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エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて28年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

ドイツ兵エスペランチスト

2020-10-21 | 読書ノート


 エスペランチストのドイツ兵が銃殺寸前のエスペランチストを救ったといった話はいくつかある。「Lidia」には Lidia を救おうとした多くの人たちの努力が描かれているが、そのひとつとして次のような話がある。
 ナチスドイツがオランダを占領した後、Arnhermo のエスペラントの家を管理していたエスペランチストたちは、閉じられたドアに貼ってある紙片を見て驚いた。そこにはエスペラントで「Forlasita estas la domo. Vizitanto ene povas eniri.Cxu ne plu iras Forta Voko tra la mondo? Kuragxon, baldaux alia tempo venos! vivu Esperanto! 16a julio 1940. Germana Esperantisto.(家は見放されている。訪問者は中に入ることが出来ない。もう強い呼び声はこの世界には来ないのか? 勇気を持て! まもなく新しい時代がやってくる! エスペラント万歳! 1940年7月16日。ドイツのエスペランチスト」
 1930年代の終わり頃、戦争が避けられなくなっていた時、ドイツの若いバハイ教徒たちはジレンマに陥っていた。バハイの教えによって、国家に従う義務があり、バハイの教えに従えば、闘いたくはない*。彼らは、Shogi Effendi (当時のバハイ教の指導者)に手紙を書いた。Shogi は彼らに「もし、あなたたちの殺したくないという望みが真面目なものなら、神があなたたちを助けるでしょう」という答えを送った。若者たちは軍に入り、一人を除いて1週間の間に全員が戦死した。その一人とは14歳の Fritz Macco である。彼はなぜ自分一人死ねなかったのかと悩む。自分はまだ真剣に神を信じていなかったのだろうか? 救急車の運転手として、Fritz はワルシャワに派遣される。おそらく Fritz はそこで Lidia を見つけたのであろう。そして彼女を少なくとも2回は訪ねている。一度は食料を届け、もう一度は逃げるように説得するために。彼はまさにそのために命を助けられたのだと信じた。Lidia は彼の申し出を拒否し、自分の家族と一緒にいることを望んだ。Frizt は後にバハイ教で活動したとして逮捕された自分の母親を、収容所送りから救う。そして、1944年9月、ポーランド北部に侵攻してきたソ連軍の犠牲になって死亡した。
 いまではこの話を裏付けるものはないが、ドイツ兵が Lidia を救おうとしたという話は幾人かの人々によって知られている。


 * リディア自身も、あらゆる戦いをしないという信念を持っていた。「階級闘争」も戦いの1つなので、当時台頭していた労働者エスペラント運動や SAT とは接触しなかった。
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Lidia

2020-10-19 | 読書ノート


 最近読んだ本。ザメンホフの末娘、Lidia の伝記である。原作は英語で(1985:作者はWendy Heller)書かれて、エスペラント訳(2007)はBernhard Westerhoff、日本語訳(水野義明訳)も出ている。
 ウェンディ・ヘラーはアメリカ・バークレイ出身の言語学者・作家である。ロシアとユダヤ系ドイツ人の血を引いていて、Lidiaとの共通点があるので興味を持ったという。関係者に直接取材したり、古い記録・文書類や第二次世界大戦の破壊を免れた貴重な新聞・雑誌類などを調査して、リディアの生涯を一コマずつ丹念に再構築した。
 物語は1917年4月16日、エスペラントの父ザメンホフの葬式の場面から始まる。最初の数省はエスペラント誕生までとザメンホフの思想(ヒレリスモ・ホモラニスモ)について語られる。リディアがまだ3才の頃、長兄のアダムがスイスの医科大学に入学し、続いて長姉のゾフィアも同じ大学に入る。リディアは8年製の女学校に入った。9才の時、スイスのベルンでエスペラント世界大会が行われ、そこにアダム・ゾフィアも来ることになっていた。母のクララはリィディアに「エスペラントを勉強しないのなら留守番をしなさい」といわれて、熱心にエスペラントを学ぶことになった。1917年ザメンホフが死去、13歳のリィディアは父の仕事を継ぐ決意をし、ポーランド文学などの翻訳を始める。1915年、ドイツ・ソ連がポーランドに進行、分割支配をする。ドイツでhさはンユダヤ主義が再燃し、各地でポグロムが起こる。ソ連でも第一次大戦でユダヤ人がドイツのスパイを務めたといううわさが広がって、ポグロムが起こっている。1919年、国境が画定されていなかったソ連とポーランドの戦争が起こり、アダムは軍医として招集される、当時ウクライナにいたゾフィアは赤軍の軍医になっていた。2年後に2人はワルシャワに帰り、医師として働き始め、1923年にアダムは眼科医のワンダと結婚する。
 1921年、17歳のリディアは大学に入って法学の勉強を始める。これは母クララの希望によるもので、リィディア自身はあまり気乗りしなかったらしい。第一次大戦後、エスペラントの運動は発展するが、労働者エスペラント運動と政治的中立を旗印にする運動との対立が次第に明らかになる。
 1925年、ジュネーブでの世界エスペラント大会で、リディアは生涯の友となるアメリカ女性Martha Roodを知る。彼女は熱心なバハイ教徒だった。1926年ザメンホフの墓に建てられる記念碑の除幕式にマルサが参加、2週間ワルシャワに滞在した。この時、マルサがリディアに英語を教え、リディアがマルサにエスペラントを教えた。リディアは次第にバハイ教に傾倒していく。リディアのバハイ信仰はちょうどザメンホフがヒレリスモやホモラニスモを提唱した時と同じような軋轢を生んだが、リディアはひるまなかった。この頃からリディアはヨーロッパ各地でエスペラントの教師として活躍し始めていて、自立した女性になることを目指すようになっていた。直接教授法(チェ・メトード)を学んで、これを武器に主にヨーロッパでエスペラントの講習を始める。とくにフランスでは大成功を収め、各地で常に百人を超える入門講習会を成功させた。バハイ教についての講演や、スライドを使用してポーランドの紹介などの講演にも多くの聴衆を集めた。彼女の講演は非常に魅力的で多くの人を引きつけた。その後バハイ教団体の招待でアメリカに行き、バハイ教の中でエスペラントを普及し、エスペランチストにバハイ教を広めようとする。アメリカでのエスペラント講習会は必ずしもうまくは行かなかった。ヨーロッパにおけるユダヤ人の状況がますます悪くなる状況で、アメリカ滞在を延長しようとするが、観光ビザで講習会の収入を得たことが問題になってビザの延長は出来なかった。ワルシャワに帰ることを決めたリディアは、これが神の与えた使命だと、決意をする。ワルシャワのユダヤ人街が突如高い鉄条網つきの塀で区切られてゲットーとなり、外部からリディアの消息がわからなくなる。アメリカではリディア救出運動が起こり、外交ルートを通じて彼女を再度アメリカに招こうとするがすべて失敗する。リディア自身、再度アメリカに渡るのなら、エスペラント教師としての身分と収入の保証が必要だった。ゲットー内部の生活はどんどん苦しくなって餓死者も出始める。ヨーロッパ各地からゲットーのザメンホフ一家に食料が送られるが、途中で奪われたりしてすべてが届くわけではなかった。リディアの手紙はすべてドイツ語で書かれ、検閲を経てやっと届く状況だった。ナチによるユダヤ人絶滅計画によって、ワルシャワゲットーのユダヤ人たちも次々にトレブリンカ絶滅収容所に送られる。1日に5000人を選抜することを命じられたユダヤ人の役人は自死している。その日のノルマが達成されていない時は、路上で捕まえて貨車に送り込んだ。1942年9月5日、リディアが連行され、トレブリンカへの貨車に乗せられるのを何人かが目撃・証言している。パニックになっている人たちの中で、リディアは女王のように堂々としていたという。
 第二次世界大戦後も、アダム・ゾフィアとリディアがまだどこかで生きているという希望がささやかれ、1946年の初め頃にはチェコスロバキアのラジオが、彼らがロシアのどこかに生きているという報道をくり返した。彼らの最後については何もわかっていない。ドイツ・オーストリアに少しだけ広がっていたバハイ信者たちは、ユダヤ人とみなされてリディアと同じ運命を辿った。戦争前に、リディアは自分がエスペラントに翻訳したバハイ教の文書などをジュネーブに送っていた。後に、これらは出版されることになる。
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デルタの記

2020-10-16 | 読書ノート


  今回の読書ノートは「デルタの記」である。暮らしの手帖社から1995年に出版された同名の本にある短編記録を小西岳さんの訳で1992年に発行されたエスペラント版である。暮らしの手帖社のホームページには「本書は、昭和十六年(一九四一年)十二月八日にはじまった戦争で、武器を持たずに、ただもくもくと生きてきた人たちに何が起ったか、暮しの手帖でとり上げたもののなかから集めた。」とある。
 作者は岡田ハルという女性。弁護士の娘として生まれ、広島女学院を卒業後、東京で絵画の勉強をし、彫刻家を目指していた。1945年3月、彼女は東京を離れて広島に向かう。途中、静岡・鳴海・熱田・名古屋・大阪で空襲にあい、やっとの思いで広島に帰る。帰郷後まもなく父が亡くなり、ついで母も亡くす。一人暮らしになった彼女は、爆心地から1.2kmの自宅で原爆にあう。光・爆発・失神・崩れた家からの脱出・・・彼女が見たすべてを、独自の表現力で書き記したのがこの一編である。当時38歳の彼女は芸術家として鍛えられた目を持っていた。その文章は悲惨な光景を客観的に捕らえている。
 1.自宅で被曝した彼女は火が迫ってくる中を必死に走る。わずか100m離れた学校に着くと、プールにたくさんの人がいた。彼女も水に入ってほとんど気を失う。やっと気づいてプールから這い上がろうともがいていると、誰かが助け上げてくれた。そのまま横になっていると大勢の兵士がやってきて怪我人を担架で運んでいく。彼女は死体と間違われないよう、大声を上げて気づいてもらい、担架に乗せてもらう。船で近くの軍事施設のようなところに運ばれ、広い部屋に寝かされる。運ばれる船の中で4人が死に、部屋で夜を明かす間に20人以上が死ぬ。
 2.もともと、呉市街が爆撃で破壊された時、次は広島の番だと誰もが思った。しかしそれから40日以上も爆撃機は上空を通過していくばかりだった。市民に楽観論が広まる中、上流のダムが破壊されるかも知れないといううわさが広まり、竹を組み合わせた救命具が7月初めに配られた。「貸与 あかつき隊」という焼き印が押してあった。
 臨時の避難所では治療が始まったが、傷に薬(赤チン?)を塗るか、やけどに黒い油薬を塗る以外に何も手立てがなかった。翌日に配られたにぎりめしは死臭がしみこんでいて食べられなかった。彼女は痛む体を引きずって、必死の思いでトイレに行く。全身に走る激しい痛みに、被害者たちにはうめく力さえ残っていなかった。ただ全身にガラスの破片が突き刺さった5才くらいの女の子の泣き叫ぶ声だけが響いていた。兵士たちは献身的に世話をしていた。美しい女性患者と若い士官との間に愛が芽生える光景もあった。
 3.5日目に、新しい医療所に移動することになった。膿や糞便などの悪臭が充満する部屋から出られることがただうれしかった。新しい医療所には家族や親戚を探しに来る人たちが沢山いた。患者の中に、原爆によって部隊が全滅してただ一人生き残った兵士がいた。ある日軍の上級の人がやってきて、その兵士を罵っていた。任務を放棄して逃亡し、一般市民の中に隠れているというのだ。8日後、彼女はこの治療所から出る決意をする。ここで、彼女は変わり果てた広島の街や、生き残った人々の生活の様子などを描いている。彼女は市の北の外れの農村を目指す。そのある農家に、お金や当面の生活に必要な物を置いてあるのだ。
 「あの日」の様相を知ることの出来る貴重な記録である。機会があれば一読を勧めたい小冊子である。visteria pergolo, sterilizatoro といった、難しい単語がいくつか出てくるが、エスペラント文は読みやすいから少し本を読むことに慣れた人なら初心者にも読めると思う。
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PIKA

2020-10-13 | 読書ノート


 これは1984年に発行された絵本「ピカーケイとタックン核の旅ー」のエスペラント版である。発行は1987年。絵と文は西本伸、エスペラント訳は森田明。
 ケイとタックンの幼い姉弟は砂浜で見つけた爆弾型タイムマシン、Littleboy と Fatman に乗って核の世界を旅する。広島・長崎・ビキニを訪ね、アメリカの砂漠の核実験場では「人間を守るために、全人類を10回も20回も殺せる兵器を開発する」という言葉に困惑する。そして世界の核兵器反対運動、核開発競争の論理にも触れる。最後は発行当時問題になっていた巡航ミサイル・トマホークを取り上げている。過去の問題ではない。2020年のいま、日本が「敵基地攻撃能力保有」のためのトマホーク導入議論が起こっているのだから。

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黄金の国

2020-10-05 | 読書ノート


 東方見聞録は大きく4冊に別れている。1. 中央アジア、2. クビライ大ハーン、3. インド、4. 北の地域とモンゴルの戦争、このうち日本に関する記述は3の冒頭にある。もちろんマルコ・ポーロは日本には立ち寄っていないから伝聞であるが、この記述がコロンブスの航海の1つの動機にもなった。

 Sipingu は東方はるか1500マイルにある大きな島である。住民の肌は白く、礼儀正しく美しい。彼らは偶像崇拝者で、どこの王にも従属していない。大量に金を産出しているが、遠すぎて商人が行かないので誰も金を国外に持ち出さないからいたるところに金があふれている。彼らはその金を何に使うのか知らない。王は大きな宮殿を持っているが、それは純金で覆われている。沢山ある部屋の床も指2本分以上の金が敷き詰められており、さらに宮殿の他の部分も金で飾られている。
 大きな丸い美しい真珠が沢山あり、それらは赤い色をしている。死者の一部は土葬であり、一部は燃やされるが、土葬の場合は口の中に赤い真珠を含ませるのが習慣である。他にもたくさんの宝石がとれる。この島の豊かさは誰にも計算できないであろう。

 クビライ大ハーンはこの島を自分の支配下に置きたいと考えて、有名な2人の将軍の元で大軍を送り込んだ。彼らは上陸して平野と村々を占領したが、都市や砦を攻略する前に強い北風が吹いてきた。帰れなくなるのを恐れた彼らは船に乗って逃げ出したが、強い風で大きな被害を受けた。近くに大きくはない島があり、船団の一部が風で吹き付けられた。風が収まると多くは船で逃げることが出来たが、少なくとも3万人以上が食料も乏しいこの島に取り残されてしまった。
 Sipingu の王はこの状況を知るとすぐさま多くの船を出して攻めさせたが、モンゴル人たちは港の近くに隠れていて、敵が上陸した後、誰もいなくなった船を乗っ取ってしまった。上陸した彼らは Sipingu の旗を立てて行進したので、城を守る人たちは味方だと思って城に引き入れてしまった。難なく城に入り占領した彼らは若い美女だけを残して住民を追い出してしまった。Sipingu の王がこの城を包囲したので、モンゴル人たちは本国と連絡を取ることも出来ず、7か月後に降伏した。彼らはモンゴルに帰ることはできなかった。これは1296年に起こったことである(注:実際の元寇は1274,1281年)。
 さて言い忘れていたことがある。最初に彼らが上陸して平野を占領した時、住民を捕らえて首を切ったのだが、8人だけはどうしても切ることが出来なかった。裸にして調べると彼らは右腕の下の肉と皮膚の間に石を縫い付けていた。この石に魔法がかけられていて刃物では殺すどころか傷をつけることも出来ないのであった。モンゴル人たちはこの8人を棍棒で殴り殺して石をとりだし、大切に持ち帰ったのである。

 日本に関する記述の要約は以上である。岩波書店から出ている日本語訳とは少しちがったところもある。
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地理上の位置など

2020-10-03 | 読書ノート


 「東方見聞録」ではマルコ・ポーロが訪れた様々な国・地方・都市についての記述が続く。この時、それらのおおよその位置が記されているが、その方法はある場所から次の場所への方向と距離である。距離は海上ではマイルなどが使われているが、陸上では移動するための日数である。そして、方向は地中海での風の名前で表している。garbin 南西、mestro 北東、levanto 東、siroko 東南、mestro 北西、kusxejo (sunsubirejo) 西、tramontano 北というわけである。これだけでは表しきれないので、例えば南は sudo(南)を使っている。ある町から次の町まで「siroko の方向に8日」という具合である。ずいぶん大雑把だが、それでもこれを元にして当時のヨーロッパでは世界地図が作られたらしい。

 宗教はおおむね3種類、キリスト教徒(ほとんどが nestorianoj ネストリウス派)、イスラム教徒(saraceno)、偶像崇拝者(idorano)、このうち偶像崇拝者とされているのはおもに仏教徒だが、ヒンズー教など他のアジアの宗教も一緒にしている。その中にはインドのジャイナ教についても出てくる。元は貿易を重視したためでもあるが、宗教には寛大だった。
 クビライが如何に立派な王(大ハーン)であったか、彼が如何にして富を集中し、民衆を助ける善政を敷いていたかが強調されている。元の貿易重視は東西の交流や交易路の開拓にもつながったようだ。モンゴルはイランにまで進出してイルハン国を作り、イスラムに改宗するが、それまで閉鎖的だったイスラム界に新風を吹き込んだ)。また彼の支配地では紙幣が流通していた。

 エスペラントへの翻訳は上記の方向を示す語のように、原作にかなり忠実にされたようである。マルコ・ポーロは文学者ではないので、語彙があまり豊かではなく、同じ言葉が何度でもくり返される。とくに次の言葉があらゆるもの(人・都市・村など)に多用されている。
 bela:マルコポーロが好意的な印象を持った時に使う。
 nobla:fame konata に近い意味を持つが、様々なニュアンスを持ちうる。
 上記の2語はそのまま訳されたが、granda だけは状況に応じて vasta, ampleksa, alt(kresk)a などにも訳された。

 その他、物を表す用語や重さ・長さの単位などがたくさん出てくるが、それ以外にこの本独特の用語もある。
 naturo:性器を表す隠語。
 sjoro:sinjoro が神や大王に使われるので、その下位の「旦那さん」として使う。sjoro Marko
 kolino:丘(monto/monteto では表せない小山、英語の hill)
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東方見聞録

2020-10-01 | 読書ノート


 久しぶりの読書ノート。マルコ・ポーロである。表紙の写真でわかるが、タイトルが2つある。日本では「東方見聞録」として知られるが、ヨーロッパではこの2つ(「驚異の書」「世界の記述」)のうちのどちらかが使われているという。440ページほどの大冊で、エスペラント文は難しくはない。しかし出てくる地名などが分かりにくい。原作で使われている地名が現在のどこを指しているかが脚注で示されているが、これをネットで検索してもわからないことがある。

 マルコ・ポーロは大きな商家に生まれた。祖父 Andreo Polo の息子が3人、Marko, Nikolo, Mafeo, Nikolo の息子が Marko である。おじさんと同じ名前を持っているわけだ。一家はヴェネツィア共和国に住んでいたが、祖父の跡を継いだ長男の Marko はコンスタンチノープルに代理店を持っていた。Nikolo, Mafeo の2人は Marko が生まれる前にコンスタンチノープルからトルコを通って中央アジア方面に向かった。貿易を拡げるためである。当時の世界は元帝国・クビライの時代で、モンゴルは中央アジアから東ヨーロッパやイラン(ペルシャ)にかけていくつかに分裂して互いに争っていた。その争いに巻き込まれて帰れなくなった Nikolo と Mafeo は中国にまで行き、クビライに謁見する。北京に3年間滞在した後、「6つの分野に100人の知識人」を送ってほしいというローマ法王宛の使命を持って帰国する。
 Nikolo は初めて息子の Marko に会う。Marko は母親の死後、叔父の Marko 夫婦に育てられ、しっかりした教育も受けていた。法王宛の使命は実現しなかったが、Mafeo, Nikolo は17歳の Marko とともに再び中国に向けて出発する。そして16年間を中国で過ごし、クビライの信任を得た Marko は使者として中国内を旅行する。最後に王族の娘を嫁としてペルシャのイルハン国に送り届ける仕事を得て、海路で帰国する。出発から帰国まで24年が過ぎていた。
 ヴェネツィア共和国に帰った3人は持ち帰った財産を元に貿易商として成功する。Marko はヴェネツィアとジェノヴァとの戦争に従軍して捕虜となる。数ヶ月の捕虜生活の間に Marko は旅の詳細を語り、これをルスティケロ・ダ・ピサという著述家が書きとめたのが「東方見聞録」である。不思議なことに2人ともイタリア人なのに、ピサは古フランス語で書いている。しかもピサ自身が書き加えた部分もあるらしい。

 内容は商人の目で各地方を見ているので、まずその土地の特産物・人々の食べ物・職業・宗教・独立しているのかどこかに従属しているのか、などなどが述べられている。その地方での民衆の生活についてはあまり記述がない。通過していくたくさんの都市についての同じような記述が続いて少々うんざりするところもある。時々、その地方で見聞きした珍しい話が挿入されているのが読む楽しみになった。

 今回は「東方見聞録」についての概要だけで終わってしまった。次回に中身からいくつかを拾って紹介してみようと思う。
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トレブリンカの人々

2020-09-10 | 読書ノート


 「Kiel Lidia Zamenhof pereis en Treblinka」は短いながらトレブリンカ絶滅収容所について様々な事実を描いている。その中からいくつかのことを簡単に紹介してみる。
 そこはいわば人間を効率的に抹殺する工場であった。到着したユダヤ人たちがスムーズにガス室に入っていくシステムを作っていた。そのために、例えば到着した駅は実際の「駅」の様に作られていた。切符売り場、待合室、時刻表、通信所・・・。ユダヤ人たちは財産を「預け」てその「引換券」をもらい、疫病を防ぐためだと裸にされ、女性は「美容室」で髪を切られ、石鹸を手にして「シャワーを浴びる」とガス室へと誘導される。長時間トイレもない貨物列車で移動してきて、汚れて疲れ切っていた彼らは喜んでガス室に入っていった。ガス室の建物はユダヤ教の会堂(シナゴーグ)に似せて作られていた。「毒ガス」というのはジーゼルエンジンで発生させた一酸化炭素である。身動きも出来ないほどぎっしり詰め込まれた部屋で、シャワーに似せた装置からガスが出る。ガスは軽いので死ぬまでに時間がかかった。とくに子供にはガスが回らなかった。
 トレブリンカで仕事をしていたのは、制服を着た3〜40人のSS(ナチ親衛隊)、100人ほどのウクライナ人たち、そして数百人のユダヤ人「労働者」である。SSはドイツ人とオーストリア人で、それぞれにいろんな部署の責任者である。ウクライナ人たちはユダヤ人「労働者」を直接指揮し、自分たちも犠牲者たちを追い立てる実働部隊で、捕虜になったソ連の赤軍兵士とウクライナの農民出身の人たちであった。とくに西部のウクライナ人は反ユダヤ思想が強く、サディストも多く、ガス室へ誘導される人々の中から若い女性を引き出して強姦した。殺されるユダヤ人たちが最後まで身につけていた宝石や金・時計などを奪い、それで近くの村の女を買っていた。周囲の村にはそれを目当てにする人たちもいた。
 送られてきたユダヤ人の中から屈強なものが選抜されて強制的に働かされた。彼らは死体処理などの最も汚れる仕事をさせられ、消耗すると次々に補給された。
 ここで殺害されたのがどれだけの数に上るのか、85万〜120万といわれるが、正確にはわからない。他の収容所も合わせると230万、実際にはもっと多いと言われている。


 ネット上には沢山の写真が公開されている。上に示したのはその一つ。
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トレブリンカ

2020-09-08 | 読書ノート


 今回の読書ノートは「リディア・ザメンホフはトレブリンカでどのように亡くなったか」という二十数ページの小冊子。ネット上で見つけたものである。エスペラントで書かれたものだが、いままでに発表された文書に基づいて事実として書かれている。トレブリンカで働いていた人たちの個人名もたくさん出てきて、出典なども詳細に示されている。ネット上では4枚の地図が載っているだけだが、イラストつきの本も注文できる。別にネット上で沢山の画像を見ることもできる。
 最初に次のような記述がある。「この話の目的は読む人に最大限の恐怖・吐き気と嫌悪を感じさせ、エスペラントの歴史記録によるユダヤ問題の無視やホロコーストについて沈黙することを避けるためである。(子供や気持ちの弱い人には適さないので注意)」

 Lidia Zamenhof とあるが、実は彼女がいつどこでどのようにして亡くなったのかは明かではないし、今後も明らかにされることはないであろうという。彼女が目撃された最後の情報は、1942年9月5日、当時14歳の Eva Toren によるもので、ワルシャワゲットーから選抜されトレブリンカへの貨物列車に追い立てられる数百人のユダヤ人の中にいた。パニックになっている他の人々とは違い、彼女は女王のように背を伸ばして堂々と歩いていたという。
 このあとの彼女の消息については全く分からないが、彼女が経験したであろう悲惨な状況について貨物列車の様子からトレブリンカ到着・ガス室・死後の処理に至るまでの事実が20項目に分けてなまなましく語られる。気の弱い人には読み通すのがつらいかも知れない。

 移送列車の様子については以前紹介したことのあるドキュメント風の小説「Sensorteco(運命でなく)」を思い出す。今回読んだ本では事実を簡単に書いてある(それでも悲惨な状況充分にわかるが)が、Sensorteco はもっと具体的な状況が臨場感を持って描かれている。
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リディア・ザメンホフとワルシャワ・ゲットー

2020-08-29 | 読書ノート



 リディア・ザメンホフはエスペラントの創設者ルドヴィコ・ザメンホフの末娘である。9才の時にエスペラントを学び、優れたエスペランチストとして、祖国ポーランドだけでなく、アメリカやフランスなどでもエスペラントの教師として活躍した。父の提唱したホモラニスモを基礎にした活動を続け、バハイ教の熱心な信者でもあった。翻訳作品では「クオ・バディス」がとくに知られている。
 ワルシャワ・ゲットーに収容されたあと、最後はトレブリンカ強制収容所で1942年秋頃に殺害された。

 この本はゲットーにおけるリディアとその家族の生活を描く9場の戯曲である。作者は Julian Modest(1952-)、ブルガリアの作家である。ブルガリア語だけでなく、エスペラント原作の小説もたくさん書いていおり、「Ni vivos!」は最も早い時期の作品である。

 迫りくる狂気の時とゲットーにおける危険と隣り合わせの生活が、リディアの夢の場面やナチス親衛隊のリアルな場面などを取り混ぜながら描かれる。
 リディアはワルシャワ・ゲットーで姉のソフィア、兄のアダムの妻ワンダ、その子供ルドヴィーコなどと一緒に住んでいる。戦争が始まろうとしており、ユダヤ人への迫害が始まっている。リディアはいち早くその危険を悟るが、エスペラントの生徒による脱出への協力を拒否し続ける。それは、他の人たちをおいて自分だけが逃げることは出来ないということもあったが、それよりもすべては神の御心にという信仰と、たとえ自分が死んでもエスペラントは生き続けるという確信であった。親衛隊の尋問に対しても彼女は毅然としてエスペラントについて語るのだった。
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境界線上のMarina

2020-08-25 | 読書ノート


 今回の読書ノートは「Marina cxe la limo」。作者の Sten Johansson(1950-)については、このブログでも何回か取り上げている。スエーデンの作家・翻訳家で、初心者向けの易しい話や書評なども多く発表している。以前は楽しいホームページを開設していたが、今は見つからなかった。
 やはり以前紹介したことがあるが、ムーミンシリーズの翻訳もある。シリーズのうち本の形で出版されているのは Sten Johansson の訳ではなく、かなり読みにくいが、Johansson 訳は読みやすい。現在も Bonvenon al MUMINVALO というサイトで読むことが出来る。

 今回読んだのは現代を描く小説。楽天で偶然見つけたもので「Marina」という小説の続編のようだが、前作を読んでいなくても全く差し支えはない。Marina は50才くらいの女性で、10才以上年下の妻 Helle がいる。女同士で結婚しているわけで、2人とも「妻」である。日本語にすれば「婦婦」であろうか。Marina はかつて働いたことのあるブラジルの孤児院から2人の子供を養子に引き取って育てている。反抗期前の娘 Lotti は誰からも愛されるダンスに夢中の少女だが、その兄 Anton は極右団体の仲間に入って2人の母親に反発している。さらに Helle が若い女性と浮気をしたことがわかって・・・。

 スエーデンには中東などからの避難民が増えて、一部では黒人やイスラム教徒に対する憎悪が広がっている。2016年7月14日、フランスのニースでトラックテロが起こり84人が死亡、翌日にはトルコで軍事クーデターが失敗する。こういった主にヨーロッパにおける騒然とした空気を背景に家族の日常生活が物語られる。極右団体の憎悪は同性愛者やジャーナリストなどにも向けられ、彼らの住宅などへの放火事件が多数起きる。Anton が放火事件の実行犯の一人として逮捕され・・・。

 もう一人の重要人物、Marina の旧友である Tomas がナチズム・ファシズムや反ユダヤ思想・優生思想などの歴史やその科学的検証について、人類の歴史にまでさかのぼって、Anton との会話などで語る。この小説の中ではかなり啓蒙的な部分で、Anton はいい加減うんざりして「また共産主義の宣伝が始まった」などと言うが、取り上げるテーマの幅が広く、説得力もある。私もつい1970年代まで、スエーデンで障害者などに対する強制不妊手術が行われていたことを初めて知った。ついでに調べてみたら、これは欧米先進国(日本も含めて)でかなり広く行われていた。

 読みやすくて、ストーリーも面白い、そして現代の最も先鋭的な問題について認識する入り口にもなる小説である。
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名探偵カッレくん

2020-08-20 | 読書ノート


 スエーデンの児童文学者アストリッド・リンドグレーン(1907-2002)の代表作の一つ。カッレくんシリーズの一冊である。最近作られたネット上の図書館「Literaturo en Esperanto」でダウンロードしたもの。
 リンドグレーンのエスペラント訳は以前このブログで「Mio, mia filo」を紹介したことがある。他にも「スモーランドのエミール」「長靴下のピッピ」なども読んだが、ずっと以前なのでこのブログには書いていない。
 エス文は易しくて楽に読める。かわいい挿し絵も楽しい。気楽に読める一冊である。

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楽しい話

2020-08-19 | 読書ノート


 最近ネットで拾ったエスペラント原作の短編集である。作者の Pejno Simono(1941-)はイギリス出身のエスペランチストだが、若い頃からドイツに住んでいる。コンピュータなどの技術者で、エスペラントでは英語・フランス語・ドイツ語から詩を訳したり、短編小説や評論などを Monato 誌などに発表している。数回にわたってエスペラント活動から離れたこともあるという。
 
 100ページほどの中に「2つの命を持つネコ」など10編の短編小説が収められている。fatamorgano, sxriko, iriso といった私にはあまりなじみのない単語(mimiragxo, krio, pupilo など、普通の単語をなぜ使わないのかと思ってしまう)がいくつか使われているが、とくに気になったのは ascendi である。これは suprenigxi の代わりによく使われる単語で、これに対する malsuprenigxi にはふつう descendi が使われる。ところが、ここでは malascendi が使われているのだ。

 作品の一つ「La lernemulo:勉強家」を簡単に紹介してみよう。

 Helmuto が今度の休暇にはフランスに行こうといいだした時、妻の Helga はあまり乗り気にはなれなかった。もちろんフランスは憧れの国ではあったが、問題は夫のフランス語である。彼はドイツ語と英語が話せるが、フランス語の習得には失敗したことがある。Helmuto は文化的な人間はドイツ語・英語。フランス語・スペイン語が話せるべきだ、スペイン語はこの次として、今やフランス語の時が来たというのである。Helga にとっての問題は、Helmuto が何かを始めるとあまりにも夢中になりすぎるのである。
 あるとき彼が電子工学に夢中になっていた時のことである。
 ーねえ、今月は電気代がずいぶんかかったわよ。
 ーMmmm
 ー聞いているの? 銀行残高がほとんどないのよ、どうにかしないと・・・。
 ーMmmm
 ーこのアホめ!
 ーMmmm
 ー私美容師さんと寝たわよ。ベッドの中ではあなたよりよほど上手だったわ。
 ーMmmm。うん? 何か言ったかい、可愛い子ネズミちゃん?

 カメラに夢中になった時は、たまりかねた Helga が何台ものカメラやレンズを2階の窓から放り投げてしまった。
 ポーランドの目医者か何かが考え出したけったいな計画言語に夢中になった時もあった。居間の書棚の真ん中をみすぼらしいエスペラントの本が占めるようになり、Helga は訪ねてきた隣人たちに自分では何の興味も持てないエスペラントについて説明をしなければならなくなった。たった数週間で学べる、とても美しくて表現力をもつ、すべての人類が話すべき言葉だ(その全人類の中から私だけは除外してほしいわ)・・・。Helmuto が音楽テープの音楽を消してエスペラントのポーランド放送を録音するようになったとき、Helga はついに爆発してしまい、Helmuto はバラバラに引き裂かれたエスペラントの本をバラの花壇で見つけることになったのである。
 フランス語の勉強が始まり、再び返事をしない夫、本の集積、ラジオ放送の録音などが始まったが、Helga は我慢する。フランス語なら隣人たちにはむしろ誇り高く説明できるし、フランスでのバカンスも楽しみではある。
 6か月後、会社の車を借りて(ガソリン代まで会社持ちである!)2人の子供と車でフランスに向けて出発する。Helmuto は2冊の学習書を仕上げ、ジュール・ベルヌの小説を読んだりして語彙力もつけていた。途中、のどが渇いたという妻や子供たちに、立ち寄った店でコカ・コーラを注文するが・・・

 中途半端ではあるがここまでにしておく。興味を持った人は、ネット検索で見つかると思うのでダウンロードして読んで下さい。
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スペインの一地方で

2020-08-15 | 読書ノート


 世界エスペラント協会の「東西双書」の一冊。東西双書とは、日本エスペラント協会のHPから引用すると、
 「1957年7月29日にユネスコ事務総長は協力機関に対し、「東西文化価値の相互交流に関する大企画」に対しての協力を要請しました。世界エスペラント協会(UEA)はこれに呼応して委員会や識者間での討議を経て、「ユネスコと協力関係にある世界エスペラント協会後援の出版『東西双書』」の刊行を決めました。本双書に入る作品は世界エスペラント協会の認定を得た優れた翻訳です。」
 ヨーロッパとアジアだけでなく、北と南、文字文化と口承文化など、異質の文化の交流・相互理解を目指すものである。日本人作家の作品では次のものが入っている。
 「森鴎外作品集」、井原西鶴「好色五人女」、谷崎潤一郎「春琴抄」、川端康成「雪国」、井上 靖「楼蘭・異域の人」、有吉佐和子「華岡青洲の妻」
 すでに絶版になっているものもあるが、最近何冊かを UEA から取り寄せた。これもその一冊である。

 今回読んだのは「Memorajxoj de kampara knabo」である。作者の Xose Neira Vilas(1928-2015)はスペイン北西部のガリシア地方(サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の終着地で有名)に生まれた。21才でブエノスアイレスに移ってジャーナリズムについて学び、作家生活を始める。ガリシア出身の作家たちと交流、1961年にはキューバの文学・語学学会のガリシア部門を創設、子供向け雑誌の編集などに携わる。1992年ガリシアに戻り、王立アカデミーの会員になる。

 この本は最初は1961年にブエノスアイレスで発行(原作はガリシア語)、1968年にはガリシアでも発行された。作者自身によるスペイン語版も発行され、キューバやスペインで広がった。スペイン国内の他言語(カタルーニャ語・バスク語など)にも訳され、ポルトガル語・イタリア語・フランス語・英語・ルーマニア・日本語などにも訳されている。1970年にはメキシコ国立劇団が演劇を上演(スペイン語)、1971年にはマヤ語でも上演された。
 1976年フランコ独裁政治が終わるとガリシアの公立学校の読本になり、スペインの民主化にも寄与した。

 ガリシアはヨーロッパで最も小さい民族の一つであり、長くスペイン国内で抑圧されてきた。この小説は16編のエピソードからなり、スペイン内戦直後の1940年代のガリシア地方での、貧困と政治的・宗教的・階級的抑圧の元での一人の青年(Balbino)の生き方を描いている。子供のための文学であり、同時に大人のための文学でもある。
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貨幣の表と裏

2020-08-11 | 読書ノート


 La granda kaldrono からいくつか面白かった表現を拾ってみた。

・kniklokora homo:臆病者
・tusetis sian malkontenton:軽い咳払いで不満を表した
・forlico:休暇(=forpermeso)
・naskite en sxia kapo, la vestprobremo kukolide ekmonopolis gxin...:彼女の頭に生まれた衣服の問題がカッコウのヒナのように頭を独占し始めた
・rigardante senvide:見るともなしに見て(?)
・kapo - vosto:貨幣の表と裏・・・辞書には fronto - dorso、bildfranko - dorsa flanko、averso - reverso などがある。
・mi devis digi mian spritemon:言いたいことをこらえる
・fieblo:最悪の可能性
・Se li estis tiel memfida, ke li povos kiamvole arangxi dungon...:もし彼がいつでも自分の意志で雇うことが出来るという自信があるのなら・・・
・se vi kieleble povos:できることなら
・cxitiele:このように
・ta-ta-is:おいおい(やれやれ)と反応した
・operaj sopranulinoj estas lauxtradicie dike malbelaj:オペラのソプラノは伝統的に太って不美人だ。
 elefanta figuro de tradicia mezagxa sopranulino:中年ソプラノの象のような姿(というイメージ)・・・実際には若くて美しい歌手が登場する。ちなみに私の歌の先生もきれいでスマートなソプラノ歌手である。
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