「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『天文学者はロマンティストか?』、『新しい太陽系』

2008年01月21日 | Science
『天文学者はロマンティストか?』(縣秀彦・著、NHK出版生活人新書)、『新しい太陽系』(渡部潤一・著、新潮新書)
  ちかごろ天文関係の本を買うことはめったになくなった。それ以外に読むべき本がふえて、純粋に自分の興味だけで読みたくなる本を買う余裕―同時に読む余裕も―なくなってきたということだろう。天文に興味がなくなったわけではない。そもそも自分の原点の一つは、あきらかに天文に対する興味にあったと思っている。物理を専攻したのも、天文から宇宙論を経て相対性理論への興味が育まれたことにあったし、生命科学に興味をもったのも、天文から地球外生物に関心が広がったことと無関係ではない。環境問題に関わるようになったきっかけは、直接的には自我の成長とともに社会的な問題にも目を開かれたことによると思っているが、天文への興味の延長線上に自然科学への関心も高まり、同時に自然そのものに対する憧憬や畏敬の念といった感性的な面も育まれ、それらが複合していまの自分―環境問題に関わる自分―の基盤を形づくったように思う。ほとんどの民族の神話に太陽や月や星がでてくるように、天文は人間の世界観や自然観の基礎をなしているといわれる。レベルは異なるが、自分にとっても天文は自分の世界観や自然観、さらには人生観の原点の一つになっているように思う。
  表題の2冊は久しぶりに買った天文関係の啓蒙書である。著者のお二人はともに国立天文台に勤めていて、とくに天文の普及に力を入れている方々である。渡部さんの著書は、そのタイトルどおり太陽系天文学の最新情報の紹介に力点がおかれている。縣さんのほうは天文学と現代社会とのつながりに焦点が当てられていて、いわゆるサイエンス・コミュニケーション的な視点が強くでているように思う。天文学者(国立天文台)の社会的役割や天文教育(理科教育)の問題点、さらには科学も文化であり「役に立つ/立たない」の評価軸で文化(科学)を測ろうとする風潮も批判していて、個人的には縣さんの本のほうがより興味をもって読めた。天文学は何の役に立つのか、とは天文学者に浴びせられてきた質問の最たるものだろう。書名の「天文学者はロマンティストか?」とは、世間知らずの天文学者を揶揄した表現としても使われる。その一方で、日本では新聞・雑誌やテレビで取り上げられる天文現象や宇宙科学に関するニュースが他の科学技術分野と比較して相当多いという事実がある。また、プラネタリウムの数はアメリカに次いで世界第2位、公開天文台の数は世界のトップだそうである。このことから見て、少なくとも日本人にとって天文は関心の高い分野であるという主張にはうなずかされる。
  天文は自分の原点の一つだと書いたが、天文現象に関わる原風景とでもいうべきものも当然のことながら記憶に残っている。小学校からの帰り道で、人家のシルエットの上に輝いていた宵の明星(金星)と思われる星の煌きがそれである。その光景がすべての始まりだった(と、いまは思っている)。その後、父親(あるいは祖父だったかもしれない)に買ってもらった望遠鏡で月面のクレーターや土星の環を初めて見たときの鮮烈な感動もいまだに忘れられない。こういった原風景の記憶というものは、天文学者や科学者になろうとする意志を強く動機付けるものなのだろう。というのも、縣さんも渡部さんも個人的な原風景(心象風景)について書いているからだ。縣さんは長野県の、渡部さんは福島県のいずれも山間と思われる場所の出身である。たぶんお二人とも満天の星空の下で育ち、天文や自然に対する感性も育まれていったのではないかと思う。自分は田舎の街中で育ったが、夜ともなればいまほどは街灯もなく、庭先からかなりの星空が眺められた。当時はすでに公害は重大な問題とし認識されていたが、光の害“光害”は一部の天文学者やアマチュア天文家の口に上ることはあっても、社会的に重要視されることはなかったし、たぶんいまもその状況に変わりはないように思われる。そう思うと、ナマの天体現象を原風景にもつ天文学者らしい天文学者は―もちろん、すべての天文学者がそういった原風景をもっているわけではないだろうが―これからの時代は生まれにくくなってくるかもしれない。治安の問題はあるにしても、光害もまた環境問題であるとの認識も少なからず必要ではないだろうか。
  縣さんによると、アメリカにも流行語大賞があって2006年度は「プルート(pluto)」がノミネートされたという。この「プルート」とは「降格させる」という意味であり、その出所は冥王星(pluto)の惑星からの降格騒動である。日本のマスコミもこの騒動をかなりセンセーショナルに報道していたが、冥王星は惑星から「降格された」わけではないとお二人は口をそろえている。科学技術の進歩により人間が認識する太陽系はますます広がり、その結果(ごく簡単にいえば、冥王星の外にエリスと名づけられた冥王星よりも大きな天体がみつかったこと)として冥王星は「冥王星型天体」の代表として位置づけられることになったのだという。渡部さんの言葉を借りれば冥王星は「“鶏”から“ひよこ”へと定義を変えただけ」なのである。9つの惑星になじんできたわれわれにとっては、それでも納得のいかない気持ちがあるのはやむを得ないことだが、天文学の進歩とはそういうものなのである。もともと地球から(肉眼で)見える惑星は曜日の由来である水・金・火・木・土の5つであったが、天体望遠鏡の発明により天王星が発見された。次に天体力学の発展により海王星が発見され、さらに写真技術の発達によって冥王星が発見された。さらに1980年代になってCCD(電荷結合素子)の登場により冥王星よりもさらに外縁の天体が発見されることにつながった。科学技術の進歩により太陽系の姿はつねに新しいものへと変化し続けてきたのである。今回の冥王星の新たな位置づけも、そういった天文学の進歩の象徴として捉えるべきだろうと思う。その意味でも、この2冊は天文学の魅力に久しぶりにふれさせてくれた本だった。
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