『フェルメール』(小林頼子・著、角川文庫)、『フェルメールの世界』(小林頼子・著、NHKブックス)、『フェルメール全点踏破の旅』(朽木ゆり子・著、集英社新書ヴィジュアル版)≪in フェルメール展―光の天才画家とデルフトの巨匠たち≫
運よく時間ができて、先日東京都美術館に『フェルメール展―光の天才画家とデルフトの巨匠たち』を見に行ってきた。フェルメールは「牛乳を注ぐ女」以来2度目だ。平日でしかも開場直後だったこともあって、人波にじゃまされることなくかなりゆっくりと鑑賞することができた。2時間ほどかけて会場を回ったが、帰り際には入場者の行列ができていて会場整理の係員が入場30分待ちとアナウンスしていた。フェルメール人気はよく耳にしていたが、その現実を目の当たりにした思いだった。自分のことを棚上げしていえば、フェルメールがなぜ日本人にこれほどまでに人気があるのか不思議な気がする。やはり「不思議なことだが、たとえば江戸時代の浮世絵の女性たちより、フェルメールの描く女性の方が、現代のわれわれ日本人には近しく見えたりする」(『フェルメール』)からだろうか。たしかに「手紙を書き、音楽を演奏し、家事にいそしむ彼女たちには、家庭の中に確固たる場を持つ近代人の香りが漂う」(同上)のだ。
フェルメールの魅力は、いまのわれわれの日常生活にも通じる風俗が描かれていることと、もう一つは写実的な図法や色彩を用い、とりわけ光と陰が織りなす繊細な空間表現にあるように思う。また一方で人物の心理的描写を推測することも楽しみの一つだ。今回出展されていた「ワイングラスを持つ娘」(上記の本では「二人の紳士と女」となっている)も表情の陰影や視線から心の動きが読み取れそうな一枚だ。誘いをかけている男性は下心を女性に悟られているように見える。だからといって女性が男性の誘惑をいやがっているようにも見えない。こんな男女のかけひきはいまでも毎晩どこかで繰り広げられているにちがいない。女性の鮮やかな赤いドレスとは対照的に、暗い青色のテーブルクロスに肘をついている憂鬱そうな男性も気になるところだ。「リュートを調弦する女」は色彩的な派手さはないもののやはり明暗の対比が印象に残る。同時に女性の視線とその先に見る者の目が引きつけられる。楽器は恋愛を暗示しているそうだが、彼女は一緒に楽器を演奏する男性を待っているのかもしれないし、壁にかけられている地図は恋人が旅に出ていることを意味し、遠く離れた彼のことを考えているのかもしれない。(『フェルメール全点踏破の旅』) 似た思いを経験した人は少なくないだろう。17世紀のオランダも21世紀の日本も恋心に変わりはないようだ。この2点を見るだけでもフェルメールに親近感をいだく日本人の心性がわかるというものだ。
表題の3点はフェルメールを知るためにというよりは「フェルメール展」を見るために買ったものだ。だから虫食い的な読み方しかしていない。一枚の絵画から何を読み取るかは見る者の自由だ。想像の翼を広げる余地は無限にあるといってもいいだろう。けれども翼を広げるには少しだけでも練習をしておいたほうがいい。それもしかるべきインストラクターに従って。この3点の本はインストラクターの役割を果たしてくれた。何の予備知識もなしに絵の前に立っていたら、デジカメのデータの中にしか記録が残っていない旅のようなもので、フェルメールを見たというほとんど物理的な事実しか残らなかったかもしれない。
『フェルメールの世界』の第五章「女の居場所―風俗画が語る社会史」はフェミニズムの視点からゆっくりと読みなおせば得るところがあるように思うので、追記しておきたい。
運よく時間ができて、先日東京都美術館に『フェルメール展―光の天才画家とデルフトの巨匠たち』を見に行ってきた。フェルメールは「牛乳を注ぐ女」以来2度目だ。平日でしかも開場直後だったこともあって、人波にじゃまされることなくかなりゆっくりと鑑賞することができた。2時間ほどかけて会場を回ったが、帰り際には入場者の行列ができていて会場整理の係員が入場30分待ちとアナウンスしていた。フェルメール人気はよく耳にしていたが、その現実を目の当たりにした思いだった。自分のことを棚上げしていえば、フェルメールがなぜ日本人にこれほどまでに人気があるのか不思議な気がする。やはり「不思議なことだが、たとえば江戸時代の浮世絵の女性たちより、フェルメールの描く女性の方が、現代のわれわれ日本人には近しく見えたりする」(『フェルメール』)からだろうか。たしかに「手紙を書き、音楽を演奏し、家事にいそしむ彼女たちには、家庭の中に確固たる場を持つ近代人の香りが漂う」(同上)のだ。
フェルメールの魅力は、いまのわれわれの日常生活にも通じる風俗が描かれていることと、もう一つは写実的な図法や色彩を用い、とりわけ光と陰が織りなす繊細な空間表現にあるように思う。また一方で人物の心理的描写を推測することも楽しみの一つだ。今回出展されていた「ワイングラスを持つ娘」(上記の本では「二人の紳士と女」となっている)も表情の陰影や視線から心の動きが読み取れそうな一枚だ。誘いをかけている男性は下心を女性に悟られているように見える。だからといって女性が男性の誘惑をいやがっているようにも見えない。こんな男女のかけひきはいまでも毎晩どこかで繰り広げられているにちがいない。女性の鮮やかな赤いドレスとは対照的に、暗い青色のテーブルクロスに肘をついている憂鬱そうな男性も気になるところだ。「リュートを調弦する女」は色彩的な派手さはないもののやはり明暗の対比が印象に残る。同時に女性の視線とその先に見る者の目が引きつけられる。楽器は恋愛を暗示しているそうだが、彼女は一緒に楽器を演奏する男性を待っているのかもしれないし、壁にかけられている地図は恋人が旅に出ていることを意味し、遠く離れた彼のことを考えているのかもしれない。(『フェルメール全点踏破の旅』) 似た思いを経験した人は少なくないだろう。17世紀のオランダも21世紀の日本も恋心に変わりはないようだ。この2点を見るだけでもフェルメールに親近感をいだく日本人の心性がわかるというものだ。
表題の3点はフェルメールを知るためにというよりは「フェルメール展」を見るために買ったものだ。だから虫食い的な読み方しかしていない。一枚の絵画から何を読み取るかは見る者の自由だ。想像の翼を広げる余地は無限にあるといってもいいだろう。けれども翼を広げるには少しだけでも練習をしておいたほうがいい。それもしかるべきインストラクターに従って。この3点の本はインストラクターの役割を果たしてくれた。何の予備知識もなしに絵の前に立っていたら、デジカメのデータの中にしか記録が残っていない旅のようなもので、フェルメールを見たというほとんど物理的な事実しか残らなかったかもしれない。
『フェルメールの世界』の第五章「女の居場所―風俗画が語る社会史」はフェミニズムの視点からゆっくりと読みなおせば得るところがあるように思うので、追記しておきたい。