深キ眠リニ現ヲミル

放浪の凡人、中庸の雑記です。
SSなど綴る事アリ。

プール×老人×刑事

2006年07月29日 | 小説/SS
 彼が市営プール第二にやってきたのは、暇潰しだからでもなく、泳ぎたいという純粋理由からでもなかった。ただ、彼は逃げていたのだ。
 何から逃げていた?
 言い表しづらい。もともと彼は大変臆病だった。自分の意見を常に押し込めて、人との調和を図っていた。それは彼が優しいからではなく、彼が臆病な故であった。
 そうして衝突をさけ、人を避け今まで歩いてきたのだった。
 ぼんやりとぐちゃぐちゃ考えながら、彼はハーフパンツ系の左右に白と赤のラインがシンプルに入った黒い海パンを穿いて、プールサイドへと出た。
 市営プール第二は山の中にある。そのお陰か何か、人影は極端に少ない。近くに崖があって、周辺から生える木や草がフェンスを歪めてプールサイドまで侵食していた。プールサイドのコンクリートもあちこち崩れて、歩きづらい。プールの中も中で、普通完全に透き通って見えるプールが、底までみえず、白くにごっている。
 彼は大きく伸びをしてから、プールサイドにすえつけてあるコカコーラ社のロゴの入った風化したプラスティックのベンチに腰掛けた。
 別に泳ぐ気にはならない。そもそも、泳ぐのはそんなに好きではない。
 風がそよぐ。今度は凪ぐ。太陽は翳ったり出たりを繰り返している。セミも時折鳴いたり鳴かなかったりを繰り返している。
 彼は数日前からのことを考えていた。
 どうしてあんな事になってしまったのだろう。これが臆病な自分の顛末なのだろうか。彼の口の中に苦い味が広がる。


 柿本権左衛門は七十を越える高齢だった。この日も彼は自宅から三分ほどの市営プール第二にやってきていた。このプールは彼にとっては自分の家の一部のようなものであった。だから、彼がこのプールにいつもは見かけない青年の顔を認めるまでに時間は掛からなかった。
 おやどうしたもんか。最初は別段気に留めずに、これまたいつものように乾布摩擦をはじめた。
 このとき、彼は違和感を感じた。しかし、それは柿本にとって重要視するようなものではなく、彼はすぐにそれを忘却の穴に捨てた。


 彼は学生だった。芸術を志すために美大に入った。しかし、そこでも彼は、彼のその性格のために多くを失った。片思いの女性、鬼才と呼ばれた先輩、自分の志……。全てを裏切りなくした。
 彼はそれでもまだ変らなかった。逃げていた。しかし、逃げる先々も必ず、彼に決断を迫った。そして、また逃げた。
 女性は煙のようにうっすら、うっすら消えていった。彼は先輩を止めたかった。けれど何にも出来なかった。自分にはいいたい言葉が沢山あったのに、いつまでも言えなかった。
 そして、自分の志をもたやすく捨てようとした。
 それは、弾みだった。ほんの一瞬の修羅が宿った。気がついたときには、目の前で呻く心理カウンセラー、右手には逆手に持った血に赤く染まった太いペン。
 たまらず飛び出した。もう終わりだそんな風に思ったけれども、迫り来る裁きを前に彼はまた逃げ出した。
 青年は右手を、久々に登場した太陽にすかしてみた。
 まだ嫌な匂いが漂っている気がする。
 彼は気が滅入って、貧血患者のようにベンチで寝転んだ。

 
 
 柿本はゆっくりと水につかり、やがてクロールで泳ぎ始めた。手を回すこと三回に一回呼吸するため顔を上げる。ゆっくり左、右、左、右・・・と続けた。
 25メートルで折り返す。勿論全中するのは高齢にこたえるので、手をついて、身をこごめて足で壁を蹴って、折り返す。
 同じペースで戻っていく。心地よい水温。右、左、右、左……。
 ん?
 彼はプールサイドのベンチで寝転んだ青年を目に留めた。
 どうしたんじゃろか……。
 一瞬間そう考えたのが、泳ぎのリズムを崩した。
 っ……!!
 呼吸のリズムが狂って、間違えて水を飲んでしまう。手と足も滅茶苦茶に動き始める。脳はパニックを起こし、何かにつかまれという指示を出したり、空気を吸えという命令をあちこちに出しては取り消したりしている。


 風が何度目か凪いだとき、彼の耳に不規則なリズムの水音が入ってきた。
 ようやく平静を取り戻しかけた彼は、目を開けて再び平平静を失った。
 彼のいるサイドから三つ目のコースのど真ん中で、波しぶきが上がっていた。
 すぐに直感した。
 「誰か、おぼれている!!」
 頭が真っ白になっていく。
 まただ、また……。どうして決めなければならない事が起こるんだ。どうして放って置いてくれないのだ。
 彼は頭をふるって再び目を瞑った。
 
 バシャバシャバシャ……

 僕に助けられるはずがない。

 バシャバシャバシャ……

 どうして自分なんだ。他に誰かいないのか。

 バシャバシャバシャ……

 このままじゃ、死んでしまう。

 バシャバシャ……

 ……あの人を救えば、もしかしたら僕は許されるのか。

 バシャバシャ……

 いや、そんな事はない。許されることなんてないんだ。

 バシャ……

 ……僕はどうしたいんだ?なぁ。

 バシャ……

 ……

 バシャ……

 ……助ける!!

 
 次の瞬間彼の目の前には死神がやってきていた。死神なんてものは初めて見るが、結構気持ちのいい青年だな、と彼は思った。願わくは巨乳の黒髪少女が良かったのだが、彼はそう思ったが、一人で行くよりはこの青年がいるほうが幾分かましだと思った。手を差し伸べる青年。
 もう苦しい時間は終わった。そろそろ、いくべき時がきたのか。
 そう思った。
 同じく彼に手を伸ばす。

「……っ」

「……いっ」

「……おいっ」

「しっかりしろ。大丈夫か!!」
 逞しい男の声が響く。

 がっちりした大男は久しぶりに、市営プール第二にやってきていた。大昔父親に連れてきてもらって以来だった。海パンを穿いている時、突然プールで激しい水音がした。
 彼は職業上のクセで、大きな音に反応してすぐにプールサイドに駆け込んでいった。そこにはおぼれる老人と、浮いている一人の男がいた。 
 
 というのが刑事、柿本潤一郎による話のあらましだった。
「まったく心配させないでくださいよ父さん」
 大男は顔に似合わないヘタレ声で言った。
「お前こそ、いいときに邪魔しやがって」
「邪魔?」
「せっかく別嬪さんの死神さんとパフパフしようとしていたところだったのに」
 老人は本当に不機嫌そうに言う。
「父さん……」
 その声には半ば呆れと、半ば安堵がこもっていた。
 青年はぼうっとその光景を見ていた。結局自分は、何もできなかったか。
 心に深い溜息を落として、彼は立ち上がる。
「君、依田誠一郎くんだね」
 柿本(子)が青年の背中に声を投げかける。
 ビクリとして立ち止まる青年。ゆっくりと振り向く。その顔は悲壮に満ちていた。
「俺は刑事をやっているんだが」
 柿本(子)は鋭い目つきを利かせる。
「……」
 依田青年は無言で自身の行動を肯定した。自分の犯したことを。
「君は……」
「ありがとうな。青年」
 緊張感のない声で割り込んだのは、老柿本。
「え?」
「これで、今日はこいつのおごりで『サキちゃん』に会えるだろうて」
 柿本(息子)はぽかんとして父親を見た。
「父さん」
「いやいや、あの巨乳死神ちゃんもよかったがの。やっぱりわしは、『サキちゃん』の太ももが捨てきれんからに」
 二人が唖然としていると、老人は元気よく立ち上がり、出口の方へ向かった。
 どうやら、老人の方の死神は巨乳美人だったのだなと、青年は軽く羨ましく思って次は自分の方にその死神を派遣して欲しいという願いを天国に祈ろうとして、すぐに正気に戻った。
「でも、僕はあなたを助けられなかった。この刑事さんが来たから」
 青年は感謝されるのが不思議でならなかった。どうして、何にも出来なかった自分をかばおうとするのか。
「おんしが飛び込まんかったら、このアホウはわしが危ない事に気づかなかったんじゃ。実の息子だというのに胸騒ぎの一つもせんとは……」
 老柿本は息子に向かって嘆息して見せた。
「っ父さん。これとは話が別なんです」
 息子は大きな声で主張するが、老人は無視して、更衣室に向かう。
「帰るぞ」
「でも……」
「親の言う事は聞くもんじゃて、それにおんしにはさっきの邪魔をした埋め合わせをしてもらわにゃならん」
 老人の強引な矛盾した理論でも彼は離れようとしない。
「とにかく、彼を署に同行させないと」
 気を取り直したように息子は依田青年に向き直った。
 鋭い目に彼はもう逃げようとは思えなかった。ただ、頷いた。

「バカタレ!!」
 息子以上の大声がプールサイドで寛いでいた鳥たちの肝を抜いた。
「その子は、お前がどうこうせんでも逃げも隠れもせんよ」
 老人は静かに、しかし重く言った。
「のう?」
 さっきまでの惚けたような声にもどる。
「……はい」
 気づいた時には答えていた。
 もう、逃げる事はやめた。もう、失う事に恐れて、結局なにもかも失くしてしまうようなことはしたくない。
 彼は深く頷いた。

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1 コメント

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あとがき未満 感想以上 (中庸)
2006-07-29 15:34:51
自分で適当に思いつくままにテーマを決めて書いた。面白いけど、帳尻あわせがきつい。

最初老人を聖人的なキャラに仕立ててたけど、案の定崩れてしまった。

「臆病」というのは僕の人生でもキーワードな気がします。ね。

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