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脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

昭和の時代のよき会社(^^)

2017年04月15日 17時35分25秒 | ブラック企業
働き方改革(^^)政府は推進しようとしています。
年間の残業時間や繁忙期の上限とか。
ブラック企業とかブラックバイトとか
ここ二、三年よく耳にしますが
私自身の経験を振り返ると?
世間では悪評高い消費者金融業界へ初めて就職したのが昭和56年。
今から36年前(^^)サラ金イコール悪。
就職したのは業界大手。今ではメガバンク系列の会社です。
昭和56年と言えば一般的な会社でも
まだ週休二日制の会社も少なく
残業は深夜、徹夜当たり前の上場会社は数多くある時代でしたが
サラ金と聞くと過酷な労働と思われますが?
私が入社した頃は新店舗オープンラッシュの始まりで私も例外なく新店舗に配属。
残業時間は月に20時間もありません。
早朝のティッシュ配布で月10時間
新店舗なので督促するほど顧客もなく
新規貸付ばっかり。だから営業終了すると締めをしてから、すぐ帰宅。
休みは月末最終土曜日以外の土曜日は休み。
日曜、祝日も休み(^^)
だからラクチン。それで給料は友達と比べても高い。入社は1月でしたが夏のボーナスは10万円少し、その年の冬は40万くらい頂きました(^^)
ティッシュ配布で 早朝出勤すると
店長が近くの喫茶店からモーニングセットの出前を取ってくれたり。
世間ではサラ金サラ金と言われてましたが
とても居心地が良かったのです。
でも?
それは小型店舗や新店舗。
よく年私は大型店舗へ異動となりました。
その店舗は業界でも最も融資残高、顧客数を持っていて、あの業界トップだった武富士も店舗視察に来たそうです。
大阪梅田の路地裏にあった、その店舗では
さすがに残業時間は半端なく深夜徹夜の訪問督促もしました。
でも?残業代は全て出て20歳そこそこの私の給料は驚きの金額。
え?ボーナスちゃうん?って感じでした。
が、やっばり体調不良に精神的にも疲弊し退職しちゃいました。
転職したのは家電量販店。
兵庫県発祥の関西では、そこそこ有名な会社。
今ではエディオンになりましたが( ̄▽ ̄)
この会社は休みはキッチリ取れましたが残業代は出ません。月30時間くらいは残業してました。
でもパワハラもなく休みはキッチリ取れました。
ブラックではなく限りなくホワイトに近いグレーってところでしょうか。
でも半年程で退職( ̄▽ ̄)
そして、やっばり給料の高い消費者金融へ。
以前から業界では労働環境がいいと聞いていた、大手消費者金融へ転職。
確かに
休みもキッチリ。残業も少なく管理部門でも月30時間の残業。
基本、債務者の自宅訪問はしませんでした。
主に電話で督促(^^)
訪問ばかりすると怒られるときもありました。
入社当時は隔週二日制の土曜日休みが、その後は完全週休二日制へ。
有給も取りやすく誕生月には有給を一日、絶対に取れる環境も。
年末には家族へボーナスが。
独身の社員は両親へ
既婚は奥様に現金書留でお金と社長の手紙。
毎年、慰安旅行はもちろん会社負担。
昭和の頃までは運動会も。
支店間のコミュニケーションもよくて
支店間の合同の飲み会もしょっ中(^^)
パワハラは全くありませんでした。
支店成績や月の目標は達成するための話し合いは緊張感はありましたが追求は厳しくありません。
その代わり人事考課、支店評価にはキッチリ跳ね返るので自ずと頑張らないと。
居心地は良かったので24年も続ける事が出来たと思います。
話は逸れましたが
サラ金サラ金と差別もされましたが
その会社が
昭和の頃から従業員が働く環境を整えていたのに
平成の現代、
あの電通にしろ大企業がブラックとなっていて
政府が、今頃になって働き方改革?
遅すぎ
企業はトップの考え方1つで文化はきまります。
私が2度目に勤めた消費者金融会社。
たまたま管理部門の食事会の席に支社長と創業者である社長が出席されたときのこと。
たまたま私と同僚の前に支社長と創業社長が座ったのです。
今でも覚えています。
支社長が社長に
『とにかく社員が辞めていきます。やはりサラ金イメージで親に反対されたり督促業務が嫌なのだそうです。』
その支社長の一言に社員は寂しそうな顔をされました。
支社長は『今、人事部に毎月、これくらいの社員証が返っています。』
人差し指と親指で社員証の厚さを表すと
『魅力がないんだ。消費者金融でも、ちゃんとしている会社にしないとなぁ。魅力を持たないと。会社として。』社長は、その一言を言ったあと
『君たち、今度、私の部屋に来ないか?』
思いもかけない一言。
私は遠慮したのですが隣にいた同僚は
『え?いいんですか?是非、行きたいです。』
と、まぁこんな会話も覚えています。
その同僚は翌日、本社の社長室へと本当に行って来たのです。
当時、全国400支店、融資残高も1500億円くらいだったかなぁ
会社としては大きい方だと思います。
世間では悪評高い消費者金融。
でも、ちゃんとした会社もあったんです。
当時、武富士さんやプロミスさんからは
『お宅の会社はいいですね。早く帰れて。』と言われたり。でも早く帰れるだけではないんだよー(^^)って心の中で思っていた昔々の話でした。

徒然なるままに( ̄▽ ̄)死の恐怖が減った?

2017年04月15日 10時30分16秒 | 病気になって
脳出血後遺症(><)
身体は不自由になり

行動にも多くの制限が(><)
もちろん車の運転も出来なくなり車の🚘

食べ物にも制限 血圧が上がらないような。
嚥下障害も少しあるので、口一杯に含むことは
出来ません
普通の人なら20分で食べきれる量でもわたしには40分かかります。

目も少し角度を変えて眼を向けると二重に重なり見えます👀

不自由度はかなりのもの。
でも??
今年で病を発症してから丸四年( ̄▽ ̄)

物欲??極めて少なく、あればいい程度
ブランド物?要りません。
お金?ありますから。今で充分。
セックス?なければないでよし( ̄▽ ̄)

多くの執着と拘りを無くしていくと
なんと楽なことか。
欲しいものがないことは
ある意味『自由』なんだと気付きました。
もらうより
与える方が嬉しいなぁ😊

病は貴重なものを教えてくれたような。
脳出血は死亡率の高い病
生かして頂いたことは大きな感謝(^^)

死ぬことへの恐怖は
かなり減りました。

これも幸せなこと。
魂の世界があることを信じ
人は輪廻転生することを信じていると
心は穏やかになります。
この世で生きて行く意味を知ったとき
死への恐怖は減ります。
死の恐怖からの解放は
大きな幸せになるものなのだと。

これも。
病のお陰なりけり( ̄▽ ̄)

病で身体は不自由に。でも自由にもなれる(^^)

2017年04月15日 10時20分35秒 | 病気になって
四年ほど前に脳出血を患い半年入院しました(^^;;
最初の1ヶ月はベッドの上での生活(^^;;
とにかく動くことが出来ません。
鉛のように重くなった左腕と左脚には感覚がなく
オシッコは管を通され、ご飯は形もない
スムージーのようなご飯
自分で食べることが出来ず食べさせてもらうのですが嚥下障害も、あり飲み込みも中々、難しい。
便は、オムツ(^^;;出たらナースコールを押し
オムツを交換。
お尻も拭いてもらいます。

とにかく丸一日、ベッドの上。
唯一、動くときはリハビリのとき。
リハビリの先生が部屋まで来てくれて看護師と2人がかりで車椅子へと移動。
なんせ身長185の私は1人ではムリみたい。

リハビリを終えて病室に戻り、また1人
ベッドの上🛌

この1ヶ月、多くの事を考えさせられました。
普通に歩けること。
普通にご飯を食べる事
普通に手足が動くこと。
トイレに行きオシッコできること。
お風呂に入れること。
ベッドの近くにテーブルやテレビが置いてありますがテレビカード一枚を機械に挿入出来ません。

朝ごはんのとき
ヤクルトジョアが出てくるのですが
付いてるストローを出して差し込むことも出来ません。
腕には点滴。
倒れて一週間は3本。
そして2週間目には2本
次の病院へ転院するころには点滴も外され
なんとか、かんとか自分で車椅子で移動出来るようになり、オムツも取れました。
病は多くのことを経験させてくれました。
どれだけ人は普通の事が幸せなのか。を。
そして何でもないような事が幸せであるということ。
足るを知る。ことを教えられました(^^;;
毎日が健康で三食食べられ穏やかに眠る。
人と話が出来る。

病の瞬間
何で?何で?おれなんや?
病を悔やみましたが現実の不自由さ
これを受け入れない限り、前に進む事は出来ないんや!と無意識ながら思っていたのかも知れません。
今では手の震えや口から食べ物が溢れても
妻も娘も『もう、お父さん、手がヨイヨイやから、ゆっくり食べて、ほら、口の横にお弁当つけてるよ!(^^)』
そか?どこの公園に行く?
笑顔に変えて会話が出来るようになりました。
家族に気遣いさせることは家の中が重くなります。
介護されてることを団欒に変えて
出来ないことは出来ないと
妻に頼むと
『子供みたい👶』妻や子供から言われてますが
そこには笑顔があります。

病を受け入れること。
そう簡単な事ではありません。
でも悔やんだところで元に戻るわけでもないのですから病は宿命だったんだ。
そう受け入れ、病から何を学ぶのか?

これが私の人生の問題集の最終課題なのかも知れません。

こんな身体でも
家族を守る事、義母の認知症にも向き合うこと。
周りの人達がわたし病を忘れさせること。
病で涙するのではなく
笑顔に。
不自由だけど
自由になること。
それが病から学ぶ何かではないか?

そう思う今日この頃です。(^^)

病で多くの事を失い多くの事に気づきました(^^)

2017年04月15日 09時30分12秒 | 病気になって
脳出血を起こしたことで仕事ができなくなりました(><)
仕事を失うことは仕事を通じて得ていたものや人との繋がりを失い社会からの孤立感を味わうことで喪失感など多くを失います。
仕事には目標、夢、希望、やりがい、生きがい、家族から頼られること。などなど多くを兼ね備えたのが『仕事』
所得を得ることで税金を納められることの貢献も仕事を失うと出来ません。
そんな私が、私達家族が生活させて頂いてるのは
本当に周りに支えられ、助けられ生きている。
皆さまのお陰でしかありません。
感謝しか湧き上がってこないのです。
病になる前は
当たり前のように仕事を行い
当たり前のように生活をできていながら
時に不平不満、愚痴をこぼしていました。
少しでもより良い生活をするために。
所得税や社会保険、厚生年金など給料から差し引かれ文句を言ってちあことも。

病は、そんな傲慢で周りから奪い続けてきたから
報いが病という形で跳ね返ってきたのです。

奪うと奪われる。
脳出血で死なせることは楽を与える事になるのでしょう。天は命を繋ぎ残る人生で何かを気付かせるつもりで私は生かされたのだと思います。
昨日、
労災年金、障害厚生年金を受け取りました。
三食食べられることの有り難さ。
企業が労災保険料を支払い
就業者の方々が年金保険料を今、支払って頂いてるから三食食べられています。
ネットバンクでの振込欄を見ながら『有難い』
心の底から感謝がこみ上げて来ました。

昨夜、妻に仕事もせず税金も払えず
もらうばっかりで申し訳ないなぁ。と零すと
『お父さんは中学生の頃から働いてたんやから早めにリタイアしただけ。13歳で働き始めて53歳で引退やん。計算あうし(^^)学校行きながらクラブやりながら算盤塾も行きながら朝刊配ってたんやろ?今でいう過重労働やん。中学生にとってのその、シンドさと50越えてのシンドさは比べられへんよ。でも中学生のお父さん、朝四時に起きて朝刊配って(^^)毎日休みなし。そして学校行って、クラブして夕方まで学校。そこから週3日算盤はキツイんと違うかな?だから引退していいよって神様が言ってくれたと思えば?』
妻は慰めてくれましたが。

社会貢献したいなぁ。
でも?
私は恵まれている。
そう思います(^^)

徒然なるままに(^^)宇宙空間は神秘的?

2017年04月15日 08時15分25秒 | スピリチュアル
宇宙の神秘(^^)
小学校2、3年生だったと思います。
学校に何種類かの図鑑や本を売りに来ると先生がパンフレットを終礼、当時、終わりの会で渡してくれました。
わたしは迷うことなく『宇宙図鑑』を選んで母にねだったのです。
図鑑といってもページ数は厚くなくB5版ほどの大きさ(^^)
発売日が待ち遠しくワクワク(^^)
学校の中庭で販売され早速、買いましたね。
ページを開くと太陽系の図や銀河の写真を見るとワクワク(^^)太陽系の惑星では木星と土星に凄く惹かれました。
土星の輪が不思議で。
どうやって輪ができたのかなぁ。とか。
宇宙の空間。
その中に惑星🌍が規則正しく太陽の周りをクルクル(^^)
なんとも神秘的な宇宙空間。
魅せられました。
そして今、スピリチャルな世界に魅せられていると宇宙に私達は生かされてる感が凄くあるんです。
全てがエネルギー。
惑星も宇宙も人も鉱物も。
そして全てのものに波動がある。
そしてシンプルだけど?
絶対的な法則が宇宙にあって全ての
エネルギー体は、その法則に従って動き、そして生きている。
もしかしたら宇宙の外側にも何かあるのではないか?
異次元空間??
ほんとは宇宙って凄く狭いのかも?
とか。
私達は
魂というエネルギー体。
その魂が肉体というエネルギー体に入って
この地上で生きている。
肉体を通して感じる事、
肉体を通して不便さを感じること
魂の乗り物。
話は逸れましたが
子供の頃
宇宙図鑑を何時間見ても飽きなかった
あの頃。
なんで?
そんなに魅せられたのかなあ。
魂の故郷がそこに?
あるから?
なんとなくそう思う今日この頃です。