
エスペランチストのドイツ兵が銃殺寸前のエスペランチストを救ったといった話はいくつかある。「Lidia」には Lidia を救おうとした多くの人たちの努力が描かれているが、そのひとつとして次のような話がある。
ナチスドイツがオランダを占領した後、Arnhermo のエスペラントの家を管理していたエスペランチストたちは、閉じられたドアに貼ってある紙片を見て驚いた。そこにはエスペラントで「Forlasita estas la domo. Vizitanto ene povas eniri.Cxu ne plu iras Forta Voko tra la mondo? Kuragxon, baldaux alia tempo venos! vivu Esperanto! 16a julio 1940. Germana Esperantisto.(家は見放されている。訪問者は中に入ることが出来ない。もう強い呼び声はこの世界には来ないのか? 勇気を持て! まもなく新しい時代がやってくる! エスペラント万歳! 1940年7月16日。ドイツのエスペランチスト」
1930年代の終わり頃、戦争が避けられなくなっていた時、ドイツの若いバハイ教徒たちはジレンマに陥っていた。バハイの教えによって、国家に従う義務があり、バハイの教えに従えば、闘いたくはない*。彼らは、Shogi Effendi (当時のバハイ教の指導者)に手紙を書いた。Shogi は彼らに「もし、あなたたちの殺したくないという望みが真面目なものなら、神があなたたちを助けるでしょう」という答えを送った。若者たちは軍に入り、一人を除いて1週間の間に全員が戦死した。その一人とは14歳の Fritz Macco である。彼はなぜ自分一人死ねなかったのかと悩む。自分はまだ真剣に神を信じていなかったのだろうか? 救急車の運転手として、Fritz はワルシャワに派遣される。おそらく Fritz はそこで Lidia を見つけたのであろう。そして彼女を少なくとも2回は訪ねている。一度は食料を届け、もう一度は逃げるように説得するために。彼はまさにそのために命を助けられたのだと信じた。Lidia は彼の申し出を拒否し、自分の家族と一緒にいることを望んだ。Frizt は後にバハイ教で活動したとして逮捕された自分の母親を、収容所送りから救う。そして、1944年9月、ポーランド北部に侵攻してきたソ連軍の犠牲になって死亡した。
いまではこの話を裏付けるものはないが、ドイツ兵が Lidia を救おうとしたという話は幾人かの人々によって知られている。
* リディア自身も、あらゆる戦いをしないという信念を持っていた。「階級闘争」も戦いの1つなので、当時台頭していた労働者エスペラント運動や SAT とは接触しなかった。