「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

ガバナンス&アクション!―『科学は誰のものか』

2010年09月25日 | Science
☆『科学は誰のものか』(平川秀幸・著、NHK出版生活人新書)☆

  はたして良いクセなのか悪いクセなのかわからないが、「あとがき」を読んでから本文を読み始めることがよくある。買うか買わないか迷っているときも、「あとがき」を見て決めることがある。「あとがき」には、その本の肝にあたることや、著者の執筆動機が書かれていたりするからだ。科学技術社会論の分野で論客として目される平川秀幸さんの著書なので、買うことはほとんど決めていたが、やはり最初に「あとがき」にあたる「おわりに」に目を通した。
  そこではハンナ・アレントの『人間の条件』や、彼女の「人間の複数性」や「公共空間」の概念について触れられていた。大学院に入るまでハンナ・アレントの名前さえ知らなかったのだが、いまの道に進んでからというもの、彼女が提示した問題群は間接的であっても、常に身近に感じていた。科学技術社会論とハンナ・アレント―それだけでも十分に魅力的な取り合わせに思えた。
  科学は確実である。科学は価値中立である。いわゆる科学の危機から論理実証主義を経てクーンなどが論じたパラダイムへの流れを知らなくても、このような科学に対する素朴な信念を持ち続けている科学者は、いまでは少ないにちがいない。だからといって問題がなくなったわけではない。むしろ複雑な様相を呈しているように思われる。社会の側―とくに政策立案サイド―はいまだに科学に対する素朴な期待を捨てていないように見える。科学の側もまた、社会の素朴な期待に―確信犯ではなくても―応えようとしてしているように見える。いまだ一部の人たちは、そのことで科学の存在意義を見出そうとしているようにも思える。
  とはいえ、平川さんのいう「輝かしく陰鬱な1970年代という曲がり角」や1995年の「日本の転機」を経て科学技術至上主義が終焉を迎えているのは事実である。1970年に開催された大阪万博のテーマが「進歩と調和」(「進歩」だけでなく「調和」も!)であり、ほぼ同時期に公害や環境問題が深刻さを増し、さらに1995年には阪神大震災と地下鉄サリン事件が起き、科学技術神話が大きく揺らいだことは実感としてわかる。
  そこに登場したのが「科学技術ガバナンス」という考え方である。「ガバナンス」は一般に「統治」と訳されることが多いが、平川さんは語源に遡って「舵を取る」という意味を強調している。さらに、舵取りの担い手として、政府や地方自治体だけでなく、NPOやNGO、一般市民までを想定した上で「ガバナンス」(「公共的ガバナンス」)を使用している。繰り返しになるが、いまや科学技術に対する信頼が大きく揺らぎはじめ、科学技術政策を立案・決定するに際しても、「お上と下々」の関係を超えた双方向のコミュニケーションや協働・協治が必要とされている。すなわち、それが「ガバナンス」である。
  その流れの中から現れたのが、「欠如モデル」にのっとった「科学リテラシー」ではない、「ガバナンス」的な「科学技術コミュニケーション」である。「サイエンスカフェ」はその具体的な活動の一つである。(ただし、「サイエンスカフェ」を名乗っていても、実際には「ガバナンス」的でないものも少なくないことを付け加えておきたい) 最終章では、市民や自治体などから相談や調査依頼を受け、調査や研究を行う「サイエンスショップ」の活動についても触れられていて興味深い。
  結局のところ、科学技術の「不確実性」と、科学技術と「社会の利害関係・価値観との絡み合い」が増えたことで「ガバナンス」が求められるようになったといえるだろう。結果的に、われわれは科学技術の舵取りを迫られることになった。だからといって、すべての人たちが舵取りに関わらなければならない義務などないし、関わるとしても「一人一人の心がけ」といった個人主義に収斂する日本社会の傾向に対しても、平川さんは疑問を呈している。これは実に慧眼であると思う。とくに教師は往々にして、担当教科の学習を義務であるかのように喧伝し、道徳を説けば「心がけ」を強調したがるものだ。他山の石としたいところだ。
  舵取りに関わる義務はないとしながらも、本書では社会的アクションについても強調している。「一人一人から協働と公共空間へ」と題した「公共的ガバナンスのためのアクション・チャート」が示されていて、大いに参考になる。さらに、チャートの基本的なポイントも五ヶ条にまとめている。公共性や「ガバナンス」などというと、とたんに難しく感じるものだが、第一条が「身近な人に話してみる」から始まっていて、「公共的ガバナンス」へ向けた第一歩は誰でも踏み出せそうな気がしてくる。
  ガバナンスのためのアクションを! いまの時代、このかけ声は科学技術分野だけのものではない。むしろ、科学技術の分野はこのかけ声から隔離・聖域化されていた感がある。そこに平川さんはハンナ・アレントの思想や概念を持ち込んだ。(もちろんハーバーマスにもつながっているが) たんなる勉強不足にすぎないのかもしれないが、アレントやハーバーマスの視点から科学技術を語る試みは、ひじょうに斬新に感じると同時にとても勉強になった。
  「科学では答えられないことがある」といっておきながら、科学の客観性に期待を委ねてしまう人はいまだに少なくにように思う。科学に対する素朴な信念はなくなっても、根深い期待感は払拭されていないのが現実である。問題はより複雑さを増しているかのようだ。しかし、そこを掘り崩していかないことには、「科学技術ガバナンス」は実現しないように思える。
  

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