キャンプのカレーで思い出すのは、水が多すぎて
しゃぶしゃぶの、スープのようなカレーが出来てしまったことだ。
子どもが火起こしのことを心配しているので
いっしょにしおりを見ていて思い出した。
以前、この5年生のPTA行事でカレー作りがなくなったことを書いた。
本部役員の「カレー以外にものに」という意向が反映されたが、そのとき
校長先生の『むしろ練習などしないほうがよい、そのときのいろいろな
失敗も思い出になるから』等々の発言があって、結局陶芸になったようだった。
行事は「カレー」でなくても良かったが、
この「ぶっつけ本番」主義には正直驚いてしまった。
なにごとも練習どおりには行かないものだが、「練習不要論」で考えるなら
教育そのものが不要となるのではないかと思う。
なぜなら、いわばさまざまなことの「練習」を教育の場で行っていると
思うからだ。
「芯のあるご飯」ができてしまった班、「スープのようなカレー」に
なった班、などなど、一生懸命同じ時間をかけてやっても
出来上がったものが明らかに失敗になってしまったとき
「それもよき思い出」と子どもは感じるのか?
・・・答えは否!である。
失敗も思い出のうち、などと言えるのは当事者でないものの気持ちだ。
現実に上手く出来上がった班だけが「やったー!」という
達成感を得ることができ、
失敗作の班の子どもは「こんなのになっちゃった。。。」と
何がいけなかったか、わからぬうちに食事が終わるのである。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_gaan.gif)
あのとき、ひどいご飯だったね!…と笑って言えるのは、
もっと時が経ち、そのときの落ち込みが消え去ってからのことなのだ。
校長先生も、もう大人の時間を過ごしすぎて(50過ぎ)
子どもだった頃の気持ちを忘れてしまったのかな、などと思う。
(小さかった頃、自分はどんなふうにものごとを考え、感じていたか
もう覚えていないのか…)
子どもの目線って、小学校の先生にはとくに忘れてほしくないけど
「子ども時代の自分」をもう持っていない先生方ばかりのようだ。。。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_shock1.gif)
しゃぶしゃぶの、スープのようなカレーが出来てしまったことだ。
子どもが火起こしのことを心配しているので
いっしょにしおりを見ていて思い出した。
以前、この5年生のPTA行事でカレー作りがなくなったことを書いた。
本部役員の「カレー以外にものに」という意向が反映されたが、そのとき
校長先生の『むしろ練習などしないほうがよい、そのときのいろいろな
失敗も思い出になるから』等々の発言があって、結局陶芸になったようだった。
行事は「カレー」でなくても良かったが、
この「ぶっつけ本番」主義には正直驚いてしまった。
なにごとも練習どおりには行かないものだが、「練習不要論」で考えるなら
教育そのものが不要となるのではないかと思う。
なぜなら、いわばさまざまなことの「練習」を教育の場で行っていると
思うからだ。
「芯のあるご飯」ができてしまった班、「スープのようなカレー」に
なった班、などなど、一生懸命同じ時間をかけてやっても
出来上がったものが明らかに失敗になってしまったとき
「それもよき思い出」と子どもは感じるのか?
・・・答えは否!である。
失敗も思い出のうち、などと言えるのは当事者でないものの気持ちだ。
現実に上手く出来上がった班だけが「やったー!」という
達成感を得ることができ、
失敗作の班の子どもは「こんなのになっちゃった。。。」と
何がいけなかったか、わからぬうちに食事が終わるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_gaan.gif)
あのとき、ひどいご飯だったね!…と笑って言えるのは、
もっと時が経ち、そのときの落ち込みが消え去ってからのことなのだ。
校長先生も、もう大人の時間を過ごしすぎて(50過ぎ)
子どもだった頃の気持ちを忘れてしまったのかな、などと思う。
(小さかった頃、自分はどんなふうにものごとを考え、感じていたか
もう覚えていないのか…)
子どもの目線って、小学校の先生にはとくに忘れてほしくないけど
「子ども時代の自分」をもう持っていない先生方ばかりのようだ。。。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_shock1.gif)