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エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて28年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

高速道路

2010-11-29 | 2010年世界大会
 今回はキューバの高速道路。

 高速道路といっても自動車専用道路ではない。馬や自転車も走っている。走っているバスから撮ったので不鮮明だが、制限時速が「70」である。たぶんkm/hだと思う。まさかマイル表示じゃないよな?


 ヒッチハイクしている人も。


 馬車タクシーも走っている。


 物売りも。グアテマラでは首都周辺の道路はトラックがガンガン走っていたが、キューバではあまり見かけない。地方では車自体が多くない。
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台所

2010-11-27 | 2010年世界大会
 今回は民家の台所。

 泊めてもらった家の台所。女性はこの家の人ではない。左にあるのが浄水器。


 イタリア出身の人たちの家。


 近所の友達の家。


 これはトリニダーの陶器工場。工場・売店兼用住宅である。
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街の芸術

2010-11-24 | 2010年世界大会
 今回は街で見かけた「芸術作品」を。

 ハバナで。革命スローガン的な看板はほとんど見かけなかった。


 これもハバナで。


 アパートの壁面に描かれた絵。サンチアゴ・デ・クーバ。


 これも住宅の壁面。ハバナ。


 古い廃棄された機関車などが置いてあった場所の塀。ハバナ。


 工事現場らしきところのフェンス。ハバナ。


 ハバナ旧市街の歩道にはめ込まれた陶器絵。
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乗り物(2)

2010-11-22 | 2010年世界大会
 キューバの乗り物・バス編。
 庶民の足の1つはバスである。トラックを改造したらしいバスなどさまざまなものを見たが、写真に撮れたのはこの4つ。スクールバスも走っていたが写真には撮っていなかった。キューバには自動車産業がないからすべてアメリカとの関係が悪くなる以前からの古いものか、比較的新しい輸入品である。都市では乗用車もたくさん走っていて、トヨタや日産もあるが、とんでもないクラシックカーも走っている。

 かなり古いバス。


 我々が乗った旧市街までの急行バス。見たところ何の標識もついていない。


 割に新しい大型のバス・中国製。この型のバスはハノイで系統番号をつけて走っており、車体の色でも識別できるらしい。


 遠足やホテルと大会会場の往復に我々が利用したのは新しい観光バス。冷房・トイレ付きである。これも中国製。

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キュ-バあれこれ・乗り物(2)

2010-11-20 | 2010年世界大会
 キューバでとってきた2,000枚近い写真からまだ紹介していないものを中心に紹介してみたい。走るバスから苦労して撮ったものもあるが、これらは余りよく撮れていない。デジカメというのはスイッチを入れてから起動するのに時間がかかるし、ボタンを押してからシャッターが下りるのにも時間がかかる。電源を入れっぱなしにしていたら電池がなくなる。
 今回は乗り物さまざま(その1)。
 人力車

 ホテルの前で客待ちする「タクシー」

 三輪タクシー・これも観光用?

 馬車のバス

 トラックのバス

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世界大会日記  8.1 もっと長い長い3日間

2010-11-13 | 2010年世界大会
 キューバ最後の日である。
 イービスの夫が早朝に大きな箱を置いていった。中味は洗濯物!
 パン・バター・ゆで卵・ミルクの朝食。ダニエーラの父親の親族が近くに住んでいる。イービスとも親戚づきあいである。ダニエーラと同じくらいの女の子もいる。イタリアに住んでいるダニエーラの父親もたまに来ることがあるらしい。
 その親族の家を訪問。娘2人と母親、祖母。父親は仕事らしい。一室だけ冷房してあった。母親は入れ墨の職人で、道具やデザイン帳を見せてくれた。イタリアでは仕事としてやっていたが、キューバではやっていない。唇や目の周辺など、化粧としての入れ墨があることを初めて知った。
 そのあとロドルフの家へ。もともとは中庭があったのではないかと思うが、建て増しをして狭い通路で奥の家に入る。すべて同一番地である。通路脇の家は親族なのだろうか。
 大会と大会後遠足だけでは触れることのできないキューバに触れたいと思って個人宅に泊めてもらったのだが、それだけのことはあったと思う。もう少し長く滞在すればもっといろんなことがわかったのだろうが・・・。
 飛行機の時間を1時間以上早く勘違いをしてタクシーを頼んでいたが、そのタクシーがさらに1時間早く12:30に来てしまった。アルバーニャと一緒に空港へ。タクシーは15CUC。ずいぶん高いが、アルバーニャは値切り交渉もしない。ほとんど乗ったことがなくて分からないのか、これが相場なのか。
 サンドイッチとMALTAという飲み物(「濃厚で甘いノンアルコール黒ビール」のようなもの)で昼食。アルバーニャとしばらくおしゃべり。空港税を払ってチェックインを済ませて、また少し雑談。時間は充分あるが、あまり長く引き留めても迷惑だろうと、さようならをして出国。
 待合室でオーストラリアの夫婦に会った。彼らはこれからメキシコを17日間の予定で旅行するという。
 18時過ぎに離陸、メキシコシティには現地時間19:45頃到着。余談だが、グアテマラ~メキシコ~キューバ~メキシコの区間はメキシカーナ航空利用である。このメキシカーナ航空が最近経営難ですべての定期運航便を停止した。ネットには「すでにご旅行を開始されているお客さまにつきましては、WEBサイト上で状況のご確認をしていただくか、下記問合せ先までご相談・・・」などと書いてあるが、旅行中だったらエライ目に遭っていたかもしれない。
 アメリカを通過するのにキューバの痕跡があってはならないという。パスポートにもキューバのスタンプは押してない。キューバで買ったものはアメリカで押収されるとも聞いた。というわけでE-チケットも別になっている。いったんここでメキシコに入って、あらためてチェックインするわけである。もちろん預けた荷物もいったん受け取らねばならない。
 関税も無事通過してメキシコに入国したが、ダラスへの飛行機は翌朝の6:50、アメリカン航空のチェックインカウンターは朝の4時にならないと開かない。大きな荷物を持ってどこかで夜を明かさねばならない。 空港内にホテルがあって、1室204ドル、1人8500円少々である。あとで思うに、ここに泊まるんだった。
 食事用に10ドルをメキシコペソに替えた。タマリンドジュースなるものを飲む。
 アメリカン航空のチェックインカウンターの近くに静かな場所を見つけて横になる。冷房が効いているから対策に簡易シュラフを持っていたが、床が固くて背中が痛い。それでも2時間くらいは寝たであろうか。
 8月2日になった。
 3:30、チェックインが始まり、何事もなくするすると出国。冷えたのかノドがおかしくて咳が出る。念のために風邪薬を飲む。食欲もないので残ったペソでメキシコ産のコーヒー豆を買った。
 7:30頃離陸、ダラスには現地時間9:40着陸。グアテマラに行くときと同じ手続きが始まる。まず出国手続き、MKさんは「係官によって対応が違うかもしれない」とまた赤インクで書いて書き直しさせられた。荷物のターンテーブルは通過だが、関税通過に並んでいた。さらに出国の荷物検査に並んで、搭乗口についたときはもう11:27、すぐに搭乗が始まった。
 成田までの長い飛行。疲れていてしんどい。本もあまり読めないし、眠れない。かなりつらい時間だった。

 そして8月3日、14:40頃成田到着。名古屋行きのゲートで5時間ほどの待ち合わせ。名古屋までは何とビジネス席だった。時間が短くて充分には楽しめなかったが、シートだけでなくサービスも格段にいい。もうこの歳になったらアメリカやヨーロッパなどへの長時間の旅行にはビジネス席を考えるべきかもしれない。どれくらいの値段になるのだろう?
 順調に名古屋へ。出国・関税手続き。長い旅の終わり。
 ここまでおつきあいいただいた読者のみなさんに感謝。

   美術館にて。ん? 撮影禁止だっけ?
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世界大会日記  7.31 旧市街を歩く

2010-11-10 | 2010年世界大会
 昨日、横浜に向かうフランスの夫婦を高山駅で見送った。この5日間、楽しい時間を過ごしたが、それについてはいずれ書こうと思う。
 世界大会日記はいよいよ最終盤である。
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 パン・ゆで卵・チーズなどの朝食。ロドルフもやってきてしばらく雑談。ゲバラコインのことを話したら、ロドルフがゲバラ紙幣(3MN)を持ってきてくれた。これを外国人相手に1CUCで売れば8倍になると言ったら「それはよくないことだ」と顔をしかめる。イービスが20センターボ(5分の1MN)の硬貨を2枚くれた。これでP8という赤い大きなバスで旧市街に行けるという。ずいぶん安い。
 8:40出発、バス停に向かう。ロドルフがついてきて、真ちゅうの1MN硬貨を渡してくれた。黄色い何の表示もないバスが来て、「これに乗れ、料金は1MNだ」と言う。(え!? 5倍もするの?)と思ったがとにかく乗り込む。最初に長い坂を下りて、終点が旧市街の入り口あたりだった。
 歩いていたら地元の人(?)がパルタガス葉巻工場を教えてくれた。夏休み中で操業はしていなくて見学もできなかったが、売店だけは開いていた。葉巻自体よりも豪華な専用の箱が興味深かった。MKさんは記念にと1本購入。
 旧国会議事堂から広い街路樹の多い道をどんどん歩いてブンタ要塞へ。町の建設とほぼ同時期に作られた古い要塞である。日陰がなくて暑い。砲台のある要塞の屋上に登ることも出来た。要塞の建物は修理工事が行われていた。内部は博物館になっているはずだが、気づかなかった。
 さらに暑い中を歩いて支倉常長の像。日本とキューバの友好のための小さな公園になっている。この人は江戸時代の初期に伊達政宗の命でアメリカを経由してローマまで行った人で、キューバを訪れた最初の日本人である。この像と公園自体は仙台育英学園によって2005年に建てられたものである。
 遊園地の横を通って、古いお城のような建物を利用した警察署を見て、一昨日行ったカテドラル前の広場。カテドラルにも入ってみた。
 冷房の効いた店で昼食。5CUC+マンゴの生ジュース1.5CUC。遠足中の10CUCの昼食よりもよほど美味しくて野菜もたくさん付いていた。
 旧市街を美術館に向かって歩く。土産物店や大きな食べ物のマーケット、本屋などを覗く。 大きな高級品の百貨店ののようなところもあった。革命博物館の周囲の戦車や飛行機をざっと眺めて美術館へ。
 美術館のブティックでミネラルウォーター、1.5CUCと高かった。16世紀頃のものから近代美術まで広い館内に展示されている。約2時間見学。
 暑い中を歩き回って疲れたしタクシーで帰りたかったが、MNさんがP8の赤いバスで帰りたいというのでバス停を探す。バス停にはバス停マークのないところもあり、あるところもある。マークがあってもP15とか書いてあるところもあり、何も書いてないところもある。なかなか始末が悪い。歩き回ってやっと「P8」を見つけたが、逆方向である。MNさんがバスを待っている人に聞いたがよくわからない。逆方向に乗って終点から戻ろうか、などといっているところに、広い道路の反対側から赤いバスが来た。すぐに道路を横切ってP8だと確認。バス停まったところにはバス停マークがなかった。
 30分ほども待って、やっと次のバスが来た。乗る人が殺到。やっと乗り込んで20サンチーム硬貨を料金箱へ。ものすごい満員状態。今日で一番暑い時間になった。MNさんはバス停の数を数えて「次で降りよう!」と叫んだが、私は朝のバスとは停留所が違うことに気づいていた。朝は急行だったのだ。しばらくして上り坂になり、また下り始めたので降りた。すぐにはわからなかったが、ちょうどぴったりの停留所だった。教会の見えるところまで歩いて場所を確認。また戻って飲み物を買ってイービスの家へ。
 旦那さんが来ていたが、間もなくまた出かけてしまった。今日は土曜日である。せっかくの週末を我々が邪魔をしていることになる。しかし今夜はアルバーニャの家に泊まるはずだ。
 21:00、アルバーニャの家へ。ブルガリアの女性2人がまだいる。彼らは税関トラブルで出国できずにいるという。我々は今夜もイービスの家に泊まることになった。ヴァーニャが作ったという夕食。豆の煮たもの、魚の揚げ物、バナナのフライ。魚もおいしかったが、豆は今までで一番美味しかった。

   写真はハバナ旧市街の一角
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世界大会日記  7.30 サンフランシスコ通りの家で

2010-11-04 | 2010年世界大会
 今日から5泊6日の予定でフランスの夫婦がやってくる。この2人については以前このブログで紹介したことがある。今回で4回目の日本旅行、我が家へも3回目である。

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 ホテル地下に売店があった。土産物店は店員がいるのに営業はしていない。他は靴・衣料・日用雑貨のCUC店、いわば高級ブティックである。たしかに靴などはキューバ人の1か月分の給料くらいする。
 11:00にチェックアウト。タクシーでアルバーニャの家へ。番地だけで正確に家の前まで連れて行ってくれた。ところがその家は工事中である。家の横に狭い通路があって、その奥に3軒の家がある。そのうちの1軒がアルバーニャの家で、エスペラントのシールが貼ってあった。誰もいなくて、隣の家で待たせてもらう。この3軒は同番地で、親戚同士らしい。珍しい客に子供たちが大騒ぎである。
 近所を1人で1時間ほど散策してみた。大きな教会や日時計のある塔、古い建築物が並ぶ。角ごとにゴミ処理用のトロッコ車両のようなものが置いてあり、その周辺がゴミの山になっているところもあった。カメラを持って歩いているので、住民が「ここは撮るな」という。古い大きな建物にはテレビのアンテナが林立している。内部にたくさんの人が住んでいるのだろう。かつては何か別な用途の建物だったのではないかと思う。
 間もなくアルバーニャの娘、ヴァーニャが帰ってきた。アルバーニャからの伝言で、まだブルガリアの人が泊まっているから、近所の友人の家で泊まって欲しい、食事にお金を出して欲しいという。その友達、イービスの家に行く。ヴァーニャもイービスも初心者だがエスペラントを話す。イービスの娘ダニエーラは子供大会に参加していた。
 近くの食料品店へ。やはりCUCの店である。冷凍の鶏肉、ファンタのような2リットルのペットボトル、食用油などを買う。イービスがスパゲッティの昼食を作ってくれた。
 ここは木造平屋だが天井がやたらに高い。天井を貼って2階を作れるといったら、そうしたいがとてもお金がかかるから無理だという。イービスの夫は職業軍人で週末だけ帰ってくる。キューバは徴兵制で18~24才の2年間。女性は志願制のみ。ダニエーラの父親は今の夫ではなくイタリア人である。彼は15日間だけキューバにいて、父親の病気のためにすぐにイタリアに帰ったという。この話を聞いて私はとんでもない無責任な女たらしを想像したのだが、そういうわけでもなかった。近くにはこの男の親戚の家族が住んでいて、そこにこの男が来ていたときにダニエーラが出来たのだった。
 「たった15日の間に彼を愛したのか?」
 「他の人と結婚しているんだから愛してなんかいない」
 頼りないエスペラントでおかしな会話である。男の方はイタリアに住んでいるが、いまだに独身。ダニエーラの養育費などを送ってくれている。「あなたが忘れられないのでは?」と言ったら彼女は大笑い。
 MKと2人で町を散策。2つの学校(もちろん今は夏休みで誰もいない)を見つけた。ちょっとした広場ではサッカーに興じる人たちと数十人の観客。坂道を手作りのスケートボードで駆け下る子供たち。
 夕食はスープ、鶏と米をサフランで炒めたもの。インゲンに似た豆、バナナのフライなど。米は今までキューバで食べたどの米料理よりも美味しかった。
 イービスが暑いのならTシャツを脱げという。実際、夕涼みをしている男たちのほとんどが上半身裸である。私もそうしてみた。いったん脱ぐともう着る気にはなれない。家の中ではほとんど裸で過ごした。
 近所のエスペランティスト、ロドルフとその姉(妹?)もやってきてしばらく雑談。折り紙を作ったり歌を歌ったり。
 2台の扇風機の1台が倒れて羽が割れてしまった。イービスは針金を火で熱くして羽に穴を開け、羽をつないで使えるようにしてしまった。この扇風機はモーター部分のカバーもなくなっている。
 この家にはシャワーがない。バケツの水で体を拭いてシャワーの代わりにする。ベッドも一つだけなのでMKさんと一緒に寝ることになった。水道水は充分きれいだというが、飲料水には浄水器を通した水を使う。我々もこの水を飲んだ。

   写真は住宅街。緑と花が多い。
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世界大会日記  7.29 ハバナへ

2010-11-01 | 2010年世界大会
 今日はもうハバナへ帰るだけである。最後のプラスアルファの宿泊をUEAを通じて1泊だけ予約してあるが、どこのホテルなのかまだ決まっていない。
 9:00少し過ぎに出発、途中の休憩所でマグカップを買った。これも時々旅先で買うのだが、キューバでは6~8CUCくらいで売っている。ここでは1.5CUCだった。一般のキューバ人は食器をいくらくらいで手に入れるのだろうか? このあとの日程はキューバの生活について知るのには短すぎた。
 12:40、空港到着。ここでH夫妻・Y夫妻など今日キューバを離れる人たちが降りた。市内に入って、自分でホテルを予約した人たちをそれぞれのホテルで降ろす。この旅行33人の参加者の中に白人男性と白人以外の妻という組み合わせが5組もあった。奥さんは日本人が2人、黒人が3人である。ヨーロッパでは普通なのか、エスペラント界の特徴なのか、それとも単なる偶然か?
 13:40、Riviera という高層の豪華そうなホテルに到着。飛び込みだったが受け入れOK。ここのプールは海水だが、今までの中では一番きれいで気持ちがいい。
 豪華そうなホテルだったが、内部は汚れが目立つ。壊れてもすぐには直せないらしい。最上階のスィートルームを割り当てられたフランスのG夫妻はクーラーが効かないとこぼしていた。アメリカの長期にわたる経済封鎖と、特にソ連崩壊以来の極端な物不足の影響がまだこんなところにも現れている。
 7:00、G夫妻、MKさんと4人で出かける。近くのCUCスーパーマーケットに入ってみた。1階はホームセンターのような店と電器店。2階は瓶詰め・缶詰・冷凍のハムや日常雑貨。カメラを構えたら、店員が写真は撮るなとという。500ccのミネラルウォーターが今までで一番安い0.45CUCだった。それでも普通のキューバ人は買わないだろう。
 タクシーをつかまえて旧市街へ。MKさんが「地球の歩き方」で調べたレストランへ行く。バーベキューの夕食は10CUCくらいで美味しかったが、料金にはサービス料が15%も上乗せされていた。食事中にドーンという大きな音が聞こえた。カバーニャ要塞の9時の号砲である。この儀式は観光名所の一つにもなっているが見る機会はなかった。
 夜の旧市街を少し歩いて、土産物店を覗いたりして、タクシーでホテルに帰る。

   写真は夜の旧市街
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世界大会日記  7.28 サンタ・クララへ

2010-10-30 | 2010年世界大会
 8:45出発、10:30、シエンフェゴス。ここの街並みも世界遺産に登録されている。この町の歴史は200年ほどと比較的新しい。バロック調の華麗な建築物が並んでいる。ガイドが「キューバでもっとも美しい町」だという。美しいではなく「pura」だといっていたから「清潔な町」である。日本人なら間違いやすいが、スペイン語でも「きれい」に bela と pura を混同することがあるのだろうか?
 余談だが、キューバでは「mankas du horoj」という表現をよく聞いた。以前調べたときにはイタリア語の影響だということだったが・・・。「あと2時間しかない」の意味だが、使わない方がいい。jaro を「ジャーロ」と発音するのもよく聞いた。
 シエンフェゴスでは海辺の美しいホテル、ホセ・マルティ広場とその周辺の建物を見物した。
 13:00、サンタ・クララ。この町はコロンブスが開いたキューバでもっとも古い町である。かつては砂糖・タバコなどの集積地として、キューバの中心都市として栄えた。また、キューバ革命最後の決戦地でもある。まず装甲列車襲撃記念の公園。革命軍が列車破壊をしたところで、ガイドによればこれに失敗していたらキューバ革命はなかっただろうという。実際には当時のバチスタ独裁政権はもうほとんど崩壊していたから多少遅れることはあったかもしれない程度だと思う。
 このときの指揮者はあのゲバラである。政府軍の最後の砦がサンタクララにあり、そこに兵器を補給するための列車(17両編成)だったが、バチスタ軍はすでに崩壊状態で列車の指揮官が勝手に逃亡してしまう始末。革命軍は線路のポイントを切り替えて列車を誘導し、一斉攻撃で簡単に列車を乗っ取り大量の兵器を手にする。この「戦い」がキューバ革命の最後のだめ押しになったのかもしれない。実際にはこの後もアメリカに支援された反革命との長い戦いが続くのだが。
 10分ほど歩いて町の中心部の広場へ。ここで暑い中を30分以上も待たされた。運転手が昼食のレストランを見つけるのを待っていたのだ。
 この旅行はガイドではなく運転手が仕切っている。ガイドは運転手の言いなりで、自分では何もしないと怒っている人もいた。長いバス移動の間も何も説明しないと。たしかに、例えばサンチャゴ・デ・クーバでは夜の何時頃にどこに行けばカーニバルのパレードを見られるのかといった情報もなかった。バスの車窓から見える風景についての説明が少しくらいあってもよかった。
 昼食は毎回10CUC。あとから思うに、この値段はかなり高い。たぶん運転手がかなりのリベートをせしめているのではないかと思う。
 しかし、こういった不満とチップとはまた別なものらしい。欧米の人はどんな場合でも何らかのサービスに対してチップを払う。「今回も運転手とガイドへの謝礼を集める」という伝言が回ってきた。ただし「運転手は仕事でやっているが、ガイドはボランティアだから別々の袋を回す」と。
 同じようなことは何度も経験した。中国ではエスペランティストのガイドが「運転手や地元ガイドへの謝礼」を全員から一律に集めたが、中国の物価水準や給与水準から考えてずいぶん多額だった。ガイド自身が大半を着服したのではないかと思う。それでも旅の終わりに「ガイドへの謝礼」を提案して集める人がいた。
 IMさんはヨーロッパで生活したことがあってチップを渡す習慣が身に付いてしまったという。日本に帰ってからもしばらくの間は、例えば宅急便のお兄さんにチップを渡していたという。
 16:40、チェ・ゲバラの廟・博物館。巨大なゲバラの像が立っている。カメラなど一切持ち込み禁止。館内はゲバラに関する記録と銃や軍に関する物・楽器・ラジオなどなどの展示。大急ぎで見て回り、自分だけバスに戻ってカメラを持ち出し、周辺の風景をゆっくり撮った。
 この遠足最後のホテルはロッジ形式。広い敷地に宿泊棟が散在している。今夜も1人部屋を確保できた。プールでひと泳ぎ。

   写真はシエンフェゴスの街並み
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世界大会日記  7.27 トリニダーへ

2010-10-28 | 2010年世界大会
 IMさんがいろんな人に収入を聞いている。医師600MN、地方の法律家375MN、ホテルの支配人10CUC+250MN(=490MN)、ホテルの食堂でライブをしている音楽家30CUC(840MN)など。音楽家の場合チップは自分のものらしい。タクシーの運転手のように自分で営業している人たちはどうなっているのだろう? ホテルのボーイさんなどに1~2CUCのチップを渡すこともあるが、給与水準から見るとずいぶん多額である。
 午前中はバスで移動。いくつかの町を通過したが、町を出ても道路脇には住宅が続いている。多くの家にテレビアンテナがある。水槽もほとんどの家にある。所々に小型の風車のようなものがある。地下水をくみ上げる装置? 最近アメリカの映像を見ていて同じようなものを見た。革命前はアメリカの属国のようになっていたからアメリカのものがあっても不思議ではない。
 マナカ・イスナガに到着。高さ44mの塔があり、134段の急な階段で最上階まで登れる。近くに昔の屋敷跡があって、一部がレストランになっている。かつて先住民を絶滅させてしまったスペイン人たちは、その代わりの労働力としてアフリカから大量の黒人奴隷を輸入した。邸宅の主ペドロ・イスナガは奴隷貿易で巨万の富を築き、この地でサトウキビ農場を営んだ。この塔は奴隷監視塔である。レストランには奴隷労働を表した彫刻や絵が飾ってあり、かつて使われた大きなサトウキビを搾る機械などが展示してあった。周囲にはかつての工場の遺物が散在している。
 塔の前では刺繍の布を売っていた。その他、木の実をつないで作った首飾りが5本で1CUC、安いのでおみやげに買った。ごく最近気がついたのだが、この首飾りに小さな虫が発生して細かい粉が落ちていた。防虫剤と一緒に缶に入れて密封しておいたが・・・。
 トリニダーの町へ。まず小さな製陶工場。素焼きに独特の色付けをした陶器を生産・販売している。
 トリニダーはかつてはサトウキビと奴隷貿易で繁栄した町で、古い町並みは世界遺産に登録されている。予定していた博物館が休みで、町を歩く。やたらに暑い。
 海岸のホテルへ。いつもMKさんと2人部屋だが、この日は1人1部屋を使えた。ホテルの前には美しい砂浜が広がっている。カリブ海である。さっそく泳ぐ。最近は日本で海水浴をしていないので、前回海で泳いだのはインドのアラビア海だった。その前はベトナムで南シナ海。なんと国際的な海水浴客であることか!

   写真はマナカ・イスナガのレストランに飾ってあった木彫り。かつての奴隷労働を再現している。
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世界大会日記  7.26 カマグエイへ

2010-10-24 | 2010年世界大会
 1週間ほど前だが、このブログの3年近い前の記事にコメントがついた。この記事にはアップして半年後くらいにもコメントがついた。「若者とエスペラント」について書いたものである。今回のコメント(ワッキーさん)は一読をお勧めする。

 さて、大会後遠足はバスでハバナに向かう旅である。
 何人かに聞いてみたが、案外たくさんの人が夕べのカーニバルを見ている。IMさんは着飾った人に写真を撮ってくれと言われ、撮ってやるとお金を要求されたという。そのたびに20MNを渡したが、CUCでないのであまりうれしそうでなかったとか。
 私も頼まれて2回撮ったが、カメラのディスプレイを見せてあげただけで喜んでくれたし、お金は要求されなかった。
 朝はまずコブレの教会。キューバではかなり重要な教会で、ヘミングウェイの「老人と海」にも登場する。小さな金色のマリア像があるが、これは漁師の守護神である。ヘミングウェイはノーベル賞メダルをここに寄贈したというが、非公開。
 高速道路をどんどん西へ。サトウキビを中心に豊かな農村地帯が広がっている。最高速度表示が80とか100とかあるから高速道路らしいが、日本だったら普通の道路である。未舗装の狭い道路とも交差しているし、道路上に店を出している人もいる。馬車や自転車、歩行者もいる。ヒッチハイクしている人もよく見かける。
 バスの中で、なるべく日本人同士で座らないようにして、外国人と話す機会を多くしようとしたのだが、夫婦や友達同士で座る人たちが多く、結局日本人のIMさんが私の隣に座ることになった。こうなると会話は日本語である。
 昼頃にカマグエイの町に到着。古い町を歩く。この町並みは世界遺産に登録されている。大きな教会が4つ。キューバ革命にもゆかりのある土地で、ゲバラの大きな肖像が掲げられていたりする。ゲバラがデザインされたお金を売っていたのもこの町である。
 レストランやホテルには大きな壷が庭に飾ってあった。かつては水壷に使われていたものだろうか?
 ホテルのプールでひと泳ぎ。

   写真は飾り物に使われている壺。
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世界大会日記  7.25 サンチアゴ・デ・クーバ

2010-10-21 | 2010年世界大会
 サンチアゴ・デ・クーバはキューバの東端に位置する古い町である。さらに東に少し行けば米軍基地のあるグアンタナモがある。我々のホテルは街から少し外れたなかなかの豪華ホテルだ。
 バスで町へ。まずは広い公園。 大きな鉄色のモニュメントと馬に乗った人の像があって、その下には廟のようなところ。この公園の名前や誰を記念したものなのかよくわからなかった。
 サンタ・イフィニア墓地。市民の墓地でもあるが、キューバ独立の父ホセ・マルティの墓がある。2人の衛兵が立ち番をしていて、ちょうどその交代の儀式を見ることができた。
 7月26日モンカダ兵営博物館。キューバ革命の記念碑的な建物で、内部には革命関係の展示物、とくに英雄たちについての展示がある。もともとは1953年7月26日にカストロたちがこの兵営を襲って失敗、カストロたちは7・26をシンボルとして革命闘争を続ける。今はこの日(明日だ!)がキューバの革命記念日である。
 旧市街を少し歩く。古い華やかな建築物が並ぶ。かつて砂糖などを運んだのだろうか、今は使われていない鉄道レールが何本もあった。
 ホテルに戻って今日の予定はこれで終了である。コブレの教会へも行く予定だったが明日にする、「時間とガソリンの節約」のためだという。一昨日の説明会の話と違って、昼食は含まれていないという。ホテルのレストランでポークステーキ。やっぱり固くてあまり美味しくはない。
 プールでひと泳ぎ。後はのんびり。この旅行で初めてのゆったりした時間である。
 今日はこの町でカーニバルがある。夕食の後、Y夫妻、MKと4人で町まで3~40分歩く。カーニバルのメイン通りらしい所に入るとものすごい人の波である。縫うように歩いたが、まだ踊っている人は少ない。大きなカップを売っている。これを買ってビールを飲むものらしい。屋台の店で売っているものはチャチな玩具や日用品、食べ物など。途中で横道に抜け出した。臨時トイレが設けてあった。
 適当に歩いて兵営博物館から教会近くの広場へ。旧市街を歩く。途中で写真を撮ってくれという親子が2組。MKさんが行きたいというジャズ喫茶を探して入る。3CUCの入場料と、飲み物は別料金。
 11時40分頃に店を出て、適当に歩いていたらカーニバルのパレードに出くわした。全部のパレードを見たわけではないが、至近距離から見ることができて4人とも大満足である。そのまま歩いて、あのものすごい人出の通りに出た。人が増えて満員電車状態。そんな中で踊っている人もいる。ここを決死の覚悟で横切って、さらにホテルまで歩いた。
 就寝は2:40。

   動画は衛兵交代の様子
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世界大会日記  7.24 閉会式~大会後遠足

2010-10-19 | 2010年世界大会
 世界大会は閉架式である。ホテルをチェックアウトして、荷物を持って大会会場へ。荷物は会場併設のホテルに預けることができた。
 閉会式ではいろんな表彰が行われる。日本在住のクリーボ・レンドンさんが「種の起源」の翻訳でグラボウスキー賞。「ダーウィン自身がエスペラントで書いたと言えるほどの名訳」であると。この翻訳はネットで読むこともできる。大会前遠足のガイド、フィリップがアフリカ・中南米における長年のエスペラント普及活動で出口賞。彼はグアテマラのルーベンを壇上に呼んでその活動を称えた。他に私の知っている人ではスポメンカ・シュテミッツが芸術活動で受賞。
 午後は時間が空いてしまったが、大会書店で本(Newell 訳の「ハムレット」など)を買ったり、大会前遠足で一緒に旅行したイタリア人たちやJEIカラバーノの人たちなどとおしゃべりしているうちに時間が過ぎた。ホテルでインターネットもできた。
 16:30バスで空港へ。30人ちょっとくらいでこれから大会後遠足である。キューバの東へ飛行機で飛んで、バスでキューバを縦断、ハバナに帰ってくる。
 少し前から断続的に激しい雨。そのためか飛行機の出発がかなり遅れた。
 昨日の説明会では空港使用料25CUCが必要だということだったが必要なかった。どうやら参加費に含まれていたらしい。
 飛行場でビスケットを買った。1CUCだからそれほど高いわけではないが、キューバ人はこれを1MNで買うのだろうか? いやその前に飛行機は高くて普通のキューバ人は利用できないと聞いた。
 乗り込んだ飛行機の座席の下から白煙が出ていた。誰かが搭乗員に聞いたら「空調だ」という返事だったとか。普通ならパニックになりかねない光景だが、搭乗員が平然としているから乗客も騒がない。離陸する頃にはますますひどくなって機内がモウモウたる白煙に満ちていたが、10分くらいで消えた。この白煙は着陸の少し前にも出た。
 22:00、サンチアゴ・デ・クーバに到着。遅くなったがホテルでパンと果物の夕食。ハエがいっぱい飛んでいたがパンの皿にはラップがかけてあった。食べたあとに気がついた。果物の皿にはラップがかけてなかった!

   写真は大会書店
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世界大会日記  7.23

2010-10-17 | 2010年世界大会
 今朝は少しのんびりして、10時過ぎにバスを待ってみたが一向に来そうにない。MKさんと2人で歩き出す。暑い。MKさんはもう2回歩いたという。会場までは1時間半くらいかかる。
 大通りに出たてタクシーをつかまえた。最初に値段交渉して3CUCだった。これくらいが標準的なところらしい。
 11:30~ キューバについての講演その7。医療制度について。資料を映写してそれを読み上げるといった感じ。
 キューバは医療制度だけでなく医療技術も世界でも最高峰である。これは何度か視察にも来たというヨーロッパからの参加者がそう言っていた。キューバのような貧困な小国がこれだけのことを実現できたのは、物資は貧困でも人材は豊かだからである。人的資源を活かすことで必要なことは実現できるものだ。中南米諸国から患者を招いて目の治療を無料で行っている。難しい手術ではないが、遅れた国ではまだ普及していない。
 たくさん質問が出た。正確でないかもしれない私のメモ:
 (葉巻が重要な産物であるキューバだが)タバコは健康に良くないから反喫煙運動も行われている。
 病院はすべて公立で、私設病院は許可されていない。
 医療教育は、基礎教育6年間のあと社会活動(インターンのようなもの?)を行い、その後専門の研究に進むか家庭医などになるかを決める。
 家庭医というのはおおむね1人で100家庭くらいを担当し、午前中は1日3~40人くらいの患者を診て、午後は往診する(自分の家で患者を診る?)。
 医師の給与は月額600MN(2500円くらい)。看護師などもほぼ同じである。専門性にしては安いが、職業による違いはないからこれで普通である。
 子供は病院で産む。現在は病院で産むことを保証する水準に達したということで、個人が産む場所を選択するということはない。家庭医が最初から最後まで見る。
 中国の漢方薬や鍼灸・マッサージなども研究していて専門医もいる。
 ペルーなどへ医師を派遣してその代わりに石油を輸入する。これは正当な国家活動である。
 個人で薬を買うことはない。買うには外国から高いお金で輸入しなければならない。(町では薬屋を見かけたが、医師の処方がないと買えないのだろうか?)
 12:30~ 囲碁の会。誰も責任者が来ないし碁盤もない。中国の世界大会でも同じことが起こった。そのときはその場にいた人とおしゃべりしたが、今回は会場に誰も残らないので仕方なく私も他の所へ行くことにした。
 12:45~ デレギート(UEAの都市・専門代表網)司会の2人がものすごい早口で少ししゃべりすぎる。日本人の発言が続いた。全体としてデレギート網をどう活用し、活発化するかという視点。これに対して司会の「人数を増やす」視点とうまくかみ合っていない気がした。
 数を増やすことと活発化することはどちらも必要であろうし、お互いに補完する内容だと思う。インターネットを活用して経験や資料の交流・共有などが出来ないものかと考えたが、発言は出来なかった。こういう場でいいたいことを言うにはまだ私のエスペラントは心許ない。
 14:00 次の世界大会について。デンマーク・コペンハーゲンの紹介ビデオ、ホテルの紹介、TTT-ejo など。大会テーマはユネスコと若者に関連したものになるだろう。宿泊費は60~65ユーロくらい。コペンハーゲンは高いので、安いところを探してもこれくらいはする。無料・格安の若者向け宿舎は探しているが、まだ見つかっていない。参加申し込み時に宿泊費用がわからないのは問題だが、ネット上の Dua bulteno を活用したい。   
 2012年のベトナムについても簡単な紹介があった。今回はベトナムからの参加者は1人だけである。
 16:00~ 競り市。トンキンさんの名調子である。彼の競りは、買い手ががせり上げるのでなく、司会がせり上げていくやり方。
 17:15~ 大会後遠足の説明会。なんだか細かいことをいつまでも聞いている人もいたが、その時になればわかることだし、どうせそのとおりには行きっこないし・・・。
 20:00~ 国際の夕べ。いわば大会参加者たちの学芸会である。オーディションを通過したかなり高いレベルの歌や演奏、ダンスなど。今回はキューバなどラテンの人が多く、日本人の出場はなかった。

   写真は大会会場の連絡板(Rendevua Tabulo)。横浜大会の時に比べてかなり不親切。
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