「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

ノーマとマリリン―『偽りのマリリン・モンロー』<再読>、『マリリン・モンロー』、『マリリン』

2011年02月20日 | Yuko Matsumoto, Ms.
☆『偽りのマリリン・モンロー』(松本侑子・著、集英社)<再読>、『偽りのマリリン・モンロー』(松本侑子・著、集英社文庫)<再読>、『マリリン・モンロー』(亀井俊介・著、岩波新書)、『マリリン』(グロリア・スタイネム・著、ジョージ・バリス・写真、道下匡子・訳、草思社)☆

  マリリン・モンローがいま生きていれば80歳台半ばである。母親とほとんど同じ年齢だ。しかし、母親の年齢のマリリンを想像するのは難しい。マリリンはいまでも映画や写真の中でほほ笑むマリリン・モンローであり続けている。多くの男性たちにとって、いまだにセックス・アピールを体現した女優として存在し続けているようにも見える。
  マリリン・モンローにはほとんど関心がなかった。たぶん映画は一本も見ていない。地下鉄の送風口でスカートが捲り上がるシーンは知っていたが、だからといってセックス・アピールを感じることもなかった。マリリン・モンローの本名がノーマ・ジーンであり、この二つの名前が重ね合わされて、あるいは別人格のように離反して語られるとき、どこか悲劇的な様相を帯びるのを感じていたが、あくまで傍目の話であった。
  『偽りのマリリン・モンロー』は松本侑子さんの三作目の小説である。デビュー作の『巨食症の明けない夜明け』も、それに続く『植物性恋愛』も衝撃的だった。それにもかかわらず、この三作目はあまり印象に残っていない。マリリンに対する関心が薄かったこともあるだろうが、松本さんのマリリンへの思い入れがよく理解できなったからかもしれない。
  アメリカでオバマが「change」を掲げて大統領に当選したのも、日本で民主党が政権交代を果たしたのもついこの間のことである。ところが、あの熱狂はいつのまにか色褪せ、淀んだ空気が支配しているようにも見える。未来に期待が持てなければ、古き良き時代に戻りたいと思うのが人情というものだろう。アメリカでいえば第二次世界大戦後、圧倒的な力で世界に君臨していた時代であり、日本では敗戦後の復興から高度経済成長期へと向かう時代が人々の脳裏に浮かぶ。それはちょうどマリリン・モンローが活躍していた時代と重なる。
  今回『偽りのマリリン・モンロー』を読み返した。同時に、松本さんが執筆に際して参考文献として挙げていた本のうち、亀井俊介さんの『マリリン・モンロー』とグロリア・スタイネムの『マリリン』も合わせて読んでみた。亀井さんの本はマリリン・モンローの全体像と、その生きた時代や日本への影響を知る上で非常に役立った。亀井さんはマリリンの熱狂的ファンを自認しているが、個人的な思い入れに走ることなく、公平な視点と抑制された筆致に好感が持てた。ちなみに文庫版『偽りのマリリン・モンロー』の解説も亀井さんが書いている。



  残念ながらスタイネムのことは知らないが、フェミニズム運動に関わるジャーナリストとのことだ。松本さんは文庫版の「あとがき」で「モンローをフェミニズムから見つめた小説を(中略)書こうと思った」と書いている。松本さんのモチーフがスタイネムの本を読むことで明確に知ることができた。この本にはまた、死の直前に撮られたマリリンの写真が多数収められている。およそマリリンの写真をゆっくりと眺めたことなどなかったが、素顔の―商業用に撮られたのではない―写真には思わず見入ってしまう。本書の帯に「この本を読むとマリリンがもっと好きになる」とあるが、見事にツボにはまった感じだ。



  ノーマ・ジーンはマリリン・モンローとして成功を収めた。しかしそれは肉感的な「セックス・シンボル」としてであった。ノーマはマリリンを演じ続けたが、一方でノーマは本当の自分自身を知ってほしいと願っていた。孤児院育ちで学歴もないマリリンを、世間はアタマの空っぽな肉体だけの女優として扱ったが、本当のノーマは自由で自立した考えを持ち、勉強好きで知的な女性だったという。世間が貼ったレッテルは容易に剥がすことができない。余談だが、松本さんが『恋の蛍』で描いた山崎富栄さんのことを思い浮かべてしまう。
  ハリウッドはマリリンを「セックス・シンボル」として売り出し、ノーマはマリリンとしていわばアメリカン・ドリームを結実させた。しかし、彼女にとってセックスあくまで自然なものだった。彼女にとってセックスとは自然の女らしさのことであり、男たちが期待するセックス・アピールの女らしさとは異なっていたのだろう。作られた偽りのセックス・アピールを演じることに、彼女は疲れ果てていた。それが彼女を睡眠薬の依存症や鬱状態へと向かわせ、最後には死へとつながったのかもしれない。
  松本さんの『偽りのマリリン・モンロー』ではマリリンのそっくりさんであるジェーンという女性を登場させ、女らしさに呪縛された女性のさまを描いている。女性として呪縛される苛立ちは、語り手であるカメラマンの女性も巻き込み、見られる側の女性のみならず、見る側の女性をも照射しているようだ。「偽り」なのはそっくりさんのジェーンのことだけでなく、女らしさの「偽り」をも意味しているように思う。いまならばフェミニズムの洗礼を受けた松本さんならではの小説とわかるが、当時(単行本の出版は1990年)はその意図を読み取るだけの器量がなかった。
  男女同権といった制度的な変革ではなく、文化的な基盤をも問い直すフェミニズム運動が本格化するのはマリリンの死後である。マリリンはフェミニズムを知らなかっただろうが、自立した考えを持ち、性的な搾取に対して、彼女なりに毅然として立ち向かっていたように見える。しかし一方で、マリリンは「結婚できない女」や「子どもを産めない女」を一人前の女として認めない、時代の制約が生み出した神話から抜け出せないでいた。いまわれわれはその神話が不当なものであると指摘することができる。時代はそこまで進歩したのである。
  過去を振り返ることは必要である。そこに反省の材料があるからだ。しかし、過去に戻ろうとすることは不遜である。過去の人たちは未来を見据えて歴史を作ってきたにちがいないからだ。ノーマ・ジーンもマリリン・モンローを演じることで、素手で時代と闘い、歴史を作ってきた。そのことを思うとき、彼女の存在が限りなくいとおしいものに感じられてくる。たんなる懐古趣味を超えてマリリン・モンローを思うことが、彼女の魂に報いることにもなるにちがいない。

  

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