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エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて28年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

世界大会日記  7.22

2010-10-13 | 2010年世界大会
 全日遠足が2日続いたが、この日は世界大会会場へ。
 9:00~ 弁論大会。30才までの青年限定である。3つのテーマから一つを選んで話す。入賞者は閉会式で表彰され、本が贈られる。参加者は6人、日本からもOAさんが参加した。急に勧められて充分な準備をする時間がなかったということで、残念ながら入賞はならなかった。審査員には日本からTMさんが参加していた。
 10:45~ 講演:キューバエス会の100年。 1908年設立。その後1979年に現在の Kuba Esperanto-Asocio が再建されている。略称が KEA で韓国と同じである。散逸した古い資料を集めたということで、それらを回覧しながらの話だったが、スペイン語のものが多くてわかりにくく、話も固有名詞がたくさん出てきて聞きにくい。大雑把な内容・先駆者たちや年代ごとの出来事などをまとめてプロジェクタで見せてくれたらわかりやすかったのにと思う。
 12:00~ Georgina Almanza というかなり高齢のキューバ人女性による朗読。1時間ほどで十数編の詩を朗読。この人は開会式でもザメンホフの詩を朗読した。プロだと聞いたが、これだけの詩を完璧に憶えるのは並大抵のことではない。
 13:15~ キューバ音楽 会場で待っていたがいつまで経っても始まらない。雑談しながら待っていた。2時間近く遅れて始まった。Amindaj というキューバの若い人たちのグループである。ビデオ収録したが、前にカメラを持った人が立ちふさがるので一苦労である。ATさんが「カメラを持っていれば何をしてもいいと思う人が多いんだなぁ」「僕の靴を(投げつけるために)貸してやろうか」などという。
 途中で退出、16:00のバスでホテルへ帰る。洗濯したりプールで泳いだり。
 子供大会の世話をしている Almenia という女性と話す。「磊落」という言葉がぴったりの黒人である。この旅行の最後に泊めてもらうことになっている。彼女の家には今はブルガリアのエスペランティストが泊まっていて、彼女の娘さんが世話をしているとか。
 同室のMKさんは地元の人の案内でジャズ喫茶に行っている。帰ってきたのは2時だった。

   写真は、我々のホテルのある街区「ヘミングウェイマリ-ナ」の入り口。
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世界大会日記  7.21 Vinales

2010-10-10 | 2010年世界大会
 長崎でエスペラント日本大会が行われています。私は参加していませんが、実りある大会になるといいですね。

 世界大会はは水曜日、大会会場は閉鎖されて全日遠足だけが行われる。今日の目的地はバスで西へ約300km、ビニャーレスの谷である。よくしゃべるガイドだったが、途中で倒れてしまった。どうやら過労らしい。とりあえず病院へ行く。
 キューバの建物は概観がボロボロになっているものが多い。表面の塗装や仕上げが剥がれてしまっても修復されていないのだ。この病院もかなりひどかった。アメリカの経済封鎖が長く続いて、物不足が深刻なのだ。直接見てきたわけではないが、内部はきれいらしい。なにしろキューバの医療は世界最高水準を誇っている。
 ガイドは間もなく元気になって遠足を続行。
 まず葉巻の製造所。キューバでも最高級の葉巻を作っているとか。小屋の中で葉を自然乾燥させている。手作業で葉巻を作っているところを撮っていたら、出来上がったばかりの葉巻を私にくれた。昨日横取りされた葉巻が戻ってきた!
 ビニャーレスの谷は石灰岩質の岩山が林立している。「悪魔の口」という岩山をバスから眺めて鍾乳洞へ。内部をモーターボートでまわった。
 昼食。ジャガバタが美味しかった。 他に豚肉、トマトとキュウリ、パインとパパイヤ、ココナツのデザート。 飲み物の注文を聞きに来たのでココナツミルクを頼んだ。美味しかったが料金は別で3CUC。ところがビールは昼食料金に含まれているという。そのことで猛烈に抗議している女性がいた。何でビールはタダで、ココナツミルクには3CUCも取るのか? 結局この人の粘り勝ちで1CUCのミネラルウォーターを1本せしめた。それを見ていた別の女性が「私にも1本!」 こういうことはやっぱり女性の方が強い・・・と言ったら怒られるかな?
 観光が重要産業のこの国だから、土産物も観光客の要求に応える。と言うわけでネコの彫り物などはどこにでも売っている。ここでかわいいのを1個買った。
 そしてハバナに帰る。今度は途中なので我々のホテルに寄ってくれた。今日は夜の遠足もあるのだが、まだ時間があるのでここで降りる。軽めの夕食をとって、大会会場へフロントでタクシーを頼んだ。電話してくれたがスペイン語で何か言う「Ne Validas」と聞こえた。「無効である=営業していない」か? 仕方なく歩き出す。大通りに出てボロボロのタクシーをつかまえることが出来た。ずいぶん陽気な運転手である。通りの反対側に大声であいさつしたり、女の子が3人ほどいたら急停車したり。3~5CUCが相場と聞いていたので、1CUC、5CUCと10MNを見せたら1CUCだけを取った。ずいぶん正直な運転手!
 夜の遠足は世界的に有名なキャバレー「Tropicana」である。ビデオ持ち込みに15CUC。華やかな舞台をほぼ収録したが、全体に暗くてあまりきれいには撮れていない。メインステージの他に左右の高いところにも舞台があり、観客席の後ろにも小さなステージがある。別にDVDを15CUCで売っていた。コーラの缶と簡単なおつまみ(チーズ・ハム・クッキー)、別に数人に1本のお酒。ここは野天なので雨が降るとショーは中止になるらしい。深夜12時頃終了。帰りはわがホテル行きのバスがあった。

   写真はタバコの葉の乾燥小屋
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世界大会日記  7.20 Guama

2010-10-06 | 2010年世界大会
 今日は大会には行かないで全日遠足に参加する。ホテルからのバスは早く来たが、遠足のバスは30分ほど遅れて出発。ハバナから南東へ約200km、ず~っと原野のような風景が続く。たまに放牧された牛などが見えたが、人家もほとんど見えない。湿地帯が広がっていて、まだあまり開発されていない地方である。それだけ動植物の宝庫でもある。
 12時少し前に Guama に到着。まず昼食。牛・豚・鳥などから選んで注文する。私は豚肉のステーキ。焼き豚を焼いたような固い肉である。ワニの肉を特別に注文できるというので、珍しいものは何でも試してみなくちゃとさっそく注文したのは周辺2つのテーブルで私だけである。みなさんに一切れずつ試食してもらったが、それでも手を出そうとしない人が何人かいた。軟らかくて、少しクセはあるが食べやすい。鶏肉と白身の魚の中間のような味わいである。
 モーターボートで30分ほど、Tajna という観光の島へ。湿地の上に木道でかつてこのあたりに住んでいた人たちの小屋を結び、周囲には原住民の生活を示す等身大の人形が配置してある。ここで疑問が湧いてきた。これらの人たちはどこへ行ってしまったのだろう? キューバはスペイン系の白人とアフリカから来た黒人が中心で、それ以外には中国系の移民がいるくらいで、先住民はいない。
 コロンブスがやってきたのが1492年、キューバがスペインの植民地とされたのが1511年、当時2~30万人程度の先住民がいたという。それらの人たちは激しい強制労働や虐殺、天然痘などヨーロッパから持ち込まれた疫病などによってわずか数十年で絶滅してしまった。そのため、代わりの労働力としてアフリカから黒人奴隷が「輸入」される。
 私の乗ったモーターボートには男性3人、女性3人が乗っていた。帰る途中で運転手が葉巻を3本取りだして、男性客だけに配った。私が眺めていたら隣の太ったおばさんが見せてくれという。手渡したら「私も欲しいわよ・・・」とか言いながらさっさと自分のポケットにしまってしまった! 私はただボーゼン。
 Guama に戻ってワニ園を見学。若いワニを抱いたり肩に乗せたりして記念撮影。ここはワニの養殖場で、巨大なワニがうじゃうじゃいて、エサを投げると争って食べる様子は少々興ざめである。土産物店には小さなワニの剥製、牙や骨を細工して作った装身具などが売られていた。
 あとは一路ハバナへ。大会会場までいくつかのホテルに寄ったが、我々のホテルは方向が逆なので行かないという。大会会場前には昨日一緒にタクシーに乗った日本人2人がバスを待っていた。しかし、来るバスはすべて夜の番組の劇場へ行くものばかり。仕方なく3人で歩き出した。外国人専用の観光巡回バスのバス停があって、1時間ごとに来るという時刻表もあった。あとで知ったことだが、このバスも時間通りには走っていないらしい。
 ちょうど市民用のバスが来た。運転手に聞いたら我々のホテルの近くを通るというので乗り込む。料金はMNで払うわけだが、MKさんが1CUCを出した。運転手は受け取らず、降ろしてくれたところもバス停ではなかった。親切な運転手さんに感謝!

   写真は Guama へ行く途中でみた巨大な煙突。砂糖工場らしい。
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世界大会日記  番外編 キューバのお金

2010-10-03 | 2010年世界大会
 キューバの貨幣は2種類ある。一つは我々が使っていたCUC(ペソコンベルティブレ=兌換ペソ)、もう一つはCUP(キューバペソ)とかMN(ナショナルマネー)などと呼ばれる。どちらも単位はペソだが1CUC=24MNだから、価値は大きく異なる。そして、多くのものは一方でしか買えない。例えばミネラルウォーターを含むペットボトル飲料はCUCでしか買えない(らしい・・・短い滞在期間の私の経験なので正確ではないかもしれない)。
 普通のバスはMNで乗る。タクシーはCUCである。一般のキューバ人はおもにMNでサラリーをもらい、MNで生活し、外国人はCUCを使うというのが一般的なスタイルである。
 大会会場でサンドイッチを売っていたが、最初は1.5MNで買えたという。それでお金をMNに両替した人もいた。ところが、すぐにこれが1.5CUCになってしまった。一気に24倍である。というわけで、MNでも買えるものが、外国人には同額面のCUCで売られるということもあるらしい。観光に力を入れているキューバが、キューバ人の生活費を安く抑えながら外国人にはお金を使わせる手段である。
 外国人はMNが使えないというわけでもない。自分で見つけたホテルに泊まって、市民の乗るバスで大会会場に通い、1.5MNのサンドイッチを手に入れて生活しているたくましい日本人大会参加者もいた。
 キューバ人にとってもこの制度は問題がある。靴1足の値段が1か月分の給料にもあたるという。少し高級なものはMNでは買えない。インターネットを使うのにもCUCが必要である。タクシーにはもちろん乗れない。観光に来る外国人はCUCを使うし、貨幣価値の感覚もキューバ人とは違う。ホテルのボーイさんに1CUCのチップを渡す。我々には100円程度のことだが、彼らには2~3日分の給料にあたる。
 うまくやれば楽にCUCが手に入るというわけで小銭をせびる乞食も見たし、3MNの紙幣やコインを1CUCで売っている人も見た。3MNの紙幣・コインにはゲバラがデザインされているので記念に買う人が多い。実は私もコインを1個買った。
 大会会場の近くにスーパーマーケットがあった。見に行った人が「生鮮食品が何もない」という。実際、この種の店にはビン詰・缶詰が多く、生鮮食品はせいぜい冷凍の肉やハムがあるくらいであるが、これはCUCの店なのだ。観光客相手の店ではないから、一般の人も何らかの手段でCUCを手に入れているらしい。
 最近の報道では、今はMNで買える品物を増やして生活を向上させる政策がとられている。いずれは統一する計画のようだ。
 大会会場から初めてホテルまでタクシーに乗ったとき、運転手が「10CUC」を要求した。10CUCの札を見せるので、20CUCを出しておつりにそれをもらった。ところがこれは10MNだった。3~5CUCが相場のところをほとんど20CUC払ってしまったのだった。

   写真はCUCの店。写真を撮っていたら店員が「撮るな」というかなり強い調子の身振りをした。
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世界大会日記  7.19 午後の行事

2010-10-01 | 2010年世界大会
 パソコンが壊れてしまって、しばらく更新できませんでしたが、その間にもたくさんの方に訪問していただきました。データは外付けHDDに入れてあるのでいいのですが、いろんな設定やダウンロードで買ったソフトのキーワードがわからなかったりと、しばらくは混乱しそうです。

 世界大会日記は、「月曜教養講座」が終わった後です。

 会場内にいくつか売店がある。サンドイッチは1.5CUC、ハーフサイズは1CUC。
 14:15~ 大会大学で角谷さんの言語権の話を聞くつもりだったが、スペインの女性の環境問題の話だった。変更になったのではなく、大会プログラムにはほとんど誰でも間違うような書き方がしてあるのだ。他にも間違えてきた人がいた。ほとんど寝てしまった。
 15:45~ キューバについての講演その4。キューバの民族服とも言える白いワイシャツのような服(gvajabero)について。その発生や本来のあり方。最近は新しいデザインが現れたり、カラー化されたりしてキューバでも本来のあり方が忘れられようとしているとか。
 17:00~ 中米についての講演その2。エスペラント暦3年という若い女性が講演。メキシコの東北部「バハ・カリフォルニア州」について。
 19:30~ バンケード(宴会)。気がついたときには入場が始まっていて、私が入場したときにはほぼ満席になっていた。一番奥にやっと空席を見つけた。周りには何人かの日本人、北京であったことのある盲人フィリップ、フランスの若い女性2人など。このフランス人は27才と35才、まだ独身らしい。両親がエスペランティストで一緒に来たという。エスペラントはあまり話せない。
 飲み物(フルーツソーダ)、揚げ物、サラミ・チーズ+ピクルス・オリーブ、カボチャのスープ、肉と紫米・ポテト(この頃にはもうおなかが一杯で、しかも肉は美味しくない。ほとんど食べられなかった)、アボガド、フルーツ、コーヒー、ケーキ(でっかくてひどく甘い。10分の1くらい食べた)。味はともかく量は充分。しかしフルーツはもっとあってもよかった。
 紫米というのはキューバではごく普通に食べられているらしい。豆が入っていて見た目は日本の赤飯に似ているが、あまり美味しくはなかった。グアテマラでもキューバでも、ご飯には慣れなかった。
 帰りは同じホテルに泊まっていた日本人3人が一緒にタクシーでホテルへ。悪質な運転手だったが、その話は次回に。

   写真は「月曜教養講座」で話をしている私。KKさんにいただいたもの。
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世界大会日記  7.19 月曜教養講座

2010-09-23 | 2010年世界大会
 早朝に一つだけ連鶴を折った。まさに「泥縄」である。バスを待つ長い間にもう一つくらいは作れたのに・・・。
 遅れて会場に着いたときには当然ながら田平さんの風呂敷の話が始まっていた。なかなか盛り上がっている。彼女の話の間にもう一つ連鶴の基本形までを作った。
 大体45分で風呂敷が終わって、司会の菊島さんが少し話をして、いよいよ私の出番である。まず「バスが来なくて会場に来るのが遅れました」と余裕を持った出だしである。
 「不切正方形一枚折り」について。これがいわば正統派の折り紙であるが、絶対的な規則というわけではない。飛行機を作るのには普通の長方形用紙の方がいい(ここで作ってきた飛行機を飛ばしてみせる。成功!)、このカブトムシは角の先だけ切り込みを入れてあるし、このサイは前半と後半を別々の正方形用紙で作ってある。たくさんのユニットを組み合わせる折り紙もある。映像を見せながらの話だが、何人かがカメラに収めていた。
 次は折り紙の歴史について。ここはインターネットで得た情報を継ぎ合わせたかなりいいかげんな内容である。自分でもこなれていない内容なので、準備していた少しなじみのない単語がまったく出てこない。それどころか易しい単語まで出てこない。落ち着いていたつもりでも実際には少しあがっていたのかもしれない。少々シドロモドロになってしまった。
 最後は「折り鶴」について。この部分はもう慣れている。平和の象徴、基本形とその応用、三角形から作る3種類の鶴、「千羽鶴折り形」などなど。少し時間が残って、質問・聴衆の参加と指導の時間。先ほど折っておいた連鶴の基本形を見せて「誰か挑戦しますか?」と聞いたらさっそく女性が出てきた。ほとんど経験はないというが、短時間で見事に完成させた。
 聴衆は約50人、なかなか盛況に終わった。初めて折り紙に触れる人もいて、「自分で作った」という鳥を見せに来た若い人もいた。
 「折り紙」と聞いて、何か一つ折ってみたい、憶えたいと来る人が多いかもしれない。エスペラントがそれほど出来ない人も来る。私の方ではある程度しっかりした話もしたい。折り方指導をするにはもう少し時間が欲しい。このあたりの兼ね合いをどうするか、今後の課題である。
 「月曜教養講座」は同じ会場で、堀さんの「楽器」、続いて菊島さんの「日本の着物」の話が続き、それぞれに盛り上がっていた。
 UEAか大会関係の会議かで「大会大学と違って、エスペラントがまだあまり出来ない人でも参加できるこのような企画をもっと重視してもよい」という声が出たと聞いた。とりあえず、今回の世界大会での私の一番の大仕事が終わった!
 この日の午後の話は次回に。

   今回の動画は「Nacia Vespero」最後のシーン。実はビデオカメラでほとんど全部撮っていたのだが、バッテリーが切れてしまって、この部分だけデジカメで撮ったものである。
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世界大会日記 番外編 交通の問題

2010-09-21 | 2010年世界大会
 私にとっての世界大会第2日(7月19日)は、まず私の「講演」から始まるのだが、その前に問題が発生した。それでいきなりの「番外編」である。
 「月曜教養講座」は9時に始まる。1時間半のうち、前半は田平さんの「風呂敷」で、私は後半である。ホテルの玄関前で8時前から2~30人がバスを待っていた。このバスは世界大会の地元実行委員会が用意したものである。ところが8時半をかなりすぎてもバスが来ない。私はホテルのフロントでタクシーを呼ぶように頼んだ。
 「タクシーを呼んだので急ぐ人は一緒に行きましょう」と叫んだら「20分前に呼んだがまだ来ないんだ」という返事が帰ってきた。
 タクシーと同時にバスがやってきたのは8:50頃、大会会場に9時10分。
 実は前日にホテルに帰るとき、連絡バスがいつ動いているのか「総合案内」で聞いたのだ。その時は「バスは1時間半おきに出ているが、時間まではわからない」という返事だった。そして、大会会場からホテルへのバスは16:00に出て、ホテルから会場へは18:00だった。これまでのデータから、バスの時刻表が出来た・・・とそのときは思った。
 明日は1日遠足を申し込んであって、その出発が大会会場を8:30である。今日のようなことだと間に合わないではないか。「月曜教養講座」が終わって、もう一度「総合案内」に行った。今度は「地元実行委員会(LKK)」へ行って話してくれという。LKKでは「それは問題だ。必ず解決するから任せてくれ」という返事だった。大会で用意したホテルだから、大会会場とホテル間の移動には大会側に責任があるというわけだ。
 翌朝、バスは8:10に出発した。まずは安心である。
 ところが「1時間半おきにバスが出る」というのは全くのウソだった。バスはどうやら朝(相変わらず時間はまちまちだった)ホテルから大会会場へ、夕方の16:00にホテルへ動いているようだったが、それ以外の時間はまったくアテにならない。動いていなかったのかもしれない。やむなくタクシーを使わねばならなかった。
 バスについてのこぼれ話を一つ。7月18日、「民族の夕べ」に行くためにホテルから18:00にバスが出たが、めずらしく5、6分早く出てしまった。乗っていたのは3人である。ところが途中でUターンして引き返すではないか。ホテルに戻るとさらに7~8人が待っていた。

   写真はホテルのプール。
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世界大会日記  7.18 世界大会第1日

2010-09-18 | 2010年世界大会
 世界大会自体は昨日の午後に始まっているが、私にとっては今日が初日である。朝食は7時からとなっていた。7時半頃に行ったらまだ開いていなくて「8時のバスに間に合わなくなる」と騒ぎになっていた。じきに開いたので大急ぎで食べる。
 ホテルのフロントで両替。100ユーロが113CUC。20×5+5×2+3という組み合わせ。3という額面のお金は初めて見た。だいたい1CUCが100円といった見当である。キューバのお金については別項で書くことにする。
 バスは8:00を少し過ぎて来たが、発車したのは8:30に近かった。8:40、大会会場到着。受付業務が始まるまで少し待たなければならなかった。
 10:00~ 開会式。ビデオ撮影をするつもりだったが、バッテリーがすぐになくなって、予備電池も持っていなかった。
 「すべての講演者は24時間以上前に技術センターでメディアのテストをしなくてはならない」という連絡があったので行ってみた。明日の朝、私も「講演」をしなければならない。画像はCDとUSBメモリの両方で用意したが、USBメモリが使えることがわかった。
 13:00~ キューバについての講演その1。音楽学校の生徒たちによる演奏と歌・踊り。楽器はリュートの一種だということだが、弦がすべて2本一組で、その2本が同じ場合と異なる場合とがあり、3組だったり6組だったりと様々である。「こんなに違う楽器でなぜハーモニーを作れるのか」といった質問も出ていた。実際、かなり難しい楽器で、作る職人も少ないとか。
 キューバでは教育はすべて無料である。私立学校はない。幼い頃から歌と踊りに親しんでいるが、その中でも才能のある子供たちが8才くらいから厳しい試験を突破して音楽学校に入る。遠方から来る子は寮に住んで週末だけ両親の元に帰る。もちろん普通の学校の課題をこなしながら音楽についても学ぶ。
 14:15~ 中米についての講演その1。遠足でも世話になったルーベンがグアテマラの暦法や古代の球技について話した。グアテマラのマヤ族は単一民族というわけではなく、言葉だけでも22ある。「2012年で世界が終わるというのは本当か?」という質問に「世界が終わるわけではない。新しい循環が始まるのだ」という回答。
 マヤは様々な暦法を用いていたが、そのひとつに「長期暦」というのがあり、5000年ほどの周期を持つ。もともとは神話の世界だが、この暦法で記された古文書は年代特定が容易らしい。現在の周期は5周目で紀元前3114年に始まっていて、2012年12月に終末にいたる。この時に世界が滅亡するという説が流れているというわけだ。近代になっていろんな解釈がされて終末論とも結びついた。
 この日はこれだけにしていったんホテルに帰る。実は泊まっているホテルと会場との間の交通が一つの問題だったが、これについても別項で書こうと思う。今晩は「民族の夕べ(開催国の音楽など)」である。ホテルから大会開場へは18:00にバスが出るというので、19:00に開く食堂は利用できない。プール横のスタンドでジュースを飲んで1CUCを払った。後で知ったことだが、宿泊者を示す腕輪を見せればこのホテルでは飲食にお金を払う必要はなかった。MKさんはビールも自由に飲めると喜んでいた。それにしてもあの店員さん、私の腕輪を見ていたはずなのに何も言わずにお金を受け取ったなぁ・・・。
 バスで大会会場へ。大会会場からさらにバスで劇場へ。音楽学校の学生達などによる演奏や歌が中心である。最初の、拍手とステップだけによる集団ダンスはすばらしかった。劇場からホテルまではバスを利用することが出来た。

   今回は久しぶりに動画のアップに挑戦。デジカメで撮ったキューバ音楽。
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世界大会日記  7.17 キューバへ

2010-09-15 | 2010年世界大会
 ここまで書いてきて、自分がグアテマラをホンのうわべだけ見てきたことがわかってきた。歴史やマヤ族の現状などについてもそうだが、例えば、ティカルのあの壮大な遺跡の下には、何層にもわたってもっと古い遺跡が眠っている。アンティグアの地震で崩壊したカテドラルには大きな地下空間があったが、あれは伝染病患者たちが隔離されていたところだという。こうしたことは、帰国してから案内書やネットを通じて知った。より深く知るためにもう一度行ってみたくなった。私はいつの海外旅行でも、旅行のあとにその国について調べている。事前にもう少し勉強しておけばよかった・・・といつも反省である。

 朝4時きっかりに目が覚めた。4:30、MKさんと2人でタクシーで空港へ。他の10人はパナマ経由だが、我々だけメキシコ経由である。空港までは5分。入場するときにパスポートのチェック。メキシカン航空のカウンターでチェックイン。荷物はハバナまでのタグが出た。次は空港税3ドルを払って、出国手続き。無事通過して、手荷物検査も簡単に済んだ。
 6:50離陸、飛行機の中でメキシコ入国カードが配られたので記入。約1時間半ほどのフライトでメキシコシティ到着(現地時間9:30)。
 飛行機から降りていきなりにぎやかな場所に出た。次はどっちに行く? こういうときは英語の出来るMKさんが頼りである。それらしいマークと英語表記を頼りに、イミグレーションをめざして長い距離を歩く。入国検査は簡単に済んでいったんメキシコ国内に入る。書類に「30」と書いてくれたが、メキシコ滞在可能日数らしい。またまた長い距離を歩いて出国検査へ。ここも簡単に済んだが、搭乗ゲートがわからない。適当なところで休む。
 12:15を過ぎて搭乗ゲートがわかって、そちらに行くとJEI(日本エスペラント学会)旅行団や別にメキシコ旅行をしてきたYさん夫婦などに出会った。順調に進んで、現地時間17:00、ハバナ到着。
 荷物が無事に出てきて、入国手続きも無事に済んで、外に出てなんとか出迎えの人たちを見つけた。エスペラントが通じなかったが、名簿と照らし合わせてバスまで案内してくれた。
 キューバの第一印象:飛行機からの眺めは緑がとても多い。町は美しくて清潔。大きい道路の周辺はまるで公園のように整備されている。しかし首都にしては車が少ない。
 19:00ホテル Acuario 着。プールのあるなかなかいいホテルである。やたらに子供が多いと思ったら、 Infana Kongreso(エスペラント子供大会)の会場になっている。
 このホテルは夕食付きである。バイキング方式で、種類も豊富である。食堂内やプール横の舞台ではバンドが生演奏をしている。プールでひと泳ぎして、快適なシャワー。グアテマラ旅行に比べるととてもリッチだ!
 キューバの第1日が終わる。

   写真は上空から見たキューバ
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世界大会日記  7.16 グアテマラ最後の1日

2010-09-12 | 2010年世界大会
 朝、ホテルの前でひと泳ぎ。このあたりは湖から海へ出る狭い水路で、水の流れはほとんどないが川のようである。野生動物の宝庫で、マナティもいるという。
 船ですぐ近くの先住民の「学校」へ。寄宿制で中学生~高校生くらいの生徒達が学んでいる。学費は必要だが、働いて払うことも出来るということで、食堂などで仕事をしているのも学生だった。巨大なマリンバを3人で演奏してくれた。
 おみやげ店でネコを見つけた。ココナツの皮の加工品である。何人かに聞いてもネコだという。しかし店の人に聞いたらこれがフクロウだというのだ。やっぱりグアテマラにはネコの彫り物はないのだった。
 船で湖の一角の温泉が湧いているところへ。温泉に浸かったり泳いだりしてひとときを楽しんだ。
 ホテルに戻って着替え、さらに河口のリビングストンの町へ。町を少し歩いたが、猛烈に暑い。海辺のレストランで食事。ここの名物料理(海鮮スープ)を食べる。タイに似た魚を焼いたもの丸ごと、小さなカニが1匹、エビがたくさんと細かく切った野菜。これらを煮込んでココナツミルクで生臭さを抑えてある。美味しかったが、もっと材料の味・香りが強くてもよかった。
 レストランでは黒人4人による生演奏。バナナボートなどもあったが、全体にリズムだけで、私には「音楽」に聞こえない。ここで野生のペリカンを見た。
 ホテルの戻って荷物を積み込み、 リオ・ドゥルセに戻る。ここからはひたすらグアテマラシティに戻る旅。思ったよりもスムーズに走ったが、それでも町に着いたのは9:20頃。kanpero というファーストフードの店へ。エビフライ・ポテトフライ・タマネギサラダ。MKさんの注文したピザが「金曜夜のサービス」で2枚も来てしまった。みんなで分け合ったが他にもピザを注文した人がいてとても食べきれなかった。ホテルへ11:00、シャワー、荷物整理、12:30就寝。明日の朝は早い。

   写真は「フクロウ」の彫り物
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世界大会日記  7.15 ティカル遺跡

2010-09-10 | 2010年世界大会
 体調は回復。今日は昼にはいったん戻るというので、大急ぎで洗濯。外に物干し場があった。
 6:50出発、ティカル遺跡前のレストランで朝食。めいめいに注文してから料理してくれるから時間がかかる。もう一つのケーキも切り分けた。アップルパイ。美味しかった。
 ティカル遺跡を見学。おそらくグアテマラの観光旅行をする人のほとんどはここへ来るのではないだろうか。高さ70mのピラミッドなど見事なマヤの建造物が比較的狭い地域に建っている。ティカル周辺にもいくつかのマヤ遺跡があり、少なくとも3日くらいかけてゆっくりまわりたいと思う。実際はここティカルでの3時間程度の見学のみで、一番高い4号神殿を見に行くこともできなかった。
 Philippe は以前にもグアテマラ旅行の案内をしたことがあるが、その時は3週間かけたという。今回はその半分である。しかも彼としては古代のマヤだけでなく現在のマヤの人たちとの交流、その生活、平等・開放を求める運動などと触れあう旅をめざしている。ティカル遺跡での短い時間もそのためであろうと自分を納得させる。
 最初に目に飛び込んでくる美しい1号神殿には登ることが出来なかった。石段はものすごい急勾配である。高さは51mだが、裏側から見るとさらに10mは高い。1号神殿に対峙する3号神殿は高さ56m、これには木造の階段が作ってあって、登ることが出来た。やはりかなりの急勾配である。その横にある2号神殿には巨大なレリーフが浮き彫りされている。
 遺跡内ではセイバーの巨木や野ウサギ、キツネなどの動物や何種類かの鳥も見ることができた。
 ホテルに戻って簡単な昼食。
 私は旅の記念にネコの彫り物などを買う。ところがグアテマラではそれが見あたらない。ペットとしてのネコは見かける。自分たちが作ってきた物をそのまま作って土産用に売っている、観光用の物はとくに作っていないという感じである。日数も残り少なくなってきたので、ピューマだろうか大型の野生ネコの木彫りを買った。
 イサバル湖畔のリオ・ドゥルセ、ここからモーターボートに乗る。港で何種類かのナッツを売りに来た。カシューナッツやマカデミアナッツを試食してみたらとても美味しい。MKさんがアーモンドをたくさん買い込んだ。ところが、このアーモンドだけは古くて油が悪くなっていて美味しくなかった!
 到着したところにホテル。ジャングルの中にロッジ風の宿泊棟が建っている。かなり野性味にあふれた宿である。Fさんが「私がもう少し若かったらこんな宿でも楽しいと思ったかもしれないけど・・・」とこぼしていた。シャワーは水しかでない。ベッドには蚊帳が吊ってあった。

   写真は3号神殿、左側に観光客用の階段が見える。
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世界大会日記 7.14 ジャングルの中の遺跡

2010-09-07 | 2010年世界大会
 旅に出てから1週間が過ぎた。少し疲れが出て食欲がない。
 まずコーヒー園を見学。コーヒーの豆は20種類ほどあるといい、ここでも数種類を栽培している。コーヒー畑に背の高い木が何本も植えてある。これは鳥がコーヒー豆を食べてしまわないように、実の付く木を植えてあるという。収穫した豆は水に沈めて比重で選別し、皮を除いて実を取るために24時間水につける。取りだした豆は乾燥させてから機械で選別、さらに人間の目で選別。こうして出来た豆は1年間は保存が可能である。最後に焙煎してコーヒーのできあがり。
 最後に試飲したコーヒーはそれほどには美味しくなかった。アンティグアで買っておいてよかった。
 かなりの距離を走った。高度がぐんと下がって暑くなってきた。Philippe がどこかで大きなケーキを2つ買ってきた。
 川に出て大きな桟橋に乗ったと思ったらこれが動き出した。フェリーボートである。板状のプラットホームの両側にタライのようなモーターボートが取り付けてある。車から降りたところに激しい雨。熱帯性のスコールらしい。雨はじきに止んで、ここからモーターボートに乗る。1時間ほどで上陸。蚊がすごいというので虫除けスプレーを使おうとした。ところがこれがすぐになくなってしまった。新品だったのに。MKさんがシート式の虫除けを持っていたので助かった。
 蒸し暑いジャングルの中を登っていく。ライオンのようなものすごい咆哮が聞こえる。猛獣がいるのかと思ったら、猿だという。高い木の上に見えた姿ではそれほど大きな猿ではなかった。
 30分ほどで開けた場所に出た。ものすごい蚊の大群である。木の葉や枝を燃やして蚊遣りにしていた。ここはセイバル遺跡である。まだ発掘途上で、それほど大きくない神殿が一つ復元されている。周囲には割りに保存状態のいい石碑が建っている。遺跡の復元には、普通オリジナルと同じ材料を使うものだが、ここの神殿にはセメントが使われているようだった。
 来た道を戻ってまた船に乗る。スイカとケーキの一つを切り分けてくれた。ケーキはナッツがゴッテリで油こくて甘い。疲れた胃袋にはあまり良くなかった。
 フローレスのホテルに着いたのはもう10:00だった。暑いが部屋のクーラーはほとんど効いていない。

   写真はコーヒー園
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世界大会日記 7.13 グアテマラシティからコバンへ

2010-09-04 | 2010年世界大会
 朝は湯が出たのでバスタブに湯を張って入浴できた。外国旅行をしていてバスタブのある浴室は珍しい。たまにあっても排水孔の栓がない。これは一度にたくさんの湯を使わないようにわざと置いてないのである。こういうときはハンカチとかパンツとか何でもいいから排水口に詰めて栓の代わりにする。足で押さえれば充分機能する。
 ついでながらもう一つ「旅の知恵」を。洗濯したときは、よく絞った洗濯物をホテルのバスタオルに挟んでくるみ、上に乗って水分を吸収させる。登山用のTシャツなどはこれだけでほとんど乾いてしまう。
 連夜の雨だったが、9日に洗ったものがやっと乾いてきた。Tシャツなどは備え付けのドライヤーで最後の乾燥作戦である。もう一つついでながら、洗濯物にドライヤーをかけるときは過熱して熱線が切れてしまわないように注意すること。ときに高額の補償を要求されることもあると聞く。
 今日は予定変更もあってほとんど移動日になった。高速道路のような幹線道路を走る。まずグアテマラシティへ。ここで大きなグアテマラの立体地図のある公園を見学。垂直方向は極端に誇張されているが、水平方向の縮尺が5万分の1くらいであろうか。
 道路は大型トラックが多い。途中「ドライブイン」で昼食。17:30、自然公園のようなところの入り口で休憩。公園自体はかなり広いようで、遊歩道もあるようだ。ここにはときどき世界でもっとも美しい鳥、グアテマラの象徴でもあるケツァールが飛んで来るというので期待したのだが、雨が強くなって、蚊ばかりが多い。チョコレートを飲みながら1時間ほど待ったが長い尾羽を見せてもらっただけだった。
 8:00、コバンのホテルに到着。夕食に豚のスペアリブを注文してみた。これは美味しかった。グアテマラでもキューバでも牛や豚の肉は固くて美味しくなかったが、ここだけは違った。

   写真はグアテマラの小売店。鉄格子の外から注文して買う。
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世界大会日記 番外編 マヤ族の苦難

2010-09-01 | 2010年世界大会
 グアテマラの内戦と、その中でマヤ族の人たちが大量に虐殺されたことは、私もある程度知っていた。やはりNASKで会った彼女が話してくれたのだ。
 グアテマラはマヤ族の国である。マヤ族といっても単一民族ではない。言語だけでも公用語であるスペイン語以外に少なくとも21のマヤ系言語が使われている。コロンブスがアメリカを「発見」してスペイン人の侵略が始まってから500年、マヤ族は常に蔑視され抑圧され続けてきた。その状態はグアテマラが1821年に独立した後も基本的には変わらなかった。
 1931年以来続いた独裁政権が倒れ、1945年に自由選挙でアレバロが大統領に当選、「グアテマロの春」と呼ばれる時代が幕を開ける。1952、53年頃にはアメリカ企業の農場や鉄道が国有化される。これに対してアメリカのCIAはホンジュラス領内から反政府軍を侵攻させ、1954年にクーデターを成功させる。その後1960年頃からグアテマラは内戦状態に陥る。
 内戦は1996年12月まで約36年続く。長く続いた悲惨な内戦でもっとも大きな被害を受けたのがとくに山間部に住むマヤ族の人たちだった。政府軍はマヤ族がゲリラに物資を補給するとか、ゲリラをかくまうといった理由で次々に攻撃し、虐殺した。そのやり方はひどく残虐なもので、少なくとも44の村で子供も含めて全員が虐殺されたことがわかっている。政府軍はゲリラの殺害に対して報奨金を出していたので、末端では何の関わりもないマヤの人たちをゲリラだとして殺害した。
 1996年の和平協定では先住民の権利保障がうたわれ、マヤの人たち自身による教育と権利・女性解放などの取り組みも進められている。しかし、現在もなお内戦中の虐殺の事実には明かでない部分も残され、マヤの活動家が殺害される事件も起こっている。虐殺は単に軍部の末端によるものではなく、上層部が計画しその実態もつかんでいたこともわかっているが、その責任追及はされていない。
 この旅行で我々が出会った人たちはそんな状況で闘っている人たちである。

   写真はサン・ファン・ラ・ラグーナの町
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世界大会日記 7/12 チチカステナンゴ

2010-08-30 | 2010年世界大会
 早朝に町を散策してみた。すごい坂道である。登っていくと湖の眺めがいい。あちこちの壁面に絵が描かれていて画廊もある。どうやらここも芸術の町らしい。上り詰めたところに古い教会と学校があった。
 この町からマリアというマヤの女性が運転をすることになった。やはりかなりひどい道である。最近大雨が降ったとかで崩壊ヵ所もあった。峠を越えて湖にお別れである。
 チチカステナンゴという町を見学。サント・トマス教会という古い教会があって、内部は香がたかれ、入り口では煙の出る容器を揺らしている人など、ちょっと変わった雰囲気を持っている。チベットの仏教寺院を思い出した。教会前には市場が広がっていた。さらに町を歩き、土産物店で小型の布製のブックカバーを買った。
 郵便局を見つけて入る。私を含めて数人が絵はがきを書いていた。Philippe があまり時間がないから急ごうというのに、F さんだけが局員に切手を貼れと頑張っている。例のカメラをなくした女性である。彼女は自分の主張を簡単には曲げない。局員が後で貼るというのに、見ているところで貼れというわけだ。結局彼女の粘り勝ちで、我々はその間待たされた。しかし結果的には彼女が正しかった。私が自分宛に出した絵はがきにはシールが貼ってあっただけで、切手は貼ってなかったのだ。
 未舗装道路をかなり走って、小さな町に着いた。ここでも Philippe の知人の家で昼食である。小さな民宿を経営しているということだった。もう食べ慣れた「カレーもどき」がメインだったが、生野菜がたっぷり、ピクルスも美味しかった。
 ここで Philippe がグアテマラ内戦でマヤ族が大量に虐殺されたことを話し始めたが、途中で詰まってしまって話せなくなった。このことについては次回に書くことにする。
 民間「医療センター」を見学。それらしいところはサウナのような「温熱治療室」くらいだったが、庭には薬草が植えてあった。詳しいことはわからなかったが、マヤの伝統的な暦法がマヤの民間医療と深い関係があるようだ。その人の生まれが体質・性格・運命などを決めるとか・・・。
 NASKで会ったマヤの女性の家は代々医者だという。薬草などの知識を受け継いでいるのかと思ったが、暦についても深い知識が必要なのかもしれない。
 ここからがまたひどい悪路。ぬかるみでバックして走り直したり、マリアの運転の腕はなかなかのものである。かなり進んだところで珍しく渋滞していた。
 先まで見に行くと道路が陥没して1mくらいの落差ができている。車が並んで待っているからホンの数時間前の事故に違いない。重機も動いていたが、手作業で石を投げ込むといった工事である。これはとてもダメだと思ったが、Phlippe は30分待てば行けると判断した。少し薄暗くなってきて、やがて落差が50cmくらいになったところで車が動き出した。4WD車ばかりなのでみんな思い切って乱暴に突っ込んで通過していく。数台あとに通学バスがいた。こいつは慎重に進んで、前輪が落ち込んだところで動けなくなった。すぐに重機が牽引にやってきたが、ここでフィリップはダメだと判断、引き返すことになった。我々の車ではひっくり返るかもしれない。
 サンタ・クルスという町でホテルを探したが条件が折り合わず、チチカステナンゴにまで戻る。なかなか豪華ホテルで泊まることになった。バスタブがあったので喜んだが水しか出なかった。

   写真は「観覧車」を手で回す人
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