明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

悔い改めについて

2014年07月16日 14時20分34秒 | キリスト教
今回は長文日記なので、先に賛美動画を載せます。




『悔い改めについて』

【第一ヨハネの手紙 2章1~6節】

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。

もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」


僕は今まで長年、心において繰り返し犯し続けていた特定の罪があった。心で思う範囲なら罪ではないという人もいたけど、人間が実際に行う罪は心で思うことから始まっていくし、罪から離れて神様の掟を守っていくことは大切だから、長年いつも祈って悔い改めていたけど、その罪を犯し続けていた。神様は祈りを聞いてくださらないのかと苦しかった。

でも、3ヶ月前に祈りの中で指摘されました。僕は絶えず自分の無力さを認め続けていなかった。神様ならこんな罪深い自分を必ず救うことができると信じていなかった。神様の掟に自分の意志と生き方を一致させていなかった。心のどこかで人間は死ぬまで罪人だから仕方がないと投げやりになっていた。これでは神様の力は働かない。自分の中に神様に明け渡していない領域があるのだから。

もちろん救われるために行いはまったく必要ない。イエス様を信じる人は無条件に救われている。救われるための行いではなくて、救われている者としての行いが大切だけど、僕は自分の力で神様の掟を守ろうとしていたから、神様の力が働いていなくて、その罪を犯し続けていたんです。

この指摘を受けてから、いつも祈りの中で、思いつくかぎりの罪を悔い改めしつつ、自分の力では神様の掟を守れませんと告白しながら、絶えず自分の無力さを認め続け、神様ならこんな罪深い自分を必ず救うことができると信じ、必ず救ってくださる神様に賛美と感謝をささげて、罪から離れる決心をしつつ、神様の掟に自分の意志と生き方を一致させることを神様に誓っています。この全てが悔い改める行為なんだと思う。これが神様の力が働いてくださる秘訣なんだなぁ。

すると、祈りの中で神様の赦しを実感できて、いつの間にか、毎日のように繰り返し犯し続けていた特定の罪が消え失せました。でも、心では無くなったけど、1ヶ月半前までは数日ごとに夢の中でその罪を犯していた。夢の出来事は潜在意識のあらわれだから、夢の中の罪も悔い改めました。そして、夢の中でも無くなりました。

やっぱり自分の力だけで神様の掟を守ろうとしたら、必ず破綻して罪を犯し続けるけど、罪の自覚も悔い改めも変えられていくことも神様の導きだし、何よりまず祈って、自分は無力な罪人という自覚を保ちつつ、神様に全てを信頼していくことが大切なんだ。

聖書が教える「悔い改め」とは、生き方の全領域における方向転換で、御霊の助けによる全生活の革新であり、罪に染まった古い自分に死んで、新しくキリストに生きることだから、罪から離れて神様の掟に従います、と生き方の方向転換をする決心から、悔い改めは始まっていくのだと思う。

これからも絶えず祈り、み言葉に生かされて、絶えず悔い改めながら、自分の全存在を神様の子ども・聖霊の器として変えられていきたいです☆

また、悔い改めは、自分の事だけではなくて、家庭においても、社会的な広がりの中でも、適用される必要があると気付かされた。

今まで家族の罪は悔い改めていたけど、日本の罪、戦時中に日本が犯した偶像礼拝【天皇を日本中の教会で礼拝&神社参拝、(旧)日本基督教団の代表者による朝鮮教会への神社参拝の勧めとそれを拒んだ多くの朝鮮人クリスチャンを迫害、偶像礼拝した日本教会が偶像礼拝を拒んだ日本人クリスチャンに対して言論で迫害の後押し、など諸々】やアジア諸国への侵略戦争の罪は悪いことだと思いながらも、自分がしたわけではないから、徹底的に悔い改めたことがなかった。

でも、家族の罪を自分の事として悔い改めることが家族のリバイバルの始まりだし、日本人の罪を日本人として悔い改めることが日本のリバイバルの始まりなんだ。

ずっと僕は、先月に洗礼を受けた93歳の祖母の罪を自分の事として悔い改め続けてきました。キリスト教が大嫌いでお金を偶像としていた祖母だったから、僕ら家族にとって祖母がイエス様を信じて洗礼を受けたことは奇跡なんです。家庭や社会の領域も、悔い改めからリバイバルは始まるのだと思う。


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ありがとうございます。

1 コメント

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明け渡したいのに、明け渡せない私。 (クミイッタ)
2014-07-18 21:47:25
「日本の罪」について自分がしたわけではなく私の知らない時代の知らない人たちがしたことなのに・・・・]との思いが強かった頃が私も有ります。あることを通して”罪の連帯責任”という言葉を知り、思いが解けると共に、原罪もアダムから私にも受け継がれていることにうなずけました。
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