いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(52)「愛に応えて」

2013年11月12日 | 聖書からのメッセージ
出エジプト記34章1節から10節までを朗読。

6節に「主は彼の前を過ぎて宣べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神』」。

モーセの生涯については、聖書を通して、またそれ以外で映画などにも取り上げられていますから、ご存知のとおりです。かつて、アブラハムの子孫であったイスラエルの民を、神様は、御自分の民、神の民として選んでくださいまして、この民を愛し、導いてこられました。それはアブラハムに約束された約束を忠実に守ってくださったのです。ところが、イスラエルの民は、飢きんによる食糧難のためにエジプトに移住することになりました。それから四百数十年の長きにわたって、エジプトの国に住んでいた時代があります。その間に、王様が次々と変わり、なぜ自分たちの国に異邦人であるイスラエル人が住んでいるのであろうか、と疑問を持ちました。そしてとうとう彼らを奴隷として使役するようになった。

神様から愛され、選ばれた民でありながら、大変苦しいつらい生涯を生きなければならない。イスラエルの人々は、祈って神様の救いを求めたのです。どのくらい長い年月祈ったか分かりませんが、やがて神様は、ときを定めて、一人の指導者モーセを起こしてくださいました。ついにエジプトの国から、イスラエルの民を救い出すことになったのです。これが「出エジプト」といわれる出来事です。

モーセが度々「我が民、イスラエルを奴隷から解放するように」と要求しますが、エジプトの王様、パロは非常にかたくなになりまして、頑として聞き入れません。とうとう神様は、最後の手段で大変悲しい出来事を起こしました。それは、エジプトに住む家畜も人間もすべてのものを含めて、そのういごを殺してしまうという厳しい定めを実行なさったのです。それにはさすがのパロ王様も降参しまして、イスラエルの民を解放しました。大喜びでイスラエルの民はエジプトを出ました。神様の不思議な力によって、自分たちは解放されたのだということを知っていたのです。ところが一週間ほど旅を続けてきたとき、エジプトの王様が心をひるがえして、「やはり許せない」と、エジプトの軍勢を送ってイスラエルの民を追いかけたのです。イスラエルの民は百万人前後の民です。大移動していくわけですから、私達の家族が夏休みにどこかへ出かけるのとはわけが違う。大変な大事業です。彼らが進んできたところ、前は紅海が横たわり、後ろからはエジプトの軍勢の挟み撃ちになってしまった。そのときイスラエルの人々はつぶやきました。「こんな所に来て殺されるくらいだったら、エジプトにいたほうがよほど楽だった」と。

「出エジプト記」を読むと、彼らの心がコロッと変わる。読んでいると、彼らはバカな奴だなと思うでしょう。しかし考えてみると自分もそうなのです。「のど元過ぎると熱さを忘れる」と言うでしょう。つい2,3日前までは、「苦しいからここから助けてください」と祈っていた彼らが、祈りに応えられて助け出されたときは、大喜びをしてエジプトを出たのです。ところが次に苦しいことが起こってきた途端に、「こんなはずじゃなかった」と言ってつぶやく。考えてみたら、私たちも、同じ事を何度繰り返していることか分かりません。一生懸命に「この子供たちが、こうなって欲しい、ああなって欲しい」と願いを込めて祈ります。さぁ、子供が大学に入った。あぁ、うれしいと、大喜びです。祈って、祈って、子供が願っていた第一志望校に入れました。喜んで感謝します。そういうお母さんがたから、お電話をいただく。私もお祈りをしていますから、喜んで「よかったですね。これで安心しましたね」「もう安心です。神様は、こんなに願いを聞いてくださって、うちの子は能力もなく到底入りそうもないのに、神様は道を開いてくださいました。感謝です」。一週間たって、「先生、大変なことになりました」。「どうしたのですか」、「入学通知と共に校納金の請求書がきて、びっくりしました。分かってはいたけれど、通らないと思ったから、受験させたのですが、合格したからこれは払わなきゃならない。こんなんだったら、不合格が良かった」と、つい一週間前、あんなに合格を喜んでいた人が、コロッと手のひらを返したように、変わる。笑えないですよ。我々も皆そうですから。神様に一生懸命にお祈りをして、「こういう就職ができた。うれしい」と感謝をして、一ヶ月くらいたったら、「こんなはずじゃなかった、俺はもう辞めたい」と言い出す。半年もしたらもう辞めてくる。神様に対してそういうものなのだなぁと思います。だから、「出エジプト記」を読まれたら、この民が、「何て愚かな民よ…」と思ったら、自分のことだと思ってください。

イスラエルの民は救い出されて喜んだはずなのですが、前に紅海、後ろにエジプトの軍勢がやってくると、彼らはつぶやいてモーセに文句を言ったのです。そのとき、モーセは神様に祈りました。「神様、どうしましょうか」。神様はモーセに「お前の杖を伸べよ」と。杖を伸べよと言うだけです。何が起こるか分からない。彼は言われるとおりに杖を紅海に差し伸べました。そうしたら、何と驚くことか、海が二つに分かれて、そこに乾いた地が現れた。イスラエルの民は大喜びをして渡った。後から追ってきたエジプトの軍勢も、それ!とばかりに、その乾いた道に入って、中ほどに来たときに、海が元に戻ってエジプトの軍勢はすべて滅び去ってしまいました。

皆さんもご覧になったと思いますが、「十戒」という映画が、昔ありました。水が渦高く上がって、道が開ける。そのときイスラエルの民は、つぶやいたのを忘れて、海を渡って向こう岸から、エジプトの軍勢が海の中に沈んでいくのを見ながら、神様に感謝して喜んだのです。喜ぶのもいいのですが、ひっくり返るのもいとも簡単です。そんなに喜んだら一生涯忘れないかというとそうはいかない。それからの荒野の旅路を神様が共にいて、導いてくださいました。彼らの移動していく前と後ろに、昼は雲の柱、夜は火の柱を立てて、神様は御自分が共にいらっしゃる印、証詞を立ててくださいました。そして彼らと共にいてくださったのです。

ところがその旅路は荒野ですから、楽な旅ではありません。苦しいこと、つらいことがあります。食料が足らなくなる。始めの幾日分は用意したでしょうが、いよいよ足らなくなります。パンが食べたいとつぶやき始める。またイスラエルの民は「こんなひもじい思いをするのだったら、エジプトのいたほうがよかった。エジプトにいたらパンが沢山食べられた」。そんなはずはなかったのですが、ひどい目に遭うと昔がよかったように見える。聖書に書いてあるとおりです。彼らがつぶやいたときに、またモーセは神様に執り成して祈りました。そうしたら、神様は、マナを降らしてくださいました。朝起きると一面に、白いものが雪のように降り積もっている。それを集めてパンを作った。そうしているうちに、今度は肉が食べたいと、次から次へと要求が出てきます。これは私達のありのままの姿ですね。人間というのは、こんなにわがままで自己中心な……、それに対して神様は、次から次へと彼らが求めるところに従って応えてくださる。肉が食べたい。「俺たちはエジプトにいたときは、毎日、肉鍋のごちそうばかりであった」と。そんなはずはないのだけれど、そう思えるのです。皆さんでもそうでしょう。体をこわして食べられなくなってくると、「元気で食べていた時代はよかった。あのころは毎日あれを食べた、これを食べた」、食べてもないことを夢みたいに思うのです。イスラエルの人々もそうだったのです。そうやって、昔を懐かしんで、今与えられている恵みを感謝ができない。そのときもモーセは、神様に執り成して祈りました。神様はうずらの大群を送って、彼らの鼻や口からうずらのにおいがプンプンするくらいに、飽きるほどに食べさせられました。神様は本当に懇(ねんご)ろに、彼らの求めに応えてくださいました。

そうやって旅路を導いて、シナイ山に近づいたとき、神様は、民を山のふもとにおいて、モーセに山に登ってきなさい、とお命じになりました。神様がこの山に下ってくるから、山の周囲から一歩も中に入ってはいけない。モーセ以外はそこに踏み込んではいけないと、境界線を設けられました。その周囲にイスラエルの民は宿営したのです。指導者モーセは、「私は、ひとり神様とお会いするためにシナイ山に登るから、あなたがたはここにいなさい」と、山へ登って行った。ところが、ウンともスンとも連絡がない。連絡のしようがありません。今のように携帯電話があるわけではありません。ただ、「行ってくるから」だけで、いつ帰るとは言わない。10日たっても下りてこない。何日ということは分からないのです。20日たち、30日たった。全然ウンともスンとも連絡がない。モーセは死んだに違いない。自分たちはここにいても仕方がないから、「私たちの神様は、どうも頼りにならないから、自分たちで神様を造ろう」と言って、女の人の身に付けていた貴金属を集めて、それで金の子牛を造りました。そしてアロンに「お前がリーダーになれ」。そうして彼らは神を造ったのです。偶像の神を造った。そうしている間、モーセは神様の力に覆われて、神様の霊に満たされて、神様からの言葉を聞いていたのです。後に十戒と言われる10の戒め、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という言葉から始まる十戒めと、それから続いて神様の律法、人々が守らなければならない、神様の民として神様にふさわしい民になるように、求められた正しい生き方のルールを、神様は懇ろにモーセに与えられたのです。

そのことが出エジプト記、民数記や申命記などにも記されています。そのとき石の板に十戒を書いてくださいました。ところが、神様が急に、「早くこの山を下りなさい」と言ったのです。「あなたの民は、あなたの留守にとんでもない罪を犯しているから、早く下りなさい」。モーセは急いで山を下りてみますと、事もあろうに、神様が第一にしてはいけないと戒められた偶像礼拝、神ならぬものを神として、人の造った金の子牛を、みこしのように担いで踊りまわっている。あまりの出来事にモーセは、怒り心頭にきて、激しく怒った。そのとき持っていた石の板を彼らに投げつけたのです。

とうとうその十戒がなくなってしまった。神様はモーセにもう一度山に登って来るようにいわれました。それがこの34章1節に「主はモーセに言われた、『あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい』」。あなたは、前のように石の板二枚を切って、それを持ってシナイ山の頂に登ってきなさい、とお命じになりました。このときも3節にありますように、「だれもあなたと共に登ってはならない」。ただ一人で来なさい。そして「だれも山の中にいてはならない。また山の前で羊や牛を飼っていてはならない」とお命じになりました。4節に「そこでモーセは前のような石の板二枚を、切って造り、朝早く起きて、主が彼に命じられたようにシナイ山に登った」。彼はその石の板を持って、登りました。そのとき5節に「ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた」。ここで、神様は、雲の中でモーセに近づいてくださって、彼に語りかけてくださいました。最初に語ってくださったことは、「主の名を宣べられた」と記されています。神様が、御自分の名前を明らかにする。「名は体を表す」という言葉がありますが、名前はその人の内実といいますか、本質を語りだすものということです。だから、ここで神様が、名前を言うのは、モーセに対して御自分がどういうものであるか、神様という御方が、どういう御方であるかを証詞する、証明する、言い表したのです。

私どもも他人になかなか本心を見せることはしません。初対面の人に、自分の過去から今に至るまで、洗いざらいしゃべることなどしません。初めのうちは当たり障りのないあいさつをしたり、お互いに相手はどういう人だろうか、あの人はどんな性格で、どんな考えの人かと探りながら、交わりを繰り返しているうちに、「この人は信頼できる」「この人は無二の親友だ」と思えるようになってきたとき、初めて「実は私は、こういう……」と、今まで言わなかったことを明らかします。

それまでも、確かに神様はいらっしゃったし、モーセと語ってくださいました。ホレブの山で燃えるシバの中から、初めてモーセに出会ったときからズーッとご自身を現してくださいましたが、このとき、神様はもっと深く、御自分の本性といますか、本質を語ってくださいました。モーセをどれほど信頼したかということです。神様は、モーセを大変信頼して、何もかも打ち明けてくださいました。

すから、5節「主の名を宣べられた」というのは、非常に大切なことです。神様は、6節に「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」。わたしは神である。しかしその神様は、どういう神様かというと、「主、主」と繰り返して「主」という言葉を語っています。これは、「主」という以外に表現のしようがない。主というのは、ご存知のように、「中心」とか、すべてのものを束ねている力、これを主というのです。家の主は誰かというと、ご主人というでしょう。主(しゅ)なる人、主(おも)なる人、中心にある人、いずれにしても、主人というのは、その家のぬし、中心です。神様は、わたしがすべてのことの中心にあり、全てのことの根源だと、繰り返して、「主、主」と言っているのです。だから、私たちが、自分の健康、自分の生涯、自分の仕事とか、自分の老後だとか、自分がすべての主だと思っています。ところが、そうじゃない。神様は「私が主だ」と言っている。神様を信じるというのは、ここです。主でいらっしゃる御方が、私を今日も生かしてくださる。今日こうして礼拝に集うことができたのは、私が決めてきたのではない。主が私をここに導いてくださいましたと信じる。これが神を信じることです。

また、日常生活で、朝から晩までいろんな業をします。買い物に行ったり、友達と楽しい食事に出かけたりします。一日のスケジュールを全部自分で決めているように思います。しかし、神様は、「主であるのはわたしだ」と言うのです。一日、一日のスケジュールも、実は神様が許して、そのことをさせていらっしゃるのであって、私が好きだから、したいからしているのではない。表面的には自分がしたいようにしていると思えます。だから、自分が何もかも知っていなければならないし、何でも自分が責任を持って、自分で取り計らって、持ち運んで、努力してやらなければいけないと思っているのですが、どっこいそうではない。世界中のどんなことの中にも、主である方が、そこにおられるのです。ところが世間の多くの人々は、それを認めない、信じようとしないから、身勝手なことをしているだけです。しかし、神様はいないのではない。家庭の中に、子供の中に、私の仕事の中にも、どんな所にも主と名乗っておられる方がいらっしゃる。

しかも、その神様は、あわれみ豊かな、恵み豊かな方です。私どもは、どちらかというと、神様は怖いものですね。よくいいますように、「山ノ神」とか「何とかの神」と、神様というのは「触らぬ神にたたりなし」と言われるように、たたる神様、怖い神様というのが、日本人の多くの人々が感じることです。だから、神様のご機嫌を取って、「神様、神様」と、よいしょ、よいしょと、みこしを担いで祭り上げて、ご機嫌を損なわないようにするのが、日本人の神様に対する考え方です。天災や人災、さまざまな災いが起こると、これは神様がたたったのだ。神様が怒っている、何か気に障ることがあるから、何とかなだめるために祭りをする。祀(まつ)るということをするのです。しかし、聖書で語られている真(まこと)の神様は、そのような、たたる神様ではありません。6節に「あわれみあり、恵みあり」、あわれみと恵み豊かな神、「怒ることおそく」、怒ることおそいことは、じっと我慢することのできる神様、耐え忍んでくださいます。「いつくしみと、まこととの豊かなる神」、慈愛に富んで、真実な神様でいらっしゃる。これが、モーセを通して証詞しされた神様のご性質です。

神様は、あわれみがあり、恵み豊かな御方、慈愛に富み、真実をもって私たちの主となってくださる、中心に立ってくださる神様です。私たちの中心にいらっしゃる方、生活のすべてを貫いて、それを握っている方がどなたであるか。そのことをしっかりと、知っておきたいと思います。神様が私の生活の隅から隅まで、一切の主となってくださって、私たちを監視するためでも、懲らしめるためでも、罰を与えるためでもなくて、「神は愛である」と語られているように、慈愛に満ちて、約束したことをたがうことのない真実な神様、また怒ること遅く、私たちがどんなに失敗しても、耐え忍んで許してくださって、私が主だよと、声を掛けてくださっているのです。神様がどんなに大きな愛をもって、私たちを顧みてくださったか、神様が、私たち一人一人のために懇ろに心を砕いてくださっているかを深く味わい、信じていこうではありませんか。神様は、ひとり子を賜うほどの大きな愛で私たちを愛して、尊いひとり子を惜しまないで、この世に送ってくださいました。それは、「いつくしみと、まこととの豊かなる神」であることの証明です。神様が、あえて人となって、人の世に来てくださって、罪のあがないの供え物、犠牲となって十字架に命を捨ててくださいました。こんなにまで私たちを愛している。それに対して私たちはどう応えていくのか。神様に何をもって応えているのでしょうか。

ペテロの第二の手紙3章8節、9節を朗読。

この8節に「この一事を忘れてはならない」と勧められています。この一つの事を決して忘れてはならない。何をかというと、9節に「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。これは世の終わりがくるというけれど、一向にこないではないか。世の終わりがくるからそれに備えて、一生懸命に身を謹んで、神様の御心にかなうような生き方をしているのに、そうでない人たちは今もって好き放題、好き勝手なことをしている。それなのに滅ぶ日がこないではないか。そういう不満があったのです。それに対して神様は、「実は、そうじゃないのだ。決して終わりの裁きのときの約束を反故(ほご)にした、約束がなくなったわけではなくて、そこにありますように「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み」と。神様の御思いは、滅ぼすことではなくて、すべての人が救いにあずかることを願っている。そのために、ただひたすら長く忍耐をしてくださっている。主が耐え忍んでくださるのです。「この一事を忘れてはならない」。だから、この主の忍耐に対して、早く主の御心を悟って、悔い改めて、主の救いにあずかろうではないか、これが今私たちのなすべきことではないかと、語られている。神様が、私たちのためにどんなに忍耐して、愛をもって顧みてくださっておられるか、深く、味わいたいと思います。先ほどお話しましたように、イスラエルの民に、神様は、あれでもか、これでもか、手を換え、品を換え、彼らの求めるところに応じてくださいました。それに対して、イスラエルの民は何をしたのでしょうか。モーセが、たった何日間かいなかった留守に、金の子牛を造って、真の神様を捨て去っていくような、恩を忘れた不徳な者であります。それでも神様は、なお彼らを許してくださいました。絶えず許し続けて、もう一度悔い改めて主に立ち返るようにと待っていてくださいます。

私も現在の献身の生涯に導かれたとき、一番深く教えられたことは、そのことだったのです。私自身が神様の救いにあずかって、イエス様を信じる者とせられながらも、自分の願いばかりを神様に要求する。こうなりたい、ああなりたい、こういうことをしたいと。自分が夢に描いていた自分の生涯、大学へ進んで、それから後のことも、一つ一つ祈って神様に求めてきました。神様は、そのことに対して一つ一つ応えてくださいました。自分の夢に描いていたことが実現していきました。そして、それなりに自分自身、真面目な、模範的なクリスチャンであると思っていました。

その当時通っていた教会で、いろいろな御用にあずかって、神様のためにと、主の御用をさせていただきました。時間もありましたし、自分自身にそういう経済的なゆとりもありましたから、それで一生懸命にやっていた。自分は模範的なクリスチャンであって、これで良かろうと思っていたのです。ところが、二十数年前ですが、神様は、私の心に呼びかけてくださいました。年末からお正月にかけてのことですけれども、度々お証詞しますように、これでいいのだろうか、自分はこのままこの仕事を、生活を続けていけばいいのだろうかと、心に一つの疑問が与えられました。それまでは、そういう生活で自分は満足していました。私は満足、不足はない。生活も、仕事の上でも、また信仰の面でもいろんな事柄がすべてうまくいっている。これでよろしいと思っていたのです。

ところが、そのとき、激しく問われたのは、「お前はそれでいいのか?」。良いも悪いも私はこれでいいのだから、どうしていけないのでしょうか、という反論もありました。ところが、眠れなくなってまいりまして、神様の前に出て、祈って、御言葉を読んで、主の御心を求めておりました。そのときに、自分がこれまで生きてきた人生、ここに至るまでどれ程、神様は、私のわがままな願いを聞いてくださっただろうか。あれがしたいといえばしてくださり、これがしたいといえばその道を開き、こうなりたいといえばさせてくださり、何と沢山のことを私は神様に願ってきただろうか。それに対して私は、神様にどれだけのことをしただろうか。「神様、私はあなたのためにあれをしています。これもしています。こんなにもしています」と、並べ立てはするけれども、それは神様の御愛に対して誠に乏しいというか、どれほどの価値もないことです。そのとき、「我、窮(かぎり)なき愛をもて、汝を愛せり。故に、われたえず、汝をめぐむなり」(エレミヤ31章3節文語訳)。神様は、私を愛するが故に、恵んでくださった。そんな大きな限りない愛を注いでくださる神様に対して、一体何をしてきただろうか。そのとき、神様の大きな愛が、心に溢れて、圧倒され、じっとしておれない。今まで、本当に申し訳ない生涯であったと悔い改めなければならない。そこで、神様ごめんなさい、と申し上げました。私が良いから、それなりの資格があるから、それにふさわしいから恵まれて当たり前、と言うのではありません。祈りに応えられた恵み豊かな生活が与えられているのは、実は、神様が私を愛してくださった故に、今恵まれているのです。こうやって、祈りに応えて、今日に至るまで、滅びることなく、ここまで生かされてきた。その背後には、その恵みの奥にもう一つ、大きな愛をもって愛してくださる主がいらっしゃる。

どういう風にこれから主に応答すればいいのだろうか。神様の愛に、そんなにまで愛してくださる御愛に、何をもって応えるのか。その夜は眠れませんでした。泣けて泣けて仕方がない。そして悔い改めて、もう一度ゼロにして、御破算にして、神様、あなたの御愛に応える歩みをさせてくださいと祈りました。そのとき「ヨハネによる福音書」21章の「あなたはわたしに従ってきなさい」とのみことばを頂いたのです。あなたは、わたしに従ってきなさいと言われながらも、私はこれまで従ってきました。「私はあなたのために、あれもし、これもし、こんなにもしました」。でも、それは私ができる範囲で、私がしたいことだけをして、私が損をしないように、私が犠牲を払わないでいい程度に、自分が痛い思いをしないでいい程度のところでしているだけです。ひとり子を賜うほどの御愛に対して、私はどう応えたか。私は、あなたに従ってきましたと言いながら、自分のためにしてきただけじゃないか。本当に神様に従うことをしたのだろうか。「わたしに従ってきなさい」、繰り返し、繰り返しその御言葉を心に反芻(はんすう)しているうちに、まことに申し訳ない自分であった、偉そうに、あなたのためにあれもしました、これもしました。何のことはない、自分がしたいからしたわけです。それが神様の求めていることか、私に願っていることなのか、そんなことは考えもしない。それでは主に仕えること、主に従っていくことはできない。そこで、それまでの一切のものを、神様にささげて、お返しして、「新しく主に従う道を備えてください。もう神様、一切あなたの手にゆだねます。どのようにでも導いてください」とゆだねて、献身の道に導かれました。今振り返ってみると、真実に、信頼に応えてくださる方であったと、はっきりと知ることができます。

もう一度、出エジプト記34章6節に「主は彼の前を過ぎて宣べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神』」。「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく」、真の神様、天地万物の創造者でいらっしゃる方は、決して怒りに任せて滅ぼし罰する方ではありません。その後に「いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」。悪も、とがも、罪も許してくださる。「しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。だからといって、罪を罰しないかと言うと、そうじゃない。罰すべきものには、それをないがしろになさらない、必ず報い給う方です。しかし、罪を罰するのに3,4代に及ぼす。それに対して、「いつくしみは千代まで」及ぶと。神様の愛、慈愛のほうがはるかに大きいのです。今日も、主は滅ぼすことなく、命を与え、地上においてくださって、神様の愛に出会うことができ、そしてその御愛に応えるべきチャンスを残しておられます。

神様は限りない愛をもって愛し、私たちが悔い改めて主に仕える者となるように、主に従う者となるようにと願っておられます。どうぞ、生活の隅から隅まで、一切を神様の手にささげて、主の御愛に信頼してまいりましょう。神様の愛、それは真実な愛です。また、神様はそれを全うしてくださる方です。与えられている問題、事柄が何であれ、神様が私を愛してくださって、滅ぶべき者、死んで当然な者が、主のあわれみに生かされていることを感謝して、「神様、あなたの導かれるままに、あなたが備えてくださる道を歩みます」と心を定め、神様を主の主とし、この御方にしっかりと信頼して日々を送りましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。