こんにちは。
お知らせがあります。
10/21~10/22に、僕がテレビ東京の取材を受けることになりました。
mixiにある「余命宣告」というコミュニティを特集する番組を来年の年始に放送するみたいです。
余命宣告を受けた人や難病の人の人生観や感じていることを伝える番組だそうです。
「余命宣告」コミュニティでの僕の書き込みや僕のmixiのプロフィールや日記をご覧になったテレビ東京の方がいて、僕を取材してみたいと思って下さったんだそうです。
取材は受けることになりましたが、数人がこの番組に出るみたいですし、まだ僕が出演するとは決まってないんですけどね。
そして、テレビ局の方から「保田さんが関わっている活動も取材させてください」と言われたので、『福岡子どもホスピスプロジェクト』でディスカッションを行うことになりました。
テーマは「余命を知って生きるということ」です。
日時は10/22の13時30分から15時まで、場所は九州大学の病院キャンパスの総合研究棟105号室です。
どなたでも参加できますが、事前申し込みが必要なので fukuoka.kodomo.hospice@gmail.com に参加申し込みメールを送ってください。
なお、当日はテレビ局の取材が入りますので、参加者の方も一部入り込む可能性があります。
関心のある方は来てくださると嬉しいです。
もう一つお知らせがあります。
10/30に、日本キリスト改革派の小倉教会で、10分ほど僕が証(キリスト教のメッセージ)をすることになりました。
そして、南アフリカ改革派教会のトニー・デベット宣教師の説教と東北被災地でのボランティア活動の報告もあります。
関心のある方は来てくださると嬉しいです。
教会の住所は 福岡県北九州市小倉南区田原新町1丁目15-26 です。
JR下曽根駅から徒歩8分の場所にあります。
周辺地図はこちら
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こんばんは。
昨日お伝えした関西のラジオ番組「キリストへの時間」の僕のメッセージですが、もうホームページにアップされていました♪
こちらです。
あと携帯でしかネットが使えなくて、ホームページを見ることができないから、放送された僕のメッセージをブログに載せてほしいと言ってくれた方がいるので、載せますね。
「難病は神様からの召命」
聖書の言葉
【ヨハネによる福音書 15章16節】
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」
長丘教会の会員で20歳の保田広輝と言います。
僕はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという生まれつきの進行性の難病を抱えています。
徐々に病気が悪化して、いずれは寝たきりになり、今のところは延命治療をしても、残り約15年の寿命と言われています。
また今は電動車椅子と人工呼吸器を24時間使用しながら生活しています。
僕はむかし自分のことを不幸だと思っていました。
何度も入院し、死にかけた状態になったこともありました。
病気が悪化する度に「こんな苦しい状態で生きていても意味がない。僕はずっと苦しみ続け、何もできずにこのまま死んでいくのだ」と虚無感に支配されました。
何度も神様の存在を疑い、「神様は何でこんなことをしたのだ!」何度も神様に怒りや恨みをぶつけたこともありました。
「僕の病気を癒してください」「どうして病気にしたのですか!?どうして病気の悪化が止まらないのですか!?」といつも祈っていたのに、全く神様からの回答がなく、祈りが全く聞かれていないと思っていました。
また、そういう祈りの日々の中で、病気は悪化し続けていくので辛かったです。
次第に礼拝へ行くことも嫌になり、少し休みがちになりました。
しかし、信仰告白をした13歳の時から、毎日聖書を読んで祈り、教会へ行き、様々な本を読むことで、約7年間の月日をかけて神様によって少しずつ心が変えられ、難病を受け入れることができました。
不思議なのは、信仰生活を辞めなかったことです。
今振り返れば、神様から離れて信仰生活を辞めるのではなく、祈りの中で、神様に疑問や怒りや恨みもぶつけたことが良かったのだと思います。
また、いつも聖書を読んでいたことも良かったです。
やっぱり聖書は神様の言葉ですし、人間に「生きていて良かった」と喜びを与えてくれる書物ですからね。
特に慰められた御言葉は、【コリントの信徒への手紙第一 10章13節】 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
だから、どれほど苦しい日々でも、信仰と希望と愛は神様から守られていたのだと思います。
聖書は言っています。
【コリントの信徒への手紙第一 13章13節】「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。
この3つがあれば最後まで生きていくことができ、人生と神様を心から喜んで生きていけるのだと思います。
神様のなさることを疑わないことが信仰の強さです。
でも人間は誰でも神様を疑ってしまうときが必ずあるんですよね。
でも僕らが信仰を持ったということは、人間の力によるものではなく、全て神様の恵みによるものですから、どんなことが起ころうとも、信仰と希望と愛は神様から守られるのだと思います。
このことを信じることが大切なのだと思います。
そして今年になって、次のようなことを神様から示されました。
僕は自分の意志で生まれ、望んで病気になって生まれて来た訳ではありません。
ということは、僕は神様からの任命を受けて、難病の身体で生まれて来たのです。
神様が僕を難病の身体に選んで下さったのです。
そして、僕はこの世界に生まれて来たことが、神様からの召命だと思います。
生まれつきの難病の人生も神様からの召命なのです。
神様が背後にいてくださって、難病の人生という任務を全うしなさいと神様が任命してくださったからこそ、困難な人生にチャレンジしていけるのです。
また、病気は苦難のひとつです。
たぶん苦難とは、神様に委ねるための「痛み」なのかもしれません。
なぜなら、人の心は神様に委ねるまでは決して安らぐことはないからです。
僕の生命は僕のものではなく、神様のものですから、神様の御心に従うならば、自分にとって一番最善の道を歩むことができるのだと思います。
人間が生きる価値は、自分や人が決めるのではなく、自分を存在させている神様が決めて下さいます。
難病の僕であっても、生きる役割を与えて下さる神様の公認の存在だからこそ、僕は生きる価値があるのです。
生きる喜びとは、そのような神様の愛を知ることにあるのだと思います。
だから自分や他人が不幸だと思えることの中からも、意味を見出すことはできるのだと思います。
不幸だと思われる者に神様の御心と御業が現れるとき、それは全ての者の救いのしるしやきっかけになるのだと思います。
僕はむかし自分のことを不幸だと思っていましたが、神様と出会ったことで、信仰・希望・愛を感じながら生きていけるようになりました。これは神様が与えて下さった大きな奇蹟だと思っています。
僕には難病の人生を通して、神様を証しして、キリスト教を宣べ伝え、人々に信仰・希望・愛をプレゼントしていく役割があるんですよね。
聖書は言っています。
【エフェソの信徒への手紙 3章 12~13節】「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」
そう思うと、病気は個性であり、賜物であると考えています。
最後に、韓国の讃美グループ“オンギジャンイ”の「その名はイエス」という曲を聴いてください。
僕はこの曲を聴くと、神様はずっと僕と共におられる、ということを強く実感します。
こちらです。
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「難病は神様からの召命」
聖書の言葉
【ヨハネによる福音書 15章16節】
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」
長丘教会の会員で20歳の保田広輝と言います。
僕はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという生まれつきの進行性の難病を抱えています。
徐々に病気が悪化して、いずれは寝たきりになり、今のところは延命治療をしても、残り約15年の寿命と言われています。
また今は電動車椅子と人工呼吸器を24時間使用しながら生活しています。
僕はむかし自分のことを不幸だと思っていました。
何度も入院し、死にかけた状態になったこともありました。
病気が悪化する度に「こんな苦しい状態で生きていても意味がない。僕はずっと苦しみ続け、何もできずにこのまま死んでいくのだ」と虚無感に支配されました。
何度も神様の存在を疑い、「神様は何でこんなことをしたのだ!」何度も神様に怒りや恨みをぶつけたこともありました。
「僕の病気を癒してください」「どうして病気にしたのですか!?どうして病気の悪化が止まらないのですか!?」といつも祈っていたのに、全く神様からの回答がなく、祈りが全く聞かれていないと思っていました。
また、そういう祈りの日々の中で、病気は悪化し続けていくので辛かったです。
次第に礼拝へ行くことも嫌になり、少し休みがちになりました。
しかし、信仰告白をした13歳の時から、毎日聖書を読んで祈り、教会へ行き、様々な本を読むことで、約7年間の月日をかけて神様によって少しずつ心が変えられ、難病を受け入れることができました。
不思議なのは、信仰生活を辞めなかったことです。
今振り返れば、神様から離れて信仰生活を辞めるのではなく、祈りの中で、神様に疑問や怒りや恨みもぶつけたことが良かったのだと思います。
また、いつも聖書を読んでいたことも良かったです。
やっぱり聖書は神様の言葉ですし、人間に「生きていて良かった」と喜びを与えてくれる書物ですからね。
特に慰められた御言葉は、【コリントの信徒への手紙第一 10章13節】 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
だから、どれほど苦しい日々でも、信仰と希望と愛は神様から守られていたのだと思います。
聖書は言っています。
【コリントの信徒への手紙第一 13章13節】「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。
この3つがあれば最後まで生きていくことができ、人生と神様を心から喜んで生きていけるのだと思います。
神様のなさることを疑わないことが信仰の強さです。
でも人間は誰でも神様を疑ってしまうときが必ずあるんですよね。
でも僕らが信仰を持ったということは、人間の力によるものではなく、全て神様の恵みによるものですから、どんなことが起ころうとも、信仰と希望と愛は神様から守られるのだと思います。
このことを信じることが大切なのだと思います。
そして今年になって、次のようなことを神様から示されました。
僕は自分の意志で生まれ、望んで病気になって生まれて来た訳ではありません。
ということは、僕は神様からの任命を受けて、難病の身体で生まれて来たのです。
神様が僕を難病の身体に選んで下さったのです。
そして、僕はこの世界に生まれて来たことが、神様からの召命だと思います。
生まれつきの難病の人生も神様からの召命なのです。
神様が背後にいてくださって、難病の人生という任務を全うしなさいと神様が任命してくださったからこそ、困難な人生にチャレンジしていけるのです。
また、病気は苦難のひとつです。
たぶん苦難とは、神様に委ねるための「痛み」なのかもしれません。
なぜなら、人の心は神様に委ねるまでは決して安らぐことはないからです。
僕の生命は僕のものではなく、神様のものですから、神様の御心に従うならば、自分にとって一番最善の道を歩むことができるのだと思います。
人間が生きる価値は、自分や人が決めるのではなく、自分を存在させている神様が決めて下さいます。
難病の僕であっても、生きる役割を与えて下さる神様の公認の存在だからこそ、僕は生きる価値があるのです。
生きる喜びとは、そのような神様の愛を知ることにあるのだと思います。
だから自分や他人が不幸だと思えることの中からも、意味を見出すことはできるのだと思います。
不幸だと思われる者に神様の御心と御業が現れるとき、それは全ての者の救いのしるしやきっかけになるのだと思います。
僕はむかし自分のことを不幸だと思っていましたが、神様と出会ったことで、信仰・希望・愛を感じながら生きていけるようになりました。これは神様が与えて下さった大きな奇蹟だと思っています。
僕には難病の人生を通して、神様を証しして、キリスト教を宣べ伝え、人々に信仰・希望・愛をプレゼントしていく役割があるんですよね。
聖書は言っています。
【エフェソの信徒への手紙 3章 12~13節】「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」
そう思うと、病気は個性であり、賜物であると考えています。
最後に、韓国の讃美グループ“オンギジャンイ”の「その名はイエス」という曲を聴いてください。
僕はこの曲を聴くと、神様はずっと僕と共におられる、ということを強く実感します。
こちらです。
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明日、JOCRラジオ関西(AM 558KHz)で朝7:30から7:45に放送される「キリストへの時間」に僕のメッセージが流れます。
関西にお住まいの方は聴いてくださると嬉しいです。
ちなみに翌日には、「キリストへの時間」のHPに放送された内容が音声と文章でアップされます。
チェックしてくださると嬉しいです。
「キリストへの時間」 ホームページ
~追記~
昨日お伝えした関西のラジオ番組「キリストへの時間」の僕のメッセージですが、もうホームページにアップされていました。
こちらです。
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ちなみに翌日には、「キリストへの時間」のHPに放送された内容が音声と文章でアップされます。
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~追記~
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前回の日記のつづきです。
しばらく体調を崩していたので、アップするのが遅れてしまいました。
~つづき~
でも、努力していても、理想とは程遠い自分にショックを受けることがあります。
「どうして他の人に比べて自分は弱いのだろう」
「どうして良い方向に変わることができないのだろう」
「どうしてネガティブになるのだろう」
このように周期的に落ち込んでしまいます。
でも、理想の自分を目指していくときにできる影や闇を見る勇気があれば大丈夫なんですよね。
その勇気があれば、また立ち上がることができるのです。
体調を崩すと、ネガティブになりやすくなるので、僕はしばらく自分の影や闇を見ることに疲れ、落ち込んでいました。
心が影や闇に支配されることに不安を感じていました。
でも、聖書には次のようなことが語られています。
【エフェソの信徒への手紙 5章8~14節】
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
主イエス・キリストこそ光です☆
光であるイエス様を見るために、僕たちは心が変えられる必要があります。
イエス様を知らない人は、自分が生まれながらの罪人であること、死は罪がもたらしたものであることに気付きません。
でも、全人類を罪と死から救うために、十字架で犠牲になられ、死から復活されたイエス様の光と愛に照らされるとき、自分が生まれながらの罪人であることが明らかにされるのです。
全ての人はイエス様の光にさらされて、明らかにされます。
明らかにされる人はみんな光となるのです☆
僕たちは、イエス様が関わって下さったから、光とされたのです!
だから、自分の影や闇を見ることに疲れたとしても、すでに僕たちはイエス様によって光とされていますから、影や闇に支配されることはないと思います。
そう思うと、心に平安が訪れました。
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でも、努力していても、理想とは程遠い自分にショックを受けることがあります。
「どうして他の人に比べて自分は弱いのだろう」
「どうして良い方向に変わることができないのだろう」
「どうしてネガティブになるのだろう」
このように周期的に落ち込んでしまいます。
でも、理想の自分を目指していくときにできる影や闇を見る勇気があれば大丈夫なんですよね。
その勇気があれば、また立ち上がることができるのです。
体調を崩すと、ネガティブになりやすくなるので、僕はしばらく自分の影や闇を見ることに疲れ、落ち込んでいました。
心が影や闇に支配されることに不安を感じていました。
でも、聖書には次のようなことが語られています。
【エフェソの信徒への手紙 5章8~14節】
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
主イエス・キリストこそ光です☆
光であるイエス様を見るために、僕たちは心が変えられる必要があります。
イエス様を知らない人は、自分が生まれながらの罪人であること、死は罪がもたらしたものであることに気付きません。
でも、全人類を罪と死から救うために、十字架で犠牲になられ、死から復活されたイエス様の光と愛に照らされるとき、自分が生まれながらの罪人であることが明らかにされるのです。
全ての人はイエス様の光にさらされて、明らかにされます。
明らかにされる人はみんな光となるのです☆
僕たちは、イエス様が関わって下さったから、光とされたのです!
だから、自分の影や闇を見ることに疲れたとしても、すでに僕たちはイエス様によって光とされていますから、影や闇に支配されることはないと思います。
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