「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

キミといっしょに普通に暮らせる社会をめざして―『キミがいるから私は』

2022年12月03日 | Life
☆『キミがいるから私は』(近藤姫花・著、幻冬舎、2022年)☆

  近藤姫花さんは生まれたとき「二十歳までは生きられないかもしれない」と父親に告げられたという。わたしも同じ言葉を両親に告げられた。ちがうのは、わたしが十歳くらいのときで、手術(フォンタン手術やそれに近い手術だったのかはわからないが)を受けるつもりで3ヶ月以上も入院していた東京の大学病院を、手術をキャンセルして退院したときのことだった。
  両親は、同じ病棟に入院していた、先天性の心疾患を持った同じ年齢くらいの子どもが手術を受けても亡くなるのを見たらしい。さらに当時の若い担当医が「いまはまだ手術を受けない方が良い」と告げたことで、両親は苦渋の選択をした。教授などの“偉い”先生方は手術を勧めていたが、その若い担当医は当時の手術の成功率の低さを鑑みて、未来に賭けることを提案してくれたのではないかと思う(もう半世紀以上も前のことなので、医療技術や手術の成功率も格段にちがうはずであり、置かれた状況も人それぞれなので、単純に比較できないことは言い添えておきます!)
  姫花さんは「単心房単心室」(本来は2心房2心室)で生まれ、心臓と直接は関係ないが脾臓のない「無脾症候群」も合わせ持っている。わたしの疾患名は「ファロー四徴症」なのでこれもちがう。姫花さんは結果的に5回も手術を受けているようだが、わたしは一度も心臓にメスを入れることなく、この年齢まで来てしまった。しかし、年齢も性別も疾患も手術歴もちがうが、同じ先天性心疾患を持つ身として、共有する想いがいくつもあった。近年、ある事柄に関して共通する部分や傾向を取り上げて「○○あるある」と言ったりするが、「先天性心疾患あるある」とも言えそうだ。
  しかし、この「あるある」は当然のことながら、先天性心疾患患者でないとなかなか理解されない。姫花さんは本書の冒頭の詩編で書いている:「「普通の人に見える」とよく言われる。大きな病気を持っているようには見えない、と」 まったくそのとおりなのだ。心疾患に限らないかもしれないが、外からは見えない臓器に疾患や障害を抱えている患者(内部障害者)にとって、このことは尽きぬ悩みの種になっている。
  この詩編の最後で姫花さんはこうも書いている:「私の鮮やかな世界には 普通ではないから出逢えた幸せが、たくさんあるのだ」 これもまた事実である。先天性心疾患でなかったら、いまのわたしはなかったにちがいない。悩みも多いが、多くの幸も与えられたと断言できる。わたしは基本的に「無宗教」だが、このことをギフト(gift:神からの授かりもの)だと思っている。
  いまでこそ「多くの幸を与えられた」などと書いているが、ここまで来るのにどれだけの悩みや逡巡を経てきたことだろうか。ところが、姫花さんはわずか二十歳で「普通ではないから出逢えた幸せがたくさんある」と書いている。すごい!と正直に思う。
  この本は、姫花さんの0歳から20歳までの先天性心疾患とともに生きてきた歩みが綴られている。右のページの上にその時の年齢が記してあり、目次代わりにもなっておもしろい。この期間はちょうど学齢期に当たるので、保育園から大学まで学び舎での経験が多く語られている。ここで「普通になりたい自分」と「普通になれない自分」に引き裂かれ葛藤を経験する。
  姫花さんも、わたしもそうだったが、体育実技の授業を見学にしてもらうこと一つ取っても、本人にとっては非常にセンシティブな問題になる。普通の子どもたちから見れば、心疾患が外から見えないゆえに、ズルをしているように見られてしまう。自分がズルをしたいわけではないのに、こころが傷つけられ、身体に加えて二重にキズを負ってしまう。高校や大学などへの進学に際しても、学力(いわゆる偏差値)以上に身体のことを考慮して学校を選択せざるを得ない。
  こういった経験が積み重なることで、学校や社会との間に軋轢が生じ、孤立してしまうことになりかねない。しかし、姫花さんの場合、理解あるご両親に恵まれ、また相談できる医師や看護師、数は多くなくとも話し合える友だちも身近にいたことが幸いだった。先天性心疾患であることを逆手に取ってというよりは、それをテコにして「障害」や「普通であること」などについて考えを深めていく。
  そして、「キミのことを発信して、ハンデのある子と社会の架け橋になりたい」と考え(「キミ」とはもちろん「先天性心疾患」のこと)、ブログ「HEART HANDI – LIFE」をはじめ、YouTubeやInstagramで発信を続けている。この本はその最初の集大成と言えるだろう。この本によれば、姫花さんは福祉系の大学に進学したが、現在は休学して新たな道を模索しているようだ(休学に関して一言だけ付け加えれば、体調不良は突然やってくるので、そのことに関する周囲の人たちの無理解はある程度やむを得ないとはいえ、それで姫花さんやわたしたちが被るストレスについてもう少し思い至ってほしいものである)。
  このような活動はとても重要だと思っている。わたしたち先天性心疾患患者は(たぶんほとんどの内部障害者も)身体の内部に大きな疾患を抱えているのに普通に見えることが多いため、逆説的に普通ではないとも言えるだろう。だからこそ、普通ではないことを理解してもらうために積極的に自らの経験や想いを発信していかなければならないと思う。言い換えれば、姫花さんも書いているように世間は普通にこだわりすぎている。そのこだわりをなくすためにも必要な活動で、結果的に多様性を認め合う住みやすい社会(本当の意味で普通の社会)を築いていく一歩にもなるにちがいない。
  最後のページも詩編が載っていて、姫花さんは以下のように記している:「キミがいるから 私は普通ではない。(中略)キミと生きていくことは変わらないし、私の代わりはいないから」

  


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