いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

7月31日 日々の聖言

2014年07月31日 | 日々の聖言

「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、

あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。」伝道11:6 



人は何事も結果を想定して事にかかろうとします。物事によっては正確に結果を予測できますが、

人生は必ずしもそのようにはなりません。結果を出されるのは神様です。ですから、結果を考えず、

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聖書からのメッセージ(276)「真の命に生きる」

2014年07月31日 | 聖書からのメッセージ

 「ヨハネによる福音書3章1節から8節までを朗読。

 

 5節「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない』」。

 これはイエス様とニコデモ先生との会話であります。彼はイエス様の所に夜訪ねて来ました。ニコデモ先生は「パリサイ人」と語られていますから、その当時イエス様とは敵対関係といいますか、パリサイ人はイエス様を憎んでいました。ですから、彼らがイエス様と親しくする、交わりをすることははばかられる間柄でもありました。ですから、ユダヤ人の指導者ともありますし、教師ともいわれているニコデモさんは、夜ひそかにイエス様の所へ訪ねて来たのです。彼はイエス様が何かほかの人とは違うと感じるものがあった。だから、その秘密はいったい何だろうかを知りたいと思いました。それでイエス様の所へ来たのです。 

 

そのとき、イエス様は、3節「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない』」と言われました。「神の国を見ることはできない」と、また5節には「はいることはできない」とも語られています。「神の国にはいる」、「神の国を見る」とは神の国の民となることです。その国に入ること、これが大切だというのです。

 

私たちは本来神様のものであったのです。神様によって造られて神様の所有であった私たちが神様から離れて、サタンの支配、サタンの力に捕らわれてしまったわけです。サタンの力とは私たちを神様から引き離す力のことです。私たちが神様に近づくのを妨げようとするのです。神様を求め、信じさせまいとする力、これがサタンの力です。私たちの中に絶えずそのような力が働いていきます。私たちはそのサタンの支配に囚われていました。サタンは神様を見せまい、神様の恵みを隠そうとしてきました。だから、私どもは神様を知らなかった。ところが、神様のほうがサタンの力を取り除いて、私たちが神様に近づく道を備えてくださったのです。幸いにも、いま私たちは神様を信じる者とされたということは、サタンが負けたのです。その代わり、神様が私たちを捕らえてくださった。ですから、私たちは自分の力や努力でイエス様を救い主と信じたわけではなくて、神様が私たちに信じる力を与えてくださった。今、私たちは人のあるべき姿に立ち返ったのです。創世記に語られているように、人が最初に造られたとき、神と人とが共にあって、何の陰も不安も恐れも失望もなかったのです。実に、最高に平安な恵みの中にありました。神と人とが裸で恥じないという、神様と同じ光の中にあったのです。「ヨハネの第一の手紙」にあるように「神が光であって、神には少しの暗いところもない」(Ⅰヨハネ1:5)と書いてあります。だから、神様と共にあるとは、天地神明恥じる所がないということです。一点の曇りもない神様との関係です。では、自分を考えてみたらどうかというと、なかなかそのようには言えない。自分の心を探ってみると、澄みきったわき水のごとく何一つ汚れたものがないと言えない。神様の前に今日立たせられて、大丈夫と言える人間がいるかと言われると、言えないですね。私たちは、ただ、主イエス・キリストの十字架によって、その執り成しによって、いま神様の前に立つことが許されているのです。だから、イエス様によらなければ神様に結びつくことも、神様に近づくこともできないのです。そのような私たちですが、本来はそうではなかった。そもそもがエデンの園にあったように、神様の前に裸でも恥じない、どこにも隠れたところのない汚れのない者でありました。ところが、サタンの働きによって人が罪を犯し、神様から切り離されてしまう。そのとき彼らは神様の前に立てなくなったのです。隠れてしまいました。主の顔を避けて木の茂みの中に自分を隠してしまった。そして、それ以来ズーッと人は神様を拒む、あるいは神様に顔が向けられない、神様と顔を合わせられない存在になりました。それはサタンが私たちを握ってしまったからです。そのような私たちの姿を「エペソ人への手紙」に「罪過と罪とによって死んでいた者」(2:1)と言われています。そして、そもそも私たちは神様から呪われて滅ぼされるべき者、「怒りの子であった」(エペソ 2:3)と語られています。そのような私たち、そこからは何一つ良きものは出てこないどころか、「荒野のような塩地に住む者」(エレミヤ17:6)といわれています。その行く末は永遠の滅びであります。ところが、神様は憐(あわ)れんで、私たちをこの救いにあずからせてくださいました。私たちは神の世界に入らないことには、神様との正しい関係に立ち返らないことには、どうにもほかに生きる方法がないのです。どんなことをしてみても、私たちの安心、望み、力は、神様に帰る以外にどうにも仕様がないのです。

 

 いま、私どもの住んでいるこの世の中を見ますと、いろいろな問題が次から次へと噴き出してきます。人が一生懸命にああもしようか、こうもしようかと、ない知恵を絞ってあれこれとします。政治家も経済学者も教育家もいろいろなことをしますが、どれひとつうまくいかない。それは当然です。そもそもの土台が欠けてしまっている、本来正しくあるべきいちばんの土台がゆがんでしまっているから、いくらその上に良い事をしようとしてもうまくいかないのです。家を建てるときでもそうですね。いちばん最初の土台、基礎をきちっと正しく建てると、後はことごとくうまくいくのです。ところが、ボタンの掛け違いといいますか、いちばんの土台がきちんとなっていなければ、いくらその上に良いものを建てようとしても、良くならないのです。

 

 だから、しばらく前に教会の改装をしました。そのとき大工さんが困ったのです。「家がゆがんでいますよ」と言われる。見たって分からない。普段、生活をしている分には何の不都合もなく分からない。ところが、扉を取り替えることにしたのです。きちっと機械で測っていくと、手前から奥に向けて下がっている。何ミリか微妙に下がっている。だから、そのまま扉を付けたら途中で止まってしまう。それで大工さんが二人で一生懸命に頭をひねっている。こちらは早く仕事をしてもらいたいから、「何か問題がありますか?」と尋ねたのです。「いや、先生、ここは全体がこんなに下がっているから、どうしようかと今思案しています」と言う。「いいじゃないですか。下がっていたらひし形の扉にしておいたら」と言ったら「そうは行きませんよ。先生、こちらの方が今度は何とか……」と、素人判断はそんなことですね。それで半日ぐらいいろいろとやって、いい案が出て結局きれいになりましたが、そのとき、大工さんが「先生、これはもう建て替えた方が早いですよ」と言う。確かに土台がゆがんでいると、後いくらどんなことをしても、これは難しい。だから、よくいいますね。改装をしたり、部分的に手を入れることのほうが費用が掛かり、手間も掛かると。そのとおりでやはり土台をきちっと正しく置いてしまうと後がいいのです。

 

 私たちの人生もそうであります。人が本当に大切なのは、神様と私の関係がきちっとできていることです。それはどういう関係かというと、神様の前に罪を消された者、神様に対してはばかることなく心から信頼できる関係です。神様は知っているが、どうも怖くて仕方がない。普段はできるだけ遠ざけておきたいというのは、日本人の神様に対する考え方ですが、本来そのような神様との関係ではない。神様と人とは本来共にあるべきものなのです。それによって初めて人が人たるものになるのです。それは創世記にあるように、私たちが神様のいのちによって生きる者となることです。神様からのいのちを頂いて人は初めて生きるのです。ところが、人が罪を犯して神様のことが煙たくなって、敬遠して、主なる神の顔を避けて隠れてしまったところから、人のいのちが消えてしまった。本来、生きるべき人のいのちが無くなってしまった。そのいのちとは肉体の命ではありません。もっと肉体と違った、私たちに生きている喜び、望み、感謝、平安、そういうものを与えてくれるいのちが欠けてしまう。そして、「肉の力」と聖書にありますが、神様から切り離されたサタンの力、本来神様が与えてくださるいのちではない別の力に私たちが支配されてしまっている。その結果がいま直面している世の中の様々な問題です。

 

 経済問題でもそうですし、いろいろな貧困の問題でもそうですし、環境問題でもそうです。問題の帰するとことは、「伝道の書」にあるように「神を恐れ、その命令を守れ」(12:13)、神様が万物の造り主であって、私をも造られた御方、その真(まこと)の神様がいらっしゃることを認めて、その神様と私とが密接な関係、裸の付き合いができるようになることです。隠して、いい格好をして、よそ行きの姿だけを見せていては駄目です。人付き合いもなかなかそこまではいかないです。同じ屋根の下に住んでいる親子であろうと、夫婦であろうと、やはりどこかで隠すところがお互いにありますから、なかなかストレートに物も言いにくい。奥歯に物が挟まったようなことしかお互いに言いません。ところが、神様との関係がそのようなものだったら、それは正しい関係とはいえない。人と人との関係はそうであったとしても、神様に対しては何一つ隠すところがない者でありたい。それが本来の私たちの生きる生き方なのです。ところが、それが失われてしまった。死んでいた者、罪ととがとに死んでおった者と言われています。考えると、私たちは死んだはずはない、肉体をもって肉の力では生きてはいるのです。しかし、不安があり恐れがあり心配があり、神様と親しくなれない。神様を信頼できないでしょう?神様がいて、すべての事を備えてくださるのに、ああでもない、こうでもないと思い煩う、心配する。そして、失望したり落胆したり憤ったり怒ったり、様々な不安と恐れとに悩まされる。実に情けないといいますか、そういう生き方しかできなくなっている。だから、もう一度新しいいのちに私たちを生かしてくださる。言い換えると、創世の初め、エデンの園での神様と人とが共にいた幸いな恵みの中に、私たちをもう一度引き返してくださる。そのために、神様の御子であるイエス様をこの世に遣わしてくださった。そして、イエス様が十字架に死んでくださった。それは誰のためでもない、実は私たち一人一人のためです。私たちの罪を赦してくださった。それは、私たちがもう一度神様に帰って、正しいいのちに生きるためです。

 

この5節「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない』」。「神の国にはいること」、これが神様との交わりを得るただ一つの道、神様と共に在る場所、そこが神の国です。それに相応しい者として私たちを造り替えて、新しいいのちを与えてくださる。だから、イエス様の救いにあずかって、私たちの何が変わるといって、私たちの生きるいのちが変わるのです。新しいいのちによって生きる者となる。

 

ローマ人への手紙6章4節を朗読。

 

ここに「わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」とあります。「新しいいのち」とは、「イエス・キリスト」なのです。イエス様が私たちのいのちとなってくださる。いのちといいますのは、私たちの中にあって、私たちを動かし、すべての力となるものです。かつては肉の力、サタンの力が私たちを支配してきた。ところが、イエス様を信じて救いにあずかるとは、イエス・キリストが私のいのちになってくださることです。だから、いまイエス・キリストが私のいのちなのです。ほかのものではありません。「コリント人への第二の手紙」に「自分のために死んでよみがえったかたのために、生きる」(5:15)とあります。イエス様のために、主のためにという言い方は、別の言い方をしますと、イエス様が私のいのちなのだ。だから、いつもイエス様に結びついておかなければ、私たちにはいのちがないのです。肉体の命はもちろんあります。体が健康であるとか、病気をしないとか、社会的な活動ができる、動けるという、そのような命はありますが、それは本当の意味での命ではなくて、私たちにとって大切なのは、ただに生活できるというだけではなくて、その生活の中に喜びがあり、満足をし、感謝ができる。そのようなどんな境遇にあっても生きるエネルギー、力、それを与えてくれるものがはいのちです。皆さんとって明日を生きる力はどこから来るか?いろいろなことがありますね。子供のためであるとか、自分のためであっても、自分のこういう夢が実現するとか、願いがかなうとか、明日はこういう行事があるとか、こういうことがあるから、私は楽しみだということをいいます。いろいろな目に見える事情や境遇や事柄が、自分を喜ばせてくれる、自分に生きがいを与えてくれることはありますが、しかし、もしそれがなくなったら、人は何によって生きるのか?若いときはあれもしたい、これもしたいと夢がたくさんあるし、選択肢がたくさんありますから、生きることがをどういうことかあまり考えませんが、だんだん年を取ってくるとお先真っ暗です。あれもできなくなる、これもできなくなる。いろいろなことができなくなり、楽しみもなくなってくる。せいぜいテレビを見るぐらいでしょう。しかし、テレビだって最近のドラマなんてよく分からない。初め見たストーリーを忘れますから、登場人物を見ていても「あの人誰?」と何度でも尋ねる。名前も分からなくなりますから、楽しみもない、喜びもない。何が喜びなのか、私にとって何が喜びなのか、生きる喜びを与えてくれるものはいったい何なのか、それがいのちなのです。

 

そうなると、私たちにはいったい何があるのでしょうか。実は、イエス様が私たちのいのちなのです。だから、4節に「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」と。イエス様が十字架に死んでくださった。これは私たちの罪のあがないとして、罪を赦す犠牲として、私の変わりに死んでくださった。それで、私たちは罪を赦されたのです。しかし、イエス様は死んで墓に葬られた後、三日目によみがえってくださった。「どうしてイエス様はよみがえるのだろう?死んだら死んだままでいいではないか」と思われるでしょうが、そこが素晴らしいことなのです。イエス様がよみがえったのは私たちのいのちとなるためなのです。罪を赦された私たちが、今度はキリストのいのちによって生きるものとなること。キリストが私のいのちとなってくださるのです。だから、主と共にあることが生きる喜びであり、それが目的であります。だから、何かができるとか、できないとか、そのような事情や境遇、生活のことではなく、私はキリストのものとなり、イエス様が私のいのちとなってくださっていることを、絶えず覚えていかなければならない。それを忘れたら命が消えるのです。だから、イエス様を失ったら、私たちはいのちがない。だから、どんなときにも、いつもイエス様が私のいのちなのだと知っておいてください。パウロが「テモテへの第二の手紙」に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と勧めている。「これがわたしの福音である」と(2: 8)。「福音」とはイエス・キリストをいつも思うこと、言うならばいのちとなるためによみがえって、今も私たちの内に宿って、共にいてくださる。そのイエス様によって生きること、これがいのちです。いのちであるイエス様によって絶えず生かされていくことです。

 

 「ガラテヤ人への手紙2章19節から21節までを朗読。

 

 19節以下に「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」。サタンに縛られていた、捕らえられていた私たちは、イエス・キリストを信じることによって、イエス様が十字架に死んだごとくに私も死んだ者です。これを絶えず自覚して、私はすでに死んだ者。だからパウロは「わたしは日々死んでいる」(1コリント 15:31)とも語っています。毎日、毎日、私はまず死ぬのです。では、何によって今生きているのか?その後に「キリストが、わたしのうちに生きておられる」と。キリストがいのちとなって、私を生かしてくださる。だから、絶えずイエス・キリストを思っていくこと。イエス様のために生きる者とされることです。これが神の国に生きることであります。私たちの日々の生活の一つ一つどんなことも、昨日の今日、今日の明日と惰性(だせい)で生きるのではなく、一つ一つのことの中で、主が、イエス様が私を生かして、いま私にこのことをさせておられるのですと、絶えず自覚していくこと。主のいのち、キリストのいのちによって私たちが生きている。だから、一瞬たりとも、ひと時も、イエス様から離れては生きられないのです。いのちを失うのです。だから、今こうして御言葉を通して、私たちの心が主に向いています。イエス様の霊に私たちの心を委ねていきます。ところが、教会を出た瞬間から、それをポッと忘れてしまったらいのちを失います。どうぞ、どんなときにも絶えずキリストが私にあって生きてくださっている。イエス様を信じること、イエス様が私を今日も生かしてくださっていることを認めていく。人のわざや自分の努力や自分の力で生きているのではなく、世の誰かによって生かされているのではなく、キリストによって生きる者とされている。これが私たちの新しいいのちに生きる生き方、新しい生き方です。

 

 「ヨハネによる福音書3章5節に「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない』」。イエス様が「だれでも新しく生れなければ」と言われたときに、ニコデモ先生は「どうして人は新しくうまれることができましょうか」と言った。今更死んで、お母さんのおなかからもう一度生まれなおすなんて、これはできません。しかし、ここでイエス様が言われるのは「だれでも、水と霊とから生れなければ」と。「水」とはキリストのこと、イエス様のことです。それはまた御言葉でもあります。キリストのお言葉です。聖書のお言葉と「霊」。そのお言葉に伴って働かれる神様の力、神様の霊によって、人は初めて神の国に入ることができ、神と共に在る生活を送ることができる。だから、キリストがいのち、新しいいのちとなって、私と共にいてくださる。私たちの日々の生活、毎日の生活一つ一つどんなことも、キリストが私の主、いのちであって、キリストによって生かされていくのです。だから、私が好きだからするとか、嫌いだからしないとか、これが欲しいとか欲しくないとか、そのような自分の感情や、生まれながらの人の情欲、そういうもので生きているのではない。キリストによって生きる者とされているから、どんなときにも主の御心はどこに?神様が私に今求めていらっしゃることは何だろうか? イエス様が私に今させようとしていることは何だろうか? と、常にキリストのものとなりきって、主を自覚していくこと。これがいのちです。だから、どんなことをしていても絶えず私たちの心はキリストと共にあるのです。そうしますと、おのずから生活の一つ一つの中に喜びがわいてきます。望みが与えられ、また感謝することができ、輝いて生きることができるのです。

 先だってもある一人の方が「先生、私たちは神の証人として選ばれたと言われています。確かに神様のことを証しするということは最高の恵みであろうと思うのだけれども、証しをするということはどうすることなんでしょうか」と言われる。何かしなければいけないのじゃないかと、その方はちょっと気になった。なるほど聖書を読むと、使徒行伝ななどに、ペテロやパウロにしろ、キリストの証人となっていろいろなことをしています。パウロにいたっては地中海沿岸の各地を回ってイエス様の福音を宣べ伝えました。ひとつ私もそういうことをしなければいけないのかと思う。しかし、そうではないのです。キリストの証人、主の証人となる、証し人となるとは、神の国の住人になることです。私たちの生きるいのちがキリストであることを証ししていくのですから、そのためには日々の生活で絶えずキリストと共に生きていること、そのことを努めていく。そうするとおのずから神様のほうが私たちを造り替えてくださる。主が共にいてくださって、これはもう神様としか言い様がないという証しを、神様のほうがなさるのです。だから、私たちが神様のことを伝えてあげましょうなどと、それはおこがましい。だから、私はその方に「何かするよりは、私たちは常に神と共にあること。キリストのいのちによって生かされていることを努めていく。これ以外にありません」と申し上げました。

 

ヨセフがそうでした。お兄さんたちからエジプトのポテパルの家に売られました。だからと言って、ヨセフはそこでふてくされて、神を呪ったわけでも何でもありません。彼はポテパルの家で忠実に与えられた務めを果たしたのです。そこに「主はヨセフと共におられて」とあります。神様がヨセフと共にいてくださった。ヨセフもまた「神われと共にいます」と信じたのです。主が共にいると信じて、神様の前に生きたのです。そのとき神様は彼のなす手のわざを祝福して、栄えさせてくださった。それを見ていたポテパルは「この人はちょっとほかの人とは違うぞ。この人には神様が付いている」と思った。まさに、ヨセフは神様の「か」の字も言わないけれども、見る人をして「神ここにいませり」と、はっきり証したのです。私たちにもそのような生き方を神様は求めてる。と言うのは、それが本来の生きる姿だからです。だから、ヨセフはポテパルの家で大層重宝され、ヨセフがいればこそ、この家庭が恵まれました。

 

どんな境遇に置かれても、そこで「神われと共にいます」、神の国の民として生きることを努めていく。これが証し人としての使命です。イスラエルの民が他の民族と違って神の民であると言えたのは、とてつもない大事業をしたわけでも何でもありません。モーセが語ったように「主よ、あなたが私たちと共におられるがゆえにほかの民とは違った者ではありませんか」(出エジプト33:16)。言うならば、神がここにいますと言うことだけです。

5節に「だれでも、水と霊とから生れなければ」と言われますが、「水と霊」とは、イエス様のお言葉です。イエス様は「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)と言われます。そのイエス様のお言葉、神様のお言葉を信じて、神様の霊に満たされていくことです。御霊の力、神様の力によって、キリストの思い、御心に絶えず従って励んでいくこと、これ以外にないのです。そうするときに、神様は私たちに思いも掛けない、考えもしない驚くべきことをして、神の栄光をあらわしてくださる。私たちが喜び感謝し、輝いていることが神様の与えようとしてくださる、神様が私たちに与えてくださる祝福と恵みでもあります。

 

どうぞ、もう一度私たちは新しく生まれるということは何なのか?いま私は何をいのちとして生きているのか、自分の思いを整えて、神様の前に水と霊によって生きる者、キリストによって生きる生涯を全うしていきましょう。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


7月30日 日々の聖言

2014年07月30日 | 日々の聖言

「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、

しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。」第一ペテロ5:10 



地上にある旅路は苦しみの連続と言われます。世間でも四苦八苦(四九36+八九72=108)、

百八の悩みに生きると言います。しかし、キリストに生きる生涯は、「しばらくの苦しみ」によって

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聖書からのメッセージ(275)「あなたは何を信じるか」

2014年07月30日 | 聖書からのメッセージ

 マルコによる福音書11章20節から26節までを朗読。

 

 22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。

 

 これはイエス様がエルサレムへ出かけて行く途中の出来事です。イエス様はエルサレムに来られたとき、その近くのベタニヤ村にいるマリヤ、マルタ、ラザロたちと親しくしていますから、彼らの家を宿泊所として、そこからエルサレムへ通っていたようです。前日朝、イエス様が弟子たちと共に歩いていましたが、イエス様はちょっとおなかがすいたと、11章12節以下のところに記されています。するとそこに葉が茂ったいちじくの木がありました。イエス様は何か実があるのではないかと思って近づいたけれども、何もなかった。「いちじくの季節ではなかった」とあります。イエス様はその木に向かって「二度と実がならないように」と。言うならば「枯れてしまえ」と、子供っぽいかんしゃくを起こして言われた。弟子たちは気に留めなかったのです。「先生は何て馬鹿なことを言って」と思ったかもしれません。同じ道を夕方帰ったのです。そのときも別に異常はなかった。ところが、次の日、今お読みいたしましたように20節に「朝はやく道をとおっていると」、また前日と同じように道を通って行きました。そうすると、そのいちじくが枯れているのです。「根元から」とあります。もう完全に枯れきってしまった。日照りが続いて枯れるときでも、木の葉が先っぽからだんだん黄色くなって、枯れてしまうまでに一ヶ月とかそのくらい長い時間が掛かります。それでも、枯れたようでも根には命が残っていて、雨がまた降ると一気に新しい芽が出てきますから、なかなか根元から枯れることは大変です。それが一瞬にしてと言いますか、一晩にして起こったのです。それを見たペテロが、21節「そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、『先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています』」と、びっくりした。「そんな馬鹿なことがあるか」と思ったが、翌日見るとそのようになっていた。その時イエス様が22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」とおっしゃったのです。

 

なんだかペテロの言っていることとイエス様の答えとがかみ合っていない。「ちゃんと説明してくれたら、よさそうなもの」と思います。「神を信じなさい」とはどういうことなのか知っておきたいと思います。私たちは「神を信じなさい」とは知っていますし、自分も信じているつもりです。ところが、「神を信じなさい」とはどうすることなのか?私たちはあまり考えようとしません。だから、イエス様がここでそのことを語っているのです。

 

私たちの住んでいる世の中、現代社会は客観主義と言いますか、何かで証明ができる世界に生きています。しかし、これは長い人間の歴史の中ではごく最近のことです。ルネッサンス期以前は客観主義ではありません。朝起きると太陽が東から昇って西へ沈んでいきます。「太陽が昇って沈んでいくな」と思って生活をしています。長年それで来たのです。ところが、ある時コペルニクスが「どうも違うらしい」といって地動説を唱えた。それまでは地球が真ん中にあって、その周りを太陽や月が回っていると思っていた。ところが、「そうではない。太陽が真ん中にあって、地球がその周りを回っている」。これは完全に180度方向が違うのです。それからというものは、いわゆる科学主義とか客観主義というものが人の生活にはびこってきた。それから18世紀、19世紀、産業革命以降、証明できること、客観的に証拠立てることが正しいことだ、それが真理だという考え方が浸透してきました。それはある面では科学の発達を助け、生活の便利さを作り出していく切っ掛けではありましたが、それによって人は自分で感じること、信じていることに自信をなくしてしまった。毎朝、太陽を見て「今地球がこれだけ回ったのか」とは思わない。やはり相変わらず太陽は東から出て西に沈むという生活をしている。そこで一つの問題は、地球が太陽の周りを回っているという真理と、私たちが日常的に感じている太陽が東から西へ動いているというのと、どちらが正しいのか。そうすると「それは科学的に観測したとおり、太陽が動かないで地球が動いているのが正しいのだ。東から西に太陽が動くはずがない」と答える。「でも見てご覧なさい、朝起きたら太陽がちゃんと動いていくではないか」と。「いや、それは錯覚だ」と説明をします。そういう客観的な世界でこれまで来たのですが、20世紀に入り第一次世界大戦が済んでから変わって来ました。客観主義と言いますか、「そのように学問的、あるいは、数字で証明できるばかりが真理ではなく、そうでない世界もあるのではないか」ということです。

 

そのように変わってきた動機は、生きることは人が中心であって、物事が中心にあるのではない。例えば、今申し上げた「太陽が中心にあって、地球が回っている」というのと、日常的に私たちが感じる「いや、そうではない。太陽が動いているのだ」というのと、どちらが人にとって幸いなことか?まだ月にロケットが行かないとき、月を見て「あそこにうさぎが住んでいる」という世界があった。ところが、「見てご覧。お月さん、ほら、ウサギがおもちをついているでしょう」なんて言うと、小さな子供だって「そんな馬鹿な!」と言います。問題は、何がいちばん親しみやすいのか、自分にとっていちばん喜べる、安心するところはどこにあるか、それを生活の中心に置こうではないかという考え方。簡単に申し上げるとそういうことです。言うならば、人間中心の人本主義、主観主義というものが第一次世界大戦後から、注目されるようになったのです。難しくは「パラダイム・シフト」というのですが、パラダイムとは人の固定観念のことで、その方向を変えていくことです。

 

実は私たちの心の中にもどこかで客観主義が正しいと思っています。学校教育だとか周囲の見聞きするものを通して得られた世界です。そういうものになじんでいる、それが正しいことと思っている。何か考える時、「これは本当にいいのだろうか。これは正しいことだろうか」と、人に聞きます。そして、皆が「客観的に見て……」と言います。「客観的に見て、これは正しいのだろうか。私はそうは思わないけれども、客観的に見たらこれだろう」と。自分の気持ちを変えなければいけない。そういう考え方が私たちにありますから、神様の話を聞きながらも常に「客観的でなければ、何かちゃんと証明ができる、あるいは皆がそういう風に納得する方向でないといけないのではないか」と。

 

多数決などもそうですが、国会の議論などを見ていると、「自分は反対だったのだけれども、立場上……」、とか、「自分はこの政党に所属している以上、自分は言えなかった」と後になって言う。これは明らかに客観的な世界、自分は一つのグループ、一つの価値観を共有する政党に所属している。これを抜きにして自分はあり得ないと思っている。ところが、本人の心では「この政党でこの方針に決めたけれども、自分はやはり違うと思うよ」というものがある。「でも、この政党はこうなんだし、この社会はこうなんだから、これに順応しよう」という発想は、自分を捨ててしまうことです。

 

言うならば客観主義なのです。自分の考え、自分の感じるところ、自分が正しいと思うことから離れて、多くの人々の意見、あるいは世の中で通念となっている事柄が正しいに違いないと、そちらの方に寄り掛かろうとする。ところが、イエス様が私たちに求められるのはそのようなことではありません。「神様を信じる」ことは、極めて主観的な世界なのです。神様がいらっしゃることを客観的に証拠立てる方法はありません。「ローマ人への手紙」1章に神様がいらっしゃることは否定できない事実である、見てみなさい、すべて造られたものは神様のわざではないかと語られています。なるほど、信じている人にとってはそのように見える。ここにきれいな花があります。でもこれを見て、ある人は「これ幾らするかな」と見るかもしれません。それは客観的にも証明できます。専門家が見れば「これはこのくらいの値段でいいでしょう」となります。ところが、ほかの人から見ると「これの科学的な成分はどうなっているだろうか。分析したい」と。いろいろ調べて、この花の成分はこれとこれとこれと証明できるでしょうが、神様の「か」の字も出てきません。こういう組織になっている、こういう材料が使われている、こういう元素、要素がそこにこめられていると、化学分析はできます。人間だってそうでしょう。人間の体は分析していけば一覧表にすることができます。カルシウムが何%、水分が何%と化学物質を調べ上げることができる。その調べた結果、神様がいたという話は聞かない。言うならば、客観的に数字や何かで、ここに神様がこんなかたちで存在すると証明して納得することはできません。となると「神様はいないのか」と言われると、それも証明できないのです。結局、あなたが信じるのか、信じないのか、これだけなのです。

 

だから、信仰について知りたいと来られて、いちばん戸惑うのはそこなのです。「神様がいることをどうして知ることができるか」「それを分かるようにしてほしい」と。これは難しい。「信じなさい」と言う以外にない。「いや、信じるにも何か切っ掛けがいる」と言いますが、残念ながらそれはないのです。「こんなものは枯れてしまえ」と、いちじくの木を呪われたのです。常識、あるいは人間の考える客観的な世界から言うなら、そんなことはあり得ない。ところが、そういう事態になってしまった。ペテロは「これはちょっとおかしいのではないか。不思議だ、こんな事は有りようがない」と言ったとき、イエス様が「神を信じなさい」と言われた。有りそうもないこと、「どうしてこんなことが起こったのだろうか」、「どうしてこうなったのだろうか」と思ったとき、結局は「神を信じなさい」、ここに尽きる。言うならば、私たちの世の中にいろいろな理由の分からないことが多い。まさに、いちじくの木が一晩にして枯れるようなことは、実は私たちの生活にいくらでもある。あるけれども、私たちは訳が分からないから不問に付すというか、自分の考えから除外してしまう。あるいは、考えるにしても何かへ理屈を付けて「きっと、これがこうなったのだから、こうなのだろう」「あ、そういうことか」と、訳の分からない理由をつけて納得していることが多いのです。「神を信じなさい」と言われるのは、「神様がいらっしゃるのだから、神様がなさったらできないことはない」ということです。「だけど、その神様はどこにいるのだ」と疑う。「いや、いるもいないも、あなたが神を信じることですよ」。神様を信じるとは「先生がそう言うから仕方ない、信じようか」というのではない。「私が、神様がいますことを信じます」と、これが第一です。理屈はありません。時にそういうことがあります。「今度は不思議な出来事にあって、これはもう神様としか言い様がありません。こういう事態に出会った以上、神様を否定できません」と言う。その人にとって、その事態が神様を信じる一つの根拠となっているのです。しかし、そのような信じ方はやがて色あせてきます。めっきがはげます。別の事態が起こったり、自分に都合の悪いことになると「やっぱり、あれは偶然だったよ」「あれはたまたまそういうことがあったから、ああなったんだ」と、だんだん変わってきて、神様の「か」の字もなくなってしまう。私たちが神様を信じるのは、そのような自分の外側のこととしてではなくて、自分自身のこととして信じなければ、神様を信じることはできません。

 

それは、今ここでイエス様が「いちじくの木は枯れてしまえ」とこうおっしゃって、それで枯れてしまった。それに対してペテロは「どうしてこんなことになったのだろうか。見てください、先生、とんでもないことが起こりましたよ」と訴えた。その時、神様を信じない。「ここに神様がいらっしゃるのだ」と信じることができたら、あるいは神様を信じていれば、逆に何があってもおかしくないじゃないか。私たちもそうなのです。「神様を信じます」と言いながら、何かあると「どうしてでしょうか、何ででしょうか。どうしてこんなことになったのでしょうか」とうろたえて、バタバタ走り回りますが、「それは神様がなさったのでしょう?」「え!神様はこんなこともするんですか」と言う。「神を信じる」とはどうすることなのか?

 

先だっても、ある姉妹が思いもかけない出来事に出会って、立ち往生してしまった。長年、50年以上も教会に来ていて「私はこんなに祈っていたのに、神様はこんなことをしてしまって、どうするのですか。私は死んだ方がまし」と憤慨する。「それが大間違いです」と言ったのです。「神様を信じていたらこうなったと嘆かれるが、むしろ神様がいらっしゃるからこうなったのではないか」と言ったら、「神様はそんなこともするのですか!」と言われる。神様があなたを造り、生かし、ここに置いているのです。神様がいると信じるのは、自分がこうやって生きていること自体が神様によるのだと信じていなければあり得ません。自分が生きている、自分の生活は私がやっている、私が努力してきた、私が働いて頑張ってきたから、こうやって生きている。あの人のこと、この人のこと、家族のこと、いろいろな事柄については、神様がしていると思う。こんなにお祈りしているのに、神様は聞いてくださらない。「願いに答えてくれない神様なら、私知りません。もうやめたい」と言われますが、それは自分が今ここにあること自体を神様がいらっしゃるからだと認めていない。創世記の一番最初に「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」(文語訳)とありますが、この決定的な事実を他人事として考えている限り駄目です。自分のこととして……、そういう意味では、客観的なものではない。主観的なものです。神様が私を造り、ここに置いてくださったと、私は神様を信じる。これがすべてです。そういうことを人に言うと、「じゃ、あなたが神様から作られた証拠はどこにあるの?あなたは何でそんなことを信じるの?」と言われると、びっくりして、「そうだった。私はどうして信じているのだろうか?信じる根拠はなかったし、やっぱりこれは妄想というか、単なる幻想、ただ自分で身勝手に考えているだけで、客観的に何の意味もない」と疑います。しかし、神様はいないものと決めてしまったら、神様はいないのと同じです。

 

と言うのは、自分がここにいますと信じることによって初めて、存在している。私たちは客観的な存在ではなくて、極めて主観的な自分です。だから、死んで火葬されたら、そのもの自体がなくなります。何もなくなる。そのうち覚えている人もいなくなるから、私たちは存在しなかったも同然です。私たちは今ここに自分が生きていると自覚しているから、生きている。呼吸をしているから、客観的に、医学的に証明して、血液が循環して脈拍はあるから、私は生きて存在しているのとは違う。私が私であるという、もう一つ肉体の問題とは違ったところで、人は初めて生きるものとなっているのです。その「生きる」ことは、神様と結びついた事柄です。その神様は私が信じるとき初めて、神様がいらっしゃることになる。「では、私が信じてあの人が信じないから、あの人にとってこの神様は役に立たないのか」と言うなら、「そのとおりで役に立たないのです。信じないかぎりは」となります。だから、私たちの信仰は、私と神様という関係以外にあり得ない。私が神様を信じる。そして、神様はすべてのものの創造者として生きていらっしゃる。私はそう信じる。それで家族の人に、あるいは神様を知らない人に、「あなた、そんな馬鹿なことをしては駄目よ。私たちは神様によって造られたのだから、あなただって神様から造られたのだから、神様がいらっしゃるんですから……」と、いくら言ったところで、その人自身が「そうです。神様が私を造り生かしてくださいました」と信じないかぎり、その人にとって、いつまでも神様とは無関係です。いらっしゃらないのと同じです。あなたが信じる以外に神様がいらっしゃるということは分からないし、また人に説明もできません。

 

22節「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』」。神様がいて私がここに生きている。神様が許して私を生かしてくださっている。信じるその人にとって神様はいらっしゃるのです。存在している。それを信じない人にとって、神様はいないのと同様です。神様なき世界に生きている。だから、結局、私が信じるのか、信じないのか、これに掛かっている。家族を代表して、私が信じてあげますからというのは意味がない。これは非常に厳粛なことであると同時に極めて大切なことです。何があっても私は神様がいらっしゃることを信じていく。それが私にとって幸いなことだからです。そして、信じるとそのように神様は答えてくださいます。

 

だから、22節以下に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう』」。これはなかなか分かりにくい言葉です。というのは、受け入れがたいからです。皿倉山に向かって「洞海湾に入って、あそこを埋めてくれ」と、言ったら動き出すかと、恐らくそうなるかもしれません。なるでしょう。ここにあるように「信じて疑わないなら」と。これはどういうことかというと、神様を信じたらできないことはないのです。神様がなし得ないことはない。だから「心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成る」のです。神様を信じる。事柄を信じるのではなくて「神を信じなさい」とイエス様は言われました。神様がいらっしゃるのだから、そういうこともあるでしょう。だから、徹底して神様を信じていくと、何があっても動じない、うろたえない。ところが、何か事があると、「どうしてだろうか」「何でやろうか」「死んだらどうなるだろうか」と、神様から心が離れてしまう。神様がなさると言われるのですから、「大丈夫です。神様がしてくださるのですから」と、神様に思いを向ける、つないでいく。これがなければ、私たちの信仰はむなしい。だから、良いことでも悪いことでも、どんなことでも神様にはできないことがありません。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)と言われています。だから、神様を信じる。神様を信じるのは、私が信じるのであって「皆が信じているから、私もひとつそれでは信じましょう」という話ではない。あるいは客観的にこういう証明ができるから信じるというものでもありません。100人が100人「そんな馬鹿な」と言っても、「いいえ、私は信じます」と信じればそのとおりになるのです。その人にとって神様はそのとおりになさる。

 

 ロシアの作家でゴーリキーという人がいますが、その人の代表作に『どん底』という演劇があります。それは社会の底辺、貧しいホームレスのような人たちの生活、そこを舞台にしているドラマです。当時、まだ革命前のロシアですが、ロシア正教が中心で、神様がこうしてくださった、神様が……、と信じている。ところが、その後、どうもそうではない。この世は不公平で、富が偏(かたよ)って多くの人々が苦しむ。何の罪のない者たちが、生涯こういう貧しい生活を強いられるのはおかしい。神様なんか信じるものではない。人が頑張らなければいけないのだと。言うならば、神様を信じるのか、神様なしで人の力で行こうとするのかという話です。その中でこういう趣旨のことを語っています。神様を信じる宗教は人をだまくらかしているのだ。現実にこういう困難がありながら、それは神様の御心ですからと言って、お前たちはだまされているんだぞ。そうじゃなくて目を覚ませ!もっと現実を見よ。自分達はもっと努力をすればこんな貧民くつから抜け出せる。あるいは社会改革を起こして、富んでいる者を叩きのめしてその富を分配しようじゃないかと。その中で印象に残った言葉があるのですが、「宗教によって神様を信じて夢見ていようと、それがだまされたものであろうと、その人にとってそれが幸いだと感じておれるならば、なぜそれを駄目だと言い得ようか」と。自分がこれで安心がある、喜びがある、そう信じているんだったら、別にそれで何が不服があるだろうか。そういう人に向かって「お前、それは駄目だぞ、目を覚ませ」と言ったところで、その人がそれを捨てたら、それに取って代わって彼に安心を与えるものは何があるかと。ないじゃないか。お金か?あるいは生活環境か、あるいは何かそういう目に見える物質的なものをいくら与えたところで、その人の心を満たすことはできないと。神を信じることが私たちにとって幸いであるならば、それが最高の生涯なのです。だから「あなたは神様を信じないなんて、そんな馬鹿な。人でありながら、どうして神様を信じないのですか」と、人を説得しようとしますが、それは意味がありません。その人が信じるのか信じないのか。信じた人がそれで満足していれば、喜んでおりさえすれば、それで不安がなく、地上の人生をそれなりに喜んでおれば、それはそれで何か不足があるか。こういう考え方はあるグループの人たちに言わせれば「そんな自己本位な人生を生きるのはおかしい」と言って、攻め立てられますが、世の中のそういう客観主義と言いますか、そういうものに毒された考え方だろうと私は思います。どんな生活でも、その人がそれで満足しているのだったら、何も不足はない。ただはっきりしているのは、神様を信じていくとき、平安があり、喜びがあり、望みを持っていくことができる。それは事実です。それは信じる者にとってそうなのです。信じない人には何の役にも立たないことに違いありません。私たちは常に「あなたは、神を信じるのか、信じないのか」を絶えず問われているのです。

 

 だから、22節に「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう』」。そのとおりです。神様にできないことはありません。そして、できないことのない神様が、いま私にこの生活を、この境遇を、この事柄を託しておられる。与えてくださっているとするならば、私たちは何の不足があるでしょうか。神を信じていくとき、私たちは神様の主権と言いますか、神様がしていることを認めなければ信じたとはなりません。神様の手の中に握られていることを、皆さん一人一人が、自分が信じることが大切なのです。どんなことの中にも、神様を信じる者として生きていく。これが実は幸いな生涯です。それは信じる人にとって幸いなのです。これを客観的に見て、そうなれば誰でも幸せですよと、信じている人はそう思いますが、信じていない人にとっては、何の喜びもありません。

 

 だから、「是非、うちの息子のために、神様のことを教えてやってください」と言って連れて来られる。でも、連れて来られた本人は苦痛でたまらない。顔を見ればすぐ分かるのです。そうすると「本当に気の毒だね」と言うしかない。「まぁ、早くお帰りなさい」と言う話になります。というのは、信じた者にとっては幸いです。しかし「私が幸いなんだから、きっとあの人も幸いになるはずだ。無理やりでも信じさせてやってください」と。「嫌と言ったら首に縄でもつけて……」と言うけれども、それはダメです。客観的な世界であれば、それは言えます。「私がこうだから、あなたもこうなるに違いない」と言えることはあります。「あの人は神様を信じないで不幸な人やね」と思うでしょう。でも、その人は「だまされてしまって、前田教会なんかに行って、あんなことでうれしい、うれしいと言っている。あれはちょっとおかしいんじゃないの」と言われるに違いない。これは主観の問題です。しかし実は、主観の問題が大切なのです。それぞれの人が自分はこれを信じるという何かを持って生きている。そうなると、「あなたは何を信じているのか?」と問われます。

 

多くの聖徒たちは神様を信じて義とされました。アブラハムも、モーセも、あるいはペテロもパウロもそうです。神様を信じたのです。それは彼ら自身が神様の力に組み込まれて、自分の人生を神様のものとして生きたのです。ダビデの生涯でもそうです。彼は常に神と共にありましたから、生活のことごとくの事柄が神様に結びつく。皆さんも自分ではなくて、神様はいつも私の生活の隅から隅までどんな所にも働いておられる御方ですと、信じていく者でありたいと思います。そうすると、すべてのことが感謝です。またこれから神様はどのようにしてくださるかという期待があります。大きな望みがわいてきます。失望することがいりません。逆に過分な期待もしなくなります。神様がなさるのですから「さぁ、これからどうしてくださいますか」と。しかも、山をも移すことのできる御方です。

 

だから、24節に「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」。「得たりと信ぜよ、然らば得べし」(文語訳)、かなえられたと信じる。いや、神様はかなえられないはずがない。神様はできないことのない御方ですから、それを信じる。「はい、願ったとおり、祈ったことについて、神様は必ずなしてくださる」と信じていくことができます。その事柄を信じるのではなくて、神を信じるのです。そして、信じた人にとって、それは大きな喜びであり、安心であり、また力となり、望みとなっていきます。信仰を捨てるのではなくて、信仰に立っていのちにつながっていく者となりたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


7月29日 日々の聖言

2014年07月29日 | 日々の聖言

「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、

なぜわたしの言うことを行わないのか。」ルカ6:46 



口先だけで相手をあしらうほど失礼なことはありません。「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃない」

などと、世間でも言います。「先生」と口では言いながら、尊ぶことをせず、教えに従わないどころか

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