私がお祈りしないでしたからですよ」、「そうですか、お祈りしない時は神様がいないんですか」と私は聞いてみました。あなたがお祈りをしようとしまいと、「私はあなたと共におる」。これは失敗だったと言う、その失敗を作ったのは神様で、あなたがそこで、「ここにも神様が、私の命となって生かして、このことをさせて下さったが、うまく行かなかったのも、神様が恵んで下さったことなのだ」と信じる時、「神われらと共にいます」と言えるのです。

お祈りしたとか、しないとか、そんなことだったら、お祈りしている間だけ命があって、お祈りを止めると…。四六時中、お祈りしていなければならない。いっときでも切れたら、薬がきれたみたいに弱ってしまう。そうじゃないです。イエス様が私たちと共にいるっていうのは、私たちの生活のすべてが、生きていること自体が、神様の手の中にあるのです。だから、良いとか悪いとか、自分が勝手に決めるけれども、そうではない。「私は、これが良いと思ったのだけれども、神様の願っていることではなかったのです」と素直になればいいのです。「しまった、あの時あの人に頼んでおけば良かった。私が悪かった」と悔やみますが、神様が、しないでよろしいということなのだから、「はい」とそこで神様を認めることが、神われらと共にいます」生活です。

自分で生きているのではなくて、イエス様が私たちの内に宿って下さって、私たちを生かして下さっていることを認めていくこと、これが神様の愛になるのです。いつも、どんな時でも神様の手の中にあって、生かされているのだから、失敗したと思うこと、成功したことについても、神様が全てご存知だという所に絶えず立ち返るのです。

神様は、一瞬でも私たちから目を離していません。うまくことがいった時は、神様がそれを許して下さる、できなかった時は、神様がとどめていらっしゃる。徹頭徹尾、この一点に徹底する。これが神様の愛に生かされていくことです。だから、人が何と言おうと、あるいは自分が心にあれがいい、これが悪いと、いろんなことで心が縛られて、身動きならなくなり易いのですが、その度毎に「そうだ、私が生きているではなく、イエス様が私と共にいて下さる。私の命はイエス様なんだから、あれも良かった、これも良かった。全てが良い」と。ところが、自分のお思い通りにいかない、自分の願い通りにいかないと言ってつぶやく。あるいは考えもしなかったことに出会った時に、「どうして!何で!」と。
あのマリアさんは、「恵まれた女よ」と言われた時に、「何で!どうして!」と言ったのです。恵まれるとはこういうことだと思っていたら、自分の考えと違うものがポーンと来たから、これは違う、そんなはずじゃないと思う。そこで、これもまた、神様の愛の中にあって、主が「よし」とおっしゃっていることですと受け止めるまでに、マリアさんは苦しみましたね。しかし、ついにマリアさんも「私は主のはしためです」と、本当に主に仕えている者、神様によって生かされている自分であること、神様の手の中にあることを認めた時、主のなさることを素直に受け入れることができたのです。

ですから初めに戻り、ヨハネによる福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。「愛して下さった」というのを、「私に命を与えて下さった」と言い換えてもいいですね。その続きに、「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と。やがて命を得るじゃなく、既に命を戴いて生かされている。それを信じて生きる時に永遠の命が具体化します。地上の生涯が終わって、神様の所に帰る時、文字通り永遠の命が具体化するのです。今、私たちはこの地上にあって、まだその結果を目にすることは出来ないけれども、神様が私の命となって下さったと信じて歩んでいく時に、その通りに永遠の御国の命に加えられます。これが神様の私たちに対する愛ですね。

その愛を体験する道があります。ヨハネの第一の手紙4章11節に「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」。神様が私たちを愛して私たちに命まで与えて下さった。そして私たちが生かされている。主の命を、神様の命を実感する秘訣がある。それは、「わたしたちも互に愛し合う」ということです。私たちもお互いに愛を注いでいく。言い換えると、命をかけて他の人に、身近な人に、周囲の人に、その命を与えるのです。私たちが命を捨ててかかる時、キリストの愛を、命を体験することができます。

世間でも“子を持って知る親の恩”という言葉があります。子供の頃は、親の愛がなかなか分からない。親がどんなに自分を愛してくれているか分からない。中高生、大学生くらいになると、まるで自分ひとりで生きてきたような大きな顔をして、「くそばばあ」とか何とか悪態をつき、親を非難し、文句を言います。しかし、やがてそういう子供たちも結婚して、家庭を持ち、子供を育て、生活し始めると、どんなに自分が愛されていたかが初めて分かる。親と同じ立場に立って、自分がやってみる。その時初めて親の愛を自分のものにするのです。これは大切なことですが、イエス様の愛を知りたいと思うならば、神様が愛して、その命を与えて下さったように、今度は私たちが命を捨ててみる。そうした時に初めて神様の愛は完成するのです。ただ一方的に神様が私を愛して下さり、ひとり子を賜わって命を与えられ、イエス様によって生かされていると思います。そこまでは行くのですが、次に行かないから、神様の愛が完結しない。「私たちもまた互に愛し合うべきである」というのは、人のために何かしなさいというのではなく、そうすることによってしか、神様の命を体験できないからです。イエス様から愛されて、イエス様が私の命となって、水の中、火の中、どんなところへ行くにも、神様は共にいて下さり、私を愛して下さっているということを信じて…と。そこまではまだ半分です。今度は、だからこそ、私もイエス様の愛にならって、神様が命を与えて下さったように、今この人にと、神様が求められるところで主に従って、「はい」と自分の命を捨てる。

マリアさんが受胎告知を受けて、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように」と言ったでしょう。その続きを読みますと、あの有名なマリアの賛歌に入ります。「どうしてこんなことがあり得ましょう。わたしは嫌です」と言ったマリアさんが、今度は、「わたしは何と世界一幸せな女でしょう」と言って、喜びに輝いている。主が受けよとおっしゃったその苦しみ、困難と思われる十字架の道を、彼女が選び取った瞬間に、神様の大きな愛が彼女の中に具体化したのです。

だから、イエス様によって生かされて、日々感謝しているならば、さらにそこから、主がわたしに求め給うことは何でしょうか、主の御心に従います。それが嫌なことかも知れない、あるいは辛いことかも知れない、あるいは犠牲や損失を蒙るかも知れない。しかし、イエス様、あなたは私の命ですから、その命を注いで「はい」と従って、互いに愛し合う道を選び取っていく時、神様の愛は私たちの内に、喜びとなり、感謝となって溢れてくるのです。その時、初めて神様の愛を、命を、自分のものとするのです。そうなるまでは、まだ中途半端といいますか、まだ半ばです。この地上にある時に、イエス様の愛、命、それを体験するために、「互に愛し合うべきである」。

ヨハネの福音書3章16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。私たちに生きる喜びを与えて下さった。生きる命を与えて下さった。その命を自分の手で握ることができるように、今度はその命を注いで、主が求めて下さるところに従うのです。「それじゃ、これからあの人のため、この人のため、何かやってやろう」と、世のため、人のために、役に立つことが目的ではない。結果的にそうなるかも知れないけれど、神様が私に求めていることだから…と。神様が皆さんに託していらっしゃる、負うべき重荷があるならば、主の愛に生かされた私だから大丈夫ですと、負っていく時に、事実、主が命であるという事を体験するのです。その時私たちの内に、あのマリアさんのように、喜びが感謝賛美が湧いてくるのです。これが私たちの神様の愛を知るただ一つの道、命にいたる道です。ですから、「ひとり子を賜わったほどに、わたしを愛して下さった」ことを感謝するならば、それを自分の手で、触って体験することができる一歩を、踏み出したいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


聖書からのメッセージ(8) 「幸いになる道」

2013年09月29日 | 聖書からのメッセージ

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ヨブ記 22章21節から30節まで朗読。

21節に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」とあります。 なんと素晴らしい約束でしょうか。この世にあって、幸せになりたいと 願わない人は一人もいません。全ての人が何とかして幸せになりたい、幸福でありたいと願います。その為に四苦八苦、大変な苦労をしているのが現実です。しかし、今読みました言葉には「そうすれば幸福があなたに来る」というのです。幸福が向こうから、ほいほいと喜んでやってくると言うのですから、こんな嬉しい話はない。こちらから追いかけて行かなくてもいいのです。私たちは幸せになりたいと思いながら、幸せでない。何か不幸せを感じ、満ち足りることがなくて、不平不満で、もう一つ何とか…、と思っているのではないでしょうか。「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう」という、カールブッセの詩がありますが、その詩の結末は、行って見たけれどもそこには無かったと。「隣りの家の芝生は青い」という言葉がありますように、幸せは何処か遠くにあると思う。今、私はこんなだから仕方がない、でも、もうちょっと何かあったら幸せになるに違いない。あの人のように、この人のようにと周囲を見回して、その人の生活やいろんな事を真似て、やって見ると、案外と「つまらんなぁ、こんなはずじゃなかった。私の求めていたものはこれじゃない」と気がつきます。そうやって何度となく裏切られてきたのが現実です。幸せを求めながら、幸せになり得ない。その原因は根本のことがおろそかになっている、抜けているからです。向かうから、幸福がやってくるように、その道筋をつけてやりさえすればいいのです。ダムから流れてくる水は、上から下に流れて行くでしょう。水は下から上には流れてきません。これは至極当然です。流れてくる下の方に自分を置けばいいのです。自分をそこに置かないで、水がこっちに上がって来ないかと思っている。水とは低い方へ下っていくもので、その水を受けるためには、自分も下におりて行って、受ければおのずから流れてくるのです。私たちが幸福を求める姿勢が、そういうちぐはぐになっているからです。私たちが道筋をきちんと整えることが何よりも大切です。そうすれば、楽々と向こうから、幸せがやって来るのです。

その条件として、21節に「あなたは神と和らいで」とあります。まず心のうちに平安を得なさいとあります。平安を得る秘訣は「神と和らぐ」こと。神様と和解して、心が穏やかになる、平和になるのです。安心を得るようになれば、幸福が来る。確かにそうです。ところが、私たちはいつも心に満足がない、何か納得が出来ない、何だか自分を刺されるような思いがする。もう一つ、落ち着かない心情でいるために、幸せになり得ないのです。お金が無いから安心がない、健康でないから安心がない、家族がこんな状態だから安心がないと、目の前の事柄によって、平安をかき乱されていると思う。ところが違うのです。ここにありますように、神様と和解すること、これが出来れば心は平安になるのです。周囲にどんな問題が起こっても、慌てない、動揺しない、心を騒がすことがないようになる。そうなると、次に幸せがやって来る。実に分かりやすい手順です。「神と和らぐ」ということが、一番肝心かなめの基礎のところ、何よりも大切なことです。

「神と和らいで」と言われると、「私は今まで神様と喧嘩した覚えはない。私は生まれて以来、神様とは縁がなかったし、喧嘩して、遣り合って、仲たがいして、今は口もきかない絶交状態などではない。どうして神と和らがなければならないのか」と思います。例えば、皆さんがある人を嫌いになった。何かのことで意見が食い違って、あるいは考え方が違って、激しい議論をし、その挙句の果て、「もう絶交、もう二度と電話しないで、あんたの顔を見たくない」と、パーンと分かれる。その時に初めて、あの人とこの人は絶交状態とか、戦争状態とか、仲が悪いとなる。「何があったの?」、「これこれこういうことがあったから、こうなった」と言います。だから、神様との間も何かごちゃごちゃがあったから、神様が大嫌いだと思っているなら、これは分かりやすい。「そうかそうか、あそこで悪い事をしたから、やっぱりごめんなさいを言わなければいけない」と思う。

ところが、神様に対する罪というのは、神様との間に何かことがあったから、行き違いがあったから、大喧嘩をしたから、神様と敵対関係になっているということではありません。神様から造られ、神様のものであったはずの私たちが、神様の手から飛び出してしまったことです。言い換えると、神様を離れてしまった。これが罪を犯したことになるのです。私たちの生活の根本、生き方の根本が問題になっているのです。

エレミヤ書の言葉で「おおよそ、人を頼みとし、肉なるものを腕とするものは呪われる」とあります。しかし、よくよく「呪われる」ということを考えてみると、ちょっと怖い。「呪われる」とはどういうことなのだろうと。そこで私はいろいろと考えさせられました。「呪われる」というと、何か呪文を掛けられて、金縛りにあい、身動きならなくなったとか、呪われたために、次から次へと事故や病気など、とんでもない災いが押し寄せて来たという、そんなイメージを抱きました。世の中でも、「あなた、そんなことをしたら呪われるよ」と言われると、災害や災いが起こって来そうに思います。

ところが、呪われるとは、積極的に不幸が降りかかってくるという意味ではない。神様との関係の中で呪われるというのは、神様の祝福から離れてしまうことです。これでは呪われたかどうかわかりにくい。むしろ、呪われたら、異常なひどいことが起こった、大変な災難にあったというのであれば、呪われたのだとはっきり分かります。神様の前に罪を犯すとか、神様と私たちが敵対関係にあるとか、あまりはっきりしない。何故はっきりしないかというと、神様との関係、あり方が問題なのであって、私たちが具体的に何かをした、何をどうしたかということが問題になっているのではないからです。神様から呪われるのは、肉を頼みとし、自分の力を頼みとして、神様をないがしろにし、自分を神として、自分の力で生きている人は、既に呪われた状態なのです。だから、生活に支障を来たしたとか、困ったとか、次々に不幸に襲われたということがなくても、すでに神様から呪われたもの、言い換えると神様に敵対して、罪を犯した者なのです。その結果、平安を失うのです。満足を得ることが出来なくなってしまうのです。神様に呪われるというのは、積極的に問題が起こってくる、悲しいことや苦しいことが起ることがないわけではありませんが、もっともっと重大なことは、神様の光から閉め出され、闇の中に入ってしまったことです。ところが、本人は闇であることに気づかない。神様の前から離れて、呪われたものになっていながら、それに気づかない。ですから、神様と和らがない限り、私たちは、神様と敵対した状態にあるのです。

創世記の4章1節から7節まで朗読。

アダムとエバがエデンの園を追われて、遠く離れた所に住みました。その時、子供を与えられました。「エバはみごもった」とあります。そしてカインと弟アベルという2人の兄弟を得ました。やがて子供は成長し、アベルは羊飼いに、カインは農業に従事しました。夫々、羊を飼う者、土を耕す者となりました。やがて日が経って収穫をし、夫々が主に供え物を持って来ました。アベルは肥えた羊を神様の前に供え、カインも地の産物、収穫したものを持って来て、神様の前に供えました。神様はアベルとその供え物を顧みられたとあります。神様はアベルの供え物を喜んで「嬉しい」と言ったのです。ところが、納まらなかったのはカインです。「どうして私のは喜んでもらえなかったのか」と思った。このカインとアベルの記事はいろいろと教えられることが多い記事でありますが、今日は一つのことだけを申し上げておきたいと思います。この時カインは「憤った」のです。神様に対して怒りを覚えました。「何故、私が顧みられなかったのか」という思いがあったのです。しかし、これは大切な事柄ですが、神様がどちらを選ぼうと、それは御自由です。なぜなら、神様だからです。アベルの供え物を顧みられた神様が「私はこれがいい」とおっしゃったら、カインはそれに口を挟む資格も権利もありません。むしろ、そんなことで憤ること事態がおかしいわけです。「そうだった、神様はそちらの方を喜んだのだ」と、そこで悔い改めて、また神様が喜ばれることは何であるかを求めていけば良いことです。ところが彼はへそを曲げたのです。神様との関係がずれました。

その後、8節に「カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 9 主はカインに言われた、『弟アベルは、どこにいますか』。カインは答えた、『知りません。わたしが弟の番人でしょうか』」。神様のお取り扱いに対してカインは納得いかなかった。具体的にカインがした行動は、弟を殺すのです。弟アベルは直接兄カインに悪意に満ちた危害を加えたのではありません。それだのにカインはアベルを殺しました。彼は、神様に向かって文句を言うべきでした。極端なことを言うならば、神様を殺せばいいのです。しかし、カインは神様への不満のゆえに、弟アベルを殺したのです。私たちが日常生活で、人を恨んだり、妬んだり、憤ったりしているのは正にそこなのです。神様のお取り扱いに納得いかないから、人を非難し、人をやっつけろという思いの方にいってしまう。だから、私たちが人とうまくいかないとか、あの人は嫌だとか、この人は嫌だとか、あんな奴なんか死んでしまえとか、いろんな憎しみを抱く原因は、その相手が問題なんじゃなくて、自分に対する神様のお取り扱いに対して、憤っているのです。これが、私たちが神様から離れて罪を犯している姿なのです。

ですから、この時も神様はカインにこう言いました。6節に「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう」。まさにそのとおりです。「神様、私はこんなものです。これだけしか捧げることは出来ませんでしたが、憐れんで下さい」と捧げればよかったのです。そして神様がそれを斥けられたら、「はい、そうですか」と、素直に受け入れればいいのですが、それができない。神様のなさることを、神様として尊ぶことが出来なかったのです。「何くそ!」と神様に対する憤りが、具体的な行動となって人を殺すという行為。私たちの今の世の中もそうなのです。いろんな事件が起こっています。そして、教育家であるとか精神鑑定家であるとか、心理学者が、こういう鬱積があったに違いない、こういう取り扱いを受けたからと…、事件や犯罪の分析をし、解説をします。

ニュースを見ていますと、両親を鉄アレイでぶん殴って殺した人のことが取り上げられて、学識者たちがいろんな事を、解説していました。聞いていると、なるほど、それなりの説明は良く分かるのですが、一番の根本的な原因を指摘できません。それは神様に対する憤りなのです。「自分はどうしてこんな自分なんだろうか」。「私はどうしてあの人のようではないのだろうか」。「両親はどうしてあんな親なのだろうか」という憤り。それは取りも直さず神様に対する怒りです。「神様、こんな親を与えてくれたのはどんなことですか」という、神様に憤る思いが他人に向かうのです。私たち自身の中に、別に意識して、神様に憤ってやろうと思っていないけれども、気がつかないうちに怒りの虜になっている。神様が絶対的な御方であり、すべてのものを力ある御手で導いていらっしゃる、創造主であるという、その原点が私たちの心から抜け落ちてしまう。その時、人は決して平安を得ることが出来ない。この時のカインがそうでした。神様から斥けられたことで憤った。その憤りの結果、具体的な行動になるのです。この世の中のいろんな問題の根源は、結局、ここに行き着くのです。神様のお取り扱いを、素直にそのまま受け入れることが出来ない。言い換えると、神様の前に、自分が造られた者、被造物であることを認めて、欠けだらけの、弱く、小さな者であることを認めて、神様の前にへりくだることをしない。これが私たちの大きな罪なのです。また、それ故にこそ呪われたものになってしまうのです。今私たちの置かれているこの世は、神様を離れた結果、正に呪われたものです。

始めに戻り、ヨブ記の22章21節に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」。私たちの心にあのカインのような憤りがありませんか。「どうしても許せん、神様がいくらなんでも、こんなことをするなんて!」と。自分の置かれた境遇や、与えられた事柄や、負わされた重荷を負いきれなくて主に呟くならば、気がつかないうちに神様に対して怒り、さらに人に対して怒るようになるのです。だからよく注意していただきたい。ご家族に対して何か私はいらいらしている、あいつがいかん、こいつがいかんと、ぷんぷん腹立てている時は「私は今神様に対して怒っている時なんだ」と、そのことに気づいて、神様の前にまず自分の心を整える時、家族の一人一人に愛をもって接することが出来るように変わるのです。
そうでない限り私たちは、何時までも「あなたがあんなことをするから駄目よ、こんなことを!」と口やかましく、ちくちくと言い続けなければおれない。と言って、相手が悪いわけではないのです。悪いのは自分の中に神様に対して畏れの思いが消えているからです。だから私たちは、神と和らいでいること、そして平安を得させていただく。心に安心を与えられ、幸福になるのです。そうすれば、すべてのことを感謝し、すべての事を喜ぶことが出来るように変わる。今日一日生きていることを感謝し、心から幸せを味わうことが出来るのです。その先に、22節「どうか、彼の口から教を受け、その言葉をあなたの心におさめるように」と勧められております。神様の御言葉、聖書の言葉を私たちが素直に心に収める。ちゃんと受け止めて、素直に神様の前に自分をへりくだった者、謙遜な者となる。御言葉に対して、私どもが素直に「はい」と従うことです。

聖書の御言葉、「いつも喜んでいなさい」と読みながら、心の中では「何がいつも喜べるか」と思うでしょう。「すべてのことについて感謝しなさい」と言われて、「感謝できればいいんだけれども、私は出来んわ!」と、心のうちにつぶやいている。言うならばカインと同じなのです。神様が「こうだよ、お前のは受け入れられないからね」と言ったら、「はい」と言えばいいのに、「何を!」と言うのと同じことで、形は違うが、私たちは神様の御言葉を心に置いて従おうとしない。これが神様に対する憤りです。ですから「どうか、彼の口から教を受け」、神様から直接その御言葉を聞いて、私たちの心に受けいれ、素直に神様に聞き従う者になる。これが私たちが神様と和らぐこと。このように和らぐためには、私たちが神様に罪を清められること、赦されることが大切です。

コリント人への第二の手紙5章16節から19章朗読

17節に「だれでもキリストにあるならば」と言われています。イエス・キリストを救い主と信じて、キリストの中に自分を置いていくこと。キリストを主として、キリストと共に十字架に死んだ者となって、今キリストが甦って下さったように、私たちも甦らされて神様との和解を与えられて、神様との間に何一つ隔てるものも、妨げるものもない。真直ぐに道が整えられているのです。18節に「しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ」とあります。神様の方が独り子イエス・キリストをこの世に送って、神様と和らぐことが出来るようにしてくださった。和解させて下さるために、神様の方から私たちに近づいて下さったのです。人と人が喧嘩したら、暫く経って「しまった」と思う。「悪いこと言ちゃったなぁ」、あの時、ものの弾みと言うか、売り言葉に買い言葉でぱんぱーんと言ってしまって、後で「しまった、悪いこと言ったなぁ」と思います。思うけれども、「まぁ、その内、向こうがなんか言ったら、私も謝ろう」。向こうが何か言ったらと。こちらからはなかなか…。相手も相手ですね。「あの時、行きがかりから思いもせんことを言ちゃったなぁ」と思いながら、相手の顔をチラッと見る。見るけれどもお互いに目線をそらす。そうやっている内に段々段々と「ごめんなさい」と言うチャンスを失ってしまう。どちらかが先に、「ごめんね」と一言いえば、相手も「私こそ、ごめんよ」と元通りになるのですが、そこへなかなかいかない。

ここにあるように「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ」て下さった。神様の方が私たちに近づいて「お前の罪を赦したよ。お前は何もしなくていいんだよ。私のために何か償いをしようなんて、いらないよ。もう、私がしたんだから!」とおっしゃって下さるのです。何と大きな恵みと赦しの中に私たちは置かれていることでしょうか。ここに「わたしたちをご自分に和解させ」とあります。神と和らがせて下さった、この御言葉を心に置きなさいというのです。神様は、私たちに「もう、お前の罪は赦したからね」とおっしゃって、十字架をたてて下さった。そして、19節にありますように「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」と。

そればかりでなく、私たちにも和解を喜んで受け止めるように…。和解が成り立つには、一方的では駄目です。先ほど例えたように、人と喧嘩をすると、お互いにそっぽを向き合っている時、「こんなことではいけないから、ごめんね」と言おうと思う。「ごめんね、私そんなこと忘れてしまったから…」と一方的に宣言しても、相手は「忘れん!」と言われたら、和解は成り立ちません。和解というのはお互いがそれを感謝して受け止めなければならない。ここが大切です。神様の方から、私たちに和解の道を下さった。でも、私たちが何時までもそっぽを向いている限り、その和解は成り立ちません。だから、18節の後半に「かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった」。この「和解の務をわたしたちに授けて下さる」というのは、私たちの方が神様からの和解をどう受け止めるかにかかっているのです。「そうです。こんな私です。このような罪があります。あのような罪があります。本当に自分を振り返って、あなたに申し訳ない自分でした」ということをはっきりと告白し、悔い改めて、新しくなることが「和解の務めを私たちが果たす」ことであり、また、そうしなければならない責任があるのです。そうする時に初めて和解が成り立つのです。

だから20節に「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい」。神様は、ねんごろに今日も「私の和解を受けなさい」とおっしゃいます。その御言葉を心に置いて「こんな私だけれどもイエス様は、命を捨てて愛してくださったばかりでなく、私の罪の故に贖いとなって下さったから、神様に赦されているのです。神様、あなたは私の親しい、愛する、『アバ父よ』と呼ぶべき御方、父なる神様です」と感謝して受け、確信する。そこに信頼関係が生まれてくる。そうすると安心が湧いて来るのです。そこに幸せがやって来る。これは確かです。

もう一度始めのところに戻りますけれども、ヨブ記22章の22節「どうか、彼の口から教を受け、その言葉をあなたの心におさめるように」。神様からの和解の御言葉を心に受けて感謝して喜び、その後、23節以下のことが具体化されていくのです。「あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし、あなたの天幕から不義を除き去り」。和解を受けた後に、「これから神様の御愛と恵みに感謝して、これも捨てます、これも止めます。ここも改めて…」と具体的な行動が伴ってくるのです。そこにありますように、己を低くする、謙遜になって「天幕から不義を除き去り」と。天幕とは、私たち生活全般です。天幕は羊を飼う人たちが移動しながら生活する場所でした。その生活から不義を除く。神様に喜ばれないものを取り除いていくことです。これは神様の前に申しわけないこと、後ろ指指されるものを除けと語られています。こんな私を赦して下さった神様の前に、いけないと思うことから喜んで離れる。その結果、一つ一つ整えられて幸せが益々倍加する、倍増するのです。

24節に、「こがねをちりの中に置き、オフルのこがねを谷川の石の中に置き」。これがなくてはと思って、こがねを蓄え、しっかり握っていた。そういうものを「ちりの中に置き」というのです。ゴミ箱に捨てなさいと言うのです。ところが、そう言われると、どうですか皆さん、ウッと躊躇する。心がそこに繋がっているからです。別に、文字通りゴミ箱に捨てよという意味ではありません。それに心を留めないでということです。ゴミを捨てて、いつまでもゴミをじっと眺めて、「惜しいことをしたなぁ、これ、持っていたらいいのになぁ」とは思いません。ポーンと捨てたら忘れるわけでしょう。燃えるゴミの袋の中に入れて、収集日に出してしまう。ゴミ捨て場にもって行った後も、「あぁ、惜しいことをしたなぁ」、「あの捨てたものを、もう一度取り返して来ようか」なんては思わない。お金が要らないわけではありません。生活に必要なものは神様が与えて下さるのです。お金を神にすることを止める。「オフルのこがねを谷川の石の中に置き」。谷川の石というのは、川に行って御覧なさい、掃いて捨てるほど、いやというほどあります。そんな中に放り込んでしまう。あるいは、長い川の何処に投げようとも、それは失われてしまうに違いない。そういうものとして、どんな宝であろうと、黄金であろうと、それを捨て去って、代わりに、25節「全能者があなたのこがねとなり、あなたの貴重なしろがねとなるならば」と。その目に見える、金ぴかに光るお金が神じゃなくて、全能者がそれに取って替わって、私のすべてですと言えるものになる。その時、26節「あなたは全能者を喜び、神に向かって顔をあげることができる」のです。いよいよ神様の祝福と恵みの中に、私たちは引き入れられるのです。幸せになるために不可欠な事柄は何か、それは、「神と和らいで」という、この一点にあるということをしかりと心に留めておきたい。そして、気がつかない内に、カインのように神様に対して憤っている自分がいることにも、警戒しておきたい。

わたしも病気になって、「どうして、神様、私にこんな病気を与えたんですか」と怒っていました。そうすると、いろんな事柄を不満に思うようになるのです。ところが、悔い改めて、「こんな者のために主が赦して下さって、神様がよしとおっしゃって下さる、神様が受けよとおっしゃって下さる」と心に教えられて、「はい」と主に立ち帰って己を低くした時に、初めて平安が与えられました。そして、病の中にあっても、本当に幸せだと心からか感謝できるようになりました。先ず、神と和らいでと…。嘗て、昔、一度和らいだから、「私は何十年前に洗礼を受けて、神様と和解しましたから…」と言うけれども、その後、何度も喧嘩しているのです。自分の心のありよう、姿をもう一度点検して、常に神様の前に和らいだものとなっていたいと思います。「神の和解を受けなさい」とおっしゃって下さる。それを自分のものとして、主がキリストを遣わし、私たちを赦して下さったんですから、私たちも、喜んで主のために、主の喜ばれることをしようではありませんか。主がよしとおっしゃるところに、己を低くして、主の導かれるままに、感謝して生きる者となりたいと思います。神様を絶えず前において、その全能者を自分のこがねとして、宝として、貴重なものとして信頼していく時に、幸いな祝福と恵みの中に生きることが出来るのです。今日も主が赦して、私をこんなに愛して下さる主が、あの問題、この事柄の中で導いておられるのですから、呟かない、疑わない、素直に従っていきたい。足らなければ、神様は知恵を与え力を与えて下さるのですから、主の手にすっぽりと握られて歩む者となりましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。





聖書からのメッセージ(7) 「強くなるには」

2013年09月28日 | 聖書からのメッセージ

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ピリピ人への手紙 4章10章から14節

13節に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」とあります。これは使徒パウロがピリピの教会の人々に宛てた手紙の一節ですが、11節には「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」と語っています。よほど不遇の生まれだったのでしょうか。彼は、この前の第3章を読みますと、家も生まれも、氏素性も誇り高い一族であったようです。また彼自身学識も豊かで、よき教育を受けたローマ市民でした。ローマ市民であることは、その時代にあっては一番恵まれた境遇に置かれた人々でもあったのです。彼はそういう境遇に生まれ育ちましたから、恐らく、いわゆる貧乏とか、あるいは物に不足して困難を感じて、耐え忍んで窮乏生活を送ったという経験は無かったに違いありません。自分のしたいと思ったことができ、自分の願った道を歩んだ生涯でした。

パウロはパリサイ人で、クリスチャンを迫害する中心的な人物でした。ユダヤ人の中でもパリサイ派というのは、律法に厳格で、それを忠実に守る人たちだったのです。近頃の中東情勢を見たり、あるいはイラクやそういう所の人たちの動きを見ていると、規律や戒律を大切に重んじて生きています。パウロの時代はもっと厳しかっただろうと思います。しかし、それは苦しみのためにではなく、喜びのためにそれをしていたのです。彼は宗教的な熱心さの故に、クリスチャンをどうしても許しておけない。イエス・キリストが神の子だなんて、人が神になるなんて、何と冒涜的な…。こういう世の害悪になるようなものは、許されないという正義感によって、クリスチャンを迫害したのです。その時も、ダマスコにいるクリスチャンを迫害するために出かけていました。その途中で、まるで雷に打たれたような大音響と共に、目もくらむような光に包まれました。彼は地面に叩きつけられてしまいました。その時に、一つの声が聞こえてきました。「サウロよ、サウロよ。(パウロは以前サウロという名前でした)。なぜ私を迫害するのか」と。彼は「あなたはどなたですか」問うと、「お前が迫害するイエスである」と声が聞こえた。甦ったイエス様が直接声をかけて下さったのです。その時、供の者たちも一緒にいたのですが、彼らには何のことか分かりません。ただ、落雷にでもあったようなものでした。然し、パウロは、そのことを通してイエス様に出会ったのです。彼は目が見えなくなって、倒れておりました時に、アナニヤという一人の人が遣わされて来て、ダマスコに連れて行かれ、それから彼の人生が180度大きく変わりました。それからというもの彼は、イエス様を救い主と信じて生きる新しい生き方に変わったのです。それまで自分が誇りとしていたもの、自分の力を頼りとして、自分の業によって生きていましたが、それら一切のものを捨てて、ただ、イエス・キリストに従う生涯を歩みました。その生涯は波乱万丈です。次から次と、悩み悲しみ苦しみの中を、通ることになります。

一言読みましょう。コリント人への第二の手紙11章24節から30節朗読。

24節以下に大変な艱難と苦しみにあった様子が語られています。イエス様を信じなかったならば、あるいはイエス様に出会わなかったならば、彼は当時の社会の中で、優遇され、将来を期待され、嘱望され、バラ色の道が開かれていたはずでした。ところが、彼の生涯が変わって、悩みと悲しみの中に投げ込まれてしまったのです。今読みました24節以下にむちで叩かれたり、石で打たれたり、難船したり、あるいは苦しみや困難に出会い、27節には「たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき」とあります。これでもか、これでもかと痛めつけられるように、次から次へと苦しみと悲しみと困難…。彼はよほど頑丈でタフな、どんなことをされてもへこたれない人間だったように想えますが、そうではありません。30節に「わたしは自分の弱さを誇ろう」と、彼は自分が弱い者であるということをよく知っていました。さらに、12章の5節「わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい」。ここでも彼は自分の弱さを誇ろうと言っています。しかも、彼はただ単に言葉の綾として、「私は弱いからできません」、「私は足らない人間です」と、口先で言っているだけではなかったのです。事実、具体的に、7節にありますように、「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」と語っています。自分自身の肉体に困難な問題、これさえなければ、もっと強くなれると思う弱点、そういうものを具体的に持っていたのです。けれども、彼は様々な困難や苦しみを通らなければならなかった。これは、彼が好んでそこに入ったわけではありません。イエス様を信じて、救われ、どうしてもそうせざるを得ない、神様から促されて、じっとしておれなくて、選び取ったのです。29節には「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか」。心が燃えて燃えて仕方がない。イエス様の救いに与らなければ人は滅びだと思ったからです。悲惨な人生を生きている人々に、罪の中に死んでいる人々に、何とかして命をもたらしてあげたい、イエス様を伝えていきたいという切なる、燃えるような思いがあったからです。自分ができるとかできないとかの問題ではなかった。気がついたら、そこに引き出され、持ち運ばれていました。彼は、ローマにまで連れて行かれ、地下牢の中で殉教する時まで、苦しみと悩みとの中にありました。

ピリピ人への手紙へ戻りますが、4章11節に「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」。神様によって引き回されて、むちで打たれたり、難船にあって一昼夜も海の上を漂ったり、あるいは、盗賊の難に遭い、また生きるか死ぬか分からないような中を通ることによって、どんなことの中にも耐えることを学んできたのです。ここだけを読みますならば、「艱難汝を玉にする」と世間の言葉にあるように、少々のことは打たれ強くなって、へこたれなくなるという意味にも取れますが、そういうことを言っているのではありません。12節「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」。彼は自分がどんな所に置かれても、そこで満ち足りていくことができる秘訣を持っているというのです。私たちは考えてみますと、満足するということがありません。テモテへの第一の手紙に、「信心があって足ることを知るのは、大きな利得である」と言われています。「足ることを知る」、今置かれた所で、それを感謝して受けることができる。あるいは与えられた問題や事情・境遇の中で、耐えることができる力、これを満足という。どうでしょうか、毎日の生活の中で、満ち足りている、もうこれ以上文句の言いようが無いと思えるでしょうか。案外そうじゃないですね。周囲から見ると、あの人はあんなに恵まれて、幸いだろうと思うのですが、本人はそうは思っていない。あれが足りない、まだこれが足りない、もうちょっとここがこうなって、あそこがこうなってくれたらと思います。しかし、自分の思うような、願うようなどんなことをしてみても、決して満足に至りません。なぜならば、私たちはそういうもので満足することができないからです。私たちも彼と同じく、様々の問題や事柄の中に置かれます。生活の中で思いもかけないことが起こってきます。また自分の願わない道に、神様が導かれることもあります。ともすると、そんなことはできない、知恵がないからこれはできない。私は体力がないからこれはできない。いろんな事で自分の足らなさを感じます。それ故に、あれもできないこれもできない、人生は段々と尻すぼみ、あとはもう、死ぬを待つだけという風に、細くなってしまう。しかし、神様は決して私たちを先細りの人生に置いているのではない。

信仰によって生きる私たち、神様を信じてイエス様の救いを受け、神様の力によって生かされている私たちは、決して、年を取って、還暦を過ぎたから、あるいは喜寿のお祝いを家族からしてもらったし、これで私は引退だ!と、自分の力がない、記憶力も弱った、新しいことは何もできないと言って、段々、段々と自分を小さくする、これは信仰に立った生き方ではありません。私たちの生き方は、どんな状況の中に置かれても、神様はどんなことでも成し得る力を与えて下さると信じることです。そして、そこで足ることを知る、感謝し満足し、神様が用いて下さることに自分を捧げて生きるのです。パウロは様々な艱難や困難、苦しみの中を通って、飽くことにも、富むことにも、また、乏しいことにも、あるいは貧しいことにも、どんな道でも自分を置くことができる。置かれた所で力一杯生きることができると語りました。私たちもパウロと同じ信仰を与えられています。その信仰の秘訣は、今正にパウロが語っている「わたしを強くして下さるかた」にあります。私たちを生かして、地上に命を与え、日々の生活を備えてくださる方は、「わたしを強くして下さる」方でもあります。私たちには力がない、知恵もない、何かをする才覚もない。けども、どんなことでも満たす力がある方が、私たちの後ろ盾となり、私たちを握って下さって、持ち運んで下さるのだったら、私ができなくてもいいのです。私が足らなくてもかまわいません。必要な時に、必要な力を必要なだけ、どんなにでも満たすことができる神様が、私たちの味方となって下さっているのですから。パウロはそのことを様々な問題を通して体験してきたのです。パウロを先ほどお読みいたしましたように、次から次へと艱難や苦しみの中を通して、自分の弱さを徹底的に知りました。恐らく彼は私達と同じ様に、生身(なまみ)のからだを持った人間ですから、痛い時には痛い。悲しい時は悲しい。怖い時には怖いです。しかし、神様だけを信頼して、力を与えられ、神様の手に自分を捧げて持ち運ばれていく時、できないと思ったことを通り越して、できるものに変えられ、耐えられないと思ったところに、耐える力を与えられ、、思いがけない道に導いて下さった。そのような経験を通して、彼はその秘訣を語っているのです。私たちも、「わたしを強くして下さるかた」、神様が私を強くして、力を与えて導いて下さることを体験したいものです。

世の中の生き方はそうではありません。世の多くの人々の考え方は、自分は何ができるか、自分の持っている力をいろいろと考えます。私にはこういう才能がある、私にはこういう資格がある、わたしはこういうものを持っていると。以前、ある娘さんの就職を、人に頼んだことがあります。そうしたら、「何か資格があるかね」と訊かれました。それで私が「高校を出ただけで、資格なんて何もない」と答えましたら、「それは駄目だ」と言うのです。「今どき、パソコンの資格もない、経理の資格もない、それでは使いものにならない」と。それを聞いて、現実認識が甘かったと思いました。世の中では、自分が誇りとするもの、人よりも優れている、これができるというものを持たないと、言うならば付加価値がない人間は屑になるという。何かできる、資格がある、そうでないと値打ちがないと言われるのです。皆さんはどうです。「私にはあの資格がある、この免許状がある、だから私は…」と誇れますか。でも、段々年を取って、何にもすることがない。人からも必要とされなくなってしまった。後は、ただじっと死を待っている。これが世の中の考え方です。しかし、パウロは、どんな境遇に置かれても「わたしを強くして下さるかた」がいらっしゃる。だから、神様が強くして下さるならば、私にできないことがない。先ほどお読みいたしましたように、パウロは自分が弱い者であることをよく知っていました。肉体的にも弱点があり、欠陥があり、こんな私じゃ何にもできないと思っていた彼を、神様が捕らえて下さって、「強くして下さる」。私を強くして下さるから、私はできないことがない者なのだ。そのことを、絶えず信じていきましょう。

だから、お孫さんやお子さんに、何か新しいことを求められたり、奥さんから「あなたもう少しこうして下さい」と頼まれるなら、「いや、俺はもうできん、もう年だから…」と逃げない。年だからそんなものできんというのは、神様を否定しているのです。「私はこんなだからできない」、「私はからだが弱いからできない」、「私は頭が悪いからそれはできない」と、それで終るのだったら、神様は何処にいるかと問われますよ。私にはできないけれども、神様が「よし」とおっしゃって下さるなら、神様が力を与えて下されば、私にできないことがない!これが私たちの信仰です。世間では、大抵「あなたは何ができるのですか」と必ず言われます。就職の面接でも「あなたは何ができますか」と訊かれます。「私は何もできません」、「それは良かった、じゃ、採用します」とはなりません。何ができるか、他人より一つでも多くの資格があり、能力があり、それをアピールして初めて採用される。ところが神様の前では、それは駄目です。「神様、私はこれができるからさせていただきます。私はこれがあるから、します」。そんなものはいらんと、神様は言われる。神様が求めているのは、私は弱いけれども、神様、あなたによって力が与えられたら、どんなことでもできますと、弱い自分を認めて、信頼する人を求めています。私は弱くてできない者ですが、こんな者で良かったらという者を神様は採用する。

だから、教会でもそうですが、「私はこんなことができる」、「こんな才能があるから、これを用いて神様の御用のために…」と張り切る。そんなものはいらないと神様は言われる。その代わり、私はできないけれども、能力がないけれども、どんなことでも、神様、あなたが許して下さればできないことはありませんとへりくだって、自分の弱さを認めていくところに、神様の、キリストの力が現わされるのです。私たちもそうです。「おばあちゃんはこんな年やからね。あなたの言うようなことはできないのよ」と、それだったら年齢が神様ですよ。年齢に支配されて生きる。

あのアブラハムもそうだったのです。父の家を離れ、国を出、そして親族に分かれて、私の示す地に行けと言われた時、75歳でした。その時彼が、もう還暦も過ぎたし、喜寿の祝いがもう近いから、私は止めますと言えば、それでお終いだったのです。しかし、彼はそこから行き先を知らないで、出て行ったのです。私たちに求められているのはそこです。私たちを救い入れて下さった神様の御目的は、足らない、できない、何も値打ちも、価値もない私たちを通して、神様の力を現すために、敢えて選んで下さったのです。神様が私たちを通して力を現そうとしているのですから、感謝しようではありませんか。神様が許して下されば、どんなことでもできると、主に信頼しましょう。神様は、思いもかけないことをさられるかも知れません。しかし、どんなことが起こってきても、「わたしを強くして下さるかた」がいらっしゃると、信頼していきあしょう。

若い方が、社会に出て初めて試練といいますか、困難の中に置かれます。「どうも、この職場は自分の性格に向いてない」とか、あるいは「この仕事は自分の生き方と違う」とか、「こんな辛い仕事は嫌や」、あるいは「もっと別の能力があるに違いない、こんな所で埋没しているわけにはいかない、やっぱり私の持っている能力を輝かせるような仕事がしたい」とか言い始めて、悩む方がいます。しかし、私はそういう方々を見ていて思うのですが、今置かれた所で神様を信頼していくことができたら、どんなに幸いかなと思います。「自分はこんなために生きているんじゃない」、「私はこれが苦手だ、こういうことは私の趣味に合わない、好みに合わない」あるいは「自分はそういうことのために生きているとは思えない」と言って、自分本位で神様を離れて考えるならば、それでお終いです。

ところが、「わたしを強くして下さるかた」が、私に「せよ」とおっしゃるならば、力を与えて下さるに違いない。信頼して、神様から力を与えられ、困難な中をも耐えることができるでしょう。私の知っている若い人もそうですが、ある有名企業に勤めました。ところが、三年くらい勤めてでしょうか、辞めてしまったのです。会社が期待して「将来お前をこういう風にしよう」と幹部候補生といいますか、そういうものに期待をされてしまったために、重荷になったのです。自分はそんなものに向いていない。あんまりややこしい責任を押し付けられたくない、あるいは部下を指導したりなど、自分はできない。私は彼に会って話を聞きましたら、「自分はそういう弱い者であり、また、そういう能力も無いことは人よりも自分がよく知っています」と言うのです。「知ってて、それでお終いなの」と、私は言ったのです。彼は「それ以上何をするんですか」と言われました。残念ながら神様のことを知らない方だったのです。しかし、私たちはそうではありません。イエス様は「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである」(マルコ10:27)といわれました。

出エジブト記4章10節から12節まで朗読

モーセが、ホレブの山で燃えるしばによって神様に出会いました。そこで、神様から大きな使命を与えられました。あなたは今からエジプトに行って、そこで奴隷の苦しみに呻いている同胞であるイスラエルの民を救いなさい。この時モーセは80歳だったのです。これから何をするって! そんなの私にはできない。正にそうです。その時に神様は熱心に彼を口説いて、何とかこれで話は決まったと思った瞬間、この10節に「ああ主よ、わたしは言葉の人ではありません」と。私は人の前でしゃべるような、そんな資格も値打ちもない。口下手です、口の重い人間です。そう言って断ったのです。何度言ってもモーセは断り続けました。断るのが当たり前だと、私どもも思うに違いありません。そんな年になって、今更何か新しいことを…、家族も落ち着いて、静かな老後を迎えたいと思っていたところへ、突然「エジプトへ行って、救い出させ」と。その時、神様は、11節に「主は彼に言われた、『だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか』」、「お前は何を言っている。口下手だとか、口が重いといっているが、その口を作ったのは一体誰なんだ」といわれる。「私ではないか」。12節に「それゆえ行きなさい」。とにかく行きなさい。「わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。「私はあなたと一緒にいてしゃべれなかったら、しゃべれるようにしてあげるから、大丈夫行きなさい」と言うのです。しかし、13節に「モーセは言った、『ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください』」。モーセのことを笑っておれません。私達も同じことを言うのですから。「私には無理です。他の人をよろしくお願いいします。他の人を遣わして下さい」。とうとう14節に「そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた」。神様も堪忍袋の緒が切れて、「なんてしつこい奴か」、「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか。わたしは彼が言葉にすぐれているのを知っている。見よ、彼はあなたに会おうとして出てきている。彼はあなたを見て心に喜ぶであろう」、「あなたは彼に語って言葉をその口に授けなさい。わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、16 彼はあなたに代って民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代るであろう。

17 あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい」。この時、神様にはチャンと御計画があったのです。

「何だ、そんなんだったら、神様、早く言ってくれよ、……」と言うのですが、それは私たちが結果に頼ろうとするからです。見えない、先のことは分からないけれども、神様が私を強くして下さると言われた約束を信じて、踏み出して行く。この時、あまりにもしつこかったから、神様も、彼のためにその先っぽをちょっと見せてあげたのですね。そして、兄弟アロンを呼んで下さって、アロンの方が口がたつことは良く知っているから、お前が語るべきことを、とにかくアロンに話せ、そしたら、彼がスピーカーになってくれるからと言うのです。お前は私の言うことを聞いておけばよろしいと。そして、お前の杖を持って行きなさい。その杖というのは、神様の力を現す信仰の杖なのです。20節「そこでモーセは妻と子供たちをとり、ろばに乗せて、エジプトの地に帰った。モーセは手に神のつえを執った」。素晴らしいですね。「モーセは手に神のつえを執った」。ここで初めて、モーセはそれからの40年間神様から引き回される生涯へ、新しく人生を踏み出していくのです。この時、彼には妻もいました、子供もいました。彼らを連れて、かって逃げ出して来たエジプトの地、奴隷の地へと戻っていくのです。どうぞ、私たちも、「年を取って口が重いから、知恵がありませんから、健康がありませんから…、神様、この辺で辞めときます、誰か適当なほかの人を」と言わないで、「主よ、こんな私で良かったら、どうぞ、あなたの力を満たして遣わして下さい」と、信仰に立って歩もうではありませんか。これが私たちに今与えられている生涯です。

ピリピ人への手紙に戻りますが、「わたしを強くして下さる」神様は、どんな方であるか。19節に「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」。神様の中にある無尽蔵の富を用いて、私たちの一切の必要を、どんなものでも満たすことがおできになる。だから、この神様に信頼して、神様を呼び求めて祈って、主から毎日毎日朝ごとに新しい力を与えられていこうではありませんか。神様が私たちを強くして、用いて下さるからです。

士師記を読みますと、サムソンが神様から選ばれて士師となった時、ある所でライオンに出会います。その時、彼はそのライオンの顔を引き裂いて力を現しました。大力サムソンと言われますが、実は、彼には大力はありません。その記事を読みますと神の霊が彼を奮い立たせてとあります。神様から力が注がれた時、ライオンを素手で打ち倒すだけの力が与えられた。ペリシテ人と戦う時、彼は孤軍奮闘しましたが、手には何も武器がなかったのです。ふと見ると、ろばが死んで干からびた、あご骨が転がっていた。彼はそのロバのあご骨を取って、千人のペリシテ人を殺したと記されています。素晴らしい力があったり、銃があったり、道具があったわけではない。彼は、ろばの骨、それも干からびてもろい骨を使って、神様はサムソンに力を注いで敵に打ち勝たせて下さる。彼がそうやって神様の力の中に自分を置いている時、神様はできないことをできるようにして下さった。

「私はこんなことは無理、もうできない」と言う。そんなことはありません。19節に「あなたがたのいっさいの必要を」とあります。すべての必要を満たして下さいます。ただ,神様は必要を満たすのであって、いらないものまでは満たされません。きちんと、必要なものを必要なだけ、その業に足るだけのものを与えて下さる。サムソンもそうです。ですから、ことに当たる度毎に神様は霊を注いで、サムソンに力を現して下さいました。パウロもその力に導かれ、満たされて、あの過酷な伝道旅行をまっとうしたのです。私たちも同様です。今自分の力でこの世を渡ろうなんて、到底できません。日々、神様からの力によって、強くしていただく。神様を後ろ盾にして、私は弱くてもいい、足らなくてもいい、必要な時に必要なだけ、ちゃんと、神様が力を注いで下さいます。私たちを持ち運んで下さるのですから、どうぞ、この方に堅く信頼して、「せよ」とおっしゃること、神様が求めたもうところに、大胆に、力強く従っていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


聖書からのメッセージ(6) 「恐れるな」

2013年09月27日 | 聖書からのメッセージ

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マタイによる福音書 10章24節~33節を朗読。

28節に「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」。
毎日の生活の中で不安があったり、失望したり、あるいは喜んでみたり、悲しんでみたりと、いろんなことがありますが、その中でも厄介なのは、「恐れ」というものです。恐怖心が芽生えてくる。何かことが起こると不安から、恐れへと心が変わります。28節に「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と、イエス様は語っています。また31節にも「恐れることはない」と言われます。恐れること、恐怖を覚えることが心からなくなれば、人生はがらっと変わってしまうでしょう。というのは、恐れるとき、私たちは力を失います。体から力が抜けた、腰が抜けた、立ち上がれず、へなへなへなと、まるで風船から空気が抜けたように、萎えてしまう。立つことができません。生きることも出来ないかもしれません。それほどに恐れは私たちを弱くするのです。

イエス様が語っている、「からだを殺しても、魂を殺すことのできないもの」とは何でしょうか。それは日常生活、日々の生活の中で出会うできごとや事柄、目に見える事情・境遇です。まず、病気を恐れます。私もそう言う経験をしました。病気に直結して死を恐れます。恐れると、力を無くします。しょげてしまいます。希望を失います。でも、イエス様はそんな肉体を衰弱させる病気であろうと、それは魂を殺すことのできないものとおっしゃいます。肉体が死ぬと魂も一緒に死んでしまうように思いますが、聖書には「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12:7)と記されています。肉体は確かに病気に蝕まれ、衰弱したり、体力を失っていくに違いありません。しかし、だからといって、病気が私たちを支配しているのではない。私たちを支配しているのは神様以外にありません。だから、病気も神様の手に握られていることを忘れて、恐れが生じる。私も病気を宣告された時に、正直なところ恐れました。そして落ち込みました。しかし、その時に、父がよく言ってましたが、「病気で人が死ぬわけではない」という言葉を思い出しました。神様が「人の子よ、帰れ」と定められた時が来れば、例え若かろうと年寄りであろうと、どんな人でも、そこでその使命が終るのです。病気があるとか、ないとかが問題じゃない。周囲を見ていて、病気の人が全部死ぬわけではありません。死にそうだという人だって、神様の許しがなければ、決して死ぬことはありません。イエス様がそう言われたように、私たちの体は必ず滅びていくものです。時が来たら失われていきます。しかし、それは神様が定められた時が来るっていうことが大切。そうでない限り、何があっても決して死ぬことはない。また、神様の中に自分を置いていると、恐れないで生きることができるのです。

また、私どもは人を恐れます。あの人は苦手やなぁ、あの人に会うとまた何を言われるか分からんと、そういう経験があると思います。私も以前は、自分が非常に潔癖症でした。高校生、大学生のころ、正義感に溢れていましたから、「あの人は、ああいうところがあるから、もう嫌い」と思ったら、その人の顔を見るだけでも、青くなる。体が震えて来る。ましてや、同じ部屋でその人と一緒の空気を吸ってると思うだけで、息が詰まりそうに思う。あの人と会うのが嫌やだと、一種の恐れを持つのです。母が大変心配して、「どうしてそんなにまで、人を嫌わなきゃいけない」といわれましたが、自分でもどうにもならないのです。自分は苦しいですから、そうなりたくないと思いながら、恐れがグッと支配してきます。私は人が許せないという非常に狭い世界の中にいたのです。だから大変苦しかった。それでいて、自分は神様を信じている、信頼している、私はどこも非の打ち所のない立派な人間だと誇っていました。だから、見る人、会う人、皆が不合格で欠陥品ばかりです。合格点が与えられるのは自分だけですから。そんな思いで生きていましたので、なかなか、神様の愛がわからない。その結果、自分にほとほと疲れ、行き詰っていたのです。その時に聖書の「ルカによる福音書」にあるお言葉、イエス様の十字架の上で語って下さったお言葉、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)の言葉に出会った時に、「私を苦しめる人を許してやって下さい」と偉そうに言っていた自分を刺されました。自分はそれまで、イエス様が「許したまえ」、「あの人たちを許してやって下さい」と言う時に、自分もイエス様と同じ視点に立っている。あの嫌な人から自分はこんなに苦しめられているので、どうぞ許してやって下さい、と。

イエス様も苦しみに遭って、相手をゆるしている。私も、あの人が嫌いだから、どうぞあの人を許してやって下さい、とこう読んでいる。ところがその時はさすがに違っていたのです。自分は今までイエス様と同じ立場に立って「彼らを」と、そういう向きで読んでいた。ところが、その時は、攻守逆転と言いますか、許されなければならないのは、他人ではない、あの人でもこの人でもない、私なんだと。まるで雷に打たれたような思いがしましたね。今でも忘れられませんが、「こうやってイエス様がわたしを赦して下さったから、イエス様がとりなして下さっていらっしゃるから、今日も滅びないで神様の赦しによって生かされている自分だ」と、心にどーんと悟ったのです。これは大きな体験でした。それから今まで、肩肘張ったといいますか、あいつが、こいつがと、まるでハリネズミのように、棘で一杯によろっていた自分のトゲが全部抜けていきました。それっきり、人がどうとかこうとか、あの人が気に入るとか気にいらんとか、そんなことは全然気にならなくなった。がらっと変わったのです。本当に神様の憐みだったと思います。そのことを教えられた時に私の心が変わった。それは、イエス様を体験した一つの出来事でもありました。それから人を恐れる事を、あるいは人を激しく憎んだりすることがなくなりました。恐れるから憎むのです。

恐れるから、恐怖を抱くから、それを打ち消そうとして、相手を攻撃するのですね。人を非難している時は、自分に弱みがある時です。自分が潰れそうだから、あえて攻撃するのです。これは私たちの心の赤裸々な姿です。恐れが絶えず私たちを攻めて来ます。あの人からどう言われるだろうか、この人から何を言われるだろうか。人の言葉や、人のすること、成すことについて、絶えず恐怖を覚える。何処かで、恐れを避けて、逃げて隠れているというのが、私たちの日々の歩み方です。でも、イエス様は28節に「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」とおっしゃる。病気を恐れたり、人を恐れたり、あるいは経済的なことも恐れますね。寿命は長く伸びるけれども、貯金の方は減ってしまって空っぽになる。私の命が減っていくのと、貯金が減っていくのとどっちが早いかしらと心配でならない。皆さん、そういう不安、恐れを抱いている。

サムエル記上の18章12節から14節まで朗読。

12節に「主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた」と記されています。ダビデは祭司サムエルによって油注がれ、次なる王に任命されました。でもまだ,サウル王様が君臨していました。王様であることに変わりはありません。ところが12節に「主がサウルを離れて」とありますように、サウル王様が神様の御心にそむいてしまったため、神様はサウル王様を見捨てられたのです。神様から離れてしまった時に、サウル王様の中に恐れが生まれました。「ダビデを恐れた」とあります。ダビデが次なる王様に任職の油を注がれたということは確かであります。しかし、だから恐れたのではなく、サウロ王様の心が神様から離れてしまった。言い換えると、サウロ王様の前から神様がいなくなってしまったのです。私たちもそうです。人を恐れたり、お金が無くなることを心配して恐れる時、心が主から離れているのです。その時、私たちに恐れが生まれてきます。いや、そんなことはない。私に有り余るだけのお金があったら、恐れはないと思うかも知れません。あるいは、踏んでもけってもどうされても病気にならない健康な体がありさえすれば、私は恐れないと思うかも知れません。しかし、私たちの目に見える条件をいくら重ねても、どんなことをしてみても、神様から心が離れてしまった時は恐れます。あの人のようになったら、私はこんなに恐れなく、戦々恐々と身を縮めて生きることはいらない。あの人のように健康があり、立派な家族がいて、お金もあって、あれもあって、あれだけ条件が整ったら、決して恐れないで生きることができると思いやすいのです。

でも、これは絶対にあり得ない。その証拠にですね。お金がこれだけ有ったら安心と思って、それだけ持って御覧なさい。安心しないですよ。やっぱりこれではちょっと足らない。私もそうだったのです。初めて社会に出て勤めた時、その頃は月給4万2千円でした。で、最初に給料貰った時、びっくりしました。こんなに貰っていいのかしら、こんなに貰うほど働いてないのだけど、申し訳ないことをしたと思いました。でも嬉しかった、感謝しました。半年くらい経ったら、次第にこんなものかなぁと。一年くらい経ったら、ちょっと足らないじゃないかと思う。次の年には給料があがりましたが、それでも満足しないのです。「いや、やっぱりちょっと不満やなぁ」と。足る事を知れと聖書にありますように、足ることを知る者は幸いです。皆さん、満足するっていうことはありますか。何時も何かが不満です。確かにある所まで来ると、一瞬、良かったと、思いますが、次の瞬間、大丈夫だろかと心配になります。有り余るほどお金があったらよかろうと思ったら、今度はそれを減らすまい、無くすまいと別の恐れが生まれてきます。

だから、イエス様は、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者」、そういうものを「恐れるな」とおっしゃったのです。その恐れは何処から来るかというと、今読みましたように「主がサウルを離れて」、神様から人が離れた時に恐れるんです。だから世の中の人は神様を離れていますから、毎日毎日何かを恐れている。私たちもかつてはそうだったのです。ところが、今はそうじゃないですね。イエス様によって、神さまのところに帰らせて頂いた。イエス様は私たちを救って命の源となって下さった。そして、恐れることの無い永遠の命、魂を決して亡ぼすことの無い、恵みの中、救いの中に入れて下さった。だから、何も恐れなくていいのです。ところが、恐れることが多々あります。それは、心が神様から離れているからです。

一方、14節に「またダビデは、すべてそのすることに、手柄を立てた。主が共におられたからである」。ダビデには、神様が共についていて下さって…。神様との交わりの中に置かれたのです。これが、恐れを取り除く秘訣です。というのは、神様に立ち帰って、神様と共にある時、恐れることの無い生涯を生きることができる。その実例が創世記の始めに記されている。エデンの園の生活には恐れが無かったのです。アダムとエバと共に神様がいて下さって、そこでは裸で恥じないというのです。何一つ恐れと不安を抱かせる陰は無かったのです。何時から人は恐れるようになったのでしょうか。それは神様を離れた時です。エデンの園の記事を思い出して頂きたいと思いますが、蛇に誘われてエバが木の実を取り、そして夫に与えました。「彼らの目が開けて」とあります。彼らは、自分が神になろうとした時に恐れが生じてきました。神様に顔を合わせられなくなって、神様を避けて彼らは茂みに逃げて、隠れてしまいました。隠れてしまうってことは、恐れの始まりです。

どうぞ、私たちが何か恐れることがあるならば、その時、心が神様の臨在から、神様と共に有る恵みから離れているのです。それでも神様はあのアダムとエバを、罪を犯した彼らを捜し求めて下さいました。「あなたはどこにいるのか」と。今も、私たちに対して、その思いをもってらっしゃる。だから私どもは神様の近くにいると安心します。しかし、神様から離れると人は恐れます。神様の臨在から離れるということは、人が罪を犯すことなのです。だから私たちには恐れが生まれてきます。犯罪を犯した人が、捕まらないように逃げ隠れしている時、決して平安はありません。常に恐れがあります。私も経験が有ります。といっても、別に犯罪を犯したわけではありませんけれども…。高速道路を走っていると、時々赤いランプがくるくる回っている所があります。別にパトカーがいるわけじゃないのですが、そういう仕組みを置いているのです。120キロくらいで走っていると、その明かりを見てドキッとするわけです。スピード違反している事を知っているからです。罪を犯しているから恐れが生まれるのです。法定速度で走っていたら、後ろからパトカーが来ても悠然としている。スピード違反して、10キロ20キロオーバーして走っていると、前の方でちょっと赤いものが見えたらキュッとブレーキを踏むのです。自分がしてはいけない、あるべき場所、そのルールから外れているから、恐れるのです。人が人として生きるルールは伝道の書の12章にありますように、「神を恐れ、その命令を守れ。これは全ての人の本分である」と。言い換えると、神様の前に立って、いつも神様と共に生きること、これが人の本分です。本分を尽くしているとき、平安で、恐れが無い。ところが、まるでスピード違反した人のように、私たちがルールを外れて、人の本分から外れて、神様を離れて自分の力で突っ走っている時、人を恐れます。事情境遇を恐れます。いろんなものを恐れるのです。そして、力を失います。

もう一つその先を読んでおきたいと思います。サムエル記上18章28、29節朗読。

サウル王様は誠に気の毒です。神様から離れて、そして主が共におられないと知った時、彼の心が恐れに支配されていきます。しかも、その恐れはどんどん、どんどんと深まっていきます。やがて、この後、サウル王様は悪夢にうなされるようになります。精神が狂っていきます。これは人が神様を離れた姿です。一方、ダビデは神様が共にいらっしゃる事を信じていましたから、サウル王様を恐れません。力に満ちて、成す業が全て祝福に満ちている。ところが、このダビデも失敗します。

その先の21章の10節から13節を朗読。

ダビデは主が共にいて下さった時、彼はサウル王様を恐れることなく、その手の業を神様は祝福して下さいました。ところが、サウル王様がダビデの命を狙うようになって、サウル王様の手から、彼は逃げておりました。とうとう、祭司アヒメレクの所に逃れましたが、そこにもサウルの手下がいまして、ダビデが隠れているってことを通報されそうになり、大慌てで逃げました。10節に「ダビデはその日サウルを恐れて」とあります。その時、彼の心は神様を離れていました。そして、ガテの王アキシの所に行きます。ガテというのはペリシテ人のことですが、普段からイスラエルと敵対している国に身を隠さなければならない、まことに惨めな、憐れむべき状態に陥って行くのです。私たちも恐れた時に失敗します。何かを恐れた時に力を失います。ガテの王アキシの所へ身を隠しましたが、ペリシテ人たちが「どうもあの男は、ダビデというイスラエルの国の次なる王様じゃないだろうか」。イスラエルの人々が、サウル王より、ダビデの方が力があって立派だと歌っている人ではないかと、噂が流れた。12節「ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れた」。ここで、注目しておきたいのは、「ダビデは、これらの言葉を心におき」というのです。言葉によって、恐怖は生まれてきます。あの人があんなことを言った、この人がこんなことを言った。面と向かって言われたわけではないが、回りまわって聞こえてきた、その一言で人は得体の知れない恐怖に、心が囚われます。晴れやかであった心が一瞬にして曇って、不安が襲ってきます。恐れが大きくなると、人は夜が眠れなくなります。喜びを失います、力を失います。とうとう、ダビデは、「ガテの王アキシを、ひじょうに恐れた」と。サウル王様を恐れて、その恐れから逃れようとして、アキシを頼った所が、今度は、アキシの方をもっと恐れなければならない悲劇に陥っていくのです。

私たちも同じ事をやるのではないでしょうか。これが怖いと思ったから、別のものによって恐怖を逃れようと頼っていく。そしたら、そこでもっと大きな恐怖に捕らえられるという経験を、過去に何度もしてきました。それでもまだ、何か他のものが役に立つように思う。しかし、恐れを取り除くものは、神様に立ち帰ること以外に無いのです。ダビデはアキシを恐れて気違いの振りをしたとありますが、精神が正常に働かなくなるのです。あんなに素晴らしい神様の祝福に満ちていたはずのダビデでありますが、神様から離れた結果、心がおかしくなってしまう。常軌を逸した行動に出てます。我々も同じです。決してダビデが特別じゃない。また、あんなに信仰深かったといいますか、神様が共にいて下さったダビデでありましたが、ちょっとした小さなきっかけで、神様を離れて、恐れが心にスーッと忍び込んだ瞬間から、彼は大変惨めな、哀れな、情けない状態になっていく。この恐れを取り除くには、神様に立ち帰って、信頼する以外にないのです。

ですからもう一度始めに戻りますが、マタイによる福音書の10章28節「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」。神様を恐れて、神様を大事にして、神様のみ声に先ず従っていくこと、そこに初めて、恐れを遠ざけていく、恐れに打ち勝っていく道があるのです。29節以下に「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」。すずめはありふれた鳥で、そこらを飛んでいても、誰も注目するような鳥ではありません。そんな鳥ですらも、神様の許しがなければ地に落ちることはない。人が捕まえようと思っても捕れない。神様の手の中に握られている。私どもはそれよりも優れたものではないかと。どうぞ、神様が私たちを養い、この地上の命を与え、生活する日々の一つ一つの業を備えてくださる方である事を信じていきたい。そこにいつも心を向けていますならば、恐れないで生きることが出来るのです。30節に「またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている」。私たちのことは何もかも全て知り尽くしていらっしゃる神様。自分のことは自分が一番知っているようで、案外に知りません。ここに有るように、頭の髪の毛の数も知りません。今朝10本抜けたから、残りは33万何千何百何十何本だな…、などとは言えません。熊本県の出水と言うところに鶴が渡って来ますが、「現在の鶴の数3225羽」と書いてある。私はそれを見て、良く数えるなと思います。この端数の5というのはどうやって分かるのかなって…。私達は自分の髪の毛一つ分からないのです。自分のすることは何一つ知らない。

ところが、詩篇の139篇を読んで御覧なさい。私たちの立つのも、座るのも、全て神様は知り尽くしていらっしゃる。言葉で言わない先から、私たちの心の思いを知っていらっしゃるというのです。この神様が私たちを養って下さる。私たちはその方の手に握られている。この事を、いつもしっかりと、心に置いていきたい。そうすれば「神様、あなたが私の主です。あなたが私を養って下さっておられますから、このこともあのことも、つい心配しがち、恐れを抱かせるものでしたが、大丈夫です」と言えるのです。どうぞ、ここにありますように、30節に「またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。31 それだから、恐れることはない」。「それだから、恐れることはない」ですよ。あなたの事を全部知っているのだから、心配するな、恐れるなとおっしゃる。「誰が私のことを知っている人がいるだろうか?あれだけ言葉を尽くして語っているのに、ちっとも通じない。私の苦しみは私しか知らない」と、思っているのではないでしょうか。ところが、とんでもない。神様は全部ご存知でいらっしゃる。だから、神様の前に憚ることなく出て、神様の前に心を注ぎ出して、明け渡して、神様と共に生きることが出来ます。これが恐れないで生きる道です。これ以外にありません。そこにありますように31節に「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」。「あなたがたは多くのすずめよりもまさった者である」。だから、自分で何か恐れて、身を縮めている時、「あぁ、そうだ、私は今雀より劣っているんだな」と思って下さい。雀を見たら「あの雀より私は落第生やな」と…。しかし、こんな私だけれども、神様は命をかけて愛して下さっている。

「限りなき愛をもって、汝を愛せり」と、本当に愛して下さる主がおられるではないか。この神様こそが生殺与奪の権を持っている。生きるのも死ぬのも、この方が握っていらっしゃる。そして、私たちを永遠の御国に導きいれて下さる方である。どうぞ、そこまで信頼して、神様の前に絶えず自分を置いていきたいと思います。これが恐れないで人生を生きる秘訣です。この神様を絶えず前におき、右において、臨在と共に日々歩みたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。