「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

聴覚の愉悦―《『赤毛のアン』愛の物語コンサート》

2016年01月11日 | Yuko Matsumoto, Ms.
☆《『赤毛のアン』愛の物語コンサート》(朝日カルチャーセンター横浜教室)☆

  昨年来、体調の芳しくない状態が続いている。生活(ありていにいってしまえば経済状態)もけっこう厳しい状況にある。3年前の暮れにようやく遠距離介護も終わり、さあこれからと思っていたのに、昨年は思いもよらないことばかり起こってしまった。人生の最後に、小さな花の一つも咲かせてみたいと思っていたのに、息の詰まったような、鬱々とした日々を送っている。そんな気分を少しでも和らげたいと思い、昨年の暮れに申し込んだのがこのコンサート。
  三野友子さんが奏でる竪琴ライアーの調べにのせて、松本侑子さんが『赤毛のアン』の物語を情感豊かに朗読する。一昨年にも『赤毛のアン』コンサートを聴きにいったのだが、たしかそのときの朗読は『赤毛のアン』だけだった。今回は続編の『アンの青春』と『アンの愛情』も加わり、むしろ続編のほうに重きが置かれていた。『赤毛のアン』コンサートだから、『赤毛のアン』をまったく知らない人は少ないと思うが、続編まで読んでいない人はいるかもしれない。いずれにしても、続編まで含めたあらすじを朗読とともにうまく説明されていて、読んだことのない人でも楽しめる工夫がなされていた。この台本は松本侑子さんのオリジナルだと思うが、『赤毛のアン』の全文訳や関連する著書も多い松本侑子さんならではのことだろう。
  三野友子さんが演奏された曲は全17曲とのこと。音楽にうといこともあって、曲名とメロディが一致したのは、「アメージング・グレース」とあと2曲ぐらいしかなかった。それでも、どこかで聞いたことのあるメロディはいくつもあった。演奏された曲は英国民謡やクラッシックの名曲とのことで、そもそも懐かしさを覚える曲調ばかりで、耳に心地よく、安らぎを与えてくれた。ライアーと朗読の背景には、これまでの「松本侑子さんと旅する『赤毛のアン』ツアー」のスライドが流されていた。なかには自分が写っているものもあり、ちょっと気恥ずかしくなったりしながら、もう7年も前になるツアーのことを懐かしく思い出した。
  何年も前になるが、中村雄二郎さんの『共通感覚論』を読んだ。中村さんによると、いまでこそ名実ともに(?)視覚が優位な社会だが、ヨーロッパ中世では視覚よりも聴覚が優位とされていた。それはキリスト教がことばに権威を与え、信仰とは聴くことであるとしていたからだ。一方で視覚は官能の欲望に結びつくと考えられていた。いまの視覚優位社会を見ていると(これも視覚優位な表現だが)、たしかに視覚によって欲望が刺激され、また「百聞は一見にしかず」とばかりに視覚を文字どおり“重視”しすぎているように思われてくる。ことばに権威を与えることの良し悪しはともかくとして、教会のなかで聖書のことばやオルガンの音色に耳を傾けるようなひと時が、いまの社会では癒しを与えてくれるように思う。いまの時代、視覚が理性を代弁するものならば、聴覚は感性へとつながる回路といえるかもしれない
  照明の落とした会場で、ライアーと朗読に耳を傾けていると、たしかにこころが安らいでくる。90分はあっという間だった。会場を一歩出れば、そこには『赤毛のアン』の世界とはかけ離れた(『赤毛のアン』に込められた想いは、一人ひとりが胸にしまいながらも)現実が広がっている。だからこそ、いっとき目からの悦びを忘れ、耳からの愉しみ浸ってみるのもわるくない。このコンサートで自分の現実が変わったわけではない。けれども、変わらないことへのいらだちは、少し軽くなったような気がする。申し込みはしたものの、会場までけっこう遠いこともあって、直前まで躊躇する気持ちがあったのだが、いまは行ってよかったと思っている。

  

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