ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

水戸藩歴史ポタリング~大工町、偕楽園、千波湖、水戸駅

2013-05-26 16:48:02 | 自転車
久しぶりに、水戸藩歴史探訪ポタリング。

大工町から神応寺、神崎寺、常磐神社、偕楽園、千波湖、桜川、水戸駅を小径車で回ってみた。
のんびりと時速10キロで、気になるところに寄りながら、ゆっくりと走ったので、約3時間もかかってしまった。


まずは神応寺。
ここには、天狗党の軍師であった山国兵部の墓がある。
天狗党は、敦賀で降伏し、斬罪に処せられるが、山国兵部は次のような辞世の句を残している。
「ゆく先は冥土の鬼と一と勝負」
ほかの者の辞世の句とは雰囲気がちょっと異なっています。
山国兵部は、最後まで降伏せずに戦うことを主張したとか。






兵部の墓は、本堂の裏の墓地の中で、奥の赤い建物の近くにある。




神応寺の隣には、雷神がある。
別雷神社。
京都の上賀茂神社から分霊したという。
桜田門外の変の烈士は、ここで祈願をしたらしい。



神崎寺
神崎寺には、大砲の鋳造所があった。
夷狄を打ち払うために、青銅製の大砲をここで作っていたらしい。
青銅製なので、もちろん欧米の大砲に比べたら性能は劣る。
また、弾も爆薬が仕込まれておらず、丸い弾丸を飛ばすだけのものだったらしい。



神崎寺の墓地にあった桜田門外の変の稲田重蔵の墓。
現場で討ち死にしたただ一人の浪士だという。



常磐神社。
徳川光圀公と徳川斉昭公が祀られている。
神社の中に義烈館という資料館がある。




常磐神社の境内内に藤田東湖が祀られている神社がある。
神社の前に、正気の歌が掲示されていた。

天地正大ノ氣
粋然トシテ神州ニ鍾ル
秀デテハ不二ノ嶽トナリ
巍巍トシテ千秋ニ聳ユ
注イデハ大瀛ノ水ト爲リ
洋洋トシテ八洲ヲ環ル
名調子である。

幕末に多くの志士たちに愛唱されていたという。




神社のすぐわきには、偕楽園がある。
これは東門。




これは正門。
多くの人は東門から偕楽園に入るが、偕楽園を味わうためには正門からの入場をお勧めしたい。
偕楽園は、一張一弛の思想の現れである。
一張は、弘道館で勉学に励み、一弛は偕楽園で休むということ。
偕楽園は西半分に位置する杉や竹の林が陰の世界を、北東の梅林が陽の世界を表すことで、園全体で陰陽の世界を体現しているともいわれ、表門から入ってこそ園の設計に沿った、偕楽園本来の魅力を堪能することがすることができると掲示されていた。




正門をくぐると、一の木戸がある。
竹林があり、心地よい雰囲気が漂う。



偕楽園の南側の崖には、正岡子規の句碑がある。



偕楽園から千波湖まで行く途中の道に、大日本史編纂完成の地の石碑がある。
うっかりすると見落としかねない。
大日本史は、徳川光圀公が, 1657年に編纂を開始し、完成したのは 250年後の 1906(明治39)年。
編纂の作業は, 最初 江戸の水戸藩邸(駒込)で行われ、その後、光圀が水戸に隠居してからは 水戸市三の丸の「彰考館」で行われた。
明治維新後は 偕楽園南隅の地に移った。




千波湖湖畔には、光圀公の銅像がある。
このほかにも斉昭慶喜の親子像もある。





千波湖は、水戸市民の憩いの場である。
今日は、曇りなので、まったく雰囲気が異なる写真となってしまった。




千波湖がどのように作られたのかの伝承が記載されているダイダラ坊の碑。
ダイダラ坊が、掘って作ったのが千波湖だという。
ダイダラ坊については、常陸風土記のなかに記述がある。





千波湖の南側には、貝塚があった。




もう少し進むと
県立美術館がある。
県立美術館の北側の芝生は、いい雰囲気である。





桜川の堤防の様子。
春になると桜並木が素晴らしい。





水戸駅南口のペデストリアンデッキにある納豆の記念碑。
昔、源義家が後三年の役のときに水戸に泊まったときに納豆を発見したという伝承があるらしい。





水戸駅北口
ご存知、水戸黄門御一行です。




水戸駅北口のイチョウ坂の途中に、
東照宮がある。
東照宮は日光だけではない。


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