いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月30日 日々の聖言

2014年09月30日 | 日々の聖言

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ピリピ4:13 


マルチタレントと言われる人でも、人である限り能力には限界があります。まずは

自分の力を誇らないことです。自分が有能なものであっても、足らないところがあり、

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聖書からのメッセージ(337)「中垣を取り去られ」

2014年09月30日 | 聖書からのメッセージ
 「詩篇」32篇1節から5節までを朗読。

 今朝は1、2節のお言葉を通して教えられたいと思います。「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。2 主によって不義を負(お)わされず、その霊に偽(いつわ)りのない人はさいわいである」とあります。

 聖書を通して語られていることは何であるかと問われたら、 もちろん聖書のいちばん最初にありますように、すべてのものの根源でいらっしゃる神様の存在、神様がいますことが第一であります。それでは、神様がいますことだけですべてかというと、もう一つ大切なことがあります。それは、神様に対して私たちがどういう関係、かかわりであるかを知ることです。これが実は私たちの信仰の中心です。私たちは神様に対してどういう自分であるか?神様がいらっしゃるとするならば、神様に対してどういう関係、かかわりを持って生きているのか?ところが、そういうことは教会に来るまで、信仰に触れるまではほとんど考えることはなかったと思います。今の日本の社会を見ていると、まず神様自体について語られません。幼稚園、小学校、中学、高校、大学と教育を受けていきますが、その中でそういうことを聞く機会はまずないでしょう。せいぜい家庭によっては仏壇や神棚があったりして、たまに年に一度か二度ぐらい、お正月には神社に三社参りですか、初詣(はつもうで)だとか、お盆だとか法事などがあると、仏さんとかの話は聞くでしょうが、神様についての話を耳にする機会が全くありません。だから、自分たちの人生とか、生きるとか、この世の中で人というものがどういう存在であり、人間とはどういうものなのか? という位置付けがはっきりしない。そういうことは一切考えまい、そういうことには触れないで、人の思いといいますか、人間だけの世界としての世の中を考える。

ところが、聖書のお言葉を通して教えられていることは、まず神様がいらっしゃること、神様は全能者で、すべてのものを造り、生かしてくださる創造者であることです。神様に対して人がどういうものとして存在しているのか、いうならば、私たち一人一人が今、今日、ここに生きていることと、すべてのものの造り主でいらっしゃる神様とがどのようにかかわっているか、自分はその神様に対してどういう思いを持っているかなどが大切なことになります。しかし、世間一般ではそういうことを知りませんから、ただ世間のやり方、先祖伝来の生き方、様々な人を見て、周囲を見てそれを見習う。そういう生き方を“よし”としてきました。では、それで人は完全に満足しているか?というと、100パーセント満足していると言えないものを絶えず持っています。だから、常に人は何か不足を感じています。苛立(いらだた)しい思い、あるいは満足のいかない気分、一生懸命に努力して事を達成しますが、どこか心の中に、「これで良かったのだろうが、本当にこれでいいのだろうか。これは自分が求めていたことなのだろうか」と、違和感のようなものを常に感じています。しかし、それを大っぴらにあからさまに言うことはありません。「いや、すごいことをしたね。これだけのことをしたの!」と褒めてくれる。たとえそのような大事業をしないとしても、それぞれの家庭で主婦として、主人として、家族としていろいろな責任を果たす。三月期になると幼稚園を卒園したり、小学校を卒業したりします。親としては「やれやれ、これで子供も中学校を終わった。よく頑張った。本人も頑張ったけれども、私も頑張った」と思う。そして「次は高等学校、あるいはその上に向って行ってくれればいい」といって、本当に心から「ここまでできた。この子がこんなになってくれて良かった」と十分満足しているかというと、確かに親としての責任を果たしたとは思うけれども、どこかで「ああしておけば良かったんじゃないだろうか」「もう少しこうであったら良かったんじゃないだろうか」「これはこれで良かったとしても、しかし、自分の力が足らなかったのだから、親として、してやりたいことはあったけれども、そこまで資金もなかったし、時間もなかったし、自分の知恵もなかったし、こんなものか。これをよしとして、感謝、感謝」と言う。それで人から「あなたもようやったね。お子さんも小学校を卒業して、中学校を出て、もうこれで楽になりますね」「ええ、もうここまでさせてもらって、私はもう満足です」と、人には言いますが、本当に満足しているかというと、「何か違うのではないか、もうちょっとやりようがあったかもしれない」と、責めるものが常にあります。いったい自分はどういう者としてこの世にあるのだろうか? また「いま私がこれをしているけれども、本当にこれでいいのだろうか?」と、不安、恐れを感じるのです。それは私たちが造られたものであることの証詞です。神様によって造り生かされていることを知らないので、自分に安心がない。

小さなまだ親掛かりの子供は、自分がしたことが正しかっただろうか、良かっただろうかを常に問うています。そのとき、子供に安心を与えるものは、親の認可、承認です。だから、子供が何かしながら、時々親の顔を見ます。教会にも幼稚園ぐらいの子供たちがいますが、組み立てブロックで遊んでいて、組み立てたものを必ず親の所へ持って行って、「ねえ、見て」と言うのです。それは自分の能力を誇っているようですが、そうではありません。自分のしていることが親から「よし、それでいいんだよ」と保証してもらうのです。そうすることによって子供は安心を得ます。親でなくて別の人でもいいのではと思いますが、まず親なのです。ほかの人が「いいのが出来たね。良かったね」「上手じゃないの」と言って褒めるでしょう。それでもまだ親を探します。私が「いいのを作ったね。飾っとこうか」と言ったら、「ウン、チョット待って」と言うのです。それを持って親を探すのです。もういいじゃないの、親を探さなくても……、と思いますが、本人にとっていちばん安心できるのは、親との関係なのです。

大人になっても、どこかそういうところがあります。50も60も70もなって、今更親でもあるまい、と思っているでしょう。でも年を取ってくると「自分がしたことを親だったらどう言うだろうか?」か、と無意識のうちに考える。天国か地獄か知らないが、私のしていることを見て、母親がしかめ面(つら)をしてやいないかとか、耳に「そんなのしては駄目よ」としかられたときの声が聞こえてくるような気がするのです。それほど、自分の親との結び付きは非常に深いのです。ただ単に血のつながりがどうのこうのではありません。一人一人を在らしめている、生きるための揺るがない土台。というのは、私たちはこの世にあって揺るがないものがないだろうか、と求めます。ドシッと堅い揺がないものに立ったときに初めて安心があります。そのいちばん身近なものは親なのです。子供の時からそうですが、とにかくどんなことがあっても親の所へ持って行けば、何とか解決してくれる、あるいは引き受けてくれる。そういう力強い親を子供のころに感じています。生まれた瞬間から母親の腕の中に抱かれて育てられていくわけですから、いちばんの身近な所はそこです。その親に子供は非常に信頼する。信頼といいますか、無意識のうちにそこに自分の立ち所を見つけようとするのです。ところが、しょせん人の親はあくまでも親です。人が求めているものは、やはり自分はいったい誰によって造られて、いま何によってここに置かれているのか。しかもそれは何のためであるのか。よく世間では難しい言葉で“アイデンティティー”と言いますが、自分が自分であることの確かさ、根源、そういうものがはっきりしなければ人は幸いになれない、安心して生きることができないのです。幸いに神様のことを知って、いま生きている自分を神様の存在とのかかわりとのなかで受け入れることができるのは、本当に恵みです。

「ヨブ記」22章21節から26節までを朗読。

21節に「あなたは神と和(やわ)らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」と。これは神様と私たちが隔(へだ)てのない親しい関係になることです。それがなければ私たちには安心、平安、安らぎが得られないのです。先ほど申し上げたように、子供が親によって安心を得るように、すべての人は造り主との関係を正しくしなければ幸いになり得ません。確かに子供のころは親がそれに取って代わりますが、だんだんと大人になってくると、ある時期から親に幻滅します。子供のころの親はスーパーマンです。「うちのお父ちゃんは何でもできる」「お母ちゃんに頼めば大丈夫」。たとえ叱られても親は自分を受け入れてくれている、という確信があります。ところが、中学、高校、大学くらいになってくると反抗期があります。これは幸いなことで、親が小さく見えるのです。今まで素晴らしい大きな存在であった親が小さくなってくる。そしてひ弱な存在に見えてくる。どうも頼りない、頼んでもしてくれそうもない。経済力もだんだん底が見えてくる。子供のころは分からなかったけれども、高校生ぐらいになると親の財布の限界も分かってくるから、「まぁ、いいや。親に言わんでもおれがアルバイトして何とか……」と、こうして親から離れていきます。それは幸いなことであるし、また親だと言ってみても、人の親であるかぎりこれはもうやむを得ない。ところが、本当に私たちが求めている安心は、もっと根本的なところで、人類とか人とか、私たちすべてのものの根源がいったいどこにあるか、ということです。それは神様だ、ということを知りますが、神様と私たちとはある日突然のごとく、「神様、あなたがいたんですか。じゃ、これからひとつよろしく、お付き合いください」と言ってスラッといくとは思えない。いや、それどころか、私たちは神様を知っても、素直に「では、その神様に私は信頼しましょう」とはなりません。私たちの内に自我といいますか、自分という強いものがあって、それが神様と競合する、競い合おうとするのです。神様がいらっしゃることを知ったならば、今ある自分のすべてが神様からのものであると信じるはずですが、信じられない。自分の願ったようではない、自分の求めたものとは違っている、という思いがありますから、神様がいらっしゃると知っても、どうもそれでは満足できない。いうならば、神様に全面的に降伏する、降参することができない。そして、自分が、自分が、おれが、おれがという思いが常に私たちにある。それでいて自分が本当に満足できるかというと、できないでいます。実に複雑な矛盾(むじゅん)した心理を神様に対して持っている。

親に対しての子供の思いもそうです。子供のころは我がままなことを言います。親に自分のして欲しいことを求めて、好き放題、言いたい放題言います。しかし親はちゃんとそれをコントロールして、駄目は駄目、よいはよいと取捨選択して子供に与えます。そのとき子供は時々腹を立て、寝っころがって泣いたりしますが、しかし親は駄目なものは駄目として拒(こば)みます。そのとき子供は折れるわけです。そこで「これはもう仕方がない。泣いたって仕方がない」と、ケロッと泣きやみます。だから、親とのかかわりではっきりと自分を抑えることを学ぶのです。ところが、成長してくると、自分を抑えきれなくなる。やがて、親を離れて自分の好きな道を歩み始める。神様に対しても同様です。神様にいろいろなものをぶつけます。「神様、あなたが私の造り主。ああもしてください、こうもしてください」。ところが、神様は「わたしが神である。わたしは主である」と、ご自分の力ですべてのものを支配なさる。神様の存在、神様という御方はどういう御方かを認めるのは、人が徹底して被造物、造られた者であること、自分が神様によってしか生きることができない者であることを認める以外にないのです。ところが、どういうわけか、人にはそれを認められない思いがある。子供のように、自分の思いを通そうというものが、神様に向かっても働くのです。その結果、神様と私たちとが不仲になる、仲が悪いといいますか、敵対した関係にある。これが聖書の言う罪でしょう。「罪」という言葉は耳にタコができるぐらいによく聞いていますから、「あのことか」とすぐに分かります。「あのことか」であって自分とは関係がないと思っている。ところが、ここが大切です。その罪は誰かと? 私なのです。自分のなかにあるのです。そのゆえに神様と穏(おだ)やかな関係が失われた。神様に対して憤(いきどお)っているといいますか、怒(いか)る思いが常にある。子供だってそうですが、自分の要求を拒まれると親に対して悪態をつきます。「くそばばあ!」だとか、何とか言います。

父がまだ健在だったころ、孫娘がおじいちゃんにいろいろと勉強を教えてもらう。おじいちゃんがいろいろと指示をする。その孫が調子のいいときは、はい、はい、と素直に聞いている。ところが、その時はどういうわけか虫の居所が悪かったのでしょう、おじいちゃんの言うことを聞かない。そうしたら父が「もういい、下へ行きなさい」と言ったら、その子が下へ降りていくとき、「おじいちゃんの馬鹿!おじいちゃんの馬鹿」とつぶやくのです。それを母が聞いて、「まぁ、おじいちゃんがあんなにしてやっているのに、あの子ったら……」と、憤慨(ふんがい)しておりました。

神様に対していつもそうなのです。神様のことを知って、「神様がいらっしゃるのだったら、私はもう何にも心配はいりません」とはならない。「神様がいらっしゃるんですか。分かりました。神様、あなたがいてくだされば、何にも心配することはありません。どうぞ、好きにしてください」と言えますか? 何か言えないですよ。「それは神様がいらっしゃって有難いけれども、だったらこれをしてください。あれもしてください。いや、ここは触らないでください。ここはやめといてください。ここは私の思いどおりに……」と、そこで突っ張るものがある。それが実は罪なのです。だから、そのため神様に信頼できない、「どうして神様はこんなことをなさるだろうか」という苛立(いらだ)ち、憤り、それらがいつも私たちの心にある。しかし、神様に対して怒っている、と自分は思わないのです。

カインとアベルの記事が創世記にありますが、カインが神様から自分の供え物を拒まれたことによってアベルを殺す。どうしてアベルを殺さなければいけないのか。アベルがカインに何か悪いことをしたのかと言うと、何にもしていないのです。ただ、神様がカインの供え物を拒んだだけで、「こん畜生」と言ってアベルを殺すのです。いうならば、カインの神様に対する憤りの心が人に向っていく。私たちもそうです。この世のすべての事件もそうでありますが、そのいちばんの根本は人が神様に対して憤っていることです。だから、神様がなさることを受け入れられない。「どうして、こんなことをするのだろうか」、カインがそうなのです。「どうして私の供え物を拒まれるのだ」、拒まれる、ということはなかった。神様は別に「お前のは駄目だぞ!」とおっしゃったのではなくて、ただアベルの供え物のほうを顧(かえり)みられた、というだけのことです。神様のなさることだから、「申し訳なかった。神様がお気に召されなかったら、これはもうやむを得ません」と言えばいいのですが、「何でや!」と、そこに神様に対する憤りがある。その結果、人類最初の殺人が起こりました。私たちもそうです。いつもいろいろなことで、「あいつがいけない」「こんなことを言われて……」「あんなことをされて……」と言って、人を非難したり、人を恨(うら)んだり、あるいはナイフで殺さないまでも腹の中で「こん畜生、死んじまえ」と思う。だからイエス様が「心の中で人を憎(にく)いと思ったら、それは人殺しだ」とおっしゃるでしょう。まさにカインの怒りです。というのは、神様がいらっしゃることを認めることは、いま受けている一つ一つの事柄が、実は神様から出たことなのだ、と認めることです。いま自分の願わない事態、自分の欲していない事柄が起こっている。「どうして、神様、こんなことをするのですか!」と憤りの結果が、その問題の関係者だとか、それの関わっている人に向っての具体的な罪、犯罪行為につながっていくのです。いわゆる刑法上の罪は犯さないとしても、心の中に神様に対して憤っているかぎり、いつどういうチャンス、機会に恵まれたら同じ犯罪を起こすことがあり得るのです。いろいろな犯罪のニュースを聞いて「ひどいことをするわ、あんな残酷(ざんこく)なことを……」と言いますが、もし、同じ状況に置かれたら、やっているに違いない。「いや、私はしません」と思いますが、こればかりは分からない。神様に対する憤り、その罪の結果である人の思いというのは、とんでもない方向へいきます。

詩篇32篇の表題に「ダビデのマスキールの歌」とありますが、この内容から明らかにダビデがバテシバとウリヤに対して行った罪の結果のことが歌われています。あれほど神様を畏(おそ)れて、神様の恵みに生かされたダビデでありましたが、自分の状況が良くなる、境遇がよくなって、事が安泰(あんたい)になってきました。立派な部下たち、仕える人たちがいてくれて、信頼して任(まか)せて、ペリシテ人との戦いでも自分が先頭をきって戦いに出なくてもよくなった。そういう慢心(まんしん)した時、彼はとんでもない罪を犯してしまう。この時ナタンが「あなたがその人だ」(サムエル下12:7)と、ダビデに面と向ってその罪を指摘(してき)しました。「あなたはとんでもないことをした。ウリヤという罪なき者を殺してその奥さんを奪(うば)うなんて、何ていうことをしたんだ!」と。それに対してダビデは「わたしは主に罪をおかしました」(サムエル下 12:13)と悔い改めた。神様はそのとき「どうしてお前はわたしに求めないで自分の力でそれをしたのだ」とおっしゃったのです。神様は「なぜわたしに求めなかったのだ。必要ならば、欲しいならば、いくらでもわたしが与えたではないか。それなのにあなたはわたしを無視して、自分の手でそれをしたではないか」と問われたのです。ダビデの業(わざ)、そのあらわれた業、ウリヤを殺して奥さんと奪(と)ったという具体的な行為を神様は問題にしたのではありません。その行為が生まれてくる根っこに、見えない心の中に、神様を押しのけて自分の力で、自分が王になっていたのです。そのことを問われました。

私たちも同じ罪を犯しているのです。神様が私たちに必要な物、生活の隅から隅まで……、まずもって命を与えてくださった神様がおられて、一人一人に必要な物を備えてくださっている。感謝こそすれ、何一つ不平不満、つぶやくべきことはないのですが、あれが足りない、これが不足している。こうだ、ああだと不平不満だらけ。そして、神様に求めるよりは自分の才覚で、自分の知恵で、自分の力でそれを取ってくる。これはダビデの失敗と全く同じです。「いや、私はそんなダビデのようなひどいことはしません」と言いますが、あらわれたことが問題ではないのです。どんなことをしたかではなくて、その心がどこにあったかです。だから、日々の生活のなかで神様が必要な物を与えてくださるのに、どうしてお前は、わたしに求めないで自分の力で自分の知恵で人の業で何とかしようとして、得意満面といいますか、「自分でもできるじゃないか、おれは大したものだ」と思うところに罪がある。どうぞ、もう一度自分のなかにある罪がどういうものか、そのことをしっかりと知っておきたい。そう言われると、毎日、罪を犯しています。いつも「私はあれが食べたい」、「あれは嫌(きら)い」、「あそこに行きたい」と、好きだ、嫌いだ、何だと、一言としてお祈りしようとしない。神様は「なぜ、わたしに求めないんだ」と言われる。神と和(やわ)らぐことは神様を神様として親しく信頼し、その御方に求めていくこと。ダビデに対して、神様は「わたしがあなたに与えることができないであろうか」とおっしゃいます。そのときダビデは「わたしは主に罪をおかしました」と悔い改めた。彼は決して「ウリヤに悪いことをしたよ」とか、「バテシバ、お前を悲しませてごめんね」と言ったかどうか知りません。それは書いていませんから、そんなことは別の問題です。それは「ごめんなさい」と言うべきでしょう。しかし、もっと大切なことはまさに神様と私とのありようです。そういう私たちのために、神様はひとり子イエス様をこの世に遣(つか)わしてくださいました。私たちが神様に罪を犯すばかりの者でしかない。ですから、その結果いつも何か受け入れられない孤独感、自分に対して不満があり、不平がある。「どうして私はこうなのだろうか」、「自分の人生はどうしてこうだったのだろう」と、そうでしょう?「あの日、あのときあんなことをしなければ、今の私は違っていた」、「世が世ならば、もっと違った自分だった」、「あの人があんなことをしたから……」、「親がこうだったから……」、あるいは「この兄弟がいたから、こういう問題があったから私の今がこうなった。これはいま自分にとって不本意で仕方がない」、「よくよく考えたら自分も能力がないし、そこそこの人生といえばそれでいい。これはもうあきらめるしかないか」と思いつつも、あきらめられない。だから、どこかで誰かを憎むのです。常にそうでしょう? いつも心の中のどこかに、生まれてから今に至るまで、あの人、この人が次から次へと憎しみの対象として常に浮かんでくる。「あいつがこうで……」、それがしばらくして「あいつが……!」と言って、そのうち気が付いたら別の人に取って代わる。常に誰かを憎まなければ、あるいは非難していなければ自分の心が治(おさ)まらない。「そんなことはない」と思っているけれども、それは本人が知らないだけで、家族に聞いてご覧なさい。「私はそんなところがある?」と。「ああ、ある、ある」と言われますよ。それは神様の手に自分を委(ゆだ)ねきれていない、神様と和らぐことができないでいる。自分の置かれた状況や与えられた事柄の一つ一つにいつも不平不満、憤(いきどお)り、苛立(いらだ)ち、そういうものが渦巻(うずま)いている。そのような罪のただなかに、神様はひとり子イエス様を遣(つか)わしてくださった。

 「コリント人への第二の手紙」5章20,21節を朗読。

 21節に「神はわたしたちの罪のために」とあります。私の、皆さんのその許せない思い、苛立(いらだ)つ思い、神様に対して「何で!どうしてこうなったのだ!」と、憤(いきどお)っている思いのゆえに、その憎しみのゆえに、ひとり子イエス様を遣(つか)わした、とおっしゃる。しかも「罪を知らないかた」と。イエス様は神なる御方、神が人となって、人ではありますが、罪を知らない御方です。人間であるかぎり、肉にあって生きるかぎり罪の塊(かたまり)です。しかし、イエス様は私たちと同じ試練をお受けになられた御方であります。弱さを知り給う御方、病を知っている御方ですが、彼は罪を犯すことのなかった御方、罪なき御方であった、とあります。あえて、罪なき御方に私たちの罪を負わせて、十字架に釘付けて、私たちの罪を赦(ゆる)してくださった。その後に「それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるため」、「彼にあって」とあります。キリストにあることによって、キリストと一緒になる、キリストのものとなること、キリストにつながることです。これは、自分の罪を認めて「心にある誰にも言うことのできない闇(やみ)のようなどろどろとした黒いもの、あの私の思い、この思いのためにイエス様が十字架に命を捨ててくださったのです」と認めて、イエス様の十字架にしっかり結びつく。その時初めて「神の義となる」。「義」というのは神様が受けいれてくださる、神様の前に罪を消された者となることです。私たちを神様が赦(ゆる)してくださったのです。これが十字架です。だから、私たちは罪を認めますが、その罪は十字架に既に取り除(のぞ)かれて赦(ゆる)された者であることを知るのです。だから、私どもはいつも罪を赦(ゆる)されたものであること、「こんな私のためにイエス様は今日もご自身の血潮を携(たずさ)えて、『父よ、彼らを赦し給へ』と執り成してくださって、赦された自分である」ことを認める。これが十字架を受け入れることなのです。「私はこんな罪人です。申し訳ない、申し訳ない、ごめんなさい、ごめんなさい」と言うのが十字架ではない。十字架は「有難う」と言うことです。

 先だっても、伊規須先生と話していたら、先生が「『律法』はごめんなさい、『福音』は有難うですね」と言っておられました。私たちが今どちらの側に立っているか。自分の心に「申し訳ない、悪いことをしてしまった。ごめんなさい。あれも悪かったな」と、いつも「ごめんなさい」とつぶやいているとしたら、それはまだ律法に生きている時代、いうならば、十字架の手前です。イエス様の十字架を信じて、そういう私の罪は今日赦(ゆる)されて、あの姦淫(かんいん)の現場で捕らえられた女の人がイエス様の所へ連れて来られたときに、イエス様が最後に「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ8:11)と言われましたが、私たちはその赦しの声を聞いて「有難う」と言うのが毎日の生活です。だから、自分のしたことや、自分の生活、自分のいろいろなことで「あんなことをしなきゃよかった」「あれでよかっただろうか、どうやろうか」と、つい人に聞いてみる。「あんた、どう思う、これよかっただろうか、どう思う?」、人が「よかった、よかった。あんたがいないとできなかった。あんたがしたからよかった」と言われたいものだから、聞いてみる。それで安心したかというと、どうもそれでも納得いかない。それは当然です。十字架による神様の赦しを確信しないからです。「イエス様が赦してくださって、いまこのことをさせていただく。私がしたのではなくて、これは神様がしてくださったことです」と言えるとき、「感謝、感謝」、これ以外にない。ところが、そこにいかないで、まだ十字架の手前に立っているものですから「あれが悪かったなぁ。私があんなことをしなければ……、あんなことを言わなければよかった。あの子にあんなことを言ったものだから、あの子の生涯が変わってしまった。悪かったなぁ……」と、いつまでも持ち続ける。そうではなく、「あなたを赦したよ」と神様はおっしゃっている。イエス様が十字架に命を捨ててくださった。「私は赦された者」と確信する。罪を赦され、覆(おお)い消される、これがいま私たちの受けている十字架の恵みではないでしょうか。

 「詩篇」32篇1節以下に、「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。2 主によって不義を負(お)わされず、その霊に偽(いつわ)りのない人はさいわいである」。主に清められた者、霊に偽(いつわ)りのない者、あるいは、罪がおおい消されるとは何か。イエス・キリストにある者となること、キリストの十字架を自分のものとして、赦(ゆる)された者であることを認めていくことです。だから、「私がした。私が悪かった。私の責任です」と悔やむのなら、あなたが自分で全部責任を持ったらいい。取れないですよ。神様が全部を許してくださって、私ができることをさせていただいたのならば、それはそれで感謝、感謝です。「そんなことをされて」と人から文句を言われようと「神様がそれを許してそこまでさせてくださったのです。私がすれば誠に不十分なことしかできません」と、いつも主の赦しのなかに立っていくこと。ここにありますように「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。2 主によって不義を負(お)わされず、その霊に偽(いつわ)りのない人は」というのは、「イエス様が今日も私を赦してくださっておられるのだ」、「『よし』とおっしゃってくださった」と信じていく人です。その人は幸いな者です。人から「そんなことをして駄目じゃないの!」、「あんた、こんなことをしては駄目、できないの!」と言われても、人がいう言葉など、どうでもいいのです。十字架があるのですから、私どもは十字架を握って、常に主によって赦されて生きている者であることを感謝していきたい。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


9月29日 日々の聖言

2014年09月29日 | 日々の聖言

「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、

だれひとり自分のために死ぬ者はない。」ローマ14:7 



イエス様の救いにあずかるとは、その人の生きる目的が変わることです。だれでも

自分のために、また、家族や親しい人のために生きようとします。しかし、救われた

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9月28日教会学校聖言葉

2014年09月29日 | 教会学校聖言葉
「主はわたしを救われる。」
イザヤ書38.20

 現代の人々はリスクを背負い込むことを嫌います。
ビジネスの世界においては、一極にリスクを集中させることはせず、出来る限りリスクを分散させるやり方が賢明だと評価されます。

 それでは、信仰生活においてはどうでしょうか?
いくつかある頼みの綱がダメになった時のために、神様を信じているという程度だとしたら、なんとも神様に申し訳ない話です。
その信仰のあり方では、いざというときになったら神様を頼ることはできないでしょう。

 この聖書の記事に出てくるヒゼキヤ王は、自分が病気になり死を宣告されたときに、激しく泣いて神様に憐れみを乞いました。
大の大人がしかも王様が泣いて憐れみを乞うなどみっともない限りですが、このなりふり構わぬ姿は、自分を救えるのは神様以外無いという澄み切った信仰の現れであると言えます。
その信仰が神様の御手を動かしたのです。

 信仰生活は、この世の生き方からすればまことに愚かな生き方のように見えます。しかし、私たちの信じているのは全能なる神、命を捨てるほどに私を愛して下さったイエスキリストです。その力と愛を信じていれば、他のものこそあってもなくても大したことではありません。死にさえ打ち勝たれた方が、私を愛して私のそばにいらっしゃるのですから。

 あなたが死に向かおうとするとき、あなたが頼りにしているものはあなたを支えてくれますか?
 人生最後の戦いに勝利できるよう、今のうちに信仰を澄み切ったものにしようではありませんか。 

(正野)

聖書からのメッセージ(336)「殻を破り捨て…」

2014年09月29日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネによる福音書」12章20節から28節までを朗読。

 24節「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。

 これは皆さんもよくご存じのお言葉であり、クリスチャンでない世間の多くの人々でもよく知っています。ここに「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」と語られています。どんな種でも土の中に埋めてしまわなければ芽が出ません。形がよくて、色が気に入って、大切に取っておくならば、それはいつまでも増えません。一粒のままであります。種は何百年たっても変らないケースがあります。だから、大切な物だと厳重に保管していても、そこからは何一つ生まれてこない。では、どうするか。その種を土の中に埋めてしまう。いうならば、土に捨ててしまうようなものです。穴を掘ってじめじめした暗い中に埋めてしまうのは、嫌なことであり、「そんなことをしてどうなる?」というような事態、事柄です。だから「いや、それよりもこの形のままのほうがいいのではないか」と、そのまま置いておけば良さそうですが、それでは増えない。これは大原則です。とにかく嫌だけれども土の中に埋めてしまう。ここに「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」、「しかし、もし死んだなら」とあります。「死ぬ」ということです。「じゃ、種が死んでしまったら元も子もないじゃないか」と思いますが、種の中に命が隠されています。「死」という言葉から、種をすりつぶし、燃やしてしまうことを連想しますが、ここでいう「死ぬ」とは、一つのたとえです。種を焼いて、粉々にしておしまいになることではなく、いうならば、自分という殻(から)、種という身分、それを離れて、地面の中に自分を置いてしまうことです。そうすると、やがて湿(しめ)り気と温度とによって分解が始まります。土の中に埋めた種を何週間かして掘り出すと、種に形や殻はありません。そこには新しい根が生えて、小さな芽が出てくる。それはもう「種」とは言えません。別の物に変わってしまう。やがてその根はドンドンと伸びて深くなり、芽は出てきて地表に現れる。それは大きな木になるかもしれない。また麦の種は麦の穂になるでしょう。稲は稲の穂になるでしょう。そうやってどんどんと新しい命が芽生える。やがて、一つであったものが何倍にも増えます。一粒の稲から出た芽がやがて秋になるとたわわに実って、一本の茎から何百となく新しい物が生まれてきます。いつまでも一つのままにしておくと、もうどうにもならない、増えません。だから、土の中に埋めてしまうこと、自分の状態が変わってしまうことです。自分を捨ててしまうことです。

この記事は、イエス様が十字架の御苦しみをお受けになる「過越の祭」のためにエルサレムに来られてからのことです。ご自分がこれから受けようとする事の意味、そのことをたとえてお話になったことでもあります。一粒の麦とは誰のことか?これは取りも直さずイエス様ご自身のことです。このときイエス様はご自分が間もなく捕らえられ、さばかれ、十字架にかけられて命を失うことを既にご存じでありました。

27節に「今わたしは心が騒いでいる」と語っています。「心が騒いでいる」、何か心配事でもあったのか。あったどころじゃない、大ありであります。ご自分の死を知っておられました。イエス様はこの日この時、この事のために、この世に遣わされているので、「大丈夫、何の心配もない」と言われたのではない。私たちと同じ肉体を持って、弱い者となってくださったイエス様は、恐れ、不安、そういうものを十分にご自身が感じておられました。そのような中で、ご自分のことを語った言葉が24節以下であります。一粒のままで、弟子たちと共に過ごせるならば、それが願わしいに違いない。しかし、そうであるならば新しいものは生まれてこない。だから、どうしても「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」、「もし死んだなら」と、死ぬということがどうしても不可欠であります。その後、25節に「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」と言い換えられていますが、その一粒の麦のたとえを25節では「自分の命を愛する者」と言い換えられています。私たちが自分の命を愛する、自分というものを大切にする。このときの命は、ただに肉体が健康であるとか、心臓がきちんとうって血液が循環してどこにも病気がない、健康である、命があるという意味ではありません。もちろんそれも含まれるでしょうが、この場合の命とは自分にとって掛け替えのないもの、これは譲(ゆず)れないという大切に思っているもの、それを「命」といっているのです。ですから「命を愛する」とは、どうしても捨てがたい、これだけは絶対に譲れないものを大事にすることです。これだけは何があっても絶対譲れない、これは私の命だ、というものを握っています。ある人にとっては名誉であったり、自分の持っている物であったり、財産であったり、家族や友人であったりします。それを何とか失うまいとして、一生懸命にしがみつく。それらを総称して、まとめて「命」と語られているのです。そういうものを一生懸命に何とかこれは失うまい、失うまいとしているならば、ということが、25節の「自分の命を愛する者」です。そうするとそれを失ってしまう。ところが「この世で自分の命を憎む者」とあります。「憎む」とは、強い言い方ですが、それを捨てることです。「死んでしまう」ことと共通することですが、「これは譲れない」「これはどうしても私の大切なものです」と思っているものを捨てる、離れることです。これは大変苦しい、「死んだほうがましや」と言いたくなることです。「憎む」とは、それを惜しみなく捨てる、そこから離れる。そうすると、むしろ捨てたと思ったものを、豊かに……「保って永遠の命に至る」、新しい命につながっていくことができる。イエス様が私たちに与えてくださった命につながる道です。私どもはいまイエス様を信じて新しい命に生きる者と造り替えられています。しかし、イエス様に全く命を握られているかというと、「イエス様」と言いながら、「自分が……」、「これは大切、いくらイエス様と言っても、イエス様よりもこれの方が大切だ」というものがまだ私たちの内にある。そうである限り、私たちはいつまでも中途半端です。しがみついていると、それを失うことになるとイエス様は警告なさっている。

「一粒の麦」となって、私たちが「地に落ちて死ぬ」とはどうすることか?それはイエス様がご自分の生涯を通して証詞してくださったことであります。イエス様は神の位に居(い)給うた神の御子です。

「ピリピ人への手紙」2章6節から8節までを朗読。

6節「キリストは、神のかたちであられたが」とあります。「神のかたちであられる」とは、「神と等しい御方」ということ。いうならば、神ご自身、神様の分身のようなものです。だから、イエス様は、神と等しくある御方、神なる御方でいらっしゃる。上なる、いと高き所に住み給う潔(きよ)き御方、聖なる義なる御方でいらっしゃる。イエス様がいつまでも「わたしは神の子だから、ここを離れるわけにはいかない。わたしは父なる神様と共にあるのだ」と、いつまでも天におられたならば、父なる神様のそばにおられたならば、私たちの救いはありえません。ところが、「神と等しくあることを固守(こしゅ)すべき事とは思わず」、イエス様は神と共にあること、わたしは神の位にあるものである、神と等しいものである、という自分の命のようなものを、「固守すべきこと」、それにしがみついて譲れないものとは思わなかったのです。いや「かえって、おのれをむなしうして」と7節にあります。自分を無にする、むなしくする。無くしてしまうことです。自分というものを捨ててしまう。イエス様が、神の子であり、神であることをやめてしまうことです。その後にありますように「おのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた」。人になってくださいました。人の世にくだって私たちと全く同じ弱き肉体を持ったイエス・キリスト、大工ヨセフとマリヤの子供として生まれてくださった。これはとんでもない事態です。神なる御方がいちばん低い者として、造り主でいらっしゃる御方が造られた者となってしまう。そこまで自分を捨ててしまう。これがまさに「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」ことです。譲れない自分、固守すべきものがあって、「これだけは譲れない」とやっている限り、イエス様と同じ祝福と恵みを受けることができません。永遠の命を得ることができない、と言われます。私たちは自分が固守しているものを捨てていかなければ、「これは大切」「これは譲れない」「そんなことはできない」と言っている限り、私たちはイエス様のいのちにつながっていくことができません。

イエス様の所に「永遠の生命(せいめい)を受けるために何をしたらよいでしょうか」と尋ねて来た人がいました(マルコ10:17)。イエス様が「まず、いましめを守れ」と言われたとき、その人は「幼いときから全部守っております」と言うのです。まことに立派な人物です。ところが、それに対してイエス様が「じゃ、あなたの持っているものをみな売り払って貧しい人に施(ほどこ)して天に宝を持つようになりなさい。そして、わたしに従ってきなさい」と言われました。いうならば、「彼の命を、彼が大切に思っているものを捨てなさい」と勧めたのです。そうでないと、イエス様には従うことができません。自分の考えや自分の計画、これはどうしても譲れない、これは私が大切にしているもの、これは……、というものをしっかり握っていたら、イエス様に従うことはできません。永遠の命を得ることはできない。永遠の命とは何か?イエス様ご自身です。だから、イエス様にくっつくことをしないで、永遠の命はあり得ない。だから、イエス様に従うことを求められたとき、彼は「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」。イエス様に従えなかったのです。永遠の命でいらっしゃるイエス様を自分のものとすることができない。

イエス様は父なる神様の御心に従って、「神と等しくあることを」潔(いさぎよ)く捨てて、ご自分が人となってこの世に下ってくださった。造られた者となってくださった。そして、7節以下に「人間の姿になられた。その有様(ありさま)は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」と。しかも、人となり給うたイエス様は、この世にあって高い地位に就いたとか、王様にでもなったとか、人々の賞賛を受けるような身分になったのではなく、罪人とせられて、ついに極刑(きょっけい)である十字架の刑を受ける者とされてしまった。そこまで自分を捨ててかかる、自分が死にきってしまう。これがイエス様のご生涯です。私たちもまた同じようにイエス様に従っていかなければ永遠の命を受けることができません。一粒の麦が死なないで、そのままでいればいつまでも一粒です。しかし、一粒の麦である私たちが自分を捨て、「イエス様に従っていこう」とすると、私たちは新しい命に、豊かな永遠の命の生涯に生きる者となります。ところが、私たちは自分の手で捨てることができにくい。「そうか。『捨てろ』と言われれば、はい、分かった、分かった。はい、もう喜んで捨てますわ」と言って、捨てられるものはいらないものばかり。いらないものでも私たちはため込んでしまいますが、自分のいちばん大切なものを捨てなければイエス様に従うことはできません。

「マタイによる福音書」26章36節から39節までを朗読。

イエス様は最後の晩餐(ばんさん)、過越の祭の食事の後、弟子たちと一緒にゲツセマネという園で祈るために出かけられました。この場所は普段からも機会があるごとに祈っておられた場所であります。ですから、弟子たちも慣れた場所ではあった。このときイエス様はご自分独りが離れて、祈られました。弟子たちにも「目を覚まして祈っていなさい」と勧めましたが、彼らは昼間の疲れでしょうか、眠りこけてしまう。でも、イエス様には大変苦しい戦いのときでありました。この後すぐにイエス様は捕らえられて、十字架の処刑をお受けになる。そのことをよくご存じのイエス様は、大変苦しむわけです。それはそうでしょう。何時間後かに殺されることを知っていたら、そんなのんきなことをいって、眠っておられません。もし、私たちがイエス様の立場に立っていたら、気が狂います。「死ぬかもしれない」、『かも』と言われただけで、文字通り死んでしまうほどです。ここではそのとおりに事態は進んでいくのですから、このときのイエス様の御苦しみたるや、どんなにつらかったことでしょう。

ここで真剣にイエス様は祈っておられます。39節に「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください」と。イエス様は「この日、この時に、このために来たのだから、へっちゃらだよ」と言いません。「死ぬぐらい簡単(かんたん)だよ」というのではありません。まさにここがイエス様が、一粒の麦が地に落ちて死ぬことがどういうことか、身を持って示しておられます。イエス様はその苦しみが何たるかをご存じであります。しかし「だからやめとく」というのではない。その苦しみを通り抜いて初めて、私たちは永遠の命の生涯へ引き入れて頂くのです。

このとき、イエス様は、39節に「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っておられます。イエス様の願いとしては「これは嫌です。こんな苦しいことはもう結構。神様、何とかこれはやめにしてください」と言うのが、イエス様の思い。でもそれを押し通したならば、自分の思いを貫(つらぬ)いていくならば、イエス様の十字架はあり得ない。またイエス様のあがないにあずかることもできません。ところが、ここで激しい戦いを戦っている。この後、「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈ります。イエス様がご自分の希望を言うならば、願いを言うならば、「この杯(さかずき)を取り除けてほしい」のです。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と、ここで自分を捨てます。死んで生きるというのはここです。「自分はこうありたい」「こう願いたい」「いや、どうにもこれはこうでなければ嫌だ」と思うことを、「しかし」と、もう一度神様の側に自分を置く。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままに」と、神様の願っていること、神様が備えられることに自分を委ねる。これが死ぬということです。このことが、常に問われているのです。それは「昔一回死んだからよかろうか」というのではない。死んでもまたよみがえっていますから、「死んだはずだ」が、死んでないのです。だから、事あるたびに、私たちは一粒の麦になる。イエス様のゲツセマネの祈りは、私たちを代表してくださったのです。私たちも「父よ、この杯を取り除けてください」と言いたいことが、いくらでもあるでしょう。あれもこれも、これもあれもと十本の指では足(た)らないぐらいにあります。でも、そこで「それをどうしても……」と神様にしつこく強要するのではなく、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と、自分を捨てる。自分が死ぬとは「私の思いのままにではなく、神様、みこころのままに」ということです。先ほど申し上げましたように、一度死んだらおしまいかというと、そうではなくて、私たちが出会う日常の問題や事柄のたびごとに、このことを問われるのです。パウロは「わたしは日々死んでいる」(Ⅰコリント 15:31)と語っています。毎日です。朝、目が覚めると自分が生きていますから、「よし、今日はあれをしてやろう、これをしてやろう」と、「私が……」というものがありますから、そこで死ぬのです。「主の御心はどこに」と、父なる神様の御心に従う。イエス様が「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈り、「神様の御心に従います」と、明け渡す。自分を捨てるとは、ここです。言えばいとも簡単ですが、実際は苦しいことです、事実。私も体験があります。しょっちゅう体験していますが、本当に苦しい。でも「苦しいから」と言って逃げては駄目です。

イエス様もこのときここでお祈りをしました。イエス様だから立派なものだ、一回祈ったらそれでスパッと決まったとはならない。イエス様は二度も三度も同じ言葉で祈っている。祈ることが死ぬための大切な力です。私どもは「どうしてもこうであってほしい」と、自分の願い、思いがあります。「これはこうでなければ嫌だ」としがみついている限り、私たちは永遠の命を体験することができません。しかし、それを捨てて、「神様はこのことを求めておられる。これは神様の御心に違いない」と分かっていることがある。そのためには自分が犠牲(ぎせい)にならなければならないことがある。財を費やすこともある、時間を費やすこともある。時には健康を損なうような事態や事柄が待ち受けるかもしれない。でも、それは神様の御心だ、と知りつつも、どうしても従えない。そのために心の中が大荒れに荒れますが、大切なのは祈ることです。神様の前に出て、「主よ、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままに」と、繰り返し祈る。はっきりと心が定まるまで、私たちの思いがきちっと「そうでした。神様、あなたに従います」と、喜んで言えるようになるまで祈るのです。イエス様もそうです。44節に「三度目に同じ言葉で祈られた」とありますが、3回祈るという意味ではありません。繰り返し主が祈られたことを語られています。祈っているうちにだんだんとイエス様の心の中にはっきりとした確信と新しい力が与えられる。

45節以下を読んでみますと、「それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、『まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた』」。すごいですね。私はいつもここを読むたびに大変教えられることでありますが、37節にイエス様が「悲しみを催(もよお)し、また悩みはじめられた」また38節に「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」とあります。イエス様はこんなんだったら、死んだほうがいい、と泣き言を言っているのです。ところが、祈った最後にイエス様のなかに新しい力が与えられる。それは潮が満ちてくるようにイエス様を包んでくる。祈っているうちにだんだんと父なる神様の愛に触れていくのです。イエス様は「ヨハネによる福音書」に、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」(15:9)と語っています。父なる神様がどんなに自分を愛してくださったかを語っていますが、この祈りを通して深く神様のご愛に触れるのです。私たちもそうです。何かのことで譲れない自分があり、神様の御心を知りつつも従えない自分があるとき、悶々(もんもん)としますが、そのとき、実は神様のご愛に感じる心が乏しくなっているのです。それを取り戻すにはどうするか? これが祈りです。祈っているとき……、繰り返し、繰り返しそのことを祈ってください。そうしているうちに、主がどんなに大きなご愛を賜ったことか思いが膨らみます。神様はどんな恵みをもって顧(かえり)みてくださったか、主のご愛がズーッとあふれてくるのです。そうすると、今まで「どうしても嫌です、できません。駄目です」と言い続けていた自分の心が変わる。もちろん喜びに変わる。「本当に主よ、あなたの御心に従います」と言えるのです。ここに至らないと永遠の命はありません。だから、常にイエス様のみ足の跡に倣(なら)いたいと思う。主がこういうときどうなさったか。一粒の麦、私は今ここで一粒のままでいようとするのか、それとも永遠の命につながろうとしているのか、これはいつも、いろいろな事柄のなかで問われ続けています。そのたびごとに、主の前に自分を捨てて、死んだ者となって、「主よ、あなたの御心のままに」と、主に自分をささげ、明け渡してしまう。そこに行くと、どんな問題と思えた事柄も消えていくのです。「これでいい、大丈夫。今こんな状態であっても、きっと神様はご存じですから、最善をなしてくださる」と知ります。

私もいつもいろいろなことで「これはこうでなければ駄目だろうな。こうしなければいかんな」「こうであるべきだな」というように思う。でもよくよく考えると、それは自分の考え。でも、それがいちばんよさそうに思うとき、苦しむのです。それは神様を信用していない、信頼しないのです。「これがいいに違いない」と思う。誰が神様だ、ということです。そこで祈っているうちに、「そうだ。神様が『今より後もわたしは主である』とおっしゃるのです」。神であり、また主でいらっしゃる御方がそのことをなし給うのです。

ある方の証詞でそういう話を読ませていただきました。一人の牧師先生の息子さんが、あるとき突然、大学生のときにやって来て「お父さん、実は好きな人ができたから結婚させてほしい」と言う。お父さんは牧師ですが、腹が立って「何様だ、お前は!まだ学生の身なのにそんな……、結婚なんかできるものか!」と、怒鳴(どなり)り上げて息子をしかった。それだけ息子を愛しておったのです。腹が立って、会堂に入って悶々(もんもん)として「あいつがどうのこうの……」と思っておった。そうしたときに「この家の主人は誰か?」という声を聞いた。ハッとして「この家の主人て、おれやないか、おれだ」と思った瞬間に、また「この家の主人は誰か? 」と、そのときハッと目が覚めた。「主よ、あなたがここの主人です。私はあなたの僕(しもべ)です。そうでした、私はあなたの僕です。いま息子がこう言っていますが、このことはどうするべきでしょうか、神様」と、初めてそこで主に問うた。そのときに神様の愛がその先生の心にあふれてきた。「これは神様の御心ならば、私が止めることも何もないじゃないか。神様がよしとおっしゃってくださる。神様が責任を持ってくださる」。神様の前にひれ伏して悔い改めた。「神様、誠にこの家の主人はあなたです。あなたが私どもの主です。あなたの御心のままに」と祈って委(ゆだ)ねきったとき、一瞬にして心から喜びに変わった。そして「息子を祝福してやろう」。夜が白み始めて朝になって、「本当に良かった」と喜びに変わったのです。死んで生きる、自分を捨てて拾うのです。私たちは自分にしがみついていつまでも主の御心に従おうとしない。「みこころのまま」と、自分をイエス様の手に委ねる、これが死ぬことです。いろいろな事柄のなかに絶えず主の御心を求めていきたい。

「ヨハネによる福音書」12章24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。イエス様が死んだのは、十字架で死んだのではありません。ゲツセマネの園で、既に死んだのです。だから、ピラトの法廷、カヤパの屋敷、どこに引かれて行っても一言も弁解しない。ただ真っすぐ十字架を見上げて、十字架の道を歩み続ける。これがゲツセマネで神様の前に死んだ結果です。

私たちも主のみ足の跡を踏み従っていきたい。「しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。永遠の命、イエス様の命に私たちもつながって、本当に喜び感謝し、望みに輝いて生きようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。