最近、ある人と知り合う機会がありました。
とても聡明な方です。使命感に燃えて、アグレッシブな活き活きとした若い女性です。とても、正義感の強い人です。
話は変わりますが、40km制限の道路を本当に(w)40kmで走っている車の後ろを走ることがありますが、正直辛いです。交通量もそんなに多くないし、見通しも悪くないのに…と思いながら、ストレスをためてしまいます。
正しいことが、良いこととは限らないと思うことがあります。(もちろん、交通ルールは大切です。)
そういうドライバーは、高齢の男性や若い女性に多いような気がします・・・。(別に、さしたる根拠がある訳では、ありません…。)
さて、その人とメールなど遣り取りしていて、ふと
この人は、他人(ひと)の痛みが分かるのだろうか・・・?
と思うことがありました。
たとえば、「倖田」の「羊水発言」についても、“当事者でないから、その全ては理解できないけれど…”とか“自分に言われたことではないし、その経験もないから軽々しく理解できないけれど…”とか、とても慎重な表現をされました。
とても、真面目なひとだと分かります。「曖昧さ」を許さない価値観の持ち主なのでしょう…。
でも、人間て、けっこう曖昧でいい加減なものでもあると思います。
「痛みを分かち合う」とか、「喜びを共にする」とかの言い方をすることがありますが、確かに厳密に言えば、100%の共感など無理なのかもしれません。
男の私には、永遠に、傷ついた女性の心情など理解できないかもしれません。
でも、あの一報を聞いた瞬間にとんでもないことになる…、と直感しました。
“当事者でないから…”と尻込みしていたら、カンボジアの学校に行けない少女の心も、毎日何十キロと歩いて水を汲みに行く子供たちや、それこそ、チベットの人々の苦悩も…、世界中の外国の人々の気持ちなど「共感」できないでしょう・・・。
それは、けっして難しいことではありません。ちょっぴりの「想像力」さえあればいいのです。
他人(ひと)を“思いやる”とは、他人(ひと)に「思い(想い)」を「遣る(送る)」ということではないでしょうか? それは、他人である相手の心を「想像」することでもあると思います。
こんなことを言ったら、相手(誰か?)が傷つくんじゃないか?とか、これをしたら相手(誰でも?)が喜ぶんじゃないか?とか、常に「想像力」を働かせることが大切ではないでしょうか?
「倖田」の「謝罪の言葉」の中で、核心であると私が思う言葉があります。
当たり前にしてはいけないことが、当たり前になっていた・・・
「倖田」は、私が知る限り、もっとも「ファンを大切にする」アーティストのひとりであり、間違いなくもっとも「女性を大切にする」アーティストです。
でも、もしかしたら、ほんのちょっと「ひび」が入っていたところがあったかもしれません・・・。
本当の意味で、「倖田來未」は“他人(ひと)の痛みが分かる人”そしてそれは同時に、本当の意味で“他人(ひと)の喜びが分かる人”になったのだと思います。
完璧な人間などいないと思います。誰でも、失敗や間違いをします。その失敗や間違いから学んで、さらに前へ進んでいくことができるのも人間だと思います。
ある熱心なくぅファンと出逢って、想ったことです・・・。
とても聡明な方です。使命感に燃えて、アグレッシブな活き活きとした若い女性です。とても、正義感の強い人です。
話は変わりますが、40km制限の道路を本当に(w)40kmで走っている車の後ろを走ることがありますが、正直辛いです。交通量もそんなに多くないし、見通しも悪くないのに…と思いながら、ストレスをためてしまいます。
正しいことが、良いこととは限らないと思うことがあります。(もちろん、交通ルールは大切です。)
そういうドライバーは、高齢の男性や若い女性に多いような気がします・・・。(別に、さしたる根拠がある訳では、ありません…。)
さて、その人とメールなど遣り取りしていて、ふと
この人は、他人(ひと)の痛みが分かるのだろうか・・・?
と思うことがありました。
たとえば、「倖田」の「羊水発言」についても、“当事者でないから、その全ては理解できないけれど…”とか“自分に言われたことではないし、その経験もないから軽々しく理解できないけれど…”とか、とても慎重な表現をされました。
とても、真面目なひとだと分かります。「曖昧さ」を許さない価値観の持ち主なのでしょう…。
でも、人間て、けっこう曖昧でいい加減なものでもあると思います。
「痛みを分かち合う」とか、「喜びを共にする」とかの言い方をすることがありますが、確かに厳密に言えば、100%の共感など無理なのかもしれません。
男の私には、永遠に、傷ついた女性の心情など理解できないかもしれません。
でも、あの一報を聞いた瞬間にとんでもないことになる…、と直感しました。
“当事者でないから…”と尻込みしていたら、カンボジアの学校に行けない少女の心も、毎日何十キロと歩いて水を汲みに行く子供たちや、それこそ、チベットの人々の苦悩も…、世界中の外国の人々の気持ちなど「共感」できないでしょう・・・。
それは、けっして難しいことではありません。ちょっぴりの「想像力」さえあればいいのです。
他人(ひと)を“思いやる”とは、他人(ひと)に「思い(想い)」を「遣る(送る)」ということではないでしょうか? それは、他人である相手の心を「想像」することでもあると思います。
こんなことを言ったら、相手(誰か?)が傷つくんじゃないか?とか、これをしたら相手(誰でも?)が喜ぶんじゃないか?とか、常に「想像力」を働かせることが大切ではないでしょうか?
「倖田」の「謝罪の言葉」の中で、核心であると私が思う言葉があります。
当たり前にしてはいけないことが、当たり前になっていた・・・
「倖田」は、私が知る限り、もっとも「ファンを大切にする」アーティストのひとりであり、間違いなくもっとも「女性を大切にする」アーティストです。
でも、もしかしたら、ほんのちょっと「ひび」が入っていたところがあったかもしれません・・・。
本当の意味で、「倖田來未」は“他人(ひと)の痛みが分かる人”そしてそれは同時に、本当の意味で“他人(ひと)の喜びが分かる人”になったのだと思います。
完璧な人間などいないと思います。誰でも、失敗や間違いをします。その失敗や間違いから学んで、さらに前へ進んでいくことができるのも人間だと思います。
ある熱心なくぅファンと出逢って、想ったことです・・・。