いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(62)「死んで生きる」

2013年11月22日 | 聖書からのメッセージ
ガラテヤ人への手紙2章15節から21節までを朗読。

今朝は20節に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。

この記事は、使徒パウロが、イエス様の救いにあずかるとはどういうことかを短く的確に語った一節です。イエス様の時代は、ユダヤ人が神様に選ばれた民であって、神様の恵みをうけ、救いにあずかる民だと思われていました。ですからイエス様もツロとシドンの地方に行かれたときに、その地方出身の女が娘を助けてくださいと言ったとき、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」と、実に冷淡なことを言っていますが、旧約聖書に約束されているように、永遠の救いは、ユダヤ人から始まるのだと考えられていました。アブラハムを父祖とするその子孫イスラエルが、まず神様の救いにあずかる。そのために選ばれた民でした。ですから、まずイスラエルの人々の救いのために、父なる神様によってイエス様も遣わされたのです。しかし、神様の御計画は、ただにイスラエル、神様の選びの民を救い出すだけでなく、その救いはすべての人々に及ぶためでもあったのです。イエス様は確かにユダヤ人の救いのためにご自身をささげられたように見えます。イエス様の十字架の苦しみ、死とよみがえりはイスラエルの人々の中で起こった出来事でした。しかし、イエス様がよみがえられて、天にお帰りになった後、ペンテコステの霊、聖霊が弟子たちに注がれることによって、イエス様の救いは、すべての人々に広がったのです。

15節に「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではない」とパウロは語っています。確かに、旧約時代は、イスラエルの民こそが神様の選びの民、義なる民であって、異邦人は罪人だ、という考えがあったことは事実です。しかし、ユダヤ人は義なる者かというと、実はそうではなくてこの16節に「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による」とあります。この「義」というのは、なかなか難しい言葉ですが、分かりやすく申しますならば、神様によしといていただく、認められる、受け入れられる者のことです。神様の前に罪なき者と認めていただく、これが義とせられることです。16節に「律法の行いによるのではなく」とあるように、昔のイスラエルの民は、自分たちの先祖から受け継いだ律法、神様がモーセを通して与えられた律法に定められた行いを守ること、定められた事柄をしっかりと守っていくことによって、イスラエルの民は義なる者と認められる。神様に受け入れられ、喜んでいただくには、神様がモーセを通して与た律法、ルール、生活のルールをきちっと守ること。そうすれば、その人は義なる者となり、イスラエルの民として受け入れられると、長年語られてきました。ですから、イスラエルの人々は律法を守っていたのです。これは食べていい、食べてはいけないとか、このときはこうしなさい、あのときはああしなさいと、細かく聖書には記されていますね。安息日を聖別しなさい、守りなさい。安息日には働いてはいけないと。そうなると、働くとはどこまでをいうのか? 人間食べなくては生きられませんから、朝起きて顔を洗うことは労働になるのかならないのか? 歯を磨いて良いのか悪いのか? 朝火をおこして調理することはどうか?そういうことを考えだしたら「律法を守る」と一言ですが、それは本当に難しい。考えだしたら、いくら考えても解決がつきません。朝、パッと起きて、その一日を清いものとして、聖なるものとして、安息日を守るのです。朝起きて布団をたたんで良いのか悪いのか? と、ここから始まり、細かいことを言いだしたらきりがない。とうとうユダヤ人は、それをもっと分かりやすく、もっと細かく規定したタルムードという律法の更に細かい本を作った。それにのっとって、守ることで神様の前に義とせられる。だから、彼らの生活は細かい規則に従っている。よくまぁ、こんなことが守れるなぁ、と思うのですが、幼いとき、生まれたときから、そういう習慣の中にいますから、そうしなければ居心地が悪いくらいに、それになじんでいる。旧約聖書にあるように、清い動物、食べて良いもの、悪いもの、すべてそれにのっとって生活する。それを守ることによって、人が義とせられるのだと思っていました。

パウロもご存じのように、ユダヤ人の名門の出身です。しかも非常に優秀な学徒であり、ガマリエルという神学者の門下生でもありました。将来を嘱望された立派な人物でした。それだけに彼は、律法に対して熱心だったのです。おそらく、自分で一生懸命にそれを守っていたと思います。だから、イエス・キリストが神様だなんて、到底信じ難いどころか、神を冒とくすることだから、許せない。ペテロたちが聖霊に満たされて、イエス様の福音を述べ伝え始めました。そしてイエス様を信じる人々が起こされてきた。エルサレムの町にも教会ができました。次から次へとイエス様を信じる人々が増えてきた。その様子を見てユダヤ人たちは恐れをなした。これは大変な不法がはびこる、良くない教えが、社会に害を及ぼす教えが広まっていくから、これを何とかつぶそうと、クリスチャンの迫害が始まった。そのころパウロは、青年期から壮年にかけての時代でありました。彼は血気盛んですし、しかも非常に熱心でありましたから、クリスチャンをやっつけるのは、神様に対して素晴しい働きだ、と思い込んでいた。だから彼は、多くのクリスチャンを迫害して、牢屋に入れたり、あるいは処刑をしたり、大変な罪を犯していました。彼は、それが罪とは思えない。神様に従っている自分は義なる者だ。私は正しい人間だ。生まれもユダヤ人であり、そして子どものときから律法も守ってきたと。「落ち度なく」とピリピ人への手紙で自分のことを語っています。律法を守る点においては誰にも負けない程の人物でした。

ところが、律法を守るというのは、人を義とするばかりか、己が神になるのです。律法の本意といいますか、律法を授けられた神様の御思いは、神様の前に人が罪人であることを認めて、神様に帰ってくることです。神様に立ち返る手立てではあっても、それを用いて人を裁き、自分を神にするための道具ではなかった。だから、イエス様は、律法の書にこう書いているけれども、と言っています。十戒には、盗むな、偽証を立てるな、あるいは、父母を敬え、とあるけれども、しかし、心で人を憎いと思ったら、それは人殺しだ。また、あれが欲しいと思ったら、それは盗んだのと同じ罪人なのだ。それを問われたら、すべての人の罪は否定できません。私達はすべて罪人でしょう。そこまで徹底して、神様から問われたならば、自分は正しいなんてとても言えない。自分が罪人であることはよく分かっている。人を憎いと思うし、欲しいものは沢山ある。しょっちゅう盗んだり殺したり、昨日一日何人殺したでしょうか。そう言われると、殺人鬼のようなものです。

モーセを通して与えてくださる律法は、人は義なる者では有り得ない、だから神様のあわれみを受ける以外にないことを教えるためです。だから律法を守ることができたら、それは神様のあわれみと恵みであって、自分の努力や力ではないことを知る。そのために律法を定められた。これを守れない自分であると自覚するのが大切です。律法の書が与えられながら、それを守れなかったのです。事実イスラエルの民は律法どおりに生きることができなかった。しかし、自分たちは律法をよく守っていると思っていますから、つい人を非難する。そうでない者を裁くことになる。また、自分が守っていると思うから、自分はいい人間だ、義人だと自認する。義は神様の特質です。だから、己を義とすることは、自分を神にすることです。イスラエルの民に与えられた律法の趣意、神様の御思いと、イスラエルの人々の思いとがずれてしまった。これがイエス様の時代に一番顕著に現れたことでした。

形だけがイスラエルであり、神の民であり、自分たちは神から選ばれた民であって、律法を守ってどこにも落ち度がないと言いながら、神様の恵みに感謝するどころか、そうでない者を非難し、律法に定められた「人を殺してはならない」という戒めを破っている。だから、あるときイエス様と一緒にいた弟子たちが、道を通っているときに麦の穂をつまんでそれを食べた。それを見ていたユダヤ人たちが「あなたの弟子たちは、とんでもないことをした。今日は安息日なのにあんなふうに収穫をした」と非難したのです。収穫と言ってもちょっとつまんだだけです。そのときにイエス様は「安息日の主は誰か」と問われました。現れた表面の行為、業だけをもって、自分たちは正しい人間、安息日を守っているとしているが、安息日は一体何のために、どういう趣旨で、どういう神様の御思いがあって定められたか、よく考えてみなさい。「人の子は安息日の主である」とおっしゃいました。イエス様こそあがめられるべき方でありながら、そっちのけにして、ただ人の業で、あれをしない、これをしない、これを守っていると自負する。それはユダヤ人だけでなく、ともすると、私たちも同じところに陥っている。神様をそっちのけにして、ただ目先の事実や事柄にだけ熱心になる、これが私たちのいちばん陥りやすいところであり、またユダヤ人が陥った大きな罪だったのです。

だからパウロもそういうユダヤ人の生活の中にいましたから、形だけは一生懸命に、また熱心に励んでいたのです。ところが、ダマスコにクリスチャンを迫害するために出掛けて行ったとき、彼は大変な事態に遭遇します。

使徒行伝9章1節から9節までを朗読。

この記事は、パウロが、以前はサウロという名前でありましたが、「主の弟子たち」、クリスチャンのことですけれども、この人々を迫害しようとして、大祭司から許可書をもらったのです。彼は出かけていく途中、3節に「道を急いでダマスコの近くにきたとき」、ダマスコの町、その当時は大きな商業都市で、地方の中心都市でもありました。そこへ近づいたときに「突然、天から光がさして、彼をめぐり照した」。天からまばゆいばかりの光が彼を覆ったのです。雷に打たれたように、地面に倒れてしまった。そのとき大音響が響いて「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。どうして、わたしを迫害するのだ、という声が聞えた。おそらく、伴の者たちには何のことか分からなかったと思います。ただ、まばゆいばかりの光が覆って、大きな音がしたのでしょう。しかし、サウロにはその言葉がはっきり聞えたのです。5節に、彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と問い掛けたら、答えがあり「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。わたしはあなたが迫害しているイエスだよ、と。サウロはイエス様はもう死んでいない。よみがえったと弟子たちは言っているけれど、あれはうそだ、作り話だと思っていた。だからクリスチャンは、世の中に害悪を流すとんでもない不法を働く輩だから、懲らしめなければいけないと思ったのです。自分が迫害しているのは、クリスチャンたちであって、イエス様とは思っていなかった。この光の中ではじめて、イエス様は今生きていらっしゃる。自分がやっつけている相手はまさにイエス様御自身であったと知りました。この大きな体験を経て、彼の生活が180度変った。

彼は目が見えなくなって、人の手に引かれてダマスコに行きます。8節に「サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった」。これは極めて象徴的だと思います。というのは、それまで彼は何でも分かっている、神様のことは全部知り尽くしている、あいつらは悪いやつだ、あの人たちは目が見えないから分かっていない、と思っていた。ところが、誰が何も見えていなかったかというと、サウロ自身だった。ここで「目を開いてみたが、何も見えなかった」。彼の心の思いを象徴した言葉です。今まで自分が頼りとしてきた価値観といいますか、そういう世界が泡のように消えてしまった。無になってしまった。今までこれが正しい、立派だ、こうでなきゃいけないんだと思っていたものが、ガラガラッと一瞬にして壊れていった。そして彼の目の前にはなんにもなくなってしまった。もう自分で歩けない。これもまた象徴的です。人は自分の何か信念を持っているのです。こうでなきゃいけないとか、こうあるべきだとか、こうしようと、心にある強い思いが人を支えている。そして、それに突き動かされるようにして生きている。ところが、それが消えて、崩壊したときに、それに替わるものがなかった。それが立ち上がれない、目が見えないという言葉に象徴されている。このときのサウロのショックは死にも匹敵するくらいの事態、自分は死んでしまったと……。クリスチャンを迫害することに力いっぱい生きていたのですが、それがそうじゃない。実は、クリスチャンが信じているイエス・キリストは十字架に死んだ罪人としてのキリストではなくて、よみがえって今も生きている神でいらっしゃることを心に受けたとき、彼の世界はガラッと変わった。そしてとうとう見えない、歩けない、全く茫然自失、もぬけの殻になってしまった。これはパウロの生涯の原点です。だから使徒行伝に、3回語っています。彼の長いメッセージがいくつかありますが、その中でこのときの出来事に必ず触れています。それは彼自身の世界観が変わった、生きる土台が入れ替わってしまった。

ですから、ガラテヤ人への手紙2章19節に「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた」。彼は、イエス様のゴルゴダの丘の十字架こそが、実は私の死である。「律法によって律法に死んだ」というのは、律法は罪を告発する検事で、私たちに対してお前はこんな罪があるではないかと、神様の前に罪人であることを徹底する。パウロは、律法に生きていた自分が、これでは駄目なのだ、これでは行き止まりなのだ、いくら律法を信じて行なっても、それで義とされるのではなくて、それは私の罪を告発してくるものである。自分はどんなに大きな罪人であるかを律法によって知り、そして、その律法に裁かれてキリストと共に十字架につけられた罪人なる自分であり、「罪人のかしら」であると、ここで語っているのです。だから「キリストと共に十字架につけられた」。彼はゴルゴダの丘で、イエス様の横にパウロの十字架があったのではありません。イエス様が十字架に死んだとき、彼は若くてそういうことを知りませんでした。しかし、先ほどお読みしたように、ダマスコでの思いもかけない出来事と共に、瞬時にしてイエス様の十字架に自分がつけられた者となった事を認めたのです。

この19節以下に「わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」。これはパウロばかりではない、私たちもそうです。私たちもかつては、神なくキリストなく、この世のさまざまな倣いごと、習慣、この世の仕来り、そういう価値観に根ざして、これでなきゃ駄目だ、こうであるべきだ、私はこうなのだと、生きていた。それでは行き詰まる。そこからイエス・キリストの救いに引き入れられて、イエス様の福音に触れたときに、こんな世界があったのか、こういう生き方があるのかと、キリストと共に死んだ者となって、古き生涯を主と共に滅ぼしてしまう、これが私たちの信仰の始まりです。

ローマ人への手紙6章4,5節を朗読。

4節に「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである」。イエス・キリストの救いを信じて、イエス様が私の救い主となって、十字架に私の罪のために死んでくださった、罪を赦(ゆる)して私たちを義なる者、神様に受け入れられるものに変えてくださったと認めて洗礼を受けます。洗礼というのは、水に体を浸すことですが、これはイエス様の十字架に私も死んでいるのだと認めることです。この証詞をするのがバプテスマです。それと同時に、水から上がって生き返ったときに、私たちの生涯は全く違う新しい者へ造り変えられて、よみがえった者となる。イエス様が、十字架に死んで墓に葬られ、三日目の朝によみがえってくださったように、私たちも死んで、古い生涯を捨てて、新しい者としてキリストと共に生きる者に変えられる。これを信じること、これが救いの原点です。だから、4節に「バプテスマによって、彼と共に葬られ」、まずキリストと共に死んだものとなる。だから、イエス様の十字架は、私のためであって、既に私という者は死んでいる、滅びている。では、今生きているのはなにかと言うと、そこにありますように、「キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。イエス様があの死からよみがえらされたように、「わたしたちもまた、新しいいのちに生きる者と」されている。今、私たちは新しい命に生かされている。その新しい命とは、キリストを救い主と信じ、主が私の命をなってくださる。新しい価値観、世界観の中に移し変えられている。今日も、主が私のために死んでくださった。私も共に死んだ者。しかし、今生きているのは、私が生きているのではなく、キリストが私の命となってくださっている。だから5節に「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」。私たちが、イエス様に結びついて死んだものとなる、キリストの死と一つとなるとき、今度は、キリストをよみがえらされた力で、私たちを新しい命に生きる者と変えてくださる。そのために、まず死ななければいけません。自分に死んでいくことです。徹底して自分を神様にささげる。神様に委ね切っていくことです。

先日もある方に個人伝道しておりましたときに、その方がそういうことを語っていました。この記事を読みまして、「本当に私どもは死んでよみがえる、キリストと共に生きるということは、神様に私のことを全部任せることですね」と、その方は言われました。そうなのです。人の救い、新しい命に生きることは、神様に信頼してその方の手にすべてを委ねること。その方には病気がありまして、その病気が良かったり悪かったりします。私はその様子を見ながら祈っていました。そうしましたら、神様は、不思議にその方の心を新しくしてくださいました。その方が言われるには、自分の病気が良くなるとか、良くならないとか、そのことばかりにこだわっていた自分があった。これは神様の前に罪なのだと教えられたと言うのです。神様がいらっしゃることを信じていながら、どうしても神様の手の中にあると言えなかった。なんとか良くなって欲しい。こうなって欲しい。そして状態を見て一喜一憂する。その繰り返しをしていると、ほとほと自分という者がなんと穢(けが)れた者であるか、神様を信じられない弱い者であろうかと徹底して悟った。そのときに、もう降参、神様、お手上げだからすべてをお委ねします、これが自分に死ぬということですね、と言われる。私は「そうですよ」と。私自身もう一度そのことを教えられました。自分をささげ切って、神様の手の中にあると信じて、だからこれからは、病気が良かろうと悪かろうと、どっちでもいい。そうなると、テサロニケ人への第一の手紙にあるように「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」。いつも喜んで祈ることができ、すべてのことを感謝できるようになる。その方は感謝できない、喜んでおれないのは、神様に対して罪ですねと言われた。罪というと何か大きなこと、何かひどいことを考えます。しかし罪は実に小さなものです。それは、日毎神様の恵みの中にありながら、それを恵みと認められない、感謝できない。どうしてこんなになったのか、私はこんなものは嫌よ、私の願っているものはこうだ、どうしてこうならないのだ、そう思っている心は、まさに神様に対して罪を犯している。その罪から赦されて、いつも喜び、感謝できるようになるために、キリストと共に死んだものとなって、今度は、キリストが私たちを新しい命に生かしてくださるのです。

ガラテヤ人への手紙2章20節に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。この御言葉をしっかりと心に自分のものとして、はっきりと告白できるならば、どんなに幸いか分からない。「もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と思うとき、自分の言葉や行動が恥ずかしくなる。これじゃキリストが生きているとは言えないと。その後に「しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」とあります。ここで「しかし」と言われていますが、この接続詞の「しかし」という言葉は、キリストが私のうちに生きておられることを、もうひとつ違った言葉で言い換えようとしたのです。「しかし」という言葉は、前に言ったことを否定する接続詞ですが、ここではそういう意味ではありません。むしろキリストが、私のうちにあって生きてくださっていらっしゃる、私はキリストによって生きていることを、もっと具体的に言い換えている。現実、肉体をもってこの地上で日々の生活をしている私たちは、どこにキリストがいるのだ、と問われる。確かに私自身の中にキリストが、なにか小さな像のように、ここを開いて見てくださいと、レントゲンを見たらキリストがいたと、そんなものはありません。肉にあって生きている、しかし、具体的にキリストが生きているとはどういうことかと言うと、その先にありますように「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子」、イエス・キリストを信じる信仰によって生きていると、パウロは言っているのです。それはパウロだけではなくて、私たちも同じです。「イエス・キリストを信じる信仰」。では、キリストの何を信じるのか? 主がよみがえって、救い主となり、神となってくださった。王となり主となってくださった。私の生活の初めから終わりまで、隅から隅まで一切をキリストが握ってくださっている、導いてくださっている、顧みてくださっている、と信じていくのです。だからパウロは、自分が生きているのでなく、キリストが私にこのことをさせてくださっている、そう信じて感謝する。

先ほどお話した方は、これから新しい人生をどういうふうに生きるか。それはキリストが私を生かしてくださる。主が、私の罪を赦して今日も生きる者としてくださった。だから、これからの人生すべてがキリストのためにある。主にささげられたものと言っても、現実自分の生活があります。ご主人もいれば、子どもたちもいる。家庭の細々したことがある。今までは、ご主人のためにこうしてやろう、息子のためにこうしてやろう、家族のためにああしようと思ってきたけれど、これからはすべてがキリストのために、それをさせていただくことになる。これは世界観がガラッと変わることです。今まではあの人のためにこれをしてやろう、この人が喜ぶからこれをしてやろう、あの人がこうだからこうしよう、と思っていたこと、それがガラッと変わって、そうじゃなくて、人ではなくて見えない主のために生きる者となる。今主が私にこのことを、この人のためにするように求めておられる。主が私にこのことをせよ、と言われるから、させていただく。これが新しい命に生きる、キリストが私を生かしてくださることです。

ですから、死とよみがえり、十字架の命に立ち返って、キリストと共に生きる生涯でありたい。パウロが語ったように、20節「生きているのは、もはや、わたしではない」と。これは私がしているのではなく、神様が私にせよと言われて、知恵を与え、力を与え、健康を与え、時間を与えて、今これをさせてくださるのだから感謝しますと喜んですると、どんなことでも喜べる。いつも私たちは、あれがない、これが足らない、こうなったら……と、つぶやきます。ところが、私たちはもう死んだ者、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」、このことを徹底していくとき、このことをさせていただいたと感謝しかない。喜びしかないのです。20節にありますように「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。絶えず「御子を信じる信仰に」立って、主を信じて、今日も主が、私の王となり主となり救い主となり、御手のうちにすべてを導いてくださる。その方の前に、心を低くして、へりくだって、今日も主がこんなに支えてくださり、恵んでくださったと、感謝こそすれ、不平不満はどこにも生まれてきません。だから、常にキリストと共に死んだ者となって、日々主に生かされていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。