☆『理系女子的生き方のススメ』(美馬のゆり・著、岩波ジュニア新書)☆
「理系女子的」と書いて「リケジョ的」と読む。「理系女子的生き方のススメ」といっても、たんなる女性科学(技術)者のすすめではない。だから「リケジョ」であり、男女の性別に無関係だから「リケジョ的」というわけだ。つまり、リケジョ的な生き方とは、性別に関係なく「自分のやりたいことを見つけて、まわりを巻き込みながら、楽しく生きる生き方」のことと、著者の美馬のゆりさんは定義づける。しかしここで、ちょっと待てよと思う。「自分のやりたいことを見つけて、まわりを巻き込みながら、楽しく生きる生き方」は理系には限らなくて、文系にだってできるのではないか。それに、性別に無関係というのならば、わざわざ「女子」とつける必要なんてないだろうに。と思う人は少なくないかもしれない。とくに男性には。しかし、実はここに本質が隠されている。
本書は当初「女性科学者という生き方」というタイトルで企画されたそうだが、「女性科学者」には勉強好きな優等生で、仕事や研究はもちろん家事や育児もこなす、非の打ちどころのない女性というイメージがつきまとっているため、美馬さんは違和感をもったという。そもそも家事や育児はなぜ女性がするものと思われているのか。これって「何か変?」ではないだろうか。現実には一昔(?)前とは異なり、家事や育児をこなす男性もめずらしくなくなりつつあるが、こころの根っこの方では女性がするものという思いがいまだにあるのではないだろうか。
目を社会に向けてみると、トイレの表示などで女性は暖色系、男性は寒色系なのはなぜなのか。おもちゃといえば、なぜ男の子は乗り物で、女の子は人形なのか。アニメやゲームの世界でも、男は王子様や戦士的なキャラクターが、女はお姫様的なキャラクターがいまだに多数派だというが、これはなぜなのか。もう少しシリアスな例を挙げれば、昇進や昇給ではいまだに「ガラスの天井」が存在する事実があり、これはかなり知られてきているように思う。これって「何か変?」ではないか、と著者はいう。
いまでは理系に進学する女子も少なくない。しかし思うに、女子が理系に進むのならば、数学や物理やロボット工学ではなく、女性的なイメージの強い薬学や看護などにと思う気持ちが、親はもちろんのこと本人にもあるのではないだろうか。(逆から見れば、ふつう男子がたとえば国文科に進むのはかなり勇気が必要だろうし、たいていの親はどんな顔をするだろうか) 著者は中高一貫の女子校にいながら数学に、さらにコンピュータに興味を持ち、コンピュータ・サイエンスを学ぶため当時女子が1%しかいなかった大学(電気通信大学)の計算機科学科へと進学した。
担任の言葉を振り切っての進学だったようだが、著者はその後も数々の「何か変?」を乗り越えて、「自分のやりたいことを見つけて、まわりを巻き込みながら、楽しく生きる生き方」を実践してきた。女子なのに、数学や科学や技術が好きだったことが出発点だった。本当は性別に関係なく、好きなことを追及してもいいはずなのだ。(蛇足めいているが、文系に行きたかったのに工学系に進んで悩んでいる男子学生も、少なからず見てきた) 著者の事例からもわかるように「何か変?」の中核にあるのは、いうまでもなくジェンダー・バイアスである。
この「何か変?」すなわちジェンダー・バイアスに気づくのは、オトコ社会の中心にいる男性には(たぶんオトコ社会に順応している女性にも)なかなかむずかしい。オトコ社会の周縁にいる女性だからこそ気づきやすいという面があるのだと思う。しかし本当のところは、オトコ社会は男性にとっても住みやすいわけではない。住みやすい社会を作るためには、男性もまた「女子」的な視点を持つ必要があるということだ。だから「リケジョ的生き方のススメ」なのである。いうまでもないだろうが、「文系女子」では意味がない。「文系女子」ではジェンダー・バイアスに沿っていることになり、問題意識を先鋭にするためにも、ここは「リケジョ的」でなくてはいけない。(誤解されないように付け加えておくが、「文系女子」はダメであるとか、「文系女子」はジェンダー・バイアスに気づかないといっているのではない)
本書のところどころや、とくに後半では、美馬のゆりさん自身の生きてきた軌跡について書かれている。これを読んでいると、美馬さんはひじょうにパワフルで、このパワフルさを見習うのは正直なところなかなかたいへんだという思いがしてくる。これを読んだ高校生から「そんなのムリだよ」という声が聞こえてきそうな気もする。人生にロールモデルは必要かもしれないが、個々の人生は別物である。そもそも著者自身も自分の人生をまねてほしいなどとは思ってはいないはずだ。まずはジェンダー・バイアスなどの「何か変?」に気づいて、「自分のやりたいことを見つけて、まわりを巻き込みながら、楽しく生きる生き方」をするために、著者が説いている実践の第一歩を踏み出すことができれば、あるいは親や教師が子どもや学生にそのきっかけを与えることができれば、本書に込められたメッセージを十分に受け止めたことになるように思う。
「理系女子的」と書いて「リケジョ的」と読む。「理系女子的生き方のススメ」といっても、たんなる女性科学(技術)者のすすめではない。だから「リケジョ」であり、男女の性別に無関係だから「リケジョ的」というわけだ。つまり、リケジョ的な生き方とは、性別に関係なく「自分のやりたいことを見つけて、まわりを巻き込みながら、楽しく生きる生き方」のことと、著者の美馬のゆりさんは定義づける。しかしここで、ちょっと待てよと思う。「自分のやりたいことを見つけて、まわりを巻き込みながら、楽しく生きる生き方」は理系には限らなくて、文系にだってできるのではないか。それに、性別に無関係というのならば、わざわざ「女子」とつける必要なんてないだろうに。と思う人は少なくないかもしれない。とくに男性には。しかし、実はここに本質が隠されている。
本書は当初「女性科学者という生き方」というタイトルで企画されたそうだが、「女性科学者」には勉強好きな優等生で、仕事や研究はもちろん家事や育児もこなす、非の打ちどころのない女性というイメージがつきまとっているため、美馬さんは違和感をもったという。そもそも家事や育児はなぜ女性がするものと思われているのか。これって「何か変?」ではないだろうか。現実には一昔(?)前とは異なり、家事や育児をこなす男性もめずらしくなくなりつつあるが、こころの根っこの方では女性がするものという思いがいまだにあるのではないだろうか。
目を社会に向けてみると、トイレの表示などで女性は暖色系、男性は寒色系なのはなぜなのか。おもちゃといえば、なぜ男の子は乗り物で、女の子は人形なのか。アニメやゲームの世界でも、男は王子様や戦士的なキャラクターが、女はお姫様的なキャラクターがいまだに多数派だというが、これはなぜなのか。もう少しシリアスな例を挙げれば、昇進や昇給ではいまだに「ガラスの天井」が存在する事実があり、これはかなり知られてきているように思う。これって「何か変?」ではないか、と著者はいう。
いまでは理系に進学する女子も少なくない。しかし思うに、女子が理系に進むのならば、数学や物理やロボット工学ではなく、女性的なイメージの強い薬学や看護などにと思う気持ちが、親はもちろんのこと本人にもあるのではないだろうか。(逆から見れば、ふつう男子がたとえば国文科に進むのはかなり勇気が必要だろうし、たいていの親はどんな顔をするだろうか) 著者は中高一貫の女子校にいながら数学に、さらにコンピュータに興味を持ち、コンピュータ・サイエンスを学ぶため当時女子が1%しかいなかった大学(電気通信大学)の計算機科学科へと進学した。
担任の言葉を振り切っての進学だったようだが、著者はその後も数々の「何か変?」を乗り越えて、「自分のやりたいことを見つけて、まわりを巻き込みながら、楽しく生きる生き方」を実践してきた。女子なのに、数学や科学や技術が好きだったことが出発点だった。本当は性別に関係なく、好きなことを追及してもいいはずなのだ。(蛇足めいているが、文系に行きたかったのに工学系に進んで悩んでいる男子学生も、少なからず見てきた) 著者の事例からもわかるように「何か変?」の中核にあるのは、いうまでもなくジェンダー・バイアスである。
この「何か変?」すなわちジェンダー・バイアスに気づくのは、オトコ社会の中心にいる男性には(たぶんオトコ社会に順応している女性にも)なかなかむずかしい。オトコ社会の周縁にいる女性だからこそ気づきやすいという面があるのだと思う。しかし本当のところは、オトコ社会は男性にとっても住みやすいわけではない。住みやすい社会を作るためには、男性もまた「女子」的な視点を持つ必要があるということだ。だから「リケジョ的生き方のススメ」なのである。いうまでもないだろうが、「文系女子」では意味がない。「文系女子」ではジェンダー・バイアスに沿っていることになり、問題意識を先鋭にするためにも、ここは「リケジョ的」でなくてはいけない。(誤解されないように付け加えておくが、「文系女子」はダメであるとか、「文系女子」はジェンダー・バイアスに気づかないといっているのではない)
本書のところどころや、とくに後半では、美馬のゆりさん自身の生きてきた軌跡について書かれている。これを読んでいると、美馬さんはひじょうにパワフルで、このパワフルさを見習うのは正直なところなかなかたいへんだという思いがしてくる。これを読んだ高校生から「そんなのムリだよ」という声が聞こえてきそうな気もする。人生にロールモデルは必要かもしれないが、個々の人生は別物である。そもそも著者自身も自分の人生をまねてほしいなどとは思ってはいないはずだ。まずはジェンダー・バイアスなどの「何か変?」に気づいて、「自分のやりたいことを見つけて、まわりを巻き込みながら、楽しく生きる生き方」をするために、著者が説いている実践の第一歩を踏み出すことができれば、あるいは親や教師が子どもや学生にそのきっかけを与えることができれば、本書に込められたメッセージを十分に受け止めたことになるように思う。
拙いブログにコメントを頂き恐縮いたしております。いまの時代、変な刺激が多いわりには(あるいは多いからこそ?)、考えが平準化していて、何が変なのか気付きにくいように思います。だからこそ、「何か変?」に気付くきっかけづくりと、声をあげる勇気が必要に思います。その意味でも、ご著書はたいへん参考になりました。僭越ながら、いっそうのご活躍を祈念いたしております。