「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

平凡な「日常」こそ幸福―『炉辺荘のアン』

2022年01月01日 | Yuko Matsumoto, Ms.
☆『炉辺荘のアン』(L・M・モンゴメリ・著、松本侑子・新訳、文春文庫、2021年)☆

  『赤毛のアン』シリーズの第6巻『炉辺荘のアン』を数日前、つまり昨年(2021年)暮れに読み終えました。昨年の『アンの夢の家』に引き続き元日に読後の感想を載せることになりました。『アンの夢の家』は、一言で表現すれば、その「訳者あとがき」にもあるように「『災いある世界』を照らす、ぼくたちの灯台だ」(ギルバートがアンに語る言葉)になるように思う、と書きました。では、『炉辺荘のアン』はどう表現すれば良いでしょうか。
  『アンの夢の家』では、子どもは一人も登場しませんでしたが、『炉辺荘のアン』には多くの子どもたちが登場します。それもそのはず、アンはギルバートとの新婚時代を脱し、6人の子どもの母親として登場します。それに伴って、多くの人たちが、さまざまな役回りで登場してきます。「訳者あとがき」によると、約370人もの名前が出てくるとのこと。各々の章で語られる物語も多様に感じられ、なかなか一つにはまとめきれません。
  しかし、逆に言えば、一つひとつの章が独立した物語として読める楽しさもあります。やはり「訳者あとがき」で「各エピソードは短編小説」と書かれている意味を、読者は何章か読み進むうちに実感するように思います。
  ところで、わたしたちは日々の生活をどのように感じて過ごしているでしょうか。毎日の生活は平穏に過ぎていくでしょうか。わたしのような一人暮らしの高齢者であっても、毎日の生活は何かと忙しく、あっという間に一日が過ぎ去ってしまうような気がします。ましてや子育てに追われている人たちや、日々仕事に向き合っている人たちは、一日一日を大変な思いで暮らしているのではないでしょうか。
  毎日の「エピソード」は、公の場での仕事だけでなく、家庭生活での子育てや介護、病や老い、公私にわたる人間関係や冠婚葬祭などなど、数え上げたらきりがないでしょう。『炉辺荘のアン』のアンとギルバートたちも同じです。多くの出来事に遭遇し、毎日が過ぎていきます。喜び、悲しみ、苦しみ、悩む姿は、現在を生きるわたしたちと変わりないように思います。
  “わたし”の生きる日常や、“あなた”の生きる日常は、一人ひとり違っているでしょうが、そういった日常が、多分すべての人たちに当てはまるという意味では平凡な事なのでしょう。言い換えれば、個々人にとって日常は平穏ではないかもしれないけれど、大きな視点から見れば、ほとんどの人たちは平凡な日常を送っていると言って良いのかもしれません。
  残念ながら、世界的なパンデミックの中で、二度目の正月を迎えることになりました。日々刻々と状況は変わっていますが、まだまだ気兼ねなくマスクなしの生活を送れる状況にはないようです(個人的にはマスクをすると非常に身体的な負担が増すため、一日も早くマスクなしの生活ができるようになってほしいと思っています)。
  このようなパンデミックや、大規模な災害、戦争、悲惨な事件・事故などの「非日常」は、わたしたちの「日常」をたやすく破壊してしまいます。破壊までいかなくとも、平凡な「日常」に暗い影を落とし、思わぬ影響を与えるかもしれません。誰だったか、平凡こそ最大の幸福というような意味の言葉を残した人がいました。人それぞれ、毎日の生活でいろいろな事が起きますが、そういった「日常」が「非日常」に侵されることなく送れていることこそが幸福なのでしょう。
  『炉辺荘のアン』が執筆された当時、著者のモンゴメリは六十代の半ばに達していたということです。プライベートな生活でもいろいろ悩み事を抱えていたようです。そしてさらに、その時、ヒトラー率いるナチスが二度目の世界大戦へと突き進んでいる時代でもあったのです。このような時代背景の中で書かれた『炉辺荘のアン』は、心中けっして穏やかでなかったモンゴメリを「日常」へと引き戻してくれる役割を果たしていたのでしょう。それは、作家としての仕事を続けられるという意味だけでなく、『炉辺荘のアン』の物語の世界に「日常」を描くという意味においてもです。
  そう、『炉辺荘のアン』を、わたしなりに一言で表わせば、一見平凡な「日常」こそ幸福、ということになるでしょうか。いま、こうやって『炉辺荘のアン』を読めることは、本当に幸せなことなのだと思うのです!
  わたしは本を読むとき、よく「あとがき」から読むことをします。今回もそうでした。人それぞれなのでお勧めはしませんが、自分としては正解だったと思います。『炉辺荘のアン』は第4巻『風柳荘のアン』とともに章のタイトルがありません。そのため、この章は何について書かれているのかを、読む前に「訳者あとがき」で知ることができました。章ごと(あるいは何章かごと)に物語(エピソード)が移り変わっていくので、戸惑うことなく、全体の流れを把握することができました。
  この「訳者あとがき」とともに、いつものことながら「訳者によるノート」の充実ぶりは言うまでもありません。訳者の松本侑子さんには毎回毎回、頭が下がります。
  なお、NHK Eテレ「100分de名著」の今年2022年1月の放送予定は「金子みすゞ詩集」で、その指南役として松本侑子さんが出演されます。『みすゞと雅輔』の読者にとっては見逃せない番組になりそうで、待ち遠しい限りです。



  『赤毛のアン』シリーズ第7巻『虹の谷のアン』の新訳書が、もし今年(2022年)中に出版されたら、来年の元日には、ぜひパンデミックから抜け出した「日常」の中でその感想を書きたいものです。

  


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