「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

平和を願う「前戦争文学」―『虹の谷のアン』

2023年01月01日 | Yuko Matsumoto, Ms.
☆『虹の谷のアン』(L・M・モンゴメリ・著、松本侑子・新訳、文春文庫、2022年)☆

  小説を読んでいて不思議な符合を感じることがあります。現代の小説を読んでいるときならば、その舞台が過去であれ未来であれ、いまわたしたちが生きている時代の映し鏡のように感じるのは、さほど不思議なことではないでしょう。作者はまさにそれを意図しているのかもしれないし、そうでなかったとしても、書き手がいま生きているその社会の雰囲気や風向きが、知らず知らずのうちに作品に反映しても何の不思議もないように思います。
  モンゴメリが『虹の谷のアン』(『赤毛のアン』シリーズ第7巻)を執筆したのは第1次世界大戦(1914年~1918年)中で、出版されたのは終戦後の1919年とのこと。いまのわたしたちは第2次世界大戦を歴史として知っているので、当時の世界大戦に「第1次」と付けますが、モンゴメリが本作を執筆していた頃は、歴史上で世界初めての「世界大戦」だったのです。この世界大戦では数多くの兵士や市民が命を落としました。さらに、ほぼ時を同じくして世界はスペイン風邪によるパンデミックにも襲われていました。
  昨年(2022年)末、本書を読みながら、少々大げさかもしれませんが、2022年の出来事がよみがえってくるような感覚を味わいました。いまだに収束が見通せないでいる新型コロナウィルスによるパンデミックと、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻。とくにウクライナ侵攻は、専門家の多くも「まさか」と思っていたと聞きます。侵攻直後から第3次世界大戦の引き金になるのではないかと囁かれ、日本もまた他人事ではないという不安に脅かされているように見えます。もちろん本書の出版がこの時期と重なったのは偶然に過ぎないでしょう。
  モンゴメリも世界大戦とパンデミックの両方の不安に苛まれながら本書を執筆したとのこと。訳者の松本侑子さんは「冒頭から結末まで暗い気配が漂い、アン・シリーズ中の異色作」と評しています。「男や国が馬鹿なことをやらかして争いごとを始める」といったセリフが出てきます。「ハーメルンの笛吹き」に仮託して、若者たちが戦争に動員される不安も暗に語られています。また、子どもが肺炎にかかる話も出てきます。こういったエピソードを読んでいると、当時の時代や社会情勢がモンゴメリに影響を与え、本作を異色な作品に仕上げたと感じざるを得ません。
  戦争への動員に関連して付け加えれば、母親が、足の悪い息子が「笛吹き」に連れて行かれなかったことに安堵する話も出てきます。子どもを戦地に赴かせることに母親が最も強く反対するというのは、いまの時代にも通用するように思います。愛国心を鼓舞し、兵士の母親の懐柔に腐心しているという某為政者のニュースが、つい最近も流れていました。為政者の考えることは、いまも昔もあまり変らないのかもしれません。
  もちろん本作で暗い影ばかりを強調するのはまちがいでしょう。ブライス家の子どもたちとメレディス牧師の母のいない子どもたち、さらに孤児のメアリを加えた、子どもたちが巻き起こす騒動はいつもながら奇想天外で、アン・シリーズの読者のこころをはなしません。子どもたちと、それを取り囲む大人たちの日常は喜びと平和に満ちています。さらに本作では、中年男女二組の恋愛模様も描かれています。わたしは、この恋物語の方にこころをわしづかみにされました。
  とくにメレディス牧師とローズマリーの恋愛は、二人のキャラクターに惹かれ、さらに一進一退の進み具合にヤキモキさせられました。小説でこのような感覚を味わうのは本当に久しぶりです。メレディス牧師は神学に没頭し、研究に我を忘れるような人物。一方、ローズマリーは不思議な若さを保つ、物静かな金髪の美女。虹の谷にたたずむローズマリーの描写は、モンゴメリと訳者である松本侑子さんの言葉の妙が織りなす美しさに酔いしれてしまいます。
  ローズマリーの不思議な若さの源は、人生に対する姿勢にあるとのこと。第13章「丘の上の家」に、彼女の若さについて「それはおそらく、彼女が人生にたいして、喜びに満ちた驚きを感じる姿勢を持ち続けているからだろう。われわれの多くは、それを子ども時代に置き忘れていってしまうのだ」と書かれています。さらに彼女のそうした姿勢が、彼女と言葉を交わす人々のこころも若返らせてしまうのです。メレディス牧師がローズマリーに魅せられるのも当然でしょう。
  余談ながら、この人生に対する姿勢は、恋愛を超えて、とくに中年以上の年齢に達したわれわれに大きなヒントを与えてくれそうに思います。子どもの頃は、身近に起きる些細な出来事にも驚きを感じ、楽しさを見つけていたはずです。いわゆる「センス・オブ・ワンダー」です。歳を得るにしたがって新鮮な驚きは少なくなるかもしれません。しかし、探す気になれば、そのタネは文学やアート、日常生活や街中、科学の世界や自然の中にも溢れているにちがいありません。その喜びを味わい周囲の人々と共有することが、人生を楽しむ秘訣のような気がします。アン・シリーズを読み、その楽しさを誰かと語り合うことも、その一つだろうと思うのです。
  『赤毛のアン』シリーズの読後の感想を元旦に掲載するのも、一昨年(2021年)の『アンの夢の家』、昨年(2022年)の『炉辺荘のアン』に続いて、とうとう3回目になりました(新シリーズについての紹介を含めると4回目)。そして毎回、コロナ禍から抜け出していることを願ってきました。しかし、残念ながら今年もその願いは叶いませんでした。
  本作に続く第8巻『アンの娘リラ』は『赤毛のアン』シリーズの最終巻です。本作第7巻『虹の谷のアン』の「訳者あとがき」に第8巻は「第1次世界大戦を描いたカナダの戦争文学」と紹介されています。わたしに生命と気力があれば、来年の元旦にも第8巻『アンの娘リラ』の拙い感想を掲載したいと思っています。
  いまわたしたちの日常生活はパンデミックのみならず、不穏な世界情勢の影響を受けて、不安感ばかりが煽られ、思わぬ方向へ人々が導かれているようにも感じます。そう「ハーメルンの笛吹き」の後をついていった子どもたちのようにです。ウクライナの現実を見るまでもなく、平和な日常生活は戦争を前にしてあっけなく崩れてしまします。第8巻が「戦争文学」ならば、この第7巻は「前戦争文学」と位置づけることができるように思います。それも平和を願うための「前戦争文学」です。
  来年こそパンデミックが収束していることを願うのはもちろんですが、ウクライナにも平和が戻ってくることを強く願いたく思います。そして、言うまでもないことですが、「世界大戦」は「第2次」でもう十分です。

追記:Amazon Kindleから『新・偽りのマリリン・モンロー』が刊行中です。マリリン・モンローをジェンダーの視点から読み解いた松本侑子さんの名作です。10年以上も前、旧『偽りのマリリン・モンロー』の感想も書いたことがあります。いずれ旧作と新作とを比較して読んでみたいと思っています。

  



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