ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

古地図から見た水戸城

2013-09-04 09:08:13 | 自転車
先日、某所にて、古地図と折りたたみ自転車を利用して、水戸の城下町としての魅力を再発見してみようというお話をさせていただく機会があったので、そのときの骨子をのせます。
古地図があると、ずいぶんと面白い発見があるということと歴史ポタリングに自転車が役立つというのが骨子なのですが、かなり長文になっています。


折りたたみ自転車は、歴史散歩に最適です。
同じ自転車でも、ロードバイクなどでは、なぜかゆっくり走る気になれません。
ロードバイクは走りを楽しむものなのです。したがって、走るよりも観光に力点を置きたいなら、折りたたみ自転車はいいと思います。
たとえば、遠い観光地でも、折りたたみ自転車を車の後ろに積んでいき、現地に着いたら折りたたみ自転車で、ゆっくりと走り、気になったところで自転車を下りて、史跡を訪ねる。徒歩の観光では歩く範囲が限られてしまいますが、自転車なら楽に観光地を回ることができます。




では、水戸のお話です。
日本の都市の多くは、近世(およそ安土桃山時代~江戸時代位)に形成された城下町や在郷町等の都市の構造を基盤としています。
水戸もそうです。昭和20年の空襲で昔の建物はほとんど焼けてしまい、江戸時代よりも以前の建築物はほとんどありません。しかし、建築物ではなくとも、城下町には変わらずに残っているものもあります。
古地図と現在の地形図や航空写真とを比較すると、地形、道、水路、区画割が残っていることがわかります。それらを手がかりに水戸の城下町を想像してみようと思うのです。

つくば市の国土地理院の地図と測量の科学館で見つけた水戸周辺の地図



水戸の古地図。水堀にご注目


昔の人は、どうして水戸の台地に城を造ったのでしょうか?
城がどんなものかというと、①敵に攻め込まれた際の防衛拠点、②戦闘の拠点、食料、武器、資金の集積場所、③指揮官の居所、政治、情報の拠点の機能を持ちます。近世以前には防衛のために山地に建築されることも多かったのですが、軍事技術や職業的武士の成立などがあり、近世以降は街道や河川などの交通や産業の要所をおさえるべく平地に造られることが多くなりました。

自然の地形からも水戸は北に那珂川、南に千波湖、東西に長い台地で防衛に適しています。
また、物流などからはどうかというと、江戸街道、岩城街道(陸前街道)、磐城棚倉街道、茂木街道、結城街道がありますし、昔の物流は河川運行が主で、那珂川が重要であったことなどを考慮して水戸に城を構えたことが見えてきます。那珂湊は今は当時の面影はありませんが、江戸時代はものすごく活気のある街でした。ちょっとたとえが大きすぎるかもしれませんが、現代で言うと、横浜や神戸のように物流の拠点だったのです。

次に、城下町の配置(現在で言えば都市計画)について考えてみます。
城の基本的な目的は、防衛ですから城を中心に防衛のため区割りをしていくのが城下町の基本です。つまり、城→重臣屋敷→一般武家屋敷→町人屋敷→社寺となるわけです。一般には城を中心に同心円状に広がっていくのですが、水戸の場合は舌状台地でしたので、東西に広がりました。水戸の場合は、北に那珂川、南に千波湖がある舌状台地ですから、円形には広がりません。横に広がるイメージです。水戸の上市と下市という双子的性格の街が出来上がった原因はこのようなことにあります。

平成12年頃に茨城大学と水戸の観光協会が作成した水戸城下町の地図。現代と江戸時代を重ね合わせているところが面白い。


あまり気づかないかもしれませんが、ある地域に水戸の社寺が集まっているところがあります。
なぜ集まっているのか、理由は城下町の街作りにあります。
お寺が街の外に配置されるというのは、宗教的には死と関連する場所であるからかもしれませんが、城下町作りの観点からは、別の理由があります。
昔は、社寺が大きな建物であり、戦闘をするときの拠点となり得たからです。
お寺が戦闘の場所になり、焼き払われるということが歴史には多くありましたが、理由は兵士がそこに立てこもったりして攻防が行われるからです。
ぜひ、社寺の固まりがあるところを水戸の地図で確認しておいてください。

では、防衛のための工夫ですが、地図からわかりやすいのは道路です。
城下町では敵が真っすぐ侵入しては困るので、食い違い、かぎ型道路、T字路、遠見遮断が設けられています。現在では三の丸、二の丸、本丸くらいしか残っていませんが、古地図からはそれらあったことがわかります。

このほか、水戸は西側から侵入される危険があるので防衛のため西側に5重の堀とそれ以外に城を囲むように水堀が造られました。
今は無いですが気象台のところ、大工町のところに南北に走る大きな堀がありました。

水戸の古地図ですが、実は昔のものはありません。
せいぜい江戸時代以降のものしか見当たりません。
図書館や博物館などでコピーをしてきました。
正保、嘉永、明治の各地図を見ていきます。
ちなみに現在の三の丸ホテルが建っている場所は、江戸時代には水堀でした。現在の駅南のほとんどは江戸時代に千波湖でした。現在は、水戸城の水堀はどこにも見当たりません。もし、水堀が残っていたら、風情があったろうなと想像することがあります。

明治42年の地図を見ると、銀杏坂の下あたりから千波湖を横断する渡し船があった旨記載があります。これは地図で発見したことで、驚きです。この頃には、すでに常磐線、水郡線が走っていました。しかし、現在の青柳のあたりですが、まだ船の渡しが行われており、川に橋がかけられていませんでした。

水戸城はどんな感じだったのでしょうか。現存する建物はありません。
明治の頃に新政府軍により水戸城の実測図が造られました。
これをもとに、CGで水戸城を再現したものがあります。
これによると現在の水戸三高、附属小学校がお城の中心でした。そこに天守閣はありませんが、三階櫓がありました。外見は3階ですが実際には5階建てという奇妙な構造になっているのは、武家諸法度への配慮です。

水戸城の歴史ですが明治元年に弘道館の戦いがあり、また、その後不平士族による放火があり、城の建物が焼けました。それでも三階櫓は残ったのですが、昭和20年の空襲で焼失しました。残念なことに空襲などのために、水戸には江戸時代からの古い建物はほとんど残っておらず、現在は、弘道館、薬医門、それに土塁や堀くらいです。現在からは想像できないかもしれませんが、江戸時代には水戸にはかなり立派な城下町がありました。

三の丸小学校の通り。白壁が歴史を感じさせます。


弘道館の正面


街歩きの際に、古地図をもとに水戸の城下町がどんな感じであったのかを思い浮かべて楽しんでいただければ幸いです。

ところで、水戸の歴史を見るためには、水戸の歴史をほぼ徳川の歴史と考えて、頼房,光圀,斉昭の3人を中心に押さえて見ていくとわかりやすいと思います。加えて可能なら大日本史からの思想(水戸学)を押さえるとよいと思います。


初代 頼房公の像


2代目 水戸黄門御一行の銅像


9代目 斉昭公の銅像


歴史の流れの中でものをとらえる習慣を身につけることをお勧めします。
これによって自分の視点が相対化していき、物事が立体的に見えてきます。
歴史的なことがわかっていると今までに気がつかなかった物が立体的に見えてくることがあります。ちょっと昔にマジカルアイという立体視の本がありましたが、平面で模様しかないはずなのに見え方のコツがつかめると、不思議なことに立体が浮かび上がってくる。あれによく似ていると思います。

最近感じるのは、我々はいったい何者であるのかということです。水戸人に対してお前は何者かと問うて答えられるでしょうか。おそらくないでしょう。
水戸の街と人にも魅力があるはずですが、気がつきません。これは見ても見えない状態です。これを見えるようにする学びが必要です。
歴史についてのリテラシー教育が必要ですが、水戸の歴史について物語化する作業が必要です。
私たちが物語として消化するためには、水戸学とは何かという問いに向き合う必要があると思います。私たちは水戸学から何を学ぶのか、水戸の歴史から何を受け継ぐのか、この問いを皆さんとずっと考えていきたいと思います。