沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

弟子屈町屈斜路コタンアイヌ民俗資料館

2024-08-31 | 国内旅行

屈斜路(くっしゃろ)は、アイヌ語で「沼の水が流れ出る口」。屈斜路湖から釧路川が流れ出します。

弟子屈(てしかが)は、アイヌ語で「岩盤が川を横切っているところの岸」。

この当りには縄文時代の遺跡が数多くあり、その子孫がアイヌ民族で、松浦武四郎も集落を記録しています。

【弟子屈町のアイヌ民俗資料館】

屈斜路湖の南岸にあります。

アイヌ民族の歴史や文化を伝える施設として、1982年に開館。400点以上の資料がある。

【エペレセッ 子熊のおり】

成長した子熊は、ナラの木などで組まれた高床式の檻に移されて大切に育てられる。

床の丸太を引き出して、熊は外に出す構造。

イオマンテは、育てた熊を殺し、魂であるカムイを神々の世界に送り返すアイヌの儀礼。

儀礼までの間、子熊を飼育する場所だね。

【ヌササン】

イオマンテの儀式を行う場所。

ヒグマの頭部を飾り、お酒や食事を捧げて、熊の魂であるカムイに神々の世界に帰ってもらう。

ここにアイヌコタンがあり、イオマンテが行われていたんだね。

【縄文時代の遺跡】

発掘調査では、今から7000年前の縄文早期の土器が見つかっており、紀元前3000年には屈斜路コタン遺跡が多数見つかっている。

【屈斜路湖半と釧路川沿いの縄文遺跡】
屈斜路湖畔、釧路川流域に遺跡がある。
【松浦武四郎の久摺・阿寒方面足跡大概図】
1858年、探検家の松浦武四郎の第6回蝦夷地探査。アイヌの案内により、和人として初めて釧路を出発し阿寒を訪れた
「アイヌの人々から聞くところによると、久摺(現在の阿寒湖国立公園)の大自然美は相当のものらしい。しかし未だこの地を探検した者はいないという。自ら奮い立たせて挑もうと案内役のアイヌなど9名と釧路を出発し、山へ入った。」(久摺日誌)
【北海道の先住民族はアイヌ】
上記のことから、北海道の先住民族はアイヌということが考古学発掘調査と幕末の和人の探検記録で明らかになった。
 
【松浦武四郎の足跡】
字が小さいので、抜粋すると以下の通り。
1858年(安政5年)、最後となる6回目の探査北海道すべての海岸→十勝→阿寒→日高を巡る。
1859年以降、「東西蝦夷山川地理取調図」全28冊、「蝦夷漫画」など多数出版し、日誌、地図等の著作に多忙な日々を送る。
1861年、「久摺日誌」など発行。出版物は流行し、暮らしが楽になる。
1868年(明治元年)、明治政府より、役を仰せつかる。
1869年、開拓判官となり、蝦夷地の名称について「北加伊道」を含む6つの候補を意見書。アイヌ語の地名を元に北海道名、国名、郡名の選定に尽力。
1870年一切の官職を辞職。(その後、勲章も辞退)

【熊送之図】
イオマンテの様子を記録した映像の上映(約10分)も行われています。

【フクロウ祭り】

アイヌの人々の暮らしは、狩猟、漁労、採集を中心に展開された。

人々は信仰に厚く、自然界に神々の存在を信じ、中でも「コタンコロカムイ(シマフクロウ)はコタンの守り神として、最も尊い神様として祭られた。

【漁労や狩猟の道具】

【着る】

4月は、樹皮が和らぐ月。衣類の主要な材料となるオヒョウダモ(ニレ科)の樹皮を剥ぎ、厚司織を織る。

イラクサを叩いて繊維を柔らかくし、乾燥させて織った着物は体によくなじんだ。

文様は、ハルニレの糸などを用いて、襟、袖、裾の部分に多くつけた。魔除けの意味があった。

【食べる】

鮭の生身を凍らせておき、溶けたら食べる。シカや熊を食べる。

【住む】

カヤで葺いたチセ(家)。

【神々の森と動物たち】

屈斜路湖の湖畔に立地したアイヌ民族資料館。5000年以上前からこの土地に人々が住み、アイヌの人々の生活文化があった。

その様子を、コタンアイヌ民俗資料館で観ることができる。