いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(59)「神に帰れ」

2013年11月19日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書30章15節から22節までを朗読。

今朝は、この18節に「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」。

15節には「あなたがたは立ち返って」と薦められています。神様に立ち返ること、これが何よりも幸いなことですから、神様は繰り返して薦めてくださいます。私どもの日常生活は、思いも掛けない、考えもしない出来事が降ってわいてきます。人生は絶えず未知との遭遇だと思います。普段はそういう風には感じません。と言いますのは、常に自分の先輩が、一年先輩、5年先輩、10年先輩と、人生を先に進んでいる人がいます。そうすると、ついつい、あんな風にすればいいのだ、こんな風にすればいいのだ。あの年になったら、こういう心配がわいてくるのだ、こういうことを悩むに違いないと、知らず知らずのうちに学習しています。自分がそういう事態に当たったときにも、直ぐに同じように対処できるかのように思います。しかし、よく考えてみると、それは間違いです。

私自身が、ご存知のように病気をいたしまして、ガンの宣告を受けました。それからいろいろと調べました。同じ病気をした人が、どんな経過をたどるだろうかと、考えます。そうすると、最悪の場合は、一年後には再発をして、二年後にはこうなって、良くって5年、早ければ3年、というようなことをインターネットで調べます。そして、それを自分に当てはめて考えようとする。これは、わたしたちが手探りで生きている証拠でもあります。先が見えない、分かりません。明日が分からないし、来月のこと、来年のことも分からない。分からないけれども、取りあえず、こうなるに違いない。このときにはこういうことが起こるだろう、と、周囲の人々の様子を見ながら学び、それを自分の今に当てはめながら、なる程、こうなるのかと経験を積むのです。しかし、私は病気を通して、同じ病気でも一人一人違うことを知りました。現れ方や、そのたどり方はまったく違います。ネットで極めて自分に近い人の例を見ます。75歳、これはちょっと違うな、60代、68歳の人がいても、かなり近いけれどもまだちょっと距離があると思う。そうして調べているときに61歳という人がいました。この人が私に近いな、と思ったのです。ところが、その人は数年後に亡くなっている。これはショックでしたね。いちばん自分に近いケース、パターンに合う人だと思ったのですが、違うのです。

私は、掛かりつけのホームドクターや、あるいは医療センターの先生にいろいろと話を聞きます。そうしているうちに段々分かってきたことがあります。それは、同じ部位の同じ場所のガンであっても、人の顔が違うように全部違います、と言われる。「どうしてですか、病気は、病気でしょう?」と尋ねると「いや、ガンも優しいガンから、凶暴なガンまで、それは千差万別、それがどう動いていくか、また強暴だからといって、必ずしもそういう結果になるのでもない。ときに、医者でも分からないことがある。また、これは安全なガンです、と言いながら、突然変異を起こして、凶暴に暴れ始めることもある。だから、一概にあの人がこうだったから、自分もそうだ、ということは決して言えない」と言われたのです。だから、「榎本さんは、榎本さんだけのガンだから、喜んだらいいですよ」と。喜んだらいいと、「ほかに二つとないのですから」と、言われて、何を喜べばいいのか分かりませんが、そういうことを聞いて、私はある覚悟をしました。「まさに、これこそが神様のなさる業なのだなぁ」と。もし、このケースとあのケースがびったし同じだなんて言われたら、「神様は、何をしているのだろう」と思いますね、「ちょっと手抜きしたのではないだろうか。あの人とこの人と一緒にしてしまって」と。ところが、一人一人違うのです。

また私たちの人生もそうでしょう。同じ小学校の同級生であった者が、私の年齢になると、65歳を過ぎると小学校の同窓会をみなしたがる。どうしてだろうかと思うのです。私の所にも、何十年と音信不通だった人から突然手紙が来て「私は小学校の何組の何という者です」。そんな人がいたかな、と思って古いクラス写真を見ると、名前がある。「この度、お互いに還暦を迎えたころですから、一度集まりませんか」と書いてある。そんなことを言われても、こっちは別に会いたいとも思わないし、忙しくもありますからお断りしますが、熱心ですね。それは、なぜかと言うと、段々心細くなった。同じ年代の人たちはどうだろうかと気になり、同窓会に行っては、健康の話ばかりです。そしてあの人は、あんな病気が三つもある、私は二つで良かったと、それを確認したくて集まる。それに耐えられなくなった人は脱落します。だから、同窓会というのは過酷だと思うし、非情な場所だと思います。にこやかに、「何々さん、久し振り」「何々ちゃん」とか、「昔に戻ったね」といいながら、腹の底では探り合いです。どっちが長生きするかと。私どもは、どこか自分と似たものを探そうとし易いのですが、結局、最初に申し上げたとおり、私どもはいつも未知との遭遇で、誰も経験しなかった所へ、一日一日進んでいるのです。

同じ年の人だから、同級生だから、同じように歳を取っているから、理解できるだろうと考えますが、そうじゃないですね。一人一人の生きてきた道筋が違います。結婚生活も違う、家庭生活も違うでしょうし、仕事も違います。ありとあらゆるもの、どこを取っても瓜(うり)二つという人生はありません。それと同じように、一人一人が、一日一日全く未知の世界へこぎ出して行く。まるで、宇宙飛行士のようなものです。何があるか分からない。そこへ向かって、朝、目が覚めたら、今日も、未知の世界へ歩いていくんだな、と思ったらいい。どこからいん石が飛んでくるやら、何が落ちてくるやら、どういう危険が待ち受けているか分からない所へ、一歩一歩進んでいく。ときに、落ちて大骨折をしたり、病気に当たったり、家族の悩みに出遭ったりと、考えもしない、予想しなかったことが起こる。そのとき、何を心のより所としていくか。不安と恐れが絶えずあります。未知の世界ですから、どういう事態が起こるか分かりませんから。

15節以下に「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』」。しかし、「あなたがたはこの事を好まなかった」とあります。神様は、未知の世界に私達を導き入れていらっしゃる。一つ一つの事は、神様の手にある。礼拝の御言葉にあったように、「陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある」(エレミヤ18:6)。私たちは、神様の手の中にある。神様が全てのことを起こしてくださる。それは一つ一つの事柄を通して神様に立ち返るためです。15節に「あなたがたは立ち返って」、先ず、私たちが、神様の所へ帰っていくことです。聖書は、繰り返し、繰り返しこのことを薦めています。神様もそれを願っています。ホセア書の6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」とあります。また、イザヤ書の55章には「主に帰れ」、「われわれの神に帰れ」と言われています。そう言われると、「私は前から帰っているのに、どうして言われるのだろう。私はもうとっくに神様の所へ帰っているのですが、まだこれ以上どこに行きますか?」と思われる。私たちは、今神様を信頼しているつもりです。神様を知っています。神様のことを覚えてもいます。しかし、神様に立ち返るとは、神様を信頼する者となること。ここにありますように「落ち着いて、穏やかにして信頼すること」。信仰があるようで無いことを、よく体験します。それがよく分かるのは、思いがけないことに出会ったときです。普段、順調に事もなく進んでいるとき、誰よりも信仰深い人間のように思います。お祈りもするし、聖書も読むし、集会も欠かさないし、感謝、感謝で、朝から、今日もいい一日で感謝だ、感謝だと言っている。そうすると、自分は信仰深い人間だ、聖人みたいになってきた、と思っていますが、何か事があってご覧なさい。ついさっきまで感謝、感謝と言っていたのに、ガクッと変わる。どうして? どうして! というつぶやきに変わってしまう。そのとき神様の「か」の字も消えてしまう。それどころか、目の前の問題や事柄をどうしょうか、どうしたらいいだろうかとうろたえる

15節にあるように「しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」。神様に帰ることをしない、帰っているつもりなのですが、心はここに無い。神様から離れて、あれはどうしようか、こうしようか、頭の中は目まぐるしく回ります。あそこに頼もうか、あの人にこうして……と。そういう問題や出来事に当たったとき、直ぐに神様の所に帰ってきて、主を呼び求めて、自分の心と思いを探って、私は神様を信じているのだろうか、神様の何を信じているのだろうか、とつぶさに顧み、反省するのです。神様の前にある自分の姿勢を点検してください。事や問題が起こったのは、私がどうこうじゃなくて、神様が何かをしようとしている。神様の思いを知り、そのことを通して、神様の御愛と恵みと力をいよいよ深く知る者となるのです。だから、ホセア書6章に「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」とあります。私たちに必ず御自身を現してくださる。神様に出会うのは、悩みにあったときなのです。苦しみにあうとき、悲しみの中にあるとき、主が一番近くにいらっしゃるときです。15節に「あなたがたは立ち返って」と勧められています。確かに、私たちは神様を離れたわけではありません、忘れたわけでもありません。しかし、私たちの心の状態、神様に対する姿勢、思いが、どこかずれている。「神様だけに」と、心と思いが清くなっているか? と問われます。私たちはこれからもいろんな問題に遭います。未知の世界ですから、事件・事故も起こるでしょう。しかし、それはまた神様の恵みの世界でもあります。私たちを未知の出来事に引き入れて、主に立ち返らせてくださいます。

16節にありますように「かえって、あなたがたは言った、『否、われわれは馬に乗って、とんで行こう』」と。神様を頼るよりは、あの人に、この人に、この事はこういう所にお願いしてとか、そんなことを考える。それでは間に合わないと思って、その後にありますように「また言った、『われらは速い馬に乗ろう』と」。もっといい方法はないだろうか、もっと早く解決する方法はないだろうか。もっと早くと焦る。神様がこの事の始めであり終りであり、アルパでありオメガでいらっしゃる、すべてを知っているのだということが、すっ飛んでしまっている。これは一番最悪のケースです。問題が起こったら先ず、神様に近づく。もちろん、自分で祈ることも大切です。しかし、同時に教会に来て、主にある兄弟姉妹と共に心を合わせて祈ってもらうことも大切です。また、集会に励んで、自分の心を御言葉によって強められることも、主に立ち返ることです。ところが、問題が起こると、どういうわけか教会から離れる。

「あの方最近はお見えになりませんね」と尋ねると、「実は、先生には何も言わないようにと言われているのですけれど」、「何それは?」、「いや実はあの方、こういう病気で入院している」、「なぜ早く言わないの」、「いや、先生に言うと、先生がまた病院に来られたら、ご迷惑をお掛けするし、また、皆さんにもいろいろと心配されるといけないから」と言って、来ない。そして退院してもしばらく来ない。何ヶ月かしてやっと来られるのです。「あら、どうしていたんですか」。私は知らなかった振りをして「何をしていたんですか」と、「いや、実は先生、病院に入っていました」、「なぜ早くそのことを言わないの」、「いや、だって、先生にもご迷惑をお掛けしてはいけないし、何とかかんとか…」と言われます。それでやっと元気になって、これから励んで教会に来させていただきます。元気になって調子が良くなったら、来なくていいとは言わないけれど、先ず、その悩みのときにこそ、神様の所に近づいて、御言葉によって、自分の心と思いを探る。その出来事や事柄の中で、それをどういう風に神様の前に受け止めているだろうか。私は主を信頼しているだろうか。神様がいらっしゃることを信じているだろうか。神様はどういう方なのだろうかと、深く深く味わう素晴しい恵みのときなのです。それをただ目先の、とにかく問題が解決すればいい、病気が癒されれば、子供のことが解決すれば、ということばかりに、思いが先立ってしまうと悲劇です。どうぞ、私たちは、先ず主に立ち返ることです。

17節に「ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる」。この17節は比喩(ひゆ)的な表現、譬(たと)えで語っています。これは何を語っているかと言うと、孤立無援になってしまうことです。あの人に頼み、この人に断わられ、こっちが駄目になり、あれが駄目になり、そして神様に信頼することを忘れて、ただ一人絶望の中に立つしかなくなるというのです。私たちがいよいよお手上げになる、行き詰るとき、神様はそれを放っているわけではありません。18節に、「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる」。何と素晴しい御言葉ではないでしょうか。神様をそっちのけにして、心は神様から離れて、問題解決に東奔西走し、うろたえまわっている間、主は待っておられる、見ていらっしゃる。何を待っているのか。行き詰るのを待っている。お手上げになって、どんな方法が無くなって、こうなったら神様に頼るしかない。ここが問題です。そもそも初めから神様しか頼るべきものはないのですが、それに気がつかない。神様は意地悪をして、私たちを懲らしめ、悲しませようと願っている方ではありません。ところが、私どもはどこかで、何か神様に対してそういう思いを持つのです。こんな嫌なこと、こんなつらいこと、は一生懸命にお祈りしてきたのに、一生懸命に神様を信頼しているのに、私のどこが悪いのだろうか。こんな思いも掛けない、願いもしない一番嫌なことを、神様は私に与えられた。どうも、神様は意地悪な感じがする、と思う。

と言うのは、日本人の心に、神様は悪さをするものだ、という思いがあるのです。「触らぬ神にたたりなし」という言葉があるように、下手に神様にちょっかいを掛けたら、とんでもないしっぺ返しを受ける。だから、そっと祀(まつ)り上げて、普段目につかない、かも居の上に置いておこう、というのが日本人の神に対する考え方です。神様は意地悪をし、罰を与え、裁く方だ、という思いが抜けないのです。ところが、18節に「主は待っていて、あなたがたに恵を施される」。神様は、決して私たちを滅ぼそうと願っているわけではない。ペテロの第二の手紙3章に「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」とも語っている。神様は、私にばかり意地悪をして、次から次へと嫌なことばかりが起こるけれど、どうしてなのだろうかと思います。そして、神様のなさることに信頼できない。エレミヤ書の御言葉にあるように「あなたがたはわたしの手のうちにある」と言う。これはある意味では怖いですよ。神様の手の中にあるとは、いつでもどんなときにでも、ちょっとでも失敗するならば、何か間違いを起こすならば、一瞬にして握りつぶされることですから。陶器師が器を壊したように、いつでもペシャッとなるのです。そういう恐怖心を持ち続けるならば、手の中にあることは、怖くて身動きならなくなります。しかし、神様は私たちを愛してくださったのです。ひとり子を賜うほどに私たちを愛してくださったと、言葉では知っていますが、どうしても信じられない。それははっきりと神様の許し、主の十字架のあがないに徹底していないからです。私たちは本来滅びて当然の者であり、神様からのろわれるべき者が、十字架のいさおしによってあがなわれた者である。

ローマ人への手紙5章1節から5節までを朗読。

この1節に「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。これは本当に素晴しい福音の恵みのおとずれであります。ここにありますように「信仰によって義とされた」。確かに、現実の私たちは義と認められる正しい人間ではありません。心はねじくれて、よこしまな思いばかりで、神様の前に立ちますならば、直ぐにでも滅ぼされて当然の穢(けが)れた者です。現実はそうであっても、しかし、イエス様が私のために命を捨てて、罪のあがないとなってくださった。そのことを信じる信仰によって、滅ぶべき者が今日も許され、生かされているのだと信じるとき、私たちは義とされるのです。「義とされる」とは、分かりやすく申しますと、神様からとがめられない者とされる。神様から罰せられることのない者と変えられることです。私たちはどんなことがあっても、イエス様が十字架に死んでくださったそこに絶えず立ち返っていく限り、神様は私たちを義としてくださいます。絶えず十字架のあがないに自分を結びつけていくことが大切です。イエス様が私のために死んで、義としてくださった。二度と神様から罰を受けない、滅ぼされないのだから、好き放題にしようというのではありません。信仰によって義とせられたと言われています。その信仰を持ち続けている間、私たちは義なる者なのです。信仰を失ったならば、義は消えていきます。イエス様のあがないにあずかった者であることを、絶えず信じ続けていく。そのとき、神様からとがめられることのない、神様から愛される者として、受け入れていただくことができます。

その後に「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。神様と私たちの間に、敵対関係はもはや消えている。神様と私たちは、親しい父と子との関係、神の子供としていただいた。この関係を絶えず自覚していくこと、これが神様との間に平和を得ていることなのです。神様の御愛を御霊によって絶えず味わっていくことが、私たちのすべてです。もっとも大切なことです。何か自分にやましい所があると、神様は意地悪をしているように、罰を与えようとしているように思うのです。自分に我ままな思いがあって、与えられている神様の恵みを感謝できない心がある。神様に対して敵対する思いがある。どうして神様はこんなことをなさるんでしょうか、と不満に思ってつぶやくとき、神様が悪いことばかりをするように思えるのです。

これは人と人との関係でもそうでしょう。相手は何とも思っていないのに、相手が自分によからぬ思いを持っていると疑うとき、あの人は意地悪な気がするのです。ときにそういうことを相談される。「先生、あの方は、私に悪意を持っているように思います」、「どうしてですか」、「ああいうこともあるし、こういうこともあります」、「でも、あの方はあなたのために良かれかしと思って、しているでしょう」、「いや、どうも違うようですよ、先生、あの人には裏がありますよ」と。私は聞きながら、あなたがそうでしょうと、思うのです。自分に悪しき思いがあると、相手をそういう風に見るのです。だから、あの人は苦手だと思ったら、相手が苦手なのではなくて、自分がそう思っている。あの人が私を避けているようだというのは、自分が避けているときなのです。神様に対しても同じです。どうも神様は信用ならない。私を愛しているといいながら、あんなことをされて、こんなことをされて、と思っていると、何もかもが「やっぱり……」と思えてしまう。だから、神様に対してどういう思いを持つか、これが大切です。

私たちは神様と対立し争う関係ではない。10節に「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう」。「神との和解を受けた」私達は、神様に対して恐れることはいらない。怖いという意味で恐れる必要はありません。大切にするという意味での畏れることは大切です。神様の前に恐れを持つことは、尊び畏(かしこ)み敬うことです。恐怖を持つことではありません。今、神様に心から安らいで、安心して、自分を任せていける状態にあるのです。私たちの心に安心がないならば、それは神様が悪いのでなく、私たちの心がひん曲がっているのです。問題の中で、感謝できない自分がいるとき、私の心が間違っている。そこで悔い改めて、謙そんになって主に立ち返ることが、求められている。神様が願っていることです。

2節に「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。信仰によってこの恵みに引き入れられて、更に将来にわたって「神の栄光にあずかる希望」。どっちに転んでも、私たちの行く先は決まっている。そこではイエス様が私たちを待っていてくださいます。私たちのこの穢れた肉の様を、一瞬にして栄光の姿とかえてくださって、喜んで迎えてくださるのです。そこに向かっている希望を絶えず持ち続けていく。私たちの望みは、目先のことやこの地上にある望みではありません。ここにありますように「神の栄光にあずかる希望」、私のような者を神様は、神の民として御国に、永遠の命に入れてくださる。その望みを日々持ち続けていこうではありませんか。目の前の状態で希望を持っているならば、それは失望に終ります。今日はこんなに良かった、あんなに良かった、あれが良かった、これが良かったと言っている間、それで望みをつないでいる間、失望の連続です。3節に「それだけではなく、患難をも喜んでいる」。患難をも喜ぶことができるのです。そして「患難は忍耐を生み出し、4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。5 そして、希望は失望に終ることはない」。失望に終わらない希望を、絶えず持ち続ける。それは、どうしたらできるか? 事があるとき、問題があるとき、先ず主に立ち返る。神様の所に帰ってくる、そして、神様の前に、自分がどういう者であり、神様がどんなに大きな御愛を注いでくださったか、神様がどんな恵みを与えてくださっているかを、つぶさに思い返し、それを認めて、いよいよ深く主の御愛と、恵みと、力を体験するために、今日、生きているのです。

もう一度初めのイザヤ書30章18節に「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される」。神様は、私たちがどんな状態にあろうと、一度として私たちを捨てたことがない。勝手に神様の前から離れていくだけです。だから、神様はいろんな事を通して、主に帰れ、わたしの所に帰れとおっしゃる。でもそれに耳を貸さずに勝手なことをして行き詰る。そのとき神様は、ざまあ見ろ、初めからわたしの所に来ないからだ!と言って、しかる方ではない。行き詰ってどうにもならなくなって、お手上げになって、神様!と、どん底から叫び求める私たちの声を待っていてくださいます。主に心を向けるとき、そこにあるように「主は待っていて」と、神様は、忍耐をもって私たちが主に帰ることを待っています。 私たちを待っていて、どやしつけようというのではないですよ。「恵を施される」。恵んでくださるためなのです。そして「それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる」。恵んでくださって、あわれみを施してくださいます。こんな大きな御愛をもって、私たちを顧みてくださる主がいらっしゃる。この方に信頼することができるのです。だから「主は公平の神でいらせられる」とあります。神様は公平な方です。心から信頼する者に、そのように報いてくださるのです。しかし、神様を軽んじる者には、そのように取り扱いをなさる方です。
私はよく思いますが、神様と私たちの関係は、鏡の中に映っている自分だと思うのです。鏡を見て遠く離れると、鏡の中の自分も遠くに離れてしまう。近づいてくると近づきます。だから、神様に近づけば、神様も近づいてくださいます。鏡の中の自分にニコッと笑顔をすると、向こうも笑顔なのです。こっちが笑顔なのに、鏡の中が怒っていることはありません。こっちが怒ると鏡の中も怒っています。神様と、私たちの関係は、私たちがどういう思いで神様に接するかに、公平に報いてくださる御方です。だから、詩篇では、欠けた者には欠けたものとなり、清い者には清い者になると言われています。私たちが、主よ、あなたがいらっしゃるから、感謝します。あなたにすべてを委ねます、と心から委ねるならば、神様は、そのように応えてくださいます。じつに公平な神様です。私たちが傾けば傾く。私たちが悪意を持てば、神様が悪意を持っているように見えるのです。文字どおり、神様と私たちは、鏡の中に映っているもののごとく、公平であります。だから、感謝だと思うのです。一生懸命に、熱心に、真剣になって主を求めれば求めるほど、神様は、私たちに近づいてくださいますし、御自身を現してくださいます。私たちがちょっと距離をおこうとしたら、神様も距離をおきなさいます。

ここに「主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」。公平な神様だからこそ、主を待ち望んで、信頼し、期待し、望みをおいていくとき、誠に幸いで感謝です。神様がどんなに私たちを愛してくださっているか、恵みと御愛を深く深く味わっていこうではありませんか。歳を取って、いろんな思い掛けないことが次々と起こる。だから、歳を取るということは、ある意味では、そういう恵みに深く深く入っていくときだろうと思います。18節にありますように「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである」。どうぞ、主を待ち望み、期待して、心一つに、真剣に、先ず、神様に立ち返って、神第一にしていくとき、神様はそのように私たちを取り扱ってくださり、また報いてくださいます。主の御愛の中に絶えずとどまって、主を信頼していこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。