深キ眠リニ現ヲミル

放浪の凡人、中庸の雑記です。
SSなど綴る事アリ。

思考の限界

2006年05月12日 | 深キ眠リニ現ヲミル(自己哲学)

思考の限界を考えてみた。

 たとえば思考に限界はないとする人は、確かに主観的には思考の限界はないとしても客観的にみれば思考の限界の余地がないとは言い切れないだろう。仮に限界があった場合に彼はそれを証明できない。彼はその限界に制限されているのだから、その認識を超えた存在を証明はできない。

 逆に思考の限界が存在していると考える人間の場合は、主観的に限界が存在している。そのものは既に限界を決定してしまっているのだから、神が隣にいない以上その主観的思考限界と客観的思考限界が同一、つまり思考が全てを支配し得る(思考限界は存在しない)、といえない。それが真か偽かは別として。

 客観的に思考に限界がなかったとしても、限界は存在する。限界は拡張することによって、その全てに近づいていくけれども、全てが何であるかを知りえない人間にとって、その拡張によって全てに到達しえたとしてもそれは全てではない。その全てを知りえるのは神以外のなにものでもない。

 ついに私は自分の書いていることすら、自分の支配の範疇にない状態となった。自分の思考をこうして言葉にかえるということは、多くの錯誤をもたらす。人間はひとつの言葉に、自分なりの解釈をみつけることでその意味を拡張したり、変節させたりしてきた。言葉は多くの誤解を生む。それは言葉の多義性や、曖昧さにょる。この人間の特殊な思考・意思伝達手段は非常に不完全である。この言葉が人間の思考をある意味で曇らせている気がしてならない。しかし、逆にこの言葉あるからこそここにこういう文章を残せるし、一定の思考が可能であるのだが。

 今日出会ったインターネット上の書評は遥かに私の思考範囲を超えていた。人は思った以上に頭が良くなれるらしいということを思った。しかし、やはり人間の枷はある意味で、その基幹である言葉にあるのだということを強く感じた。

 思考の限界はそれが言語によっている限り一定の限界を持っているのではないかというのが、結論であるが、これが真であるかは全くもって私の思考の範囲外にあるのかもしれない。しかし、考えることを放棄したくはない。


とにかく、今日は纏まらなかったが、ただ思うままに自分の考えを書いた。後の自分はこれを見てなんと思うか。

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