笑えるようで、笑えない話
アメリカの某プログラムをインタビューで訪れた時のことです
あるレジデントが酒の席で愚痴っていました
彼はビザのトラブルで、この半年ほど家族と離ればなれで暮らしています
「毎日、毎日、『家族と離れて暮らして本当につらいよね~』といちいち声をかけないでくれ!せっかく仕事に集中して忘れようとしているのに!鬱陶しいんだよ!」
psychosocialに力を入れているプログラムで、mentoringやレジデントの危機への対処にかなり力が入っているようですが
おせっかいにも程があるようです
日本には、「空気を読む」という言葉があります
KY(空気読めない)という流行語もできて、逆にKYを汎用するマスコミに対する批判が出たりしています
異文化交流だらけのアメリカでは1から10まで言わないといけないというのが基本なのは分かりますが
長く一緒にやっている仲間内では、「空気を読む」というコンセプトをもっと高められないか?と日本人として思いました
もちろん英語でも似たような意味の言葉があるようです
家に泊めてもらったレジデントとその話題について話していた時、日本のKYという流行語の話をしたら、興味を持っていました
そもそも全部説明するのが基本のアメリカでは、そのような感覚を鋭く磨くのは難しいのかもしれません
body language一つとっても違う異文化の集合だからこそpsychosocialの重要性が強調され、実際にとりくまれているのでしょうが
こういうところが意外と良いリサーチクエスチョンとなって、すばらしい論文が生まれるかもしれません
せっかく異分子として入り込むのですから、それを長所として診療、教育、研究に活かしたいものです
っていうか、「気遣ってくれるのはうれしいけど、それを言われると逆に思い出すからやめてほしい」とはっきり言うこともできるのになぁと、思ったりもしちゃいます。もちろん、苦労されててお疲れなんだろうなぁと、心配ですが。。
私は、意見をかなりはっきり言う方だと思ってきましたが、英国では「もっとはっきり言わないとわかってもらえないよ?」って言われる始末。
知らず知らずに、態度で示して「わかってくれるよねぇー」って日本文化を前提に、相手に期待しているんだなぁって気づきました。
相手を気遣う、空気を読むことで感謝されるし、いろんな仕事も舞い込むし、いいことが多い反面、逆に相手の文化にも合わせてもっとフレキシブルになっていかないと、なかなか伝わらないこともあるなぁって実感しています。
私もKYというか、普段言いたい事を勝手に言っているほうです。メーリングリストなどで、リアクションが無いと、そこではじめて「ああ、この話題はみんな興味が無い、もしくはsensitiveすぎる、もしくは地雷?」と気づいている日々です。アメリカに行ったらちょうど良いくらいかもと思っています。むしろTagさんの言われるように、主張が足りないかもしれませんね。