映画と音楽そして旅

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(シネマ落書帖) (42) 伊・米合作「愛の嵐」

2005-11-18 00:14:49 | 映画
 以前に私のブログで少し触れたと思いますが、イタリアン・リアリズムの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が、「世にも悲痛で残酷な」映画と評した映画「愛の嵐」のビデオを、行きつけのレンタル・ショップで見つけました。
 1975年の公開以来早くも三十年にもなり、結構人気を呼んだらしくケースもかなり痛んでいましたが、中身はそれほど損傷していなかったので、最後まで鑑賞することが出来ました。若い頃は全く観なかったイタリア映画を、どういう訳か最近は見るようになりました。
といってもイングリッド・バーグマンの元旦那ロベルト・ロッセリーニと、マカロニ・ウェスタンは相変わらず今でも敬遠中ですが、とにかくイタリア映画には五十年というプランクがありますので、遅れを取り戻すのが大変なのであります。
 
 ユダヤ人弾圧で悪名も高いナチス突撃隊の元将校マックス(ダーク・ボガート)は、身分を隠してウイーンのホテルで働いていますが、そこへ戦時中にかかわりがあったルチア(シャーロッド・ランプリング)が、夫と共に現れます。
 お互いに人に知られてはならない過去をもつ身、行き場を失った二人は再びあの愛の世界に戻って行くのです。
   <あなたを憎んでいたはずなのに、十年後の思わぬ再会に
    今、愛の炎は燃える 外は雨 ドナウさざめく ウイーンの冬…>
 これは公開時のポスターのフレーズですが、ロマンチックなメロドラマを思わせるような表現には程遠い、残酷な場面が展開した行きます。ユダヤ人の少女ルチアは収容所将校のマックスに、愛人になることを強制されます。
 狼に対する羊にも等しい彼女は抵抗する術がありませんでした。しかし彼女の憎しみの気持は、いつしか愛情に変って行きます。
 ナチス将校のパーティで歌い終わった彼女に、マックスから贈り物が届けられます。その贈り物の中身は…ここで私は図らずも十八歳ぐらいの頃に観た、あるアメリカ映画の一シーンを思い出しました。
 それはリタ・ヘイワーズがスチュアート・グレンジャーと共演した「情炎の女サロメ」
という映画で、彼女はスペイン人とのハーフでアメリカ人離れしたエキゾチックな容貌と、男心をくすぐるような妖しいムードを持った女優でした。
マックスは後でこのことを回想して《聖書に書いてあったことをと実行しただけだ」嘯きます。収容所での強大な権限を利用して、ユダヤの王ヘロデと、予言者ヨハネとサロメの故事を実演したつもりだったのでしょうか。
 ホテルに籠もっていた二人の愛の日々は、やがて終末を迎えます。マックスはナチス将校の制服を、ルチアは収容所時代の衣服を身に着けて、食を求めてよろめき寄り添いながら冬の街路へと彷徨っていくのです。

 愛情が一転して憎しみに変ることはあり得ることですが、憎しみがが愛に変ることは現実にはまずあり得ないと思います。しかし二人の愛は感情を超越して堅いものだったのでしょう。
 演出したのはリリアーナ・カヴァーニというイタリア人女性ですが、収容所から生還した女性達の取材をしていて彼女達の特異な体験を聴き、この映画の製作を思い立ったといいます。人間としての愛のありかたにを問いかけると共に、過ちを繰り返さないために、残酷 背徳 退廃的 倒錯的 あらゆる非難を受けながらも、この作品を世に出したこの女流監督の勇気は評価されるべきでは…と思います。
 シネマから遠ざかっていたので主演は知らない俳優ばかりでしたが、ダーク・ボガートはヴィスコンティの「ヴェニスに死す」に出ているし、ショップで見かけたのでまた借りようと思います。
 シャーロッド・ランプリングもヴィスコンティに認められ「地獄に堕ちた勇者ども」に出たのが、きつかけだそうですが、《夏の嵐」のアリダ・ヴァリを凌ぐような迫真の演技には脱帽でございます。
 食わず嫌いが一転してヴィスコンティの世界にハマリつつある私は、果たしてあの美しくも儚いラブ・ロマンスの世界に再び戻れるのか、どうか心配なこの頃でもあります。