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エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて28年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

世界大会日記 7/11 アティトラン湖にて

2010-08-28 | 2010年世界大会
 昨日、イタリア人参加者の1人Fさんのカメラがなくなった。道路の崩壊ヵ所で車を降りて歩いたときになくなったらしい。彼女は「カメラは盗まれた、あんな所を通ったのが良くない、時間がかかっても迂回するべきだった」と強く主張していた。自分の不注意だとは言わないところが彼女らしい。カメラ好きな人で、賞を取ったこともあるとか。「アンティグアのホテルの屋根にいた犬の写真がなくなってしまった、もう私の世界大会は終わった」とひどく落ち込んでもいた。
 イタリア人たちの間では、みんなでお金を出しあって新しいカメラを買おうという話も出ていた。Philippe に聞いたら、もう買ってきたという。日本円にして17,000円くらい。最新型のものである。
 10:00、モーターボートに乗り込む。Philippe がカメラをFさんに渡した。使い方を教えてくれと言うから調べてみた。どこのカメラでも同じようなものである。しかし、メモリカードがない。Philippe もそこまでは気が回らなかったらしい。私はMKさんから16GBのカードをいただいたので、未使用の2GBを差し上げることにした。別途 Philippe にもカメラ代の一部をカンパ。
 さて、船が着いたところは11戸のマヤ族農家が暮らしているという村である。今話題の「エコツーリズム」のような感じになった。排泄物や食物の残りなどを肥料化している、建物などにはできるだけ土地で取れる材料を使う(竹を多用していた)、いろんな植物の種を集めて保存している「種銀行」、ミツバチの養殖、などなどあれやこれやと長い説明を聞きながら見学。
 大きな木の下でのピクニックのような昼食。トウモロコシ・ブロッコリー・人参など野菜中心だが、大豆タンパクを肉のように加工したものも。他に何種類かの果物。
 この湖畔で一番大きい町、サンティアゴ・アティトランへ。市場を見学。サツマイモをふかしたものを売っていたのでカメラを向けたら「買え」とか何とか言っている。無視して撮ろうとしたら布でさっと隠してしまった。写真だけ撮っていく観光客が多いのだろうが、こういう反応は初めてである。言葉が通じたら・・・、と思う。
 教会前の広場が遊園地になっていた。観覧車(回転スピードが速いから絶叫マシン?)が手動だった!
 サン・ファン・ラ・ラグーナという町へ。ロッジ風のホテルに入る。草木染めの実演を見学。なかなかいい色が出ている。妻におみやげを買った。
 夜はまた雨である。

   写真は木陰で昼食
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世界大会日記 7/10 アティトラン湖へ

2010-08-25 | 2010年世界大会
 「花と生きものたち」を追加して写真集を一応完成させた。このブログではその中にはない写真を使っていこうと思う。

 夕べは雨になっていた。洗濯物はまったく乾いていない。このあと数日間、日中は良く晴れて暑いほどなのに夜になると雨という日が続く。おかげでホテルに着くと真っ先に洗濯物を部屋で干し、翌朝にはまだ乾いていないままにしまい込むということが続いた。
 これがメインの道路なのだろうか、車は未舗装の山道に入る。素朴な山村風景や、ときに美しい火山が見えるが道路はひどい。泥に車がはまりこんでしまい、我々は車を降りて少し歩いたこともあった。途中の農家でイチゴをひとかご買い込んだ。
 10:10、イシムチ遺跡に到着。16世紀初めまでカクチケル族の首都だったというが、都市というほどの広さはないように思う。一部が草木に覆われたピラミッド、球技場や住居の跡がある。遺跡内には銃を持った警官が数人警備をしていた。こんな所で盗掘でもする人がいるのだろうか?
 球技場というのはそんなに広くはない。小さなプールくらいである。古代の球技は、その勝者が神への生け贄にされたという。敗者ではなく勝者である。よほど名誉なことだったのか、それとも来世が約束されていたのだろうか?
 2時間ほど見学して、ゴディネスの町へ。山道を2~30分歩いて農家に到着。ここで昼食である。新鮮な野菜中心の食事で美味しかった。 Philippe の知人で大家族だが、息子の一人がいくらかエスペラントを学んでいた。
 さらにアティトラン湖を見下ろすことのできる Philippe の別荘へ。大きな舟の形をしていて、その「甲板」が広い開放的な空間になっている。年に2か月しかいないから、普段は地元の人に管理を頼んであるのだろう、地元のパパイアとスイカ、途中で買ってきたイチゴ、それに地元産の蜂蜜がとても美味しかった。 Philippe はフランスでも養蜂をしていたという。
 湖畔の町サンタ・カタリーナ・パロポのホテルへ。途中道路が崩れていて200mくらいを歩いた。荷物は地元の人たちが運んでくれた。
 夕食はパナハッチェル。いくつかのレストランが集まったにぎやかな町である。エビと野菜の串焼き、鶏のスープ、ガーリックパン。わりに美味しかった。店ではマリンバや笛・手作りのチェロなどによる生演奏。料理人も含めてみんな家族だという。
 また雨が降っている。

   写真は昼食をした農家の子供たち。
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世界大会日記 7/9 サン・ファン・コマラパへ

2010-08-23 | 2010年世界大会
 この日記は、アップした写真集を参照しながら読んでいただくと様子がよくわかると思う。
 今日からグアテマラ国内を巡る旅である。この旅行の最少催行人数は6人、最大12人だった。その最大の12人がハイエースくらいのワゴン車に乗り込む。運転手とガイドの filippe、助手のアレクサンダー(旅行中はルーベンやマリアという女性が交代して乗り込んだ)で15人、運転席の横に2人が座って満席である。荷物は屋根に積む。
 10:30頃、チマルテナンゴの町。大きな市場を見学。野菜を中心に肉・魚もあって、食べ物は豊富である。アルバムに載せた3枚の市場の写真はここのものである。
 12:00頃、サン・マルティーノ。町から少し離れた農家のようなところで昼食。ここも女性解放運動の一つの拠点になっているらしい。トウモロコシで作ったチマキのような食べ物(これもアルバムに写真がある)。グアテマラの主食はトウモロコシである。なにせ神が人間を作ったときもいろんな材料を試してみて、最後にトウモロコシで作ったらうまく出来すぎてしまって、眠らせて退化(?)させたという伝説のある国なのだ。もっとも私にはトウモロコシの匂いに最後まで慣れなかった。
 ついでながら、ここのトイレはくみ取り式だった。グアテマラでもキューバでもそうだが、トイレで使った紙は流さない。横にカゴが置いてあるからその中に入れる。
 今日の宿泊はサン・ファン・コマラパの町である。先住民族が住む町で、その多くが絵を描くという町である。素朴な絵は世界的な評価を得ている。グアテマラの近代史を描いた長い長い壁画があった。画廊も見学。
 夜は民族音楽のコンサートに出かけた。様々な笛を使って鳥などの鳴き声をを出したり、深い音色を持つマリンバ、何種類かのマラカスなどを駆使しての演奏。中でもカメの甲羅をそのまま使った打楽器が珍しかった。
 9:00にレストランに移動して夕食。昔のクジラ肉のように固い牛肉のステーキ。グアテマラでもキューバでも鶏以外で軟らかい肉にはめったにお目にかかれない。
 ホテルの浴室で下着を洗い始めたが、洗面台が小さすぎてTシャツなどは洗えない。ホテルの人にランドリーサービスはないかと聞いたが言葉が通じない。洗っているところを見せたら洗濯場を教えてくれて巨大なタライを出してくれた。MKさんは洗濯物を押しつけたら洗面台が落ちて割れてしまったという。

   写真は民族音楽コンサートで使われていた様々な笛
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世界大会日記 7/8 パラモスにて

2010-08-20 | 2010年世界大会
 キューバの写真を以下にアップしました。
http://esper.enat.jp/album/view.php?id=5

 なお、以下にリンクを作りました。
http://esper.enat.jp/blog/article.php?id=4

 グアテマラ・キューバ写真集はもう一つ「花と生きものたち」をテーマに予定しています。
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 夕方から今度はパラモスという町に行った。ガイドの Philippe の友人で、エスペランティストではないがエスペラントの「信者」だという人の家へ。実際、礼拝所のような部屋にザメンホフの肖像を飾ってあった。
 この家から歩いて近くの公民館のような所に行く。女の人たちによる面を被った踊りを見て、町長(?)のあいさつ。女性への差別をなくす取り組みについての話を聞いて、またサルの面を着けた女性たちによる踊り。猿たちが飴を配ってくれたり、我々に「のみ取り」のようなことをしてくれたり。サルは生とイタズラの象徴だとか。最後にこの町を訪れたという証書の授与式。
 元の家に戻って夕食。歓迎のために床に松葉が敷いてある。見た目はカレーライスそっくりだが味はまったく違うスープ。大きな人参・ウリのような野菜・ジャガイモ・肉(鶏と牛?)が入っていた。他にバナナとパパイア。
 ここで Philippe が「Indiĝenaj Dialogoj」の話を始めた。これは1998年に始められたプロジェクトで、世界の先住民族の横の連絡をエスペラントで行おうというもの。国連の「先住民族の10年」(1995-2004)に呼応したもので、UEA(世界エスペラント協会)も積極的に協力した。この計画によって。1999年9月には世界から22人の先住民代表が集まって3週間のエスペラント教育を受けた。これは2005年まで続けられることになっていた。
 Philippe によると、この計画は財政的な事情で続けられなかった。最初にスタートしたときは協力者も現れ、寄付も集まったが、それを継続して確保することができなかったのだ。Philippe 自身はその後からこの計画を知って、中南米を中心に独自に活動を継続した。彼はグアテマラに家を建てて、そこはパスポルタセルボにも登録してある。ただし、実際にグアテマラにいるのは12月と1月だけだという。後で我々はこの家を訪問することになる。だんだんわかってきたことだが、彼はグアテマラ内にたくさんの人脈を築いていて、それがこの旅行に大いに役立てられている。この世界大会で Philippe は「アフリカ・中南米での長何に渡るエスペラント普及」によって出口賞を受賞する。
 Philippe の言うことには、中南米でのエスペラント普及はおもに女性をターゲットにしている。男性は英語ができるようになるとアメリカに行ってしまい、エスペラントへの関心をなくしてしまうというのだ。
 実は、私自身も「Indiĝenaj Dialogoj」についてはいくらか知っていた。2000年にNASK(北アメリカ夏期講習=サンフランシスコでの3週間のエスペラント講座)に参加したとき、グアテマラの女性が参加していて、その彼女がこのプロジェクトでエスペラントを学習した人だったのだ。当時の彼女はまだ学生で、大学で唯一のマヤ族、それも女性とあってずいぶんひどい嫌がらせを受けていたという。NASKの後に来たメールでは「殺してやる」とさえ脅されたという。この女性は現在もエスペラントを続けていて、Philippe が連絡を取ろうとしてくれたが旅行中に会うことはできなかった。
 現在でもマヤ族出身の人が大学まで進むのは困難で、この旅行の助手を務めているアレクサンダーも自分の村から唯一の大学進学者だという。グアテマラの民族構成は、マヤ族が約40%ということになっているが、マヤ族以外の大部分はラディーノと呼ばれ、ヨーロッパ系と先住民の混血やスペイン語を母語とする先住民なので、実質的にはマヤ族が3分の2を占めるという。
 長い1日が終わって、ホテルに帰ったのはもう夜の11時だった。

   写真はいただいた証書
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世界大会日記 7/8 アンティグア

2010-08-17 | 2010年世界大会
 ホテルの朝はコーヒーが飲める。ここのコーヒーも朝食で出るコーヒーも美味しい。朝食のレストランでコーヒーとチョコレートを売っている。チョコレートはカカオの味が良く効いている。というわけで、早くもおみやげを買ってしまった。
 今日はアンティグアの街を歩いて巡る。グアテマラの南部山岳地帯にはほぼ一直線に火山が並んでいて、いずれも富士山のように美しい姿をしている。この街からは3つの火山が見えるが、そのうちの一つは現在も噴煙を上げている。
 時計塔をくぐって中央公園へ。ここには大きなカテドラルがあり、その裏側に地震で壊れた昔の教会が残っている。このあたりは時々大きな地震が起こっており、教会などの廃墟が観光名所になっているほどなのだ。
 すぐ近くにヒスイ(だと思うけど)の加工工場・売店がある。MKさんが1個買っていたが、私にはこういうものの値打ちはわからない。
 昔の大学だという建物、今はもう使われていない共同洗濯場などを見ながらサン・フランシスコ教会。ここの後ろにも崩壊しかけた建物がある。教会の内部はステンドグラスが美しい。ミサが行われていた。昔の個人の住宅を利用しているプチホテルを見学、最後にカサ・サント・ドミンゴ。ここは昔の修道院を利用した豪華ホテルである。広い敷地に花が咲き乱れる中庭。アボガドの大木を初めて見た、というよりアボガドの木が大木になることを初めて知った。
 アンティグアの街の端から端まで歩いていいかげん疲れたところで昼食。この遠足では参加者各自がメニューを見ながら自由に注文できる。私は「ミックスグリル」を注文。大きな肉が4切れ、牛・豚・鶏・マトンらしい。全体に肉が固くて旨みに乏しい。食べきれなかった。
 車で出発。まず郵便局に寄ったが、何と切手を売ってなかった。サン・アントシオ・アグアス・カリエンテスという村へ。典型的なマヤ族の村で、織物で有名である。大きな店があって織物の実演もしていた。2階の一部は民族衣装の博物館のようになっていた。買い物ツアーのようになったが、私は一部に刺繍をあしらったベルトを買ってしまった。
 この村に女性エスペランティストがいるというので訪ねていったが不在だった。
 織物の店の前に教会があって、その前と内部に花を敷き詰めていた。毎週木曜日の行事だという。アンティグアの街では春に大きな祭りがあって、道には花が敷き詰められてキリストのエルサレム入場を再現する行列がその上を練り歩くという。そのミニチュア版だろうか? 最後まで見ている時間がなかったのが残念だった。
 この日の行動はまだまだ終わらない。以下次号としよう。

   写真は宝石店
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世界大会日記 7/7 グアテマラシティ

2010-08-14 | 2010年世界大会
 グアテマラの写真をアップした。今後キューバの写真もアップする予定である。
 http://esper.enat.jp/album/view.php?id=3

 5:00頃に目が覚めてしまった。ホテル周辺を散策。南北に非常に整った街路である。中南米は15世紀末から17世紀にかけてスペインの植民地になった。この時代に建設された計画都市の多くがこのように整った街路を持っているのだろうか。アンティグアは1543年に植民地政府の3番目の首都として建設された。
 近くのレストランで朝食。「トルティーヤ」なるトウモロコシから作る丸くて薄いパン、煮豆、トマトとタマネギのオムレツ、焼いたバナナ。コーヒーが美味しかった。イタリアから2人の盲人を含めて4人が来ている。いずれも中国の世界大会のときの大会前遠足で一緒だった人たちである。2人の盲人はフランスの大会後遠足でも一緒だった。このあと、さらに4人のイタリア人(うち1人は盲人)、日本人のHH夫妻が合流して合計12人になる。このうち10人が中国で一緒に旅行したメンバーである。
 案内人はこの旅行を計画したフランス人の Philippe、他に助手としてグアテマラのアレクサンダーとルーベンが交代して参加した。
 まずグアテマラシティへ。最初に行ったのは「イスチェル民族衣装博物館」である。残念ながら館内は撮影禁止だった。織物が中心の展示だが、スペイン入植前と後での織機の変化が興味深かった。
 昼食はビュッフェ形式。見た目だけではまったく味がわからないものである。カボチャのような野菜に盛ったグラタンのようなものがひどく甘かったりして。Philippe が勧める「ハマヌカ茶」なるものを注文してみた。ところがお茶ではなくて甘いジュースが出てきた。
 次は「国立考古学民族学博物館」である。ここは見応えがあった。様々な顔を浮き彫りにした容器が実に面白い。土器・石器・彫刻・装飾品・石碑・衣服・生活と住居や遺跡の模型・・・。ざっと見てきただけだが、もっと中味が理解できたら丸1日くらいはほしいと思った。
 最後は古い女性エスペランティストの家を訪問。なかなかの豪邸である。エスペラントはもうほとんど忘れてしまったというが、若い頃には世界中を旅行したらしい。彼女が作ったという立派な本をいただいた。ワシントンでのエスペラント世界大会(第6回、1910年)の記念メダルという珍しいものを見せてもらった。
 ここで「ハマヌカ茶」を飲んだ。ハイビスカスの花を使ったもので、きれいな紅色で酸味が強い。ビタミンCが豊富で健康にとてもいいとか。グアテマラではリプトンのティーバッグでも売っているが、乾燥した花を直接使った方が美味しいという。
 8時、アンティグアのホテルに帰る。日中は暑いくらいの好天だったが夜は雨。標高1500m、朝晩は少し肌寒いくらいである。

   写真は第6回世界大会(1910年・ワシントン)の記念メダル
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世界大会日記 7/6 長い長い1日

2010-08-11 | 2010年世界大会
 グアテマラは遠い。家を出たのが朝9時少しすぎ、グアテマラのホテルに着いたのが日本時間で翌日の午後2時(現地時間ではまだ同じ日の午後11時)だから合計29時間の旅であった。
 名古屋空港には同行のMKさんが先に来ていた。スーツケースは名古屋からグアテマラまで行ってしまうが、人間の方は名古屋~成田はまだ国内線である。成田での待ち時間が少し長かったが、このあいだに風邪薬を持っていないことに気づいて購入、MKさんはデジカメ用のSDカードを買っていた。彼はネットで格安の16MBカードを2枚買ったが、自分のカメラが認識してくれないという。私のカメラで試したらちゃんと使えるので、1枚を「格安」でゆずってもらった。これで残量を気にすることなく写真が撮れる。
 成田を18:30頃に離陸、同じ日の16:00(日本時間翌日の朝7時)ダラス到着。長かった~~~。
 まず「入国」審査である。ただ通過(トランジット)するだけなのに、いったんアメリカに「入国」しなければならない。事前に「ESTA(渡航認証許可)」も必要である。ESTAの書類もコピーして持っていたが、これは必要ではなかった。「外国人用ゲート」の列の最後尾についていたら係官が書類チェックにまわってきた。MKさんが赤のボールペンで書いていたので書き直しさせられる。彼はこのあともずっと赤のボールペンを使っていた。「これで通用するかどうか試す」のだそうだ。通用しなかったのはアメリカだけで、他の国ではOKだった。私の書類を見て係官は時間がないからと米国市民用ゲートから通してくれた。「入国」審査では指紋と顔写真(メガネを外させられたからパスポートの写真との照合ではない)を撮られる。今後これがデータベースとして蓄積され、米国を出入りするたびに照合されることになるらしい。あまりいい気分ではない。
 ついで荷物のターンテーブルへ行くが、我々はここを通過、しかし出口でパスポートのチェックと関税書類の提出をする。ついで今度は出国のための手荷物検査である。靴まで脱いで機械を通す。私のサブザックが引っ掛かってしまった。中味を調べると成田からの機内でもらった小さなミネラルウォーターのペットボトルである。没収されてしまった。
 15:00、やっと出発ゲートに到着。順調ならそろそろ搭乗が始まる時間だったが、遅れていた。
 約2時間遅れて出発、グアテマラシティに現地時間22時到着。出国手続きはすぐに済んで、日本航空~アメリカン航空~メキシカーナ航空と乗り継いだ荷物も割に早く無事に出てきた。最後に入国のセキュリティチェックがあって、外に出るとエスペランティストが待っていてくれた。アレクサンダーという青年である。タクシーでアンティグアのホテルへ。シャワーを浴びて就寝したのは現地で日付が変わる頃だった。

 アンティグアの町並み。向こうに美しい山が見える。
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出発まで(2)

2010-08-08 | 2010年世界大会
 疲れがひどく、その上に風邪をこじらせたらしい。ようやく熱が下がってきた。そろそろ用心しないといけない年齢かなぁ・・・。

 「Kleriga Lundo(月曜教養講座)」というのはいつの世界大会から始まったのだろう? 北京ではかなり達者なエスペランティストが話していたし、私ごときにできるようなものではないという思いが一瞬心をよぎったが、しかし引き受けてしまったのには理由があった。
 甲府で行われた日本大会に参加した何人かの外国人が「講演」をした。非常に興味深いものもあったし、それぞれに面白かったが、一方では「これくらいの話をできるエスペランティストなら日本にもたくさんいるじゃないか」とも思った。実際には講演をする日本人はあまり多くない。日本大会や外国の国内大会・アジア大会などでもっと日本人が積極的に話をしてもいいのではないかと思ったのだ。
 そこで私自身も次のアジア大会あたりで演壇に立ってたくさんの聴衆を前に話をする夢を持ってしまった。テーマはもちろん「折り紙」である。今年から私は世界エスペラント協会(UEA)で唯一の「折り紙」を専門とするデレギート(代表者)にもなっている。単なる「折り方教室」ではなく「折り紙の本質に迫る」内容を伴った話をするのだ。
 なんてことを夢想していたときにKKさんの話である。いきなり「世界大会」とはえらい飛躍ではあるが、夢が現実になるのに飛びついてしまったのだった。
 実のところ「折り紙」の話は今までにもあちこちでやってきた。しかし難しいところを省略して実際の作品を見せながらやってきたのでそれほど苦労はしなかった。インドでのアジア大会では「折り方教室」になってしまったし、ネパールではほとんどエスペラントのわからない人たちばかりだった。世界大会ならそんなことにはならないだろう。
 準備時間は短く旅行前にしなければならないことも多い、軽く引き受けてしまったのを少し後悔し始めたがもう遅い。まず大雑把な構想を立てる。折り紙とは何か?・・・不切正方形一枚折りとその例外やブロック折りなどの別分野、フレーベルの幼児教育を含む折り紙の簡単な歴史、「折り鶴」の基本形の性質と応用と幾何学的考察、「千羽鶴折り形」について・・・言葉だけ並べるとなかなか立派ではある。
 忙しい中で大急ぎでデータを集め始めた。持っている本の中には特に歴史についてのあまりいいデータがない。勢いインターネットに頼ることになる。それらを画像データとして整理し、CDとUSBメモリに収めた。何のことはない、今時の質の悪い学生のレポートを作りかけたくらいの段階で時間が来てしまった。もちろん練習する時間も全くなかった。

   写真はグアテマラでの最初の朝食。煮豆、タマネギ・トマトのオムレツ、バナナのフライ。これにトウモロコシの粉を練って焼いたトルティーヤというもの(これが主食)が付きます。
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出発まで(1)

2010-08-05 | 2010年世界大会
 世界大会への参加申し込みをしたのが去年の暮れ、参加費が高くなる直前だった。Dua Bulteno(第2書)が来たのが2月の末。これで初めて遠足やホテルの内容・料金などがわかる。大会前遠足にグアテマラ旅行を選び「日本~グアテマラ~キューバ~日本」の格安航空券を探したが、うまく見つからない。一方、キューバは大会後遠足の後に一般家庭でも泊まってみたいと思ってハバナのパスポルタセルボ提供者数名にメールを出したが、返事はなかなか来なかった。
 航空券は少し高かったが JEI(日本エスペラント学会)の旅行団を引き受けているK社に頼むことにした。ところが後から私と一緒に行くことになったMKさんは、ネットで格安旅行社を捜し出して、まったく同じ行程で2割ほども安く買うことに成功した。この旅行社では1人分しか確保できなかった。
 一方、航空券が確定した後にやっとパスポルタセルボの1人から返事が来た。もう少し長くしたかったが、2泊だけ泊めてもらうことにした。
 さらに、航空券を1日間違えて注文していたことに気づいて変更、これでさらに料金が上積みされてしまった。
 旅程は「名古屋~成田~ダラス~グアテマラ」「グアテマラ~メキシコ~キューバ」「キューバ~メキシコ~ダラス~成田~名古屋」の3行程になった。アメリカを通過する場合に旅行先にキューバがあると航空券が一方的にキャンセルされると聞いていたが、やはりその通りらしく「Eチケット」は「名古屋~成田~ダラス~グアテマラ・ メキシコ~ダラス~成田~名古屋」と「グアテマラ~メキシコ~キューバ~メキシコ」の2枚に別れていた。
 グアテマラ旅行に参加した日本人はもう一組いたが、彼らの場合は「グアテマラ~キューバ」のキップを日本で買えなくて大会前遠足の組織者を通じて現地で購入してもらった。ずいぶん高くついたようだ。
 ともあれ、これでやっと出発の準備が整ったと思ったところに「Kleriga Lundo(月曜教養講座)で折り紙の話をしてくれないか」というメールがKKさんから入った。6月17日、出発まで3週間を切っていた。

   写真はグアテマラで最初に泊まったアンティグアの町並み。
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